2016年2月25日木曜日

「桃太郎」から何を認識するか

前号の続き。
「観」によって人は「情報」を「事実」とみなす。
ここから生ずる道徳の授業の難しさについて。

「桃太郎」の昔話を例に考える。
お話を読む。
面白かったね、で終わるのが通常。(本来はこれでよい。)
これを、道徳の授業だとする。

そうすると「何を、どんなことを感じたか」が大切になる。
「桃太郎」の話を聞いて、どんなことを感じるか。
ある子は「正義は勝つ」といういわゆる「勧善懲悪」を感じとる。
ある子は「力が強いことが、結局人を守ることにもつながる」ということを読み取る。
ある子は「一緒に戦う仲間を集めるには、報酬が必要」ととらえる。
ある子は「やっぱり最後は金銀財宝」ということに目が向く。(お姫様に目が向くこともある。)
ある子は「鬼は悪者と決まっているの?」という「差別」に意識が向く。
・・・

「桃太郎」を知っている方としては、「正義は勝つ」しか考えられなくても、実は色々な捉え方がある。
特に子どもの発想は柔軟なので、意外なところに目が向くことも多い。
正直、そこに着目しないで欲しいというところに固執することもある。
例えば、両親がおらずに育った子どもならば「桃太郎の本当の親は誰なの?」ということに目が向くかもしれない。
その子にとっては、何よりもそこの方が関心事なのである。

このように、多種多様な捉えができる「価値」に対し、一定のねらいにそったものに着地させようとする。
そこに無理が生じやすい。
だから「白々しい」授業になってしまう。

授業名人は、そのあたりの捌き方がうまい。
無理矢理一つの意見にまとめない。
しかし、ねらいは達成する。

では、授業名人ではない我々は、一体どうやれるのかというアイデアについて、次号述べていく。

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