2022年3月30日水曜日

心を傾けて聴く

引き続きテーマは「聞く」の中の「聴く」について。


自治的学級づくりの中核的活動の一つに「クラス会議」がある。

係活動、目標作り、イベント企画、課題解決、等々の自治的活動のあらゆる決定が、クラス会議を中心に行われる。


このクラス会議では、特に聞く力が必要な中心的学力となる。


まず、黙って聞く必要がある。

次に、その話を理解する必要がある。

加えて、自分の価値観で判断せず、相手の立場になって「聴く」必要がある。

トータルな「聞く力」が必要となる。


ここでは教師の立ち位置が難しく、かつ重要なポイントになる。

基本的に口を出し過ぎてはいけないが、放っておいては混乱するだけである。

介入の度合いがクラス会議の成否を分ける。


理想は「黙って聞いて見守る」だけである。

しかし、理想通りにいかないのが現実問題というものである。

集団が育つほどに見守るだけで大丈夫になるが、初期状態にはやり方、進め方を指導するため、介入がかなり多くなる。


この時、教師の価値観を出し過ぎてしまうのが問題である。

理想は子どもたちの自治的な話合いを見守るのだが、見過ごし難いものが少なくない。


例えば前号でも例を挙げたが「席替えの座席は自由」という決定が話合いの上なされたとして、果たして上手くいくか。

いじめや権力闘争がある中でこれをやったら、弱肉強食の酷い惨状になる。

そもそも、そういう学級の状態でクラス会議を放置しておけば、弱肉強食の決定になるのだから、当然である。


相手の価値観を尊重する「聴く」の姿勢であるなら、様々な立場の子どもに思いを馳せる必要がある。

ある決定は何人かの子どもにとっては都合がよいものの、ある子どもたちにとっては大変不都合なものかもしれない。


だからといって口を出し過ぎると、今度は教師の価値観に合わせた談合のような話合いになる。

例えば「団結して努力するのが素晴らしい」という価値観の教師の下で、決定されたものがあるとする。

クラス会議の話合いの中では「合意形成」が為されたように見える。

しかし、実際はクラスの聡い子どもたちによって教師の価値観への忖度がなされ、決定されていることがある。


「団結して努力」というのは一つの価値観である。

同時に「人に頼らない努力」というのも「みんなで努力よりもリラックスして楽しく」というのもそれぞれの価値観である。

どれが絶対の正解というのではなく、それぞれの正解である。


それぞれ別個の正解を持ち寄って、集団としてすり合わせていく作業がクラス会議である。

少数派や弱い者の意見が切り捨てられてしまうようでは、クラス会議の目指す「共同体感覚」の育成と真逆である。


即ち、集団の全員に「聴く」という姿勢が求められる。

相手の立場を慮るという下地がないと、教師を含めた弱肉強食の決定になる。


この「聴く」力は、全ての時間で育成するものである。

朝と帰りの挨拶から、各教科の授業や移動時間、休み時間から各種当番、係活動まで、全てで育成する力である。


つまり、教育活動の全てを通して育成するという道徳の力の一つである。

実際、「徳」という字と「聴」という字は似ている。

心を傾けて聴くという姿勢が必要である。


私が「聴く」ために、意識しているキーワードがある。

「本当はどうしたいのか」

である。

相手が話している時、本心としてはどうしたいのかを想像する。

書くと簡単そうだが、実際にやると大変に苦労する作業である。


ネガティブな言葉にこれをする。

「やりたくない」は、本当にやりたくないのかなと想像する。

「NO」が実際「YES」なのかもしれないのである。


ポジティブな言葉にもこれをする。

「やりたいです」も、本当にやりたいのかなと想像する。

「YES」が実際「NO」なのかもしれないのである。


何でもかんでも疑り深くなるという訳ではない。

本心を聴こうとするだけである。

明かに心から嬉しいであろう状況なら、こんな疑いはいらない。

しかし、子どもは無理したり強がったりして言っていることがあるので、この姿勢が必要なのである。

特に心優しい子ども、他人をよく気遣ったり譲ったりしてしまう子どもの場合は、要注意である。


「聴く」は難しい。

難しいからこそ、大人の側も生涯に渡って磨き続けていく必要のあるものだと考える。

2022年3月19日土曜日

全体か個か

前号の「聞く」と「聴く」の話に関連して、学級における全体と個のバランスについて。


今回は次の本から。


『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』

ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出文庫


この本の中に次の一節がある。P.188より引用する。

===============

(引用開始)

ナショナリズムがなくなれば、私たちはみな自由主義の楽園で暮らせるなどと想像するのは、危険な過ちだ。

ナショナリズムなしでは、部族社会特有の混乱状態の中で暮らす羽目になる可能性の方が高い。

とくに民主主義はナショナリズム抜きにしてはきちんと機能できない。

(引用終了)

============


個の時代と言われている現代にあって、全体主義はすこぶる人気がない。

日本では、一時期の行き過ぎた「会社に一生を捧げる」という考え方への反動もある。


しかしながら、現代の「知の巨人」とも称されるハラリ氏が述べるように、集団全体を考えない自由というのは存在しない。

自由主義や民主主義を目指す上で、集団を完全にないがしろにすることはできない。

個も集団によって生かされているからである。

自由や権利が、義務や責任の上に保障されるということと同義である。


学級でも、個人の思いを「聴く」ということはする。

しかしながら、そこにある要望を全て通すかというと、話は全く別である。

集団にとっての不利益となることは容認できない。


極端な例で言えば、例えば席決めである。

「私はこの席がいい」という個々の要望を「自由」と称して完全に尊重しようとすれば、破綻する。

互いの要望が確実にぶつかり、放っておけば争いになるからである。

その先に待っているのは、弱肉強食の世界であり、それはハラリ氏の述べる「部族社会特有の混乱状態」である。


社会としては、そこに共通理解されたルールが必要になる。

例えばある程度自由に座席を決められるにしても、一定のルールが必要になる。

それがどんなルールであるかは、その場に応じて決めるものであるので一概には言えない。


少なくとも、強い者が弱い者に対してマウントを取るような集団であれば、この自由方式は確実に使えない。

その場合、指導者が決めた方がよい結果が待っている可能性が高い。


話を戻すと、個の自由を尊重するには、互いを尊重する集団が成立している必要がある。

成員が集団に貢献しようとしないのであれば、自由という権利を与える訳にはいかない。

行き過ぎたナショナリズムは問題だが、個人主義で自己の利益のみを追求するのも同様に問題である。


指導者は「聞く」の姿勢で、常に適切な判断を必要とされる。

一方で「聴く」の姿勢で、個に寄り添う必要もある。

個が生きてこそ全体も生きるし、その逆も真だからである。

これは教師という立場に限らず、全ての集団の指導的立場にある人間に必要な姿勢である。


全体か個かという問い自体が成立しない。

個を生かすために全体を尊重する必要がある。

学校は個の成長のためだが、それは社会、広くは世界、地球という全体に貢献できる人間へ成長するための場である。


話を「聞く」と「聴く」のバランスへの一つの考え方として、提示してみた。

2022年3月12日土曜日

「聞く」と「聴く」


前号に続き「聞く」をテーマに考える。

まずは次の本から。


『LISTEN 知性豊かで創造力がある人になれる』

ケイト・マーフィ(著)、篠田真貴子(監訳)、松丸さとみ(訳) 日経BP


この本の冒頭で、監訳者が次のように訳注をつけている。

========================

本書タイトルの「LISTEN」には、能動的に「耳を傾ける」という意味があります。

========================


明確に「hear」との区別をしている。

前号でも「聞く」には種類があると書いたが、

「hear」は「自然と耳に音が入って来る」

という状態である。

意識を相手に向ける「listen」とは明瞭に意味が異なる。


「馬耳東風」ということわざがあるが、これは「hear」の状態ではあるが明らかに「listen」ではない。

子どもが教室で黙って席について話を聞いているようでも、それが「listen」であるかはわからないのである。

どんなに懇切丁寧に説明したところで、単に耳に音声が入っているだけの「hear」かもしれない。

この可能性を頭に入れておくことは大切である。


この本の中では、「listen」の訳をさらに「聞く」と「聴く」に意図的に表記を分けている。

両者とも相手の話に意識を向けている状態という点では一緒である。

前者の「聞く」を「自分の頭の中で判断しながら聞く姿勢」としている。

後者の「聴く」を「いったん自分の判断を留保して話し手の見ている景色や感じている感覚に意識を集中させる姿勢」としている。


この二つの違いは大きい。


「私は人の話がよく聞けている」と思っている場合、大抵が前者の「聞く」であるという。

特に教師はこうなりがちである。


例を挙げる。

国語で、一つの発問をしたとする。

「主人公が○○の行動をとったのはなぜでしょう。」


これに対し、子どもが答えていく。

そのいちいちに対し、教師は判断を入れて聞く癖がついている。

あるいは、いちいちに対し音声や表情、板書による言語等で反応していく。(=即時の評価)


これはある意味、仕方のないことといえる。

玉石混交の回答に対し「全部いいね」では学力が全くつかないためである。

「なぜ」という問いに対しては、文章を根拠とした「~~だから」と読み解いて、それを適切に伝える力をつける必要がある。

だから、どうしても聞くに際しての思考による判断が必要になる。

判断が前提の「聞く」が癖になってしまう所以である。

(この大きな問題点は、教師の側が知識不足だったり感性が鈍かったりすると、玉を石と判断して捨ててしまうことである。)


ちなみに「どう感じたか」と問うた場合については、全部認めればよい。

感じ方はあくまで人それぞれだからである。

それは道徳科の授業の問い方であり、価値観のすり合わせ作業である。

その時必要な姿勢は、自分の価値観をいったん脇におく「聴く」の方である。

即ち、カウンセリングマインドである。


教師が多く使う「聞く」と、カウンセラーが多く使う「聴く」は技術的に異なる。

父性と母性の違いにも近い。

迷っている人に対し、行くべき道を指し示し導くような姿勢と、丸ごと受け止めて頭を撫でてやるような姿勢の違いである。


元々、教師に多く求められていた役割は、前者の方であり、後者は家庭が担っていた。

家では「先生の言うことをよく聞いてきなさい」と送り出されていた時代である。

やることが、かなりかっちりと決まっていた。


しかしながら、現在はこれが違ってきている。

「子どもの心に寄り添う」

「個別最適な学び」

「多様性を認める」

といった「聴く」姿勢に近いことが多く求められるようになった。

(「そうせねばらならない」というルールが追加されたともいえる。)


つまり、教師に求められる「聞く」という技術一つとっても、時代の変化と共に質的な変容があったと言える。

先のように、判断する「聞く」には不易としての価値もありつつ、「聴く」の価値の比重が高まった。


この両者のバランスをとる難しさは、現場で教えている人間なら肌で感じているはずである。

「本当はこうしてあげたいけど、きまりでできない」などというのも、これと類似した問題である。

全体として「正しい」方向へ導く姿勢と、個に寄り添う姿勢のバランスである。


聞くという行為は、深淵である。

学校における「聞く」と「聴く」のバランスをどうするかを今後も考えていく。

2022年3月5日土曜日

教室における「聞く」を考える

 「聞く」には2種類ある。

「音声として耳に入っている」という状態と「理解する」ということである。


つまり「一見聞いているようだけど理解していない」があり得る。

例えば、すごく真面目に授業を受けているけど、内容がわかっていない。

反応や返事がすごくいいけど、実はわかっていない。

こういう状態である。


逆に「聞いていないようで実は理解している」ということもある。

例えば、授業を真面目に受けてないと思っていたら、実はよく理解して楽しんでいた。

教室の後ろで好き勝手に寝っ転がって遊んでいたと思ったら、大事なことを急に発言する。

こういう状態である。


どちらをどう扱うか。

教室で歓迎されるのは、Aの方である。

真面目に聞いているように見えるからである。


しかし、実際はBの状態の方が学校の目的には適う。

一見扱いづらいようだが、身に付けさせたい学力をつけているともいえる。

聞く態度がよくないだけで、能力的には聞く力を活用しているということである。



学校教育の抱える問題点がここにあるように思っている。

即ち、表面的な態度を重視しすぎて、本質的な力をつけられていないのではないか、ということである。


「素直でいい子」「お利口」を称賛しすぎる傾向がみられないか。

よくわかっていないけど従うようにしていないか。

それは大人への迎合になっていないかということである。


よく考える子の中には、一見あまり素直には見えない子どもが複数含まれる。

例えば、全く喋らない(発言しない)子。

いつも「変な発言」をする子。

言われたことがなかなかできない子。


これらを「問題のある子」とみなすと、教育はその意義を失っていく。

大概、どこかが突出していれば、どこかが大きく凹んでいるものである。

突出している部分が多い子であれば、凹みも多い。

こちらから凹んで見えているのも、単なる表現の違いに過ぎないかもしれない。


教える側の問題は、凹んでいる(と思える)側にひどく注目してしまうことである。

逆に、突出している面は、ずっと上まであって、下からはよく見えないので注目されにくい。

「聞いていない」という態度面は、よく目立つ凹みに見える。


それは、本当に聞いていないのか。

本当に反抗的なだけなのか。

やる気がないのか。

本人なりの理由もあるのではないか。

聞けるようになる手立てがあるのではないか。

あるいは、一見聞けないままでも大丈夫なのではないか。


私自身、あまり授業をきちんと聞いていなかった、あるいは聞けなかったことが多々ある。

一方で、必要なことには全神経を集中して聞くこともある。

それは、今でも全く変わっていない。

自分という人間一人見ても、何でも同じようにはできないのである。


聞くことは学力の中心である。

ここをどう扱うかは、教育において重要な位置を占めると考える。

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング