2016年2月29日月曜日

思い出のラーメン屋

閏年の2月の最終日である。

真面目な話が続いていたので、今日はエッセイ。
私は、元々エッセイが好きである。
どうでもいいような日常の些細な出来事について、あれこれ解釈して書いてある文章が好きだ。
さくらももことか原田宗典とか、リリー・フランキーとかの文章も大好きである。

というわけで、たまにはエッセイ。
思い出のラーメン屋の話。
大分昔の話である。
(本当にどうでもいい話なので、お忙しい方は読まれずにいただきたい。)

あれは2月の寒い日の昼だった。
寒くて遠出するのが嫌で、アパートの近くの一度も行ったことのないラーメン屋に入った。
いわゆる普通の店構え。ザ・ラーメン屋。
赤い暖簾に白字で「ラーメン」と書いてある、あれである。
普通感が強すぎて、一度も行ったことがなかったので、敢えてのチャレンジである。

中に入ると、客が私の他にも数人いた。
カウンター越しに店のオヤジに「タンタン麺」を頼んだ。
寒いので、体の温まる辛い物が食べたかったのである。
(実際は汗をかいて体が冷えるとか色々な説があるが、ここでは割愛。)

待つこと数分、オヤジがどんぶりを持ってきた。
「ヘイ、タンタン麺お待ち!」
目の間に置かれたのは、澄んだスープに、肉野菜炒めがのっているラーメン。
「これは・・・」
どう見ても、タンメン(湯麺)である。
読んで字の如く、湯麺である。

私は戸惑った。
私は、間違いなく「タンタン麺(担々麺)」を頼んだ。
オヤジも、間違いなく「タンタン麺お待ち!」と言った。
つまり、この店では、これが「タンタン麺」なのである。

「観」がどうこうの問題ではない。
これは、明らかに「タン麺」である。
しかし、この店の支配者であるオヤジが「タンタン麺」だという。
赤いはずのスープが、白(むしろ無色透明)なのである。
まさに「黒いカラスを白」の世界である。

初来店で完全アウェーの私は、腹を括って、その「タンタン麺」と命名された「タン麺」をすすった。

・・・薄い。
とにかく、味が薄いのである。
お湯に少し塩が入っている感じ。
絶妙なマズさ。
私は、あまりマズいとかは言わないで食べる質だが、これは不味い。
食べきることもできず、かといって今更文句をつけることもできず、早々にお金を支払って店を出た。

いうなれば、惨敗。
正しいことを言えなかった悔しさと後悔の念が押し寄せる。
寒風に吹きさらされながら、家路についた。

思い出深いラーメン屋である。
正義は、勝つとは限らない。
いや、正義とは、その場の支配者によるものなのである。
そんなことを、あのラーメン屋のオヤジが教えてくれたのかもしれない。

2016年2月27日土曜日

道徳教材3タイプ

道徳の授業の教材と授業の仕方について。
私の認識としては、教材は簡単に言うと3タイプである。
1 読むだけで共通の説得力を持つ教材
2 力があるが解釈のわれる教材
3 やり方次第で良くも悪くもなる教材

まず1のタイプ。
拙著『やる気スイッチ押してみよう!』
http://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
にある、「感動スイッチ」を持つ教材がある。
もう、読むだけでぐっと来るタイプの教材である。
本来「素材」でしかないのだが、ねらいさえ明確にすればそのままで「教材」となり得るものである。
本の中の教材例にある『忘れられないご馳走』を読めば、「生命」について考えざるを得なくなる。
『六千人の命のビザ 杉原千畝』を読めば、「公正・公平」や「正義」について考えざるを得なくなる。
『生きてます,15歳』『鈍行列車』を読めば、「家族愛」を感じること必至である。

こういう教材は、あれこれ手を加えないでいい。
(むしろ、加えない方がいい。)
そのままいただくのが基本作法である。

少しテーマが難しくなると、そうはいかない。
それが、2のタイプである。
経験等によって、色々と解釈できるタイプの教材である。

『おおきな木』(原題『The Giving Tree』)という名作絵本がある。
http://www.amazon.co.jp/dp/0060256656
これなど解釈がかなり割れるので、感じる「価値」もばらばらになる。
さらに言うと、日本語訳も2バージョン出ており、訳によって内容の感じ方が全く変わってくる。
(これも、翻訳者の「観」によっている。)
そのまま読んでそれだけでもよいのだが、できれば「切り口」を示したい。
例えば「少年と木、どちらが幸せか」というような発問で授業したことがあるが、これが一筋縄でいかずに面白い。
こういった教材は、発問とその反応への対処の技術が必要になる。

最後に、3のタイプ。
これまでのものとは別に、いわゆる「普通の教材」の場合、料理の腕次第になる。
副読本等に載っている「道徳用教材」に多く、これはどっちにも転ぶ。
盛り上がる授業にも、しらける授業にもなり得る。
こういった教材は、提示の仕方から工夫する必要がある。
表面的に読んでわかるようなことをきいても全く面白くない。
誰も気付かないような、新たな切り口を示す必要がある。
深い教材研究が必要になる。
一番料理が難しいが、登場回数が最も多い教材である。

以上、道徳の教材と授業の私見について述べた。
これも私の「観」であるので、正しいかどうかは保証はない。
ただ、実際にこのように授業をしているのは事実である。
自分の中に基準を持つことが大切ではないかと思っている次第である。

2016年2月25日木曜日

「桃太郎」から何を認識するか

前号の続き。
「観」によって人は「情報」を「事実」とみなす。
ここから生ずる道徳の授業の難しさについて。

「桃太郎」の昔話を例に考える。
お話を読む。
面白かったね、で終わるのが通常。(本来はこれでよい。)
これを、道徳の授業だとする。

そうすると「何を、どんなことを感じたか」が大切になる。
「桃太郎」の話を聞いて、どんなことを感じるか。
ある子は「正義は勝つ」といういわゆる「勧善懲悪」を感じとる。
ある子は「力が強いことが、結局人を守ることにもつながる」ということを読み取る。
ある子は「一緒に戦う仲間を集めるには、報酬が必要」ととらえる。
ある子は「やっぱり最後は金銀財宝」ということに目が向く。(お姫様に目が向くこともある。)
ある子は「鬼は悪者と決まっているの?」という「差別」に意識が向く。
・・・

「桃太郎」を知っている方としては、「正義は勝つ」しか考えられなくても、実は色々な捉え方がある。
特に子どもの発想は柔軟なので、意外なところに目が向くことも多い。
正直、そこに着目しないで欲しいというところに固執することもある。
例えば、両親がおらずに育った子どもならば「桃太郎の本当の親は誰なの?」ということに目が向くかもしれない。
その子にとっては、何よりもそこの方が関心事なのである。

このように、多種多様な捉えができる「価値」に対し、一定のねらいにそったものに着地させようとする。
そこに無理が生じやすい。
だから「白々しい」授業になってしまう。

授業名人は、そのあたりの捌き方がうまい。
無理矢理一つの意見にまとめない。
しかし、ねらいは達成する。

では、授業名人ではない我々は、一体どうやれるのかというアイデアについて、次号述べていく。

2016年2月23日火曜日

「私は」の観

正義は人によって違うということを書いた。
これは、見方を変えれば、「観」の違いである。

「観」はフィルタである。
「観」はブラックボックスのようなもので、入力されたものが中で変換されて、出力される。

出来事→観→(その人にとっての)事実
となる。

これは「情報」というのが、
出来事→感情→情報 という流れに似ている。
(ちなみに「情報」とは情の入った報せである、というのは、野口芳宏先生の教えである。)
同じニュースでも、報じる局や新聞社によって、肯定的だったり否定的だったりするのはこれである。

だから、国語の学習でよくある「事実と意見を分けて書け」という課題は、厳密に考えると非常に難しい。
「あのラーメン店は、はやっていて、美味しい。」
これは意見なのか事実なのか。
「はやっている」のならば、一般的にいって「美味しい」というのは事実ではないか。
いや、私はあそこのラーメンは美味しいとは思えない。
そもそも、「はやっている」とはどの状態から事実といえるのか。
周りの人気店と比較したら「はやっている」とはいえないのではないか。
・・・等々。
難しいところである。

私たちの認識する全ての「事実」には必ず「私は」がつく。
「私は」美味しいと思う。
「私は」正しいと思う。
「私は」良いことだと思う。
・・・・

道徳の授業の難しさがここにある。
教えたい「価値項目」があるのだが、このねらった項目を子ども側が認識するかどうかが疑わしい。

長くなったので次号に続く。

2016年2月21日日曜日

「勝ち感」を持たせる切り返し

体育の、例えばゴール型ゲームの指導で、ゲームを行う。
そうすると、子どもは勝ち負けにこだわる。

まあ、当然である。
勝負ごとなのだから、勝ちにいく。

このとき、何をもって「勝ち」とするかが大切である。
勝負には勝った。
しかし、誰か一人のワンマンプレーで勝ったとする。
または、チーム内の誰かが嫌な思いをしたとする。
はたまた、勝って相手を馬鹿にしたり、傲慢になったとする。
こうなると、表面的に勝負として勝っても、実質の「負け」である。

価値観ならぬ「勝ち感」を大切にする。
その勝負に負けたとしても、チームとして前回よりも向上が見られたとする。
例えば、作戦自体はうまくいったが技能不足で失敗があったとか、初めてシュートをしたが外れたというような場合である。
この場合、チームがレベルアップしたという「勝ち感」を持つことができる。
そのために、教師がその視点を与えることが大切である。

今回の本にはこれは書いてないが、これも切り返しの技術である。
「先生、うちのチーム、また負けちゃったよ」の言葉に対し、どう切り返すか。
例えば、私ならこんな風に切り返す。
「でも、〇〇さんがシュートうてたね!初めてじゃない!?すごい!仲間のお陰だね!」
要は、価値付けである。それによって、「勝ち感」を持たせる。

ちなみにこれは、決まった台詞ではない。
その場でぱっと出すのである。
ぱっと出すのであるが、準備はしてある。
どういう準備かというと、「勝負に勝つ」以外の価値を見出しておくことである。
そうすれば、自ずと切り返せる。
要は、切り返しの技術の核とは、哲学的な部分なのである。
何に価値を置くか、ねらいを置くかで、切り返しが決まる。

人生と同様、学級経営は、不断の選択の連続である。
だからこそ、学級経営における切り返しの技術を身に付けておくことは、攻めの選択につながる。
特に子どもの言動にどう返そうか悩む若い先生にこそ、身に付けてもらいたい技術である。

『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
お読みいただき、ご意見をいただければ何よりの幸いである。

2016年2月19日金曜日

睡眠は仕事の内

先日、尊敬する野口芳宏先生とお話していると、次のことを仰られた。

「睡眠は仕事の内。」

つまり、ちゃんと寝て、翌日元気にいい仕事をしろということである。
寝不足だったり疲れていたり、本調子でない状態で子どもの前に立つなということである。
体調管理も当然仕事の一部である。
これを聞いて、教員になってから数年目に気付いたあることを思い出した。

それは、早く帰った翌日、学級がいつも以上に、何となくうまくいくということである。
授業をしていて心地よいというか、そういう感じである。
特に体育のように体を動かす教科では、顕著に出る。

逆に、あくせくしている時期は、その爽快感がない。
(成績をつけるために子どもを早帰りさせる時期など、ストレスを感じやすい。)

それに気付くまで、ずっと逆だと思っていた。
無理をしてもがんばればがんばるだけ、いい授業ができると信じていた。
だから、毎日夜中の10時まで残業するのも当たり前だった。

しかし、準備さえある程度していれば、あとの成否を握るのは「元気」である。
(ちなみに、単に準備不足で授業をすると、これも高いストレスになる。)
遅くまで仕事をすると、仕事をした気になる。
しかし、実際は翌日のパフォーマンスや創造性がかなり落ちる。
子どもへの対応はもちろん、文書作りなどにもマイナスの影響が出る。
休み休みやるので尚更能率が悪く、進まないのでまた残業の悪循環である。

「一生懸命やる」ということの内実も見直さないといけないと思っている今日この頃である。

2016年2月18日木曜日

「切り返し」の技術

「技術とは、知識の安定的行為化」
野口芳宏先生の言葉である。

全くその通りで、「知識がある」ということ自体は、それだけでは役に立たない。
知識を行為という形で具現化する。
それを「安定的」に行えるのが「技術」であるという。

逆に言うと、知識なくして技術は生まれない。
知識があって、それを繰り返し行為化して、初めて技術となり得る。

今回発刊される本のタイトルは『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』。
「技術」とある。
残念ながら、読んだだけでは身につかないが、読んで実践すれば確実に身につく。

今回の本では、私の中で「安定的行為化」されているものを書いた。
例えば授業での板書中に「その漢字は習ってません」と言われた時に、どうするか。
授業中に席についていられず立ってしまう子どもに何を言うか。
暴力行為を繰り返す子どもに、その都度何を言うか。

答えは一つではないのかもしれないが、「定石」がある。
その「切り返し」の具体的な指導言だけでなく、そこを裏付ける信念にまで触れて書いた。

ぜひ、ご一読されたい。
明治図書H.P.
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9 

アマゾン
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
へ。

2016年2月17日水曜日

「正義」の正しさを問う

私が好きなある歌の歌詞に

自分の「正義」が人を傷つけることがある

というような内容がある。
本当にその通りだと思う。

傷つけることがある、というのはかなり控えめな言い方で、実際には、傷つけることの方が多い。

ある集団において自分の立場が上の場合、ここを特に強く意識する必要がある。
言い合える立場同士であれば、それほど問題ない。
喧嘩になるかもしれないが、お互い様である。
(国家レベルになると、戦争等の大問題に発展する。問題ないのは、あくまで個人間の話である。)

教室において、教師は立場が上である。
相手が言い返しにくい分、かなり自分の「正義」が通りやすい。
教室以外の社会のあらゆる場でも、指導的な立場、上の立場にあると、「正義」として通る。
ただ、その「正義」が本当に良いものかどうかは甚だ怪しい。

だから、教師と子どもがお互いに意見できる教室というのは、一つの理想型である。
子どもや親だからといって、無条件に教師に従う必要はない。
逆に、教師だからといって、子どもや親に必要以上に威張る必要も、卑屈になる必要もない。
こっちも言うべきことを言うし、相手も言うのが、健全な関係である。
(ただし、お互い相手の置かれている立場については、ある程度慮るべきである。
 無責任に言いたい放題になる。)

同時に、言うべきことでないことは言わない方がよい。
互いの「正義」をふりかざすと、ここからこじれる。
片方は「正義」だと思って言うべきだと思って言うが、他方にとってはそれ自体が「正義」に反していることがある。
例えば宗教が違えば、正義が違う。
だから、そういう危うさのあることは、下手に伝えない方がよい。
「常識」や「正義」は、時と場と人に応じて変化するものである。

そう考えると「教え方」以上に、教師がどんな人間であるかが大切である。
研究以上に、修養が必要であるというのもそういう理由からである。

自分の「正義」は本当に正しいか。
突き詰めると、必ず迷いが生じる。
それを踏まえた上でも、その「正義」を伝える明確な理由、信念を持って指導に当たりたい。

2016年2月15日月曜日

個性尊重とアクティブ・ラーニング

原田隆史先生のメルマガに載っていて、以前にも転用した、次の名言。
「もしあなたが金槌しか持っていなければ、全ての問題は釘に見えるだろう」
(アブラハム・マズロー)

非常に示唆に富んだ言葉である。今回はこの言葉に関連する話。

個性が本当に十人十色になってきた。
例えば小学生男子の「好きなもの」一つとっても、一昔前のように「野球」で大体カバーということにはならなくなった。
私が小学生の時は、女子は『光GENJI』で半分近く「きゃー」といった感があった。(無論、全員ではない。)
ちなみに「源氏」でも「ゲンジ」でもなく、「GENJI」なのがポイントである。
『モーニング娘。』の「。」と同様に、当時斬新であった。
今は、女子の好きな音楽はジャニーズ系で半数近くカバーということはない。
JーPOPやK-POPのようなアイドル系からヒップホップ、テクノ系から「ボーカロイド」から演歌調まで、本当に好みが様々である。
私の時代だったら差別的であった「〇〇オタク」という呼び名も、現在では「かっこいい」とすら思われる時代である。

とにかく、この個性尊重の時代に合った教育が求められるというのは、至極当然の流れである。
そして今、教育界ではアクティブ・ラーニングが注目の的である。
もはや定着の感があるが、用語として登場した当時は「何じゃそりゃ」という感じであった。

「一斉学習」という言葉は、「個別学習」「グループ学習」という概念が登場したからこそできた。
つまり、それまでは「一斉学習」という「金槌」しかなかった訳である。
そこに「ドライバー」「スパナ」などの他の工具が入ってきたといえる。

算数の学習方などは、なかなかに変遷があり、バラエティーに富んでいる。
「水道方式」「100ます計算」「丸つけ法」「公文式ドリル」「問題解決学習」・・・
簡単に並記できるものではなく、それぞれに賛否両論あるが、どれも「工具」とみなすと、使い方次第である。

今は新たに「アクティブ・ラーニング」という概念が入ってきた。
時代のニーズに沿った流れである。
この新たな工具をどう使うか。

大切なのは、「アクティブ・ラーニング」の授業をするというのが、一斉学習を否定するものではないということである。
目の前にあるのはねじか釘かというように、状況によって必要な工具は変わる。
工具箱の中身が、金槌だけより、ドライバー、スパナ、ペンチと幅広い方がいい。
場合によっては、電動ドライバーも使う。
ドライバーの先端部だって、色んな種類のサイズと形があると知っていれば、適切なものを使える。
今までの持ち合わせの工具では、無理(または強引)という状況に気付いたということである。

どれがいい悪いではない。
前号にも述べたように、幅広く対応できること。
アクティブ・ラーニングの概念そのものが、それを教育界に求めている。

2016年2月13日土曜日

1000号を迎えて メルマガを続けるコツ?

先月、メルマガが第1000号を迎えた。
よく続けてきたと思う。
一応の目標として、一つ達成したことになる。
同時に読者数も1000人を目標にしており、かなり迫ったものの、残念ながらそこは届かなかった。
(本人の宣伝努力が足りないという声もあり。)
しかし、熱心に読んでくださる方1人の存在は、百人力である。
読者数何万人のメルマガにだって負けないぜという気概、自負がある。
読者の皆様の「御陰様」である。
本当に「有難い」ことである。

読んでくれる人の存在は、続ける上の大きな原動力である。
誰も相手にしてくれないとなると、続けるのは難しい。
まさに社会と個人の関係性、仕事の存在意義である。

ところで、他の「続けてこられた要素」は何か。

一つは「出す」と決めて宣言すること。
とにかく自分との戦いなので、ここは勝ちにいく。(結構負けることもある。)

もう一つ。
これは非常に大きい要素がある。
それは、私が「文章を読んだり書いたりするのが好き」という点である。
(ちなみに一応申し上げると「美しく文字を書く」というのは、全く別次元の能力である。)
これは特性に関わる点であり、教育を考える上でも非常に重要である。

ここから先は、前号の「子どもに合ったアプローチ」という話と関連する。

本人の持つ特性は大切である。
よく「子どもの頃からやっていて、がんばっている内に好きになった」という話をきく。
半分正しいが、半分正しくないと思っている。
どういうことかというと、「元々好きになる要素をもっていた」という点が抜けている。

教室を見るとよくわかる。
社交的で発言も活発な子どもは「良い」とされがちだが、それは単なる「特性」である。
「特性」として見た時、そこに良い悪いはない。
その子どもは、純粋に人と会話したり発言したり、自己表現を口でするのが好きなのである。
それを良いとか悪いとかというのは、単に周りにいる受け手の観(フィルタ)を通してのことである。

「一般的に」という場合、その特性が、長所に見えやすいか短所に見えやすいかという「思い込みやすさ」の差である。
いや、もっというと、それが受け手にとって好都合か不都合かということである。

よく発言する子どもは、授業の中で目立つ。
発言を取り上げられやすい。
だから周りにも「すごい」と思われやすい。
実際は、授業の進行に都合がいいというだけかもしれない。
単純にある「答え」を求める発言が欲しいなら、教師が自分で言えばいいだけの話である。
ただ、そうすると「どっちらけ」である。
だから、何か、「子どもの発言で」という形にしたがる。
好都合→好印象→高評価になるのである。
客観的に見ると、実にくだらないことである。

一方、全然教師の意図としない動きをする子どもがいるとする。
例えば、好都合な意見を持っているのに、全然発言しない。
これは「良くない」と思われがちである。
周りは「自分の考えを述べるべきだ」という。
その子の親ですらもそう思っている。

違うのである。
その子どもは「発言したくない」のである。
クラスの仲間が嫌とかどうこうではなく、単純にそこは不得手で、好きではないのである。
発言しないと不都合であるのは、そう考えている教師の側である。
授業の進行上の問題だけである。
教師は、本当に必要なら、ノートにでも書かせて、全体の前で取り上げることもできる。
そう考えると、発言しようがしまいがどっちでもいいということになる。

一方で、発言好きな子どもは、どんどんしゃべる。
すぱっと正解を出すというのは、時に不都合も起こす。
そうすると、コントロールされる。
発言しすぎもやはり不都合なのである。

ただこれとて、発言しようがしまいが問題ない進行の仕方をすればいいだけの話である。
「正解」がすぱっと出る前提で、かつ出なくても大丈夫な進行を組めばよい。
変にコントロールしようとしすぎるから、好都合とか不都合とかの区別が起きるのである。
逆に、「授業名人」と呼ばれる人たちは、要は「対応の幅が広い」といえる。
「懐が深い」とも言い換えられる。

話を元に戻す。
子どもの特性を認めること。
その子にとって、好きなことは、うまくやれるし続けられる。
特に好きでないことは、ぼちぼちしかやらない。
嫌いなことは、やらない。

人に迷惑をかけない範囲であれば、嫌いなことより好きなことを優先すればいいだけの話である。
個性の尊重とは、自分自身の個性の理解からではないかと思った次第である。

2016年2月11日木曜日

「先生」3種類

私の大好きな作家である中谷彰宏氏の本からの引用。
『うまくいくスピード営業術 速攻で成果があがる65の具体例』PHP
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-61180-8
===================
(引用開始)
スピード営業マンは、コンサルティング業です。
お客様の相談にのる人です。
ただのセールスマンはモノを売る人、販売員です。
そのどちらになるかは、あなたが選んでください。
(中略)
コンサルタントにはだいたい「先生」と呼ばれますが、この先生という言葉がヒントです。
(引用終了)
======================

この「先生」には、3種類いるという。
1医者
→相談を受け、治療をする。
2学校の先生
→知識や技能を提供する。
3師
→ライフスタイル、考え方を提供する。

要は、優れた営業マンは
1困った状態を把握し
2必要な知識を的確に伝え
3相手の方から「こんな生活をしたいからこんなモノが欲しい」という答えを引き出す
というステップを踏むというように解釈した。
「ステップを踏む」というのがポイントで、誰に対してもいきなり3にいく訳ではないのである。

そのまま、教師を含めたあらゆる仕事にも当てはまる考え方である。

教師は、1から3の全ての対応ができる知識と技能、考え方(マインド)を身に付けていること。
さらに、子ども(場合によって保護者)が、どの段階を必要としているのかを見極められる判断力が必要とされる。

目の前の子どもが求めているのは
1「大丈夫だよ」という治療的な言葉なのか、
2「こうするとうまくいく」という具体的な指針やアドバイスなのか、
3「がんばれ」という叱咤激励や「あなたはどうしたいのか」という自らの思考を促す言葉なのか、
ここを見極めないと失敗するということである。
1が必要なのに3のアプローチでは、相手は折れてしまう。
2が必要なのに1のアプローチでは、欲求不満を抱かれる。
相手の段階を見極めないアプローチは、逆効果にすらなるということである。

例えば家庭に大きな問題を抱えていて、心身ともにへとへとな子どもがいたとする。
まずは治療的なアプローチが必要なのに「がんばれ」は逆効果である。
一方、安定した状態にあり、上を目指そうとしている相手なら「がんばれ」の方が適切かもしれない。
「がんばれ」という言葉自体に善悪や良否はない。
刃物や火薬と同じで、状況と使い方次第で良くも悪くもなる。

「叱るか褒めるか」または「認めるか」という話にも似ている。
どっちがいいとか悪いとかではない。
どちらを今子どもは本当に必要としているかである。

教育観に関わる部分なので、次号もう少し深めていく。

2016年2月7日日曜日

大荒れの成人式?

(今回の記事は「まぐまぐニュース」でも取り上げられたので、参考までにURLを。
http://www.mag2.com/p/news/139065

成人式で大暴れしたのが全国で何人かいたとニュースで報じられた。
これを見て「全く近頃の若者はどうしようもない」となったら、哀しいことである。

今年の新成人の数は121万人という。
つまり、かなりざっくり計算して1万人で1%。
千人で0.1%。
百人で0.01%である。
つまり0.01%は、47都道府県で万遍なく2人ずつ事件を起こすとほぼ同数になる。

0.01%というのは1万分の1という数である。
1万人に1人、特別に荒れた子どもがいるのは異状事態だろうか。
いや、100人いる学年に数人いる場合だってざらにある。
つまり、割合からすると、決して不思議ではない。
しかし、確実に増えている感がある。

なぜか。

単純に、報道することが原因の一つである。
メディアに取り上げてもらうことで、注目の「負の報酬」が得られる。
(クラスで望ましくない行為をして、担任の先生に怒られまくる子どもが得ているのと同じものである。癖になる。)
そもそも、成人式で暴れるような新成人は、正の注目と報酬を得られなかった子どもたちである。
愛情や承認の欲求を負の報酬で代償している。

暴走族を考えるとわかりやすい。
暴走族の少年にとっては「迷惑行為」であることが大切である。
さらに言うと、それによって、同じ年代の人々に注目されないと意味がない。
逮捕も一つの「勲章」である。
そしていい年になったら「昔は無茶をして・・・」が常套句になる。

暴走族の事件をいちいちメディアで取り上げてたら、その後大荒れになることが容易に予想できる。
注目されたい少年たちの欲求を一気に満たすことができる。
どうすればメディアに取り上げてもらえるか、いかに目立って暴れてやるかの競争になる。

報道されるから、暴れる。
わざわざ暴れているところの写真や暴言の内容まで出回って、してやったりである。

無論、報道すべきものもある。
殺人にいたっているものもあり、これは被害者の視点からも見過ごせない。
社会的に取り上げるべきものである。

それ以外のいつもの暴れる君たちは、逮捕後はメディア的には放置した方が社会のためである。
憧れて後継者としての模倣犯が現れるし、何より残り99.9%以上の立派な新成人たちが迷惑である。

そもそも、そんな暴れる君たちを作ったのは、我々大人である。
反省すべき点はなかったのか。
無論、あるのだが、やはり何よりメディアの影響は大きいと言わざるを得ない。

そういう負の行為に着目するから、未来が暗く見える。
大多数の正しい行為の新成人たちにスポットを当てれば、未来は明るい。

世界の未来、日本の未来は自分には決められないかもしれない。
しかし、自分の身近な小さな社会の未来は決められる。
親だったら家庭であったり、教師だったら教室であったりする。
子どもの欠けているところ、ダメなところに注目するか、優れたよいところに注目するか。

同じものを見るなら、影の部分より光の方を見ていきたい。

2016年2月5日金曜日

「何できちんとできないの!?」の答え

今回も雑感だが、自分の中で深められそうな気のしているテーマについて。

教育がうまくいかない状況を考える。
ポイントは、教える側と教わる側のニーズの違いである。

親や教師(以下「大人」と括る)が子どもに何か教えたりやらせたりしようとする。
こちらにはねらいや要求がある。
一方、子どもの方はやりたい訳でもない、または大人が思うほどは求めてないとする。

このニーズのギャップのある状態は、うまくいかない。
大人が子どもに口にする言葉No.1の「早くしなさい!」は、もろにここに当てはまる。
大人の側には色々と都合があるので、早くしてくれないと困る。
一方、子どもは別に早くやりたいともやる必要があるとも思っていない。
または、やろうとしているが、できない。
よって「何できないの!」「きちんとやりなさい!」も、同種のうまくいかない言葉である。

逆のこともある。
子どもはすごくやりたい、欲しい、できるようになりたい。
しかし、大人の側のニーズはほどほど、またはあまりない。
まあ、可能なら満たしてあげたい、または満たすこともできるが、どちらでもいいと思っている。

これは、結構うまくいく。
この状態だと、子ども自身が考えて工夫をする。
大人はアドバイスを求められるので、一応「いいんじゃないかな」「じゃ、もう少しこうしたら?」と答える。
子どもは更にがんばる。工夫を続ける。
「好きこそものの上手なれ」というのは、ある意味当然といえる。
子どもは、大好きなことなら限りなく熱中し、やめてとお願いしてもやめてくれない。

要は、大人と子どもの間のニーズに変化を起こすことである。
ある行動へのニーズを
大人>子ども から、
大人=子ども にして、
大人<子ども に移行すればよい。

これは、経済に似ている。
供給>需要で、差が大きすぎると、モノが溢れて買い手がいない状態で、売り手としては困る。
大安売りで、価値を感じにくくなる。
供給=需要だと、バランスが良い安定状態である。
供給<需要では、高く買ってもらえる状態であるが、これもほどほどが良い。
あまりに供給量が少ないと、ニーズに応えらず、不満を抱かれる。

需要が子どもの「やりたい」、供給が大人の「やらせたい」と考えると、ぴったり一致する。
子どもの「やりたい」が高まったところで、初めて「できるようにさせる技術」が光る。

要はやる気スイッチを入れることが先、できるようにさせる技術が後ということである。
子どものやる気はあるのに、教えることができない状態を「技量不足」と呼ぶ。
教える技術はあるのに、子どもが嫌々やっている状態を「空回り」と呼ぶ。
両者バランスよくある状態が望ましい。

「何できちんとできないの!?」の答えは単純明快で、
「あなたが思うほど私はやりたくないからです。」
または
「あなたがうまく教える技術がないからです。」
となる。

整理する。
色々書いたが、最重要ポイントは一つ。
子どものニーズを大人のニーズに上回らせること。
アクティブ・ラーニングの状態とはそういうことである。
今後、どうすればそうなるのかをテーマに考えていく。

2016年2月3日水曜日

今日よりぞ 幼心を打ち捨てて・・・成人の日

成人の日に書いた記事。

成人ということに対し、どんな価値観を持って新成人は臨むのだろうか。
吉田松陰の作った次の和歌がある。

今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし
(松蔭神社のH.P.より引用。)
http://www.shoin-jinja.jp/blog/?cat=4&paged=4

吉田松陰が26歳の時、いとこである玉木彦介の元服を祝して贈った和歌だという。
「今日からは、親にすがって甘えるような心を振り切り、ひとり立ちした人間になるために、力強く歩んで行きなさい。」
という意味だという。

成人の日というのは、ひとり立ちした人間としての自覚を持ち、志を立てる日であるともいえる。
美しく着飾るのも、その門出を祝う周囲の人々の思いあってこそである。
大いに華やかにやってくれていい。
ただ、親をはじめとするここまで育ててくれた人々への感謝の気持ちを忘れずに立って欲しい。

一時期に比べ、成人式の荒れは急激に少なくなったという。
「今時の若者」は、意外としっかりしているのである。

さて、とっくの昔に「成人」し終えた私たち「大人」はどうだろうか。

ちなみに、小学館の『類語例解辞典』によると、「成人」とは、単に成年に達した人全般をさす。
一方「大人」とは、社会的、身体的、精神的に成熟した一人前の人間をさす。
つまり、「成人」してもすぐに「大人」になる訳ではないということである。

自分を省みた時、甘えを捨てているだろうか。
人としての道を力強く歩んでいるだろうか。
志を持っているだろうか。
人として成っているだろうか。
甚だ疑問である。

子どもは大人の背中を見て育つ。
口でうまいことを言っても、何をやっているかが全てである。

「成人式」は新成人のためだけでなく、我々「大人」が自分自身を振り返る機会にもしたい。

2016年2月1日月曜日

『一見フツ―でも、教師が「距離を置く子ども」の共通点4』

先月、また「プレジデントオンライン」に次の新しい記事がアップされた。
『一見フツ―でも、教師が「距離を置く子ども」の共通点4』
http://president.jp/articles/-/17039

この記事は後半がメインなのだが、まずは問いかけの前半までである。

要は、先日書いた児童虐待の話の続きである。
後半には、親がきちんと叱ることの大切さを書いている。
(まだアップされていないが。)
叱ることは、叱る側も痛い。
褒める方や見ない方に逃げたくなる。
しかし、それは緩やかな「マイナスの教育」の始まりだと思っている。

また、褒めるべき時に叱ってもよくない。
(わかりやすいのが、掃除。
 さぼっている子どもを叱るより、きちんとやっている子どもを褒める方を優先する。)

叱られるべき時に叱られない子どもは、結果的に不幸である。
叱ってくれる人は、その相手に何らかの愛情がある人である。

叱るという行為は、文句や罵倒とは違う。
ここを間違えると、変な人の言いなりになる。
その行為の根源が、愛情か自己中心かが判断基準である。
自分の機嫌や都合とは関係なく、相手を中心に考えているかどうかである。

叱られることへの耐性が弱くなっているといわれる現代だからこそ、叱ることの重要性が問われていると思う次第である。
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