2017年11月27日月曜日

気遣いとキヅカイ その2

前号の続き。
気遣いとキヅカイについて。

例えば、仕事を頼まれるとする。
それが、明らかに自分にはオーバーワークなものであるとする。
頼む方も、重いのがわかってか、やや頼みづらそうである。
それを「やります」と引き受けるあなたに、相手はほっとして感謝をする。
そんなあなたは、立派である。
ただし、この引き受けた瞬間に、誰を思ったかである。
自分の成長を思ったなら、大丈夫。
すべてを自分の責任に帰することで、納得ができる。
相手を気遣ってなら、これは危ない。
途中で起きる嫌なことのすべてを相手の責任に帰することで、不平・不満がの気持ちが高確率で起こる。

その作業中、頼んだ相手が自分より早く帰ろうとしたとする。
前者なら、何も感じない。
頼んだ相手の行動と、自分が選んで引き受けた仕事とは、無関係だからである。
後者なら、「何であの人が私より先に帰るの?」という思いになる。
結局、「ええかっこしい」は、全てにおいて不満だらけになる。

逆に、人に仕事を頼めない人というのも、思いやりがあるようで、逆である。
自己保身の気持ちが強すぎる。
気を遣っているようで、自分の評価・評判を下げるのが嫌なだけということがある。
または、自分がやった方が早いと思っていることもある。
相手を「信頼」するなら、信じて頼んでみればいいのである。

先の例の逆の立場パターンでいえば、頼む側として、「これは結構仕事として重いだろうな」と思う。
誰に頼むか選ぶ。
この人は、という人に声をかける。
結果、断られたら、仕方無い。
こっちとしても、重いとわかっている。
相手を恨む気持ちなどさらさら起きない。
違う人に頼むか、自分でやるしかない。
選べる。

幸いにも引き受けてくれたら、感謝である。
その時、相手が自分の成長のためと思うかそうでないかは、こちらには選べない。
どう思うかまでの責任はとれない。
それは、100%相手の選択である。
とにかく、感謝をして、あとは自分のできることをするだけである。

気遣いは、日本人の美徳とも言われる一方で、欠点とも言われる。
「自分のため、または自分の都合だ」と自覚しているなら、疲れない。
「相手のせいで犠牲になっている」と感じたら、疲れる。
同じ気遣いでも、本物の気遣いと偽物の「キヅカイ」という、別物が存在する。
だから、美徳か欠点かと混乱するのである。

気遣いも、結局自分のため。
最終的には、エゴである。
そういう自覚がある上でなら、気遣いをどんどんすればいいと思う次第である。

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