2019年4月29日月曜日

「勉強しなさい」と決して言わない

次の本を紹介する。

『子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気』
岸見一郎著 幻冬舎
https://www.gentosha.co.jp/book/b10347.html

『嫌われる勇気』の著者といえばわかる人が多いかもしれない。
子育ての本であるが、職場を含めた人間関係全般に広く使える本である。
特に、社員や部下の育成が必要な経営者や上司の立場にある方には、ためになる内容である。

この中の一文を引用する。
===============
(引用開始)
「あなたのためにいっている」というようなことを親はいったりしますが、
多くの場合、愛情という名に隠された支配でしかありません。
(引用終了)
===============

この一文だけでも、強烈である。
「愛情という名に隠された支配」。

これは、教師にも当てはまる。

「子どものため」という言葉が、あらゆることの免罪符になっていないか。
「あなたのため」という言葉を使って、行動を支配しようとしていないか。

そして「愛情という名の支配」が成功した結果、親はずっと面倒を見るはめになる。
支配されている以上、自分で決められないからである。
「親はどう思うか」という顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になるからである。
「主体的」「自立」とは真逆の方向に育つ。

例えば、漢字練習を全くやらない子どもがいるとする。
どうするか。

多くの心ある親や教師は、「やりなさい」という。
しかし、アドラー心理学の立場では、ほとんどの場合、これは間違った行動に分類される。

なぜならば、それは「子どもの課題」だからである。

大人は、自分の課題に首を突っ込んで欲しくない。
例えば家庭のことに、職場の上司からあれこれ指示を出されたらどうか。
あなたの身体の問題に、あれこれ言われたらどう思うか。
あるいは、あなたは問題があるから〇〇の勉強をしなさいと言われて、やる気が起きるか。

成人した人であっても、親に首をつっこまれることは多い。
例えば親から自分の結婚しようとする相手に対し、「この人はいい」「この人はダメ」とあれこれジャッジされたらどうか。
友人の方がまだ的確な見方をするかもしれないが、これも「参考」程度にすべきである。
そして、周りの指示に従って結婚した相手との生活が「最悪」だったらどう思うのか。
「私はこういったのに」と、恨みがましいことを言い出す可能性もある。

どれも、自分の課題に他人が首を突っ込んで、それを受け入れ、託してしまった結果である。

先の漢字の話に戻ると、勉強とは明確に子ども自身の課題である。
断じて、親の課題ではない。
もしそれも親の課題だとかいうなら、将来的に子どもを支配しようとしている可能性がある。
そして、一生勉強で面倒を見る覚悟がいる。
勉強は、学生時代だけでなく、死ぬまで一生続くものである。

この本の中では、このことについてさらに強く警告している。
勉強を親の課題にすり替えることで、子どもがより勉強しなくなるというのである。

つまり、口出しすることで、子どもにとって
「勉強ができない」=「親が悪い」or「教え方が悪い」
という、他人の課題になる。
そして、より勉強しなくなるという悪循環に陥る。

なぜか。
「勉強しない」ということで、「可能性の中」で生きることができるからだという。
この場合「あなたはやればできるのに」は、負の行動強化の言葉がけになる。
子どもは「やってもできない可能性」を潰す方向に行く。
つまり、勉強をずっとやらなければ、できない自分が証明されないのである。
行動しない方が「安全・安心」が保証される訳である。

失敗を恐れて行動しない、ということにもつながる。
失敗しない人間より、試行錯誤する人間になる方が大切である。
そこを学ぶには、自分でチャレンジするしかない。
何でも周りのせいにする人間では、どうにもしようがない。

他人の課題に首を突っ込まない。
親は「勉強しなさい」と一切言わない。

これは、教師も同じである。
教師の側の努力は、子どもに勉強を強要することではない。
勉強が楽しい、やりたいと思えるような環境を整え、授業をすることである。

これは、子どもに阿る(おもねる)のとは全く違う。
受動的な「楽しさ」をサービスして媚びるのとは全く違う。
新しいことを知る喜び、学ぶ喜びに触れさせることである。
自分を含めた誰もが「無知」であることに「ハッ」と気付かせることである。
もっと学びたい、もっと自分を磨いて役立てたいと、人間を謙虚にすることである。

勉強は、楽しい。
それを、腹の底から実感すること。
そうすれば「勉強しなさい」という言葉は出ない。
「勉強させてほしい」と言ってくる日を求めるなら、一切こちらからは言わないことである。

これは、保険のトップセールスマンと同じである。
うちの保険に入りなさいなどと決して言わない。
お客さんの方から入らせてほしいとお願いされるという。
「売らないこと」が極意だと読んだことがあるのを思い出した。

ともあれ、そう言わないで勉強する子どもに育てたいと願うのが親である。
その手法が気になる方は、この本を一読することをおすすめする。

2019年4月27日土曜日

「かかし」にならない

次の言葉が心に引っかった。

「すぐに鳥の遊び場になってしまうかかしになってはいけない。」
(「賢人の知恵」バルタザール・グラシアン著  齋藤慎子訳 ディスカバー より引用)

「ときには強い感情を表に出す」という項の中の一文である。

かかしというのは、詩や文学作品等において、しばしば「滑稽なもの」の象徴として登場する。
かかしは、威張って立っているようでも「こけおどし」だからである。
鳥程度にもすぐに見抜かれてしまうのである。
中身がなくて感情もなく、どうせ動けもしないのだから、怖くもないし、馬鹿にし放題である。

一応「だめだぞ」ということを存在としてアピールはしている。
しかし、鳥は「全然へっちゃら」で無視して、稲穂をついばんでいる。
その時、かかしは、「そこに立っているだけの存在」である。

「かかし教師」。
これほど切ない立場はない。
目の前で繰り広げられる横暴に、為すすべもなく、立ち尽くす。

かかしのように立っていても、鳥に遊ばれていても、それで教室が機能しているのならいいのである。
しかしその場合、そこに立っているのはきっとかかしなのではなく、かかしに見せかけた中身のある人物である。

「指導の行き過ぎ」がしばしば新聞で問題になる。
ただ「かかし」状態に比べたら、少なくとも人間としての尊厳はある。
人間は、子どもでも大人でも、馬鹿にされたり傷つけられたりしたら、腹が立つ。
この場合、感情が爆発した後に「下手な言動をとること」が問題なのである。

本来は、感情が爆発したら、とにかく一旦そこから離れる必要がある。
あるいは、そういう状態にならないような手を事前に打っておく方に力を注ぐ。
怒った後の感情自体をコントロールしようと「不自然」を目指すから、うまくいかないのである。

逆に、「かかし」状態の教師は、なぜ口も手も出せないのか。

指導に自信がない(=自身がない)のである。
目の間の事態に、どうしていいかわからないのである。
「困った教師」と言われ批判されるが、実は本人が一番「困っている」のである。
(無責任な批判や非現実的な方法の提示は、どんなに無知な者でもできる。
真の建設的な批判には、自分なら本当にどうにかできるか、その手立てを示せるかが問われる。)

下手なことを言ったりやったりすれば、その後が怖い。
先の「指導の行き過ぎ」問題が脳裏をよぎり、「指導のしなさすぎ」になる。
保護者、管理職、教育委員会からどんな「クレーム」「指導」が入るかわからない。
本来味方のはずの存在が、敵に見えている(あるいは本当にそうなっている)。

これが高じてくれば、「かかし教師の増産」につながる。
その一番の被害者は、子どもである。
かかしに教わることは、虚無感以外何もない。

どうすべきか。

社会や他者の側に変わってもらおう、わかってもらおうなどと虫のいいことを考えない。
教師の側が主体的に変わるしかない。

まずは若手かどうかを問わず、最低限の学級経営に関する教育技術を全員が身に付けること。
根拠ある理論も信念もなければ、屁理屈にすら対抗できないのである。
「子どもをよりよい方向に導く」という基本方針にきちんと見合うねらいがあれば、少なくともものは申せる。
その言動に理論も信念も理由もないから、相手も怒るのである。

「手段」も大切だが、「理念」「信念」「哲学」も同じかそれ以上に大切である。
だから、ハウツーだけの本やセミナーよりも、そこを学べるものの方が重要である。

そして本を読んだり話をきいたりしたことは、とにかくすぐに確実に実践すること。
子どもは、大人の言葉ではなく、背中(行動)を見て育つ。

例えば、道徳科の授業をどんなに充実させても、それ「だけ」では残念ながら全く意味がない。
道徳科の授業は、単品では使えないのである。
教師がそれを実践していない、心から大切だと思っていないなら、無意味どころか、害悪ですらある。
自身がこけおどしの「かかし」に近づくだけである。

だから、道徳科の授業は、最も難しい。
教える側の人間性がそのまま出る。
同じ教科書を使っても、その効果が全く異なる。
道徳科の授業自体を勉強すると同時に、自身の修養の時間を優先的に確保する必要がある。

かかしにならない。
これは、教師だけでなく、親にもいえる。
あれこれ口出ししすぎも問題だが、大人が「ただ威張ろうとしているだけ」の存在では、あまりに頼りないということである。

一見気安くされているようで、一面で尊敬もされているというのが、本来目指すベストな状態である。

2019年4月25日木曜日

負へのニーズといじめ

普段から、テレビを全く観ない。
ある日の土曜日の夕方、テレビのついている環境にたまたまいた。
そこで我が子たちと一緒にニュースを眺める状況になった。

最初に流れたのが、スポーツ界の若きスター少女たちの大活躍のニュース。
つづいて、海外の歌手の、少女たちへの連続暴行事件。
ニュースキャスターの方も、また余計なほどに詳しく事件について解説してくれる。
何気なくチャンネルを変えても、同じニュースがやっていた。

これは、意図があるのか、あるいはないのか。
私はメディアの裏側に詳しくないのでわからない。
ただせめて、もう少しニュースの種類を、棲み分けできないのかと思う。
(心理学的に計算されていて、わざとなのかもしれないが。)
深夜ならまだしも、お茶の間の団欒の時間に流すニュースとして、これが相応しいのか、甚だ疑問である。

世の中の負や悪の面を知ることも大事だ、という意見もある。
しかし、その手の情報については、そんな気を遣っていただかなくてもいい。
ご親切に、テレビ以外にも生活の至るところに溢れていて、常にお腹いっぱいで吐きそうである。

何で多くの人に一生無関係な、海外での婦女暴行事件をわざわざニュースで流さないといけないのか。
「悪を世に問うためだ」などといくらでも理屈はつけられるだろう。
しかし実情は単に、不謹慎にも「それが面白いから」ではないかとしか思えない。

スキャンダルや凶悪犯罪、殺人事件の類が、多分人々にとって「興味深い」のである。
その方が売れる(=視聴率がとれる)のである。
人間の中に、負や恐怖への欲望、渇望がある。
ホラー映画や猟奇的な漫画等がヒットするのも、欲望の根本は同じである。

欲望への否定は、どんなにしても無意味である。
多くの人が求める以上、「価値」が確実にある。

ここでいう「価値」とは、世の役に立つとかいう高尚な類のことではない。
多くの人が求めるということ、「ニーズ」のことである。
いいか悪いかとは全く別の次元の話である。

本質的には良くないものだけど、ニーズが多くて広まっている、というものは確実に多く存在する。
SNSでの「馬鹿騒ぎ」もその一つである。
(社会のモラルに反してもとにかく目立てばいいという安易な発想の投稿などは、本当に止めて欲しい。
それを観る方も観る方である。
買われる、あるいは見た跡がつきさえすば「勝ち」=「価値」なのである。)

いじめも、欲の発露の一種である。
暴力・暴言を振るうことによって、みじめな自己顕示欲を満たす。
相手を痛みつけて相対価値を下げることで、脆い自分の存在価値を確かめたいという欲望。
大人にも子どもにも同じようにある。
脆くて弱い人間が偽りの「安心感」を得るための、卑劣で哀しい行為である。

ちなみに、痛みつける相手は、自分より価値の高いと思える相手、あるいは罪が深いと思える相手ほど、快楽効果が高くなる。
特に素晴らしい人物が「磔(はりつけ)」になった時は、普段弱い人間ほどつるんで「石を投げる」行為に及ぶ。
ここぞとばかりに「正義」を振りかざして、快楽を得る。

誰かに落ち度があっても、だからいじめていいということにはならない。
キリストの「あなたがたの中で罪のないものが石を投げよ」という言葉があるが、実に聡明である。

実に嫌だが「いじめの快楽」を引き起こす現状がある。
母親の「抱っこ」等の根源的な部分が不足して、自己の存在感を満たしきれていない子どもが相当数いる。

ここに人間の「負への欲望」が根本にある以上、根本的にいじめをなくすというのは、理想論ではあるが現実的でない。
全員の人間の負の欲望そのものを「浄化」できればいいが、この世界の環境、状況を見ると、到底望むべくもない。
子どもの周りにも、負の欲望を引き起こす情報が溢れているのである。
いつでも「ある」前提で、対処できるように常に構えておく必要がある。

人間の抱える、負へのニーズ、欲望。
目を背けたくなるが、教育において避けては通れないと感じた、久々にテレビを観ての出来事だった。

2019年4月23日火曜日

足し算より引き算で考える

ある企業の方から頂いた言葉。

「松尾さんは、引き算の人だよね。」

確かに、普段から「足し算」よりも「引き算」で考える習慣がある。
『「捨てる」仕事術』も、引き算の本である。

学校は、基本的に足し算が多い。

新しい学習内容が増える。
行事も増える。
前のものをなくさずに、どんどん付け足していく。

指導案一つとってもそうである。
様々な人からの「指導」「助言」が入り、言葉がどんどん付け足される。
そうすると、読む気のしない分量の指導案ができる。
一般企業の方に見せたら多分「A4用紙1枚以内でまとめられる内容だよね」と言われる。
(企画は1行で書け、という人もいるぐらいである。)

学校現場は「ハウルの動く城」みたいになっている。
何かの魔法がかかっているらしく、なぜか持ちこたえているが、今にも自重で潰れそうである。

引いた方がいい。
捨てた方がいい。
本当に大切なものが、埋もれて見えなくなってしまっている。

教育用語も、どんどん新しいものが出てくる。
新しいために明確な定義がない。
意味不明なので、有識者が何とか意味をつけ、定義づける。

しかし次々に出版される「〇〇とは」の数々を必死に読んでも、多くはやはり意味不明である。
(そもそも教師の側は足し算の日々に忙しすぎて、それを読む時間も意欲もないかもしれない。)

「あなたの頭が悪くて理解できないだけだ」と言われるのが怖いので、とりあえずわかったふりをする。
嘘と偽りの厚塗りである。
そのうちみんな「カオナシ」みたいになるかもしれない。

例えば物が増えるのも、足し算発想である。
足し続ければ、当然物が溢れる。
引き出し自体の大きさは、決まっているからである。

人間関係の広がりも、足し算である。
SNSは、やっているだけで、どんどん「友達」が増えていく。
「♪ともだち100人できるかな♪」も、余裕である。
年賀状は、丁寧にやっていれば、年々着実に枚数は増えていく。

それを、喜びと感じられるなら、足していけばいい。
しかし、重荷や窮屈さを感じるなら、引く必要、加えて、足しすぎない工夫がいる。

引き算の人。
人によっては「冷たい」「ドライ」と受け取るかもしれない。

引き算の発想では、余計なところに熱を注がない。
引くことによって余力の熱が生じる。
それを、集光レンズのように、本当に必要なところにすべて注ぎ込む。

教育の新用語が出てきても、焦って何か新しいことをしようとしない。
逆に、余計なものをやめる方が先である。
そうすれば、空いた余白に何か書き込めるかもしれない。

例えば「宿題」とか、もう存在自体を相当に見直す時期に来ている。
昭和の時代と違い、授業時数も増え、習い事も多種多様になった。
子どもの放課後の自由時間というものはほとんどない。
子どもの側にも親の側にも、あれに割く余白の時間がないのである。

引き算の人。
とても気に入った。
力強い言葉は、いつでもシンプルである。

2019年4月21日日曜日

罪悪感と正義 その2

「正義」について。

大人になり、力がついて自分より立場が弱い者の前に立つと、これを振りかざすようになる。
幼少期に自分が受けた苦痛を、弱い立場の相手に対し間接的に「復讐」する。
「悪はやっつけていい」のである。

飛躍しているように聞こえるかもしれない。
しかし、掘り下げると、どの人にとっても恐らく「中らずといえども遠からず」ではないか。

だから、子ども時代に制約もなく豊かに自由に生きてきた人には、恐らく罪悪感はない。
制約を必要としない社会に育った場合も同様である。

極端な話、一般的なブラジル人は時間に対しての罪悪感が比較的少ないと考えられる。
多分、幼少期から、時間のことでどうこう急かされた経験が少ないのではないかと思われる。

一方で、一般的な日本人は違う。
幼少期から「早くしなさい!」「間に合わなくなるでしょ!」がかなりある。
小学校に入っても、中学、高校、大学、社会人になってまでそうかもしれない。
都心部では、毎朝、電車を降りた直後に集団で階段をダッシュしていく姿をみられるほど「時間」に縛られている。
やっと時間を考えずにゆっくりできるのは、老後のみかもしれない。

つまり、日本で会社勤めして働いていると、時間に対しての罪悪感をもつようになる。
当然、人にも求める。
電車が10分遅れてくるなんて迷惑千万、謝罪しろ、みたいな発想になる。
冷静に見て「病気」である。

幼少期にこしらえた罪悪感を、放置したまま生きていないか。
慢性の病気のような状態で過ごしていないか。
それを、子どもにまで感染させていないか。
周りの人々にもまき散らしていないか。

罪悪感を手放せればいいのである。
そのためには、幼少期の記憶の堀起こしである。

どこかで、誤認をしているはずである。
最初に挙げた例でいえば、幼少期に親の夫婦喧嘩を止めることは不可能である。
「あんたのせいで」あるいは「あなたのために」、どちらを言われていようが、子どもに全く罪はない。
子どもがきちんと言語化して親に伝えることができれば「すべてあなたの選択でしょう」である。

だから、罪悪感をもつこと自体が誤りであると再認識する必要がある。
「幼少期の○○さん、判決、無罪。」をはっきりと言い渡す必要がある。
そうしないと、周りの人をも同じように傷つけるからである。

遅刻に腹が立つのはなぜなのか。
忘れ物に、宿題忘れに、だらしないのに腹が立つのはなぜなのか。
努力しない人に、わがままな人に、無愛想な人に、不機嫌な人に、腹が立つのはなぜなのか。
そしてその人たちは、存在してはいけないのか。

罪悪感の扱いは、教育の根本にも関わると考える次第である。

2019年4月20日土曜日

罪悪感と正義

最近の気付き。
学級経営だけでなく、人生に関わる考え方について。

すべてのうまくいかないことの根源に「罪悪感」がある。
腹が立つことも、「ねばならない」「〇〇すべき」も、根源はこれである。
自信がないのも、自信過剰なのも、すべてこれである。

罪悪感は、幼少期に作られる。
幼少期の「インプリンティング」、無意識への刷り込みである。
真っ白な状態に刷り込まれているので、内容がどんなに理不尽であっても抵抗できないし、気付けない。
ここは、需要なポイントである。

例えば、幼少期に父と母の夫婦喧嘩を止められなかった無力感。
ここから、「自分には力がない」という誤認と、「人を助けられない人間はダメ」という罪悪感が生まれる。
この反動として、力や地位を追い求めたり、自己犠牲を払ってでも人助けをするようになる。
これが長じると、努力をしない人を責めたり、人を助けない人を非難するようになる。

例えば、自分が何か邪魔されることに腹が立つ。
これは、親のやることを邪魔をすると叱られた記憶があるかもしれない。
あるいは、手伝おうとして邪魔にされた記憶かもしれない。
要は「やりたいことを自由にやっていはいけない」「我慢が大切」という幼少期の記憶である。

これは、そのまま自己の無力感にもつながり、自分の存在の否定にもつながる。
または、やりたいことをやる人はワガママでダメという考え方を形成する。
例えば子どもを見てワガママだ、と感じるのであれば、それは羨望にも似た恨みの感情ともとれる。

例えば、仕事でも何でも、成績が悪くなると落ち込むという場合。
「勉強しなさい」と言われ続けた、あるいは良い成績の時だけ褒められた幼少期を疑う。
結果主義になる。
他人にもそれを求め、子どもにも「できることがよい」「できないのはダメな人」という価値観を押し付けるようになる。

一方で、幼少期、親が自分に対し無関心で育った子どももいる。
自分が泣いても騒いでも、親はスマホをいじっている。
何をしても、関心をもたない。
たまに「うるさい!」と叩かれることはあるが、それは自分のためではなく、親に迷惑をかけるなというメッセージである。

ここから作られる「罪悪感」は、存在の否定である。
自分の存在は無意味である以上、存在すること自体への罪悪感をもつ。
あるいは、人の機嫌を損ねることへの罪悪感である。

これらすべての罪悪感は、自分に向くことで、同時に他人にも向く。
自分が制約されているのだから、相手にも制約を課して「当然」である。

それが「正義」。
罪悪感によって作られた正義である。

続きは次号。

2019年4月19日金曜日

掃除は、快楽。

昨年度の金大竜先生を招いてのセミナーでの気付き。

「掃除は、快楽。」という言葉があった。
なるほど、そこまで極端に考えたことがなかった。

言われてみれば、掃除は快楽である。
だったら、やりたくない子は放っておけば、という考え方も有り得る。
現に、ほとんどの諸外国ではやらないことである。
教育的に効果が高いが、全員にそれを保証するかどうかという話である。

「掃除が嫌」という人は、自分の手が汚れるのが嫌という場合がある。
つまり、きれいな状態は好きなのである。

人間は、本能的にすっきりするのが好きである。
汚いところがきれいになると、単純に嬉しい。

掃除で、誰にも手をつけられていない、ほこりの溜まった箇所を探すのが好きである。
宝探しの感覚である。

トイレ掃除は一番わかりやすい。
やるとものすごく気分がすっきりする。
なぜなら、一番汚れるからである。

度々参加させていただいている「被災地に学ぶ会」でも、何度も同じ経験をしている。
荒れ果てた敷地の草を刈ったり竹を切ったりして整地すると、すっきりする。
後になって「人のお役に立てた」という感覚もあるかもしれないが、暑い中で作業に没頭している間も苦ではない。

ヘドロ状態の土が詰まった溝を、スコップを使って汗まみれで開通させた時も、ものすごくすっきりする。
結局、きれいにすること自体、本能的に好きなのである。
いわゆる「ボランティア活動」が苦にならないための条件の一つかもしれない。

そう考えると、掃除をさぼっている子どもに対し、感情が変わってくる。
まず自分自身がきちんとやった方がよい。

ただ、真面目にやっている子どもの妨害だけはさせない。
やらないならまだしも、邪魔をするなら話は別である。
(問題は、やらないでおしゃべりしているだけで、掃除の邪魔という点である。)

邪魔にならない場所で大人しくしてもらう必要がある。
「そこ、どいてくれる?」と声をかける必要も出るかもしれない。

やらないなら、代わりにやる必要も出る。
与えられた分担以上に、進んでやりたいという子どもにぜひ任せたい。

究極、勉強しないのも、運動しないのも、本を読まないのも、掃除しないのも、根っこは一緒である。
多分、本人がそれを好きではないのである。

がんばっているのにできない、という話とは違う。
そもそもどうしても楽しめない場合は、「合わない」のである。

教師の「全員を救って導こう」という姿勢自体は尊い。
しかしながら、1の労力で10効果の出る相手を捨ておいて、100かけてもマイナスにしかならない方を優先的に相手すべきどうか。
無限にリソースがあるならばそれも可能だが、残念ながら全て有限である。
中途半端な気合いでは、感謝されるどころか、迷惑がられるだけである。

掃除は、快楽。
楽しいから、やる。

考え方一つで、また景色が違って見えるような気がしている。

2019年4月17日水曜日

その手法の根拠を問う

読者の方から、一つ問題提起となるメールが来た。
一部改変して紹介する。

==================
うちの子が通う小学校では、運動会の徒競走は、事前にタイムを測って、遅い順から組ませている様子です。

なぜそんな事をする必要があるのか、とても疑問です。
運動会で花形になる子達がいていいじゃないか、みんなですごいね!と言ってあげればいいじゃないか、と思ってしまいます。

そして、もっと怖いと思う事は、子ども達がそのやり方を知っていて、タイムを測る時に、力を抜いて走るのです。
子ども達が、それを自慢げに話しているのを聞き、愕然としました。
「だから今年は1位取れそう」って。

これって完全に真逆のメッセージを子ども達に伝えていませんか。
他の学校でも聞いた事があり、このやり方は、よくあるやり方なのでしょうか。
そして、何か理由があるのでしょうか。
===================

どうだろうか。

この指摘の通り、本来目指す方向と真逆に育つ。
子どもは、賢いのである。
子どもにとって、運動会の徒競走の順位は、結構な重大事である。

なぜ教師の側もこの方法でやるのか。

そこについて、特に深く考えてない、あるいは気付いていないからである。

教師の立場をかばう訳ではないが、そこに悪意はない。
むしろ、「こうするとよいだろう」という善意である。

なぜ?
気付いていないからである。

理由は?
深く考えていないからである。
前例にならってしまうからである。

何のためにやるのか。
それは、子どもが逆の方向に育たないか。
そこに思いが至らないのである。

こういうことは、学校の中に結構な割合である。

「毎年そうだから」とか「ずっと前から当たり前」とか「思い付き」とかでやっていないか。
いつもやっていることを、「当たり前」で片付けてしまう。
反省的思考がないこと自体が問題なのである。

競わせたりランクをつけたり点数にこだわったりする際、この「負の教育効果」を発揮しやすい。
行うならば、子どもの思考と心がそれでどう育つか、結果をよくよく考える。
特に能力別のグループ分けや序列は、かなり慎重に方法を検討しないと、大失敗しやすい。

それは本当にいいことなのか。
あるいは、本当にいるのか。
何のためにやっているのか。
当たり前のように採用している方法すべてに必要な「仕分け・検討作業」である。

2019年4月15日月曜日

「正解」とは「好き」の異名

昨年度末に、大阪の金大竜先生を呼んでセミナーをした際の気付き。
以下、全て私の解釈である。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という慣用句がある。
講師の金先生は、この言葉通り、会う度に変わる人である。
教育の手法だけでなく、在り方そのものが変わっている。

それはつまり、自己否定である。
それは同時に、自己受容である。
過去の自分は過去として認めつつ、今の自分の変化を受け入れ続けるということである。

人は誰でも、その時の精一杯を生き続けている。
振り返って間違っていると思われる選択でも、その時々の最善と思う選択をしている。

過去の教え子たちに申し訳なく思う。
教師なら、きっと誰でも思うことである。(親から我が子に対しても、そうかもしれない。)

一方で、それがその時の最善を尽くした結果だと認める。
だから、今は今で違う選択をとる。
自己否定と自己受容の連続である。

セミナーの最後に参加者全員で振り返りを書いて話し合った。
私は次のように書いた。

1「正解」はそれぞれの中に。
2自分の道を進むしかない。
3道程で他から学ぶ。

1は、人には人の数だけの正解、正義があるという意味である。
好みと同じで、千差万別。
たまたま嗜好が合う人もいれば、真逆もいる。
「正解」とは、「好き」の異名である。
だから教師は、子どもたちに自分の正解(好き)を絶対として押し付けないことである。

親が我が子の結婚相手や将来の道に反対する行為も、これに当たる。
親の正解(好き)の押し付けである。
それを受け取るか否かは、自分の選択次第である。
親子といえど、そこは「他人」である。

2は、それでも自分が正解と思われる道を進むということ。
人を導く立場にある人は、今自分が正しいと思うことを伝える。
絶対的に正しくはないかもしれない。
しかしそれを怖れていては、何も教えられない。

もしかしたら、趣味が合わずについてきてくれない子どももいるかもしれない。
それも相手の選択である。
私を認めてもらうように、相手も認めるというのが平等な関係性である。

3は、進みながら考えるということ。
絶対の正解でないと動けないとなると、何もできない。
動きながら学ぶ。
違うなと思ったら、さっと方向転換する。

気付くには、自分自身の俯瞰である。
他者から学ぶことで、自分の誤りに気付きやすくなる。
他者の姿が「他の方法もあるよ」と示してくれる。
自分の中の「正解」が変わるかもしれない。

「正解(好き)」を問い直してくれる、貴重な時間を過ごさせていただいた。

2019年4月13日土曜日

桜梅桃李

私の大好きな、ある作家の言葉を紹介する。
=============
先生の一番大きな役割は、子供が持っていないものを教えるのではありません。
子供が持っているものをほめてあげることなのです。
==============

教えるということは、外的に何かを装備させていくようなことではない。
車をいじって改造したり、洋服を素敵にコーディネートするのとは違う。

教えるということは、内的なものを引き出す作用である。
植物が枝を伸ばし、葉をつけ、実をつける過程と同じである。
教える側ができることは、土づくりから始まり、水やりを続け、日を当てることである。
実りを待つ作業である。
当たり前だが、別で出来上がった実を枝にひっかけることではない。

「桜梅桃李」という言葉が好きである。
そのまま「おうばいとうり」と読む。
それぞれが独自の花を咲かせる、という意味である。
桜に桃の実をつけろというのは、愚か者の言うことである。
李(すもも)に桜の花を咲かせようとするのは、不可能である。
桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李だから、素敵なのである。

単純に植物と違うのは、人間の方がかなり多様性があることである。
例えば、同じ親から生まれた兄弟の持つ能力は、大抵、真逆である。
兄はこうなのに弟は、ということがよくある。

比較が無駄なのである。
兄弟といえど、全くの別種とみなすのが正しい。
同じなのは、環境だけである。
環境が同じなのに、全く違う育ちをするのが、別種という証である。

教える立場にある人は、これを忘れないことである。
あくまで持っているものを褒める、認める。
子どもの能力を「引き出す」作業である。
つまり、前段階として「見抜く」という技術がいる。

もっと前の段階として、再三述べている「存在を認める」がある。
とにかく、存在価値があるということ。
これから伸びてくるから大丈夫と、何度でも言うこと。

実は子ども以前に、大人にこそ伝えたいメッセージである。

2019年4月12日金曜日

楽しさと学校ルールを考える

メルマガではバレンタインの日に書いた記事。
(ブログがすっかり2か月遅れになってしまっている。
しばらく発行頻度を上げて追いつかせる必要があるかもしれない。)

幸いにも私は低学年の担任なのであまり心配がないが、高学年担任の時は何かと気を遣う。
(低学年相手には「当たり前ですが、学校にチョコをもってきては絶対にいけません。」で終わりである。)

子どもたち、特に高学年女子や中高生にとって、そもそもの起源や意味とか、学校ルールとかは関係ないようである。
要は義理チョコ、友チョコ、本命チョコの日である。
要は、生徒指導事案が起きやすい日である。

こういう「あまり触れたくない生徒指導」系には、目をつぶるという選択肢もなくはない。
もう大人に近い中高校生相手ならその選択肢もある。
しかし、ここは一つ学習のチャンスでもある。
そして、特に思春期入口の小学生はこれを放置すると、意外なトラブルになることもある。
結果的には何かが起きるかもしれないにせよ、やはり先手をうっておくに越したことはない。

基本スタンスは原則通り「学業に不要なものの持ち込み不可」である。
ここは、崩さない。
ハロウィンと同じである。
学校とは別で楽しむ方法はいくらでもあるので、工夫すべきである。

楽しければ何をしてもいいとはしない。
周りが「みんな」破るから、駄目なことでもやっていいというのは、最も危険な考え方である。

この「みんな」が曲者で、嘘である。
学校のルールに反することにひどく罪悪感を抱いている子どもがいる。
そういう子どもは、クラスに確実に一定数存在する。
そこから「どうしよう」と相談されることがある。
そういう真面目な人を、ルール違反に加担させることになる。
しかも、元が善意のはずなので、ばれて相手を傷つけたくないという負い目から、担任に相談もできないというのがほとんどである。

公然としたルール違反を、楽しさや善意等を盾に通そうとするのは、困る人や傷付く人が出るのでやめた方がよい。
そこは教える。

楽しいことは、ルールの上で行う。
もし不服であれば、ルールを変えるほどの動きをする必要がある。
学校には、クラス会議の場だって、児童会だってある。

学校ルールを変えるほどの提案ができるのであれば、話は別なのである。
そういう動きをする子どもたちに育ったら、学校はもっと面白いことになる。
昔はよく「お楽しみ会」的に保護者を巻き込んでの持ち込み会食などもあったそうだから、本来は不可能ではないはずである。
(恐らく、なくなっていった背景として、アレルギー問題はかなり大きいと思われる。)

逆に、属している集団に正当で明確なルールがある以上、それに従うというのは、最も原則的な指導事項である。
そうでないと、何を教えても無駄ということになる。
そもそものルールを疑うというのは、そのルールのある理由、背景を考える良い機会にもなる。

何はともあれ、とにかく平日のバレンタインというのは、何かが起きる。
どこまで手や口を出すか、あるいは目をつぶるかというのは、個人の裁量にお任せする次第である。

2019年4月10日水曜日

集団も大切にする

新元号の発表に関連して、教育者モラロジーでの学び。

国家が不安定になる→国民が不幸になる
というお話があった。

論理的に考えて、当然のことである。
ここに関連しての気付き。

国を大切にしよう、というのは、右だ左だという思想の問題ですらない。
自分の所属する集団がピンチになれば、自分もピンチになるから大切にしようという単純な話である。

逆に、国家を転覆させようという運動が盛んになっている国もある。
どこも、政権が不安定すぎる状態である。
国民の大方が既に不幸な状態である。

教育基本法の第1条(教育の目的)を引用する。
===================================
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
====================================

この目的に沿って子どもを育てるというのは、国と国民そのものを守ることにつながる。
世界の信用に足る国民の育成である。

これは、国という大きな単位ではなく、学級レベルからの教育でもいえる。
学級が不幸集団になれば、自分も不幸になるというのは、容易に実感できる。
自分だけが幸せならいい、という個人の集まる集団は、全員が間違いなく不幸になる。

子どもたちを「平和的な学級」の形成者として、真理と正義が通る集団に育てる必要がある。
それぞれの個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじる集団にする必要がある。
その上で、自主的精神に充ちた心身ともに健康な子どもの育成を期して計画的に運営していく責務が、担任にはある。

自分さえよければ、集団はどうでもいいという子どもには絶対にしない。
自分も幸せ、仲間も幸せという状態を愛する子どもにしていく。

それには、子どものもつ能力を伸展させることである。
それには、子ども同士をつなげることである。
自分の存在そのものを認め、他人の存在そのものを認めることである。
差異を「明らかに認める」ようにしかけていくことである。

国への誇りをもつことは大切である。
しかし、それには長い時間がかかるかもしれない。
まずできることとして、子どもが自分の学級、学校、そして地域への誇りをもてるようにしたい。

2019年4月8日月曜日

存在を肯定する

前号の「理不尽な言動」の話の続き。

理不尽なことは身の回りに溢れている。
むしろ、それを理不尽で不当なことだと自覚しているかだけが大切である。

例えば、親からいただいた身体のことについて、他人にどうこういわれる筋合いはない。
背がどうだろうが、体重がどうだろうが、どんな顔の作りだろうが、どんな肌の色だろうが、他人には関係ない。
前号でも書いたが、そこで人をいじめることは、完全に理不尽であり、不当である。

大人なら、中には自分の生活習慣次第で左右できる面もあり、多少の負い目もあるかもしれない。
ただ少なくとも、子どもにとっての様々は、本人の意思とは無関係である。

恐ろしく劣悪な環境で育つ子どももいる。
とてつもなく恵まれた環境で育つ子どももいる。

それは、本人の罪でもなければ、功徳でもない。
完全に、与えられた環境である。
「そういうもの」というだけである。
卑下するのも偉そうにするのも、両方間違いである。

存在そのものの肯定。
大人が子どもを見る時にも、この考えは根底に必要である。

無意識に、教師、あるいは親は、子ども同士を比較して見てしまう。
ある一定の価値基準を設定し、比較して優劣、〇×をつける。
教師には「成績をつける」という業務がある以上、現状これは避けられない。

(本音を言うと、本当につまらない作業だと思う。
今の子どもはただでさえ外部で評価されることが多いのだから、小学校の成績なんてなくなればいいのにとずっと思っている。
日常生活の中で自然に存在を認めてあげ続ける方がずっと価値がある。
だから、本でも書いてある通り、あの作業はさっさと速攻で終わらせるに限る。)

他者との比較は、基本的に有害である。
製品等の比較検討とは、根本が違う。
子どもはそれぞれに、全く別の生き物である。
ライオンとペンギンの存在の優劣を比べるようなものである。
何を基準とするかで全く変わる。
存在価値に優劣はない。
異なる全ての生命に存在価値がある。

確かずっと以前にも紹介した話だが、再び例に出す。
ある自然実験。
サバンナの一部を枠で囲む。
本物の自然状態との違いは、中にライオンのような肉食獣がいないということだけである。
草食動物にとって、完全な平和が築かれるはずである。

結果はどうなるか。
「自然崩壊」である。
自身が食われないことにより、草食動物が異常繁殖する。
餌である植物が激減する。
植物に関わる生物が死滅する。
即ち、平和の享受者となったはずの草食動物も、死滅する。

肉食動物一つで、これである。
他の生き物を取り除いた場合にも、同様の現象が起きる。

結局、多様性こそが、完全な調和をもたらす。
違っていいというより、違わないと困る。
個人の好み一つとっても、色々あるから調和が保たれるのである。

理不尽な扱いを理不尽と認める。
違いはあっていいのではなく、あるからいい。
いじめ問題の根本にも関わる視点である。

2019年4月7日日曜日

理不尽な言動の思いを汲む

「教育者モラロジー」という会での学び。

ここでの、実践発表者の方の話が心に残った。

子ども時代、身体つきのせいで、不遇な思いをしたという。
「デブ」とからわれる。
手が出る。
先生に倍怒られる。
その理不尽さに更に不満がつのり、また手が出る。

全く納得の話であり、教師としても親としても自戒すべき話である。

「手を出したら負け」は、真実である。
大人でも同じで、暴力行為は裁かれる。

しかしながら、暴言を吐かれ続ける子どもに「我慢しろ」の一点張りは、無理である。
「いじめられる方にも原因がある」論になる。
身体的特徴が原因だとしたら、どうすればいいのか。

言われないようにしなさいなど、アドバイスにすらならない。
自責と他からの叱責の二重の責め苦である。

この、やったやられた、どちらが先か後か論争は、やればやるほど無意味である。
この例の子どものような場合、手が先に出たにしても、その根本的な原因がずっと以前までの関わりにまでさかのぼる。
当然、教師の言葉など届かない。
信頼できないからである。

どうするか。

理不尽さを理解してあげることである。
あり得ない行動の陰には、想像を越えた理由や苦しみがある。

親や教師の側も、その理不尽さにどうしても腹が立つかもしれない。
腹が立つのは仕方ない。
人間だから当然である。
ただ、「とはいえ、わかる。」という姿勢だけはもつことである。

トラウマ的な体験がある子もいる。
ものすごい家庭環境に育っている子もいる。
本人にしかわからない苦しみがある。
大人と同じである。

理不尽さを汲んでみる。
手が出てしまう、悪態をつく子どもの背景に思いを馳せる。
発表者の方の本音のメッセージから、多くの気付きをいただけた。

2019年4月6日土曜日

見えないから教えて

何かの問題が起きる。
その時「気付かなかった」というのは、最もお粗末な言い訳になる。
(一方、気付いているのに放置していた、というのは道徳的な面で問題である。)

気付くのは、努力ではなく、工夫。
気付かないのは、心がけの問題というより、工夫が足りないのである。
気付けない仕組みを変える工夫である。

例えば、今児童へのアンケートは義務化されている。
いじめや虐待の発見につながるからである。
有効な手段の一つである。

いじめや虐待は、学校の目の届かないところで行われる。
わかるようには、絶対にやらない。
どんなに目を凝らして監視しても見つからない。
この自覚の上に立つから、書かせるという工夫が出る。

子どもと保護者から何かしらのサインが出る。
そこに気付ければ、初めて有効な手をうてる。
軽視しないことである。

私の新刊の表紙には
「いじめはやめよう」
ではなく
「見えないから教えて」
という対応の例が出ている。
(『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

この対応は、教師にいじめは見えていないという「あきらめ」にも似た自覚がベースにある。

いじめ対応をあきらめるのでは決してない。
いじめは教師の目だけで発見できないことを「明らかに認める」のである。
それが、いじめ対応をあきらめないという姿勢につながる。

人に頼れない性格だと、これができない。
全部自分で、という責任感は、結果的に無責任にもつながる。

人を頼る。
子どもを頼る。
保護者を頼る。
だからこそ、教師も頼られる。
支え合う関係なのだから、当然のことである。

見えないから教えてもらう。
子どもや保護者の力を信頼する。
学級経営、生徒指導の要点である。

2019年4月3日水曜日

異質は悪か

節分の時期に書いたメルマガの、鬼についての話。

豆まきの鬼は、排除対象である。
この場合、「鬼=悪」だからである。

一方で、「鬼神」という言葉もある通り、神様としての鬼もいる。
単純に「善」というより、崇められ、畏怖されている存在である。
悪いことや無礼をはたらくと、懲らしめられることもある。
こちらも、人間とは格の違う別のものという扱いである。

共通していることは
「常軌を逸している」ということ。
「人外」の存在であるということ。
「普通」と違うということである。

つまり「普通」と違うというのは、排除の対象となる。
個性を認めない姿勢である。

思えば、勧善懲悪物語は、小さいころから溢れている。
ヒーローもの、漫画、時代劇、ハリウッド映画。
悪を懲らしめ、正義は勝つ。

物語としては正しいのだが、これが意外と「いじめ」につながっていないか。
「悪者はやっつけていい」という単純な考え方。
「異質は排除」という考え方にもつながる。

そもそも、何が善で何が悪か、という根本的な考えに至る訳がない。
正義は、文化で規定される。
何を食べるのが善か悪かすら、文化的な正義である。

やっつけている自分が、ある人から見たら悪かもしれない、とは考えられない。
事実、いじめをしている子どもの大半は「遊びのつもりだった」と答える。
「そんな訳ないでしょ」と言いたくなるが、これが本音なのである。
(大人の「〇〇ハラスメント」の場合も同じである。)

いじめられている側にもいえる。
「自分がこんなだから」といって、誰にも言えない。
自分を「悪」にしてしまう。
客観的に見て、明らかに本人は悪いことをしていないのに、である。
これは虐待を受けている人、理不尽な目に遭った人全てにもいえる。

日常で、善悪の対立をすすめない。
何でも勝負の世界にして、白黒はっきりさせようとしない。
勝負の世界が面白いのは、技能を切磋宅した者同士が、それを試す場だからである。
日常生活でこれが馴染むかどうかは別である。

子どもに「いじめをなくそう」と言う前に、大人の推し進めている世界はどうか。
勝負の世界には、勝者と敗者が存在する。
子どもの「常識」を作るのは、大人である。

「正義は勝つ」も、振り返って考えるべき時にきているのではないだろうか。
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