2017年11月29日水曜日

ロボットな子どもにしない教育

先日、都内のある区で、保護者を対象とした講演会をしてきた。
「10年後に自分で食べていける子どもの親」がテーマだった。
10年後というのは、要はロボットが今以上に仕事をする時代であり、
「ロボットに負けない子どもの育て方」である。

ここを考える上で、ロボットな子どもの育て方を考えた。
ロボットは、
・プログラムに定められた手順通りに動く
・無限に反復作業ができて、疲れない
・命令以上のことはしない
・無感情・無感動
等々の特徴がある。
ここで勝負すると、負けるわけである。

教室で、自分がやっていることを考えてみた。
ロボットは、無感情のため、意味のないことでも淡々と永遠に繰り返せる。
子どもに何かをやらせたい時は、意味を考えさせる。
「その掃除は何のため?」
「朝の歌?歌う意味ないと思うならやめちゃおうよ。」等々、結構挑発する。
(一時期、本当に止めさせたこともある。意味を見出すまで、歌わせなかった。)
意味がわからないでただ「あるから」やることに違和感をもたない子どもに、将来の危険を感じるからである。

講演では、台形の面積の公式を例に出した。
例えば、学習塾に通っている子どもは、学校で習う前から台形の面積の公式を使って、面積を求められることがある。
また、学校で公式を習ったから、とにかく「できる」と思っていることがある。
しかし、テストで〇になっても、その公式の意味がわかっているのかというと、これは怪しい。
怪しいというより、さっぱりわかっていないことがある。
(全員とは言わないが、わかっていないことの方が圧倒的に多い。)

公式を覚えて正解が出せることと、意味がわかっていることは、全く別物である。
公式や解法をとにかく丸暗記させて演算で解かせることは、ロボットへのプログラムと同じである。

つまり、普段の授業からして、子どもを緩やかにロボット化している可能性があるということ。
緩やかな変化というのは、気が付かないので一番恐ろしい。

その学習活動にどんな意味が、ねらいがあるのか。
なぜ立って音読をさせるのか。
なぜ子どもに手を挙げさせるのか、またはいきなり指名するのか。
なぜ準備運動としてランニングをするのか、またはしないのか。
その形式を重んじた台詞や動作にどんな意味があるのか。

どれも考えている人は全て答えられるし、考えていない人は答えられない。

自分の頭で考える子どもに育てたいなら、「なぜ」「何のために」を常に忘れない。
そういう小さな積み重ねこそが大切と思う次第である。

2017年11月27日月曜日

気遣いとキヅカイ その2

前号の続き。
気遣いとキヅカイについて。

例えば、仕事を頼まれるとする。
それが、明らかに自分にはオーバーワークなものであるとする。
頼む方も、重いのがわかってか、やや頼みづらそうである。
それを「やります」と引き受けるあなたに、相手はほっとして感謝をする。
そんなあなたは、立派である。
ただし、この引き受けた瞬間に、誰を思ったかである。
自分の成長を思ったなら、大丈夫。
すべてを自分の責任に帰することで、納得ができる。
相手を気遣ってなら、これは危ない。
途中で起きる嫌なことのすべてを相手の責任に帰することで、不平・不満がの気持ちが高確率で起こる。

その作業中、頼んだ相手が自分より早く帰ろうとしたとする。
前者なら、何も感じない。
頼んだ相手の行動と、自分が選んで引き受けた仕事とは、無関係だからである。
後者なら、「何であの人が私より先に帰るの?」という思いになる。
結局、「ええかっこしい」は、全てにおいて不満だらけになる。

逆に、人に仕事を頼めない人というのも、思いやりがあるようで、逆である。
自己保身の気持ちが強すぎる。
気を遣っているようで、自分の評価・評判を下げるのが嫌なだけということがある。
または、自分がやった方が早いと思っていることもある。
相手を「信頼」するなら、信じて頼んでみればいいのである。

先の例の逆の立場パターンでいえば、頼む側として、「これは結構仕事として重いだろうな」と思う。
誰に頼むか選ぶ。
この人は、という人に声をかける。
結果、断られたら、仕方無い。
こっちとしても、重いとわかっている。
相手を恨む気持ちなどさらさら起きない。
違う人に頼むか、自分でやるしかない。
選べる。

幸いにも引き受けてくれたら、感謝である。
その時、相手が自分の成長のためと思うかそうでないかは、こちらには選べない。
どう思うかまでの責任はとれない。
それは、100%相手の選択である。
とにかく、感謝をして、あとは自分のできることをするだけである。

気遣いは、日本人の美徳とも言われる一方で、欠点とも言われる。
「自分のため、または自分の都合だ」と自覚しているなら、疲れない。
「相手のせいで犠牲になっている」と感じたら、疲れる。
同じ気遣いでも、本物の気遣いと偽物の「キヅカイ」という、別物が存在する。
だから、美徳か欠点かと混乱するのである。

気遣いも、結局自分のため。
最終的には、エゴである。
そういう自覚がある上でなら、気遣いをどんどんすればいいと思う次第である。

2017年11月25日土曜日

気遣いとキヅカイ

こんなことがあった。
ある駐車場に、続々と車が入っていく。
その車の一つの中に私もいた。
私の後ろにも、待っている車がある。
後ろの人を待たせるのも悪いと思って、そのまま前向き駐車した。
これがいけなかった。
出る時が、大変だった。
入れる時と違い、当然満車になっており、車はぎゅうぎゅう。
出す際、5回以上細かく切り返して、やっと脱出できた。

私の後ろの人は、きちんと時間をかけて、普通にバックで停めたのである。
それを思った時、ちょっと恨めしい気持ちが出てしまった。
「自分が犠牲になった」「損をした」という気持ちである。
真実は、勝手に自分が「気を遣って」行ったことである。

気を遣うこと自体はいいのだが、それが思いやりによるものなのか、いい顔をしたいだけなのか、区別する必要がある。
本当に相手を思いやったのかと考えた。
違う。
後ろの人やそれ以降の人に、待たせていらいらされるのが嫌だったのである。
自己防衛・保身・欺瞞である。
当然、作用反作用の法則という自然摂理に従って、嫌な気持ちという結果になって返ってきた。
しかし、実にいい学びになった。
私は、ガンジーやマザー・テレサのような深い憐みと慈しみの心をもった人間にはなっていないようである。

2017年11月23日木曜日

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。
次の本から、一文を引用する。
『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/
===============
(引用開始)
歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。
(引用終了)
==============-

これは「歴史の鉄則」であるという。
つまり、これから起きることにも当てはまる。

本の中では農耕の導入から現代のコンピューターに至るまで、様々な具体例を挙げている。
「贅沢」「より楽な暮らし」による生じる義務や苦しみである。
郊外の豪華な家と車、良いワインと国外での高価なバカンス、それがないと人生ではないという強迫観念。
洗濯機、掃除機、食洗機、スマホで時短は加速し、余裕ができるどころか、短い時間でより多くをこなす義務を生じさせる。

「お手紙」なら届くのを何日もわくわくしながら待てるところも、「即レス」を求められる時代である。
そこに手紙のもつ独特の心の安らぎはなく、代わりに台頭するのは「ねば」「べき」の義務感である。
「既読」なのに即レスしないのは相手を無視しているのと同様の失礼な行為とみなされる。
実際、そこまで考える人ばかりではないのだが、勝手に頭の中で想像をふくらまし、苦しむ。

これからの時代、コンピューターは隆盛し続け、ますます「便利」で「贅沢」な暮らしが待っている。
国内外の行き来もどんどん壁が低くなり、国際化が進む。
この必要に伴い「英語」「プログラミング教育」も導入・強化されていく。
「便利」になるから、「当然」やることが増える訳である。
「歴史の鉄則」である。

要は、便利さとか楽を求めていくと、より苦しむ道にはまり続けるということである。
「忙しい」と感じている現代人は、これからますます「便利」になるのだから、死ぬまで忙しさと義務感が加速し続けるだけである。

私は今回、『「捨てる」仕事術』という本を書いた。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
「時短の本」だと思われるかもしれないが、全く違う。
「べき」「ねば」の常識を捨てようという提案である。
忙しいというのが自分自身の作り出した「神話」であり、異常事態だと気付こうという提案である。
どんなにスピードアップしても、その分仕事は無尽蔵に増えるのである。
力尽きて倒れる前に、捨てるしかない。

冒頭に紹介した全世界ベストセラーの本とはとても並べられないが、私の本もぜひ手に取ってみて欲しい。
本を書くことで、誰か一人のためになれたら、と願う。
それは、どんな本にも込められた、同じ願いだと思う。

2017年11月21日火曜日

腹が立つ時には

最近、腹が立つということが減った。
なぜか。
自分自身の怒りを眺められることが増えたからである。

腹が立つ時を考えると、大抵が「痛い」ところを突かれた時である。
もう一つは、自分が否定された、妨害されたと感じた時である。
要は、ほぼ全てが、自己防衛本能の発動である。

子どものケンカパターンを見ても同じ。
終始、お互いが「自分が悪くなくて相手が悪い」という主張である。
これをしている限り、永遠にケンカは終わらない。

最近、自分が腹を立ててる時に
「お。腹立ててるな。」と気付くことが増えた。
そうすると、腹を立ててるのが馬鹿馬鹿しくなる。

必ずしもこうなるとは限らないが、結構効果がある。

例えば教室で子どもが、望ましくない言動をする。
例えば電車の中で、望ましくない言動にあう。
そうすると、自分の中の「正義」が発動したがるのが感じられる。
お、出てきたね、と眺める。
そうすると、すっと引っ込む。

眺めると、色々と面白い。
何に自分が反応しやすいかわかる。

議論に負けるのが嫌なのは、自信がないからである。
車内で大きな喋る人が人が鬱陶しいのは、電車を自分のものだと思っているからである。
(それにしても、最近、よく酔っぱらいのおじさん集団によく当たる。
グリーン車に乗っても当たる。
試されてるとしか思えない。)

周りに起こる状況は、すべて修行である。
状況にとらわれないようにしたい。

2017年11月19日日曜日

やる気が出る仕事の探し方

次の本を読んだ。

『「仕事が速い」から早く帰れるのではない。「早く帰る」から仕事が速くなるのだ。』
千田琢哉 著 学研プラス
http://hon.gakken.jp/book/1340659400

タイトルからして仕事術系の本で、私の新著『「捨てる」仕事術』と内容的にリンクするところが多い。
著者の千田拓哉氏が自身のブログ上で「僕は中谷彰宏さんの影響を受けている。」
と明言している。
私も中谷さんファンということもあり、大変興味深く、面白く読めた。

この本から、次の文を引用する。
================
(引用開始)
やる気が勝手に出る仕事とは、
どんな時に見つかりやすいのか。

それは意外なことに、
やる気の出ない仕事をやっている最中だ。
(引用終了)
================

どういうことか。
以前も例として挙げた「テストの〇つけ」で考えてみる。

この状況における対策として、「どうすればこれを面白くやれるか」という工夫をし出す。
そこにやる気が出る。
面白くないことを面白くしようとする。
例の場合、テストの〇つけを楽しくする工夫をする。
どれだけ早くやれるかタイムチャレンジしてみるとか、音楽に乗ってつけてみるとか。
(これでミスが多くなると、元も子もないが。)
これが一つ。

他の対策として「どうすればこれを早く済ませることができるか」という工夫をし出す。
ある設問のみに絞ってまとめて〇をつけるとか、「×つけ」だけして後でまとめて〇をつけるとか、特別な道具を編み出すとか。
これがもう一つ。

そしてこちらが本質なのだが、「やる気の出ないことだからこそ、どうやればやらないで済むかを考え出す」ということ。
つまり、現実逃避している内に、「何が自分はやる気が出ることなのか」という答えに気付く。
逆算なのである。

やる気の出ない仕事に、やる気が出る仕事のヒントが隠されている。
苦手な相手にこそ、自分を改善するヒントが隠れているということに似ている。
(私と飯村氏の共著『やる気スイッチ押してみよう!』にも、冒頭に似た内容を書いている。)

就職活動を始めている社会人も多いと思うが、職業選びの一つの方法にもなる。
自分は、何をしたくないのか。
人に従うのが嫌なら、独立して会社を作る方向を考えるのがいいだろう。
自分で考えたり工夫するのが嫌なら、単純作業が多い仕事が向いている。
じっと座っているのが苦手、肉体労働が苦手、人に接するのが苦手、何でもいい。
嫌いなことがあるのが悪ではなく、逆もまた真ということである。
(ただし、大人が苦手だからという理由で、単純に子ども相手の仕事を選ぶと失敗する可能性が高い。
 なぜなら子どもの人間関係の本質は、大人のそれと同じだからである。)

苦手なことの中にこそ、光明あり。
あらゆることに応用の効く真理である。

2017年11月17日金曜日

「勿体ない」ことをしない

10月、ノーベル賞が発表された。
故人だが、2004年に環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさん。
そこに関連した気付き。

私は初任校の頃から、毎日、または断続的に、子どもに「日誌」の宿題を出している。
私は一切の宿題を出さないと思っている方もいるかもしれないが、そういう訳ではない。
毎日5分程度でも、気付きを記すことの重要性を感じている。
私自身も、ずっとやっている。
上下で半分に切ったノート1ページ程度に「気付き」を書く。
ただ出来事を記す「日記」ではない。
気付きを書き、それを共有する「日誌」である。
(私が以前学んだ「原田メソッド」でも、「日誌」という言葉を用いる。)

子どもが、こんな気付きを書いてきた。
みんなが使う物の片付け方や、整理整頓の仕方が悪い。
そうすると、やがてなくなったり壊れたりする。
結果、買い直すことになり、新しく買えたはずの他の物も買えなくなる。
結果、自分たちで自分たちを苦しめる。

当たり前のようだが、これは素晴らしい気付きである。
物の乱雑な扱いが、結局、最終的に自分に返ってくる。
そして常々言っている「物の扱いは人の扱い」である。

ここからは私の解釈だが、これこそまさに「勿体ない」である。
元々は「勿体」は「物体」であり、物の扱いが妥当でない、不行き届きである、不相応である、ということからくる。
物の扱いが、不当ということである。
当然、やがて自分も「不当」な扱いを受けることを甘んじて受け入れなくてはならない。
そういう覚悟で、物を扱う。
特に公共の物に対する扱いは、世間を通して自分に返ってくる。
私物以上に、注意していきたいところである。

また、こんな気付きを書いた子どももいた。
総合的な学習の時間で、身体が不自由ということについて学んだ。
身体が不自由な人や、言葉が通じないで困っている外国の方がいたら助けたい。
しかし、自分には能力が足りない面がある。
それならまずは、身近な人から親切にしていく。
これも大切な気付きである。

毎日の気付きを書く。
学びは、日々の気付きにあり。
毎日の宝物を捨てたら「勿体ない」と思う次第である。

2017年11月15日水曜日

「信・尊・慕」は、すべての人間関係の原理・原則

毎回、教育実習生に最初に教えることがある。
「信・尊・慕」の話である。

参考 過去記事「教師の寺子屋」
「信・敬・慕」は「生活・授業・遊び」で育つ
http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2015/02/blog-post_27.html

教師から子どもへの関係の話としてするのだが、これは実は私と実習生の関係にも当てはまる。
どんなに役立つことを教えても、この3つがないと成り立たない。

うまくいっている人間関係は、すべてこれが成立している。
職場関係然り。
友人関係然り。
親子関係然り。
夫婦関係然り。

目の間の相手と「信頼」を築くにはどうするか。
小さな約束を常に果たすことである。
相手とのルールを守るということである。
仕事なら、契約違反しないということである。
信頼される側に依るところがある関係である。

目の前の相手と、「尊敬」の関係を築くにはどうするか。
自分の能力を示して提供することである。
「尊敬」は3つの中でも特殊で、直接関係しない人でも築ける関係である。
歴史上の偉人を「尊敬」できるのは、その能力や業績が書物等で伝わるからである。
その生き方に+の影響を受けるからである。
尊敬は「受け手次第」のところはある。
傲慢な人は、どんな優れた人も尊敬しない。
謙虚な人は、どんな相手にも優れたところを見出す。
下から上を見上げるという面で、上下の関係である。

目の前の相手と「慕う」関係を築くにはどうするか。
単純接触の機会を増やすことである。
相手の話を聞くことである。
一緒に何かをすることである。
「人に人として接する」関係といえる。
フラットな関係である。

結局、子どもに教えているようで、教わっているということである。
教室の子どもとうまくいかない面があったら、他の大人との人間関係づくりも見直す機会である。
小さな約束を守っているか。
自分の能力を磨き、提供することができているか。
相手の話を聞いているか。

教えるようで教わっている。
教育実習は、指導担当者にとっても自分自身を見直す絶好の機会である。

2017年11月13日月曜日

一所懸命

教育実習生を見ていると、授業の準備の大切さを感じる。
指導案、略案の大切さを感じる。

準備不足で行う授業は、ぐだぐだである。
ただでさえ経験がない上に予想もしていないので、当然である。
(逆にいうと、なまじ経験があると、準備不足でも誤魔化せるのが怖いところである。)

王貞治選手の名言に次のものがある。

敵と戦う時間は短い
自分との戦いこそが明暗を分ける

これは、授業にもいえる。
言い換えるなら

授業の時間は短い。
準備の時間こそが、明暗を分ける。

といったところである。

私が子どもによく言う言葉がある。
「テストや試合の時にがんばるのは、当たり前。
全員、誰でもやるから、差はつかない。
実は本番の前の練習で、勝負がついている。
がんばるところは、日常。
日常がすべて。」

まあ、子どもに言う割に、自分ができているかというのは毎度考えるところではある。
しかしながら、真理。
日常にがんばった上での失敗は、積み上げる失敗。
それは、プラスの失敗。
努力もしないで繰り返すのは、広がる失敗。
それは、マイナスの失敗。
失敗は、積み上げるもの。
がんばった上での失敗だけが、積み上げられる。

テキトーにやった授業に、積み上げはない。
テキトーにやったから、マイナスの失敗かたまたまの成功しかない。
長い目で見たら、失敗でしかない。

精錬授業は、必死に準備したが故に、どんな結果でも価値が出る。
必死に準備したから、プラスの失敗か成功しかない。
長い目でみれば、成功でしかない。

授業の準備は、一所懸命。
そこは、捨てない。
教師としての在りようを思い起こさせてくれる教育実習生の姿である。

2017年11月11日土曜日

反抗したら、一安心

前号に続き、明橋大二先生講座からの気づき。

思春期。
「中二の二学期がど真ん中」とのこと。
個人差がかなりあるが、平均をとるとこれぐらいだろう。

反抗期が来ると、親はうろたえる。
特に、「いい子」で育ってきたはずの第一子の反抗期を相手にする母親はそうである。
しかし「反抗したら一安心」だという。
どういうことか。

前号で「甘えることで自立する」という話を紹介した。
思春期は甘えと反抗、依存と自立を繰り返す。
つまり、反抗できるということは、親がちゃんと育ててきて、自立に向かっている証拠の一つだという。

一方で、不安が強くて反抗できない子どももいる。
何が不安かというと、反抗すると親に見捨てられるのではないかという不安である。
十分に甘えられず、親からすると手がかからず「いい子」で育ってきた子どもである。
これら抑圧の状態で育ってきた子どもは、成人を過ぎてから突如爆発することがあるという。
私はこれを聞いて「ずっと爆発をしていない休火山のようなもの」と思った。
思春期に「反抗」という小爆発を繰り返していれば、やがて落ち着く。

そう考えると、反抗期も「必要悪」のようなものに思えてくる。
教室でも、子どもが悪態をついたり仲間と悪さをし出すようになるのも、同じような意味合いがある。

そうはわかっていても、愛する我が子が突如
「うるせえくそばばあ!」
と言ってきた時のショックは大きい。

ここへは「思春期の言葉は、外国語だと思って」とのアドバイス。
つまり、そのまま受け取らずに、翻訳が必要である。
例えば
「くそばばあ」→「お母さん」
「ぶっころす」→「怒っているんだよ」
「ウザい、知らねえ」→「放っておいてね」
だそうである。
つまり、
「うるせえ、くそばばあ!」→「お母さん、今僕もがんばってるから、わかってね。」
といったところか。

この「感情が高ぶった相手の言葉を外国語とみなす」というのは、結構応用の効くテクニックである。
教室でパニックを起こしていたり、自己肯定感が低くてネガティブなことをよく言う子どもの言葉にも使える。
何なら、職場や夫婦間でも使えると思う。

反抗したら、一安心。
それを聞いて、一安心した親も多かったようである。

2017年11月9日木曜日

明橋大二先生 甘えると甘やかすの違い

先日、本校のPTA活動の一環で、明橋大二先生の講演会を聴く機会があった。
私は明橋先生の本が大好きで、我が子が1歳の頃から
『子育てハッピーアドバイス』シリーズ(1万年堂出版)を愛読している。
空き時間に許可を得て抜けさせてもらい、保護者に紛れて拝聴してきた。

私も何度か言ってきた
「甘えると甘えさせるの違い」についても言及していた。
(参考「なぜ頭のいい子は家でダラダラユルユルか」プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/16508?page=2)

私は
「甘えさせる」=子どもの将来に役立つ
「甘やかす」=子どもの将来をダメにする
と定義している。

明橋先生は
「甘えさせる」=情緒的要求にこたえる・できないことを手助けする
「甘やかす」=物質的要求にこたえる・できるのに手を出す
というように定義していた。(話を聞いてのメモなので、意訳である。)
具体的である。

一概に必ずそう、とも言い切れないところもあるが、大筋この考えでいけば間違いないように思う。
特に日本は、物質的に豊かなゆえに、「甘やかし」の道にはまりやすい。
逆に、抱っこをはじめとしたスキンシップや、子どもの話をきく、といった「甘えさせる」が不足しがちである。

「甘えない人は自立しない」とはっきり断言していた。
これにも賛同・納得である。
甘えることが、自立につながる。
甘やかすことが、自立を妨げる。
親子だけでなく、教師と子どもの関係にもいえる。

続きは次号。

2017年11月7日火曜日

どうしたのかな?とみる

学級で、よろしくないことが起きる。
「何やってるの!」と思う。
そうすると、正したくなる。
正しくないことに対して、感情が働いて腹が立つ。
視点と評価基準が、自分にあるからである。

学級で、よろしくないことが起きる。
「どうしたのかな?」とみる。
そうすると、理解したくなる。
理解できないことに対して、頭が働き、心が働き、「心配」になる。
視点と評価基準が、相手に移るからである。

この習慣は、なかなか身につかない。
学級だけでなく、いつも意識して、日常生活で一生をかけてトレーニングしていく必要がある。

例えば、運転中。
信号待ちしていて、青になっているのに前の車が動かない。

「何やってるの!?動いてよ!」と思う。
腹が立つ。
これが、意識していない普通の反応とする。

「どうしたのかな?」とみる。
車の中を想像する。
何か考えごとをしているのかもしれない。
何か哀しいことがあって、ぼーっとしているのかもしれない。
スマホをいじっているだけかもしれないが、それはわからない。
だったら、「何か事情があったのだろうな」と思った方が、自分の心も穏やかである。

「どうしたのかな?」は、想像力。
思いやりとは、想像力を相手のために働かせること。
想像力を働かせないと、すべて自分視点でものを考えることになる。

相手に伝える時は「Iメッセージ」がいい。
でも相手を理解したい時は、相手視点がいい。

「どうしたのかな?」は、学級経営のキーワードである。
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