2022年8月27日土曜日

成功は失敗のもと

 学級経営において最も気を付けるべきこと、失敗しやすいことについて。


失敗は成功のもとである。

これは間違いない。


一方で、成功も失敗のもとである。

これも間違いない真理である。


成功が次の成功を生む、という場合、状況に応じてアップデートしている。

成功体験をそのまま再現しようとすると、かなりの高確率で失敗する。


学級経営においてはこれが顕著に見られる。

昨年度うまくいった、という感触があると、次の年に高確率で失敗する。

あるいは、失敗していることに気付かず一年間突っ走ってしまうこともある。

(これは子どもが勢いに押さえつけられていて、問題が表面化していない場合で、担任を離れた次年度に問題が噴出する。)


なぜなのか。


当たり前だが、相手をしている集団が違うからである。

そして、時代がすごい速度で移り変わっていくからである。

さらに、成功による驕りが生まれ、目を曇らせるからである。


十年前の六年生集団と今の六年生集団が同じはずはない。

ごく小さなことで言えば、たとえば今はタブレット操作が常識になっているのである。

家庭での小学生のスマホ所持率も、十年前とは桁違いである。


同じ「一年生」だろうが「六年生」だろうが、呼称が同じなだけで、毎年全く違う集団である。

例えば高学年担任を経験している方が慣れているから次も高学年で有利だろうと思うかもしれないが、必ずしもそうともいえない。

以前の成功体験が、足を引っ張るからである。

以前と全く異なる集団であるのに、つい同じであるかのように対応してしまうのである。

これが失敗した経験であれば決して同じようにはしないのだが、成功したと感じていると、この過ちを犯す。


まして学校を異動した年であれば、尚更である。

家庭環境も学校の常識も、全く異なる。

同じ性質のはずがない。

心して新たな目で見て学ぶ姿勢がないと、とんでもないことになる。


今、うまくいかない、と感じている内は、恐らく感覚が正常である。

うまくいかないと感じているならば、自分のやり方を変えることができる。

相手が悪いのだと考えれば、そこから先は転落の道しかない。


うまくいかないならば、やり方を変える。

過去の成功体験は、捨てる。

ごく当たり前のことだが、学級経営における要点である。

2022年8月24日水曜日

学級目標を作る意義

 前号に続き、学級開きに始まるスタートに必要な諸々の手立てについて。

今号は、学級目標作りの意義について書く。


学級目標は必要か。

これは、場合によるが、基本的にないよりある方がよいという類のものである。

自分自身を振り返ると、作った年と作らなかった年があるが、特になくても問題ないという時もある。


ただ、高学年担任をした際に作らなかったことはない。

高学年の学級に際しては、必須とまではいわないが、かなり有用性の高いものである。


なぜか。


端的に言うと、子どもの自我が確立してくるためである。

「自分は他人と違う」という感覚が強くなる。

そうなると、危険を感じ、周囲が仲間だと思えなくなる。

幼児が砂場で初めて出会った子とすぐお友達になれるのと対照的である。


そうなると、偶然の群れである学級に、意思疎通のための共通言語が必要になる。

チームとして共有できる目標を設定する必要が出てくる。

全体がどちらに向かって動いていこうとしているのかがわかれば、協力もしやすい。


では、具体的にどう作るかだが、過去の記事に何度も紹介しているので、そちらを参照していただきたい。

ブログ「教師の寺子屋」過去記事(これ以外にもブログ上部の検索ボックスに「学級目標」と入れるとたくさん出る)

2015年5月11日 「最高のチームを育てる学級目標」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2015/05/blog-post_11.html

2016年7月7日 「がたがたの土台を想定して学級目標をつくる」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2016/07/blog-post_7.html


この記事にも書いているが、学級目標作りと同時に願いの共有とデトックスができるのである。

これにより、学級における最高の理想の姿と最低限度ラインの上下両方を設定する。

やって欲しいこととやられたくないことを、全員で言語的に共有できるのである。


このメリットはかなり大きい。

学級目標の完成そのもの以上に、作る過程においての効果が大きいのである。


新しい学級ではとにかく毒出しが必要である。

学級目標に限らず、個人面談でも何でもいいが、不満を吐き出せる場を設ける。

呼吸でも何でもそうだが、入れるより出す方が先というのが物事の原則である。


学級目標はただのお飾りではなく、学級経営の強力なツールとして活用していきたい。

2022年8月21日日曜日

学級開きから思いを伝える

4月にメルマガ上で書いた記事。

夏休み明けからの「二度目の学級開き」にも参考になるかと思い、掲載する。


4月に異動した先で、校内研修として学級開きについて担当させてもらった。

特に何も知らない教員一年目などは、何をしていいかわからないものである。

具体例や最低限のことを知っておいて損はない。

(私もやって欲しかった。)


あらゆる仕事において、知識を得て技能を身に付けることは必須である。

まず最低限度の知識と技能がないと仕事にならない。

自分が普段生活でお世話になる人を考えてみればわかる。

例えば「やる気はあるけど知識と技能は全くない医師」に手術をしてもらいたい人などいない。


しかしながら、思いややる気というのは、見えないエネルギーである。

エネルギーである以上、相手に伝わる。

学級開きからその後において、最も大切なことはこの思いのエネルギーである。

そもそも準備をしようという時点から、思いのエネルギーが溢れている証拠である。


子どもたちは、見抜く天才である。

この大人がどういう思いで自分たちに対しているのかを、じっくり観察し、直感で見抜く。

上手く取り繕ろおうとしても見抜かれる。

上手く操作しようという功利的な思いも見抜かれる。

愛想笑いや表面的な褒め言葉なども、全て見抜かれる。

思いのエネルギーがどうしても伝わるからである。


だから、本気で対する以外にない。

「見抜く技術」は伝えられるが、「見抜かれない技術」を伝えるのは難しい。

特に相手が子どもの場合には無理である。


若い人の学級が荒れるという話を時々きくが、その学級の子どもに尋ねてみると以外と満足していることもある。

知識不足でやり方が下手でも、そこに強い思いがあるからではないかと思う。


一方で、ベテランの安定しているように見える学級の子どもが、裏で大きな不満を抱いていることもある。

勢いのある教師のもつ学級の子どもが、結果を出しているようで実は疲れ果てていることもある。

やり方が上手いから問題が表面化していないだけで、思いがないか、方向が誤っているからである。


思いの方向性、エネルギーの方向性というのは決定的に大切である。

例えば教師であれば子どもに対し「できるようにさせたい」と思うのは自然である。

しかしながらそれが「そう願う子どもの思いに応えたい」のか「自らの指導力を示したい」のかでエネルギーの方向性が全く違う。


そもそも、できるようになりたいと思っていない相手に教えることなど本来できないのである。

そうなりたいと思えるようなきっかけを与えるのが先で、それでもどうやってもそう思わない人を無理矢理向かせるのは誤りである。


思いの方向性というのが根本的に大切である。

さらに言うと、こちらが本気であっても、押し付けととられては迷惑がられるだけである。

一方、そもそも思いがないのでは話にならない。

(目的が知識と技能の伝達だけならそれでも構わないが。)

学級開きから全て、相手目線をもちつつ、自分の思いを表明し伝えていく。


前提として、出会わせて頂いた目の前の子どもを尊敬している必要がある。

上から目線は必ず伝わる。

逆に功利的に迎合するような姿勢も伝わる。


あんな子どもを尊敬なんてできないという意見もある。

しかしながら、そう思っている時点で、既に相手から教わる要素がかなりある。

悔しく辛いことだが、そう思う相手のもつ本質的な価値を見いだせないところにこそ、自分を成長させてくれる点がある。

かつて『やる気スイッチ押してみよう!』の第1章冒頭にも書いたが、「気になる子こそ、神様」である。

(参考:ここについては下記リンクの中の「立ち読み」で見られる。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1


知識と技能は最低限の前提。

感化・影響を与えられる思いこそが本質。


新年度、せっかくの場を与えてもらったのであれば、そこに心を入れて大いに励みたいところである。

2022年8月16日火曜日

身体は一見「不親切」

 ちょうど4カ月前、アキレス腱を断裂し、手術及び入院をした。


半年以上前から、その兆候があった。

つまりは、去年の冬頃からである。

足首への違和感である。

最初は「ちょっと痛いかも」「筋肉痛かな」ぐらいであった。


そのまま特に気にせず、激しい運動もやっていた。

痛くて運動できない時期があっても、数日すれば、痛みが和らぐ時期がある。


すると「もう治ったかも」と勘違いする。

虫歯と同じである。

実は、内部でより悪化しているのだが、一時的に症状を感じなくなっているだけである。


途中でまた痛くなっても

「痛い気がしているだけ」

「またすぐ治る」

と思い込もうとする。


ある日、身体が限界に達したことを伝えてくる。

その部位がアキレス腱なら切れて歩けなくなる。

その部位が心臓や脳なら、その場で卒倒する場合もある。


身体の方は、きちんとシグナルを送り続けている。

「痛いよ」「このままだとまずいよ」とめげずに伝え続けてきてくれているのである。


身体の方には、罪も落ち度もない。

問題は、その再三の警告を無視した思考の方である。

ポジティブなのではなく、単に無思考、考え無しなのである。

これはいけない。


人間の身体というのは、本当によくできている。

何か異常があれば、それを「痛み」という不快なシグナルで脳に伝える。

なぜ不快なシグナルをわざわざ使うのかというと、人間は不快を避けることを優先して行うためである。

何より優先的に扱ってもらうため、痛みや苦しみとして伝える訳である。


しかも、理不尽にも耐える構造をしている。

どうしようもない食物を胃に放り込んでも何とか消化してエネルギーに変換する。

体に悪い煙を吸い続けても、過度のアルコールや糖分を摂取しても、何とか分解し、適応しようとする。

実に働き者で、健気である。


要は、身体の痛みというシグナルは、一見「不親切」なのである。

痛みという不快感を与えることで、「これは良くない状態」と認識させ、それを避ける行動を喚起し、よりよい状態に導く。

ここで痛みを我慢したり、逆に「親切」にも痛み止めで痛みを取り除いたりすると、より悪い状態になる。


我慢して痛みに耐えるということ一つをとっても、その内訳は様々である。

先に述べたように、身体の異常サインを無視して我慢するのは、身体にとってマイナスの我慢である。

逆に、きついが痛みを我慢してリハビリに専念するのは、身体にとってプラスの我慢である。


何が本物の親切かということである。

痛いのを忘れるために痛み止めを飲んだり、眠いのにカフェインドリンクを飲んでがんばったりすること。

逆に、痛いだろうけど敢えてリハビリをさせたり、過労に対し発熱や頭痛という形で強制的に休ませたりすること。


相手のため、身体のためを本当に思っているのは、どちらなのか。

答えは明白である。


常識から外れた提案をされると、拒絶が起きる。

提案する側も批判されたりいじめられたりするのは痛いし怖いから、勇気もいる。

しかしそれがリハビリになるのであれば、痛みが予想されようとも、我慢してやるべきである。


やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやる。

勇気をもって、世の中に『不親切教師のススメ』をすすめていきたい。

2022年8月11日木曜日

「勉強しなさい」と言う権利はない

 知っている人もいるかもしれないが、私はほぼテレビ番組を見ない。

社会人になってからは月当りの視聴時間0ということも珍しくない。

オンデマンドで映画等を見ることはあるが、普通に民放等で流れている番組を見ることはほぼない。

なので「好きなテレビ番組は?タレントは?」という質問に閉口してしまう。


見ない主たる理由は、自分自身が「面白いと思えない」「見てて疲れる」からである。

これは「サッカーなんてつまらない」「マラソンなんてわざわざ疲れることをやる人は信じられない」という人の理由と同じである。

個人の価値観の違いであり、それそのものを否定するものではない。

マスメディアがこれだけ隆盛しているのだから、世の中に求められていることは間違いない。

どんなことであれ「蓼食う虫も好き好き」である。


それでも、スマホなどの媒体からニュースは目に入る。

専らネガティブなものが多いが、不祥事や失言、番組へのクレームなどは取り上げられることが多いようである。

先日も、番組中でお笑い芸人に不適切な行動があったということでニュースになっていた。


こういう風潮は、結構気になる。

何かというと、お笑い芸人がやっているようなバラエティ番組に、割と厳しめの道徳が求められているという点である。

無論、前号でも書いたように、お笑い番組には、後で見返してみて大きな過ちがあるネタもかなりある。


なぜならば、大衆がメディアに求める笑いというものは、日常を吹き飛ばすことによって生じるものだからである。

それはつまり「当たり前」を壊すものであり、時に不道徳であることも珍しくないからである。


時代の風刺画などを見てもそれはわかる。

基本的に「ふざけて」いるのである。

一般的にやってはダメなことをしたり言ったりするのを見ることで、溜飲が下がる思いがする性質のものである。

(それらは、落語や芸能などの愉しみ、ユーモアとは一線を画す。)


そこにクレームをつけるのは、なぜなのか。

「子どもに悪影響」とか「○○が可哀そうだ」とか色々ある。

要するに、親切心である。


しかし、「子どもに悪影響」な演出が、例えばお笑い芸人が進行を務めるバラエティ番組中に出ることは、予想通りなのではないか。

そもそも子どもに見せている時点で、そこは承諾済なのではないだろうか。

そして、大人の側はある程度以上、その笑いを求めているのではないだろうか。

(ネガティブなニュースが週刊誌他、世に溢れていることがその証である。)


テレビ番組のプロデューサーの感覚の鈍さがよく批判されるが、視聴者の側のその辺りの自分勝手な感覚も、どうにも気になるのである。

実際、視聴率を取るというのは「とにかく面白いと思われた方が勝つ」という弱肉強食の世界であり、キレイゴトでは済まされない。

メディアにネガティブで大衆的なものを多く求めている割に、同時に真逆の良質な道徳性を求めすぎな気がするのである。


要は「自分が不快」なだけならば、今後見なければいいだけの話。

自分が直接的に不利益を被っている立場なのであれば、相手に正すよう要望を出すのも当然である。


一方「誰かが迷惑する」「誰かが可哀そう」というのなら、余計なお世話である。

そんなもの、周りが騒ぎさえしなければ、その「誰か」である本人の課題である。

余計な親切心である。


学校にもこれは当てはまる。

「子どもが可哀そう」と思って、色々先回りして手出し口出しをして、その種を潰そうとする。

これが、親切教育である。


例えば「勉強しなさい」は、子どもの将来が悪くなっては可哀そうという、親切心からである。


不親切教師のススメ』P.86から引用する。


=================

(引用開始)

「勉強しなさい」というのは、親から子どもに対してよく出る言葉のようだが、教師がこれを発していることもある。

勉強ができないと将来困るだろうという親切心、もしくは教師としての責任感からである。


結論から言うと、不親切教師は、決して勉強しなさいとは言わない。

この言葉が、子どもの主体性を大きく損なうことを知っているからである。

「勉強しなさい」は明確な命令であり、「あなたのため」という親切心に満ちた名目における、善意による行動の支配である。

この支配が成功した暁には、親や教師たちははずっと子どもの勉強の面倒を見るはめになる。

子どもは支配されている以上、自分で決められなくなるからである。

大人の顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になる。

そして、勉強するかどうかということは、子どもの課題ではなく、周囲の大人の課題にすり替わる。

主体性をもった子どもとは真逆の方向に育つ。

(引用終了)

=================


勉強ができなくて困るのは、誰なのだろうか。

教師が困るのか、親が困るのか。

そんなはずはない。

勉強をすべきというのは、「こうなって欲しい」というこちら側の願望にすぎない。


他人の課題に対し、どうこう言う必要はない。

細かく口出しをするのは、信頼していない証拠である。


他人の行動に口出しし得るのは、自分が困る時である。

例えば「私の将来と名誉のためにあなたに勉強して欲しい」というのなら、まだわかる。

(わかるが、最低な理由だとも思う。)


そして、頼まれた側は「お断りします」という権利もある。

他人の権利を侵害しない範囲で、個々の自由は尊重されるのである。

自分の権利を行使するために、他人の行動に対しての強制はできないのである。


他人の課題に対しては、基本的に不親切でいいのである。

どうしても力になりたいのなら「困ったら相談に乗るから、声をかけて」という程度である。

相談するかしないかは、相手に決定権がある。

子どもに「自己決定」の機会を多く設けることが肝要である。


ついつい親切になりがちな人にこそ、『不親切教師のススメ』を是非読んでもらいたいと切に願う。

2022年8月9日火曜日

「正義」の「犠牲」にならない

 先日8月6日は広島の原爆忌、今日9日は長崎である。

毎年、世界からここでのスピーチが着目される。


ある「正義」の立場に立脚して考える。

すると「仕方なかった」となり、正当化になる。

国際社会での交渉の常套手段である。


何に「正義」を置くかで、物事の見え方は変わる。

戦争も、どちらの国に、どこに「正義」を置くかである。


「世界中の戦争を終わらせる」に「正義」を置くと、それを妨害するものは攻撃しても正しい行為となる。

「自分の国を守る」に「正義」を置くと、自国を守るための攻撃は正しい行為となる。


個人レベルに落とし込むと「家族を守るため」が第一義となることもある。

さらに個人にすると「自分の命を守るため」には手段を選ばなくなる。

以前にも紹介した「貧しいなら豊かな人間から盗んでもいい」という理論である。


要は、本当の意味の正義などというものは存在しない。

あるのは、他の犠牲を前提とした各々の「正義」である。

「セイギ」を繰り返すと「ギセイ」になるという関係である。

(これはある歌の歌詞にあった表現だが、言い得て妙である。)


学校教育にもこれは言える。

戦争中、国民教育としてセイギを教え唱え、国内外に多くの犠牲を生んだのである。

これは、日本に限らず、戦争に加担した全ての国も同じである。


これは、現代にも当てはまる。

学校においては、セイギがある。

例えば文科省や教育委員会から降りてきた命令はセイギである。

学校職員はこれに従うことが前提として働いているのだから、論理的に必然である。


さて、問題はその出処が、つまり上の機関において、何を「正義」としているかである。

そこから出るセイギが、末端の人間にとって、犠牲となっている可能性がある。


「○○調査における学力向上」

「教員の資質向上」

などがセイギとして掲げられていることが往々にしてある。

一見正しいが、あくまでこれもセイギである。


教員の資質向上ができたらいいということに反論はない。

しかしそれがどこから来たのかである。


学校現場は、問題が山積している。

そして、人手不足で大変である。

そこから

「問題教員がいるからだ」

「即戦力の教員が必要なのだ」

という発想になったと考えるのが妥当である。


しかし現場の大変さの根本は、一部の「問題教員」のせいでも新規採用者の資質の低さのせいでもない。

(この「問題教員」という言い方は好きではない。

「モンペ」と同じで、真っ当な主張や止むを得ない失敗をした人間に対しても、何か一括りにされる語感がある。)


現場を大変にしている根本は、ビルド&ビルドの発想による山積みのタスクである。

そして、それらセイギの命令に、いちいち無思考で従っているから、という見方もできる。


セイギの命令の中には、どうでもいいことがたくさんある。

「○○スタンダード」という名の命令が横行していることもある。

それらをおかしいと考えている人はかなりいる。


しかし、そこに対し、誰も声を挙げない。


それに従って「仕方のないことだ」と言う。

その時、目は濁る。

どんどん、濁っていき、やがてすべてが白黒にしか見えなくなる。


先日、ネットニュースで使われていた言葉だが「教員の奴隷化」である。

この姿は、金子光晴作の「奴隷根性の唄」という詩の通りである。

「土下座した根性は立ち上がれぬ。」のである。


ここを変える。

我々は、奴隷ではない。

志ある教員集団である。


おかしいことにはおかしいと言う。

何でも命令だからという理由では従えない。

そのためには、まず先に自分自身がおかしいことをしていないかという自己点検からである。


『不親切教師のススメ』では、そのことを訴えている。

自己主張をしているのではない。

教員も子どもも保護者も、まずは自己を尊重し、だからこそ他者を尊重して生きようという提言書である。


「正義」の「犠牲」にならない。

どんなに正当性を主張されようが、ダメなものはダメである。

自ら立ち上がり、声をあげる人が多くなれば、今とは何かが変わるはずである。

2022年8月3日水曜日

差別をするのは意地悪な人間か

 絶対的に正しいことも悪いことも存在しない。

この大前提の認識に立って書く。


主張とは、一つの正義である。

主張を一つすれば、正義が一つ生まれる。

即ち、悪が一つ生まれる。

物事は表裏一体であるので、それは必然である。


そして正義も悪も、人間が頭で作り出した概念である。

自然の創造物ではない。


他の生物を殺して食うライオンを悪とする動物も植物もいない。

草食獣は、腹を空かせた肉食獣が自分を食うと知っているから、逃げる。

そうでないものからは逃げない。


それは、悪とか善とかの概念の問題ではない。

生きるか死ぬかというだけの話である。

生物は、生きること、種を保存することに生命の全てを注ぎ、そのための選択をする。

それだけの話である。


あらゆる主張には、必ず正義(善)があり、同時に裏側に悪とみなされる概念が存在する。

一方、そこで「悪」とされている概念を「善」とみなす人もいる。

「善」からすれば先の正義は「悪」である。

「悪には悪の救世主が必要」とは、とある有名な漫画のキャラクターの台詞だが、言い得て妙である。


つまりは、絶対的な正義も悪も存在しない。

そこには一つの主張があるだけである。


前置きが長くなったが、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』 さくら社


ここで述べている主張は、もしかしたら今まで学校がしてきたことを大きく否定することになるかもしれない。

人間には「恒常性(ホメオスタシス)」があるため、変化を嫌う。

しかし、成長とは変化の中の一つである。

嫌でも、向き合う方が長期的視点で見て、プラスになる。


例えば、本文に背の順に関する記述がある。

P.119より一部抜粋して引用する。


================

(引用開始)

学校では、何かにつけて「背の順」で並ぶ。

このことに対し、違和感をもつ日本人は少ないのではないか。

小学校入学時どころか、幼稚園・保育園児の頃からあまりにも当たり前にやらされることなので、

自然にそういうものだと思わされる慣習の一つである。


冷静に考えて、背の順に並ばせるのは、身体的特徴による差別の誇示である。

背丈という本人にはどうしようもない身体的特徴を並べて比較し、小さい方から大きい方へと序列をつけて並べる。

一番小さい人と一番大きい人を確定して、誰の目にも明らかなように序列を公表する。

これが身体的特徴による差別であることは、大人が会社等でこれを強制されないというのを考えればわかる。

(体重順に並ばせるのも全く同じことである。)。

明確な差別であり、いじめの類の行為である。

(引用終了)

=================


はっきり主張しているが、書いた本人が背の順で並ばせたことがないのか。

答えは「NO」である。

これまで、当たり前としてやってきた。

つまり、これまでの自分を否定して、変化しようということである。


では、差別意識があったのか。

これも答えは「NO」である。

差別しようなんて意識が、あるわけがない。


背の順に対し、差別意識があって意地悪でやっている人など、恐らく日本中探してもまずいない。

むしろ善意であり、仕事の一環として真面目に行っているだけである。


しかし差別というのは、本人や社会にその意識がない時ほどよく行われているものであり、強力な凶器となる。

周りは何の気なしに言ったことや笑ったことに対し、本人は実は深く傷ついている、というのは誰しも経験があることではないか。

あるいは、無意識下に押し込み「そういうことを気にしたり考えたりする自分が異常で悪いのだ」と責めていることすらある。


意図していない差別というのは、これまでの歴史でもたくさんあり、反省と改善・進化を繰り返してきている。

子どもの権利条約が出されたこともそうだし、人種差別、ジェンダー差別などはまさにそれである。

例えば「ホモセクシュアルを笑う」というのは、かつてテレビメディアが先導して行い、多数の国民に喜んで受け入れられてきた。

今になって思えば、まさに負の歴史である。


実際、私も子ども時代、そういう経験がある。

テレビでもお笑いのネタになっていたこともあり、それを笑うのは当然だと思い込んでいた。

性的指向が男性という同級生は、からかいの対象であった。

私がそういうことを差別ではないかと意識しはじめたのは、高校に入って自分の頭でよく考えるようになってからである。

大学にいっても周囲から同じような差別的発言を聞いていたので、当時は社会的な意識自体がかなり低かったように思う。


では、その時笑っていた子ども時代の同級生や私たちは、意地の悪い凶悪な人間であったか。

これも答えは「NO」である。


では、なぜ子どもがそうなってしまったのか。

社会の常識、「当たり前」からである。

それは、根本的には、教育によって作られる。


学校で身の回りの「当たり前」になっていることの中には、恐ろしい差別が含まれていることがあるのではないだろうか。

それを見つめ直し、変えていく必要があるのではないだろうか。

今まで自分が当たり前としてやってきたことだけに、痛みも伴うだろうが、大切なのは、よりよい変化、成長であり、未来である。


これが、本書『不親切教師のススメ』で提案している、これからの教育の形の「主張」である。

主張である以上、一面の正義であり、悪も生まれる。

そして、この正義が悪という見方もあり得る。


様々な意見があることを覚悟の上で、本書を上梓した。

一つの主張として、考える材料にしていただければ幸いである。

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