2017年8月30日水曜日

自分の一部を提供する

ここ最近「平和」について書いてきた。
そこに関連して、宮沢賢治の次の言葉を残している。
「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」
個人の真の幸福を考えるなら、世界全体の幸福を考えないと成り立たないということである。
「世界」の解釈をどこまで広げるかで、誰にでも当てはまる法則となる。

学級経営をする際も、この考え方は基本である。
身近な誰かの抱える苦しみに共感できない以上、真に幸せなクラスにはなり得ない。
一人でも陰湿ないじめで苦しんでいる状態だと、学級の何もかもがうまくいかないのは周知の事実である。
一人を救うことが、結局全体を救うことにつながるというのが、学級経営の真理の一つである。

それは、周りのために、自分の財産や、命である時間の一部を提供することになる。
理不尽な要求や、労力を被ることへ「忍耐」する必要も出る。
「自分自身の幸せ」を全く度外視してまで実行するというのは、無理が生じる。
だから以前に紹介した「できる時に、できる人が、できることをする。」
という福島のボランティアセンターの精神は、現実的である。

今、世界情勢は逆の方向に動いている。
私利私欲のために、他の人々の幸福を犠牲にしようという動きである。
宮沢賢治の理想とする世界全体の幸福は、どんどん遠ざかるばかりである。

2017年8月26日土曜日

「こだわり」を捨てる

新刊『捨てる!仕事術』の紹介。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350

本日より店頭に並ぶ予定である。
この本のテーマは見ての通り「捨てる」こと。

何のために捨てるのか?
大切なことをするためである。

何を捨てるのか?
不要なものにつながる習慣、思い込み、こだわりである。

「こだわり」は「拘り」と漢字で書かれることが少ない。
現代では肯定的な意味で使われることが多くなり、それも誤用ではなくなった。
しかし、漢字で書くと、本来の意味がわかりやすい。

「拘泥」という熟語もあるように、どうでもいいことにやたらに時間をかけることである。
時間が有限という前提に立つ場合、不要な「こだわり」は捨てる必要がある。

例えば、通知表へのこだわりについて書いた項目がある。
以下、本文から一部を引用する。
=============
(引用開始)
結論から言うと、通知表作成、特に所見欄にやたらな時間をかけてはいけません。
指導案と同じで、何のために書くか、読み手のニーズは何かが大切です。

小学校の場合ですが、通知表の主な目的は、保護者に学習状況を把握してもらって今後について考えてもらうことと、
子どものモチベーションアップです。
例え「ここができていない」を伝えるとしても、そこから上げるために伝えます。
相手に「最後通告」をするためのものでありません。
そこで、「読み手がどこを見るか」が大切なのですが、ダントツの一番は「評定」欄です。
(中略)
しかし、成績処理に時間をかけすぎる人の中には、この力の入れどころを間違えている人もいます。
生活や学習について記述する「所見」欄に命をかけてしまうのです。
もっというと、評定しない「外国語」や「総合的な学習の時間」の記述に命をかけます。
そこは、やったことの事実が素直に書いてあればそれでいいのです。
そこに関して熱く伝えたいことがあるなら、通知表以外の場で十分です。
(引用終了)
============

通知表作成は、教師の仕事の中で「大変」と言われるものの一つである。
がんばった分だけ子どもに返るかというと、そうでもない。
これにもやはり、コツがある。
ひたすら自分の経験則でいくより、コツを習った方が成長が早い。

そのコツを、どう見極めて、どうやってやるかである。
その具体的な方法や考え方が書いてある。
ぜひ一度、書店で手にとってみて欲しい。
教師だけでなく、多くの人の働き方や生き方を見直すための一助になるのではないかと思う。

2017年8月24日木曜日

戦争と罪のない子どもたち

先週は北朝鮮がグアム沖にミサイルを撃つと宣言し、世界中が戦々恐々とした。
騒がれたXデーは保留となったが、全く安心できない。
それにしても、この日に、しかも広島の上空を通過させるとの宣言。
挑発的とか無礼とか非常識とかのレベルではない。
国際紛争において、正義や善悪、良心の類は全く通らないらしい。

そんな「暴君」でも、日本の隣国である。
ニュースを見ながら息子に「北朝鮮とだって、本当は仲良くできた方がいいんだよ」と話した。
「何で?」と聞かれた。
この「暴君」に対し、当然の疑問である。

そもそも、ミサイルを撃つぞと脅している「北朝鮮」とは誰なのか。
北朝鮮の国民の総意か。
そんな訳はない。
報道を見る限りだと、北朝鮮の国民は戦争賛美の「危ない人達」に見える。
しかし、以前お伝えした通り、「情報」とは「情の入った報せ」である。
(ブログ教師の寺子屋「風評被害と情報」
参照URL http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2011/05/blog-post_03.html
報道が、真実の姿を映し出しているとはいえない。

北朝鮮にだって、子どもたちや、我が子を愛する母親たちがいるのである。
そこにいるのは、我々と全く同じ人間である。
戦争をしたいなんて思う訳がない。
核爆弾を落として大量の人を殺したいなんて思う訳がない。
我が子と同じような幼い子どもたちが死ぬことを望むはずがない。
ただ、それを態度や口に出して言ってはいけない国策のもとに暮らしているだけである。
その辛さは、戦時に負け続けて強烈に統制されていた当時の日本国民と、きっと同じではないか。
与謝野晶子のように「戦争反対」と堂々と叫びたい考えの人たちが、たくさんいるはずである。

日本も北朝鮮もアメリカも、多くの国民の願いは「幸せ」である。
これ以外ない。
それは、世界中のどの子どもたちとも同じ願いである。

だから、我が子にも「〇〇人は〇〇」という偏った考えはもって欲しくない。
どの国の人だって、あくまで同じ願いをもった一人の人間なのである。
様々な国の人と協力して働くのが当たり前のこれからの時代、誰に対しても、同じ一人の人間として見るようになって欲しい。

私にも、海外の国々に関わる友人や知人、教え子たちがいる。
実際にどの国に行った時だって、それぞれ親切にしてくれた人がたくさんいた。
それを考える時、とてもではないが、その国の悪口を言ったり争ったりする気にはなれない。
一人一人を見れば、間違いなく同じ幸せを願う人間同士である。

その戦争は、本当は誰が望んでいるのか。
国の施策と、国民の真の願いは分けて考える必要がある。
いつでも、搾取されるのは国民。
とりわけ弱い立場の人間、すべての子どもたちである。

どんな理由であれ、戦争で人を殺したり、それをネタに憎んだり脅したりしていいことにはならない。
その国にも、罪のない子どもがいる。
過去や現在に負の歴史がある国の子どもでも、その子ども自身に罪はない。
子どもに歴史や国際理解を教える時には、そのことを忘れないよう伝えたい。

2017年8月22日火曜日

採用試験の重要性

つい先日、千葉県の教員採用試験の二次選考があった。
この採用試験というのは、学校現場にとって非常に重要な意味をもつ。

以前も書いた気がするが、記事を探しても見当たらないので再度書く。
ずっと前に「東京教師塾」で、塾頭の原田隆史先生に次のような話を伺った。
(記憶を辿っているので、あやふやな面もあるがご容赦いただきたい。)

どの県のどの学校でも、多忙の原因の上位に「人が足りない」という声が上がる。
そこで、ある県では対策として費用を投じ、教員を大量に採用して少人数学級を実現したそうである。
これで担任の数も増え、教員の多忙化にも歯止めがかかるはず。

実際には、何が起きたか。
以前よりも学級崩壊が多発し、多忙化に余計に拍車がかかったという。
(予防に対し治療は10倍以上の労力を要する。)

原因の一つに、大量採用によって急に門戸が開きすぎたことが考えられるという。
要は、今までなら採用しなかった人材をも、数が足りないのでとにかく採用することになる。
そうすれば、本来なら教師の仕事への志がそんなに高くない人や、現段階では採用に適さない人材も含まれることになる。
(人材としては適しているのに試験に弱いという人も中にはいると思うので、その面ではプラスのチャンスでもある。)
経験のない新規採用者が多いということも考えられるが、新規採用者の質も問われる形となった。

要は学級担任を考える場合、量も必要だが、やはり質なのである。
試験内容を吟味し、適した人材を厳選することが大切なのである。
(ただ現実問題、そう悠長なことも言ってられない現状はある。)

この場合の必要な「質」とは、格段晴らしい実践をする人のことではない。
教育実習生の段階から言えることだが、情熱があって一生懸命で、何とかかんとかやってくれそうな人物である。
そこさえ落とさなければ、現場としての最低基準は満たされる。

そう考えると、採用担当者というのは、非常に大切である。
膨大な数の人を相手しているのだから、選別の目も鋭い。
面接を受ける際は、誤魔化さず、どうせ見抜かれていると腹を括ることである。
(だからこそ、服装のような全員が当たり前のところで無駄に印象を落とさないことが大切である。)

採用された後は採用試験とは無縁のようだが、実は大いに関係がある。
我々の未来の仲間を採用するにあたり、果たしてどんな選別がなされているのか。
採用試験に関心をもつことには意味があると思う。

2017年8月18日金曜日

「LOVEさえなければ、PEACE」を考える

メルマガで長崎原爆忌の翌日に書き、まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
http://www.mag2.com/p/news/260236

戦時中を思えば、今は空襲や飢餓を恐れないで生きられる分、平和である。
原爆忌は、慰霊とともに、今自分がこうして生きていること自体に感謝する機会になる。

ただ一見「平和」とはいえ、現代も静かな戦争が繰り広げられている。
国家間で武力を用いて権益争いをしている状態を「戦争」という。
先日記事にした「核兵器禁止条約」の参加国間の温度差などは、それを象徴する出来事である。

戦争の難しいところは、突き詰めると個人の「愛」に端を発する点である。
以前にも紹介したタモリさんの言葉だが
「LOVEさえなければ、PEACE」。
何かを愛する、守るという感情がなければ、争いは起きず、自然「平和」の状態になる。
愛し守る対象さえなければ、何を奪われても何の感情も湧かないのだから、当然である。

先の戦争への解釈としても、個人単位で考えれば、それぞれ自分の大切な何かを守るために、両国の人間は動いた。
例えば特攻は、自分の命を優先順位の二番手以降にしないと成り立たない。
その時の優先順位の一番目は、自分の命を越える何か、守る対象である。

しかし、「愛」によれば相手の命を奪っていいかという問題は全く別である。
「愛」と「平和」によって爆撃をしたのだ、と言われても、命を奪われた側が納得いくはずがない。
愛する者を守るためだ
戦争を終わらせるためだ
単なる実験だった
どの理由だろうが、愛する者を無情にも奪われたという本質から見れば同じことである。
「致し方なかった」理由を並べて正当化を試みても、やはりその個人の恨みは消えない。
結局、戦争は両者の(特に個人である一般市民の)恨みしか残さない。
一般生活レベルで言うと、何をどう言おうが、他人のものを奪ったりいじめたりしていい理由にはならないのと同じである。

戦争と平和について考えることは、学校教育で何を教えるかを考える上でも、大いに関係がある。
世界共通の教育テーマである。

2017年8月16日水曜日

戦争に「justice」はあっても「正義」はない

終戦記念日に関連して、最近、読んだ本から考えたこと。
次の本を読んだ。

『しない生活』幻冬舎新書 小池龍之介 著
http://www.gentosha.co.jp/book/b7753.html

自分の次の新著(https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5)のテーマが「捨てる」なので、こういったテーマの本には関心がある。
この本の中で、次の文が心のフックにひっかかった。
==============
(引用開始)
つまり、ものごとは、公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。
この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。
(引用終了)
==============

人間というものは、「不公平」や「不平等」が気持ち悪くて仕方無いということである。
しかし、実際の世の中は不平等だし不公平だというのが現実である。
個人レベルでの不平等も、世界レベルで大きく見てバランスがとれている状態といえる。
私の尊敬する野口芳宏先生も
「安心・安定・秩序・格差。」と仰っている。
安易な平等主義は、むしろ危険であるという。
(こういうことを言うと「平等主義」という「常識」に叩かれるから普通言わないのだが、それを言い切るのがすごい。)

「justice」の語幹「just」は天秤の釣り合いを示す。
前にも紹介したことがあるが、タロットカードのNo.11「justice」の絵柄は、天秤と剣を持った「裁判の女神」の姿である。
裁判とは、物事を測る天秤が「正義」の水平を示すようバランスをとる行為に他ならない。
つまり、罪の深い者に「正義の剣」で罰を与え、他方に利益をもたらすことで、両者のバランスをとろうとするものである。
難しいのは、その「正義の剣」を誰がふるうかという点である。
歴史上では、「正義の剣」を持つものは、常に強者、勝者である。

日本は、降伏宣言を1945年8月15日にした。
しかし、当時の敗戦国に「正義」の権利はない。
ロシアが「そんなの知らない」といえば、ロシアの「正義」が通る。
北方領土問題の解決の難しさは、「正義」の所在の違いである。

今、「正義の剣」は、どの国が握っているのか。
言わずもがな、アメリカ合衆国に他ならない。
世界中のどの国も、アメリカを無視しての国政は有り得ない。
日本にとっても、アメリカの「核の傘」の恩恵は無視できないし、下手に沖縄から米軍を撤退させられない。
自衛隊の米軍への後方支援としての「人道支援」とは何なのかという、安保問題の難しさもある。
結局、日本はアメリカの「正義の剣」によって、「平和」のバランスをとっているのが実情である。

つまり「平和に向けた正義の戦い」というのは、世界レベルの視点からいうと、有り得ない。
ある特定の国の視点でしかない。

そもそも英語の「justice」と日本語の正義という言葉はイコールではない。
日本語の「正義」には「人間行為の正しさ」という意味がある。
戦争に「justice」はあっても「正義」はない。
文化の違いである。

終戦記念日は、日本という国の在り方について考える機会にしたい。

2017年8月14日月曜日

お茶でもすすめればいいっちゃが

6月29日に他界した祖母の話。

私の祖母は、生涯笑顔とユーモアの人だった。
そして、自分にできることをして生きることを何よりも大切にしていた。

20年ほど前に祖父がなくなった後にも、しばらく山の中で一人で暮らしていた。
運動不足を防ぐべく、NHKで放映されている朝のラジオ体操をテレビのお姉さんと一緒にやっていた。
「毎朝やるっちゃが。これがいいとよ。」と笑顔で言っていた。

足腰を悪くしてから、動き回れなくなった後は、とにかくよく手を動かしていた。
私の「やる気スイッチ押してみよう!」が枕元にあり、それを読んで、視写をしていた時期もあった。
頭の体操になるそうである。

人が尋ねてきては、必ず笑わせて帰す。
サービス精神が旺盛なのである。

山奥で一人で暮らす祖母を心配して、
「強盗とか悪い奴が来たらどうするとか。」
と尋ねると、
「お茶でもすすめればいいっちゃが。」
と答えたという。
本当にやるかどうかは別として、祖母らしい切り返しである。

人生ではあらゆる「非常事態」が起きるが、どう対応するかで全て決まる。
あらゆる出来事をユーモアで見る人にとっては、困った出来事を「そう来たか」と面白がる。
すべてに感謝する人もいるし、天に唾する人もいる。

生き方を考えさせてくれた祖母に、改めて感謝したい。

2017年8月12日土曜日

図と地の反転

私は大学時代に教育心理学を専攻していたこともあり、心理学が好きである。
その中の「ゲシュタルト心理学」に「図と地」という知覚に関する面白い考え方がある。
簡単に言うと、図とは、対象物そのものとして知覚されるもの。
地とは、「下地」という言葉にあるように、いわゆる背景のようなもので、知覚されない部分である。

よく知られている例でいうと、白黒の「くびれた壺」の絵である。
黒地の真ん中に白い壺の絵が見える。
しかし見方を変えてみると、「向かい合っている人の顔」に見えるという、あれである。
他にも、例えば次のような絵である。
http://livedoor.blogimg.jp/humon007/imgs/e/8/e8064f53.png
見えただろうか。
この画像の正解は、まさに意識しないと見えないものの一つである。
図と地を反転させると、見えるものが一変するということである。

通常、人間は面積が大きい部分を「地」、小さい部分を「図」と捉えやすい。
つまり、小さい部分の方に着目してしまうという、厄介な心理が人間にはある。
真っ白な布に小さな染みが一点あると、そちらが気になって仕方がないのと同じである。
小さいこと、細かいこと、些細なことに囚われやすいということである。
親が子どもを叱りたくなるのも、この心理である。
我が子が元気であることの有り難さなど、病気になるまで完全に吹っ飛んでしまう。

学級でも、この心理の罠に陥りやすい。
目の前の子どもたちの、些細な「望ましくない点」を「図」としてとらえ、目がいってしまうのである。
もっと大きな面積を占める「地」の方に目をやると、見え方が変わる。
そもそも、今日も元気に学校に来ているということ自体、かなり大きなことである。
あんなつまらない授業をしたのに、あんなひどい叱り方をしたのに、今日も来ているあの子。
にこにこして「先生」と呼ばれること。
この「地」の部分を見ると、畏れるべきことである。
こういう「当たり前」をただの「地」としてみるか、非常に大きな「図」として見るかである。

地と図。
人間は些細なことに着目しやすい。
大きな大事なことを見落としやすい。
家族や職場などの人間関係。
もっと身近だと、自分自身である。
「生きているだけで丸儲け」とは、至言である。

暑いとか文句言ってないで、今日も生きていることに感謝したい。

2017年8月10日木曜日

「自分に厳しく」もほどほどに

「自分に厳しい」というのは、一般的に良いことと捉えられている。
しかし、自分に厳しく他人に優しい、というのは、理想的だがなかなか難しい。
自分に厳しくしていると、どうしても他人が許せなくなってしまう。

わかりやすい例だと、授業。
一生懸命に用意をするのはいい。
しかし、こちらの努力に対し、子どもがノってくるかは、別問題である。
子どもの側からすれば、こちらの努力など、知ったことではない。
ノってくるかどうかは、それが単に子どもにとって面白いかどうかだけである。

努力するほど、往々にしてここを勘違いしてしまう。
努力量と成果は、すぐに直結するとは限らないというのが真実である。
努力が担保してくれるのは、自分が納得することまでである。
自分に厳しくしても、他人に厳しくしていい免罪符にはならないということである。

この時期、湿気と暑さがものすごい。
あまりに自分に厳しくしていると、疲れる。
急激な気温の変化は、体に負担をかける。
この時期、肉体的にも精神的にもだるいのは、あなたがだらしないので決してなく、正常なのである。

肉体が無理をしているのに精神で統御するのは、修行僧でもない限り難しい。
倒れたら元も子もない。
また、自分に厳しくしていると、往々にして他人にも厳しく接してしまうものである。

かの文豪ゲーテも
「人間の最大の罪は不機嫌である。」
と言っている。
疲れていてもいいが、不機嫌なのは、大罪なのである。

こういう時期は無理をせず、「そんなもんだ」とゆるゆる自分の機嫌をとってやっていきたい。

2017年8月8日火曜日

笑って終わる人生

今年の6月、祖母が亡くなった。
97歳の大往生。
「亡くなった」よりも、「生ききった」という言葉がぴったりである。

私の好きな言葉の一つに、次のものがある。
ネイティブアメリカンの言葉だという。

あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい

祖母の葬儀は、終始和やかだった。
私を含めて孫が10人、ひ孫が24人もいるのである。
みんな、お別れの時は泣きに泣いたが、その分、本当に笑顔と思い出話が咲き誇る葬儀だった。

祖母は亡くなる前の日、心配して駆けつけた父にジョークを言って笑わせていたという。
「まだ大丈夫」と思わせて、すっと逝ってしまった。
祖母自身、最後まで笑っていたのである。

どう生きるか。
それは結局、どう死ぬかである。

祖母のように、自分が笑って周りが泣いてくれる生き方をしたい。

2017年8月6日日曜日

原爆記念日 核兵器禁止条約を考える

今日は広島の原爆の日である。
3日後の8月9日は長崎。
そして8月15日が終戦記念日である。

核兵器禁止条約が今年の7月7日に国連により採択された。
一見すると、核兵器根絶にとって大きな一歩に見える。
しかし、ここには主要な核保有国が参加していない。
そして何より、日本が参加していない。

これは、非常に奇異な決定のように見える。
しかし、当たり前だが、日本は核の撤廃について相当な関心がある。
さんざん考えた上での政治的判断である。

次の記事は参考になる。
『核兵器禁止条約、日本はなぜ反対したのか』2016.12.5 ヤフーニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/452

世界中の問題が、複雑に絡み合っている。
誰にも解けないパズルである。
この問題が解決する日はくるのか。

この問題の解決策を自分の力で考え出すのは、恐らく不可能である。
我々にできることは、関心をもつこと。
東日本大震災等も含め、負の記念日のもつ意味は、そこである。

2017年8月4日金曜日

聖戦は危険

子どもに、何かしら指摘をする。
説教をする。
明らかに、子どもの行為が良くない。
だから、正々堂々と叱る。

「明らかに」なので、迷いなく注意できる。
しかし、その自信の度合いが高い時ほど、要注意である。
正義、正当だと信じている時ほど、危ない。
大抵、子どもに対して自信をもって指摘をしていることが、自分の問題である。

そうでないことなら、控えめになる。
「まあ、そんな言っても私もできていないのだけれど」と付け加えながら話すのとでは、全く違う。

国際間の紛争を見てもわかる。
宗教や思想による争いは、両者一本も譲らない。
両者にとって我こそが正義の「聖戦」である。
明後日は原爆の日だが、原爆問題も互いの正義の二項対立では解決しない。

話を戻す。
子どもに「だらしない」とか「どうしてそんなことが」「信じられない」などと思ったら、自分のこと。
我が身を振り返るチャンスである。

2017年8月2日水曜日

課題は成果

公開研究会での学び。

学習指導要領の解説が公示された。
各教科とも、変更点がはっきりと示されている。
中でも、教科横断的な学びは強調されているものの一つである。
「カリキュラムマネジメント」が求められている。
算数と体育、音楽と体育など、教科間にまたがる横の学びを計画していくことが求められる。

それは一方で、教科の特性をよりはっきりさせることにもつながる。
算数でしか学べないことは何なのか。
体育ならではの学びは何なのか。

例えば、当たり前のことだが、体育では運動機能の向上が大切である。
広義の意味での「体力」が向上するはずである。
筋力の発達だけでなく、柔軟性や巧緻性等の発達を促す役割がある。
ずっと動かず座学のみの体育などありえない。

だからこそ、体育の授業では、何を身に付けさせたいのかをはっきりする必要がある。
私は「みんなが楽しめるゲームをしよう」というテーマを本時の設定として、ネット型ゲームの授業を行った。
そうすると、ルールや作戦に意識が向き、言語活動の時間が増える。
それ自体は悪いことではないのだが、それによって運動量が減ることは問題がある。

講師の高田先生からは、
「発言量は後半になるほど増えていくのが理想」
「動きながらの言語活動がより大切」ということを教えていただいた。

つまり、話し合いがどんどん活発になっていくということ。
みんなで円になって話し合うだけでなく、運動をしながらその場での発言が増えていくこと。
そういう授業をイメージして作っていけば、より良くなるはずである。

高田先生は講評の冒頭に「課題は成果」というお話をされた。
授業をやって課題が出るのは、その授業の「成果」という意味である。
つまり、課題が見つかったということ自体が次につながる成果ということ。
その考えに至れば、授業では挑戦すること全てに価値が見出せる。
壁に当たることを怖れず、常に挑戦を続けたい。
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