2013年9月29日日曜日

やる気と感動は「生もの」

夏休み中、たくさんのことを学んだ。
この瞬間、やる気にあふれているのだが、長くは続かない。
その内、忘れてしまう。
もう、あれは何だったの、というぐらい忘れ去る。
何とかと秋の空、の如くである。

やる気や感動は、生ものである。
放っておくと、どんどん腐敗が進む。
驚くぐらい忘れていく。

大切なのは、即実践。
「知行合一」が大切である。
せっかく得た学びを、いつ生かすのか。
2学期、せっかく学んだことを一つは生かして実践したい。

2013年9月26日木曜日

「先生、暇そうだね」

教育相談について学んだことのシェア。

子どもが相談しやすい教師とはどういう教師か。
その一つに、「先生、暇そうだね」と子どもに言われるようにせよ、ということ。
何だかそんなこと言われたら心外な気もするが、要は次のような理由からである。

仕事はやりだすときりがない。
休み時間も前の時間に集めたノートだったりその日の宿題や連絡帳だったりと見るものが大量にある。
結果、常に「忙しい雰囲気」を醸し出してしまう。

自分達の立場になって考えてみるとわかる。
例えば教頭や教務などにお願いをしたり、校長に相談をする場面。
相手の状況を見て話しかける。
しかしこれらの立場の人達は、校内で最も忙しく、何かしていることが多い。
結果、なかなか話しかけられずに気がついたら退勤、というような経験がある方も多いのではないだろうか。

要は、忙しそうにしている人には相談しにくいということ。
四六時中何かしていると、子どもは話しかけるタイミングがない。
結果、先生には相談できない、話をきいてくれない、という風になりがちだという。

一生懸命やることは大切である。
しかしその際、目的を見失うことがしばしばある。
教育の目的は何なのか。
子どもの人格の完成(を目指すこと)である。
宿題も何も全ての仕事が目的へ向かう手段である。
子どもと話すことは、「教師理解」と「子ども理解」両方を深める。
更にいじめ発見や悩みの解消などの為にも役立つ、大切な仕事の一つである。

「一生懸命、暇そうに見せる」
暇そうに見せるには、結果、より多くの努力と工夫が必要になる。
矛盾するようだが、それが真理。
大切なことを学ばせていただいた。

2013年9月24日火曜日

重きものは軽き如くに

「重きものは軽き如くに
 軽きものは重き如くに」

最近読んだ本で知った言葉で、茶道の心得の一つだそうである。
例えば箸のような軽いものこそ、両手できちんと扱うと、所作が美しく見える。
逆に重たいものの時、いかにも重そうに運んでは凡庸。
本当は重たいのに、いかにも軽々と運ぶ。
軽くやせ我慢だが、これがスマートに見えるコツだそうである。

ここ数回「すごい人」「尊敬する人」について書いてきていて、ピンときた。
すごい人達は、面倒なことをあっさりやる。
ちょっとしたことを、丁寧にやる。

何度も書いているが、例えば葉書や手紙。
書くのは結構億劫なはずなのに、会ったその日や帰りの新幹線でもう書いてたりする。
凡庸なこちらが「よーし、明日自分から書こう!」と気合いを入れていると、もう相手から届いている。

例えば、お辞儀。
軽くやってしまいがちである。
すごい人は姿勢を正し、相手より深く長い礼をする。
それも、ごく自然にやる。
お辞儀一つでもかなわない。

例えば、長距離の移動。
お金も時間もかかる。
北海道だろうが沖縄だろうが、必要ならあっさり行く。
(多分、実際は懐が痛むはずである。遠方になれば、家族の合意もいるだろう。)

例えば、講演。
膨大な時間をかけてたくさん準備している。
しかし、全部出さない。
状況を見て、あっさり引っ込める。
授業でも同様である。
緊張している様子も見られない。
(後でご本人にきくと「実は無茶苦茶頑張ってた」ということも多い。)

懇親会のような場でも、小さな気配りをさらっとやっている。
どちらが講師かわからない。

「重きものは軽き如くに
 軽きものは重き如くに」
物事の本質を捉えた実にいい言葉だと思ったので、紹介した。

2013年9月22日日曜日

すごい人が皆謙虚な訳

すごい人はみんな謙虚である。
その理由が何となくだがわかった。

「謙虚」を辞書で引く。
「ひかえめですなおなこと。謙遜。」(広辞苑)
「へりくだって控えめなさま。
おごりたかぶらず素直なさま。」(明鏡)

謙虚は「素直」とほぼ同義。
素直さに控えめな様子を足したものが謙虚とも読める。

ところで「あなたは素直ですか」ときかれたら、どう答えるだろうか。
自分は、なかなか「素直です」と堂々と即答できない。
自分自身、素直なつもりで、実践できてない面が多いのを知っている。

素直なら
教えられた通りにやる
(だから、正しい方法が身に付く)

素直なら
すすめられたことはすぐに実行する
(だから、良いものや習慣がどんどん周りに増える)

素直なら
わからない時は、堂々とわからないから教えてくださいと言える
(だから、知識が増え、過ちもすぐに正せる)

即ち、素直さは実行力を伴う。
良いとわかっていることを先延ばししない。
素直さ=実行力と言ってもいい。
ここが実に難しい。

さらに、素直になるには「今の自分」を捨てる覚悟がいる。
言い訳や自分に都合のいい解釈をしない。
変革が伴う。
常に「スクラップ&ビルド」である。

すごい人は、常に向上し変化し続けている。
そう考えると、すごい人が謙虚の性質を持つのは、至極当然のことのようである。

2013年9月20日金曜日

すごい人は「子ども」

「本物の方と会うと、あまりにも皆、子どもなのでびっくりすると思います。」
(「忘れる練習・記憶のコツ」
アルボムッレ・スマナサーラ著 サンガ新書より引用)

以前紹介したことのある「怒らないこと」と同じ著者の本である。
この一文が、最近感じていたことにすごくマッチして、引っかかった。

色んな分野の「すごい人」に会って、話をきく。
教育関係以外に、一般企業の方と近づける機会もある。
「すごい!」と思う人は、みんなものすごい、「子ども」である。

何だか失礼に当たりそうなので、あからさまに個人名は出せない。
自分の尊敬する人を複数思い浮かべて勝手に分析し、その共通点を挙げてみる。

1 好奇心が異常な程強く、常に本を読んだり調べたりしている。
2 色んなところによく出かける。
3 礼儀正しく、腰が低い。礼が深い。(相手が目下の場合は、尚更。)
4 手紙を色んな人へよく出す。
5 意外な所でラフ。変な所がある。(癖がある。隙がある。)
6 色んな人に話しかけて、質問しまくる。
7 笑った顔が、子どもっぽい。
8 決めてから実行するまでが尋常でないほど速い。
9 口約束を必ず守る。
10 素直(吸収力がすごい。)

挙げてみると、ほとんどが「子ども」の要素である。
(3、4、9辺りは、礼儀正しさに関わる面で、大人として獲得するものかもしれない。)
すごい人は「礼儀正しい」+「子どもっぽい」が、キーワードのように思った。

2013年9月18日水曜日

道徳以前

過日、山口県の福山憲市先生という素晴らしい方のお話を再びきかせていただいた。
前にも書いたが、実践が、もはや別次元のレベルである。
私などからすると、ほとんど人間業とは思えない。

今回は道徳がテーマだった。
しかし、内容は完全に学級経営。
つまり、一時間の道徳どうこうの前に、学級経営なのである。
そこがあって、初めて一時間の道徳の授業に意味ができるということだった。

講座の最中に、福山先生が放った次のような一言に、頭をガツンと殴られた感じがした。

姿勢一つ変えられないで、道徳の指導云々とかできるのかということ。
全員に徹底させられないでどうするんですか、ということ。

最初は「テスト平均99点」に目を奪われ、どんな凄い算数の指導法があるのかと関心を寄せていた。
しかし、単なるハウツー、ではないのである。
根本・本質・原点が違う。
全員に、姿勢を正すことが当たり前ということすらできてない。
算数とか道徳とかそれ以前レベルである。
到底追いかけられる状態ではない。
有名な実践家の追試をしてもうまくいかないのは、その辺りに原因がある。

まずは、一点集中、一点突破。
何か一つでも、徹底できる部分を持ちたい。

2013年9月16日月曜日

敬老日は「有り難い」日

敬老の日。
いわずもがな、人生の先輩を敬い感謝を示す日である。
普段から当然そうあるべきなのだが、意識して改めて、という日である。
(シルバーシートの存在に近いと思う。
当然のことを敢えて意識させるためである。)

ところで、なぜこの時期なのか。
疑問に思ったらすぐ調べられる便利な時代である。

どうも、この時期が農閑期にあたるから、ということらしい。
一段落ついたところで、先人の智恵を授かろうというねらいもあるらしい。
何事にも突き詰めると理由があるのだなぁと妙に納得。

年上を敬うべき。
かなり当たり前のことだと思う。
理由がいらないレベルの当たり前である。
しかし、「当たり前」のことを改めて考え、認識すると、「感謝」になる。

もし感謝を示せる相手が身内にいるなら、それ自体が「有り難い」ことである。
今や「人生七十古来稀なり」のはずが、5万4千人以上の百歳越え。
有り難いことである。

敬老日 ありがとう言える 有り難さ

2013年9月14日土曜日

良いものは何度でも

いいものはいい。
何度見ても、何度きいてもいい。

講演なども同じである。
同じ人の同じ話であっても、毎回微妙に違う。
話し手自身が、常に変化している。
同様に、聴き手も常に変化している。
だから、同じ話のはずなのに、手に入る情報の質が上がる。

本や講演CDを繰り返し見たり聞いたりする。
これは、話し手は変わっていない。
しかし、受け取る側は変わる。
だから、いいものは何度も触れたほうがいい。

ある素晴らしい実践家の先生が仰った。
自分の師匠の本は100回は読むという。
1回読んで「素晴らしかった」で終わらせないという。
良い本は何度も何度も何度も読むという。

たくさんの情報にあたることも大切である。
同様に、良いものに何度も触れ直すことも大切であると学んだ。

2013年9月12日木曜日

知識は大切

「知識偏重」「頭でっかち」というように、知識が悪玉のように言われることもある。
知識ばっかりで行動が伴わない人間では確かに役に立たない。
しかしながら、知識もやはり大切である。

先日、我が愚息が水泳用ゴーグルのゴムを切った。
おばあちゃんに買ってもらったお気に入りで、大泣きである。
なぜ切れたかというと、パチンコのように引っ張って遊んだから。
切れて当然である。

なぜそのような愚行に走ったのか。
まず「ゴムは無理な力を加えると劣化する」という知識がない。
更に「こうすると壊れる」という経験もない。
「まさかゴーグルのゴムが切れるとは」という感じである。
それで壊れて泣くとは、こちらからすれば物事の道理に反する感がある。
(ついでに「物を大切に扱う」という道徳的姿勢にも欠く。)

とかく、子どもというのはこういうことをしがちである。
いわゆる「常識」が通らない。
それは、生きてきた時間が短く、知識や経験が少ないからである。
米を洗剤で洗うという笑い話もあるが、「洗う」=「洗剤」の知識からだろう。
現在、家庭科では「油汚れは不要な紙でまず拭き取る」「油汚れ以外に洗剤はなるべく使わない」ということも教える。
放っておくと、めちゃくちゃに洗剤を使うからである。
知識がないと、排水口の先の川や海がどうなるか想像できない。

一昔前は、ご家庭でもてんぷらで使った油を直接排水口に流していた時代があるという。
これも「無知」のなせる業である。
「油が自然を汚す」ということが常識として通っていなかったのだろう。

ある病気に対し「近づくだけでうつる」という嘘が常識化したのもしばしばである。
(保健でエイズの授業をすると、よくわかる。確実に教えないといけない。)
大人とて、知識がなければそういう「非常識」があり得る。

教育も同じである。
どれぐらいの知識があって教室で教えているのか。
自分が学校教育で受けきた授業をそのままやったら、最低でも十年以上遅れた教育になる。
「十年一日」で教育をしていたら、どんどん劣化していく。
素晴らしい授業の「モデル(イメージ)」が知識として必要である。
これは、多ければ多いほどいい。
自分の個性に合うタイプ、合わないタイプがあるので、多い分だけ取捨選択ができる。
そのために、わざわざ高いお金と多くの時間を使って、セミナーや授業公開にでかける。

休日は、レジャーを楽しみつつ、知識を得る活動も併せて行いたい。

2013年9月10日火曜日

「やる気スイッチ」の主電源

やる気には個々に「ニーズ」がある。
人によってスイッチの種類が違う。
たくさん持っている人もいれば、少ない人もいる。
しかし、どんなにたくさんある人でも、なぜか動かないという場合もある。

例えば、配電盤を見る。
たくさんスイッチがある。
その中に「主電源」というものがある。
これが入ってないと、他のスイッチが作動しない。
落雷時のブレーカーが落ちた状態である。

これを教室で考える。
例えば、本来歌が大好きな子どもがいる。
「歌を歌う」スイッチをオンにしたい。
あれこれ手を打つが、歌わない。
どうしたことか。

一人だけ歌わないのなら、個人的な問題を抱えている。
体調不良かもしれないし、家族や友達とのトラブルかもしれない。
しかし、クラスの大半がそうであるのなら、集団的な問題である。
歌の「やる気スイッチ」以前の問題で、根幹の問題である。

学級経営の主電源は「安全・安心」である。
これがないと、あらゆるスイッチは機能しない。
歌うとばかにされる、浮いてると思われるような学級では、歌えない。
逆もありきで、何をやっても受け止めてもらえる学級では、表現活動が活性化する。

私の知っている限りでも、素晴らしいと思う学級はここが強いように思う。
全員が合唱団のように口を開け、楽しそうに歌う学級。
全員がノリノリでダンスを踊りまくる学級。
全員がお笑いのコントを見せ合って爆笑している学級。
全員が劇で主役級に輝いて演技する学級。
全員が授業中に自由に発表できる学級。
どれも、受け止めてもらえる「安全・安心」感がベースにある。

何かに挑戦しようという時、「安全」という前提がある。
失敗しても大丈夫。
いわゆる「セーフティネット」である。
ジェットコースターに乗れるのも、ベルトやその他安全設備のお陰である。
基本が「危険」であるなら、命知らずやパフォーマー以外は乗らないだろう。

自分の学級のレベルはどこなのかを、まずは見極める。
安全レベルができてないのか、その後の方法の工夫なのか。
根幹の部分が揺らいでいるようなら、ハウツーの前に、そこの対策が必要である

2013年9月8日日曜日

やる気スイッチの考察

子ども時代、ゲームと漫画が大好きだった。
何時間でも集中し続けられた。

友達と遊ぶことが大好きだった。
何時間いてももっと遊びたいと思う。

勉強に応用できたらどんなに素晴らしい結果が出るだろう。
保護者からもよくため息と共にでる言葉である。
残念ながら、そうはいかない。
その辺りについて、考えてみる。

やる気を楽しみと考える。

漫画を、ここまでと思っても読み進めてしまう。
ゲームを、もうやめなさいと言われてもやり続けてしまう。

これは、内容そのものの面白さである。

教科でいうと、それそのものが大好きという場合。
体育や音楽、図工が好き、というのはこのパターンが多いかもしれない。
算数の計算が好き、社会科の歴史が好き、理科の実験が好き。
子どもによって嗜好が異なるが、内容そのものへの興味である。
誰が教えようが一人でやってても楽しい、というのが特徴である。

一方、「誰とやるか」による楽しさもある。

内容は別に好きでもないが、誰かとやるなら楽しいという場合。
(逆もある。内容が好きでも、苦手な人とやると楽しくない場合もある。)
例えば同じ場所に行くのにも、誰と行くかで楽しみは180度変わる。
そう考えると、子どもにとって、クラスの仲間及び教師との人間関係は大切である。

授業に対する子どものやる気スイッチを考えるにあたり、どちらの面が原因か、一考の価値があると思う。

2013年9月6日金曜日

過去が咲いている今。未来のつぼみでいっぱいの今

2学期のスタートに役立ちそうな、良い言葉に出会ったので紹介。

「過去が咲いている今。未来のつぼみでいっぱいの今」
(「お金でなく、人のご縁ででっかく生きろ!2出会い編」
中村文昭著 サンマーク出版 より引用)

伊勢修養団の中山靖雄道場長のお言葉とのこと。
今あるものは全て過去の積み重ねによるもの。
そして未来を作るのは今。
未来に咲く花の種を蒔くのも今である。

過去に対する感謝を持ち、未来に対する責任を負う。

未来にどんな花を咲かせ、その為に、今何をするか。
2学期始め、勝負の分かれ目である。

2013年9月3日火曜日

子どもに教わる

掃除を一緒にやる大切さは以前に何度も書いた。
トイレ掃除や床掃除のように、頭の位置が自然に下がるようなものがいい。
下座の姿勢になり、目線を落とすことで、見えるものがたくさんある。

逆に、子どもが大人の高さまで上がってきて、教えてくれることもある。

夏休み前のこと。
「毎日少しのボランティアをしよう」とクラスで決め、日々実行していた。
そんなある日、自分が校内の窓閉めを怠った日があった。
とても暑い日で、校内の全ての窓が全開である。
暑さによる疲れと、開いてる窓の数の多さに、やる気を失った。
「今日ぐらいはいいか」と。心の弱い奴である。
そうして職員室まで下りていこうとすると、隣の棟に自分のクラスの子どもがいて、窓閉めをやっていた。
大変恥じ入り、申し訳ない気持ちで踵を返し、私も窓を閉めにいった。

こちらがさぼっているのに、子どもはきちんとやっている。
そういうことは、結構ある。
子どもの方がよほど立派、ということがかなりある。

子どもから教わった気がするちょっとした出来事だった。

2013年9月1日日曜日

決断する

夏休み、毎年恒例のある学習会に参加した。
会の始めの方で参加者による実践発表がある。
実践発表は、立候補による。
集まる人々が相当な実践家の方々ばかりで、発表はなかなか勇気がいる。

この会で、毎回発表している方がいる。
私よりも年は下だが、大変に優秀な方である。
二十代の頃に初めて参加してから「毎回必ず発表する」と決めたそうである。
この「決めた」というところが、非凡なポイントである。
決断とは「決めて退路を断つ」ことである。

恥ずかしながら、今回含め、この会で自分は一度も発表していない。
発表しなくても、参加はできる。
しかし、それではいけないと気付かされた。

他の会で自分が発表した時のきっかけを思い出すと、やはり「決めた」からである。
「チャンスがあったら手を挙げなさい」と尊敬する方に言われた直後、チャンスが来た。
だから、立候補した。
できる算段など全く考えず、とにかく決めた。
発表は大変だったが、確実に成長につながった。

予定でも習慣でも何でもそうだが、まず決めること。
やらない言い訳をしない。
決断の大切さを学ばせてもらった。

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。 敬老の日である。 その意義は言わずもがな。 しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。 平たく言うと 「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」 というものである。 なる...

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