2015年12月31日木曜日

新年の目標に今すぐ近付く

年末にすべきこと。

今年の出来事を振り返る、というのはよくやる。
印象に残る良かった変化・出来事を具体的に紙に書く。
そうすると、自分がどんなことを「良い」と感じる傾向があるかわかる。
この傾向をつかむことは必要である。

しかし、これだけだと片手落ちである。
過去を振り返って良かったというだけでは、前を向いて生きている若者とはいえない。

もう一つ大切なのは、来年に起こしたい変化を書き出し、行動に移すこと。
新年を迎えてから、と悠長に構えない。
今年中に行動に移す。
これが最も大切である。

中国の古い諺に、次のようなものがある。
「木を植えるのに一番良い時期は20年前だった。次に良いのは、今である。」
また「今度と化け物見たことない」という諺もある。

変化を求めるなら、来年からでなく、今年。
新年に目標を立てるのでは遅いと考える。
それで今までうまくいっているならそれでもいいが、正直、いかがであろうか。
来年の目標(欲しい変化)を決めたら、それに対して「今すぐできること」をやる。
行動は小さくてもいい。今すぐやる。

「〇〇に関する本を百冊読む」のであれば、今すぐ本屋へダッシュして1冊買って読み始める。
「〇〇へ旅行する」「〇〇の趣味を始める」のであれば、今すぐネットを開いて検索して、できれば予約までしておく。
「もっといい学級経営をしたい」といった漠然とした目標でもいい。
とにかく、それに対してできることを一つでいいから、「今すぐ」やる。

他人の誰も自分の行動に強制はできない。
だからこそ、動かすのは自分しかいないし、自分が生きられるのは今しかない。
今行動を起こせる人は、確実に来年が変わる。

逆に、今やらないなら、来年も怪しい。
今できないのに来年ならできるその理由は何なのか、ということである。
早起きを決意したのに、布団から出られずにいつまでも入っているのと同じである。
温いし一時的に幸せかもしれないが、変化は起きない。
一念発起して、とにかく「えいっ」とやる。

これは普通、やらない。
新年のマラソンでは、元旦の朝に横一列に並んで「ドン」と一斉にスタートする。
それなのに、前日の大晦日にとっくにスタートしている選手がいるようなものである。
もうこの人には勝てっこない。
ずるくはない。
実際のマラソンと違い、人生にフライングの違反はない。
人生においてはいわゆる「ふらいんぐげっと」が必勝法である。
だからこそ、先にやる人だけが大きく前に出られる。
「圧倒的有利」である。

今動くかどうかも、自分次第である。

2015年12月29日火曜日

理想のリーダー リーダー4領域

心理学の本とか、マネジメントの本とか、色々読んでいると、リーダー論における共通項があった。

それは、リーダーとは、責任をとれる人であるという一点。

逆に言うと、相手の責任をとれない人は、その人にとってのリーダーとは言えない。

本物のリーダーは、責任は自分がとるが、やり方は任せる。

要は、縦軸「責任」と横軸「やり方」の二軸の表で見ればよい。
すると、四領域できる。
表の右上Aが「責任をとってやり方を任せる」 理想のリーダータイプである。
表の左上Bが「責任をとってやり方も細かく指示する」 ワンマンタイプのリーダーである。
表の右下Cが「責任もやり方も任せる」 完全丸投げ放任タイプである。
表の左下Dが「責任をとらないが、やり方は細かく指示する」 保身無責任タイプである。

どれが理想のリーダー像かは、相手のタイプによる。
Aが良さそうだが、これはあくまで自主性のある人、チームにとっての理想のリーダーである。
Bは、メンバーが未熟な段階や、自主性のない人にとっては有難いリーダーになる。
Cは一見良くなさそうだが、とにかく口出しせず自由にやらせて欲しいという血気盛んな人には割と合う。
Dは最低で、万人にとって厄介な存在である。

学級担任というのは、リーダーである。
自分は、どのタイプの学級経営をしているか。
クラス万人受けは難しい。
しかし、Dのタイプは避けたい。

Dの例を挙げると、指示だけだして、失敗したら怒るというような行為である。
また、教えた子どものテストの点数が悪く、それを子どものせいにするのも同様である。
教えた以上、責任は教えた担任の側にある。
もし思い当たる節があったら、即反省して改善すべきである。

Aの例に近付く方法の一つが、上越教育大学の赤坂真二先生の推奨している「クラス会議」の手法である。
子どもたちが自分たちで何をすべきか話し合い、行動していく。
なお、子どものしたことである以上、責任は担任がとることになる。
大変さもあるが、自主性を育てる上で理想的な手法である。

時にBタイプでぐいぐい引っ張ることがあってもいい。
時にCタイプで子どもに本当に自由に任せることもあるかもしれない。

それでも、基本はAに置きたい。
子どもの生きる力は、Aタイプのリーダーのもとでこそ「伸び伸び」と育つのではないかと考える次第である。

2015年12月27日日曜日

助けて力と助ける力

助けて力。
学級で大切にしている力の一つである。

その名の通り周りに「助けて!」と言える力である。
私が勝手に名付けた。
今ネットで調べたが、直接この用語を使っている人はいないようなので、ひとまずオリジナル用語と言える。

何だか頼りない能力のようだが、重要である。

ちなみに、健康な赤ん坊は、この力がある。
赤ん坊は、困れば泣く。
助けを求める。
自分でできないからである。
助けてもらえないと命に関わるから、文字通り必死で泣く。

つまり、生来備わっている能力である。
一方で、段々失われる能力ともいえる。

どのような過程で失われるのか。

2歳半ぐらいで「ジブンで期」が来る。
何でも自分でやりたがる。
発達の証である。
しかし、この時期は助けてもらわないと自分ではすべてできない。
それを学ぶ時期でもある。

さらに大きくなるにつれて、「できないことはダメ」という認識を持ち始める。
周囲の目を気にし出す。
そうなると、助けてと言えなくなる。
助けて力の衰退期である。

ここを救うには、本人の意思もあるが、周りの力も大切である。
学級において、「助けて力」を強くするには、学級の「助ける力」を強めることである。
つまり、助ける方を先にすれば、助けてと言いやすくなる。
単純な話である。

具体的には、得意の提供。
得意分野で人を助け、不得意分野で人に助けてもらえばいい。
先に助けてもらった人は、後で返せばいい。
単純な話である。

ところで、先の赤ん坊の例でも、泣かなくする方法があるらしい。
それは、泣いても無視すること。
赤ん坊に対して、無関心を通すこと。
泣く度に無視したり攻撃したりを続ければ、やがて諦めて泣かなくなる。
その内、助けてもらおうという欲求すら起きなくなる。
生きる力が失われていく。

学級でこの「無関心」状態を作らないこと。
困っている人を見つけても見ぬ振りをするようであれば、自分も助けてと言えなくなる。
みんながみんな困る状態になる。

困っている時に助けてと言う。
周りは「助けるよ!」と動く。
必然的に「ありがとう」も増える。

助けて力と助ける力は、学級における二つで一つの力である。

2015年12月25日金曜日

予定を「攻め」で入れる

メルマガ上で、苦手克服のために、指導者は待つことが大切と書いた。

本人にとっての、苦手克服の重要ステップ。
それは、攻めることである。
一念発起して、苦手や面倒なこと、避けたいことに突っ込んでみることである。

例えば、この時期ならスノーボード。
雪山に行って斜面を滑り降りるというのは、運動が苦手な人にとっては、かなり難儀なことである。
痛いだけでもやる気が失せるに、「寒さ」が加わるとより一層である。
それでもやろうと思うのは、誘われるからである。
誘われたから断り切れず渋々ついていって、大好きになったという例も多い。
実際やってみると、やや前のめりに攻めた方がボードコントロールしやすい。
怖がって後ろに重心をかけるほど、逆にスピードが出て益々怖い。

食べ物も同様。
苦手だと思い込んで食べない「食わず嫌い」のこともある。
ずっと以前に食べてダメだったとか、イメージで嫌っていることも多い。
すべてのものは「ピン-キリ」なのだが、最初に大ハズレを引くと、リトライする気が失せるものである。
しかし、いいものを引けば、一気にファンになることもある。
「ものすごく体にいい」というように知識面がつくことで食べられるようになることもある。
(逆に、大好きだったのに体に悪いということで嫌いになることもある。)
前向きに食べようとすることで、その良さが味わえることも多い。

「コンフォートゾーン」という考え方がある。
ずっと以前、脳科学者で有名な茂木健一郎氏の著書で知った概念である。
何かというと、人間は自分にとっての「快適ゾーン」がある。
変化もないが安全なその「コンフォートゾーン」から出たがらないということである。
習慣の罠ともいえる。
そして大抵、面白いこと、ワクワクすることは、ゾーンの外にあるという。
ゾーンの外に出れば困難が待っているかもしれないが、克服すれば大成長できる可能性を秘めている。
痛み等の恐怖以上に、成長や変化などへの期待が上回ると、コンフォートゾーンを出られるという話である。

進化論はそのわかりやすい例である。
一念発起した(と当事者が自覚しているか否かは定かではないが)魚たちが陸に出たことである。
安全な木の上にいた猿が、危険な陸に降り立つのは、相当な勇気と好奇心である。
人間は、それを意識的にできる能力があるからこそ、宇宙にだって飛び立てる。
空を飛ぶとか月に行くとか、周りから見たら相当な無茶・無謀を克服した人達がいることが事実である。
「挑戦」は無理・無茶・無謀・困難・失敗・成功・・・全てを包含し、凌駕する。
やってみなくちゃわからないのが挑戦の価値である。

ただ、実際はやる気がなかなか起きないのが事実。
大事なコツ。
その予定をずっと先に入れてしまうことである。
実行まで猶予のある、1ヶ月以上先の予定がいい。
1年先ならもっといい。
先に入っていれば、とりあえず何とかする。
どうしても何とかならないなら、その予定はなくなるだけである。
とりあえず手帳を開いて、空いている内に予定を入れることである。
旅行と同じである。

大体、やる気は生もの。
一瞬しか起きない。
三日も四日も続くものではない。
その一瞬がチャンス。
やるかやらぬか迷う暇があれば、先に動く。
理由や方法などすべて後付けで何とかなる。
特に休みはチャンスである。
平日の(いつでも)忙しい時に、プラスワンのチャレンジ精神はなかなか湧かない。

ちなみに、各種セミナー等に参加する時、うまい方法を求めるかもしれないが、一番受け取れるのはやる気である。
そして、一回受け取ったら、すぐに使う。
やる気を受け取ったのだから、やることが一番の有効活用である。
だから学んでも実践しないと、百万回セミナーに出ても徒労に終わる。

頻度としては、人によるが、私は月1回程度がいいのではないかと思う。
学んだことを実際にやってみて、1ヶ月経ってまた学ぶ。
再度やる気をもらって、実践してみる。
この繰り返しである。

毎週セミナーに出てもいいのだが、あまり多いと消化不良になりがちである。
たくさん色んな種類のご馳走を一気に食べようとするのと同じである。
一気にたくさん食べても限界量があるし、翌日にはまたお腹が減る。
食いだめも寝だめもできない。
定期的に行うことが大切である。

2016年、自分を変えたいと思うなら、2015年の内に予定を入れてみること。
今度とお化けは見たことがないので、まずは今、一つ予定を入れてみることをおすすめする。

2015年12月23日水曜日

生長は土が命

パンジーと土の話。

以前、子どもたちと、パンジーの苗を鉢に植えて育てたことがある。
パンジーは、寒さにもかなり耐える強い植物である。

いざ3月になると、元気に咲いているものと枯れてしまっているものに分かれた。
そんな中で一つ、見事に咲いているものがあった。
どれかというと、それぞれの子どもが育てているものではなく、予備で植えておいた苗である。
特に世話はしていない。
見事に育った秘密は何か。

実は、予備のものだけ、大きなプランターに植えてあった。
つまり、土が豊富に入っているのである。
別にねらった訳ではなく、買った土のいきどころがなかっただけである。

そう考えると、植えた後の世話ももちろん大切だが、それ以上に最初の土が大切だといえる。
花や葉が弱るとあれこれ手を加えたくなるが、根っこの植わっている土を見た方がいい。

学級経営も後半に入っている。
この時期は、色々と問題も起きやすい時期である。
しかし、目先の現象にとらわれすぎてもいけない。
問題の根幹は何か。
そこを見据えた対応をしないと、根の部分は解決しない。

常に根本・本質・原点は見失わないようにしたい。

2015年12月21日月曜日

二十代で失敗しておきたい

メルマガタイトル通り、二十代の先生向けの話。

これからの時期、校内研究や地域の研究会、学習会等で、発表の機会があることが多いと思う。
そういう場に、「若いからチャレンジしなさい」といわれ、立候補せずとも立たされることがある。

これは、特に二十代の先生にとって、大きなチャンスである。

二十代の内は、極論すると、その場でうまくいくことを求められていない。
発表した、チャレンジしたことそのものを評価してもらえる。
失敗しようとも、その前向きな姿勢と謙虚さが評価してもらえる。
この先40年近くにわたる現役生活の糧になることが期待されている。
つまり、発表や実践の費用対効果が最も大きい時期といえる。

三十代も半ば以降になってくると、そうもいかない。
十数年の経験があるのであれば、それなりのものを求められる。
何か発表しても、ちょっとやそっとでは、まず褒められることはない。(そもそもそれを期待しない。)
それを受け止めるだけのものがあるとみなされるからこそ、出る意見も厳しい。
年数を重ねるごとに、見られる目は厳しくなっていく。
「成果」が求められるようになる。

繰り返す。
二十代の内は、極論すると、その場でうまくいくことを求められていない。
これはチャンスである。
「〇〇さんを差し置いて、私など実力不足で・・・」といって断ったとする。
つまりそれは、次年度以降は実力がついて、立派に引き受けることができるようになると解釈できる。
そんなはずはない。
やった方が絶対に実力はつく。
明白である。

実践発表にしたって、うまくいったことの発表より「うまくいかないのですが、原因がわかりません。」という方が断然いい。
アドバイスもしようがある。
うまくいきましたの発表は「よかったね」としかいいようがない。

失敗を怖れずにどんどん前に出る。
そういう先生の背中を、どこかで子どもも見ているはずである。

2015年12月19日土曜日

道徳 登場人物の立派な行動をどうみるか

先日の下関における道徳研究会での学んだことのシェア。
そのままではなく、自分なりに解釈したことを書く。

読み物資料には、立派な人物が出てくる。

自分の命を省みずに弱いものを助けようとする人。
誰もが投げ出すような辛い作業を、成功するまで地道に続けられる人。
人に裏切られてひどいことをされても、なお大きな愛で優しさを与えられる人。

架空の人物のことも実在の人物のこともあるが、とにかく立派である。

これを「この人のようにしましょう、なりましょう」となると、無理が生じる。

大方の場合、まず教える側がこのような人物になり得ていない。
何度も例に出すが、イチローと同様の努力ができるなら、イチローになり得る。
そもそもその努力ができること自体が天才的である。
だから「イチローみたいに努力をすれば夢が叶う」と短絡的にいくと、危険である。
希望を持たせるのにはいいかもしれないが、自分の現実とのギャップに苦しむことになりかねない。
「努力しないとダメなのに、努力できない自分はダメだ」となり得る。

この辺りは、ある程度乖離して考える必要がある。

講師の先生の話だが「これはこういう人物」と割り切る。
こういう人物だから、こうやったし、こういうことが起きたということを、客観的にみる。
なぜこういう行動をとったのかを、客観的にみる。

この話を次のように解釈した。
時に、「自分だったらどうするか」を考えるのはいい。
しかし、模範的回答を期待すると「ヨイコの答え」を言い合うつまらない授業になる。
だから、その物語を読んで、その行動の価値を見出すことが大切である。

それが自分にできるかどうかはわからない。
ただ、そういうことには価値があるということは学べる。
自分が同じ状況になった時にそうするかどうかは、別次元の話である。

内容にもよるが、そのように解釈した方が、納得がいく。
「できない自分はダメ」というようにしては、自尊心を低くすることになる。
純粋に「すごい人物だなぁ」「感動した」で、いい場合もある。

教える側も、未だ不完全。
人間は完璧にはなり得ない。
それでも、より良い生き方を求めて生きる。
そういう姿勢が身につけばいいのではないかと思った次第である。

2015年12月17日木曜日

失ってわかる有り難さ

毎年1回は出す、健康についての記事。

先月の話だが、喉が痛いのに放っておいたら、熱が出た。
明らかに自分の不養生が原因であり、ミスである。
このミスは、仕事をする人間にとって何より大きなマイナスである。
無理をする前に対策をとるべきで、身体が第一の資本ということを忘れている。

「プロとアマの差は、コンスタントに結果が出せること」
という視点からいっても、体調不良は最も避けるべき事態である。

とは言っても、なってしまったら、自分だけではどうしようもない。
体調が悪いとわかると、周りが気にしてくれる。
「代わりに入るから大丈夫。」
「今すぐ帰って。」
「無理して明日倒れられたら、もっと良くない。」
等々、とにかく気を遣ってもらえる。

毎度どの学校に行ってもそうだが、必ず周りが気持ちよくフォローをしてくれる。
「病気でも休ませてもらえない」という話を聞くと、気の毒である。

そうなると、何が何でも早く直そうという気になる。
元気に仕事ができた時の有り難さが身にしみる。
仕事に行くのが楽しみになる。
職場の仲間に会っても、いつも以上に有り難さがわかる。

毎回感じるのが「失ってわかる有り難さ」。
ちょっとした病気やトラブルは、そのことを教えてくれるための、神様からのプレゼントだと思いたい。

2015年12月15日火曜日

「楽しい」の内実を問う

先日の道徳の研究会でも、校内の授業研でも似たことが話題になった。
それが子どもの「楽しい」ということについてである。
中身が問われる。

例えば道徳の研究会で、次のようなことが講師の先生から出た。
道徳の授業に対して、高学年ほど「面白くない」と答えるという調査結果がある。
ここを真に受けて、「学年が上がるにつれてやり方を変えよう」ということになるが、そうではない。
低学年と高学年では「楽しい」の内実が違うということ。
低学年は、ただ答えるのが楽しい時期である。
先生に指されたい、発言したい。
それだけで楽しいのであって、授業内容の面白さをいっているとは限らないということである。

つまり、単に自由にギャーギャー騒げているから「楽しい」と感じていることもある。
子どもが「低学年の頃は楽しかった」という場合、単にやりたい放題していたからということもある。

高学年になるとそうはいかない。
手を挙げて発言したいということも、周りを意識して憚られるようになる。
単に騒がしい授業の中にいるのは耐えがたい子どもも増える。
高学年からの「楽しい」は、自分が発言したかということ以上に、新たな発見など知的好奇心によるものが大きくなる。
だから、先の道徳の結果を見ても、安直に考えない方がよいということである。

体育でも同様。
子どもが「楽しい」という時にも種類がある。
できない技ができた時の喜びによる「楽しい」もある。
仲間と関わりながら運動ができる「楽しい」もある。
技のコツを発見した時の「楽しい」もある。
汗をたくさんかくことによる「楽しい」もある。

どの楽しさをねらっていくかで、授業が変わる。
遊びではなく授業である以上、なるべく知的好奇心を刺激するような楽しさを味わわせたい。

2015年12月13日日曜日

道徳 得るものと失うもの

問い方は大切である。
問で思考の方向が決まる。
道徳では「気持ちを問う」という時、間違えると期待する答えを予想する「当てっこ」になってしまう。

読み物資料の中で、登場人物が道徳的にはよろしくない行為をしたとする。
それを良いか悪いか問うても意味がない。
その行為の背景をきちんとおさえる。
人間は、必ずしも道徳的に正しい選択をしない。
むしろ、たった一つだけの「正解」を選ぶ可能性の方が低い。
選ぶのも選ばないのも、それなりの理由がある。

では、それぞれの選択で、何が変わるのか。
ここで講師の先生のお一人は、
「得るものと失うもの」
に着目させる問い方を提案されていた。

この問い方だと、思考の方向が変わる。
ある行動を一面的に良い悪いということでなく、それぞれの価値を考える。
また、相手の事情を慮ることになる。
自然と、自分と照らし合わせて考えることにもなる。

問い方一つでも、授業の方向付けが大きく変わると学べた。

2015年12月12日土曜日

道徳 より良い選択をする

前号の続き。
道徳の授業について。

道徳の読み物資料。
文科省の配っている「私たちの道徳」という道徳教育用教材の冊子がある。
ここにたくさん掲載されている。

内容の是非については賛否あるが、要は使い方次第である。
今回の道徳研究会に来て気付いたのは、料理も腕次第ということ。
素材がどうであれ、料理次第で旨くも不味くもなる。
(この辺りについては拙著『やる気スイッチ押してみよう!』でもふれている。
逆に大トロのように、下手に調理せずそのままの方が旨い素材もある。)

ダメな使い方。
それは、価値をそのまま教えるもの。
読み物資料には、かなり露骨に価値が出ている。

昔話に例えると、正直者のじいさんはいい思いをして、意地悪じいさんはひどい目に遭う。
だから、正直がよいのだという論理。
昔話は、お話だから許せるのであって、そこに道徳の授業として持ってくると、おかしなことになる。

道徳的価値は前提としてわかっている。
その上で、ある程度正直に気持ちを言えるようにする必要がある。
登場人物の気持ちは、容易に想像がつく。
自分に置き換えると、つい嘘が出る。

ではどうするか。

私の感じ取ったキーワードは「より良い選択」である。
実際の社会では、道徳的でなくても生きていける面がある。
あいさつだって、しなくたって大丈夫である。
ただ、あいさつをした時としなかった時で、それぞれ違いが出る。

どちらの選択がいいか。
ここを分析的に考える必要がある。
得か損かという小さなことではなく、結果がどう違うかをなるべく深く考えさせる。

そのための問い方がある.
長くなったので次号に続く。

2015年12月8日火曜日

異質の共通項を見出だす

全国の様々な道徳の研究団体が集まる会に出席する機会をいただいた。
そこでの気付きのシェア。

一つ一つの実践報告に対し、様々な意見が出された。
色々な団体が参加しているため、真逆の意見も出る。
助言者がAと言ったのに対し、BやCの方がいいと意見が出る。
実践報告者の方がどれを次回以降取り入れるかは、わからない。

ただ、異なる意見の中にも、共通項は見出だせる。
今回に関して言えば、はっきりとした共通項は
「答えの分かりきった気持ちをきいて、それをこれからこうしますと書いたり言わせたりするのはやめましょう。」
ということだった。

具体例を挙げると、資料を読んで気持ちをきいて、
「仲間はずれはよくないと思いました。私もしないようにします。」
というようにまとめていくことである。
仲間はずれはよくないなんて、小学生なら一年生でも知っていることである。
それでもしてしまうことをどう捉え、考えるか。
そこを掘り下げないと、授業の意味がない。

子どもは、道徳の読み物資料の価値については、わかっている。
先生がどう答えて欲しいか知っている。
だからこそ、そこをなぞっても意味がない。
意味がないどころが、害悪ですらある。
授業を当てっこと捉え、顔色をうかがう子どもを育てることになる。
正解を言うことに価値を見いだす子どもになる。
間違いや異質の意見の排除。
そんなことなら、やらない方がましである。

今回の道徳研究会にしたって、異質な意見があるからこそ面白い。
そこから、真剣に価値を見出だしていくから学びが深まる訳である。

では、具体的にどんなアイデアがあるのか。
次号以降、支障のない範囲で紹介していく。

2015年12月6日日曜日

元気も笑顔も仕事の内

実習生や、二十代の人向けの話。

今日は日曜日の朝で、リラックスしてる人が多いと思う。
これが、某国民的アニメでじゃんけんポンをする頃には、テンションが変わる。
勝っても負けてもあいこでも、テンションダダ落ちである。
月曜日が近付くとついテンションが落ちるというのは、割と普通だと思う。

しかし、元気も笑顔も、仕事の内。
疲れてるから元気がない、笑顔がないというのは、私的な態度であるといえる。
仕事という公的な場においては、個人の気分とは無関係に一定のパフォーマンスが求められる。
例えば観劇の役者が、今日はやる気がしないからといって、適当な演技をしたら観客は怒る。
教師だったら、元気に笑顔で子どもの前に立つのは、大切な仕事の一部である。
そこに給与の一部が支払われているとも考えられる。

だから、あまり残業や夜更かしが常態的に続くのは望ましくない。
疲れた身体に、心からの笑顔は備わらない。
健康管理は、子どものためでもある。
無理をすることが時にあってもいいが、笑顔で子どもの前に立てる余力を計算する必要がある。

これは、適当にやってよいということではない。
繁忙期に頑張るのではなく、計画的に仕事を進めておくことが肝になる。

日曜日にリラックスするのは大切。
しかし、月曜日以降に大変な思いをしそうなら、少し進めておく。
ポイントは「少し」で、例えば午前中だけなど、締め切りを決める。
そうして、午後リラックスする。

「休日も仕事のことを考えるべき」とか、
「休日は完全にリラックスすべき」とか、
どちらがいいかは人によって全然違う。
仕事をした方がエネルギーが湧く気がする人は仕事をすればいい。
休んだ方がエネルギーが湧く気がする人は、休めばいい。
休日に運動したり勉強したりするのも、明日の笑顔につながるかもしれない。

笑顔で子どもの前に立てるよう、休みを有効活用したい。

2015年12月4日金曜日

愛情&自己有用感セットで無敵の子ども

前号でも紹介したが、次の記事が予想以上に好評を博したようである。
↓『なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?』
http://president.jp/articles/-/16508

この記事で推奨しているのが、抱っこチャージ。
10秒もいらない。
5秒でも、何なら1秒でもいい。
家庭で毎日やって欲しいことナンバーワンである。

現実に、諸事情によりこれが足りていない子どもがいる。
以前、本にも書いたが、乱暴な子どもは家庭環境に問題を抱えていることが多い。
愛情が足りなければ、心に隙間ができ、当然のように荒れる。
愛情面で本当に満たされている子どもが、いじめや暴力をするはずもない。
親の愛情を受けて育つ子どもは、他人にも優しくならざるを得ないからである。

物質面「だけ」偏って満たされていると、比較によって人を見下すようになり、これまた違った形で荒れる。
人を地位や条件で判断するようになる。
だから、子どもには「〇〇するから好き」「〇〇だから好き」ではなく、無条件で「とにかく好き」と伝えることが大切である。

親からの愛情は無条件に与えられるものである。
バランスを考えると、自分が与えるという面が必要になる。

自己有用感である。
誰かの何かの役に立てる感覚である。
だから、家ではお手伝いをさせて欲しい。
あなたがいると助かる、いないと困ると伝えて欲しい。

愛情を受けて、自己有用感があれば、外の社会では無敵である。
文字通り「敵無し」=「味方だらけ」の状態である。
周りが敵に見えなくなる。
人の良いところを見て伝え、助ける人になる。
家での甘えん坊が、外で素晴らしいリーダーに変身する所以である。

以上、全て家庭教育について述べたが、学級経営も大筋は同じである。
まずは、愛情を与える。
そして、役割を与えて、認める。
存在に感謝する。

大人にも必要なことかもしれない。

2015年12月2日水曜日

なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?

ここ数ヶ月、「プレジデントオンライン」というサイトで、記事をいくつか書かせていただいている。
先月、次の記事がアップされた。
↓『なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?』
http://president.jp/articles/-/16508

「頭のいい子」という表現は、私は使わず編集者の方の意向だが、アクセスが集まっていることを考えると、関心事のようである。
さすがプロである。
内実は、勉強ができるというより、人格的に素晴らしい子どもを指している。
記事の内容を簡単に言うと、家できちんと愛情チャージをすると、外で安定して活動しますよということである。

しかし、この記事の本当の主張は次の文である。

愛しているなら、思いは伝えても思い通りにしようとしない。
愛しているなら、甘えさせても甘やかさない。

親子間についての記事だが、学校の子どもに対しても原則は同じである。
子どもを教師の思う通り動かそうとしない。
しかし、思いはきちんと伝える。
子どもが自分でできることには、指導をしても極力手を出さない。
しかし、苦しんで助けを必要としている時には、思い切り寄り添って支援をしてあげる。

教育の際の原則的な心構えであると思う。

2015年11月30日月曜日

お互いを大切にする

先日、同僚の先生と話していて、深く納得した話。
要約すると、実習生を教えるのも子どもに教えるのも、教える側の心構えは一緒ということ。
大切にしようということ。

実習生を考える。
教育実習生は、教員免許をとろうとする人である。
それも、このご時世に。
仕事は他にいくらでも選択肢があるはずである。
教職の大変さは、いくらか知っているはずである。
そこも含みおきで、教育学部に通っている。

大学生である以上、当然、未習のことも多い。
だからこそ、知っている現職の教員が教える意味がある。
そこがうまくいかないとしたら、本人たちの問題ももちろんあるが、結局は自分自身の指導も省みる必要がある。

これは、子どもにもいえる。
何はともあれ、学校に子どもが登校してくるという事そのものが有難い。
勉強が好きで好きでたまらない子どもがいる。
(そんな子どもはいないという人が時々いるが、これは現実にいる。
 知識欲や探求心が人並み外れて高い子どもである。)
一方で、勉強が嫌で嫌でたまらない子どももいる。
色んな子どもがいても、全員教えるのが仕事である。
うまくいかないとしたら、自分の教え方を省みるのが第一優先である。

一方で、うまくいかないことを全て自分の責任だと思いすぎないことも大切である。
世の中のすべてのことは、波や流れがある。
自助努力で波に乗ったり流れを引き寄せることもできるかもしれないが、満潮の状態を干潮に戻すことはできない。
自分でどうにもできない面もあると割り切ることも同時にしないと、真面目な人は倒れる。

少し話しが逸れたが、要は、相手も自分も大切にするということである。
それは、単に甘やかすのではなく、指導すべきをきちんと指導するということ。
へとへとで倒れそうな状態なら、いたわる。
単に依存しているだけなら、指導して自分でやらせる。
これらの対応は、自分自身へのセルフケアとしても同じことがいえる。
相手や自分の状況に応じて、臨機応変に動くが、要は「相手を大切に」ということが根本・本質・原点である。

目の前で一所懸命に学んでいる相手を、大切にしたい。

2015年11月28日土曜日

受容したくない関係性もある

前号で、教えを受容すべしということを書いた。

しかし、これは師弟関係を例に出して書いた。
つまり、良好な関係性が前提である。
教えられたい人と教えたい人の関係である。

逆に言えば、この関係性がない相手とは成立しないともいえる。

自分が教えられたり指導される側の時を例にして考えてみる。
単純に立場が上という相手がいる。
考えの合わない人かもしれないが、こちらが下の立場という場合である。
従わざるを得ない相手である。
たとえ嫌でもきく。
場合によっては、きかないかもしれない。

これが、関係性の問題である。
「指導的立場にあるから相手が従うべき」というのは、上の立場の側の一方的な論理である。
師弟関係とはかなり意味合いが異なる。
そもそも、ききたくないという関係の相手では、心から受容できない。

逆に、自分が教えたり指導したりする側の時を例にして考えてみる。
これが、教師と子どもの関係である。
子どもにとって教師は、従わざるを得ない相手である。
たとえ嫌でもきく。
場合によっては、きかないかもしれない。
先に出した例の、自分が下だった場合と同じである。

つまり、教えが入るかどうかは、すべて関係性である。
教え方以前の問題である。
アクティブ・ラーニングどうこう以前の問題である。

良好な師弟関係のように、がっちりとした絆で結ばれていれば、何でもすっと入る。
野口先生は「教育の成立条件は信・敬・慕」と明確に仰っている。
「信頼・尊敬・慕う」の意味である。
この関係性がすべてである。

教えを子どもが受容するかどうかも、関係性が全てである。

2015年11月26日木曜日

教えをまずは受容する

相手が間違った行為をする。
つい遠慮して言わないとする。
すると、次も同じことをする。
同じどころか、少し程度がひどくなるかもしれない。
そう考えると、間違いを教えてあげることは必要である。

この辺りは、漢字の習得と同じである。
子どもが、漢字を間違って覚えて、そのままテストを受ける。
正しくない字形だが、見過ごしてしまったり、「おまけ」で〇にしてしまったりする。
そうすると、その間違えのまま進む。
やがて、大人になって、手紙を書く場面などでミスをして、相手に苦笑いされるはめになる。
もっと前に、受験の場面で間違えて書いて、大きな損をするかもしれない。
きちんと間違いを正してもらえなかった不幸である。

私は二十代後半の頃、師匠の野口芳宏先生に、間接的にだが、次のようなことを言われた。
「教えは素直にきく。いちいち自分はこうだとか言わない。それはずっと後でいい。」

自信過剰だと、相手がどんな人であろうと、平気で自分の論を並べ立てる。
自分の論が正しいと思い込んでしまっている。
経験と知識の差だとか、読んでいる本の量とかを考えたら、恥ずかしくて言えないはずなのだが、そこが若さである。

もちろん、意見を述べることは大切だが、あくまで「聞いた上」である。
一旦教えを受容する。
そのずっと後で、熟考した後、「やはり、違うと思うのですが」というのは、有りである。
それをその場でやり返してしまうようでは、教えを受ける資格がないと言っていい。
それなら、別の場で学んでと言われてしまう。
師の教えは「守破離」の「守」である。
その段階にオリジナリティは必要ない。

外に学びに出る時も同様。
批判的に見るのは、それを深く知った後でいい。
まずは、そういうものだと受け容れること。
その上で、自分の考えを入れていく。

素直に受容する姿勢を身に付ける。
批判的な大人からは批判的な子どもが育つ。
子どもに教えたいことは、先に自分が身に付ける必要がある。

2015年11月23日月曜日

言うべきを言えるか

言うべきを言う。
大切なことである。
しかし「言うと面倒だから」ということで、言わないことは多い。
つまりは、言う相手による。

先日は、それなりに混んでいる電車の中で、早朝から大酔っ払いの4人組のおじいさんたちが乗り込んできた。
私は、離れた位置だが同車両内にいた。
まったくかみ合わない会話を大声でわめき散らし、朝の静寂な空気を完全にぶち壊した。
しまいには、歌を歌い出した。
近くにいる人からすると、かなりの脅威である。
(席が遠く離れている私からすれば、お笑いでよくある「酔っ払いコント」をきいているようでもあった。)
明らかに迷惑行為である。
しかし、誰も注意しない。
言っても聞かなそうであり、かなりの高確率で絡まれそうである。
いや、聞かなそうというより、話しかけた時点で確実に噛みついてくる勢いである。
何と言っても、酔っ払った人間に道徳を説くほど無駄なことはない。
強制力のある警察ですら苦戦するのである。
当たり前のように、放置である。

おじいさんズの演説は、その後5駅分続く。
よくまあしゃべるものである。
やがて降りていき、車内に平和が戻った。
周囲はじっと耐えていただけであり、理不尽ながら、悪の勝利である。

こういうことは、生きていると結構ある。
学校でもある。
たとえばお祭りや運動会、陸上大会などで、言ってもきかない大人を説得するのは容易ではない。
マナー違反もどんとこいという人もいる。
注意すると、十倍の文句で返してくる。
そんな人を注意するよう任じられているPTA役員さんは、大変である。
教頭は地域の方々に頭を下げて回るはめになる。
大変である。

ちなみに、電車内の人はまだしも、学校に来る人の方は名前まで覚えられている。
「注意してもきかない〇〇さん」「駐車違反をしていた〇〇さん」になる。
悪い噂はすぐに回る。
地域の保護者として運動会に参加する際にも気を付けたいことである。

要は、言ってもらえない人になるということである。
悪いことをしても注意されない人。
その大人だけでなく、これがその子どもにも伝染する。
ここは防げない。

だから学校では、子どもに「素直」であることの良さをきちんと教える。
悪い点を教えてもらえることは、良くなるチャンスを与えられていること。
いちいち口ごたえしたり屁理屈をつけると、「面倒な人」や「どうでもいい人」になって注意されなくなること。
その怖さも伝えておく。

子どものより良い成長のためには、「ダメなこと」もきちんと伝える気概が必要である。

2015年11月22日日曜日

嫌われる勇気

次のベストセラーがある。
『嫌われる勇気』岸見 一郎/古賀 史健:著 ダイヤモンド社
http://www.diamond.co.jp/book/9784478025819.html

アドラー心理学の本である。
私は、1年半ほど前、発行された当初に書店手で手にとって気に入ってすぐ買った。
対話形式ですらすら読める。
今調べたら、未だに密林書店の現在心理学入門部門の1位だそうである。
読んだことがないなら、確実におすすめの一冊である。

ところで、これまで、受け持った学級の子どもによく言っていた言葉がある。
「自分は嫌われても構わない。ダメなことはダメと言う。いいものはいいと言う。そのつもりでいて欲しい。」

「嫌われる勇気」の一つであるように思う。
自分の信念から曲がった行為は嫌である。
仕事を志事にするためには必須であると初任の頃からずっと思っている。

併せて、次のことも伝えていた。
「どうでもいい相手には何も言わない。自分が担任したからには、自分の子どものつもりで言う。」

それぐらいの気概は必要ではないかと思う。
すべて相手の要求をのんでいれば、波風は立たない。
その方がいいという人も多いかもしれない。

迎合しない。
そうすると、色々と叩かれやすくなる。
あまりいい気分ではない。(どころではないこともある。)
しかし、嫌われないように無理して生きるよりいいのではないかと思っている。
この辺りは、「価値観」であるので、人におすすめはしない。

合う人にはかなり合う本ではないかと思い、紹介してみた。

2015年11月19日木曜日

腹が立つのは自分のせい

結果が完全に予想できたら動けないという話を書いた。

しかし、ある程度の予想は必要である。
危険回避を無視した行動は危ない。

予想できた失敗は、防げた可能性がある。
対策をとった上での失敗は、プラスの失敗。
積み上げであり、次に生きる。
一方で、予想して防げたはずの失敗は、マイナスの失敗。
掘り下げで、次も同じかもっとひどい失敗になる。

失敗を予測できたのに、多分大丈夫だろうと鷹をくくったらダメだった。
これは一番後悔する。

苦しいので、原因を色々探す。
あの人が悪いという結論を出す。
そうしないと、自分の責任になるからである。

そうすると、次は相手に腹が立つ。
何でちゃんとやらなかったの!とか言うとこになる。

心の深い部分では知っている。
自分が対策を怠ったためである。
大抵の叱責は、掘り下げると自分が原因である。

他人の悪口をよく言う人は、自信のない人だという話にも繋がる。
周りを下げて自分を上げるという点で先の叱責と同質の行為である。

怒ったり叱ったりすると嫌になるのは、言えば言うほど自分のことだからのことが多い。

怒っても叱ってもいいが、最後は自分の責任だと自省したい。

2015年11月16日月曜日

やる気を出す以前の自分ルールの設定

前号のやる気スイッチオンの話の続き。

とにかくやることが大切ということを書いた。
何でも、結果をあまり予想しすぎると動けないものである。
「こんな風に思われたらどうしよう」とか想像力を膨らませるほど、動けなくなる。

実際動ける人は、結果はわからないと思っていたり、そうならないと思いこんでいたりするからである。
特に小さい子どもは、失敗することまでは考えていないからいつでも「GO!」である。
子どもが未知のものへもどんどんチャレンジできるのは、この辺りの特性による。

何でも、失敗することが前提である。
もっというと、結果を突き詰めて予想すれば、失敗する可能性の方がはるかに高い。
考えすぎると、動けなくなる訳である。
結果を冷静かつ的確に分析できる「大人」な判断ができる人は、それが故に逆に挑戦しなくなることがある。

だからやる気を起こすには、「淡々とやる」に限る。
ルールを決めてしまう。
例えば「頼まれたら断らない」や「返事は0.2秒」といったことは、決断のためのルールである。

やってもやらなくても結果が得られないなら、やった方がいいというのが持論である。
すべてにおいて「不戦敗」が最低最悪である。何も得られない。
「大敗北」は痛い分、得られるものも多い。

私なら「二日に一回メルマガ発行」が「淡々とやる」の具現の一つである。
「こんなこと書いてこんなこと思われたらどうしよう」と想像力豊かにしたら、何も書けない。
書くと決めて書く。
ルールを決めて、淡々と続ける。
結果はあまり気にしない。
反応・反響はあったら嬉しいが、なくても気にしない。
やる気スイッチを入れるコツの一つではないかと思う。

2015年11月11日水曜日

科学によるやる気スイッチオンの方法

前号の続きで、脳のやる気スイッチを入れる方法。

脳内のやる気物質は、有名なアドレナリンを始め色々あるが、まとめて「アミン系神経伝達物質」という。
やる気スイッチオフという状態は、この物質が脳から出ていない状態を指す。

で、気になるのが、どうすれば出るのかという点。
極めてシンプルである。

答えは、とにかくやること。

行動を起こすと、アミン系神経伝達物質は勝手に分泌されるらしい。
やる気がなくても、とりあえずやればスイッチオンになるという仕組みである。
つまり、動き出すきっかけ作りや、仕掛けの仕込みが肝心といえる。

例えば私なら早起きするために、起きた時のコーヒーを楽しみの仕掛けにしている。
コーヒーを飲みたいからとりあえず起きようという仕掛けである。
単純だが、かなり効果がある。

逆にいうと、脳は必要もないのにいつまでもダラダラと寝させてしまう構造をしている。
やらないとやる気が出ないからである。
十分睡眠時間は足りていてもダラダラしてしまう原因がここにある。
(寝ていて最高に幸せなら、寝ていればいいと思う。本人に罪悪感がある場合は、嫌でも起きた方が良いと思う。)

つまり、今後「私のやる気スイッチをオンにする方法は何ですか。」または「クラスの子どものやる気スイッチオンにする方法は?」
と聞かれたら、「やることですね。」と答える。
「何だその答えは!?」と思うが、結構重要である。

子どもの自主性を重んじるあまり、すべて子どもに選ばせようとする。
すると、やったことのないものや自信のないもの、不得意なものには興味を示さないか、抵抗を示して選ばない。
理由は、前号の話で紹介したように、人間は基本的に新しいものへの興味よりも失敗への抵抗の方が強いからである。

だから、時に教師が子どもに「やろう」というきっかけを作ることは大切である。
そこにやる気を出すかどうかは、その後の話になる。
「アクティブ・ラーニング」の自主性を履き違えて、何でも子ども任せにしては、せっかくのチャンスを逃す。
「指導」の言葉が示すように、ある方向を指し示して導くためのきっかけづくりは、教師の重要な仕事である。

2015年11月9日月曜日

脳のブレーキとアクセル

やる気スイッチに関わる話。
次の本を読んだ。

『海馬 脳は疲れない』池谷 裕二 糸井 重里 著 朝日出版社 他
↓こちらの「ほぼ日刊イトイ新聞」のH.P.で、本に編集前の原文が結構詳しく読める。
https://www.1101.com/brain/2005-07-06.html

脳科学者の池谷氏が、脳科学の観点からやる気について詳しく述べている。
ごく簡単に言うと、脳には次の相反する性質がある。
1 脳は新しいものに反応してやる気を出す
2 脳は新しいものに反応して警告を出す

つまり、新しいものを取り入れて変化して生き残ろうという本能と、
危険を避けるために新しいものを拒絶しようとする本能が共存しているということである。
どちらも生き残るために必要な本能である。

糸井氏はこの危険回避の本能を脳の中の「ストッパー」や「ブレーキ」と表現している。
ストッパーを外すと、すごい力が発揮される。
しかし、これは例えば肉体が耐えきれないほどの力を出して自己破壊をしてしまう危険も出る。
蛇やキノコなどの毒のあるものにも、興味を持って平気で手を出してしまうこともある。
だから、ストッパーは安全面で絶対必要なのだが、挑戦したり力を発揮したりするには邪魔でもある。
ブレーキなしの車でアクセル全開では、速いが危険すぎる。
だから、両方の本能が備わっているらしい。
何ともよくできているものである。

さて、大自然の中で暮らすためには、ブレーキ側の本能がより大切である。
ジャングルも草原も海も、危険がいっぱいである。
同じ場所に留まって環境変化で絶滅するリスクもあるが、やたらに動いた方がより危険である。
だから、ある程度のテリトリーを持って、その場に留まる。
このように、生物は本来、挑戦本能よりも保守本能の方が強い。
命最優先が故である。

この本能の原則は、教室にも持ち込まれる。
変化や刺激がないこと以上に、危険なことはより避けたい訳である。
例えば何か発言したりやったりした時に、すぐ否定されたりバカにされたりしているようでは、当然ブレーキの方が強くなる。
もし失敗しても大丈夫な環境であれば、刺激を求めてアクセルの方が強くなる。

安全・安心が全てのベース。
挑戦のやる気スイッチも、アクティブに動けるかどうかも、安全・安心面が確保されていることが本能的な前提である。
______________________________

2015年11月6日金曜日

相手に応じて変える

最近、以前よりも指導が「ゆるやか」な感じがしている。
自分の中では、いい傾向だと思っている。

あまりびしっとしていないという分、自由度を上げるようにしている。
理想型は「自由な雰囲気を持ち、やる時はやる」という集団である。

これも、子どもたちのレベルに応じてである。
つまり、相手による。
もっと自分たちでやれそうなら、もっと自由度を上げる。
自分たちでやるのは難しそうなら、自由度は下げて教師側の指導性を強く出す。
全て、相手に応じてである。

子どもたちには「信用と自由」の天秤図で伝えている。
(出典:『子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話』平光雄 著 致知出版社
http://online.chichi.co.jp/category/BOOK/1052.html
信用が大きくなるほど、自由が大きくなる。
また、自由が大きくなるほど、責任も大きくなるということも伝える。
これは、社会における融資の仕組みと似ていると思う。
そうすると、子どもたちは自由が欲しい分、やるべきことをきちんとやるようになる。
結果、ますます自分たちがやれることが増えて、さらに自由になるという好循環である。

アクティブ・ラーニングの実践は、能動態である以上「自由度」が結構重要になってくる。
教室には、やるべきはやり、かつ自由な空気というのを醸成していきたい。
______________________________

2015年11月4日水曜日

アクティブ・ラーニングは、状態 国語科の例

前号の続き。

アクティブ・ラーニングが実現されている実践は、教室でなされているのか。
これは、もうずっと前から各地で実践されている。
ただ「アクティブ・ラーニング」という言い方がなされていなかっただけである。
ラベリングの差である。

少し前に「言語活動の充実」が提唱されてからは、特に増えたはずである。
例えばこれが一番実現されやすい国語科の学習では、「単元を貫く言語活動」ということで、全国で様々な実践が広がった。
物語文を読んで内容理解をして終わりにしない。
パンフレット・リーフレット作り、帯作り・推薦文作り、劇化、インタビュー活動、手紙、絵日記、ディベート、再話、続きの話や類似した話の創作、同じ作者の物語の比較、問題作り、評論文・・・
これらの言語活動を単元全体に設定することで、能動的かつ協同的に子どもが動くように仕掛ける実践が山ほどなされた。
この中で今求められている「アクティブ・ラーニング」の実践が実現されていた教室もたくさんあったはずである。

ただ、表面的に方法を真似をしたからと言って、必ずしもうまくいかないのが現実である。
物語を読んでから台本作りと劇化を設定したが、思ったように子どもが動かない。
尻すぼみになって終わってしまう。
よくある話である。
なぜなら、その実践に対しての教師の理解度が違い、かつ子どもの実態に合っていないからである。

だから、アクティブ・ラーニングの方法は、具体的に示されていない。
「学習問題を書いてみんなで比較検討して正解が出たから、問題解決学習ができた」とはいえないとの同じである。
やり方だけが先行して、内実が伴わないという事態を防ぎたい意向があるのかもしれない。

文科省が全国の教室に求めているのは、各自が工夫をすること。
従来通りではなく、一工夫して欲しいということ。
少し前に紹介した「プレミアム授業」を標準仕様にして欲しいということであると解釈している。

繰り返すが「これをしたからアクティブ・ラーニングの授業」ということはない。
アクティブ・ラーニングは、そうなった「状態」である。
同じ時間の同じ教室の中にも、そうなっている子どもとなっていない子どもがいる。
すごく興味を持って意欲的に活動している子どもとそうでない子どもがいる、というのが普通である。
だから、なるべく全員がそうなるようにやり方を改革してくださいということである。

曖昧なことを求められている感じもするが、これは文科省からの「頼まれ事」である。
そして「頼まれ事は、試され事」。(この言葉は中村文昭氏の講演CD『しゃべくり』より引用。)
各自の工夫の余地がたくさんあると解釈して、前向きに取り組みたい。

2015年11月2日月曜日

『みんな』やる気があれば、アクティブ・ラーニングの授業か

アクティブ・ラーニングの具体を考える。

仮に、子どもが能動態でかつ協同的に学んでいることを必要条件とする。
世の解釈が揺れているため、十分条件はここでは定義しない。

では、例えば、算数の授業で考える。
学習問題を子どもが見出して、解決の方法を自力で考え、さらに意見を比較検討してみる。
みんなであれこれ考えて、様々な方法で正解に辿り着けた授業があったとする。
授業も「活気に満ちて」いて、「協同的な関わり」も随所に見られた。

これなら、アクティブ・ラーニングの授業といえるか。

これは、正直、これだけの情報では、わからない。
なぜなら、全体の「内訳」を見て、さらに子ども一人一人に対して見てみないとわからないからである。

能動態でやる気を出していたのは40人中30人だとする。
これぐらいの状態だと『「みんな」やる気がある授業でした』という印象を持ちやすい。
実際、必要条件を満たしているのは30人で、残り10人は満たしていない。
更に発表をしたのは、10人であるとする。(ちなみにこの10人は全員が能動態の30人とも限らない。)
残り30人の動きが気になる。
また、その10人の考えがそれぞれどこから来たのかも気になる。
4人の班であっても、完全に1人で考え出したものかもしれない。
または、事前知識があって発表しただけかもしれない。

もっと言うと、この例だと教師の動きが不明である。
授業である以上、子どもを高みに導く働きかけが欲しい。
「教師がいなくても大丈夫な状態」を子どもには求めつつ、実際には指導する。
アクティブ・ラーニングの「授業」に対して考えているのであるなら、教師の動きは必ず問題になる。
現在、有効な働きかけや関わり方を探っている段階である。

以上、くどくど述べたが、自分の結論としては、次のような解釈である。
『「これをしたからアクティブ・ラーニングの授業ですよ」ということは、ない。』

要は、アクティブ・ラーニングとは、方法論ではなく、状態を指すと考える。
〇〇をすればアクティブ・ラーニングで、××だとアクティブ・ラーニングではない、という単純な性質のものではないと考える。

今、様々な場での取り組み、提案がなされているので、これからの動きに注目していきたい。

2015年10月29日木曜日

アクティブ・ラーニング⊃能動&協同

アクティブ・ラーニング考察シリーズ。
具体に入る前に、言葉の指す範囲を少し整理する。

アクティブ・ラーニングの指す範囲は広い。
「アクティブ・ラーニング」≠「能動態」であることは前にも述べた。
「アクティブ・ラーニング」⊃「能動態」と考えてみる。

数学の集合論で言うと、能動態は、アクティブ・ラーニングの必要条件ではあるが、十分条件ではない。
必要条件がたくさんあるのである。

もう一つの大きな必要条件は「協同」である。
「アクティブ・ラーニング」⊃「協同」である。
前号で示した、例示にある
「グループ・ディスカッション」
「ディベート」
「グループ・ワーク」の手法は、全て協同的な学習である。
他人との関わりが必要条件の一つということである。

こういう視点で見てみると、自分の授業がどうであるかの指標の一つになる。
能動態であるかは判断しにくい面があるが、協同的な関わりがあるかは割と見やすい。

あくまで指標の一つに過ぎないが、はじく上では割と判断しやすい材料である。

2015年10月27日火曜日

アクティブ・ラーニングの定義と解釈

アクティブ・ラーニングの定義は、以下のものである。
文部科学省H.P.『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)』の『用語集』より引用。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm

===============
(引用開始)
【アクティブ・ラーニング】(p3、4、9)
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。
学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。
発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
(引用終了)
===============

定義はされている。
解釈の方が割れている訳である。

最初の「一方向的な講義形式」という言葉一つとっても、解釈次第である。
ある特定の子どもと活発にやりとりがある場合ならいいのか。
子ども同士が関わっていればよいのか。
子どもがじっくり話を聞いて、興味が湧いて調べるようになったら、それでも一方向的なのか。
・・・
解釈次第で、やることが変わる。

要は、今までのやり方を変えてくださいよということである。
2文目の「汎用的能力の育成」が目的である。
簡単に言うと、大人になって社会で使える力をつけて欲しい、そのために授業の在り方を変えて欲しいということである。

知識があるだけではダメで、それを使えるようにして欲しい。
でも、知識は大切だから、ないがしろにしないように。
そんな感じである。

汎用的能力の育成のために、例示が3文目に示されているが、どれもあくまで「手法」に過ぎず、そのものではない。
イメージはあるが、具体が見えないという感じである。

次号、アクティブ・ラーニングの具体について考えていく。

2015年10月25日日曜日

アクティブ・ラーニング≠指導の放棄

アクティブ・ラーニング考察。
アクティブ・ラーニングに対しては、解釈が広い。
解釈が広いと、誤解も生む可能性も高い。
誤解の一つは、教師の指導性についてである。

子どもが自ら動くことを重視するために、教師主導を極端に否定してしまう。
否定するというよりも、それを盾に指導の放棄をしてしまう可能性がある。

指導しないでもやる気を勝手に出してくれるなら、放っておけばよい。
しかし、そんなうまくいくはずがない。

誤解しがちな例を挙げる。

どの教科でもいいのだが、学習課題を設定して、
「この問題について、今日はみんなで協力して考えてみましょう。」
これだけでうまくいく実践がある。
映像だったり、公開研究会だったりで見られることがある。
普通に考えれば、それをそのまま自教室では実践しない。
それ以前のベースになる指導がきちんとなされていることを知っているからである。

しかし、経験がないと、このあたりを誤解する。
「こういう風に子どもに任せると、うまくいくのか。」と考える。
そして自分のクラスでその部分だけをそのまま実践すれば、当然滅茶苦茶である。
「同じやり方をしたのに、なぜうちのクラスはうまくいかないのか」と悩む。
違う体型の人に同じサイズの服を着せるようなもので、無理である。
体型に合ったサイズの服だから、似合うし無理がない。

たた悩んだ後に、自分の日常の指導が悪いことに気付けば改善できる。
しかし「子どもに問題があるからだ」と考えると、永遠に泥沼である。

指導なしでやらせたら、単なる放任である。
話し合って解決できるクラスは、解決の仕方を指導されている。
仲間同士の関係づくりについても、日々指導されている。

教師の指導があった上での「アクティブ・ラーニング」があることを忘れないようにしたい。

2015年10月23日金曜日

アクティブ・ラーニングとやる気スイッチ

アクティブ・ラーニング。
教育界の流行語のようになっているが、解釈の幅がかなり広い。
文科省の定義自体はあるが、そこから具体へ落とし込む際の解釈が幅広い。
どの解釈にも共通しているのが「能動的」であるということ。
「アクティブ」の意味が「能動態」であるため、当たり前ではある。
(ちなみにアクティブの対義語はパッシブ。受動態である。)

これは飯村先生との共著のタイトル『やる気スイッチ押してみよう!』というのと大いに関係があると思っている。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1

要は、やる気スイッチオンの状態が、自ら学ぼうという状態である。
世のアクティブ・ラーニングの解釈が揺れているので定義できないが、近い状態であることは間違いない。

ちなみに、何度も言っているが「私のやる気スイッチ押してください」と言われても、押せない。
「担任している子どものやる気スイッチを押してください」と言われても、やっぱり押せない。
やる気スイッチは自分で持っていて、かつ各々、自分自身にしか押せないというのが持論である。
自分でスイッチを入れている状態にする必要がある。
セミナーに行くのも本を読むのも、自分のスイッチを入れるという点で大きな意味があると思っている。

ただ、他者である子どもが、やる気スイッチを自分で入れるきっかけを作るまでの大まかな手順は示せる。
そのための手段が、各章のタイトルにある
1「主体変容・率先垂範」
2「事前指導」
3「輝く教材」
4「イイ関係」
の4つである。

教師が学びを主体的に楽しめば、それは子どもにもうつる。
事前指導をしっかりすることで、子どもはゴールに向かって主体的に動ける。
輝く教材を用いることで、学びたい意欲を引き出せる。
イイ関係を作ることで、協同的な学びができる。

ただし、どれも最後に「かもしれない」というのがつく。
アクティブ・ラーニングではパッシブ・ラーニングと違い、与えられるものではなく、主体的に選び取るものだからである。
逆説的に言うと、いいと思えるものを提示しても、選ばない可能性があるということでもある。
子どものスイッチの入り方はそれぞれ違う。
だからこそ、多くの手段を身に付ける必要がある。
その大まかな方向性として、先に示したやる気スイッチの4つの手段は、有用であるように思う。

2015年10月21日水曜日

「プレミアム授業」?

名称とイメージについて。

最近、「〇〇プレミアム」や「プレミアム〇〇」が世に氾濫している。
電車の吊革広告を見れば、それがよくわかる。
そのせいでプレミアムでなくなっている感もある。
しかし「プレミアム」とつくと、何か高級感というかお得感が出るのは確かである。

ちなみに、「プレミアム」とはどういうことか。
「プレミアムについて説明してください」と言われたら、どう答えるか。
多分「高級」とか「お得」とか「レア」とか「セレブ」とか「えぐぜくてぃぶ」とかそういうイメージではないだろうか。

「プレミアム」を辞書で引いてみる。
色々書いてあるが、要は「割増」のことである。
つまり、標準のものに特典を付けたものである。
おまけ付きである。

しかし、おまけ付きのものなら即「プレミアム」という訳ではない。
例えば、子どものお菓子でおもちゃやシールのおまけ付きのものが多いが、あれは標準仕様がおまけ付きである。
(おもちゃにお菓子がおまけで付いている感も否めない。)
よって、そういうものは「プレミアム」ではない。

どんな場合だと「プレミアム」なのか。
例えば、ある会社の「白桃ジュース」という商品があったとする。
その商品が普通「果汁10%」なのに、「果汁20%」のものを特別に作ったとする。
これは通常のものに割増しているので、同商品と比較して「プレミアム白桃ジュース」として堂々と売れる。

「プレミアム商品券」という名称を付けるからには、特典を付ける必要がある。
普通1万円で買えるのは1万円分の商品券だが、そこに2000円プラスしますというなら、プレミアムである。

そんな感じである。

そこで「プレミアム授業」を考えてみる。
普段の授業に、付加価値をつける。
要は、普段より一工夫した授業である。
その意味で、研究授業などは「プレミアム授業」といえる。

理想は、毎日をプレミアム授業にしていくことである。
いつもの授業に、楽しくなる一工夫。
学んだことを利用して、明日の授業に一工夫をしたい。

2015年10月19日月曜日

その授業に価値はあるのか

ここ最近、授業の略案や指導案を見る機会が何度もある。
校内研究に加え、実習生が来る時期が重なっているためである。

授業を見た後、大抵指導するのが、その授業の目標についてである。
要は、何がしたかったのか。
どうなれば成功なのか。
それこそが、指導案に記述されている目標そのものである。
ただの飾りの文言ではなく、子どもの姿そのものである。
そして、そこに辿り着くために、途中に様々な手立てを入れて、一時間の授業が組み立てられる。
逆に言うと、手立てもなくいきなりやらせても子どもの自力(地力)でできる目標であれば、授業の価値はない。

つまり、その授業をしたことで、子どもにどんな学力が付いたのか。
師の野口芳宏先生の言葉で言えば、どんな「向上的変容」が見られたのか。
逆説的にたずねるなら、その授業をもし受けなかったら、子どもの未来にどんな不利益が生ずるのか。

もしこれらの問いに明確に答えられないのであれば、授業した意味がないかもしれない。
授業を受けることで、プラスの変化が生じているはずである。

ふと、自分の授業を振り返る。
いつの間にか、前に立てば子どもが授業を聞いてくれる立場になった。
しかし、それは本当に向上的変容の連続的保障をしている授業か。
惰性になっていないか。
教科書に載っているから、年間計画にあるからやっているだけではないか。

改めて、自分に問い直してみる機会になっている。

2015年10月17日土曜日

体育指導 原因を見抜き、対策を数多打つ

今回は、現在専門に研究をしている体育の指導について。

体育では、技能の上達が大切である。
思考させたり意欲を持たせたりも大切だが、どんな場合でも技能は上達させたい。
算数で、自力で問題を解けるようにさせたいのと同じである。
(ちなみに、算数と体育はかなり似ている。上達や獲得までのステップの踏み方もほぼ同じである。)

跳び箱運動を例に考える。
跳び箱が跳べない子どもに対し、「がんばって跳びなさい」というのは誰でもいえる。
教師の仕事のレベルではない。

例えば、踏切が跳べない原因と考えたとする。
そこで、「踏切をしっかりしよう」と声をかける。
これも直接的すぎる。
踏切という局面に絞ったのはいいが、何をどうしっかりすればいいかわからない。

「『バン!』と音が鳴るように踏み切ろう。」
これは少しいい。
音という具体的な目安がつく。
しかし、これでもうまくいかない場合がほとんどである。

そこで、間接的に様々な手立てを講じる。
導入から色々やらせる。
ケンケンパーからケンケングーをさせて、両足踏切の感覚をつかませる。
足じゃんけんをする。
カンガルージャンプをする。
その場で足踏み&ジャンプをする。
踏切板に印をつける。
もっと前の助走段階で「ケンステップ」のような平べったい輪を置く。
どうしても踏切のタイミングがつかめない場合、手をつないで一緒に走ることもある。
・・・・

要は、一つの動きの改善に対し、いくつもの手立てを打てること。
これは、経験によるものも大きいが、
「なぜそれができないのか」&「どうすればできるのか」
という原因に目を向けると、色々思い付く。

気になる子への指導にも通ずる、基本的な考え方の一つである。

2015年10月15日木曜日

気になる子を伸ばす指導

タイトルは、赤坂真二先生編著の「学級を最高のチームにする極意」シリーズの最新刊名。

『気になる子を伸ばす指導』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185611-3

第一章の赤坂真二先生の項を見るだけでも勉強になる。
しかし、他の執筆陣も自らの体験を通して書いてあり、説得力がある。
クラスの「気になる子」を、どう捉えてどう指導したか。
クラスに「どうにも手に負えない」と思う子どもがいる場合は、特に一見の価値ありである。

私の書いた原稿のタイトルは
『「気になる子」こそ「神様」』。

気になる子どもは、ずばりクラス改革のキーマンである。
そして同時に
「2:6:2の中間層を落とさない」
ということにも触れている。

他の先生方の事例もかなり勉強になる。
タイトルだけ羅列する。

1章 ”気になる子”は学級が荒れる原因ではない
1ある教室の風景
2気になる子と学級の荒れ
3気になる子とは
4気になる子が特徴的な行動を繰り返すわけ(以上、赤坂先生原稿)

2章 気になる子を伸ばす指導 成功する教師の考え方とワザ
1まずはその子を好きになる
2「気になる子」が「気になる部分」とうまく付き合えるように
3「気になる子」ばかりを気にするな
4忘れがちなのは、まずは教師が心にゆとりを持つこと
5「気になる子」を支えるチームの力
6「気になる子」こそ「神様」(拙稿)
7あべこべ指導で学級を立て直す!
8教室の「気になる子」から学んだ指導の極意

書店で一度手にとっていただけたら幸いである。

2015年10月13日火曜日

人の時間を盗まない

今、教室前方にそんな言葉を書いた紙を掲示している。
経緯は、教室移動の際や、帰りの支度の際に、早く終わってずっと待っている人に対し、遊んでいる人がいることからである。
大切なことである。
正論だと思う。

しかし、見る度にどきっとする。
自分ができているか。
授業でも、ついしゃべりすぎて、子どもの時間を奪ってないか。
毎回聞く価値のある話ができていれば別だが、そこもかなり心許ない。

普段から子どもに言い聞かせている様々な言葉。
改めて見ると、どれも自分自身に言っているようにしか思えない。

教育実習生への指導も同様。
人に教えるということは、自分自身を省みる行為だと思い知る日々である。
立派な言葉ほど、使う時は注意したい。

2015年10月11日日曜日

教育実習生の授業のベースは、十年前の自分の授業

今年、教育実習生の授業を観る機会がたくさんある。
「どうしてこうやるの?」と聞く。
すると、「自分が小学生の時、このやり方で授業を受けてきました」という。

ある程度ストレートに大学に来たとして、今の20~22歳の学生が小学校で受けた教育は10年前。
私も当時教えた子どもたちである。

つまり、小学校教育そのものが、直接教員養成系大学の学生のお手本となっている。
講義でたくさん学んでいるかもしれないが、ベースは自分の受けた授業。
どの地方のどの小学校であっても、未来の教師を育てているといえる。

そう考えると、責任重大である。
「十年一日」とはよくいったもので、十年前と今で教え方が全く同じ場合、これは危ないかもしれない。
不易と流行という面で、不易の面を疎かにしないのは大切だが、単に工夫がないのはまずい。

今目の前にいる子どもへの教育は、十年後の子どもの教育にも何らかの影響を与える。
「研究と修養に励む」という不断の努力が教師に求められるのも、納得である。

2015年10月9日金曜日

一切皆苦

9月9日の939号にちなんで(メルマガ発行日&号数)「苦」に関する話。

「一切皆苦」という言葉が仏教にある。
苦とは、自分の思い通りにいかないことを指すという。
一切のことは、皆思い通りにいかないものである、と訳せる。
自分の肉体や精神の状態ですら、思い通りにいかない。
まして、他人については、言わずもがなである。

教育には、人を変える力がある。
しかし、変える力があるということと、変えられるということは別問題。

教育が「苦」になるのは、目の前の子どもが変わらない時である。
しかし、相手には相手の都合がある。
変わる時には変わる。
変わらない時には変わらない。

こちらには、変わる時のための種を蒔いておくことしかできない。
種は、蒔いてもいつ芽が出るかわからない。
芽が出ないからといって心配になって掘り返すと、ろくな結果にならない。

良い作物を育てるには、土作りから。
大根は、細いのやら太いのやら、色んな形があっていい。
今は亡き初任者指導の先生に教えられたことを思い出した次第である。

2015年10月7日水曜日

「ほめる」にもレベルがある

「ほめ言葉のシャワー」で有名な、菊池省三先生の講座を初めて受けた。
地元の若い先生たちが力を集めて実現した会で、大盛況だった。
他県での菊池先生の講座に仲間で出向き、直接お願いして来てもらったという。
素晴らしいことである。
お陰様で、その努力の成果のおこぼれにあずかれた。

以下、講座の内容ではなく、受けた自分の主観である。

実際の「ほめ言葉のシャワー」の映像を見て、色々納得がいった。
ただやたらとほめている訳ではない。
相手の具体的なエピソードを交えて、なぜそれがいいのかという訳も含めて詳細に説明して伝えていた。
それを、クラスの子どもたちが次々に行う。
言語力も相当鍛えてある。

この映像を見て「ほめる」にもレベルがあるということを考えた。

見たままや印象をほめる。
これは、初めて会う人にもできる。
誰にでもできて、簡単なレベルである。

やったことをほめる。
これは、観察していればできる。
少し知る必要がある。

普段の在り方についてほめる。
人格的な面などのすばらしい点についてほめる。
長い時間接していると見える。

理由を付けてほめる。
なぜそれがいいのかを具体的な言葉にしてほめる。
感情的な面だけでなく、論理的にほめる。
言語力が必要で、語彙が多いほど内容豊かに伝えられる。

自分の考えや感情を付けてほめる。
相手の具体的なエピソードに対し、自分の考えや感情を交えて伝える。
相手のお世話になったりいい面を見たりして、感情が動く必要がある。

まだまだ色々あると思うが、「ほめ言葉のシャワー」は、かなりレベルの高い実践だった。
字面だけ見ると、やたらめったらほめているだけのようだが、全く違う。

自分は、あのやり方そのままではなくとも、仲間にああいったほめ方ができる子どもを育てたいと思った。

学級経営にもうひと味加えたいと思っていた自分にとって、刺激になった一日だった。
講座を開催してくれた若い仲間たちにも感謝したい。

2015年10月5日月曜日

実習生に教え、教わる

教育実習生が来ていた。

教育実習があると、自分の指導担当の先生に教わった言葉を思い出す。
「その子どもと何でつながるか」

ずっと以前のメルマガに、次のような記事を書いた。(以下、引用)
=======================
教室には様々な子どもがいる。
活発で明るい子どもは、普通にしていれば会話できる。
学習が遅れがちだったり、やんちゃな子どもは、何かと1対1で会話する機会ができる。

注意すべきは、特にこれといった問題もなく、目立たないきちんとした子ども。
何かしら、つながるための「チャンネル」が欲しい。
日記は、有効な手段の一つになり得ることが多い。
一緒に遊ぶのも、つながりを深めるよいチャンネルである。
音楽指導が得意な人は、歌でもいい。
絵をかくことでつながってもいい。
将棋やオセロでつながれる子どももいる。
好きな本のことでつながれる子どももいる。
漫画だって、歌手だっていい。

全ての子どもと、何かしらのチャンネルでつながっていることが大切である。

子ども一人一人を見るということは、言うは易く行うは難し。
相当意識しないと、自然にはできないものであると心得たい。
===========================
(引用終了)
子どもを観る多様な目を意識して持つ。
実習生に教えながら、自分ができていないことにも気付く。
教えつつ、自身でもう一度学び直したい。

2015年10月3日土曜日

夏休みの宿題代行業隆盛に思う

メルマガからの記事なので時期がずれるが、夏休みの宿題の話題。

以下の記事を読んだラジオ局の方から、今年の夏休みにラジオの取材を受けて回答した。
http://president.jp/articles/-/15853

夏休みの宿題代行業があるという。
学校からすれば、恐るべきことである。
もはや、何のために夏休みの宿題が存在するかという存在意義自体が問われている事態である。

業者の側の視点からすれば、儲かるからやっているだけである。
何なら、苦しんでいる親子を救っている存在ともいえる。

利用する親の側からすれば、助かる存在である。
どうにもこうにも手の付けようがない我が子の宿題を「処理」してくれる。

学校の側からすれば、全くもって心外である。
夏休みの宿題の大切なねらいの一つである「望ましい生活習慣の形成」など、見る影もない。

まあ、どの立場の人がどう受け止めてもいいのだが、上記三者の例では、大切な人の視点が抜けている。

子どもである。
子どもが、夏休みの宿題によって、何を学ぶかである。

夏休みの宿題を、8月31日の夜に親に手伝ってもらいながら必死に終わらせた経験がある方もいると思う。
まあ、宿題のねらいからするとかなり外れるが、この場合とて色々なことを学ぶ。
計画的に物事を進めておくことの大切さ。
先延ばし癖の害悪。
親への申し訳なさと感謝。
自己批正。
夏休みの宿題への遺恨も残すかもしれないが、色々学習する要素がある。

これを、代行業差に親が委託したとする。
何を学ぶのか。
正直に話すより、ずるしてでも誤魔化すこと。
お金さえ払えば大丈夫。
いざとなったら親が全て何とかしてくれる。
そんなことを学んだ子どもの未来は、不幸である。

もしかしたら、受験があるなどの理由から、どうしてもやりきれなかった面があるかもしれないとも思う。
それは、学校の側も配慮が必要なのかもしれない。
ただ、学校としては「こういう事情で、申し訳ないですが、どうしてもやれませんでした。」
と説明してくれれば、事情を慮ることができ、それ以上追求はしない。

また、そんなに親子を苦しめるような宿題の出し方自体にも問題があるかもしれない。
ここは場合によっては、宿題を出す側が大いに反省すべき点もある。
とにかく、それが本当に子どものための宿題になっているのかというのが大切な視点である。

学校は、子どもを成長させ、良くしていくための機関である。
宿題は、その機能の一つである。
そもそも論に立ち返り、宿題の意義について考える必要があるように思った。

2015年10月2日金曜日

日常の小さな出来事を大切にする

「人の心が荒れるのは、大きな出来事によるものではない。
日常の小さな出来事による。」

フランスの文学者、ラ・ロシュフコーの言葉。
この人の言葉には教育に関する名言が多いということで、鍵山秀三郎先生が紹介していた。

大きな出来事は感情を大きく動かすが、ただそれのみによって心が荒れる訳ではない。
日常の小さな出来事が心を荒らす。

全くその通りであると思う。
「神は細部に宿り給ふ」という言葉もある。

学級が荒れてしまうのは、大きな出来事があるからではない。
日常の、本当に小さな出来事の積み重ねである。
学級崩壊を立て直した先生の話を聞くと、大改革をした訳ではない。
授業の準備に一工夫した。
掃除をきちんとやった。
子どもの顔を見て話を聞くようにした。
子どもと遊んだ。
ありがとうと伝えた。
然るべき時に子どもを認めた、褒めた、叱った。
どれも、小さなことである。
小さな+を積み重ねているのか、小さな-を積み重ねているかの違いである。

要は、日常の小さなことを疎かにしないということ。
まずは一点突破。
仕事でも生活でも共通して役に立つ言葉ではないかと思う。

2015年9月29日火曜日

「よかったね」が言える学級

「おめでとう」「よかったね」が、周りから自然と出てくる学級。
学級の理想型の一つである。
仲間の喜びを一緒に喜べれば、一日の中で喜ぶことが一気に増える。
逆も然りで、妬みや悪口が出ると、嫌な気持ちになる機会が増える。

この反応の差はどこにあるのか。

思うに、「自信」が関わってくるように思う。
自分に価値があると認めることができれば、他人の良さも認められる。
ダメなところがあっても、お互い様と思える。
自信がないと、相対的に人を低くしようとして、それが悪口等になる。

まずは子どもに自信をつけること。
それは偉ぶるのとは真逆で、自分にもやれることがあると思わせること。
ダメなところは、とりあえず後回し。
(ただし、危険であったり人を傷つけるようないけない行動への指導は、後回しにしない。)
そんなところを重視して、後半の学級経営に臨みたい。

2015年9月27日日曜日

目で聞き、耳で見る。

タイトルは、次の本から見つけた言葉の引用。

『道遠し』毛涯章平著

この本で書かれている言葉を引用する。
==================
(引用開始)
思うに教育の営みは基本的な秩序や規律が必要である。
また当然なすべき課題は、厳しくそして周到に用意され、確実に実現されることを願いとする。
しかもその中にあって、教師は個々を深く見つめ、寄りそい、目で聞き耳で見る注意深さとゆとりをもって、
時には「前禽を失う」べく臨機応変の粋な計らいが生まれることを私は期待し、
それは教師の絶えざる精進から自然に発することを信じたい。
(引用終了 メルマガの読みやすさの都合上、一部こちらで改行)
===================
以下、私見。

「目で聞き、耳で見る」とは、一見すると奇怪な言葉である。
「目で見て、耳で聞く」はずである。
しかし、教師の仕事をしている人には、感覚的にわかるのではないかと思う。

要は、本質を見抜くということである。
一見、または一聞して、そのまま表面的に受け取らないということである。

例えばこの本の中では、次のような実例への対応が挙げられている。
あまり出来映えのよくない夏休みの作品への評価。
校長室の前の廊下をものすごい勢いで走っていく子ども。
中学の遠足で持ってきてはいけないお金を持ってきた子ども。

どれも、秩序や規律の面で見たら、だめなことである。
しかし、それぞれ、次のような面が見えると、捉え方も変わる。

多くの子どもが親に手伝ってもらっている中で、完全に自力でやってきた。
低学年で風邪をこじらせ、長期の入院を経てやっと退院したばかり。
祖母に、お守りを買ってきて欲しいと頼まれた。

それでも、規則は規則、だめなものはだめと切り捨てることもできる。
しかし、それではあまりにも「お役所仕事」すぎる。
一人の生身の人間を相手にするには、表面的な捉えでは対応できない。
相手の事情を慮って、「粋な計らい」の対応をすることだって、時にはある。

余裕がない時ほど、表面的な行動で相手を捉えてしまいやすい。
「嫌い」と言われれば、「失礼な」と腹を立てて叱ったり、黙って自分が傷ついたりする。
だらけていたら「やる気がない」とみなし、発破をかける。
「もうだめ」と言ってきたら「がんばれ」と励ます。

どれも、いいかもしれないが、良くないかもしれない対応である。
難しいのは、表面の行為と中身とが一致している場合と、そうでない場合が混在することである。
「こうすれば誰にでも絶対うまくいく!正解!」という対応法は、存在しない。
五感をフルに働かせて、真意を見抜く。
それが「目で聞いて、耳で見る」ということなのではないかと解釈した次第である。

2015年9月25日金曜日

子どもの「見ててね!」考察

子どもが、親、または教師に対して「見て!」または「見ててね!」と言う。
すごくよくあることである。

学校だと、体育や音楽など技能が上達した時などに特によく言う。
家庭だと、もっと些細なことでも言う。
自分のお気に入りのおもちゃを見て欲しい時などにも言う。
ちょっと指をけがした時などにも言う。

忙しい時だったりあまり頻度が多かったりすると、つい対応が適当になってしまいがちである。
しかし、子どもにとって、この「見て!」「見ててね!」は、ものすごく大切なことである。

一つは、承認の欲求である。
できていることやがんばったことを認めて欲しい、褒めて欲しい。
「よくがんばったね。」「えらい、えらい。」「すごい!」というような言葉である。
または、心配して欲しい時にも使う。
けがしていたら「痛かったね」と共感して欲しかったり、「よく泣かなかったね。」と我慢を認めてもらいたかったりする。

もう一つは、安全の欲求である。
信頼できる大人が見てくれているといのは、子どもにとって何より心強いことである。
例えば器械運動で、もう完璧にできる技なのに、先生が見ていないと怖いのでやらないということもある。
(実際は補助もしないので、横に立っているだけである。)

大人の側からすれば、見てと言われたので見ているだけである。
しかし、子どもからすれば、結構な重大事である。
また「見て!」と言われたということは、逆に言えば子どもにある意味認められているともいえる。
それは結構な有難いことだと思う。

子どもが「見て!」と言ってきた時には「来たな」と思って、可能な限り温かい目で見てあげるようにしたい。

2015年9月23日水曜日

「私のやる気スイッチを押してください。」

先日、『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者の飯村先生と話していて出た話題。

「私のやる気スイッチを押してください。」
セミナーとかで、結構よく言われるフレーズである。
そういうタイトルの本を書いているのだから、当然ある質問である。
「とりあえず、本を買ってください。」
とは言わない。
質問してくる人も読んでくれた人が大半である。
なので、真面目に答える。

前回の話と同様、これも万人に通用する方法はないが、色々方法は示せる。
その一つに、教師自身が憧れを持つことが大切だと思っている。
「あの先生みたいになりたい」という思いを持つと、突然変わる。
または「こんな学級をつくって、こんなことしてみたい」という具体的な思いがあると、変わる。
つまりは「何のためにやるのか」という動機付けである。

おすすめの書籍を紹介する。
『何のために』中村文昭著 サンマーク出版
http://www.sunmark.co.jp/book_profile/detail.php?cmn_search_id=978-4-7631-3337-3

タイトルの「何のために」は、やる気スイッチを入れる方法の中でも、核になる部分の一つだと思っている。
『やる気スイッチ押してみよう!』の第一章の「率先垂範」の中に、次の項目がある。
(1)口癖マジックワードは「楽しいね!」
(2)みんなが学校に来るのは何のため?
(3)教師が学校に来るのは何のため?
(4)背中で示し,誰かの「あこがれ先生」になる

この(4)で、中村文昭さんと「あこがれ先生プロジェクト」の紹介をしている。
つまり、この本を書くに当たって、私がかなりの影響を受けている人物である。
中村さんを全然知らない方は、一度でいいから本を読むか、できれば講演を聴きにいって欲しい。
やる気スイッチが入ること請け合いである。

ところで、私は『やる気スイッチ押してみよう!』のこの章で「夢を持つ」ことの大切さを書いている。
一方、参考にしているはずの中村さんは、真逆のことを言う。
「夢なんてなくていい。目の前の人を喜ばせていくことが大切。」と言う。

誤解なきよう言うと、中村さんは夢を持つことを否定していない。
紹介した本によると、「目標達成型」と「天命追求型」があるという。
タイプによるということである。

やる気スイッチの入り方一つとっても、人によって合う合わないがある。
自分に合う手法を選択すること。
何が合うのかはわからないのだから、疑わしくてもとりあえず試してみること。
脳は、新しいことに出合うと活性化するので、この行為自体もやる気スイッチが入る。
問題は、そのやる気自体がないことかもしれない。
そこは仲間を誘うとか誘われたら即決で行くとかして、「他律」の方法を使う。

やる気スイッチがOFFになっている人は、とりあえず『何のために』のご一読をおすすめする。

2015年9月21日月曜日

名人芸「こうすると絶対うまくいく」に要注意

「こうすると絶対うまくいく」というハウツーはない。
その時、誰が、誰に、どんな状況なのかによって、使う手法が変わる。
特に「誰が使うか」は外せない要素である。

以前にも書いたが、名人の手法をただ一挙手一投足、一字一句真似てやってみても、うまくいかない。
イチローの「振り子打法」を徹底的に研究してコピーしても、全然打てないというのと同じである。
「振り子打法」はバッティング手法の一つで、素晴らしい打率を生み出している事実はあるが、かなりの離れ業である。
難しすぎて、普通の人には使いこなせない。
「守破離」の「離」に当たる部分である。
「守」の基本的なバッティング練習を徹底して、「破」で自分流にして練習し続け、初めて至る境地である。
初心者がいきなり真似しても、全く参考にならず、場合によってはフォームが乱れて害悪にすらなる。

教育界でも「名人」と呼ばれる人の手法をそのまま真似しても、大火傷することが多い。
例えば社会科の名人、有田和正先生の実践を、教材研究はほどほどに表面的に真似してみるとする。
意見がとんでもなく拡散して、とてもではないが対応できない。
ぐちゃぐちゃのまま終了である。
または、出た意見を無視して、無理矢理教師の解に落ち着けるのがオチである。
どんな意見にも対応できる深い教材研究と対応力に裏打ちされて、初めて成立する。
本気で学んで真面目にやれば、少しずつ理想に近付くことは可能である。
しかし単なる「うまくいく方法」を求めて真似すると、がっかりでは済まない悲惨な結果になるかもしれない。
(この辺りがわかっておらず、名人芸に対し「〇〇先生の方法は全然ダメ」と吹聴する残念な人も、中にはいる。)

手法は、使い手がつかいこなせることがまず第一である。
次に、使う相手も考える。
「追究の鬼」を目指して何年も鍛え上げられてきた子どもと、初めて追究活動をする子ども相手では、当然やり方が変わる。

ただ、特に学びの初期は、たくさんの手法を知ること自体は大切である。
それで、火傷する経験も避けられない。

何はともあれ、やってみること。
うまくいかない点を、修正して、またやってみること。(または、合わないと思って見切ること。)
その繰り返しで、初めて自分の「技」として身についていけるのではと思う次第である。

2015年9月14日月曜日

蜂に刺されての雑感 攻撃性と孤独感

今回は、お盆に書いた記事で、少し力を抜いた雑感、エッセイである。

先月、土木作業中に、背中を蜂に刺された。
スズメバチではないようなので良かったが、痛い&痒い。
地バチの巣に知らずに近付いたのかもしれない。
とにかく、こちらに悪意はないし存在に気付きもしなかったが、攻撃された。
相手からすれば、「敵」だったに違いない。

そもそも、蜂はなぜ針を持っているのか。
巣を守るためである。
巣を襲う輩を撃退するためである。
人間はこれに進んで近付かない分、見つけ次第駆除する。
刺すから嫌われ、駆除されるのである。
悪循環である。
(余談だが、蜂の針は産卵管の変化したものである。
 したがって針を持っているのはすべてメスの蜂である。)

燕は、針のような攻撃用の武器を持ってない。
しかし、敢えて人間の家の軒先に巣を作る。
巣を守るためである。
燕の天敵が、人間嫌いであることを利用しているという。
軒先は、一番人目につくので、最高である。
燕自体は、人間を攻撃しない。(巣の下にフンが多いのは若干厄介ではある。)
「縁起がいい」とすら言われ、歓迎ムードである。
だから、人間はこれを駆除しない。
燕に攻撃用の武器はないが、それ故に巣が安全である。

スズメバチが、もし針を持っていなかったり、攻撃してこない存在ならどうか。
家の軒先はさすがにちょっとダメだろう。
しかし、今ほど積極的に駆除されることはないはずである。

人間関係も、これに通ずるものがある。
攻撃的な人には、近付きたくない。
自分に実害を及ぼす。

そうすると、周りは離れていく。
攻撃的な人ほど、孤独感を感じやすいのかもしれない。

クラス一の暴れん坊。
それは、一番、孤独感を感じている子どもかもしれない。

2015年9月12日土曜日

天国から地獄へ

前号の続き。
次の本の内容を少しだけ紹介する。

『思春期の子どもとつながる学級集団づくり』赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

私の書いたものの項目だけ羅列すると
1(1)思春期には性差を意識した指導を心がける
 (2)子どもとの良好な関係を築くために『信・敬・慕』を意識
2(1)まずは男女を混ぜる グループを混ぜる
 (2)思春期の陰湿ないじめと向き合う
 (3)思春期の子どもの自主性を尊重し、主体的に動けるイベントを
 (4)天国から地獄へ 思春期の子どもは「隠す」 教師は見えない
 (5)同じ轍を踏まないために 子どもを観る視点を増やす

この中の2(4)天国から地獄へ について。
この項が、私の今回の原稿の肝である。

この中で、次の言葉を紹介している。
==================
「自分は子どものことが結構見えている」「なかなかの力量だ」などと慢心した時は、
すでに相当な転落が始まっています。
==================

自戒を込めて書いた文章である。
思春期の子どもは、隠すことのプロである。
この点において真正面に取り組んでは、到底大人が太刀打ちできるものではない。
一見うまくいっているように思える学級経営が、実は深い闇をはらんでいることが多々ある。
それを知って学級経営をするのと、知らないのとでは大違いとなる。
だから、失敗例を知っておくといい。
進んで自分からわざわざ大ケガする必要はない。
「人の振り見て我が振り直せ」である。
「対岸の火事」と思わず、「他山の石以て玉を攻べし」である。
ぜひ自分の糧にしていただきたい。
それでこそ、執筆者陣が自らの失敗を公開した甲斐がある。

私自身、この言葉を常に胸に抱いている。
傍目にも危ないような時は、本人も自覚しているから慎重になるので、安全である。
周りからもてはやされている時は危うい。
うまくいっているような気がしている時は危うい。
周りより自分が優れているなどと微塵でも思った時は、一番危うい。
(周りの先生を批判している覚えがある時は、危険信号である。)
もうそこからジェットコースターばりに真っ逆さまである。
高く持ち上がった分、構えてない分、大ケガをする。
二十代半ばから三十代半ばの十年間に特にやりがちな失敗である。
大体が、周りのサポートにも気付いておらず、感謝も足りていないことが多い。

一つ、勉強の材料として、本書を使っていただければ幸いである。
『やる気スイッチ押してみよう!』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1
の方も、もし未読なら、ぜひご一読いただきたい。

2015年9月10日木曜日

思春期の子どもの指導 失敗パターンを知る

思春期の子どもの指導。
得意だろうか苦手だろうか。
例えば、夏休み明けの高学年の女子や、中学生男子への指導。
あるグループの女子が突然格好が派手になって、言うことをきかなくなる。
男子がいきなりピアスをしてくることもある。
「ピアスはダメです」と直接言うかどうか。
この辺り、どう指導していいのかわからない人も多いのではないかと思われる部分である。
失敗すると「学級崩壊」にもつながりかねない重要ポイントである。

そこにいくつかの道標を示す本がある。
次の本からの紹介。

『思春期の子どもとつながる学級集団づくり』赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

「学級を最高のチームにする極意」シリーズの最新刊である。
この本は、私を含めて12人の執筆者が、思春期の子どもへの指導の理念と実際について、具体例を交えながら書いている。
この本には特に秀逸な点が一つあって、「痛い失敗例」がかなり載っている。
痛いどころか、大ケガの失敗例である。
正直、あまり人には知られたくない失敗例である。
執筆者の中には「〇〇先生は学級経営のスペシャリスト!エグゼクティブティーチャー!」みたいに思われている先生も結構いる。
この人たちも、大失敗しているのである。
特に、執筆者の中の一人であり『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者でもある飯村友和先生のタイトルは、
「高学年女子の指導 こうすれば失敗する!」であり、失敗例に特化した内容である。
私も、過去にやってしまった天国から地獄への大転落の例を公開している。

なぜそんな恥を公開しているのかというと、編著者の赤坂先生の方からなるべく入れるよう指示があったからである。
うまくいった例は、たくさんある。
しかし、汎用性が低いことが多い。
一方で、うまくいかない方法は、かなり汎用性がある。
(ずっと以前、メルマガで伝えた「失敗学」の考え方である。)
つまり、失敗例をたくさん見ることで、失敗パターンを知ることができる。
「良くする方法」よりも「悪くしない方法」を知る方が先決である。

ダイエットに例えるなら「痩せる方法」よりも「病気やケガで途中で倒れないための方法」が優先であるのと同じである。
「ローカロリーのものだけ食べて運動し続ければ、カロリーを大幅に消費して確実に痩せます。ただし大きく健康を害します。」ということである。
ここの失敗パターンは「身体への負担を無視」「継続性を無視」である。
当たり前のことだが、結構やりがちな失敗である。
(余談。多くの流行ダイエット法は「簡単・短時間・効果あり」を謳い文句にするが、共通の問題点は「健康」と「継続性」である。
 効果が出ても、健康的かつ永続的に持続できなければ意味がない。
 継続できる人なら、普通の筋トレだけで成功する。)

「こうすれば失敗する!」を知ることは、大変価値のある知識である。
飯村先生はこの本の中で「あえて地雷を狙って踏んで歩いているようでした」と書いているが、まさにそれである。
早く向こうにたどり着く方法より、地雷がどこに埋まっているかを事前に知ることの方が優先である。

またこの本を読む中で「みんな、そこまですんなりうまくいってない」という点も見ていただきたい。
痛い思いをあまた通過しての、今である。
たくさん本を書いていたり、セミナー講師をしていたりする人を見ると、何かすごくうまくいっている人のような錯覚を覚えることがある。
しかしみんなこれまでに手痛い失敗をたくさんしているし、現在だって何かと苦労は絶えない。
そう考えて本を読んだりセミナーに参加したりして「自分もやれるかも」という勇気を持っていただけたら幸いである。

騙されたと思ってご一読いただきたい。
長くなったので、次号で内容を少しだけ紹介する。

2015年9月8日火曜日

できる人が、できる時に、できることをする。

前号の続き。
被災地からの学び。

今回の一番の収穫は、現状のごく一部を少しでも知ることができたという点である。
「百聞は一見に如かず」の言葉の通り、直に触れることで初めてわかることがあった。

世間一般の「4年以上経ち、東北もだいぶ復興してきた」というのは、全くの誤認である。
福島の現状は、放射能の「除染」が進まないと、全く立ち入ることができない。
(先日、一部の地域で避難勧告が解除されたが、それに対してもまだまだ課題が多いようである。)

徐染作業は、気が遠くなるような困難さがある。
表面の土をすべて取り除く。
取り除いた土をどうするかも課題で、福島では、各所で黒い袋が山積みになっている。
竹などの土中に根を広く張る植物が生えていると、そもそも土の表面を除く作業にたどり着けないので、その伐採からスタートである。
これは、すべて人力である。

しかも、ボランティアの数は年々減る一方。
先の「復興十分進んできたでしょう」という誤認はその原因の一つであるらしい。
実際、そういう地域もあるが、福島は、全く人手が足りていないのが現状とのことだった。
ボランティアの作業内容自体も、地味で地道な作業である。
正直、これでどれぐらい前進したのであろうと思うほど、気が遠くなるほどやることがたくさんある。
しかし「千里の道も一歩から」で、一歩動けば一歩分、確実に前進している。

道徳資料等でよく使われる、次の話を紹介する。
「ハチドリのひとしずく」

森が燃えていました
森の生き物たちは われさきにと 逃げて いきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは 行ったり来たり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちはそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」と笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」


正直、被災地に何かしらの影響を与えられるのだろうかという疑問が、心のどこかにあった。
やってみて、一つの解が見えた。
被災地の中の一人の方が、本当に困っていることをやらせていただく。
ボランティアセンターに掲げられていたのは、次の言葉。
「できる人が、できる時に、できることをする。」
その積み重ねがあれば、きっと何か変わってくるだろうという、そういう感じがした。

私は、正直、そんなにたくさん現地に足を運んで働くことはできない。
しかし、その分、情報発信はできる。
子どもたちにも伝えられる。
一人一人が、自分にできることを、自分の方法でやるというのが大切なのではないかと思う。
「掃除に学ぶ会」で見た「一人の一歩より百人の百歩」という言葉に通じる。

自分の力は小さい。
ただ、それが集まり、さらにこれが積み重なることで、何かが変わってくるのかもしれない。
この前にも後にも、数え切れないほどのたくさんの方々が、数年にわたって交代しながら繰り返し続けていくことになる。
必ず何か変化がある。

自分は、今回被災地に対してできたことはほとんどなかったが、被災地から学ぶことは多くあった。
この学びを今回で止めずに、被災地に学ぶということをこれからも少しずつ続けたいと思う。

2015年9月6日日曜日

修養 掃除に学ぶ 被災地に学ぶ

前号の続き。
修養をどうするか。

先月、友人を誘って「掃除に学ぶ会」というものに参加してみた。
掃除「を」ではなく「に」である。
掃除から学べることは、たくさんあった。
学んだことだが、ここには書けない。
やった人の個人的なものとしてわかる学びである。
もっと正確に言うと、やった人によって、学べる内容が違う。

「被災地に学ぶ会」にもセットで出てきた。
折しも、その日は原子炉から最大がれきが撤去され、原発の後処理に大きな一歩があった日でもあった。
福島の現状はすごい。
何がすごいかというと、4年も経ったのに、街が震災当時と同じ姿なのである。
しかも、人は住んでいない。
草木が生い茂っていることだけが目に見えてわかる変化である。
他の被災地とは一線を画す姿である。

被災地の人のために少しだけ働いたことは事実。
しかし、実際は被災地とそこの方々から学ばせていただいたというのが真実である。
一つの修養になった。

教え方の研究は大切である。
一方で、一見直接教育とは関係のない会からも、学べることは多い。
研究と修養、両方をバランス良く行いたい。

2015年9月4日金曜日

研究と修養 

夏休みの自由研究。
ひまわりの観察。
色とものの温まり方の関係。
かびの生え方。
とにかく、子どもは、何かを対象に研究を行う。
研究の対象物は、他にある。

校内研究。
自主的に学ぶ子どもを育てるには。
学ぶ意欲を育む体育学習の在り方。
これも、対象物は外にある。

要は、研究というのは外、他を対象とする。

一方、修養という言葉がある。
修養は、他でなく、自分自身を対象とする。

普段多いのは、圧倒的に「研究」の方である。
なかなか修養をする機会はない。

各地で教員対象のセミナーが開かれるが、やはり多くは研究である。
「教師としていかに生きるか」というようなテーマは少ない。

要は、直接的に教育に関係のなさそうな会に出てみるという提案である。
それが、修養になる。
例えば、お茶の体験教室に行ってみる。
お茶の出し方も学べるかもしれないが、それ以上に人としてのありようを学べるかもしれない。

これは、余裕がないと難しいが、予想だにしない学びが確実にある。
未知の領域は、学びの宝庫である。

(長くなるので、次号に続く。)

2015年9月2日水曜日

学級崩壊の3種類

学級崩壊の種類について、こんな3種類の分類の仕方を聞いた。

従来型の学級崩壊は、担任との関係が悪く、反抗的になって起きるものが多かった。
常に騒々しく、担任に対しても反抗的。
絵に描いたような「ザ・学級崩壊」の図である。

次に出てきた「新型」と呼ばれるタイプはこれと全く内実が異なる。
担任のことが好きなのである。
担任のことが好きすぎて、わがままを言い放題の状態である。

もう一つのタイプは「静かなる学級崩壊」。
これは、完全無視で「シーン」としている。
それぞれが、授業を完全に無視して黙々と自分の作業をしている状態である。
妨害がある訳でもなく、ひたすら無視である。

同じ「学級崩壊」の状態でも、内実は全く異なる。
もし自分の学級が陥るとしたらどのタイプか、考えてみると、何かと見直しの参考になるかもしれない。

2015年8月29日土曜日

素直に受け取る

他人様が「どうぞ」「やりますよ」と言ってくださるような時には、素直に受け取る。
好意は素直に受ける。
それを頑なに拒むことを「頑固」という。
頑固より素直がいい。

次の本を紹介する。
『教師の覚悟――授業名人・野口芳宏小伝』
松澤正仁 (著) さくら社
http://www.amazon.co.jp/372/dp/4904785916

野口芳宏先生を徹底的に研究している宇和島の松澤先生という方の書いた「伝記」である。
ただの伝記ではなく、そこから溢れる「人生観」「教育観」が消化しきれない程学べる良書である。
教育観を磨きたいという本メルマガの読者には最適な本である。
「師の野口先生に関する本だから宣伝する」というようなこととは全く関係なく、確実にためになるし面白いので無条件におすすめする。

本の中に、次のようなエピソードがある。
「厳父」という項。
「父は愛情深く温かいだけではない。時に厳父とも言える行動も見せている。」(「」内は本文より引用)
どういう話かというと、小学2年生の時、叔父さんが小遣いをくれたという。
野口少年はそれを遠慮して断り続けた。
父が「受け取れ」と言ったにも関わらず、頑なに拒んだ。
すると父に猛烈に叱られて、泣きじゃくりながらお金を受け取ったという話である。

この話の後に、次のように書かれている。
「私はそれからというもの、人の好意を素直に受け止め、感謝できるようになったようだ。
これが、私の人生の中で最初に出合った手厳しいターニングポイントである。」(「」内は本文より引用)

これが「人の好意は素直に受ける」という人生観をもたらしたという。
この話の項の後には、次のように続く。
「子どもを褒める時がある。褒められたら、その子は素直に感謝する子に育てなければならない」(「」内は本文より引用)

要は、好意を素直に受け取ることが、自分にとっても相手にとっても利をもたらす。
「自利即利他」である。
英語で言うと「WINーWIN」の関係である。

好意は素直に受け取る。
得意な人に頼る。
頼まれたら断らない。

共生社会において最も大切な考え方であると思う。

2015年8月27日木曜日

思春期の子どもとつながる学級集団づくり

タイトルは、上越教育大学教授の赤坂真二先生編著の「学級を最高のチームにする極意」シリーズの新刊名。
この中から、自分の担当ページの内容を少しだけ紹介する。
自分の担当したページのタイトルは
思春期の性差を意識した指導
~『信・敬・慕』の関係を築く~
である。

以下、本文より引用。
=======================
(引用開始)
逆に、女性教師が男子との関係を押さえる時のポイントは何でしょうか。
思春期に限らずですが、男子は女子に比べて、おとなしくきちんとしているのが苦手な子どもが多いです。
一方、「活動的」というよい特性もあります。
この特性が、長いお説教や細かい口出しと最悪の相性なのです。
きちんとさせたい、きかせたい女性教師と、思い通りに動き回りたい、ちょっと世の中に反抗したい男子。
これでは、折り合いがつきません。
ここは「さばさば」と対応するのが、良好な関係につながりやすいようです。
悪いことがあったら、びしっと「ダメ」。
ダラダラ長く言わない分、やったら何度でも言う。(そこは逆にしつこいぐらいで良いでしょう。)
良いことをしたらさらりと「いいね」。
日常では、あまりウエットな関係を求めていないと割り切ると、うまくいくことが多いようです。
そして、本質的には甘えん坊なので、必要に応じて甘えさせてあげます。
「さっぱりしたお母さん」のイメージでいくと、ちょうどいいかもしれません。
(引用終了)
=======================

自分自身の経験に加え、学級経営がうまくいっている先生方の観察からの分析。
ただ、これとてあくまで大まかな捉えであり、個人対応は一括りにできない。
大まかな方向をおさえつつ、一人一人を見る。
飛行機からの大きな視点と虫眼鏡の小さな視点、両方が必要である。

子どもの見方の視点を増やすというつもりで、ご一読いただけると幸いである。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

2015年8月25日火曜日

不運と不幸

前号の続き。
野口芳宏先生からの学び。

不運と不幸。
これも似た言葉である。

不運は運が悪いこと。
不幸は不本意で辛い状態。

不運なことは起きる。
これは人の力でどうしようもないことである。
しかし、それを不幸と受け取るかどうかは人次第。
不運なことを不幸と受け止めず、感謝を見出す人も中にはいる。

そんな話だった。

例えば今、熱を出しているとする。
身体の辛さを考えると、不幸である。
しかし、ゆっくり寝ていられることを考えると、不幸でもない。
では不運かというと、ここも考えようによっては自分の生活習慣等が原因で引き起こしているのだから、一概に運のせいとはいえない。

捉え方次第である。
似た言葉の使い方には気を付けたい。

2015年8月23日日曜日

興味と関心

野口芳宏先生との会話の中の学びから、気付いたことのシェア。

似ている言葉は、よく考えて使い分ける必要がある。

例えば、「お疲れ様です」と「ご苦労様です」の使い分けはよく取り上げられる。
社長に対して社員が「ご苦労様です」と言うのは常識外れとなる。
意味としてはほぼ同じなのだが、使い分けが明確にある言葉である。

「指導」と「支援」の違いは以前に書いた。
「机間指導」というか「机間巡視」というかで、ねらいも行動も変わる。
「~します。」と「~したいと思います。」でも、全く意味が変わる。
語尾を「~と感じる」「~と思う」「~と考える」「~である」どれにするかで全て意味が変わる。

実際のところ、意味は違うのに意識せずに使っているというのが、多いのではないかと考える。
そうすると、言葉をよく知っていて敏感な人ほど、その言葉がひっかかっている。
極端な話、相手が「ご苦労様です」の使い方について全く知識がない人であれば、全く問題ない。
一方、知識の豊富な人と話す時ほど、注意が必要である。

興味と関心。
これまた、似た意味の言葉である。
しかし、意味合いは大分異なるという。

こういうのを調べる時は電子辞書にある「類語例解辞典」が役に立つ。
引いてみる。

簡単に言うと「興味」が感情的で一点なのに対し、「関心」は理性的で全体である。
(ちなみに「好奇心」は未知なこと全てで、俗っぽさを含む。らしい。)
あまり意識していないのは「興味・関心」のようによく一括りにされているのにも原因があるかもしれない。

ある集まりに初めて参加する時、
「興味があって来ました」と「関心があって来ました」
では、伝わり方が違う。
前者は見物に来た、後者は学びに来たという感じを含んだ伝わり方になる。

「あなたに興味があります」と「あなたに関心があります」
でも、かなり違う。
学びの対象として伝えたい場合なら、適切なのは後者であるように「思う」。(言い切れないが。)
うっかり間違えると、勘違いや誤解を引き起こすかもしれない。

どちらが良い言葉という訳ではなく、使い分けである。
悪気なくうっかり誤用をしていないか、注意したい。

2015年8月21日金曜日

水泳で顔に水がかかるのを怖がる子どもへの指導 後半

前回の続き。

恐怖感の逆は安心感。
安心感を引き起こす行為の一例は、抱っことおんぶである。
水の中で指導者が抱っこやおんぶをして慣らす方法もある。
スイミングスクールで幼児を指導するコーチなどが、割とよくやっている。
おんぶして歩いている内に、「うっかり」水がはねてしまったり、「うっかり」すべってしまう。
そうすると、子どもの顔に水がかかる。
「ごめんごめん」などと言いながら、プールを歩き回る。
そういう方法もある。

また、晴れの日よりも雨やくもりの日の方が恐怖感は増す。
明るいよりも暗い方が、温かいより冷たい方が恐怖感が増すのは当然である。

ちなみに、やや別の例になるが、シャワーが怖いという場合、その冷たさにも恐怖の原因の可能性を考える。
冷たさというのは、体を硬直させる。
体の硬直は、恐怖時にも起きる。
恐怖時の体の状態をつくれば、恐怖感が引き起こされる。
体と心はリンクしているのだから、当然である。
試しに、風呂で頭を洗う時に、真水で洗ってみるとわかる。
慣れないと、水がかかった瞬間にぐっと体が引き締まり、恐怖感に近い感覚があるはずである。

逆に言えば、シャワー一つも、みんなで楽しい雰囲気を作ると怖くなくなるという面もある。
例えば「かえるの歌」をクラスで合唱しながら浴びてみる。
1番をみんなで歌い終えるまで浴びる。
割合楽しくやれる。
(しかし、水が極度に苦手な子どもにとってはやはり恐怖のシャワーである。)

要は、「そんなことまで!?」というぐらい用意しないと、恐怖感は取り除けないということである。
正直、かなり手間である。
しかし、手間暇かけた分だけ、顔を水につけられるようになった時の喜びは大きい。
決して根性論や相手への原因論に陥ることなく、指導する自分自身との戦いだと思って色々試していきたい。

2015年8月19日水曜日

水泳で顔に水がかかるのを怖がる子どもへの指導 前半

先日のセミナーの後の懇親会で受けた質問。
水泳指導で、水を極度に怖がる子どもがいる。
顔に水がわずかにでもかかるのもダメだという。
どうすればいいかという話。

とりあえずプールに放り込んで根性を出せというのは、もう大昔の方法である。
こんなことをしたら、プールサイドに近寄ることすら恐怖になる。
最悪、水泳のある日に学校に来なくなるかもしれない。
根性ではどうにかなる部分とならない部分がある。

根性論でなく根本・本質論で考える。

体育指導も安全・安心が全てのベース。
これがないと始まらない。
つまり、まずは恐怖感を取り除くしかない。
あれこれ技能的な指導をするのは、そのずっと後である。

「顔に水がかかるのが怖い」というのは、あくまで現象である。
その根本は、「命の危険」を感じるからである。
顔は、呼吸器である口に近い。
つまり、極端な話「息が吸えなくなって溺れて死ぬかもしれない」という恐怖感がある。
また、目をつぶると、見えなくなってこれも一層怖い。
だから、他の部位は大丈夫でも、顔、特に目と口の周辺に水がかかるのだけは極度に嫌がる。

安全・安心な状況で慣れさせる必要がある。
スモールステップでだんだん下から水をかける、というのはよくやると思うが、理に適っている。
ちなみに、体が水につかっている面積が大きいほど、恐怖感が増す。
「顔を水につける」というだけでも、体の他の部分がどれだけ水に触れているかで恐怖感は変わる。
全身が水にふれる「けのび」の状態は一番レベルが高い。
胸まで水に浸かって顔を水につけるのもレベルが高い。
顔を水につけるという行為は同じなのだが、膝までの浅いプールの方が気持ち的に楽である。
プールサイドに洗面器を用意して、そこに顔をつけるというようなステップをとる先生もいる。
要は、目の前の子どもの実態に合わせて、必要なステップを模索し、用意してあげる。

ちなみに、プール自体の深さを変えられない場合、プールに足場のようなものを沈めて置く方法もある。
これをする場合は、特に足をケガしないように材質等の安全面に十分配慮する必要がある。

(次号に続く)

2015年8月17日月曜日

褒めるか叱るか

木更津技法研での学びのシェア。

サークル内で「褒める」と「叱る」の割合、バランスについて話題になった。
褒め方、叱り方の問題。
質と量の問題。
色々出た。

視点の話と同じなのだが、要は受け手次第、というのが持論である。
叱ると褒める自体に善悪も是非もなく、とちらも伝達の手段と見る。

どんなに相手の為を思って伝えても、受け手次第。
褒めて喜ぶかもしれないし、嫌がるかもしれない。
特に一斉指導の場合では、ここが端的に現れる。
同じ言葉を同じ時に伝えても、色々な受け取り方をする。
三十人いたら、三十通りの解釈である。

休み時間「○○さーん」と名前を呼んだだけでも、喜んでとんで来る子どもから、
「何かしたかな…」と暗い顔になる子どももいる。
繰り返しになるが、要はすべて受け手の解釈である。
その反応は、こちらの意図とは無関係である。

それを踏まえて、指導にあたる。
アドラー心理学にある事実を見て、「認める」というのが、私には使いやすい。
褒めまくる、ばっちり叱るのが合う人もきっといる。
いずれにせよ、相手の受け取り方はよく見る必要がある。

指導者の思いも大切だが、それが目の前の「○○さん」に伝わる手段かどうかはよく吟味したい。

2015年8月15日土曜日

視点を考える

国語で視点を教える。
話者は誰か。
どこから見ているか。
ここを指導することで、詩や物語の情景が鮮やかになることがある。

これを、日常に応用する。
普段の視点は、自分の中にある。
当たり前である。

これを、相手の視点、外の視点で見ることが、「思いやる」につながる。
これは、詩や物語の時ほど、簡単にはできない。
良かれと思って言ったりやったりすることも、相手の視点からすると迷惑なことがある。
特に大人と子ども問わず、批判的だったり言葉がきつかったりする人は、このあたりの視点が抜け落ちている可能性が高い。
自信があって思い込みが強いほど、強い言葉になって外に出る。

子どもに限らず、指導者の側こそ気にすべき視点である。
教えたつもりになっていることがかなりある。
相手にとって言葉がきつすぎることがかなりある。
有り難迷惑なこともかなりある。

電車の中で、「子どもは公共の場で騒いでうるさい」という話をしている大人がいた。
大声で話していた。
視点が、自分の中にあることがよくわかる。
客観的には見えない。

「廊下を走ってはいけない」というのは、どの先生も常に指導していること。
しかし、「先生も廊下走ってたね」と子どもは口に出さなくても思っている。

客観的に見るのは難しいと自覚する。
自分も人のことは言えないと自覚することが、視点を外に持つための第一歩であるかもしれない。

2015年8月13日木曜日

私心を捨て去る

木更津技法研での学び。

ある学校で、みんなから大変信頼されている先生がいた。
校長先生が、その人物について聞かれたという。
「なぜ彼はあのようになったのか。」
すると
「あいつには、私心がない。」
とのこと。

私心がないとは、即ち利他である。
ひたすら、周りの人のために動く人物なのだいという。

仕事の価値は、他への貢献度で決まる、ということは頭ではわかっている。
しかし、何だかんだで競争社会で生きのびてきた人間が、急に私心を捨て去って働く。
これは、なかなか難しい。
それでも、できる人にはできるようである。

ひたすらに、利他。
いつか、そういう境地に立ってみたい。

2015年8月11日火曜日

教師のためのポジティブシンキング

雨が降っていることに対し、捉え方で気分が変わる。
雨は「お足元の悪い中」の表現に見られるように、ネガティブに捉えられがちである。
空も暗くなるので、何となく沈みがちになりやすい。

一方、雨の日の静けさが落ち着いていいという人もいる。
肌がしっとりしていいという意図もいる。
花粉が飛ばなくて大歓迎という人もいる。

天気は「天の気分」なのだから、本来人間がどうこういうことではない。
ただ、現象に対する捉え方は人それぞれである。
ネガティブに捉えるよりは、ポジティブに捉えた方が精神衛生上よろしい。

次の本を紹介する。
『教師のためのポジティブシンキング』飯村友和著 明治図書 
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-152814-0

『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者、飯村友和先生の新刊である。

ただ、ネガな出来事にも、ポジの意味付けをしていこうという提案がなされている。
特に、子ども対応への捉え方が参考になる。

例えば「おとなしい子ども」は
1静かで落ち着いている
2周りの人が安心する
3縁の下の力持ち
という捉えをしている。
全員に必ず当てはまる訳ではないかもしれないが、確かにおとなしい子どもにこれらの要素が多い。
面談で「もっと積極的になって欲しい」という相談を受けることもあるが、おとなしさによるプラスの面も大きい。

ネガな面はいくらでも探せる。
誰でも、ネガになる時はある。
だからこそ、ポジの面に意識的に光を当てる。
そのための視点をなるべく多く持ちたい。

教師の皆さんの夏の一冊におすすめの本である。

2015年8月9日日曜日

問:近づけば近づくほど見えないものとは?~原爆記念日に思う~

哲学者ソクラテスは、よく問を出したという。
教えることでなく、問うことで人間の思考が最も活発に働くことを知っていたのかもしれない。

最近自分が考えた問い。

「近づけば近づくほど見えないものとは?」

自分なりの答えを確定させてから読み進めていただきたい。

調べるとどうやらこのフレーズ、某有名アーティストが歌詞に使っていた。
自分は知らない歌だったが、先に発表した方が上である。
残念、負けた。
ちなみにこのアーティストの答えは「虹」。

もっと以前に、このあたりについて書かれた作品がある。
カール・ブッセ作「山のあなた」
というドイツの詩人の詩である。
教育出版5年生下の教科書に載っていた。(今も載っているかは不明。)

「山のあなた」(今見える山のはるか彼方)に幸せがあるらしい。
行ってみたら、なかったから泣きながら帰ってきた。
もっともっと遠くにあるらしい、と。
この詩を「どんなに探しても幸せはどこにもない」と読むと、浅い読みとなる。
カール・ブッセの答えは「幸」。

山と同じで、近くに行くと、それが見えなくなることがある。
富士山は遠くから眺めるから美しいのであって、富士山に登ったらあの姿形は見えない。
むしろ逆に、登山途中に散乱したゴミが気になって仕方ないという。
逆にゴミは、遠くからでは全く見えない。
それも含めて、富士山である。
富士山が富士山であることに変わりは無い。
認識の問題である。
「美」も距離感による。

私の答えは「感謝」。
身の回りには感謝すべきことで溢れているのに、近すぎて感じられなくなっている。
幸せも、近づきすぎると見えなくなる。
今の場所から、ちょっと離れてみると、色々なものが見えるかもしれない。

これは、「平和」も同様である。
今が大きな犠牲の上に成り立っていることを、すっかり忘れてしまう。
6日の広島に続く今日の長崎の原爆記念日は、慰霊とともに平和について見つめ直す日である。

2015年8月7日金曜日

価値ある判断基準

子どもたちに何度も聞かせている話。

過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来。

しかしながら、他人の行動を変える方法が実際にはある。
他人の行動を変える方法。
それは、褒美と罰。
称賛と恐怖。
アメとムチである。

その方法をとれば、確実に行動は変わる。
ただし、行動が変わっただけで、中身は変わっていない。

褒美の身近な例が、お金の為だけにやる仕事。
時給が高いからやるというのがその典型である。
自分にとって合わなくとも、嫌できつい仕事でもやる。
高給という褒美がつくためである。

罰の身近な例でいくと、交通ルール。
最近、自転車の罰則が厳しくなった。
罰金をどんどん取られるとなれば、交通違反をしなくなる。
ただそれは、すすんで交通ルールを守ろうとしているのではなく、罰金が嫌だからそうするだけである。
中身や価値観、考え方は変わっていない。

学級においては、なるべくこの方法をとらないことを心がける。
褒美による統治は、要望が段々高くなって、与えられなくなった時に破綻する。
罰則による統治は、不満をためる。
その不満が、本人の中身をマイナスにする。
成長するはずが、退化する。
教育の場で退化させては意味がない。

では、なぜ指導者からみた望ましい行動を進んでとってくれないのか。
その行動に価値を感じていないからである。
価値を感じていたり、それをしないと気持ち悪いという状態なら、進んでやる。
価値付け、意味付けが肝である。

掃除をやらないと気持ち悪いという子どもがいる。
掃除の気持ち良さを肌で感じている子どもである。
掃除をやるのが面倒だという子どもがいる。
掃除を単なる作業と捉えている子どもである。

ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる。
鍵山秀三郎氏の言であるが、名言だと思う。
そこに価値を感じると、拾いたくなる。
価値を感じないと、拾わない。
ただそれだけのことである。
そこは、強制も矯正もできない。
個人の判断である。

価値ある判断の基準。
ものさしを提示する。
感動は、その手助けをする。
本物に触れると変わるというのも、これである。
ただ、ここも示せるというだけで、実際に選ぶのは本人である。

子どもたちに、少しでも価値ある判断基準を示せるようにしたい。

2015年8月5日水曜日

憧れをもつ

一つのことができるようになる。
繰り返す内に、より上手にできるようになる。
当たり前にできるようになる。

次が大切で、より高い目標を示す。
そこに挑戦する。
できるようになる。
当たり前にできるようになる。
次の目標を示す。
・・・・

やがて、終わりがないことを知る。
そうすると、ゆっくり取り組もうと思えるし、常に挑戦意欲を継続できる。
指導者の仕事の一つは、常に子どもが憧れる目標を示せることである。

そのためには、指導者自身が上を知っていないといけない。
下の方でもがいている人も救わないといけない。
幅の広さを要求される。
常に学び続ける教師以外、教える資格がないと言われる所以である。

「這えば立て、立てば歩めの親心」とはよく言ったもので、どのレベルでもこれでよしということはない。
一方で、どのレベルでも不足ということもない。

今もいいのだけれど、もっといける。
教える側が先にこれを持ってしまうと、互いに苦しい。
子ども自身に、先にそう思わせることである。
それにはやはり「憧れ」がキーワードであるように思う。

いいと思うものには感動を覚える素直な感性を持ち続けたい。

2015年8月3日月曜日

動きが高まる体育学習 レベルに応じた手立て

公開研究会が終わっても、研究は続く。
その日の授業が終わっただけで、単元を通して授業は続く。

公開での授業は、ごく一部分を切り取って見ていただいただけである。
本当は、単元全部を通して見てもらえるような機会があれば一番よい。
物理的に無理があるが、それが一番いい。

それでも、授業の後の協議会の学びは、大変に深かった。
たくさんの方々からご意見をいただいた。
初めてお会いする方が中心だが、地元の仲間も来てくれていた。
行政の方、体育の大家の先生、鉄棒指導のスペシャリストの先生もご臨席いただいた。
単なる称賛や批判ではなく、どこが良くてどこが課題か、どうすればいいかという実に具体的な話し合いだった。

もう少しでこうもり振り下りができそうな子どもへの具体的な手立てのヒントがたくさん得られた。
ごく端的にまとめると「レベルに応じて効果的な手立ては変わる」という点である。
当たり前かもしれないが、要はそういうことだった。
つまり、あるレベルの子どもにとって10の効果のある手立てが、別のレベルの子どもにとってはマイナス10の効果、という事態があり得る。
「動きが高まる体育学習」をテーマに部の研究を進めてきたが、これとて一筋縄ではいかないものである。

今回はあくまで連続性の中の一区切り。
竹の節である。
まだまだ伸び続けられるよう、精進していきたい。

2015年8月1日土曜日

率先垂範で見えるものがある

公開研究会では、こうもり振り下りの授業展開を見ていただいた。

この授業は、私自身の憧れからスタートしている。
前にもお伝えしたが、萩谷高史先生のセミナーの映像である。

こうもり振り下り。
萩谷先生の教えた子どもの見せるウルトラCの技の数々。
その中の中心を占めるといえる技が、こうもり振り下りだった。

見た瞬間の感想は、
「あれは、ちょっときつい」
である。
「体の軽い子どもなら・・・」とも正直思った。

しかし、である。
「自分もやってみたい」というのが、本当のところ。
私は元来、単純な性格なので、憧れると熱中しやすい。
「やってやれないことはない」と考えた。

そこで、研究してみた。
色々な本を読んだり、映像を見たりしている内に、気付くことがあった。
多くが、前方(鉄棒にぶら下がった上体での背中の方向、着地の方向)への指導であった。

しかし、着目すべきは、後方への振りであると思った。
予備動作である。
バッティングで言うなら、ミートの瞬間というより、バックスイング。
予備動作の結果として、自然と望ましい動き(結果)が引き出される。

理論的には、正しいはずである。
この通りにやれば、できるに決まっている。

実際に、やってみた。

まさに、陸の上の水練。
実際やると、それだけではうまくできないのである。
着地できるはずが、四つん這いの姿勢で、べたっとマットに這いつくばる。
そして、膝の裏が強烈に痛い。

原因は、軸にあった。
膝裏を軸とした振り子運動であるため、この軸がぶれると、振り子の力が激減する。

そこで、補助をお願いした。
何とか、着地できた。

しかし、膝がうまく外れない。
そこで・・・
次は、膝が痛いのを何とかする。
そこで・・・
今度は、膝が痛くない分、落下しやすくなった。
そこで・・・
・・・・・・・・・・・・・・

こんなことを繰り返して、何とか自力でも着地できるまでに至った。
(上手いとは、到底言えないレベルである。)

自分の経験を通して、何ができない原因かを、実感として掴めた。
そして、途中の危険も知った。
マットは必須。最悪落ちても事故を防げる。
補助はあった方がいい。
安心感で、技の精度が上がる。
「何でここができないのか」に、共感できる。

やはり、自分は泥臭くいくのがいいと感じた。
率先垂範・主体変容。
ここに尽きる。
かっこよくスマートにはできなくても、そこから得られるものが必ずあると実感した。

2015年7月30日木曜日

子どもが就きたい職業

面白い記事を見つけた。
様々な団体が調査しているので、一概にこれとはいえないが、興味深い結果である。
化学メーカーのクラレが何年か継続して行ってきている「将来就きたい職業アンケート」の最新記事である。

予想していただきたい。
中学1年生の男子と女子、それぞれ1位は何が来るか。
ベスト10にどんな職業が来るか。
結果がこれである。↓(PDF)
http://www.kuraray.co.jp/enquete/occupation/2015_s6/pdf/2015_s6data.pdf

教える側としては、嬉しい結果である。
もちろん、子どもにとって最も身近な職業であるというアドバンデージはかなりある。
しかし、だからこそ、そこが輝いて見えるのであれば、嬉しいことである。

思えば、何かと良さのある職業だと思う。
何年経っても、外を歩けば「先生!」と声をかけてもらえる。
(若干、落ち着かない面もあることは否めない。しかし、有難いことである。)
時には、卒業して何年経ってからも、感謝の手紙をいただけたりすることもある。
多分、なかなか他にはないタイプの職業である。

大変な面も確かにある。
それでも、魅力が多いからこそ、なり手もいるというものである。

いきいきと働く姿を見せて、「この仕事もいいかも」と思わせられたなら、少しいい仕事ができたといえるかもしれない。

2015年7月25日土曜日

「実力がついてから」は一生来ない

誰かに対し、次のような言葉をかける人がいる。
「よくやるね。自分にはできない。」

この言葉の相手に対する思いには、二つの解釈ができる。

一つは、「すごい人だ」という素直な見方のもの。
もう一つは、「恥知らずな奴だ」という穿った見方のもの。
両方混ざっているのかもしれない。

一方、言った方には、謙虚に次の思いがあるのかもしれない。
「自分には、実力が足りないからできない。」

これは、真実か。

これが真実であるなら、やる側も当然できないという論理になる。
誰もが認めるすばらしい実力なら良いということだからである。
この時点で、言った人は相手を認めていないのだから、資格喪失ということになる。
そして、その日を待つと、永遠に来ない。
いつでも実力は十分には足りていないけれど、とにかくやるしかないのである。

つまり何でも「実力がついてから」と言っていると、一生やれないというのが持論である。
「立場が人をつくる」という面もある。
そのかわり任されるからには、責任を持って全力でその役目を果たす覚悟だけは必要。
それさえあるなら、立候補だろうが推薦だろうがやればよいと考える。

授業研などもそうだが、「私なぞに」と謙遜する若い人には、具体的に何年後ならOKなのかききたい。
若い内にやった方が、後がたくさん残っているから、有益である。
謙遜している内に、現役時代は終了する。
特に、今の20代後半から30代は、担任をさせてもらえるのが、残り数年の可能性が高い。
周りを見ても、30代前半から教育委員会などの指導的立場にひっぱられる人がかなりいる。
つまり、現場経験が少ないまま、すぐに指導的立場になる可能性があるということである。
数少ないチャンスを今逃したら、もう一生来ないかもしれない。

成長を求めるならば、恥も痛みも覚悟の上で、飛び込む勇気が必要である。

2015年7月23日木曜日

逆上がりは足し算で考える

前号の続き。
こうもり振り下りから入る授業を提案する。
しかしながら、逆上がりの指導はできた方がいいと思っている。
決して逆上がりの指導を否定している訳ではなく、むしろかなり好きである。
そこで、自分がこれまで逆上がり指導をしてきた上での持論を述べる。

逆上がりを指導していて、私は一つ自分の理論としてずっと持っていることがある。
それは「逆上がりは足し算で考える」という理論である。
仮に、ある人が逆上がりに必要な物理的な力を「100」とする。
何が足し算なのかというと、蹴る力と腹筋で前屈する力(正確には、表裏一体の背筋も含まれる)である。
蹴りが強い(上方かつ後方の回転方向へ蹴ることができる)なら、腹筋は弱くても回れる。
例えば 「蹴り70+腹筋30=計100」 という状態である。
逆に、蹴りが弱くても、腹筋が強ければ回れる。
この場合、「蹴り30+腹筋70=計100」 という状態である。
ここに身体を上手に使うための「逆さ感覚」や「回転感覚」「腕支持感覚」などの感覚も必要になる。
例えば蹴る力も十分、腹筋の力も十分なのに、できない子どももいる。
これは、例えば逆さまになるのが苦手で、逆さになった途端に、力が発揮できないという状態が考えられる。
この場合においては、逆さ感覚をつけるための別アプローチの指導が必要になる。
しかし、物理的な力でいうと、必要なのは地面を蹴る力と腹筋の二つの合力である。
あくまで経験則の話ではあるが、この点は結構確信を持っている。

極端な例で「懸垂逆上がり」を考えるとわかりやすい。
あれは、蹴る力0の腹筋100である。(蹴って上方へいかない分だけ、腕も多少曲げる必要はある。)
下半身が軽くて頭だけが極端に重い幼児は、これが結構できたりする。
逆に言えば、通常の逆上がりであれば、うまく蹴る力さえあれば、腹筋はほとんどいらない場合もある。
だから、単純に「太っているからできない」ということにはならない。
(しかしながら軽い方が当然楽であり、幼児期の方が有利である。)

そう考えると逆上がりの反復練習は、筋力を鍛えつつ、蹴るタイミングと感覚をつかむ練習といえる。
だから『飯田・根本式段階別さか上がり練習法』や、帯・タオル・ベルト等を使う練習には効果がある。
前者は主に蹴る力の方を補助し、後者は主に腹筋の弱さを補助している。
前者は跳び箱と踏切板が蹴る方向を修正し、身体の移動距離を短くしてくれる。
傾斜が急なほど、高い位置から蹴ることができ、物理的な力が少なくて済む。
後者は腹筋が弱くても、鉄棒に身体が巻き付くようにしてくれる。
ひもの長さが短いほど、強制的に回転の中心部分にへそが近付くため、楽に回れる。
これらの指導は相当研究されており、一概には言えないかもしれないが、単純化して伝えるとそういう感じである。

ただ、これらの力が、反復してもなかなか身につかない子どももいる。
上達が目に見えない時に努力を継続させること自体、高い指導技術が必要である。
逆上がりに固執せず、様々な方向から鉄棒運動を好きにさせたり、得意にさせたりしたい。

2015年7月20日月曜日

「逆上がりができない」状況をどう捉えるか

逆上がり。
これができないと人生にどんな悪影響や問題が出るのか。
結論、できなくても社会に出れば必要性は低く、特に問題はない。
将来体育を教える立場になるとか、アクション映画さながらの高いところからぶら下がる状況になるなら話は別である。
普通に生きていれば、多分ほとんど使う状況はない。

では、やる価値がないのかというと、全く逆で、価値は高いと考えている。
学校教育は、そのまま実生活での実用性を第一とするものではない。
家庭科のようにそのまま実生活に直結するものも勿論あるが、そうでないものの方が圧倒的に多い。
戦時中の学校のように、実用性の必要に迫られて余裕のない状態では、学問的な教育は後回しにされてしまう。
海外の厳しい環境下の子どもたちも同様である。
本来、労働とは別に学問の機会が保証されて然るべきである。

話がやや脱線したが、要は実生活に直で役立つかどうかが価値ではないということ。
様々な種類の学習を通して、「人格の完成」という大きな目的に近付けていく。
その過程には「協力」「努力」「工夫」「論理的思考」「体力」など、様々な力が総合的に育っていく。
途中には「感動」もきっとある。
このような向上的な変容があれば、価値があるといえる。

その点において、「逆上がり」の学習はなかなかの優れもの教材である。
逆上がりが他の教材より優れている点は、獲得までのステップが明確であるということ。
目指すべき到達点と途中の段階がかなりはっきり見える。
そして、ここは長所でもあり短所でもある点だが、結構時間がかかるという点。
何十回、何百回という練習を繰り返していく中で、タイミングをつかんでいく。
一定の筋力も必要になるが、やっている内に、必要な筋力も徐々についていく。
日々の努力が「できそう」に近づいていける。
また、「できた」「できない」が身体の表現として本人に明確にわかる点がいい。
できた時の達成感がある。
できた結果、自己肯定感が高まる。

ただ前提として、できるようになること=技能の高まりが大切になる。
たとえ補助付きでもいいから、できたという達成感が欲しい。
そのための指導のステップとして、
『飯田・根本式段階別さか上がり練習法』や、
帯・タオル・ベルト等を使う練習がある。
「スモールステップ」で達成感を維持でき、大変に有効な指導法である。

問題は、高学年になっても、逆上がりができないままの子どもがいることである。
体育を中心に研究している学校ではクラス全員できることもあるが、他においてその状況は割と稀である。
結構、逆上がりができないまま進級することが多いようである。
そうすると、高学年担任は困る。
高学年としての高度な技や組み合わせ技に取り組ませたいのに、まずもって少し高い鉄棒には上がれない。
そして、鉄棒嫌いであることが多い。
重度だと、毎回見学する場合もある。
結果、教師の側も鉄棒指導が億劫になるということもある。

立ち返ると、逆上がりの位置づけである。
先に述べたように、逆上がりができないと絶対にいけない理由はない。
ただ、鉄棒運動へは意欲的に取り組めた方がいい。
そのための道は一つではない。
別のアプローチからも鉄棒運動を好きにさせたり、得意にさせたりすることはできないか。
今回、こうもり振り下りから入る鉄棒運動の単元を提起したのは、ここのあたりの問題意識による。
(そして、絶対にこうもり振り下りからやらないといけない理由も勿論ない。)

なるべく低学年の内に、様々な動きに取り組ませることが肝要である。

2015年7月18日土曜日

はたらくは「傍楽」

メルマガ上で6月の記事。
毎年書くのも何だが、6月は病気の多い時期である。
教員だけでなく、社会全般で5月と6月に病休に入る人が多いというデータがある。
働けるのは有り難いことだが、身体をこわしてしまうのは避けたい。
残業も積み重なると、後に響く。

残業は、仕事が終わらないからやる。
無理矢理させられている人は割合としては少ないと思う。
がんばってるのに、何か虚しく感じることもある。

はたを楽にさせるから、はたらくという。
喜んでもらえることで、自分も仕事を楽しめる。
これが、がんばってるのに認めてもらえないとなると、しんどい。
しかし、以前書いた通り、ちょっとやそっとではほめられない、認められないのが大人の社会である。

よく周りを見てみると、自分よりもがんばってる人がいる。
特に面倒なことを進んでやってくれている人がいる。
認めてもらえない自分は、その人に声をかけているか。
余裕がなくなって、自分だけになっていないか。

はたを楽にしてくれている人に、感謝が足りないことに気づく。
周りに目を向けると、感じ方も変わるかもしれない。
自分が楽をさせてもらっていることに気付くと、元気が出る。
倒れそうな時は、目を上げて周りを見てみたい。

2015年7月16日木曜日

叱ることについて

未来のゴールを見据えて現在のなすべきことを考える。
叱りすぎて子どもが将来自信をなくしていたら失敗である。
一方で、良くない行為も叱られずに過ごして大きくなっても、ここに問題が残る。

社会に出たら、結局叱られるのである。
褒められることの方が圧倒的に少ない。
みんな、そんな余裕はないのである。
びしばしやられないで、見切られることもある。
(その意味で、部活動で時折見られる理不尽なほどの上下関係は、社会のトレーニングになっているかもしれない。)

叱らない教育は、精神衛生上よい。
これをベースにやれたらいい。
ただ、他人に迷惑をかける行為やマナー、モラルに欠く行為は、遠慮なく叱る。
一度目は教えても、二度目、三度目となれば話は別である。

叱ることは、辛い気持ちになる。
叱った後に、自分が嫌になることも多い。
それで自分がダメだと思ったりして悩む人もいる。
ほめるのがいいという記事を読んだりや話をきくと、凹む人もいる。

実際は、ほめることと同じくらい、叱ることも大切である。
どちらも、程度の問題である。
少なくとも、社会では叱られる機会の方が多い。
ほめることを多くしようとして、たくさん叱ってしまう。
それぐらいのバランスで、実社会に向けてはちょうどいいのではないかと思う。

2015年7月9日木曜日

仕事術 メモ&次年度の文書作成

たまには仕事術の話。

私は、メモをよくとる。
メモ魔というほどでもないが、かなりメモをする。
付箋は大活躍である。
本を読んでも話を聞いても歩いていても、とにかく気付いたことは付箋にメモをとる。
(このメルマガネタも、付箋の気付きメモから生まれているものがかなり多い。)

さて、メモで大切なものの一つが、自分の校務分掌のメモ。
例えば運動会の提案をして職員会議で通る。
通った後になって、あれが必要、これも必要と気付き、色々と追加連絡が出る。
その場では何とか凌ぐが、来年度も確実に同じことが起きる。
(特に、提案にないのに協力的な人の義理人情で何とかしている部分については、確実に改善が必要である。
 義理人情に頼るのは、本当のピンチの際の最終手段にとっておきたい。)

どうするか。

その都度、来年度に備えて、提案文書のデータに書き加える。
ただ、これは結構面倒である。
そこで、メモの出番である。
とりあえず紙でも何でもメモしておく。
そして、ワードなどで「運動会メモ」などというファイルを作り、つれづれ書いていく。
形式とかは気にしない。
書く場所も順番も気にしない。
とにかく、書いておく。

それで、行事が終わった後に、反省をまとめる際、このメモも見返す。
反省には出なかったものの、主担当の自分には気付いていた点がある。
それで、次年度の仮の提案文書(異動があるため、人名部分はいじらない)を作る。
そこまでやって、今年度のその行事の仕事は一区切りついて終わりである。
一手間、いや、結構な手間だが、次年度も自分がやると思った時の労力を考えると、かなりのコスト節約である。
新しくその分掌担当になった人も楽である。
来年度の見通しももてて、その行事も今年度よりうまくいくはずである。
(経験上、最もうまくいかないのが、見通しの悪い時である。つまり、異動したての年である。)

割とやっている人も多いことだと思うが、そんなことももしかしたら役に立つかと思い、僭越ながら紹介してみた。

2015年7月7日火曜日

自分の所属に誇りを持つ

自分の所属に誇りをもつことは、自信を持つことにつながる。

例えば、〇〇家の人間であるという自負。
〇〇学校の児童・生徒であるという自負。
〇年〇組の生徒という自負かもしれない。
大きくは、日本人であるという自負かもしれない。

自負すれば、自然と行動もそれに相応しいものになっていく。

逆に「どうせ自分なんか」という状態は、負の行動へ導く。
また、自分の所属をけなすことも同様。
自分の所属のメンバーに対しても同様
「互いを尊重する、または尊敬する」という態度が、結果的に自信につながる。

単純なことだが、意外と逆にいきがちな部分である。

2015年7月5日日曜日

成功は運のせい 失敗は自分のせい

タイトルは、松下電器(現パナソニック)創業者、松下幸之助の言。

成功したら、周りのお陰。失敗したら、自分に原因がある。
全員が、そう考えることで、成功も失敗も生かされる。
うまくいったのは、周りの人々と運のお陰だと考える。
そうすると、自分の小さな失敗も生かされる。

失敗したら、自分に何か改善できる点はなかったかと考える。
例えばメンバーの誰かがミスしたとしても、自分にフォローできるものがあったはずである。
または、ミスの原因を自分が作った可能性もある。

どちらにせよ、周りへの感謝と、自己の反省は必須。
うまくいったら、多くは人様のお陰。
うまくいかなかったら、ほぼ自分の責任。

チームメンバー全員に必要な考え方だが、誰よりもこれを意識すべきは、責任者である。
学級なら、担任である。
これは、毎日の授業にも当てはまる。
授業をよく理解していたら、子どものお陰。
授業をよく理解できていないとしたら、担任の責任。
そう考えると辛いし苦しいが、それが真実。
自省していきたい。

2015年7月3日金曜日

同じ人間として対等にみる

「子どもはやがて大人になる」
こういう見方をすると、普段の接し方も変わってくる。
同じ人間として対等に接する意識になる。
年齢や立場に上下や違いはあれど、それは人間としての上下ではないという見方になる。

そうすると、ほめることが減る。
「?」と思った人もいるかもしれないが、「ほめる」という行為は、原則として上下関係がある。
(アドラー心理学の考え方で、以前何度か書いた。)
上の立場の人が下の立場の人に対して「ほめる」を行う。
「よくできました」「上手」「がんばりましたね」。
どれも、恐らく職場の上司や年長者に対して言うことはないと思う。
ほめるという行為は、上から下への報酬の一種である。
(これ自体は意味のあることだが、子どもが報酬のために行動するようになると、何かと不都合が生じる。)

人間として対等という観点で見ると、ほめるというより感嘆する、感謝することが増える。
「すごい」や「ありがとう」「嬉しい」という言葉が増える。

例えば、仮に子どもが漢字テストで100点を取ったとする。
「よくできました」と言われたら子どもは嬉しい。
しかしこれを、対等の観点で伝えると、
「自分の子どもの頃は漢字100点なんてなかったなぁ・・・(遠い目)。すごい・・・。」
というようになる。(実話。)

別の例で掃除であれば
「真面目にやってるね。あなたはえらいね。」
というところを
「真面目に掃除をやってるね。あなたがいてくれて助かる。」
となる。

これがいいのかどうかは、知らない。
ただ、本当にそういう風に感じて伝えることが多い。

また、この人間として対等に見て接するということは、指導をしないということとは違う。
教育が仕事である。
育つように教えるべきは教える。
特にマナーのようなことは、子どもは経験上知らないのできちんと伝える必要がある。
ダメなことをダメときっちり叱るのも、一人の対等な人間として認めているからこそである。
人間以外の動物にマナーや倫理を伝えようとしないのは「馬の耳に念仏」だからである。
(人間であっても、そういうことがあるので、伝えないことはある。)

子どもは子どもである。
しかしながら、子どもは大人になる人間である。

当たり前だが、そんなことが結構大事なのではないかと思う。

2015年7月1日水曜日

結果には、原因がある

給食を配膳中、ぶつかってひっくり返す。
これが何度か起きたとする。
どうするか。

気を付けるように言う。
しかしまたやる。
叱る。
これが悪循環パターン。

ここでは、失敗の原因に目を向ける。
給食をひっくり返したというのは、なるべくしてなった結果と捉える。

例えば、動線に目を向ける。
人が交互に行き交っていないか。
狭いところを通っていないか。
そもそも、机の配置が悪くないか。
運ぶ人数が多すぎるのではないか。
・・・・

挙げればきりがないが、かなり要素があると思う。
つまり、それだけ要素があれば、なるべくしてなった結果だといえる。

ここで、結果に着手しても無駄である。
気を付けるように言うのは、それにあたる。
原因の方を指導する必要がある。

当たり前すぎることだが、結構見落としがちである。
特に体育では、運動の状態そのものに注目しがちだが、その前の予備動作に原因があることが多い。

これは、様々な場面でいえる。
なぜその状態なのか。
それは、物理の法則と同じである。
高いところから落としたら、振り子が大きくふれるのと一緒である。
自然の結果である。

そういう視点でもって見ると、解決策が見えてくるかもしれない。

2015年6月29日月曜日

学級づくりの鉄則 真面目な人に損をさせない

6月も終わる。
学級の子どもとの関係も大分温まってきた頃である。
一方で、5月から7月にかけては、学級でのトラブルも増えてくる時期である。
遠慮がなくなり、子どもたちの本来の姿が現れてくるようである。

トラブルはチャンス。
トラブルやピンチにこそ、成長の種が隠れている。

ところで、トラブルが起きると、それを起こした当事者に目が向く。
その対応に追われる。
当然である。
放っておけない事態もある。

当然であるのだが、その対応中にも、真面目にやっている子どもがいる。
トラブルがあった時にも、平時と同じようにきちんと行動してくれる子どもがいる。
むしろ、担任がいないからこそ自分がしっかりしなきゃと進んで動いてくれる子どもがいる。
それに追従してがんばってくれる子どもがいる。

ここを絶対に落とさない。
以前にも何度も書いたが、大切なことなので繰り返し述べる。
手のかかる子2割、普通以上によくやってくれる子2割、中間のどちらにも動く子6割である。
この6割がどちらに引っ張られるかで、クラスの質が決まる。

よくやっている子どもを中心に声かけをすれば、6割はそっちに引っ張られる。
最後の2割の子どもは、計8割となった真面目な子ども集団によってやがて引き上げられる。

手のかかる子どもを中心に関わっていけば、6割もそっちに引っ張られる。
よくやってくれるはずの2割の子どもは、不真面目な8割相手に馬鹿馬鹿しくなって、やがて真面目にやらなくなる。

様々な学級経営の方針があろうかと思う。
私の学級経営の一貫した方針は「真面目な人に損をさせない」である。
トラブルを起こす子どもになるべく「負の報酬」を与えない。
たとえ厳しい叱責であっても、注目行為は子どもにとって報酬である。
(暴走族はその最もわかりやすい典型的行為である。注目されること命である。)
叱責の前に、きちんとやっている子どもを認め、感謝の念を伝える方を優先する。

繰り返す。
真面目な人に損をさせない。
不真面目な人は、「とりあえず」相手にしない。
あくまで、とりあえず。
相手にする優先順位は後回しである。
なぜなら、きちんと並んで待っている真面目な人に先に対応すべきだからである。

お店を考えればわかる。
例えば入場待ちで並んでいる列があるとする。
入場するため、規則を守り、整然と並んで順番が来るのを待っている。
そこに割り込みして先に見てもらおうとする人が入ってきた。
そこを相手にして先に入れたら、真面目に並んでいた人が怒る。
その怒りの矛先は、割り込んだ人というより、そこを認めて対応した店側にいく。
当たり前である。

これは、社会全般に共通する、健全な集団づくりの鉄則であると思う。
真面目な人に損をさせない。
ここを外さなければ、大きく崩れることはないかと思われる「肝」の部分である。

2015年6月26日金曜日

「きれい好き」な人と「きれいなもの好き」の人

担任する子どもたちによくする話。

世の中には、「きれい好き」な人と「きれいなもの好き」の人がいる。

前者は、きれいにすることが好きなので、掃除を好み、公共マナーが良い。
当たり前だが、きれい好きな人はポイ捨て等は絶対しない。

後者は、自分と自分の周りがきれいであることが大切で、汚い物にさわれないので、掃除が嫌いである。
空き缶やたばこの吸い殻等のゴミは汚くて邪魔なので、そこら辺に平気で捨てる。

要は、掃除の取り組み方でわかるという話である。
トイレを自分で掃除する「きれい好き」の人は、自分が使う時に汚さない方法を考えて実行する。
トイレを自分で掃除しない「きれいなもの好き」の人は、平気で汚れる使い方をする。

ちなみに、これは給食等でも現れる。
食べた後の食器がきれいな人は、普段食器を自分で洗う人。
食べた後の食器が汚い人は、普段自分で洗わない人。
食べ物を大切にする人は、食事を自分で作る人。
食べ物で遊ぶ人は、自分で作ったりしない人。(残す残さないの話とは別である。)
あくまで傾向ではあるが、そういう風になる。

まとめると、生産者意識(主体)か消費者意識(受け身)かということである。
受け身の「御客様」(子どもの場合は「御子様」)意識の人は、迷惑をかけても何をしても平気である。
主体者意識のある人は、相手が喜ぶことやマナーを守ることを考える。

特定の授業の時だけ、「主体性」を求めてもうまくいくはずがない。
24時間、主体者意識が必要である。

サービスされるのが大好きな「きれいなもの好き」より、サービスするのが大好きな「きれい好き」を育てたい。
私なら、掃除で一点突破である。
みなさんなら、どうされますか。

2015年6月24日水曜日

一流選手の動きはなぜ美しいのか

運動会、陸上大会と運動行事の多い1学期、体育主任にとっては正念場のシーズンとなる。
これらの行事に「走る」ということの指導は外せない。

次の本が、体育の指導を考える上で大変参考になる。
『一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する』小田 伸午著  角川選書
http://www.amazon.co.jp/dp/4047035025

第一章の「主観と客観のずれ」の冒頭にある「もも上げ神話」の話からして面白い。
要は、走る段階で「ももが上がる」という動作が入ることを図示したら、「ももを上げれば速く走れる」と誤解されたというもの。
この「ももあげ神話」を誤解されたゲラルド・マック氏の言を文中から引用する。
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動作は「そうなる」のであって、「そうする」のではない(以下省略)
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この本もまさにこの通りの内容である。
いわゆる「ハウツー」本ではなく、理論の本である。
あくまで理論上「そうなる」という話であって、直接「そうする」ことを指導しても上手くはいかない。
動きの指導は、本人の感覚によって、千差万別である。

理論だけの指導は、通用しないので使えない。
ハウツーだけの指導は、応用が利かない。
理論とハウツー(具体)の両方が欲しい。
ハウツーは多いのに理論が弱いと思っている方には、おすすめの本である。

2015年6月22日月曜日

感謝は気付き~「〇〇の日」は気付きのチャンス~

ところで、昨日は父の日だった。
父の日は、母の日があるから、後になってできたという、やや軽い扱いの日である。
家庭内では、やはり「母」なのである。
という訳で、メルマガで取り扱ったのが母の日だったので、今更ながら母の日の話。

母の日。
「子どもの日」と名称が似ているが、子どもの健やかな成長を願う日であるのとは訳が違う。
あくまで「母への感謝」を具体的に伝える日である。
(父の日も同様なのだが、かなしいかな、後付けの感は否めない。)

母親がしていることは、母親的には「当たり前」のことである。
しかしこれはあくまで「お世話」の行為の主体者である母親の感じ方である。
お世話されている側が「当たり前」になってはいけない。
しかし、空気と同様、ふんだんにありすぎるものに対しては、当たり前すぎて感謝の気持ちを持ちにくい。
例えば水泳をすると、普段全く意識しない空気(に含まれる酸素)が有難いものになる。
「有ることが難しい」環境を体験して初めて「有難い」ことに気付く。
本当は有難いのに当たり前すぎるものに対しては「気付く」ためのきっかけが必要である。

以前にも何度も紹介しているが、「当たり前の有り難さ」について考える時、震災の時の給食を思い出す。
普段当たり前のように食べて、余るから残している給食が、急に少量の質素なものになる。
いつもよりずっと質素な白飯とおかず一品の献立が、本当に有難く感じられる。
当然、残飯など全くない。
食料の調達が、たくさんの人の手によってやっと成り立っている事実にも思いが至る。
自分が、いかに恵まれた環境で、たくさんの人々に支えられていたかにも気付く。

そんな訳で、母の日は感謝を伝える日であると同時に、感謝に気付く日でもある。
家族内で多分最も重労働をこなしている母親の姿に思いを馳せる日である。
見回せば、あらゆることの感謝に気付く種がいっぱいある。
「当たり前」の「有り難み」を感じられるようにしたい。

2015年6月18日木曜日

感謝の心を持つ

自分のブログを見直していて、アクセス数が多い記事がいくつかあったので眺めていると、次のものがあった。
もう4年近く前の記事である。

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感謝の話を子どもにした時、次のように言葉が返ってきた。
「今日の感謝は、先生が授業してくれたことです。」
感謝に耐える授業をしていたかは相当疑問だが、そこは別として、嬉しい言葉である。

次のように返答した。
「ありがとう。
先生も、みんなに感謝しています。
先生が授業するのは、仕事だから当たり前ですよね?
みんなが授業を一生懸命聞くのも、そうすべきことですよね?
でも、そういう当たり前のことに感謝するのって、すごく大切です。
もしお母さんに、母親はご飯つくるのが当たり前でしょって言ったら、大変なことになりますよね?
当たり前のようにしてもらえることに感謝する素直な心を持ちたいですね。」

子どもの言葉にはっとさせられた。
一生懸命授業を受けてくれる子ども達に、深く感謝の念を持ちたい。
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6月。忙しいと感じている人が多い。
自分も、公開研究会を控えていて、今は尚更である。
じゃあ、大変なら明日からもう来なくていいよと言われたら、それは困る。
仕事ができるということの有り難さを見直す機会である。

高校、大学、採用試験と、受験をし続けて切望して就いた教職の仕事。
そして尊敬する先生が勤務していたこの学校で働けることの有り難さ。
そこに送り出してくれた方々。
ここまで関わらせてもらった全ての人たちと、今目の前で関わらせてもらっている全ての人たち。
このこと自体にも、改めてもう一度感謝の念を持ちたい。
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