「よく考える子どもとものさし」の話の続き。
子どもは学校内外における各種テストや決まり事を守る中で、公のものさしについて学ぶ。
基準に沿って正誤が決定する世界が存在することも学ぶ。
人との間で生きる人間として、これは必要である。
自分は「マイルール」で生きていると豪語する人も、社会の人々の支えなしでは生きられない。
お金を払ってモノを買ったりサービスを受けたり、車に乗ったりする以上、公のものさしは無視できない。
物事のルールやマナー(正誤)を知らないと、何かと不都合である。
知らぬ内に「ファウル」をして「ペナルティ」を食らう可能性がある。
一方で、「私」のものさしも必要である。
公のものさしで全てを決めてしまうと、全てが他人次第になる。
「これを好むべきだ」「こちらを選ぶべきだ」と好き嫌いや進む道すらも他人に決められてしまう。
これはいけない。
何が好き嫌いかの基準は、自分で決めるものであり、完全に「私」のものさしである。
したいかしたくないかという気持ちは、自分で決めるものである。
一方で、公のものさしに照らすと、したくはないがするべき、ということはある。
例えば列に並びたくはないが並ばないといけない、というような状況は十分にあり得る。
公を無視しての私の都合の割り込みは許されない。
社会で生きていると、このように公と私のものさしが対立することが起き得る。
どちらを優先すべきかは、その時の状況による。
周りから見れば明らかにAの選択肢が正しそうだが、自分はBを選ぶ、というようなことは、私のものさしをもつ人だけができる。
学校教育でこれを意識する必要がある。
学校では、公のものさしがかっちり決まっている。
いつの間にか、子どもたちは全てを公に委ねるようになる。
子どもは生来、公のものさしをもって生まれてこない。
赤ん坊は自由であり、私のものさしで行動する。
不快なら周囲に遠慮なく大声で泣くし、快なら笑うし、食べたくないものは食べないし、眠ければ眠る。
まっさらで何ももっていないからこそ、生まれ育ったその社会になじんだ常識を身に付ける。
公に染まりすぎると、いつの間にか私のものさしをなくす子どもが出てくる。
いつも周りの評価を気にし、自分のものさしがない。
よって、意思決定ができない。
「○○してもよいか」と何でもしょっちゅう聞いてくるようなら、その子どもには私のものさしがない。
あるいは、わかりきったことまで聞いてくるようなら、公のものさしも持っていない。
学校教育では、両方のものさしをもてるように指導する必要がある。
例えば、人が話している時に、話し手や周囲の迷惑を考えずに平気で口をはさむ子どもがいる。
これは、公のものさしをもっていない証拠である。
教え、守らせていく必要がある。
公に照らして、この場合はよい、この場合はいけない、と判断できるものさしをもつこと。
そのためには、ルールをきちんと教え、自分自身で守らせていくことである。
間違えている場合は知らせ、改善をサポートすることである。
ただし、常に監視と指示をし続けていれば、この公のものさしすらもずっともてない。
自分で考えないで判断してもらえるから、何でも「いいですか?」と聞いてくる人間になってしまう。
ここに対し、山本五十六の名言
やってみせて、言って聞かせてさせてみせ、誉めてやらねば人は動かじ
というのは理にかなった方法である。
最初は知らないのだから、教えてからやらせてみて、その後を見守ることが肝心である。
一方で、私の基準に従ってきめるべきところもある。
どちらにすればよいか、といったことは自分のものさしである。
小さいところだと、手を挙げるべきか挙げないべきか、言うべきか言わぬべきか、などは私のものさしである。
公のために言うということがあってもいいが、基本は私である。
周りに忖度しすぎて、私が言いたいことを言わずに終わってしまうのが大半である。
給食で減らしたいと伝えたりお代わりしたいと手を挙げたりするのもそうである。
これはきちんと自己主張する必要がある。
家庭教育だと、ある習い事をしたいと子どもからお願いしてくるのも、私のものさしがある証である。
自分の進路を自分で決められるというのもそれである。
就職や結婚にまで親に口出しをされているようでは、到底自立した私のものさしをもつ人間とはいえない。
公か私か、というのは対立構造ではない。
両方である。
公があるから私が生きていけるのであり、私がいるから公も成立しているという関係性である。
学校教育では、公のものさしの指導が中心になりがちである。
しかしながら、自らの意思決定を行う私のものさしを作る場面も同時に意図的に設ける必要がある。
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