2019年4月21日日曜日

罪悪感と正義 その2

「正義」について。

大人になり、力がついて自分より立場が弱い者の前に立つと、これを振りかざすようになる。
幼少期に自分が受けた苦痛を、弱い立場の相手に対し間接的に「復讐」する。
「悪はやっつけていい」のである。

飛躍しているように聞こえるかもしれない。
しかし、掘り下げると、どの人にとっても恐らく「中らずといえども遠からず」ではないか。

だから、子ども時代に制約もなく豊かに自由に生きてきた人には、恐らく罪悪感はない。
制約を必要としない社会に育った場合も同様である。

極端な話、一般的なブラジル人は時間に対しての罪悪感が比較的少ないと考えられる。
多分、幼少期から、時間のことでどうこう急かされた経験が少ないのではないかと思われる。

一方で、一般的な日本人は違う。
幼少期から「早くしなさい!」「間に合わなくなるでしょ!」がかなりある。
小学校に入っても、中学、高校、大学、社会人になってまでそうかもしれない。
都心部では、毎朝、電車を降りた直後に集団で階段をダッシュしていく姿をみられるほど「時間」に縛られている。
やっと時間を考えずにゆっくりできるのは、老後のみかもしれない。

つまり、日本で会社勤めして働いていると、時間に対しての罪悪感をもつようになる。
当然、人にも求める。
電車が10分遅れてくるなんて迷惑千万、謝罪しろ、みたいな発想になる。
冷静に見て「病気」である。

幼少期にこしらえた罪悪感を、放置したまま生きていないか。
慢性の病気のような状態で過ごしていないか。
それを、子どもにまで感染させていないか。
周りの人々にもまき散らしていないか。

罪悪感を手放せればいいのである。
そのためには、幼少期の記憶の堀起こしである。

どこかで、誤認をしているはずである。
最初に挙げた例でいえば、幼少期に親の夫婦喧嘩を止めることは不可能である。
「あんたのせいで」あるいは「あなたのために」、どちらを言われていようが、子どもに全く罪はない。
子どもがきちんと言語化して親に伝えることができれば「すべてあなたの選択でしょう」である。

だから、罪悪感をもつこと自体が誤りであると再認識する必要がある。
「幼少期の○○さん、判決、無罪。」をはっきりと言い渡す必要がある。
そうしないと、周りの人をも同じように傷つけるからである。

遅刻に腹が立つのはなぜなのか。
忘れ物に、宿題忘れに、だらしないのに腹が立つのはなぜなのか。
努力しない人に、わがままな人に、無愛想な人に、不機嫌な人に、腹が立つのはなぜなのか。
そしてその人たちは、存在してはいけないのか。

罪悪感の扱いは、教育の根本にも関わると考える次第である。

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