2021年12月31日金曜日

勤労の恩恵に気付く

 本日は大晦日だが、勤労感謝の日に書いた記事である。

今年一年の勤労に感謝するという意味から載せる。


子どもたちには、まず「感謝」とはどういうことかを教える必要がある。

感謝できることは身の回りにあふれているのに、放っておいてもなかなか自然には気付けないことだからである。

当たり前にあることが実は「有り難い」ことと気付かないとできない。


だからといって「感謝しなさい」と直接教えても駄目である。

謝れと言われて不承不承謝るのと同じで、それでは意味がない。


人々の勤労に対し、感謝するのが本来当然のことである。(故に気付けない。)

外を安全に出歩けるのも快適な暮らしができるのも、どれも人々の弛まぬ勤労の賜物である。

自然の恩恵への感謝はそれらの大前提にあるものだが、これにもなかなか気付けない。

やはり、きちんと教える必要がある。


蛇口を捻ったら、当たり前のように水が出る。

これは、驚異的なことである。

もし水道管が壊れたり、濁った水しか出てこなくなったら、私などには手も足もでない。

配管工の技術も水の浄化の技術ももっていない。

全て、他の職業の方々の技術による恩恵を受け続けている結果である。


もっと言えば、その仕組みを考えて作って下さった先人の努力の賜物である。

そして、そもそもが雨という天からの恵みであり、大自然の恩恵の賜物である。


これが、電気だろうがトイレだろうが、病院だろうが美容院だろうがスーパーマーケットだろうが全てに言える。

全ての生活のインフラ整備は人々の勤労の賜物である。

自然災害のような大な出来事に遭遇して初めて気付けることでもある。

大自然の恩恵も脅威にもそこで気付く。


私の職能からすれば、学校教育の分野で貢献するしかできない。

だからそれを用いて全力で社会に貢献することで、見返りとして他の方々の勤労の恩恵に与ることができている。


一方で、様々な理由で勤労に携われない人々もいる。

この人々も、他の人々の勤労の恩恵に与る権利がある。

そもそも「ヘルパー」という類の仕事は、助けられる人、介護される人等がいなくては成り立たない。

助ける相手がいるからこそ全ての仕事は成り立つ。

全ての人が生きる権利があるという所以である。


教える仕事も同様である。

教える相手、子どもあってこそである。

(全員が万能選手で、全知全能の存在だったら、勤労も教育も貢献も存在できない。)


日本においては、その教わる子どもたちに、勤労(賃金を伴う労働)は不要である。

むしろ「児童を酷使してはならない」と法で禁止されている。

学問に興じて恩恵を受け取る存在であっていいと規定されている。

これ自体が、幸福な証である。(ただし本来は、という話であり、現実は何かが大きくねじ曲がっているが。)


日々、人々の勤労の多大な恩恵に与っていることに気付かせること。

これ自体が教育である。

何のために学ぶのかというのも、結局ここである。

学ぶことを究めれば、それは後々に大きな社会貢献に繋がる可能性がある。

学問の徒となる道である。


一方で、勤労は直接的な社会貢献である。

働くことそのものに意義がある。

人間は社会的な生き物であり、他者との関係の中でこそ生き甲斐を感じられる。

働けるということは、自分を生かして人々の役に立てるということであり、喜びである。


学校でも、自分たちの受けている豊かな恩恵に気付き、将来の勤労への意欲をもつ教育の機会をもてるようにしたい。

2021年12月29日水曜日

時間を生み出す

 拙著に次の本がある。


『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』


教育改革が進んでいるが、ここが大切という考えは変わらない。

新しいことを始めるためには、旧い何かを止める必要がある。


現場は既に一生懸命やっているのだから、改革がうまくいかない根本は、個々の努力量の問題ではない。

絶対的な時間の不足である。


時間を生み出すための道には、大きく二通りある。


一つは、お金をかけること。

人を雇うのも機械を導入するのもこれである。


タクシーに乗ることもハウスキーパーを頼むのも夕飯にピザのデリバリーをオーダーするのも同じである。

人の時間をお金で買っている。


全自動洗濯機やお掃除ロボットの利用も同じである。

機械の利用によって時間を買っている。


教育現場には、余分なお金がない。

だから、こちらの道では現場としてはかなり上に依存することになる。

勤める地方自治体次第ということになりがちである。



時間を生み出すもう一つの道は、今やっている何かをやめることである。

これは、現場の工夫である程度まかなえる。


時間をかけている割に単なる自己満足にしかならないものがある。

これをやめる。


過剰サービスといえるものもある。

これをやめる。


工夫なく惰性で続けてしまっていることがある。

これをやめる。


以前は必要だったものが不要になっていることがある。

これをやめる。


やめることで、時間は生まれる。

生まれた時間で、新しい何かが生み出せる。


教育改革のためには、やめること。

何かを始めることには、何かをやめることが前提である。

2021年12月27日月曜日

清掃にも結果と意味を求める

 年末の大掃除に関連して、清掃指導について。


掃除は、わかりやすく学校における「仕事」に近い存在である。

自分の分担をやらないと、自分も周りも困ることになるものである。

一方で、やることで周りが助かるものである。


そのため、掃除においては、「きれいになった」という結果が大切になる。

「一生懸命やった」と本人が思い込んでいても、汚れていたままでは意味がない。


ほうきを一生懸命動かしているとしても、同じ場所を何度掃いているようでは、無駄である。

他の人がせっかく掃いたところに後ろから掃いて埃を被せてしまっては、元の木阿弥である。

掃くのにも拭くのにも順序がある。


ほこりやちりが溜まりやすい場所というのもある。

大抵の場合、物を動かさないといけない。

そうなると、そもそも物を減らす方向(整理)も必要になる。

きれいにするにも、頭を使った創意工夫が必要である。


掃除は、結果も大切になる。

結果を出す方法というのがある。

そこは、ある程度教えた方がいいこともある。



人のために動くという機会が大切である。

一生懸命に勉強しているだけだと、これがない。

どんなにいい成績をおさめようが、自分のためでしかない。

部活動でも同じである。


だから、本当に強い部活動は、清掃指導やマナー面にも力を入れているところが多い。

感謝の気持ちや他者貢献が、結局強いチームを作る。

そのチームが来ると、大会会場がピカピカになるという。

勝って称賛されるのは、そういうチームである。



学校は、自らの能力を発揮して社会で活躍し、社会に貢献できる人間を育てることが求められる。

自他の幸福に資する存在であることが望まれる。


清掃指導では、結果を求めることと、意味付けの両方が大切になる。

「どうなることが理想か」と「何のためにやるのか」である。

これ自体が仕事のモデルになる。

それはもちろん将来清掃業に携わるためという訳ではない。

仕事そのものの在り方、意義を学ぶ場になる。


将来が起業家だろうが会社員だろうがそこは同じである。

社会の幸福、向上に資する結果が求められる。


清掃指導などは特にわかりやすいだけで、全てが同じことである。

学校生活におけるあらゆる子どもの「役割」において、向上的変容を求めていきたい。

2021年12月25日土曜日

待てない思考を考える

 クリスマスとは関係なく、今日は日常生活からの気付き。


世の中、待てない人が多いという。

私も正直、あまり気長に待てる方ではないと思う。

(ちなみに、飲食店や遊園地などの行列に並ぶのが嫌な理由は、待てないからとは違う。

自分も行列の一部になるのに対し、抵抗感があるからである。)


先日は、その場に一台しかないATMを、とあるご高齢の老紳士が使用中だった。

何度も何度も通帳やカードを出し入れしては、作業を繰り返している。

進んでいるのか失敗しているのかどうかも、見た目ではわからない。


・・・5分経ち、10分経ち、後ろに並んでいた人たちが一人、また一人と去っていった。

(その時、たまたま私はスマホで仕事のメールの返信文を作成していたため、待つこと自体があまり気にならなかった。)


それぞれ、不満があっても言わないで、自分が我慢していた。

そして、私と私の前にいた一人の老婦人を除き、誰一人声はかけず、他の数人は立ち去るという選択肢をとった。


この現象をどう捉えるか、一人外で昼食をとりながら考えていた。


「あまり周囲に気を遣わない方が本人は得だが、周りはあおりをくう」

という捉えが一つできる。

やられた方は、かなりイライラする考え方ではあるが、割とよく見られるものである。


一方、

「気を遣っていない訳ではなく、単に動作がゆっくりな人もいる」

という考え方もある。


今回は、かなりご高齢の方である。

動作が機敏でないのは、仕方がないように思う。


また、自身がこの現象を「不幸」と受けとるかどうかにもよる。

私はその場でやることがあったから、たまたまイライラせずに済んだだけである。

元々決して心が広い訳でも、我慢強い訳でもない。

他の人と同様、自分が時間のない状況だったら、イライラしていたに違いないと思う。


教育に転化して考える。


子どもが遅くてイライラしてる大人がたくさんいる。


これは、本当に、子どもが悪いのか?

そもそも無理なのではないか。

そんなに子どものスケジュールを詰め込んでいる大人の側に問題があるのではないだろうか。


お店でも同じである。

客数に対し店員さんが少なすぎて、対応が遅れるとする。

店員さんが足りないのは、店員さんの責任ではない。

むしろ、経営者側の責任である。


また、待てないお客さんの側にも考えるべきところがある。

自分がその店員さんの立場だったら、一体どうやって解決するのか。

店員さんに不満をもつお客さんであれば、恐らく自分が店員の場合「待てない客が悪い」と考える気がする。


相手のせいで、自分が待たされていると感じる。

他責的思考である。


一方、不満があっても言わないで自分が我慢する人がいる。

子どもでも大人でもいる。


「アサーティブ」に相手の立場を慮った上で自分の立場の考えを伝えることもできるはずである。

本当に自分にとって必要なことには、声を出せる人間であることも大切である。


ただ「待った」という出来事だが、色々と気付くところがあった次第である。

2021年12月23日木曜日

授業参観で何を見せるか

どの学校にも、授業参観が年間数回あることと思う。

4月に行うもの、2学期などの半ばに行うもの、年度末に行うもの、全てねらいが違う。

よって、見せる内容も違う。


4月、保護者は主に学級担任と学級と見に来る。

今後の期待と安心感を与えられるかが大切になる。

もちろん子どもを見に来てはいるが、担任も見に来ている。

ここは、教師の側のパフォーマンスが多めに必要になる。


年度の半ばに行うものは、保護者は主に子ども集団の現状を視察に来ていると考えて行う。

日常の様子の公開である。

普段行わないような、過度なパフォーマンスはしない。

いずれにしろこれまでの長い期間で普段の様子が伝わっているはずなので、急に変えると不自然である。

「普段から実際こんな感じでやっています」ということを自然に伝えることを意図して行う。


年度末は、完全に子どもそのものを見に来る。

学習成果の発表である。

ここまで育ったという結果報告である。

もう預けるのが終わる担任に対しては、ほぼ無関心とみなす。

子ども自身のパフォーマンスが中心となる。


そのように考えると、やるべきことがそれぞれはっきりしてくる。

いずれにしろ、飾ろうとしたところで、メッキはすぐに剥がれる。

半ば以降は、積み重ねていったものが出るだけである。


師の野口芳宏先生の言葉を借りるとすれば

「本音・実感・我がハート」

で渡るしかない。


日常の積み重ねが全てである。

普段から、授業参観をされているつもりで、日常指導に臨みたい。

2021年12月19日日曜日

モチベーションを考える

道徳の学習で、次のような教材を扱った。


地域のごみ拾いに父親に嫌々つれていかれる。

その中で、一生懸命やっている友人や地域の方々に感化される。

地域の人にお礼も言われる。

やっている内にやる気に満ち溢れていく。


単純に言うとそういう話である。


これは、作り話だが、実際によくあることでもある。

「働くこと」に焦点を当てた教材なのだが、流れからモチベーションについて考えた。


要は、なぜ主人公は一生懸命働こうと思ったかである。

子どもたちから、以下の要素が出された。


A 友達がやっているから

B 一生懸命やっている人たちをかっこいいと思ったから

C きれいになるのが楽しくなってきたから

D ほめられたから

E 道を通る人に喜んでもらいたくなったから


この中で、更にAは次の二つがあった。

A1 みんながやっていることを一緒にやりたい

A2 何か言われそう(仲間外れになるかも)


次に「自分だったらどれがやる原因になりそうか」を問うた。

B~Eもほぼ均一にいるが、Aは一番多い。

予想通りである。


やはり、周りの影響というのは大きい。

同調圧力もここである。

プラスにも使えるが、マイナスにもなる。


社会に生きていると、同調圧力はなかなか抗い難い。


ある本に載っていた話だが、難破船から海へ飛び込まねばならぬ時、船長は客に次のように言うというジョークである。

アメリカ人には「飛び込むとヒーローになれますよ」

イギリス人には「飛び込むのが紳士です」

イタリア人には「飛び込むとモテますよ」

ドイツ人には「飛び込むのがルールとなっています」

日本人には「みんな飛び込んでますよ」


日本人が同調圧力に特に弱いというのは、国際的な認識のようである。


やはり、動機は自分の中にもちたい。

そうするためには、自己信頼が必要である。


また、外部のルールに無思考に従うだけではいけない。

かといって、ルールが全く不要な訳でもない。


内発的動機付けの方が大切とわかっている。

しかし外発的動機づけの威力は大きい。


モチベーションについて、色々と考えさせられることのある時間であった。

2021年12月17日金曜日

「したい」を実現する場と時間をつくる

前号と関連して、ルールと「したい」について。


個人の人生においては、社会のルールではなく「したい」が優先されるべきである。

社会のルールに合わせたに自分自身が倒れたら元も子もない。


しかし、社会においては個人の人生は優先されないというのが現実である。

それぞれの社会的な場にはルールがあるので、個人の「したい」は優先されないというのが現実である。


例えば、会社や学校については「出社時刻」や「勤務時間」などへの規定がある。

規定で定められたものを守る義務がある。

その場のルールを変えない限り、個人の「こうしたい」は優先されない。


「したい」だと優先されない一方で、個人的にでも「すべき」「しなければならない」ことだと優先してもらえる。

病気のための対処などはそうである。

トイレに行きたいなどという生理的現象もそうである。

交通機関の乱れによる遅刻も、認めてもらえることが多い。

こういったことは「仕方ない」こととみなしてもらいやすい。

(一部の企業では、これらの当然の人権すらも認められないということで、社会問題にもなっている。)


こういった「仕方ない状況」でない限り、個人的な「したい」は、社会の「すべき」に優先されない。


そうなれば、自分で「したい」が実現できる状況を作るしかない。

自分の「したい」が優先される場にいくことである。

あるいは、その場を作り出すことである。


「したい」が社会の「してほしい」「すべき」と合致するのが最高である。

好きなことが仕事になれば最高である。

即ち、自分から「したい」が実現できる状況を作り出す必要がある。


学校では、何ができるか。


子どもの「したい」が出せる場や時間を作ることである。

係活動などはこれにあたる。

学級会も、ルールを決めたり問題を解決したりするだけでなく、「したい」を出し合う場として使える。


子どもに、場のルールとそれを守ることを教えるのは大切である。

一方で、ルールにただ従うだけでは無思考であり、自分の「したい」を出す必要があることも教える。


今の学校は、ルールや社会的な「すべき」でがんじがらめである。

そうであるからこそ、「したい」を実現する場を意図的に設けていく必要がある。

2021年12月15日水曜日

ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す

先日の学習会で話題になったことのシェア。

ルールについての話である。


社会において個人の「したい」を最優先すると、滅茶苦茶になる。

学校も同様である。


では、社会ではどういう場合の「したい」が実現されているか。

周りの人の迷惑にならない場合は、実現できる。

もっといいのは、周りの人のためにもなる「したい」で、これは歓迎される。


周りの人の迷惑になる「したい」は、制限がかかる。

それが、ルールである。

学校のルールも原則はそこである。


実際、社会においての役割では「したくはないけれど、するべきだからする」ということの方が圧倒的に多い。

これをいたく否定する動きもあるが、これ自体は必要である。


危険な仕事、汚れる仕事、きつい思いをする仕事などは、誰もなかなか進んではやりたがらない。

しかしながら、そのような仕事をする人がいてくれるからこそ、人々が快適に暮らせている。


自分のやりたいことだけを最優先して生きる。

とても響きがいいし、素晴らしいことだと思う。

しかし実際は、その人の生活は、周りの人の「縁の下の支え」があってこそである。

やりたいことだけをやっている人だけで社会が回る訳ではない。


学校はどこにスタンスを置くのか。

周りのことなど考えずに、自分のことだけを最優先する人間の育成でいいのか。

義務教育段階で求められているところは、そこではない。

人間同士に限らず、地球規模の支え合いを考えようというのがユニバーサルスタンダードである。


もし社会において全ての人の「したい」が最優先されるなら、学校自体が成り立たない。

その理論でいけば、教師の側も嫌な態度の相手を全て拒否していいということになる。

嫌なことでも、逃げずに向き合って真摯にやるのが現実の仕事である。


公のルールは、その負担を軽減してくれる。

言わずとも、お互いの節度を守らせてくれる有用な道具である。


ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す。

そんな当たり前のことこそ、今見直されるべきではないかというのが一つの結論である。

2021年12月11日土曜日

いじめや物隠しの「犯人」にしない

毎年のことだが、教育実習をしていると本質的な質問をされることが多い。

「いじめの対応についてどうお考えですか」

というかなり大切な質問をされたので色々と真剣に答えた。


いじめやトラブルをどう考えるか。


例えば、誰かが誰かをいじめている時。

例えば、誰かが誰かの物を壊してしまった、あるいは隠してしまった時。


どう捉え、何をしていくかである。


いじめ対応の順番は原則があり

「いじめられている子どもを守る」が先で

「いじめてしまった子どもに事情をきく」が次である。


交通事故などと同じである。

まずは目の前の命を守ることが最優先である。


しかしながら、その命が助かったからそれでよし、とはしない。

事故の原因を究明し、再発を防ぐ必要がある。

治療は予防の100倍以上のコストがかかる。

だから、再び事故が起きないようにする予防に全力を尽くす。


いじめ問題の場合は、そこがいじめをしてしまった側への対応である。

再発防止に努める必要がある。


学校は、そもそも悪さを罰するための場ではない。

文字通り全ての子どもが良くなるための場である。


そうであるならば、うまくいかず過ちをしてしまった子どもほど、救いの手が必要である。

不幸でない人ならば、いじめや物隠し、公共への迷惑行為などしないからである。

例えば暴走族に入る少年少女は、自らの不幸を爆音や暴走という形で発散し叫んでいる子どもたちである。

少年院に入る少年少女は、自らの不幸を自分ではどうにもできなくなってしまった子どもたちである。


クラスの場合だと、やたら意地悪をしたり迷惑をかけたりしがちな子どもは、自信がない不幸な子どもである。

それらを放置してしまった結果の最終的に行きつく先が、先の暴走族に入る、少年院に収監という方向へ行ってしまうことがある。

つまりは、家庭をはじめ、学校を含めた子どもへの教育全般の結果である。

学校はその課された使命から、全力で子どもの生活改善に努めねばならない責務を負う。


物隠しなどで、誰がやったかわからないまま、ということがある。

やられてしまった個人がいる場合に、そこへのケアが第一優先なのは先にも述べた通りである。

しかし、その時にも伝えるべきメッセージは「それをやってしまった人への心配」である。

それをやったのは、確実に不幸な子どもなのである。

その子どもこそが、真に哀れみと愛を注ぐべき対象なのである。


「犯人捜し」と断罪の発想になれば、行きつく先は地獄である。

競争心や優劣の意識の強い人は、とかくこの発想になりがちである。

「犯人」が見つからないことを「私の負け」とみなすからである。


そんなことは、取るに足らない下らないことである。

ゲームやスポーツレクの勝負の結果に一喜一憂しているのと同じレベルである。

勝とうが負けようが、泣いたり怒ったり文句を言ったりしていたら、本来の目的を見失っている証拠である。


大切なこと、本質的なことは、やってしまった子どもに救いの手や言葉を差し伸べることである。

正直に出てこなくても、その子どもの心に残ることの方が大切である。

やった子どもが発見できることよりも「あなたが心配だ」というメッセージが伝わることの方が100万倍大切なのである。

だから、それを誰がやったかどうしてもわからない場合、全体へのメッセージとして伝え続ける必要がある。


「周りの誰かが不幸ならば、それは巡り巡って私の不幸となる」という原則を教える。

逆も然りで、仲間が幸せだと、私も幸せにならざるを得ないということである。

不幸な一人の仲間を放っておくようなクラスは、自分を含めた全員が不幸になることを容認しているといえる。

困っている人がいたら「大丈夫?」と声をかけて手を差し伸べる人の多いクラスにしていくことが、本質的に大切なことである。

(ただし現実問題として「いつも全員」がその域に達するのを目指すのはなかなか苦しい。誰しも時に余裕がないからである。)


学校の原則は、子どもが良くなる場であること。

この本質さえ外さなければ、大きく間違えることはないと考える次第である。

2021年12月8日水曜日

集団の中に生きる個を考える

 動物は相互扶助を行う。

その一方で、平常時には権力争いやいじめもする。

全て本能的にプログラムされた行為である。


例えば死にそうな仲間がいたら助ける。

中には、群れが襲われそうになった時、囮になる者さえもいる。(親が子を守る時など顕著である。)

動物には、個の生命保存以上に、種の保存を優先することがある。


助ける行為がある一方で、権力争いもする。

群れの中に上下関係ができて、統治される。

昆虫の中にさえ、アリやハチのような上下関係のある分業コミュニティを作るものがある。


人間の場合はどうか。

他が困っている状況を認識すると、赤ん坊はそこへ手を伸ばそうとするという話を聞いたことがある。

(上越教育大学教職大学院教授の赤坂真二先生による自治的学級づくりのセミナーで聞いた話である。)

本能的に助け合う能力がプログラムされている。

そして、権力闘争を行うところも同じである。


つまりは、個としての欲求も充足したい一方で、コミュニティも守りたい。

人間社会というものを大事にして貢献しつつ、私自身も充足させたい。

これが健全な状態である。


学校教育でも、ここを目指す。

個のためが全てでも、集団のためが全てでもない。

集団の発展のために個を生かす。


自分の思うように集団(あるいはその仲間)がならないことに文句を言わない。

スポーツと同じで、場のルールに従わないプレーヤーはプレーを続行できない。

自分の行動を変えるべきである。


一方で集団が良くない方向にいっているなら、自分のためにもそこへ働きかける。

集団に困った状況があるなら、解決へ貢献する。

自分の行動を変えるべきである。


日常の生活の中で、個として充実した時間を過ごせているか。

また、個として集団へ貢献できているか。


公の場では、私的欲求よりも公的利益が優先される。

ここを勘違いすると、社会にとっても個人としても不幸な人間ができる。


個の尊重が集団の貢献へとつながるようにする。

抽象的だが、特に義務教育段階の学校教育の役割としてはここが重要なように思われる。

2021年12月6日月曜日

場のルールとミーイズム

 10月に行った「学校教育のリアルな本音を語る会」での学びのシェアの続き。


11月3日は文化の日だった。

昨年もこれについてふれたが、日本国憲法公布の日である。

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2020/11/blog-post.html


憲法はルールそのものというより、ルールを作るための拠り所であり、基本理念や原理である。

大まかな方針を示しており、日本国憲法は「民主主義」が前提にある。

だから、あらゆることに対し、民主的であることが大前提に議論される。

民主的国家を守るための法的な懲戒や罰則は認められる。

民主的国家で個人の尊厳を傷つける行為は当然容認されないし、パワハラもセクハラも許されない。


その一方で、行き過ぎた個人主義が問題にもなる。

「ミーイズム(自己中心主義)」である。

学校現場が悩んでいるのは、このミーイズムの人たちの多岐にわたるあらゆる主張の数々である。


大人と子ども、家庭と学校と職場、人と場所を問わず、社会のあらゆるところに、ミーイズムは存在する。

相手が自分の都合に合わせないことに対し、怒り、わめき、糾弾する。

「他人が自分のために存在している」という前提が正義にあるため、自らの狂気を疑うこともない。


学校とは、個人の欲求を恣に充足するための場なのか。

そんなはずはない。

学校とは、学びの場である。


義務教育段階の学校は、社会を学ぶための入り口である。

最も学ぶべきは「社会は私に合わせて動いてくれない」という点である。

「私が社会に合わせて動く」ということを否が応でも学ぶ。

社会というものは大きすぎて、多少の配慮はしてくれるものの、私だけに合わせるほどの小回りは利かないのである。


分かりやすいのは、公共交通機関である。

定刻になったら当然出発する。

私が勝手に乗り遅れて置いていかれたことにクレームをつけても仕方がない。

また逆に交通機関側の都合で、自然災害や不慮の事故で動かなくなることがあるが、私のために動けと騒いでも無理なことである。


スポーツでたとえるなら、トス、あるいはセンタリングに合わせて動いていくのは自分である。

自分の立っているところに思うとおりにボールをくれないことに文句を言っても仕方ない。

せっかくのナイスセンタリングであっても、そこに自ら動く必要がある。

どんなにいいセンタリングをあげても、ミーイズムの選手は文句しか言わない。

当然、仲間からも嫌われ、避けられるようになる。


ミーイズムの人たちは、端的に言って社会そのものが嫌いである。

公の正しさの定義と自分の中の正しさの定義が正反対で違うから、摩擦が生じる。

その流れで学校を「個性尊重」の場、さらには「私尊重」の場だと勘違いしている。


尊重してくれない相手を嫌い、嫌う周囲から当然嫌われてしまうから、孤立する。

ある意味で、最も苦しんでいる、民主主義の社会が助けるべき存在でもある。

ミーイズムが子どもであれば、学校はこれを放置せず助ける義務を負う。

大変で辛いが、それが学校というところでもある。


個性の使い方を、逆にする必要がある。

学校とは、その潰しても潰しても潰れない強烈な個性を、どうやって社会に生かすかを自ら考えるようにする場である。

学校に行けば、他人と自分との違いがわかる。

自分の凹凸がわかる。

自分にできないことを支えてもらう感謝と、自分ができることを提供する喜びも学べる。


次の言葉がある。


「個性も私物化すると短所になる」

(『鍵山秀三郎 日めくり 良樹細根』PHP研究所)

https://www.php.co.jp/goods/detail.php?code=83502


個性は、人の役に立てる方向に生かそうとすることで、初めて長所となる。

学校という場で、「私」を張れば、周囲への害悪になる。

みんなが自分の要望を通せない状況で「ちょうどいい落としどころ」を学ぶ場なのである。

わがまましたければ、自分の部屋や家庭で思う存分したらいいのである。

誰にも文句を言われない。

(そもそも家庭内で満たされないからこそ、外で暴れるという面は無視できない。)


自分の部屋や家庭内などの私でやることを、公の学校や社会に持ち込まないことである。

ルールとは、場にある。

絶対的に正しいことが存在するのではなく、その場に応じた正しいことが存在する。


ミーイズムとルール。

学校現場の根本的な問題を解決するには、ミーイズムに対しきちんと「それはルール違反ですよ」と伝えることからである。

2021年12月4日土曜日

ルールを深堀りして考える

 学習会における学びのシェア。

「学校のルールと当たり前」について議論した。


「当たり前」

「ルール」

「マナー」

の違いを定義したが、ここに

「道徳」

との違いも検討せねばならなくなった。


自分の提案の中で

「国のルールの代表的なものが憲法」

という話を例に出したが、ここに参加者から

「憲法には実質的意味としての憲法と成文の法典としての両方の意味がある」

という意見が出た。

ここでも更に「憲法はルールか」という疑問が浮かぶことになった。


よくよく考えれば、憲法は国の法としての理念を表している。

例えば刑法に反すれば罰せられるが、憲法はそれとは違う。

「基本的人権の尊重」を掲げているが、そこに反するからといって即処罰になる訳ではない。


例えば19条は「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない」とある。

ただこの自由もどこまでが自由か、という議論の余地が残る。

例えば良心に従って相手を安楽死させていいものか、というのは大きな問題である。


このように、掘り下げていくと、果てしなく深いテーマにはまり込んでしまう。

そこで立ち返って「学校の当たり前とルール」という身近なところに絞ることにした。


私は「学校には厳密な意味でのルールはない」という提案をした。

なぜならば、罰則規定がないからである。


ルールというのは、基本的に反した場合には罰則(ペナルティ)がつく。

スポーツの試合然り、刑法や交通法などの各種法律や条例然り。


学校の「ルール」にはそれら罰則がつかない。

即ち、マナーや慣習に属すものと考えることができる。


メルマガにも書いたことがあるが、私は学級の子どもに

「敗北宣言」

をする。

↓参考「教師の寺子屋」2021.2.27記事:子どもと安易に「約束」をしない

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2021/02/blog-post_27.html


無下に破られても、こちらは臍(ほぞ)を噛むことしかできないのである。

だから、ルールとは名ばかりの子どもへの「お願い」になる。

守ってくれていること自体が有難いことである。

子どもが自分の話を黙って聞いてくれていることも、有難いことである。


それぐらい、学校には実際に正式なルールが存在しない。

そこで「警察などの外部機関を入れることも検討してはどうか」という意見も当然出る。

これも一理ある。

社会に出てから法的に裁かれるよりは、義務教育の内に法を意識することも大切である。


いじめはれっきとした法律違反の犯罪であるということを強く意識するかもしれない。

窃盗も器物損壊も犯罪であるが、学校は「教育の場」ということで「だめでしょ」で法的処分なしである。

やれば警察の捜査が入るとなれば、簡単には起きなくなるかもしれない。


しかしながら、やはり教育の場においては、救いたいというのが本音である。

学校としては、なるべく警察のお世話にはなりたくない。

この意識が行き過ぎて学校内の「隠蔽」が起きているとしたら、これはやはり問題である。


当たり前もマナーも深堀りしていくと、果てしない。

それこそ「当たり前」に思っていたことを見つめ直してみると、全く当たり前ではないことがよくわかる。

当たり前を改めて考えることは、自分自身の思考パターンを見つめ直すのに有用である。

2021年12月2日木曜日

道徳教育では多様な視点を手に入れる

 道徳の授業をすると、様々な反応・意見が出る。

これをどう扱うかが授業の中心になる。


道徳の教材には


1 望ましくない現状や困った事件がある

2 何か転機が訪れる

3 望ましい状態になる


という流れのものが多い。


基本的には3の「望ましい状態」というのが道徳的価値である。

そして、子どもたちはここについての価値は、教えないでも重々知っている。


例えば

「いじめはいけない」

「盗んではいけない」

「人には親切にしよう」

「感謝をしよう」

「自然を大切にしよう」

・・・

全部知っている。


だから、これを考えさせて教えること自体にはほとんど意味がない。

「だから親切にしましょうね」と言われても、実際にはできないというのが現実である。


この「できない現実」「望ましくない現状」を正視するところからの議論が必要である。

見えている現実とは、現象である。

現象をどんなにあれこれ操作しようとしても、根本を見ないと変わらない。


例えば「いじわるをする」という主人公が出てきた場合

「この主人公の性格が悪いから直すべき」と言ったら終わりである。


そうではない。

考えるべきは「いじわるをする」という現象の根本にある、人間の性(さが)である。

人間がなぜそのような行動をとってしまうのか。

どのような本能がそうさせるのかというところまで突き詰めて議論する必要がある。

突き詰めていけば、安全・安心の欲求や承認欲求などが十分に満たされていないことに起因する。


小学生でもわかる子どもにはわかる。

大人でもわからない人にはわからない。

それは、実際の経験の有無に左右されるからである。


例えば「盗みはいけない」といったことは、誰でも頭では知っている。

そして「貧しくてつい盗みをしてしまう」という行動については、理由も何となく想像がつく。

「アラジン」の主人公などは万人に理解されやすい。


しかし問題は、諸々の事情や美談によって「盗んだ」という事実の重さが霧散されてしまう点である。

ここは十分に議論して検討する余地がある。

「自分が死にそうなら盗んでもよいのか」

「悪い相手、豊かな相手からなら良いのか」

というのは、難しいテーマである。

法に背く行為は社会的には認められず、「ねずみ小僧」はたとえ義賊であっても、最終的には捕まって公開処刑にされている。


アラジンが理解されやすい一方で「十分豊かなのに万引きをしてしまう心理」は、わかる人にしかわからない。

「豊かなのに人から盗むなんてとんでもない」で終わってしまう。

注目すべき点は、物質的豊かさと心の豊かさが必ずしも比例していないという点である。

豊かなのに盗むという人の心理を理解するのは、なかなか難しい。

一見「不合理」だからである。


自傷行為なども不合理である。

自分を守るために自分を傷つけるという行為は、非論理的であり、心理的平和の中で生きている人には理解しがたい。

一方で、自身も近い思いをしている人にとっては、この行動の理由も共感できる。


人間は時に不合理で非論理的な行動をとるということへの人間的理解が、道徳教育の中に必要である。

そして一見不合理に見える行動の中に合理性があるということも知る必要がある。


「考え、議論する道徳」の真価は、様々な立場の視点を共有するところにある。

同質の人間しかいない場では、どんなに議論したところで広がりようも深まりようもない。

人種も性別も信条も違う人間が集まれば、自ずから様々な視点が手に入る。

固定化された当たり前や常識によって閉じた世界では、議論が堂々巡りするだけである。


一方で、集団において全ての個々の信条を完全に尊重していたのでは、何もできない。

集団が進むには、一定のルールが必要である。

右側通行と左側通行の常識を両方尊重していては、道路を自動車で走ることは不可能である。

また成文化されたルールでなくとも「当たり前」という形で定着しているからこそ成り立っている面もある。


集団におけるルールや当たり前と、道徳的価値や行動については、ある程度切り離して考える必要がある。

2021年11月30日火曜日

「あんなもの」は「すごく欲しい」の裏返し

物事は表裏一体である。

表に見えて出しているものの裏側を本音と見ると、見えるものが変わる。


国語の教材で「お手紙」という物語がある。

アーノルド・ローベルの有名な作品である。


がまくんはお手紙を「どうせこない」と言って拗ねている。

親友のかえるくんがどんなに「くるよ」と言っても頑なに否定する。


欲しくてたまらないという本心が裏側にあるからこそ、来ないという否定の言葉を強く表現する。

イソップの「酸っぱいぶどう」というお話と同じである。

木に登れないきつねは「あんなぶどうはいらないよ。どうせ酸っぱいんだから」と言う。

ニーチェの言う「ルサンチマン」(やっかみ)の心理である。


子どもの「問題行動」もこういう角度で見る必要がある。

表面的に見えている言動は、あくまでも表側である。


「どうせ私なんか」と言っている子どもは、誰よりも強く自分の価値への肯定を裏側で求めている。

いじめをする子どもは、誰よりも心身の安全・安心を求めている。

どちらの行為も、自分自身に価値を感じていて、生活が真に平和ならやらないことである。


もっと自由が欲しいと口にする場合、本当は現状のルールに安住している可能性がある。

もしその自由をポンと与えられると、うろたえるかもしれない。


子どもの言動も、表面的にそのまま見ない方がいい。

素直に見るということが表面的理解に留まるようだと、本質を見誤る。


「大嫌い」は好きの裏返し、あるいは自分自身が無意識化で直したいと思っている点の心理の表面化である。

大嫌いな人がいたら、それはどこか自分と似ている人という正視したくない事実が隠れていることが多い。


できないことを「やりたくない」は、「できるようになりたい」の裏返しのこともある。

(本当に興味がないこともあるので、見極めが必要ではある。)


表に出ている現象の裏側に本質があると見る。

ものの見方の一つである。

2021年11月28日日曜日

ルールと信頼関係

 過去何度も伝えてきている、学級づくりの原則がある。


その中の最重要項目が

1 安全・安心(信頼関係)

の構築についてである。


前提として

「信頼関係と、言うことをきけるというのは違う」

ということを押さえる。


強い信頼関係を築くというのは難しい。

だから、一朝一夕ではできないし、初日から最後の日まで築き続ける必要がある。


さて、次のような勘違いをしていないか気を付ける必要がある。

「子どもたちは黙って言うこともきくし、やるべきこともきちんとやる。

だから私と子どもたちの間には信頼関係がある。」


これは、信頼関係ではない。

どちらかというと

2.ルール(合意形成)

ができている状態である。


単純に「黙って言うことをよく聞く」というのは、言うなれば主従関係に近い。

これはこれでとても大切である。

国家との関係もそうだし、雇用主と従業員という関係もそうだし、交通ルールなども主従関係といえる。


無条件にただ言うことを聞くということは無思考であり、主体性に問題がある。

一方で正当な理由もなく、ただ上からの言うことだから聞きたがらないというのでは、無秩序である。

2歳児の「イヤイヤ期」と同じ状態である。

理由も聞かずにとにかく自分の思うようにしたいとわめくのは、集団にとっては迷惑千万である。


既にあるルールや当たり前というのには、大抵は必然性も意味もある。

学校の当たり前を問うという時にも、この前提は必要である。

その存在理由を考えた上で、要るか要らないかという検討ができる。


集団で信頼関係を築く中には、互いがそういったルールを守ってくれるだろうという前提も含まれる。

親子のように特別な関係ではない集団であれば、尚更必要である。


合理的なルールと安全・安心(信頼関係)は切っても切れない関係にある。

学級づくりの基本としておさえておきたい。

2021年11月26日金曜日

公私両方のものさしをもつ

「よく考える子どもとものさし」の話の続き。


子どもは学校内外における各種テストや決まり事を守る中で、公のものさしについて学ぶ。

基準に沿って正誤が決定する世界が存在することも学ぶ。

人との間で生きる人間として、これは必要である。


自分は「マイルール」で生きていると豪語する人も、社会の人々の支えなしでは生きられない。

お金を払ってモノを買ったりサービスを受けたり、車に乗ったりする以上、公のものさしは無視できない。

物事のルールやマナー(正誤)を知らないと、何かと不都合である。

知らぬ内に「ファウル」をして「ペナルティ」を食らう可能性がある。


一方で、「私」のものさしも必要である。

公のものさしで全てを決めてしまうと、全てが他人次第になる。

「これを好むべきだ」「こちらを選ぶべきだ」と好き嫌いや進む道すらも他人に決められてしまう。

これはいけない。


何が好き嫌いかの基準は、自分で決めるものであり、完全に「私」のものさしである。

したいかしたくないかという気持ちは、自分で決めるものである。


一方で、公のものさしに照らすと、したくはないがするべき、ということはある。

例えば列に並びたくはないが並ばないといけない、というような状況は十分にあり得る。

公を無視しての私の都合の割り込みは許されない。


社会で生きていると、このように公と私のものさしが対立することが起き得る。

どちらを優先すべきかは、その時の状況による。

周りから見れば明らかにAの選択肢が正しそうだが、自分はBを選ぶ、というようなことは、私のものさしをもつ人だけができる。


学校教育でこれを意識する必要がある。

学校では、公のものさしがかっちり決まっている。

いつの間にか、子どもたちは全てを公に委ねるようになる。


子どもは生来、公のものさしをもって生まれてこない。

赤ん坊は自由であり、私のものさしで行動する。

不快なら周囲に遠慮なく大声で泣くし、快なら笑うし、食べたくないものは食べないし、眠ければ眠る。

まっさらで何ももっていないからこそ、生まれ育ったその社会になじんだ常識を身に付ける。


公に染まりすぎると、いつの間にか私のものさしをなくす子どもが出てくる。

いつも周りの評価を気にし、自分のものさしがない。

よって、意思決定ができない。


「○○してもよいか」と何でもしょっちゅう聞いてくるようなら、その子どもには私のものさしがない。

あるいは、わかりきったことまで聞いてくるようなら、公のものさしも持っていない。


学校教育では、両方のものさしをもてるように指導する必要がある。


例えば、人が話している時に、話し手や周囲の迷惑を考えずに平気で口をはさむ子どもがいる。

これは、公のものさしをもっていない証拠である。

教え、守らせていく必要がある。


公に照らして、この場合はよい、この場合はいけない、と判断できるものさしをもつこと。

そのためには、ルールをきちんと教え、自分自身で守らせていくことである。

間違えている場合は知らせ、改善をサポートすることである。


ただし、常に監視と指示をし続けていれば、この公のものさしすらもずっともてない。

自分で考えないで判断してもらえるから、何でも「いいですか?」と聞いてくる人間になってしまう。


ここに対し、山本五十六の名言

やってみせて、言って聞かせてさせてみせ、誉めてやらねば人は動かじ

というのは理にかなった方法である。

最初は知らないのだから、教えてからやらせてみて、その後を見守ることが肝心である。



一方で、私の基準に従ってきめるべきところもある。

どちらにすればよいか、といったことは自分のものさしである。


小さいところだと、手を挙げるべきか挙げないべきか、言うべきか言わぬべきか、などは私のものさしである。

公のために言うということがあってもいいが、基本は私である。

周りに忖度しすぎて、私が言いたいことを言わずに終わってしまうのが大半である。


給食で減らしたいと伝えたりお代わりしたいと手を挙げたりするのもそうである。

これはきちんと自己主張する必要がある。


家庭教育だと、ある習い事をしたいと子どもからお願いしてくるのも、私のものさしがある証である。

自分の進路を自分で決められるというのもそれである。

就職や結婚にまで親に口出しをされているようでは、到底自立した私のものさしをもつ人間とはいえない。


公か私か、というのは対立構造ではない。

両方である。

公があるから私が生きていけるのであり、私がいるから公も成立しているという関係性である。


学校教育では、公のものさしの指導が中心になりがちである。

しかしながら、自らの意思決定を行う私のものさしを作る場面も同時に意図的に設ける必要がある。

2021年11月24日水曜日

潰れることの吸収力と柔軟性

Hondaの創業者本田宗一郎氏の話の中で

「車が提灯のように潰れることで中の人間を守る」

という話がある。


(『本田宗一郎「一日一話」 “独創”に賭ける男の哲学』PHP文庫

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-56402-X


外側を頑丈に作ってある外国車との比較としての、自社の車の安全設計についての話である。


「潰れることで衝撃を吸収する」という柔軟性や吸収力が大切ということである。

今では技術が大幅に進歩し、エアバッグ他がこの役割を果たしてくれている。


潰れて衝撃を吸収するという発想はとても大切である。

そうでないと、中の人間にダメージが直接全ていってしまう。


今、不登校の数が過去最大ということで、問題になっている。

不登校は、学校としては悩ましい問題である。


これは、学校という公のものさしで測った時に、大きな問題なのである。


一方で、子どもの視点からすると、不登校は大切な選択手段でもある。

登校したくない原因(あるいは家にいたい理由)があって、それを選択している。

より大きなダメージを軽減するための選択とも考えられる。


これは、個人のものさしで見て、自分なりの選択をしているともいえる。


無理矢理連れ出すこともできる。

しかしそれは、個人のものさしを無視した行為である。


過去にも書いたが、不登校自体に人生としての善悪はない。

それが必要な選択ということがある。


社会人だったら、自分の心身を守るために、会社を休むことがあり得る。

会社を優先して本人が壊れてしまっては、元も子もない。

転職や退職が最善の選択肢ということもある。

その会社のために生きるよりも、自分の人生としてやり直せることの方がよほど大切である。


潰れる柔軟性と吸収力は、子ども時代から必要である。

一旦外側が潰れても、中の本体が無事であることが大切である。

人間でいうならば、何よりも大切なのは、生きる気力の方である。


吸収力や柔軟性をもって、しなやかに生きられる方を目指したい。

2021年11月22日月曜日

よく考える子どもとものさし

 子どもが自分で〇か×かを判断する機会を頻繁に設ける。

これを日常的にやり続けていくことで、子どもがものさしを自分で持てるようになる。


あらゆる場面で〇か×かの判断を迫ることである。


ある算数の文章題の立式で5×3なのか3×5なのか、判断する。

これに対し、これらを答えが同じだから同じだとする暴論、詭弁があるが、誤りである。

結果が同じで正しい答えが出るのだからいいという結果主義であり、公式主義である。

式とは数学の世界における言語である。

言語には文法があり、その順序には意味があり、二つの式は明らかに同じではない。

こういったことの正誤を判断できるのが、ものさしを持っていることの証である。


Aという意見に賛成か反対か。

ここは走っていいか、だめか。


判断の場面は無限にある。


〇×をつけるには、ものさしがいる。

判断基準となるラインがあって、そのラインで〇か×かが分かれる。


漢字テストの〇つけを子ども自身がやるとわかる。

例えば「角」という感じを書くとする。

間違えるパターンは大体決まっている。

5画目が長すぎて「用」のようにはみ出していたら×である。

ここがものさしの基準になる。


はっきりと出ていたら当然×である。

しかし、慣れないと、子どもはそれでも「〇か×か」と教師の判断を仰いで持ってくる。

はっきり間違えているのにも関わらず、〇か×かの判断ができないのである。

自信がないのである。

ものさしを常に大人に委ねている子どもは、自信がなくなり自身のものさしがなくなる。

これは、トレーニングとして続けていく内に自信をもてるようになる。


問題は「ちょっと出ている」というような微妙な場合である。

この微妙な字は〇か×か。

どこまで許容するか。


ここへは文化庁が平成28年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」がある。

文科省からは、とめやはねなどに対し、字体の多様化による許容範囲が示されてはいる。


(参考:学校教育における漢字指導の在り方について

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/03/31/1369048_05_2.pdf)


これもよく読めば「自己判断」ということである。

基本的な字体があって、そこを基準に場に応じた許容範囲を判断せよということである。


「漢字を覚える」というための学習時と「メモをとる」という場合とでは明らかに違う。

インタビューのメモ時の字など、明らかに崩れているが、本人が読めさえすれば全く問題ない。

一方で、漢字を覚える場面やその定着を見るためのテスト、書写などでそのような崩れた字を書いたら、当然×である。

場に応じた判断が大切なのである。


先の漢字の〇つけに戻ると、指導方針が定まることで、許容範囲が定まる。

微妙なラインについては、指導者が基準を指導し、そこで〇×をつけることになる。

個々人のものさしだけだと、〇×がぶれてテストというもののもつ公平性が失われるからである。


先の「角」の例だと、新出漢字指導時、あるいはテストをやる前の時点で、

「角の字の5画目は下に出さない。漢字テストで出ている場合は×。」

と明示しておくことである。

そこまで基準がはっきり指導されていればぶれないし、書く側も気を付けるはずである。

結果、判別困難な微妙な字が減る。


要するに、漢字指導とは公のものさしを自分で持てるようにするということが含まれる。

その内、そんな細かいことを言わなくても判断できるようになる。


テストでは「自分なりのものさし」では測ってもらえない。

公のものさしに沿って判断される。

だから、テストで〇つけをしてもらっているだけだと、ものさしの基準を持たずに済んでしまう。


自分で〇つけをすることで、これがわかる。

「微妙なところ」は頭を使うのにうってつけである。

よく考える子どもが育てるためには、よく頭を使う場面を多く設定することである。

2021年11月19日金曜日

最適化する子どもたち

PCを長く使っていると、重くなってくる。

そうならないように、PCは自身に最適化の作業を行う。

不要なものを削除したり、よく使うものは起動しやすい場にもってきたりする。

ユーザーの都合のいいように自動的に変化してくれる訳である。


人間に限らず、生命全般も同じである。

環境に最適化するようにできている。

周りの環境に合った行動をとるようになり、場合によってはその場に合う形状に進化する。

シロクマの毛が白くなった(正確には透明だが)のもそのせいである。

そうしないと、生き延びることができないからである。

自分の命を守るために必要な動きをするよう、予めプログラムされている。


種としてだけでなく、個体としても最適化を行う。

個別の最適化である。


保護犬や保護猫はわかりやすい。

小さな頃から虐待を受けていたり捨てられたりなど、人間にひどい扱いを受けていたとする。

自分を守るためにすべきこと、即ち最適化は、人間を寄せ付けないことである。

当然、優しい気持ちで接してくる人間にも、警戒心を容易には解かない。

唸る、吠える、噛みつく、引っ掻くという攻撃態勢を取り続ける。

慣れた後であっても、実際には危なくないものにも、必要以上の警戒心をもち続ける。


これは言うなれば、心のコップがひっくり返った状態である。

これをコップが上向きになるよう周りは苦心するのだが、一朝一夕でうまくいくような簡単なことではない。


人間も同じである。

幼少期にひどい虐待を受けてきた子どもも、それぞれに最適化を行う。


ある子どもは、人に会えば誰に対しても野犬のように警戒し、恐れから威圧的な態度や噛みつくような言動をとる。

ある子どもは、常に先に相手を攻撃することで、自分が傷つけられないようにする。

ある子どもは心を閉ざして、何も見えない、聞こえないふりをする。

それらが彼や彼女らにとって、自分の身を守るために最も最適化された術だからである。


また違う形の最適化もある。

攻撃されないよう、相手に忖度し、迎合するよう言動を変化させるという最適化である。

先の攻撃型を硬派な最適化とすれば、こちらは軟派な最適化といえる。

例えば「失敗すると叱られる」という経験を多く積んだ子どもであれば、常に「お利口」であろう、完璧主義であろうとする。

そうすれば身を守れる。

子どもに限らず、大人社会でもよくある話である。


各集団の中でも最適化は行われる。

集団の中に強い者がいて、自分があまり出しゃばるとやられるようであれば、大人しくふるまう。

兄弟で自分の意見が通る立場にあれば強く出るし、「お兄(姉)ちゃんなんだから」と親に言われるようであれば、我慢せざるを得ない。

集団の中で最適なペルソナ(仮面)を付け替えて被っているだけであり、本人の性格がどうこうとは一概に言えない。



小さな頃から、人に会うたびに微笑みかけられ、抱かれ、愛され大切にされていれば、心のコップは上向きになる。

人に会えば喜んで近づき、人からの愛を受け取って溜めていけるようになる。

この世を安全な場、良い人たちの住む場と見るようになる。


ただ単純に、どちらがいい悪いとはいえない。

あくまでも最適化である。


警戒心をもっていれば、愛を受け取れない代わりに、危険な目に遭うことは少なくなる。

無警戒の場合、悪意をもった人間に簡単に捕まえられてしまうリスクが生じる。


オープンに人を信用していれば、あらゆるメリットを享受できるが、騙されるリスクは高まる。

閉じている場合、せっかくの愛情やいいオファーも断ることになり、チャンスを逃す一方で、リスクは抱えないで済む。


同じ人でも、場によって行動は変わる。

賢明な人なら、危険な場であればオープンにせずに警戒するし、安全と認識すれば心を開く。

分別ない人であれば、全てを安全と妄信し受け入れてしまい、あるいは全てを危険物とみなし、攻撃する。

毒か薬かの見分けは必要である。


人は環境に最適化する。

だから学級が荒れていれば、閉じるようになる。

良い場であれば、開く。

それが集団で生き延びる上での最適化である。


子どもは場に最適化する。

だから子ども自身に見える問題を直接どうこうするだけでは足りない。

その集団(学校・職場・家庭)内が安全で開ける場であるかどうかは決定的に重要である。

2021年11月17日水曜日

知れば知るほど問が増える

 学級づくり修養会、HOPEでの学びのシェア。


この会では、参加者が各々問をもってくる。

それに対して考えていくというスタイルである。


まずこの問をもつということが全てである。

問さえはっきりすれば、半分は既に問題解決したも同然である。

問が見つからないということが、最も大きな問題であり、難問だからである。


参加者の中から

「自由研究の仮設を立てられない子どもがいて、どう指導したらよいか」

という問が出た。

まさに、「問がもてない」ということそのものである。

(ちなみに、総合的な学習の時間の探究学習のように、子どもが各自テーマを決めて年間通して研究するらしい。)


この問いに対する回答は

「そのことについて知らないから、問が出ない」

である。


例えば、ある子どもがサッカーをテーマに研究したいとする。

そうなると、サッカーのことを深く知らないと問は出てこない。

知ろうとすることで、初めて知らないことが出てくるからである。

逆説的だが、これが真実である。


サッカーのルールすら知らない人であれば「オフサイド」について問をもつことはない。

そもそもその用語自体を知らないだろうから、そうだとしたら100%そこに問をもつ可能性はない。

多分、「スローイン」を両手で投げねばならない理由も、スローインだとオフサイドにならない理由を考えることもない。

知らないから当然である。


オフサイドを少し知っていれば

「なぜラインはキーパー以外の一番後ろのプレーヤーに合わせて動くのか」

「キーパーは一人にカウントしないのか」

「キーパーが他の選手たちより前に出ていた場合はどうなるのか」

等々、問が生まれる。

(実際オフサイドは、キーパーどうこうというより「後ろから2番目の選手」の位置がそのラインである。)


多分、この数行のくどい解説も、知らない、興味ない人にはさっぱり意味がわからないはずである。

つまり、知らない、興味のないことに対し、確実に問は生まれない。


一方で、先に書いたように、知れば知るほど「知らないこと」が増え、疑問は生まれる。

正確には、「あれども見えず」の未見の部分がどんどん顕在化していくという状態である。


例えば、私は大学生の頃、小学校の授業についてはある程度知っているつもりだった。

教員3年目ぐらいには、「大学生の頃は青かったなぁ」とまあ大体知っていると思うようになった。

10年経つ頃には、見たこともないような授業の方法があるなど、全然知らないことの方が圧倒的に多いことがわかってきた。


さらに20年経つ頃には

「旧い方法も果てしなく深くあるのに、一方で常に新しい方法が生まれ続けている」

ということを知り、永遠に全てを知ることができないと考えるようになってきた。


知れば知るほど、知らないと認識できる領域の側の割合が高まっていくということである。


最初の問いに戻るが、要はそこである。

まず徹底的に知ろうとすること。

そうすれば、自ずから問は生まれる。

逆に、大した興味のないことに問が生まれることはない。


これは、私たちが何かしらの研究や提案をする際にも同じことが言える。

まずはそれについて知ること。

そこが全てである。

2021年11月15日月曜日

家の本を多くすれば学力が向上すると言えるか

 研究結果における、相関と要因の話の続き。


Xを変えることでYに影響を与える場合、XとYには相関があるという。

ただし、多くの研究において、XそのものがYに影響を与えている要因といえるかどうかは、この時点で判明しない。

前号では、ここまで書いた。


逆に言えば、教育効果に関するニュースは、かなり疑ってみた方がいい。

「家で〇〇をしている子どもは学力が高い」

「○○をすると落ち着きのない子どもになる」

等々、世間に流布されている情報は、相関と要因がごっちゃになっている。

出す側はセンセーショナルに書きたてたいから、わざとそのように大袈裟に書く。

それらに確かに相関はあるが、要因がそれそのものとは限らないのである。


データはデータとして、それで正しいのである。

例えば有名なところだと、以前に文科省が調査した「親の年収が高いと学力が高い」という報告結果がある。

まず前提として、平均はあくまで平均であるため全員がそうではなく、かつ平均の妥当性も認められている点である。

つまり、親の年収が高いが学力がとても低い、あるいはその逆パターンもあるが、その数は少ないということである。


ずっと以前も紹介した『学力の経済学』(中室牧子著)で、この点については詳細に述べられている通りである。


この本の中に『東大生の親の平均年収は約「1000万円」』という項目がある。

ここのデータからわかることは

X「親の平均年収が高い」とY「東大生」に相関がある

という点だけである。


また最近話題になったものだと、全国学力・学習状況調査の結果で

「家に本が多い家庭の子どもほど平均正答率が高くなる」

というものが挙げられた。


ここの

X「家の本の数」とY「平均正答率」

も、あくまで相関があるというだけにとどまる。


これを「要因」と早合点して誤解し

「家の本の数を増やせば子どものテストの点が上がる!」

と考えた人がいるとする。

もしそれを信じているならば、その人がすべきことは、子どもの学力調査までにひたすら家の本の数を増やすことである。


結果はどうなるか。

当然、それだけでは何も変わらないはずである。

「家の本の数」の裏に秘められた要素を探り、そこからテスト正答率との直接要因を特定していく作業が必要である。


「家の本の数が多い」というのは、いかなる要素を含むのか。

また逆に「家の本の数が少ない」というのは、いかなる要素を含むのか。


考えられるだけでもたくさんある。

・親あるいは子どもが読書好き

・親あるいは子どもが勉強家

・家庭内が、誰でもいつでも本が読める環境にある

・親あるいは子どもの知的好奇心が旺盛

・家庭に経済的な余裕がある

・大きな本棚を置くスペースがある

・親の教育への関心が高く、通塾率が高い

・・・


まだまだ色々あるが、これらから予想される要因は、本そのものというよりも「親」や「家庭環境」の中にありそうである。

ここで調べられる学力はテストの点数である以上、塾や通信教材を用いた家庭教育における学習量は影響が大きいはずである。

つまり、色々推測できる要素が多すぎて、これだけでは何が要因なのだか、さっぱりわからない。


それらを一つずつ特定して調べていく作業が、研究である。

気の遠くなるような作業である。

現場で教員をやりながら研究することの難しさはここにもある。


ただ一つ現時点での事実は

「家に本が多い家庭の子どもほど平均正答率が高かった」

というデータの結果だけである。


成功にも失敗にも、様々な要因が絡む。

「たまたま」上手くいっただけかもしれない特殊な事例を取り上げて「これで大成功!」とはいかない。

例えば「ほめてはいけない」論も「叱ってはいけない」論も、どういう状況でどんな子ども相手なのかに左右される。

結果の要因として特定するには、他のあらゆる要素を除外しないと、そうだと言い切れない。


親自身の子ども時代の成功事例を、自分の子どもに当てはめて成功できるかどうかは、別問題である。

(そもそも親と子では時代背景が全く違うため、条件が揃わない。)

誰かがたまたまどこかで上手くいった子育てメソッドのようなものもそうである。

宝くじでたまたま三億円当てる人が世の中に必ずいるが、その人と同じ売り場で同じように買っても当たる訳ではない。

失敗について考える場合も同じである。


要は、データはあくまでデータとして見ること。

きちんと多くのデータから平均値をとったものであっても、要因自体は簡単には特定できない。

たまたまそうなった特殊な一事例については、単純に一般化することができない。

センセーショナルな見出しには特に注意である。


二つの事柄に相関があっても、それを要因と早合点しない視点を常にもつことが大切である。

2021年11月13日土曜日

学級経営研究における相関と要因

学級経営と学術論文について。


先日、日本学級経営学会における、学級経営の論文の書き方について学習会があった。

学級経営に関する現場からの論文というのは、国語や算数などの教科に比べて、あまり多くない。

もっとはっきり言うと、かなり少ない。

今後、増やしていくことが大切である。


しかしなかなか増えない。

それは、この手の論文を書くことの様々な壁、困難に起因する。


教育系の研究論文を書く際の難しさの一つに、要因の特定のしづらさが挙げられる。

様々な要素が絡み合う中で、どれがその結果を引き起こす「要因」足り得るのかである。

要は、小学校の理科の実験で学習する条件制御。

あれがうまくできないという点である。


例えば理科でX「日光」がY「植物の成長」にどのように影響を与えるか調べたい。

その際、理想的なのは要因と思われるX「日光」だけを変えるもの(独立変数という)とし、他の条件は全て同じにすることである。

種子は同じものからとれた同じ大きさのものが望ましい。

使う土や気温などの条件も揃える。

ここまでして、Xに対するY「植物の成長」という結果(Yを従属変数という)を調べることができる。


厳密に言えば他にも色々な見えない要素が混ざっているので、実験がうまくいかないことが起き得る。

ただ、小学校の理科の実験では、この程度の条件制御にとどめている。

うまくいかない例が2,3出ても、統計的に処理すればそれは問題ないということになる。

だから、一つの事例ではなく、なるべく類似する複数の事例(データの多さ)が大切になる。


相関があるならば、X次第でYが決まるということになる。(XとYは相関がある。これには正と負がある。)

相関がないならば、Xの変化にYは影響されない。(XとYは無相関)

要は小中学校で習う関数の考え方である。


学校教育の実践に関する研究では、ここが難しい。

例えば、1年間、X「クラス会議をした」とする。

(この際、対照群として「クラス会議をしていない」学級が必要である。)

その時に、X「クラス会議をした」に、それをしていない対照群の学級に比べて、

Y「学級満足度」が年度始めに比べて年度末は上がったとする。


まずここに「相関がある」と言えるかどうかという段階で、既に統計的処理が必要になる。

次に、もし統計の結果「相関がある」と言えたところで、「クラス会議」がその変化の要因であるとは特定できない。


なぜならば、1年間の間に、Y「学級満足度」に影響を与える様々なことが他に起きているからである。

先の植物の成長条件の実験時のように制御できればいいのだが、そういう訳にはいかない部分が多すぎる。

A「人間関係」の変化が起きる。

B「子どもの発達」がある。

C「担任の指導法」がある。

D、E、F・・・無数にある。


Y「学級満足度」のような大きなものに与えそうな要因は、挙げればきりがない。

複雑すぎて、どの要因がその効果を導き出したのか、はっきりとわからないのである。

特に子どもの場合、発達が個人に与える影響は大きく、無視することができない。


これは客観性の担保の難しさとも関連する。

各学校の各学級、教師も違えば、子ども一人一人も、子ども集団としても違う。

教室での教育実践は、どこまでいっても主観的にならざるを得ない。

そこをいかに客観的に分析できるようにしていくか、というのが研究である。

この手の研究が難しいことは、誰の目にも明らかである。


もっと言えば、現場が忙しすぎるという点。

これは研究の進まない大きな要因の一つという可能性があるように思う。

(検証していないので、これもあくまで仮説である。)


結局、教師の多忙解消といった実際的なところが、学術的に教育研究を発展させることにつながりそうである。

2021年11月11日木曜日

自分がしてもらうことは期待しない

 前号で「信頼しても信用しない」ということを書いた。

今回はこれに関連して「期待」について。


次のような心理構造がある。


期待をすると、がっかりする。

期待をすると、腹が立つ。

期待をすると、文句をつけたくなる。

・・・・


つまり、期待をすると、心理的に「ネガティブな○○」が生じる。


これに対して、反論が予想される。

「ピグマリオン効果」というものである。

期待されていると本当にそうなるというプラスの心理である。


実際「期待しているよ」と声をかけられると、モチベーションがあがる人も多い。

(プレッシャーになって不安になったり焦ったりする人もいる。

これらは個人のモチベーション特性の違いによる。)


問題は「期待している」の内実が、

A 相手のモチベーションを上げるため 

なのか

B 自分の望み通りになって欲しいという自己願望 

なのかという違いである。


Aの場合、相手がそうならなくても構わない。

実際の恩恵を得るのは相手自身だからである。


一方、Bの場合は、相手がそうならないのは自己都合にとって悪い。

恩恵を得るのが自分自身だからである。

期待外れは「損した」「ぞんざいだ」「○○してあげたのに」などという怒りや失望につながる。


前号書いた信頼と信用の違いと同じである。

信頼は一方的で、相手がそうならなくてもOK。

信用は、それをしたからには相手が裏切らないのが前提で、そうならないのはNGである。


Aの期待は無条件だから、大いにすればいい。

冒頭に問題にしていたのは、Bタイプの期待である。


「期待しない」というのは、相手が自分に何かをしてくれること、思い通りを求めないということである。


例えば、あいさつ。

誰もが言うように、あいさつは大切である。

しかしながら、相手が返してくれることを期待してはいけない。

そこは期待しないで勝手に行うのが精神衛生上よろしい。


例えば、お店で受けるサービス。

お金を払っているからといって、「お客様」である自分も、実は神様ではない。

バイトの学生さんに多少ぶっきらぼうに扱われても、まあ仕方ないと割り切るぐらいで丁度いい。

(社会人としての教育をしてあげてもいいが、嫌な思いをして敢えて自分がしてあげなくてもいい。)


例えば、職場での自分への待遇や扱い。

ただでさえ忙しい職場、そんなにみんな暇じゃない。

自分のことなど見てくれているはずがない。

自分だって、忙しい時にそんなに人を見てあげられているかといえば、「否」である。

もし髪を切ったなんて些細なことを気付いた人が一人でもいてくれれば御の字である。

それぐらいで丁度いい。


例えば、仕事。

一生懸命やっているからといって、周りがそれを評価してくれる保証などない。

一生懸命やっているのにミスしたり、文句やクレームをもらったりという方がずっと可能性が高い。

不条理なようだが、それが現実である。

(それ以前に、そもそも「仕事を一生懸命」は社会人にとって結果を出すための前提であって、+評価の対象ですらない。

子どもや学生にとっての勉強の在り方と同じである。)

手を抜いても当然いい結果が得られる訳ではなく、ミスがあったり文句を言われたりする覚悟で一生懸命やるしかないのである。


子どもに対しても同様。

子どもへの期待値が高すぎることが不幸の始まりである。

Bの期待はしないで、子どもにはAの「期待している」ことを伝えればいい。


人が自分の願うように動くことを期待しない。

一方で、子どもをはじめ、大切な人たちにはきっと良くなると期待してあげること。


学級経営においても応用の利くものではないかと思い、書いてみた。

2021年11月9日火曜日

チャット機能は制限すべし

昨日の新聞の朝刊にも出ていたが、タブレット端末における子ども同士のトラブルが問題となっている。

その中の一つ、クローズドなチャット機能について。


たとえどんなに使い慣れた後だとしても、やはりこれは大きな問題が起きる可能性が否めない。

これについては、やはり制限をかけたままの使用が妥当であるというのが私見である。

(私の勤務校では、今年度、全校で制限がかかっての使用である。)


この方針にはそれでも異論がある人もいるかもしれない。

子どもたちがスマホをもってトラブルを起こす前に、学校で指導した方がダメージが少ないという意見もある。

しかし、学校が半ば強制的に与えたもので、予想される取り返しのつかないダメージを子どもに与えることは許されない。

学校外の社会で認められている危険な行為でも、学校内で全員に対してそれをさせることはできない。


例えば、習い事としてなら、小学生に対してもかなりハードな格闘技や危険を伴うスポーツをさせることがあり得る。

かなり負荷の強い厳しいトレーニングを受けるスポーツチームに入れることもある。

問答無用に結果を求められる厳しいピアノ教室やダンス教室、あるいは学習塾などに入れることだってある。


ただそれらは、保護者の側も、大きな負担やケガ、辛く大変な思いをする可能性も含めて、承諾した上でやらせていることである。

つまりは、保護者の責任下における主体的な選択の結果である。

(子どもと親のどちらが主体的に選択したかに関わらない。)

学校から問答無用で一律にやらされることとは同一ではない。


つまり、スマホを保護者の責任下において、家庭で主体的に与えた場合に起きたトラブルとは、全く意味が違うのである。

与えた側には責任が生じる。

子どもに個人スマホを与えた家庭の場合、家庭の方針でトラブルも含めて保護者が責任を負う覚悟があることが前提である。


一方、学校は、現実的にこれに対する指導責任が取り切れない。

見られる範囲としても全く違う。

統計上で考えて、保護者は一家庭あたり平均二人の子どもを見る。


一方、35人を相手にしている担任が、全員に対しずっと夜から朝まで監督している訳には到底いかない。

タブレット端末の使用への指導が、他の指導と決定的に違う点は

「放課後、家庭まで入り込み、家庭に監督を依存する」

という点である。(性質的には、宿題に似ている。)


つまりは、放っておけば手の届かない範囲に行く可能性がある以上、そこには制限をかけるしかない。

学校には、どんなに正当な理由を並べても、与えた端末の使用に対し、監督責任がずっとあるからである。


この制限は、子どもの側からしても、「私たちを信じていない」ということになるかもしれない。

しかし、これは詭弁である。


「信じて」と相手に要求する場合、信じていれば、信じられた側も裏切らずに行動してくれるということが前提にある。

問題がきっと起きてとても困るだろうと予想している側に、それでも問題が起きずに信じることを要求すること。

それは、言うなれば契約関係である。


以前にも書いたが、信頼と信用は全く違う。

拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』にも同じことを書いた。



どんなに悪い行動を繰り返す子どもに対しても、担任は

「信じているよ」

と伝え続ける。

これは本音で、きっといつかできるようになる、良くなると信頼しているから言うのである。


一方でこれは

「この人は二度と同じ過ちをしない」

という信用に基づいたものではない。


これも書いたが、きっとまたしてしまうのである。

本人の希望や強い意思に背いて、感情的になってまた同じことをしてしまう可能性が十分にある。

これまで、何十回も繰り返ししてきていることなのである。

こちらも、100回はするだろうというぐらいの覚悟が必要である。


それでも「信じている」というのは、それでも「いつかは」良くなる、できるようになると信頼しているから言うのである。

それは、もうやらないはずという「信用」をしているのとは違う。

信用は、相互関係であり、相手次第である。

こちらがどんなに信用していようが、相手の気が変わる、状況が変わることがある以上、一切の保証はされない。

(だから、社会の契約だと、担保や保証人が必要になるのである。)


信頼は心情的なものであり、こちらが一方的に信じるものである。

これは無条件でもいい。

相手がどう行動しようが、信頼とは関係ない。

例えるならば、母の子どもを思う気持ちである。


しかし、信用は条件付である。

相互が約束を守り、破らないという前提で成り立つのが、信用である。

例えるならば、金融機関からの借金である。


子ども同士が、全員、チャットで絶対に悪口を言ったり使用違反をしたりしないという約束ができるか。

そんな約束、できるはずがない。

大人でもまず無理である。(もはや証拠を提示する必要すらないぐらい自明のことである。)


「信じていない」と言われたら、その通りなのである。

絶対に誰も間違えないことなど、それを信じること自体が完全に間違えている。

学級の全員を真剣に大事に思っているなら、そんなこと信じられるはずがない。

よって、誰かが傷つく回収不能な事態が高い確率で起きるとわかっていることに対しては、当然OKは出せない。

(これは、滅多なことで席替えを子どもの自由にさせないということの理由と同じである。)


また、学校貸与のタブレット端末は、学校側がある意味「強制的」に与えたものである。

保護者の中には、この閉じたSNS空間でのチャットトラブルがとても心配な人が一定数いるのである。

そのために敢えて家ではスマホなどをもたせないという方針の家庭も少なくない。


保護者が個人で契約して与えた端末同士でのトラブルならまだしも、学校から使うよう言われたものである。

これで予想していたトラブルが起きたら納得がいかない。

よって、制限できる機能は制限して欲しいという意見が当然出る。

フィルタリング機能についても同様で、これをかけて渡して欲しいという意見は至極真っ当といえる。

(多分、これらの保護者が自分で買い与えるとするならば、もっと厳しく制限をつけて渡すだろうと思われる。)


子どもを信頼していても、信用はしない。

勝手にできないことを「お約束」と一方的に言われ守るよう言いつけられ、勝手に信用されても、子どもの側も迷惑である。

(自分はきちんと使っているのに、そうでない人に巻き込まれたら、その子どもは完全に被害者である。)

基本的に、子どもは大人が困ることを積極的にするし、学校や大人との約束を破ると昔から相場が決まっている。

それが子どもというものである。


信頼はするが、信用はしない。

ウェットな心情的部分とドライな頭脳的部分を併せ持つ。

他のあらゆる指導にもいえる、基本的な姿勢と考え方として、もっていてよいかと思う。

2021年11月5日金曜日

けんかへの通訳的介入が必要なネットトラブル

 GIGAスクール構想に関連して、学校教育でのICT活用について。


子どもがタブレット端末や掲示板のようなSNS的機能を使うようになると、大概トラブルが生じる。

じゃあ与えなければいいかというと、結局どこかでこの壁にはぶち当たる。

学校教育と完全に切り離せるのであれば「やらなければいい」も通るが、今の時代はもう切り離せない。

だから、学校現場で適切に学ぶ機会を設けることが大切である。


今回は、こうったトラブルへの対応について考える。


ネット上のやり取りは、文字によるコミュニケーションのみとなる。

これは、相互の誤解が生じやすい。

SNSに触れる機会の多い大人は、それをよく体験して知っている。


子どものこの手のトラブルをじっと見守っていても、解決へ向かわないことの方が多い。

大事に発展する前に、介入して指導する必要がある。


もしネット上ではなく実際にけんかをしている場であれば、介入しないこともあり得る。

表情やしぐさ、雰囲気などの非言語コミュニケーションが入るため、言葉以外のことも伝わるからである。


これは例えるなら、異なる言語同士のコミュニケーションの場合を考えるとわかる。

全く知らない言語間の両者であっても、ボディランゲージや表情で意思はある程度伝わる。

言葉ではない部分の情報交換が多く行われるためである。


しかしこれがネット上だと、言語のみで行わなくてはならない。

こうなると、言語表現と理解に長けている大人が、間に割って入っての「通訳」が必要になる。


「あなたはこういう気持ちで言ったんだよね」

「でもあなたの方はこういうつもりでこうしたんだよね」

と、一つずつ気持ちを確認しながら、通訳していかないと伝わらない。


こうしていくことで誤解の糸が解けることもあるが、一番いいのは実際に会って話すことである。


結局、ネット環境を与えた学校の側に責任がある。

与えたもの上でのトラブルは、与えた側が全面的に解決の義務を負うと考えるのが妥当である。


この時大切なのは、そのミス自体を責めないことである。

子どもは、使い慣れていないのだから、ミスコミュニケーションが出て当然なのである。

それぞれがよかれと思ってやっていることが、うまく伝わっていないという状態である。

「誤解されて悲しい」「嫌な思いをした」という状態を、介入して解決していく必要がある。


根本的には、子ども自身に問題解決力をつけることを目指す。

しかしながら、ネット上のトラブルように自力では危険と考えるものは、迷わず介入する。

そうして助けてもらう中で、段々と良いコミュニケーションの方法を体得していくはずである。


ネット上のトラブル対応は、リアルのトラブルの場合とは一味違うので、対応の違いに注意が必要である。

2021年11月3日水曜日

良い睡眠を確保するには

 校内学習会での気付き。

校内学習会で「憂鬱にならない方法はあるか」ということが話題になった。


私がここで提案したのは

「きちんと睡眠をとること」

である。


「夜によく眠るために日中全力で活動する」というぐらいに睡眠を優先する。

それぐらい、夜にきちんと眠ることは大切だと思っている。


しかしこの現代、睡眠不足の人は多いという。

眠りの質も問題になっている。

現代の人々の睡眠を阻害するものは何なのかを考えた。


人間が夜眠らなくなったのは、電球・電飾の影響である。

もちろん焚火や油を使うランプもあったが、電球が発明されてから、人類は夜も寝ないで活動できるようになった。

24時間営業のコンビニなど、今では珍しくも何ともないが、よく考えたら生物学的に不自然な時間に開いているといえる。

飲み屋が遅くまで開いているからこそ、終電も遅くなって翌日に二日酔いの人が出るのである。


特に現代はそれ以上に、スマホ、ゲームの影響が大きい。

もしこれらがなくなったら、やることがなくなるので、自然と早く寝ることになるだろう。


余計な欲望や行動を引き起こすものが存在させないのが最も楽な対処法である。


夜8時を過ぎてもテレビが何となくついているから、よく眠れないのである。


飲み会が遅くまであるから、寝るのがやたらと遅くなったのである。

(今は睡眠不足や肝臓の調子が悪い人が減っているのではないかと推測する。)


手元にスマホやタブレットがあるから、いじって脳が起きてしまうのである。

(人間の脳は蛍光灯やブルーライトの光と太陽の光とが区別できないらしい。)


これらを夜に遠ざけることができたら、睡眠の質も大幅によくなるのではないかと思う。


逆に、これらのものが、子どもの手元に日常的にあるとしたら。

スマホやタブレット端末にいつでもアクセスできる環境下にあったら、と考えると恐ろしい。

脳がどうこうの影響は正直わからないが、睡眠不足はこれらが引き起こしているように思えてならない。


よく眠ること。

そのために、余計なものは遠ざけること。


意外と大切ではないかと思うところである。

2021年10月30日土曜日

GIGAスクール構想以前 学校教育の本質的な問題を捉える

 学級づくり修養会「HOPE」での学び。


子どもの扱うタブレット端末の難しさについて話し合った。

するとメンバーの一人から、次のような意見が出た。


落語家である故・立川談志師匠の名言に

「酒が人をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるもんだ」

がある。


つまりこの教えにならえば、タブレット端末が教育をダメにするのではない。

今の教育のダメな面、至らない点をタブレット端末が教えてくれているだけではないか。

そのように考えようというのである。


この意見にはメンバー一同「目から鱗が落ちる」という思いだった。

毎回終了後に「今日一番の学び」というのをそれぞれ投稿するのだが、この言葉が最も印象に残ったようである。


なるほど、そのように見ていけば、今起きている問題を単純にタブレット端末その他のせいにするのは間違っている。

教育現場の本質的な問題が浮き彫りになっていると考えればいい。

そう考えれば、問題がはっきり見えるということを逆手にとって、そこからアプローチすればいいとわかる。


例えばICTを用いたオンライン授業を行うと、普段の教室で起きるのと同じような問題が浮上してくる。

遠隔でオンライン授業をする際、子どもが家にいるとはいえ、あくまでも授業中である。

子どもの姿が端末画面に見えているのだが、しばらくすると明らかに姿勢が崩れていく子どもが出る。


この現象に対し

「教室だと指導できるのに」

「家だと気が抜けてリラックスしすぎる」

「パソコンを使うと姿勢が崩れる」

と嘆いても意味がない。


姿勢が崩れるという現象は、あくまでも目に見える現象である。

目に見えない部分、その本質は別にある。

普段から立腰に対する意味付けや指導ができておらず、子どもに適切な筋力を育てられていない証拠である。


もっと重いものだと、端末を用いたいじめ問題が起きた場合が考えられる。

端末を安易に悪用されない工夫は確実に必要である。

一方で、これは端末によって、潜っていた問題が表出化したともいえる。

端末どうこう以前の本質的な問題があったと考える方が妥当である。


いじめが既に見えていて解決していないのであれば、その状態で端末を自由に使えるように渡すのは愚行である。

いじめ問題の解決が優先事項であり、端末に対しては制御を大きくかけて厳しく管理する必要が出る。


問題の本質を外さない。

GIGAスクール構想自体の問題点が指摘されやすい。

しかし本質的には、そこではなく学校教育自体が大きな問題を抱えているという証拠である。

2021年10月28日木曜日

ICT端末の貸与は「危険使用」前提で考える

オンラインの 「学級づくり修養会HOPE」で

「GIGAスクール構想における子どもたちの安全をどう確保するか」

をテーマに話し合った。


学習用個人端末の扱い一つをとっても、自治体ごとに対応が全く違うため、様々な視点で意見が出された。

企業のICTスペシャリストの方も参加していたため、これまでの教育ソフトの変遷についても学べた。


会全体を通してのまとめとしての気付きは

「正しく使うはずという前提が危険」

である。


言うなれば、端末使用に対し善に基づく考え方で考えると危険である。

悪を前提にというと聞こえが悪いが、制度設計上、まずはそれが必要である。


「きっととんでもなく危ない使い方をするだろう」という前提でまず考える。

なぜならば、ほとんどの子どもたちは端末に対し、知識も技能も未熟な状態だからである。


幼児に刃物という例をよく出すが、それである。

その危険さを知らないのだから、必ず危険な使い方をするという大前提がないと、とんでもない大けがをしてしまう。

自由に上手に使えるようになるのは、十分にリテラシーが発達したずっと先の話である。


例えば、知識ゼロの赤ん坊が使うベビーグッズというのは、安全面に対し細心の注意が払われている。

細かくばらばらになるものだと飲み込むからそうならないようにするし、対象年齢も定める。

どんなに大きく口を開けても絶対に飲み込めない大きさが計算されている。

ひもの類も絶対に切れないような構造になっている。

最悪飲み込んでも大事に至らないよう穴が開いていたり、角がなかったりする。

指を挟んだり首がしまったりといったことも起き得ると想定して、そうならない作りにする。

とにかく危険な使用を大前提とした、超安全設計である。


この超安全設計の思想を見習って、子どもたちには端末を与えていく。

「危ない使い方するなよ」などと言うだけでは、単なる「フリ」にしかならない。

危ない使い方ができようもない形で与えていくところからスタートである。


インターネット上のあらゆるトラブルを想定しておく。


チャットによるいじめ。

「いいね!」に関わるトラブル。

アカウント乗っ取り。

危険なサイトの使用。

課金。

パスワード忘れ。


どれも十分に想定内である。

これを

「うちの子に限って・・・」

の楽観論でいくと、確実に誰かしらが大けがをする。


アカウントとパスワードの不備が問題になったが、ここの管理は最重要である。

子ども一人ずつに異なるアカウントを付与し、パスワードは他者に推測できないランダムなものにする。

あくまで端末もアカウントも学校のものであるため、パスワード変更等は行わない。

学校からはアカウントが常に閲覧可能な状態にしておき、保護者にも同様に端末及びアカウント監督の権限と義務を依頼する。


こういった基本的な対応を全くしていない自治体が至るところにあるという。

なぜかというと、各校にICT専門の人員が配置されていないからである。

ICT専門家にとっては、恐らくこんなことは常識であり、放置することはあり得ない。


一方で、ICT専門家でも何でもない多忙極まる教員にとっては、アカウントとパスの作成などは完全に未知の作業である。

つまりは、人材不足の引き起こす不幸と不備ともいえる。

(Wi-Fi環境不備の問題と根幹は同じである。要は予算の問題である。)


アカウントとパスが「ザル」な状態の自治体は「子どもはアカウントを乗っ取って遊ぶだろう」という前提がない。

「夜中に勝手に使ってひどいいじめをするだろう」という前提があれば、使用の管理をするはずである。

先日の事件を他山の石として、何とかして即刻正すべきである。


「子どもに対してそんなひどい見方を」などときれいごとを言わない。

世間の大人を見ればわかる。

なぜあれほど汚い記事やニュースが歓迎されるのか。

子どもは大人を見て育つのだし、いずれ大人になる存在である。

一定数そのような使い方をする子どもがいて当然とみなすのが、自然で合理的な考え方である。


道徳的なきれいごとで見てはいけない。

子どもだって悪いこともするし、とんでもないひどいことも言うのである。

端末使用に限った話ではなく、これまで何十年と学校で現実に起きてきたことである。


更に、物理的な面での過失による危険や故障を起こすことも制度設計に入れておく。


落下。

水没。

画面割れ。

タッチペン紛失。


1校の子ども何百人に端末を渡すなら、どれも十分にあり得ることであり、起きない方が不自然である。

「事故は起きない」という前提をもつこと自体、小学校の算数レベルでの誤った認識である。

(500人いる学校なら、発生率たった1%と見積もっても5人に起きる。)


自校の学校の端末使用について見直してみる。

教員なら勤務校、保護者なら子どもの端末である。

やはり安全面について管理が不適切だと思われるなら、早めに言うべきである。

事故が起きてからでは遅い。

もう、放っておけば危ないというのは、わかりきっていることなのである。


せっかくのこの流れを止めないためにも、安全面の保障については特に気を配っていきたい。

2021年10月26日火曜日

成長主義の教育方針

 次の本を読んだ。


『リーダーの仮面 「いちプレーヤー」から「マネジャー」に頭を切り替える思考法』

安藤広大 著 ダイヤモンド社

https://www.diamond.co.jp/book/9784478110515.html


組織マネジメントについての本である。

5つの各章でそれぞれの「思考法」について書かれている。

「ルール」「位置」「利益」「結果」「成長」の5つである。


この本の中で明言しているのが

・「褒めれば伸びる」は子育ての論理

・仕事は(学校の)勉強とは本質的に異なる

・小学生向けのマネジメント方法が、会社組織に当てはめられているのが問題

ということである。


特に「過程(プロセス)を褒める」について、明確に否定している。

これが社会人の「残業アピール」につながっているという。

確かにその通りである。

会社組織が社員に求めるのは、過程(がんばったこと)よりも利益であり結果であり成果である。


これは逆に言えば「会社組織向けのマネジメント方法が小学生に当てはまらないことがある」

ということでもある。


これは、結構大切な指摘である。

大人の社会で通じているものをそのまま小学校におろすと、失敗することがある。

「利益主義」「結果主義」をそのまま小学生に当てはめたら、大変なことになる。(もうなっている感が否めないが。)

また学習塾の講師評価のように「成果主義」を学校現場へもちこめば、教員間の連携が著しく阻害されるのも周知の通りである。


GIGAスクール構想においてもここは考えるべきところである。

社会がICTを活用しているからといって、大人と同じように使わせて良いかといえば、答えは「NO」である。

まして、小学生に与えるのであれば、前号まででも述べたが、かなり考えるべき点がある。


つまり組織マネジメントは、通り一辺倒ではうまくいかないということである。

特に学校は特殊な組織(教育と保育の両機能を併せ持つ機関)であるため、通常の会社とは異なるマネジメント方法が求められる。


そんな中でも、この本に強く共感した点があった。

「成長」を重視しているところである。


子どもたちは、学校に何のために来るのか。

私は

「良くなるためにくる」

と考えている。

つまりは、成長である。


朝来た時よりも、帰る時の方が良くなって、成長していることが大切である。

また成長のペースや方法は人それぞれであって、一律に求めることはできない。


卑近な例をあげれば、漢字の学習や計算ドリル。

「漢字ドリルの枠を埋める」ということなど、何の価値もない。

ノートに同じ字を何個も繰り返しびっしり書くこと自体にも、全く意味がない。


ただしこれは単に「繰り返しノートに書くことが無意味」といっているのとは違う。

まだ覚えてない字に対し、書くことで覚えることができる人は、繰り返し書けばいい。


一方で、既に覚えている字やすぐに覚えられた字を、それ以上繰り返し書く必要はない。

覚えて書けるなら、もう普通に日常的に使っていけばいいだけの話である。

つまり、ドリルやノートを埋めるということは単なる方法の一つであり、それ自体には意味も価値もないということである。


そしてそれぞれの学習の過程を経て、よく覚えた状態でテストをすれば、当然100点のはずである。

だから、100点自体も別に他者がほめるようなことではない。

本人が100点という結果がとれる状態になってテストを受けているなら、当たり前である。

もし100点でなかったのならば、自分に何が足りなかったのかを考えて、次に結果を出すための糧にすればいいだけの話である。


これは、大人が運転免許を取得する時のテストと同じである。

つまり、合格する前提で、それができると思われる状態になってから、テストを受ける。(失敗はもちろんあり得る。)

全てのワークテスト等にもいえることである。


それよりも大切なのは、「成長した」ということである。

その中に

「このようにしたら覚えられた」

「このようにやると上手くいかない」

という過程を学べたのなら、成長したということであり、その過程にも価値がある。

新たに覚えて知識を得たという結果も成長であり、価値がある。


最初から知っていた字を書いただけなら、それだけの話で、特に成長はないので、やった価値自体は特にない。

(わたしたちが「あいうえお」と書くだけのテストを受けて100点だったというのと同じである。)


要は、たくさん書いてノートを埋めたという過程が大切なわけでも、100点という結果が大切なわけでもない。

「過程主義」でも「結果主義」でもない。

子どもの成長が大切なのである。

言うなれば指導の基本スタンスは「成長主義」である。


挑戦して、うまくできなくてもいい。

挑戦したということ自体が一つの成長である。

しかし、うまくいかないままで、もうどうでもいいというのは違う。

過程を工夫し挑戦し続けて結果を出すのも、成長の一つである。


だから、テストの点や成績といった結果に対しても「どうでもいい」とはいわない。

一方で、どんなやり方だろうが結果が出ればいいという、機械的な丸暗記のような方法も、成長という観点から見ればマイナス面が無視できない。

過程にも結果にもそれ自体に価値は感じていないが、過程を工夫し結果を出すという成長に対しては重い価値を置く。


つまりは「それをやる意味があるか」「その方法が最適か」ということを自ら考え、選択し、工夫できる力こそが大切である。

それは成長につながることなのか、これを常に考え、自分でも考えられる子どもを育てたい。

2021年10月24日日曜日

子どもを「スマホ脳」にしない

GIGAスクール構想の推進について。


今回は次の本から。


『スマホ脳』アンデシュ・ハンセン/著  久山葉子/訳 新潮新書

https://www.shinchosha.co.jp/book/610882/


最新の研究を数多く集めて分析し、スマホが我々に与える影響についてわかりやすく解説してくれている。

PTA講演会でこれと関連した脳の話を聞いたが、やはり同じことを述べている。


結論から言えば、この本の主張するところは

「スクリーンタイムが長いほど脳の働きが悪くなる」

ということである。

もっと平たく言うと

「スマホをもつと頭が悪くなる」

ということである。


「スクリーンタイム」とはその名の通りスクリーンを見ている時間である。

テレビ、ゲーム、ネット動画、スマホ、タブレット、PC、その他全てがそれに当てはまる。


スマホのすごいところは、それが置いてあるだけで集中力も成績も落ちるという点であるという。

自分のではないものが「置いてあるだけ」でもである。

これは、スマホのもつ「通知」機能が関係しているようであるが、詳細は割愛する。


では、GIGAスクール構想はこれによって真っ向から否定されるものになるか。


無条件に子どもに与えれば、そうなる。

リアルに登校した時まで授業も全てタブレットを使うような世界になれば、悪影響は免れない。

全てがスクリーン上で行われる世界を想定すれば、脳がハッキングされるのもある意味当然である。

現に、我々の生活は既にスマホに十分にハッキングされている。


道具は、使い方次第である。

車だって非常に便利な道具だが、全てそれで移動となれば、害悪が数多生じる。

だからといって自転車が万能な訳でも一番速いジェット機が全て解決する訳でもない。

どれもあくまで使い方次第である。


今の時代、スマホほど便利なものはない。

だからこそ、意識しなければ、確実に使いすぎになる。


GIGAスクール構想のタブレット端末も同じである。

子どもに「魅力的なおもちゃ」と認識されれば、虜になって出てこられないこと必至である。


何の目的で渡すかである。

目的は子どもにも共通理解されるから意味がある。

目的を伝えずにあんな便利なものを渡せば、それがやがて害悪を垂れ流すことは目に見えている。


与え方である。

目的の理解や機能制限等も含め、どうやって子どもがそれに出会うのか。

どうやって使うものと認識するのか。


さらに、使い方。

スクリーンタイムを意識せずに画面を長時間凝視し続けるような使い方をするのか。

別に教科書や筆記用具がある状態で、あくまで補助的に見たり質問したりするような使い方をするのか。


端末や環境整備の不備ばかりが話題になるが、その先にも大きな問題が控えている。

GIGAスクール構想の推進を止めないためにも、その使い方については十分に議論が必要である。

2021年10月22日金曜日

自ら伸びる存在として見る

子どもと接する仕事でも、なるべく大人に接する時と同様にするというのを基本に考える。

子どもを相手にする時、基本的にあまり「子ども扱い」しすぎないということである。

どちらかというと、人間同士として見る、というのを基本にする。


例えば、しっかりとした店だと、子どもが相手でも大人に対するように丁寧な言葉できちんと対応してくれる。

それも、あくまで相手にわかる言葉で、である。


逆に、敢えて普段から丁寧な対応をしないという人もいる。

職人タイプというか、大人相手でも基本ぶっきらぼうで、子どもでも変わらない。

そういう店や人もあるが、これもこれでいいと思う。


要は、相手によって無用な差をつけないということである。

人としてフラットというか、相手へのサービスがフラットなのである。

(礼儀があるないという話とは全く別である。)


だから、子どもを相手にする時も「できない」前提で見ない。

やったことがないからできないだけ、という見方である。

代わりに「知らない」前提で見る。


知らないことで必要なことなら、教える。

そして「知らない」が「知った」になったら、そこから先は本人次第である。

それを使うか使わないか、やってみるかやってみないか。

全て本人が主体的に行うことである。


例えばパソコン端末の扱いについては、正直こちらも完全にはわからない。

だから、最低限のところだけ教えるし、安全面として制限をかける部分もある。

あとは、本人が使いながら覚えるしかない。


小学校の教員をしていると、この辺りについてお節介が過ぎてしまうことが多い。

ついつい、あれこれ手出し口出しをして、指示や無用な制限をしてしまう。


その方がなまじ上手くいくものだから、子どももそれを学ぶ。

そして、スピードや効率化を学ぶ。

やがて指示されるのを待つ、許可されないと自分から動かないという状態が起きる。

自分でやると失敗も多く、効率が悪く大人に歓迎されないということを学ぶ。


結局、相手を子ども扱いをすると、この悪循環にはまりやすい。

大人相手に子ども扱いをしても同様である。

新人だろうが異動者だろうが初心者だろうが、そういう扱いをしていると、主体的に動けなくなる。


大切なのは、教えたら、後は任せて見守る姿勢である。

失敗もするけど、その時は一緒に後処理を手伝うつもりで、任せて見守る。

一つできたら、一つ一緒に喜ぶ。

子どものトイレトレーニングの時の心構えと同じである。


この相手を子ども扱いする、お節介が過ぎる、というのが学校の抱えている病理の根本原因のように思われる。

何なら、場合によっては保護者に対しても子ども扱いかもしれない。

そこまでやらないといけない相手と決めつけて、勝手に過剰サービスしている可能性もある。


過剰サービスは、自分で考える力を失わせる。

成人して一人立ちして暮らした後でも、実家に帰るとつい親に家事を甘えてしまうという心理。

時に甘えることは大切だが、成長の機会を害するまでやり続けると、それは「甘やかし」になる。


学校の場合で考えれば、子どもの成長や保護につながるならば、それは誰相手だろうが、やってあげればいい。

逆に、子どもの成長を阻害するのであれば、それはやってあげない方がいい。


子ども扱いしない。

相手は、今は単に「未知」なだけであり、これから伸びる存在と考える。

自分でできることは、すぐにはうまくできないことでも、自分でやるようにしていく。


よく出す譬えだが、植物の成長と同じである。

伸びろと言って引っ張っても伸びないし、成長促進剤を注入するようなことをしても、健康には育たない。

自ら伸びる存在なのだから、しっかりと土の手入れや適切な環境を整えたら、後は成長を見守るだけである。

ただし人間と植物との決定的な違いは、成長したら自ら環境を選び、作り出せる点である。


命に関わる大きな危険にはさらさないようにした上で、小さな冒険に対してはチャレンジさせてみる。

子どもを子ども扱いしすぎることが、子どもの成長を阻害していると感じる次第である。

2021年10月19日火曜日

タブレット端末使用には大人が監督責任をもつ

 学校から貸与のタブレット端末におけるいじめ問題。

端末の持ち帰り率が高まってきた昨今の重要問題と認識し、改めて取り上げていく。


前々号の記事で、ちょうど次のように書いた。

やや長いが引用する。


==================

(引用開始)

まず子どもの手に委ねてみる。

ただし、自由は常に責任とセットであり、無条件で得られるものではない。


ICT機器を委ねる際、インターネットやSNSのような機能や個人情報関係が、恐らく大きな心配のもとである。

だとしたら、端末に教職員や保護者がいつでもログインできるようにしておけばいい。

例えばマイクロソフトの「Teams」であれば、子どもの端末以外に何台でも同じアカウントに同時ログインができる。

(保護者のスマホに入れておけば子どもの各アクションへの通知設定もできるし、いつでも見られる。)


それを共通理解した上で使用を自由にする。

使用の自由に対する責任が大きすぎるため、教職員や保護者が一部を担う必要がある。


ちなみに、ここでプライバシーは最優先されない。

最優先事項は、子どもの安全である。(当たり前すぎてわざわざ書くのも申し訳ない。)

GIGAスクール構想の個人用端末はあくまで学校の貸与する学習用具の一つであり、個人スマホと同義ではない。

友達との秘密のおしゃべりや連絡、あるいはゲーム機として使うためではないということ。

ここを子どもたちと「先に」共通理解することである。

(完全に渡した後では遅い。約束事や契約事は、いつでも先出し、先手必勝である。)


まとめると、必要なのは、自由にするための責任をもつ覚悟と、仕組みづくりである。

自由にした相手は、必ずどこかで失敗をやらかすのだから、それを予測して対処しておく。

その手間と責任を嫌がっていては始められない。

(引用終了)

=====================


再度確認するが、インターネットに接続できる端末というのは、かなり強力であると同時に、危険である。

貸与する側に、厳重な管理責任が必要になる。


例えるならば、家庭科室にある包丁である。

料理に使えば命を育む道具になる一方で、使い方を間違えれば命を奪う凶器である。

だから、慣れない子どもたちに対しては使用についての指導が必要である。

危険なものについては、使用中の監視が必要である。


学校においての最優先事項は常に「子どもの安全」である。

実際、学校の内外には監視カメラがいたるところに設置されているが、全て安全を最優先しているためである。

ここに反論は出ないはずである。


そして「安全」というのは、ただ大人が保護して守っていればいいという類の簡単なものではない。

子どもが自らの身を守れるような力をつけることが、本質的な安全教育である。


何でもそうだが、安全に上手にできるようになるためには、挑戦が必要であり、小さな失敗やケガもつきものである。

そこを恐れてやらせないでいれば、ずっと一人でできるようにならないか、ある時大けがをすることになる。

この「小さな危険を克服させないまま、いきなり大きな危険にさらさない」というのが安全教育の大原則である。


初めての自転車の練習に、いきなり車の多い通りを走らせる親はいない。

転んでも大けがをしない装備や準備をさせて、安全な場所で練習の様子を見守るはずである。

最初の頃は、乗ってみせたり、教えたり補助をしたりと、あれこれ手出しするかもしれない。

それらが完璧にできるようになって、道にも慣れて、やがて初めて大通りにも出られるようになる。


そして、しっかり乗れるようになったからといって、安全管理はずっと怠らない。

車体のブレーキ等の点検も必要だし、ヘルメットは必ず被らせる。

出かけるに際しても、どこまで行っていいとか、遠出する時は報告させるなど、必要な監督をするはずである。

「どこに行っても私の勝手」と子どもは言いたいかもしれないが、そこの個人の自由よりも安全が最優先だからである。


ICT機器を渡す時にも、その責任と監督義務が生じる。

貸与する学校の側も、当然様々な手をうつ責任がある。

そして、こと家庭に持ち込む段階になれば、家庭にも監督を依頼し、責任を一緒に負ってもらわねばならない。


そのための一つの例が「アカウントとパスワードの共有」である。

子どものプライバシーは、安全をさしおいてまで優先されない。

学校や親がいつでも見られるという状態を約束しておく。

学習用具であり、子どもの秘密の道具やおもちゃとして貸し出してはいないということを、再三確認しておく。


事前の発見さえできれば、大きな被害を未然に防げる可能性が高まる。

大人の目の届かない場で、子どもの勝手気ままに使わせてしまえば、今後も同様の事故が起き続ける可能性が高い。


インターネット端末の強力さを、学校、子ども、保護者の全員が重々に自覚する。

そして「安全第一」をモットーに、大人の側が監督責任をもつようにする。

大人が使うような手放しの「自由」の状態は、子どもが自分自身で全ての責任を取れるまで成長してからで十分である。

2021年10月17日日曜日

不備・不足から当たり前の感謝に気付く

 多くの場で緊急事態宣言が延長され、解除されたものの、引き続き警戒状態が続く。

禁止事項が多くなれば、世の中に閉塞感が出るのは止むを得ないことである。


こういう時こそ、楽しいことを考えるのが大切である。

単に楽観的になろうということではなく、何か今できることを探るということである。


例えば、学級で感染症対策をしながらでもできるレクはないか。

個々に端末があるからこそできることはないか。

そういった楽しいこと探しもある。


また一方で、当たり前のことへの発見がある。

制限がかかったからこそ、一つずつの当たり前だったことに価値を見出せることがある。

食糧不足の状況下でお腹が空いた時に、初めて食べられる有難さが感じられるようなことである。


いつもに比べて、明らかに不利で不便な状況である。

やれることが限られる。

だからこそ、やれることの価値が高まるという面もある。

何でも自由に手に入る時のものと、そうでない時の同じものは、価値が全く違う。


例えば、登校。

登校できることに感謝するとか価値を見出す機会というのは、なかなかない。


例えば、顔を合わせられて、話せること。

これも人が集まれるからこそである。

また登校しないでも顔を合わせられるなどは、オンライン環境が整っているからこそできることである。


子どもを前にして授業ができること。

こんな当たり前すぎることができるのも、子どもが登校してくれているからこそである。

また実際に登校できなくても、オンラインでも授業ができる環境があれば、それだけでも有難い恩恵である。


何も無理に特別なことをしなくてもいい。

不足や不便は、今までの当たり前を振り返り感謝する機会である。


今の状況は今しかないのだから、今できることを楽しみ、感謝して生きるようにしたい。

2021年10月15日金曜日

ICT活用指導力向上のために2 子どもに使わせてみる

前号の続き。

次がもっと重要で「使わせてみること」である。


子どもに使わせてみれば、やがて使いこなすようになるに決まっている。

新しいものに対しての順応性は、大人よりも子どもの方が圧倒的に強い。

これは古今東西を問わない普遍的な真理である。


しかし、ここで躊躇しがちである。

なぜか。

大人の側から見て、失敗が不安だからである。

責任が取れない(と思う)からである。


この姿勢は、自分が普段、仕事上でどう扱われているかがそのまま出る。

つまり、普段から自分が「危ないからだめ」「勝手なことをするな」「周りと歩調を合わせて」

などとばかり言われている場合、子どもにもそういう指導姿勢が基本になる。


なぜならば、次のようになるからである。


子どもに自由にやらせる

失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる

上や周囲に注意や批判を受ける

禁止する

子どもや保護者からの不信感が募る


これが目に見えているからである。

当然、やらせられない。


逆に、上から

「まずは自由にやってみて欲しい」

「挑戦してみて欲しい」

と言われている場合や周囲にその空気がある場合、次のようになる。


子どもに自由にやらせる

失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる

上や周りと共通理解&相談をして対策を練る

対処する

子どもがそれを念頭においてまた自由にやってみる


要するに、前提が違うだけで、悪循環が好循環になる。

途中で無闇な批判やストップが入らないことが予想されるので、安心して挑戦させられる。

(ただし、予想できる大きな危険に対しての十分な対策をとっておくことは必要である。)


要するに、自分たちが普段どれだけ「任せて」もらえているかにかかっている。

各々に裁量権が与えられない限り、人は生き生きと働くことはない。

「危ないことするなよ」「絶対ミスするなよ」「言われた通りやっていればいいんだ」

と言われてのびのび働けるわけがない。


これがそのまま子ども相手に適用される。

子どもたちに対し、どれだけ信頼して任せていけるか。

ここに全てがかかっている。


ここまで十分「やらかしてきた」ことを見てきた子どもたち相手だと「信用」はできないかもしれない。

しかし、信頼はできるはずである。

信じることは、ごく主体的な行為である。


むしろ「何かやらかすはず」「ミスがある」ということが制度設計に含まれている必要がある。

ミスさせないことや最初から上手くいくことを制度設計に入れていれば、いつになっても始められない。

今は「アップデート」の時代なのだから、β版であっても、まずリリース(=手放す)をすることである。


まず子どもの手に委ねてみる。

ただし、自由は常に責任とセットであり、無条件で得られるものではない。


ICT機器を委ねる際、インターネットやSNSのような機能や個人情報関係が、恐らく大きな心配のもとである。

だとしたら、端末に教職員や保護者がいつでもログインできるようにしておけばいい。

例えばマイクロソフトの「Teams」であれば、子どもの端末以外に何台でも同じアカウントに同時ログインができる。

(保護者のスマホに入れておけば子どもの各アクションへの通知設定もできるし、いつでも見られる。)


それを共通理解した上で使用を自由にする。

使用の自由に対する責任が大きすぎるため、教職員や保護者が一部を担う必要がある。


ちなみに、ここでプライバシーは最優先されない。

最優先事項は、子どもの安全である。(当たり前すぎてわざわざ書くのも申し訳ない。)

GIGAスクール構想の個人用端末はあくまで学校の貸与する学習用具の一つであり、個人スマホと同義ではない。

友達との秘密のおしゃべりや連絡、あるいはゲーム機として使うためではないということ。

ここを子どもたちと「先に」共通理解することである。

(完全に渡した後では遅い。約束事や契約事は、いつでも先出し、先手必勝である。)


まとめると、必要なのは、自由にするための責任をもつ覚悟と、仕組みづくりである。

自由にした相手は、必ずどこかで失敗をやらかすのだから、それを予測して対処しておく。

その手間と責任を嫌がっていては始められない。


その後は、子ども自身が使ってみる機会を多くもつことである。

やっていれば必ず見えるものがある。

子どもの方が、こちらの知らない意外な機能や活用方法を発見する。

そこから、教職員も教えてもらえる。

相手の方が順応性がはるかに上だという前提を忘れないことである。

(大人が亀のような速度で学んで自信をもって教えられるようになるのを、自ら学べる子どもたちに待たせる理由はない。)


今回は、学校のICT活用について、実際に使ってみての見解を述べた。

しかしながらこれは、あらゆる「変革」や「挑戦」に関する考察と同義である。


やってみなければ始まらない。

責任を取る覚悟がなければ始まらない。

ただし、危険を察知する知識や先見性がなければ、危なくて始められない。


万全の準備をした上で、不安を抱えたまま進んでみる。

わくわくすることは、必ず未知の不安がセットである。


今後も学校にできることの可能性を探求していきたい。

2021年10月13日水曜日

ICT活用指導力の向上のために1 まず教師が使う

ICTを活用できる教員の育成が全国で急務の課題となっている。

文科省も「ICT活用指導力等の向上」として求めている。


使えるプラットフォームが一つではなく、ソフトも日々どんどん新しいものが開発されている。

ただでさえ「遅い」と言われる学校現場において、このスピード感に追いつくにはどうすればいいのか。


試行錯誤している中で一つ見えたことがある。

ごく単純で「使ってみること」と「使わせてみること」である。

これに尽きる。


「使ってみること」については、子どもに使う前に大人同士で使ってみる方がいい。

職員会議や校内研修をそのプラットフォームを使ってオンラインでやってみたり、自主研修で使ってみたりする。

地区によっては、各校の代表が集まる「○○主任会議」のようなものをオンラインでやっているところもあるという。


ちなみにこれは学習会の仲間から教えてもらった。

感染症対策にはもちろん、会場への移動時間も0な上に、普通に集まって話し合う場合の半分以下の時間で終わるという。

多くの人に健康と時間的利益をもたらし、さらに交通費と人件費という税金の無駄遣いも防げる、素晴らしい取り組みだと思う。


まず先に大人の社会でこのICT活用を普通にしていくことが先行である。

操作に自信がつくし、とっさの時の対応力が変わる。

(そして、今まで当たり前に存在していたあらゆる無駄に気付ける。)


子どもに提供していく予定のソフトについても、当たり前だがまず自分たちが体験してみることである。

どういう力がつきそうか、あるいはどこで躓きそうかがわかる。

やっていく中で、プラス面だけでなくマイナス面も含め、たくさんの発見がある。

2021年10月10日日曜日

オンライン授業を進めての雑感

感染症対策として、8月末から1か月間、完全オンラインのみで進めていった。

全国には、ほぼ全くオンラインでやったことのない学校(またはやれない学校)もあるときく。

そこで、せっかく先行実践としてやらせてもらっている中でわかってきたことを、メモもかねてシェアしてみる。

ちなみに基本は「同期型(ライブ双方向型)」の授業である。


1 「聞く」について

実際の教室だと「話を聞く」ということの大切さをまず指導する。

必要なことを伝達できないからである。

話を聞きたいと思っている子どもが聞けないからである。


オンライン上では、この指導が基本的に必要とされない。

スイッチ一つで音声のオンオフができてしまうからである。

教える側による一括操作もできる。

誰か一人が喋っている間、基本的に他の音は入らない。

本質的ではないが、いわゆる騒乱状態というのは起きないと思われる。


これは一方で、かなり個人裁量に任されるということでもある。

仮に本人が「聞いていない」という状態でも放置になる。

何をしていても周囲に迷惑をかけていないので、問題にならないという面もある。


総じて「一方的に喋って進める」という一斉講義型指導に関してはやりやすい形になる。

だからこそ、一方的にならないような配慮が通常以上に必要とされる。


2 「話す」について

35人のような多人数の場合、マイクを常時オンにしておくとお、誰かしらの生活音を拾ってしまう。

そこでマイクのオンとオフという操作が基本的に必要になる。

よって実際に教室にいる場合と、会話のテンポは全く変わる。

「冗談を言って反応を見る」というような通常ではありふれたことが結構難しい。


いっぺんに複数が喋るということがない(できない)ので、「挙手機能」が役立つ。


これは逆に言うと、実際の教室と同じで、挙手→指名制のみに陥りやすい。

こちら側が意図的に指名していかないと、一部の子どもの発言のみで進んでしまいがちになる。


一斉に話せない分、チャット機能は有用である。

個々の意見を全員に一斉共有できる。

ここをどう使うかが結構大切であると感じる。


3 交流について

隣の人と気軽にちょっとおしゃべりや相談、というのにひと手間かかる。

一つしゃべると全員に丸聞こえになるためである。


「ブレイクアウトルーム」のように各部屋を割り振って、その中に移動してから各々が話すという形になる。


一度各部屋に入ったら、今度は全員を呼び戻す必要が出る。

発問1つ、あるいは1テーマを与えたら、しばらく時間をとる必要が出る。


また、各部屋の中の様子がわからないため、一つずつ回ることになる。

班を回る感覚に似てはいるが、移動の時間がやたらかかるのと「見に来てます的存在感」の大きさが違う。


「密室」に近くなり、何があるのか把握しづらい。

逆に言えば、外からの目を気にせずにお互いが話しやすいとも言える。


これもやはり、使い方次第である。


4 画面と視力について

オンライン授業は、とにかく目が疲れるというのがネックである。

子どもの視力低下をはじめ画面の見すぎによる弊害が問題に上げられており、対策が必要である。

なるべく画面から目を離す機会を多く設ける必要が出る。


完全デジタル教科書になると、ここが一つ心配のポイントになる。

紙の教科書やテキストが別に手元にあるなら、画面から目を離してそちらを見て作業することができる。

デジタル教科書で更にそこに書きこむ形だと、画面を見続けることになる。

紙の教科書に軍配があがるとしたら、この点である。


また教科書が映っている端末と授業で繋がっている端末が一緒だと、画面の切り替え等で不都合が起きそうである。

ただし、このデジタル教科書については実際やっていないので、調べればよい解決方法がありそうである。


総じて、画面操作も含めて教える側の主導権が強くなりがちである。

特にスライドを使って進める場合は、意識しないと伝達型の講義になりやすい。

いかに学び手自身の作業に返せるかというのが、画面から目を離すためのポイントになりそうである。


5 同期型とオンデマンド型について

両者にメリットとデメリットがある。


同期型の良さの一つは、確実にその時その場でやれることである。

開始時刻も時間も決まっているので、そこで学ばざるを得なくなる。

「他律的自律」である。

登校しないで済むところを除けば、通常の学校と同じである。


一方でオンデマンド型や課題は、自分でやる時刻、取り組む時間を決められる。

求められるのは、自律の力である。

毎月送られてくる通信教材をきちんと計画的に進められる子どもには、この形でも割と問題ない。

しかし、それが難しいという子どもの場合、日毎に課題が積み重なるという地獄が待っている。

(自分の夏休みの宿題への取り組み方がどうだったか、通信教材をできる人かどうかを考えれば、大体わかる。)


両方に、メリットとデメリットがあり、バランスが大切である。

オンラインのみであれば、やはり同期型が多くないと小学生にはきついと感じる。

昨年度の春、休校中に全国で出された大量のプリント学習が批判された。

オンデマンド型や課題中心だと、あれと同じことが起きることは必至である。


やってみての実感だが、「ハイブリッド型」といわれるものが一番難しい。

(目の前に子どもがいて授業をしつつ、画面の奥にも子どもたちがいる状態。)

リアルと画面、どちらに焦点を合わせるかで、全く授業が異なるためである。


現実的なのは、リアルに焦点を合わせて授業をし、カメラの側には基本「視聴」してもらう形である。

勤務校では、感染症対策で登校を控えた子どもがこれで授業に参加したり、保護者会をこれでやったりしたこともある。


まだまだ試行錯誤だが、オンラインは個々の交流には便利な面がかなり多い。

今後、感染症対策とは全く別に、通常時に使うにあたっても色々な可能性がありそうである。

まずは今、やれることをやっていきたい。

2021年10月8日金曜日

礼儀の本質は「人の心をあったかくする」

前々号で紹介した本からの言葉。再掲する。


『一人ひとりを見つめる子ども研究法の開発』

福山憲市 著  明治図書(1997)

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-245416-2


この本の144ページに、次の言葉がある。


「礼儀って、人の心をあったかくするね」


保護者が「悪がき三人組と思っていたけど、見方をかえなくっちゃ。」

と「共育カード」というお便りに書いてきたものを受けてからの、福山先生の言葉である。


自分の子どもの仲良しのお友達が家に遊びに来て、(意外にも)礼儀正しく帰っていった。

そこに保護者は感動したのである。


よく

「社会に出たら、礼儀がないと通用しない」

と言って教えることがあるのではないかと思う。

あいさつについても、そう教えるかもしれない。


しかし、本質は違うのではないか。


人の心をあったかくする。

それが礼儀。


この方がずっと素敵である。


あいさつ一つだって、

「やらないといけない」

と思ってするのと

「人の心があったかくなる」

と思ってするのでは全然違う。


福山先生の師である有田和正先生の実践に、プリントを渡す際に

「どうぞ」「ありがとう」

と互いに一言声をかけようというものがある。

(私も毎年必ず実践させてもらっている。)


これも、本質は

「心があったかくなる」

である。


礼儀は大切である。

学級運営が安定している教室の共通点として、礼儀の指導に力を入れていることが多いと聞いたことがある。

「~しなさい」よりも「~するといいよ」と生活を通して自然に教えてあげられたら、なおいい。


礼儀は、人の心をあったかくする。


「何のために」という目的によって、同じ内容を教えるにしても、全く意味も効果も異なってくる。

名人教師の指導の本質、そして人としての在り方をこの一文に見た思いである。

2021年10月6日水曜日

学校のオンラインでの学びをどう進めるか

学校のオンライン化からの気付き。


全国各地で、感染症対策としてICTをフル活用している学校が出てきた。

時代の情勢に止む無く後押しされる形ではあるが、これ自体は再三望まれてきたことである。


この時代の影響で、日本の学校でもついに子ども一人一台PCが実現し、同時に様々なICT機器やソフトが導入されている。

とにかく時代遅れと言われてきた日本の学校にとって、望ましい前進である。


しかしながら現実は、教える側がそれらを使いこなす自信がないというのが、正直なところではないだろうか。


ある意味これは、当たり前である。

これまで、実際に使っていないからである。

普段使っているスマホ内のアプリですら、全て使いこなせる人はいない。

全く使ったことがないけれど、使っている内に、使えるようになるというのが普通である。


新しいことやコンピューター関係。

大人と子ども、順応が早く使いこなすようになるのは、どちらか。

言わずもがな、子どもの方である。


教員側は、とにかくできる範囲でやること。

そして子どもには必要な程度の制限はしつつ、まずは与えてやらせてみることである。

これ以外に両者の習得方法はない。

子どもが完璧なブラインドタッチを覚えてから初めて文章を打つのでは遅すぎる。

アルファベットが多少あいまいでも、やりながら使って覚えるのである。

これは教員の側にも言えて、完璧に使いこなせるのを待っていては一生使えないままである。


ICTの活用やオンライン授業などにもこれはいえる。

ICTマニアのような人たちがやるようなソフトを、全ての教員が使いこなせるようになるのを待つ必要はない。

そんなことを待っていたら、そのソフト自体が時代遅れの陳腐化してしまう。


それよりも、まず使うことである。

やれる範囲でやってみて、間違えながらもやってみて覚えることである。

あるいは、色々試してみて使いやすい方法を模索することである。


元々が説明してきかせる、わからせるという想定の人なら、予めスライドをたくさん用意する授業がやりやすい。

これはセミナー型の授業になる。

知識の伝達には効果的である。


一方で、カメラの前でパフォーマンスが得意な人なら、難しいソフトを使うよりも動画を撮って動いた方が伝わる。

ユーチューバー型である。

動画に慣れている今の世代にはわかりやすい反面、やはり一方通行感は否めない。


その場で子どもとやりとりをするのを望むならば、事前に撮影するよりもライブ型の方がそれを実現できる。

その場でのリアルな対応は苦手でも、ICTに堪能なら様々なソフトを使った方がパフォーマンスとしても見せることができる。


つまり、ねらいにそって得意な手法を生かせるICT機器を活用していけばいい。

普段の授業と同じことであるが、むしろオンラインの方が選択肢の幅は広がる。

ICT大得意、という人の方が圧倒的に少ないのだから、大多数はとりあえず使えるもので勝負するのが妥当である。


一方で、子どもにはどんどん色々と使わせてみる。

明らかに大きなトラブルが起きそうなところだけは確実に制限をかけておく。

(チャット機能制限やフィルタリングなどはこれにあたる。)


環境さえ整えば、あとは勝手に進む。

個別最適化は、ICTの最も得意分野である。


できるかできないか。

上手くいくかいかないか。

余計なことを考える暇があったらやってみる。


ICT活用が進まないとしたら、何よりも教員の側が積極的に使おうとしていないことが原因かもしれない。

2021年10月4日月曜日

一人ひとりを見つめることができるか

 次の本からの学び。


『一人ひとりを見つめる子ども研究法の開発』

福山憲市 著  明治図書(1997)

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-245416-2


大分古い本であるが、「名著復刻」シリーズに出ているだけあり、今なお輝く名著である。


タイトルに「一人ひとりを見つめる」とある。

一人ひとりを見つめられているか。

これが今号の問いかけである。


私は教育実習生の頃、実習記録簿に

「クラスの一人ひとりを見るのが難しい」

と書いたら、実習担当の先生が、この難しさや深さについて丁寧に返事をしてくれた。


一人ひとりを見るというのは、概念的にとらえているものと具体では、レベルが全く違う。

この本では現TOSS代表の向山洋一氏のかつて著書の中にある、

『授業中の「子どものかすかな指の動き」を捉えられる目に驚嘆した』という事実からスタートしている。

また、体育館で100人以上いる中の子どもの中に、少し深く息を吸った一人の違和感を捉えるという事実を示している。


文字通り、本当に、一人ひとりを見ているのである。

そのための修行の過程が書かれている。

毎日、放課後の教室を眺め、一人ひとりの机を順番に見て、何があったか頭の中で再起する。

これを1日も欠かさず続けるという修行である。

うまくいかないから、録音して再生するとかメモして再生するとか試行錯誤するのだが、まさに「修行」である。


本当に、ざっくりとしか見えていない。

普通に過ごしていると、これを自覚できない。


子どものかすかな変化を見えなくするのが「出来て当たり前」発想だという。


これが、保育園の先生との差で書かれている。

「おしっこ」を自分で言えたというような、ごくささいな感動を毎日書面で伝えてくれる保育園の先生。

ここに、小学校に勤めている自分との圧倒的な差を感じたという。

「出来て当たり前」の目だと、これが見えない。

子どもの、感動的な「ささいな成長」を見逃すのである。


何より、自分自身に「出来て当たり前」と勘違いしていることこそが、出来ていないことかもしれない。


今(私も含め)世に「こうすればうまくいく」という類の教育書が溢れているが、この本で紹介されている実践は「格」が全く違う。

実践としてやっている本気度と努力のレベルが違う。

他人の実践の単なる真似ではなく、「一人ひとりを見つめる」ための本気の真似、追求である。


どちらかというと、今余裕がない人ではなく、少しばかり自分ができるような気がしてきたというある程度の経験を積んできた人に、刺激的なおすすめの一冊である。

2021年10月2日土曜日

「誰誰が悪い」は思考停止スイッチ

ここでは結構些細なこと、どうでもいいようなことを真剣に取り上げてきている。


例えば前回取り上げた、昭和から変わらない宿題のことなど、本当に小さなことである。

小さなことだから、まあ仕方ないと思って、みんな我慢してやる。

わざわざ目くじら立てるほどのことではないからである。


こういうことが学校の日常に溢れている。

子どももそうだが、大人もそうである。


選択肢と意思決定の場面がないのである。

色々なことが「やる」「そういうもの」と決まっている。

そこで、「変えたい」「違う選択をしたい」と申し出るとする。


「今年は決まってるから無理」

「周りもそうしてるから無理」

「上の許可がないから無理」

「前例がないから無理」


これが毎年続く。

自分には選択する力も権利もないと、長く勤めるほど、骨の髄まで思い知らされていく。


これを日常的に繰り返しているとどうなるか。

くだらなくないようなこと、重要なことでも、言われるがままに従うようになってしまう。

変えられることでも、変えようとしなくなってしまう。

理不尽な要求も黙ってのむようになる。

使う側にとって最も都合のいい労働者の出来上がりである。


イエスセット話法という心理学ベースのセールス手法がある。


簡単に「イエス」と答えられるような質問を先に何度も繰り返す。

すると重要な決定、本題であるセールスにもイエスと答えやすくなるというものである。

超単純化するとそういう手法である。

これが、意外にも効果てきめんなのである。


「一貫性の原理」という心理法則も働く。

それまでイエスを繰り返してきたことに対しては、イエスと言わざるを得なくなるというものである。

「動物が好き」という返答を繰り返した後だと「動物愛護の募金」でお金を出す確率が跳ね上がるというものである。


つまり、日常的にごく小さな「たたかい」に連敗していると、負け癖がつく。

言いなりになりやすくなり、逆らえなくなる。

もっと言うと、言いなりになっていることにすら気付かなくなる。

そして言いなりなのだから、何か悪いことがあれば、自分ではない上の人の責任である。


これが、教育において起き続ける。

そしてその教育を受けた子どもたちが今の大人になっている。


カエルがぬるま湯に入っている。

下で火を焚いて、だんだんと温度を上げ、いつの間にか熱湯にしていく。

最初から熱ければすぐに出て逃げるのに、この場合だと熱いと気付く前に茹で上がって死んでしまうというあれである。

感性と感覚が慣れて鈍ることの恐ろしさである。


普段から自分を小さな理不尽に従わせていると、子どももそうなる。


「もっと自分から動いて」

「どうして意見を言わないの」

「黙ってないで何か言いましょう」

「言いたいことを言っていいんだよ」

「自分たちで考えて決めて実行してみよう」


この言葉を見て、誰向けの言葉と感じるか。

全ては、大人に向けてである。

学校でも社会でも政治についてでも何でもいい。

これらは、全て大人社会の問題である。


子どもに向けてこれを言うとしたら、先に自分たちがそういう生き方をしている必要がある。

これらは、日常の全てで行うことであり、特定の何かの時にだけそれを求めても無理である。


普段から、小さな選択を繰り返し経験することである。

「自分で変えられる」

「自分で決められる」

そして「自分で責任をとる」

という経験をいかに私たちが積めるかである。


自分が今、理不尽だと思って従っていることはないか。

例えば今は感染症対策やGIGAスクール構想などで、教育現場は大混乱中である。


そういう中で

「仕方ない」

と呟いていないか。

「○○ができないのは上や自治体がそうしないから」

と言っているとしたら、先の状態に飼いならされている。

「○○大臣が悪い」とさえ言えば、全ての問題が自分の手を離れる。

他人のせいにするのは、思考停止スイッチである。


よく考え直すと、自分にできることがあるはずである。

自分の立場でしかわからないこともあるはずである。

みんなが不満に思っていることなら、声を集めれば変わることがある。

それこそが民主主義の本質である。


混乱の中にこそ、変革のチャンスはある。

今の「せざるを得ない」状況をチャンスに変えていきたい。

2021年9月30日木曜日

学校教育にパラダイムシフトが起きない理由

 学習会で話題になったことのシェア。

学校にある既存のルールや慣習を変えられない理由と対策について。


首都圏の学校では、一昨年度末より常に感染症対策を迫られ続けている。

その後押しもあって、オンライン学習可能な環境がどこでも整いつつある。


一方で、オンライン学習の環境や実践が一向に進まない地域もある。

感染者が少ないことをはじめ、諸事情あるのだが、そもそもの要因として

「みんな何も言わないから」

「差し迫って必要でないから」

あたりのことが推測される。

それがなくても何とかなってしまっているから、声が上がらないのである。


しかし実際、事が起きてからでは遅い。

予想外の新型ウィルスの登場で、初期対応が遅れた頃はまだ理解される。

今は違う。

もうわかり切っていることである。

「予想外」ではないのだから、平時の予防行為としての対策が必要である。


新しいものがどうしても必要になり、現場も拒否できない状況にいれば、否が応でも改革が進む。

逆にそうでない状態、「何とかなっている」という状態が危ない。

そこに潜む危険が目に見えないからである。


つまり「今までそうだったから」は実際には通用しなくなっているが、それに気付けない。

今まで通りでも大丈夫だ、最善だと、錯覚してしまう可能性がある。


今回の学習会で「宿題」も話題に上がったが、これもその一つであると考える。

宿題というものの根本は変わっていないが、その価値はかつてとは全く変わっている。


社会では、未だかつてないペースでパラダイムシフトが起きている。


「パラダイム」とは何かであるが、次の動画がわかりやすい。

内田和成チャンネル 「ものの見方・考え方#1 パラダイムって何?」 動画16:28

https://www.youtube.com/watch?v=Gni7wpVXzns



日本にはかつて、敗戦のどん底から立ち直り、人口も経済成長も右肩上がりの時代があったという。

モノを作れば売れる、ビルを建て、土地をひたすら転がして儲かる時代があったという。


この時代に最も必要な人材とは何か。

「決められたことをきちんとやりとげる」「無茶な命令にも素直に従う」「無理してでも頑張り続ける」

こういった人材が大切である。

一人の人間から提供される労働時間の長さが、ダイレクトに企業の利益の大きさにつながるからである。


キャッチフレーズが「24時間戦えますか」だった時代である。

残業拒否や家庭を顧みて育児を優先する行為など、「企業戦士」にあるまじき行為である。

上司の命令に逆らうようなことがあればまず昇進はなくなるが、黙って従っていれば終身雇用で一生豊かで安泰が約束される。

ある意味、イケイケである。


先の時代の人材の条件に最も当てはまるのは、現在の優秀なロボットたちである。

今の時代でこの勝負をしたら、人間はロボットに全く勝ち目がない。


ところで、今でも学校現場で広く採用されている一般的な宿題とは、どのような力を伸ばせるのか。

恐らく、先の時代に必要とされていた力を、大いに伸ばせるのではないだろうか。

「受動」「従順」「我慢」である。


夏休みや冬休みも含む日々の大量の宿題は、先の時代のニーズに最適化していたといえる。

社会が求める人材教育として、恐らく正しかったといえそうである。


一度に大量の相手に対し同質を提供できる一斉授業。

厳密な校則、ルール。

多様性を認めない排他的な制度とテスト学力による序列化。

全て時代のパラダイムに沿っていたと思われる。

望み通りの結果が得られたといえるのではないだろうか。


かつてのパラダイムを捨てるのは難しい。

成功体験があるからである。

長く勤めてきた人ほど、これは難しい。


一方で、新しい人たちは、この成功体験がない。

よって、先入観がないため、新しいパラダイムをすんなり受け入れられる。


年配の方々の中に、LGBTQ+(今では更に進んでSOGIE)の概念をどうしても受け入れられない人が多いのは仕方がない、という話を書いたことがある。

これも同じく、かつてのパラダイムによる当然の結果である。

人生のほとんどを「男女ははっきりと区別されるのが正義」という枠組みの時代の中で生き抜いてきたのである。

いきなりそれを「今は違うから変えて」と言われても、戸惑うのは当然である。


学校の教員も、そして恐らく保護者の中にも同じ感覚があるはずである。

それぞれが自分の子ども時代を考えた時、宿題がないなんて有り得ない。

宿題をきちんとやるのは絶対的な正義であり、それが出ない学校なんて不安で仕方ないだろう。


かつては宿題忘れという「大罪」に対し、体罰すら容認されていた時代があったのである。

(かつて国民的人気アニメの主人公が「宿題忘れの罰としてバケツをもって廊下に立たされる」という描写は一般的だった。

それが今一切なくなったのは、象徴的である。)


今教育の世界で、上の立場にある多くの人たちも、同様の経験があるはずである。

「若い頃は・・・」という話になれば、今ならあり得ないこともたくさんある。

なぜなら、時代がそれを容認、あるいは求めていたからである。

体罰すらテレビで当然のように流されていたぐらいだから、そういうことである。


それが急激に変わってきている。

かつては「村」の中の比較だけで一生を終えていたのが、工業化による集団就職で都市部に比較対象が広がった。

今では世界と容易に繋がれるようになり、グローバリゼーションが進んだ結果、比較検討の対象が世界の国々になっている。

「宿題」一つの在り方をとっても、ICT活用を見ても、世界の先進国の教育が比較対象になるのは当然である。


パラダイムシフトが起き続けている。

シフトしようか日本が迷っている間に、その新しいパラダイムすらもさらに世界ではシフトしているというスピード感である。


話が広がりすぎたが、身近なところの小さな変化へ抵抗感を示している場合ではないということである。

かつての絶対的正義は、もはや通用しなくなっている。


そして一般的に、上の立場にいる人ほど、元々のパラダイムで生きてきたので、変化には抵抗する。

旧パラダイムにおける成功体験のない若い教員世代が声を上げる以外にない。

感覚の若い人たちみんなで声を上げて変えようとしない限り、既存の学校文化はいつまでも生き続ける。


なくした方がいいもの。

残しておいた方がいいもの。

真剣な検討が必要である。


どちらもごっちゃになっていれば、確実に「とりあえず保留」になる。

公の場で「それは必要ですか」と声を上げる人が出るかどうかである。

その声に続く人がいるかどうかである。


オンライン授業と宿題という狭い話であったが、ここに問題の本質をはらんでいると感じた次第である。

2021年9月28日火曜日

「自分さえ我慢すればいい」を排す

次の記事から。


プレジデントオンライン 

「休まないのがいいことだ」という価値観がコロナ収束を遅らせる

日本大学文理学部教授  末冨 芳

https://president.jp/articles/-/49311?page=4


この記事の中で同調圧力と部分最適について書かれている。

全く同感である。

「休む」とか「在宅勤務」を全体最適として捉えるべき時代にきている。


私も以前より、しんどい時には休むことを奨励してきた。

何度か紹介しているが、拙著の表紙のこの人の状態にならないことである。



「休む」という行為は、短期的に見てマイナスに見える。

その時の業務が進まない、授業が受けられないからである。

周囲に負担がかかるとか、作業が滞るとか色々ある。

この意識により「辛い時でも休まず無理してがんばるべき」という同調圧力が強まる。


しかし長期的に見れば、休むことは全体にとってプラスとなる。

仲間に対しても寛容になれるし、辛い時に辛いと言える環境ができるからである。

助け合いと寛容の空気が醸成される。


病気の時や都合が悪い時に

「休まないのが当たり前」か「休むのが当たり前」

かの違いは大きい。


今必要なのは、当たり前の見直しである。

例えば「通勤しないと仕事ができない「登校しないと勉強できない」というのは、一昔前の当たり前である。

今は、オンライン環境が整ったのだから、それ社会にとっての当たり前ではない。

(しかしながら、先の記事にもあったように、同調圧力もありなかなか進まない。)


働き方や学び方含め、多様性への当たり前に対して寛容な人たちと、そうでない人たちの分断が進んでいる。

これは、恐らく環境の影響が最も大きい。

多様性を当たり前とする環境か、そうでない前近代的な環境にいるかで、同じ人でも恐らく180度変わる。


学校現場で多様性への受容が進まない問題の根本の一つが、先の同調圧力と関連して自己犠牲の精神である。


「自分さえ我慢すればいい」


この精神は、一見いいもののようで、なかなか厄介である。

「自分さえ我慢」するということは、他の同様な場面では他人にも同じ行為を求めるようになる。

「お前も我慢しろ、がんばれ」「自分と同じように我慢しないのはずるい」という感覚が生じる。


多様性への不寛容になり、周囲への無言の同調圧力となる。

自分が我慢したことは、無意識に他人に不寛容になる。


幼少期に「お兄ちゃんなんだから」と我慢を強いられた上の子。

我慢しないで許される下の子に対してもやもやとした感情を抱く。

社会に出てからも他人に対するその意識は続く。


食事を残さないことを厳しくしつけられ、我慢してでも食べさせられた人。

他者が平気で食事を残すことに対して怒りの感情が湧く。


新人はそういうもんだと理不尽なことを無理矢理やらされた人。

自分が上になったら新人にそうさせようとする。

将来的には上に行けば行くほど厄介な「エラい人」になる。


本当は都合が悪いことを「やっておいてね」と言われるのでいつも笑顔で受けてしまう人。

それをしない人、うまくやっている人に心の底、無意識下で恨みを抱く。

(この「(都合)いい人」タイプは自己表現できないことが多く、表面化しないのが逆に怖い。)


基本的に、我慢は毒である。

仕方のない状態に「耐え忍ぶ」という忍耐とは全く別で、我慢には「我」に「慢」の気持ちがある。

おごりたかぶり、他を軽んずる心、怠けの心と同様である。

我慢するだけで、改善しようという意志がないのである。


この「自分さえ我慢すればいい」を排していくことが、当たり前の改革に必要になる。

みんなにまで我慢させないことを考えれば、そのまま自分が我慢でいいはずがないのである。


「無理しないで休む」はそのほんの一例である。

自分から無理せず率先して休んで、みんなが無理なく休めるのを当たり前にするといい。


理不尽な我慢をしない、させない。

何事も、まずは自分発で進めていきたい。

2021年9月26日日曜日

アサーティブに声を上げる

 ちょうど一月前、人権宣言記念日に発行した記事。


1789年8月26日に、フランスの憲法制定国民議会が「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択したことによる。


ここに関連して、前号の続きでもあるが、正当な声を上げることについて。


人権は、権力者によって簡単に蹂躙される。

自ら守らねば、気付かない内に奪われる。

特に弱い立場にあるのならば、力を合わせて自分たちで守るべきものである。


勤労の権利・義務というのがある。

生存権的基本権の一つである。

「勤労の権利」(第27条),「労働基本権」(第28条)と憲法で定められている。

この憲法に沿って、労働基準法が定められている。


働き方改革の推進が叫ばれているが、変えてくれるのを受け身で待っていてもだめである。

今の現状に対して不満があるのなら、自ら声を上げ行動を起こさない限り変わらない。


ただこのエネルギーが、今の社会では違うところに向いているようにも思える。

関係のない人に八つ当たりしてもだめである。

誰に何を言えばいいのか、そこは頭を使う必要がある。


仕事の面で考えてみる。

現状の仕事に不満があるか。

その発生源はどこか。

突き止めて、そこにテコ入れしていく。


他に原因があるようで、実は自分自身の行動で改善できるものもある。

例えば「仕事が終わらない」は、必須業務量が多いというより、単に余計な仕事を自分で作って潰れていることも多々ある。

(学校現場だと、私はドリルの○つけや、子どもへの懇切丁寧なお世話をよく例に出す。)

その場合は管理職に業務体系を訴えかける前に、自分のやり方を変える方が先である。


しかし、そうでないものならば、きちんと訴えかける必要がある。

単なる愚痴や文句と、正当な要求は別である。


学校勤務でいうと、(Facebook上でも話題にしたが)例えばプール管理である。

その業務内容が妥当なものになっているかは再検討が必要である。


例えば、体育主任がフィルター掃除から水質維持から全てを管理をしているとする。

その膨大な業務量に対して、適切なサポートがあるかどうかである。


基本的に公立校では残業代は出ない。

だとしたら、何か他の業務負担を軽くする手立てが打たれているはずである。


さらに、プールの水へのチェックには、本来管理職も関わる必要がある。

膨大な上水道代や下水道代(=税金)がかかっているためである。

個人で負担できる重さではない。


これはあくまで一例である。

学校には、一部の人が「慣例」でサービスしていると思われる仕事がかなりある。

きちんとどこかで声を上げないと、陰で泣く人が未来永劫延々と出続ける。

「自分が気に入らないから」ではなく、苦しむ人を助けるために声を上げるべきである。


箱の外側にある時代が変わったのに、箱の中身が全く変わっていない。

「慣例」で過剰サービスしていたものにまず目を向ける。

管理職や年配の人の「俺も若い頃耐えた」という類のものは、今見るとおかしなものが大多数である。


危ないキーワードは「上が言うから」「今までそうだったから」「仕方ない」である。

思考停止まっしぐらの危険フレーズである。


我々が「私たちの子どもの頃もそうだったから仕方ない」という類のものがある。

これらも子どもたちにとっては、同様に理不尽なものである可能性が高い。


今子どもに教育していることの中で、自分も過去にやった、やられたことだからいい、という道理はない。

今自分自身がやっていることが変ではないかという、チェック対象である。


「アサーティブ」に声を上げることを当たり前にしていくことが必要である。

アサーティブとは、相手の願いや考えも尊重しながら、自分の主張を伝える態度である。

お互いの幸せを願って行うものである。


黙っていては変わらない。

自分の周りの人たちや後の人たちのために、声を上げ行動に変えていきたい。

それが結局、何よりも自分のためにかえってくると考える次第である。

2021年9月24日金曜日

白票と投票放棄が絶対にダメな理由

前号の、ルールや現状をどう変えていくかということの続き。


ここにおいて「世論」というものの力は強大で、法律改正といった大きな動きの後押しにもなる。

現状ルールにおいて既得権益者の立場にある者は、従わせている相手に騒がれ動かれるのを嫌がる。


これは、選挙を例に考えるとわかりやすい。


日本の選挙における投票率の低さは、「日本の政治が変わらない」ことの中心的要因である。

当たり前に聞こえるが、なぜそう言えるのか。


今の社会を変えたいなら白票や投票放棄は絶対にダメ


この今更な言葉の理由を、子ども時代から論理的に理解していれば、必ず投票率は上がる。

この論理の仕組みこそが、小学校レベルで確実に教えるべきところである。


なお今回紹介するこのロジックについては、私見ではなく以下の本からである。

『自分の頭で考える日本の論点』  出口 治明 著 幻冬舎新書  )


しかし、この仕組みを日本ではきちんと教えてこなかった。

よって投票率は世界平均より大幅に低く、特にこれからの社会を担うべき若年層の投票率は散々なことになっている。

意図的なのかもしれないし、上に逆らわず黙って従うことを覚えてきた必然の結果なのかもしれない。


「選挙に行かない」ということ、あるいは白票を投じるということ。

恐らく「どうせ誰に入れても変わらない」「自分の一票なんて」という思いからである。

あるいは、単に面倒だからである。

面倒になるのも「どうせ・・・」の自己無力感がそうさせている。


白票や投票放棄の実効的な意味は、単なる選挙権の放棄に留まらない。

既存の有力候補者(多くの場合既得権益者)への投票と同じになる。

つまり「今のままがよい」という状態を強力に肯定して推進する原動力になる。

ここが一番知るべきポイントである。


なぜそう言えるのか。


既得権益者には「組織票」などの先に決まっている票(固定票)が誰よりも多くあるからである。

大きな組織に属しているほどここへの依存度が強い。

逆に言えば、固定票以外の浮動票が減れば減るほど、既存の固定票をもつ者が当選しやすくなる。

これは選挙を採用している場なら世界共通の原理原則であり、あらゆる縦割り組織にもそのまま言える。


だから既得権益者にとっては「全体の投票率を上げさせない」という方向に有権者を導くのが正しい戦略になる。

「選挙なんか行ってもどうせ変わりませんよ」「あなたの一票は無力だしムダですよ」

と思わせ、現状を変えたいと不満をもって動く「邪魔な人」に対しては、黙って動かずいてもらうのが最も都合がいい。

(特に若年層の票は高齢者と違ってかなりの浮動票なので、脅威になりやすい。)


今、法を変えられる有利な立場にいる人たちが、本気で全体の投票率を上げようとするかどうかである。

ネット利用などでもっと若者が積極的に選挙に参加できる手段はいくらでもとれるはずである。

現状その方策はまず採用されないと思ってよい。


子どもたちに主権者教育が絶対に必要な所以である。

(今回の学習指導要領改訂で文科省の出した方針の中でも、ここを前面に打ち出したことは特に素晴らしいと思う。)

毎回30%程度と最も投票率の低い20代と30代の投票率が、倍になって高齢者と同じ水準まで上がれば、日本は確実に変わる。

年をとってから選挙に行くより、若い時に行った方が断然自分の人生にインパクトがあると強く教えるべきところである。


「どうせ自分には世の中は変えられない」と選挙権を放棄する。

これは実は、知らない内に「こんな世の中」を作っている現状維持を強力に支持してしまっている。

国民の大多数が何がなんでも選挙に投票するようになると、この国は確実に変わる。

(ただし、「愚衆政治」などと揶揄されるように、国民レベル自体が低いと、民主統治はよりひどい結果を引き起こすようである。)


集団が騒がない限り、現状ルールは「集団に喜んで受容されている」とみなされる。

つまり、変えたい場合は、集団で不満の声を上げて実際に動く必要がある。


学校現場で言うと「不満だけど黙っている」「変なルールだけど変えようとはしない」ということが多々ある。

教員にその姿勢があるから、子どもにも同じようにある。

現状に不満がある時は自ら動いていいと言っても、動かない。

これは即ち「現状維持への強力な支持表明」である。


ある集団において、みんなで黙っている以上、みんなでそれを肯定しているのと同じである。

それこそが、既得権益者の望む姿であり、「理想的な奴隷」の姿といえる。(=定額働かせ放題)

理不尽や不満があっても黙っていてくれるからこそ、ブラック労働や職場の陰湿な虐め、スポーツ界や部活動でのしごきが横行できる。


我が身に刺さるので厳しいが、現在のブラック労働や陰湿な匿名ネット社会全体を作っているその根源が、学校教育である。

自分たちが学校で育ててきた子どもたちが、そういう大人に育ってしまったということである。

理不尽にもじっと耐え、不満があっても口にしないで無思考に従い、溜まった不満は陰口かSNSの匿名投稿で解消する。

(あるいは使う立場に立ち、そういう扱いをする人間である。)

子どもは大人の鏡であるのだから、大人の側が根本的な原因と考えるのが自然である。


つまり学校の「ルールが・・・」「揃えないと・・・」「今までもそうだったから・・・」

という全ての悩みは、全て私たち大人が、自分たちがこれまでに蒔いた種である。

自分たちで蒔いた種から出たものは、自分たちで刈り取らねばならない。

実際の社会と大きくずれた学校独自の「常識」については、今後自ら責任をもって打破していく必要がある。


まずは、これを見かねた世の中の風が後押ししてくれるところに乗ることが大切である。

例えば、働き方改革。

「働かせ方改革」と冗談を言われてしまう現状を変え、自分でも本気で変えようとする。

「今までそうだったから」という不正な労働時間延長の強要に対しては、NOをきちんと職員全体で表明するようなことも大切である。


この時、決して「子どものためだから」のキラーフレーズに騙されてはいけない。

学校で教員ががんばることは、全部子どものために決まっている。

だからこそ教員自身が無理強いされない中で、子どものために心から働けるような健全な職場をつくることが大切なのである。

本当に社会や学校が「子どものため」を考えているなら、もっと人員等を増やすための予算が充てられて然るべきである。

「助け舟は出さないけど倒れるまでがんばれ」は、単なる命令者側の身勝手であり、不当命令に進んで応じて倒れる必要はない。


公的に管理されて成り立っている学校の教員は、「子どものため」を金科玉条に挙げられると、理不尽なことでも声を上げにくい。

しかしながら、今からでも学校の非常識な慣習やルールに疑問をもち、行動に移す人が増えていけば、学校は変わっていくはずである。


「どうせ変わらない」「何もしない」という白票と放棄の選択肢は捨てる。

無駄だと思わず自分も一石(一票)を投じる。

決してあきらめずに自ら動くことで、変わるということを事実で示していく必要がある。 

2021年9月22日水曜日

ルールは不動か

 夏の間、オンラインが中心ではあるが、多くの学習会に出てきた。

各種学習会で共通して話題になったことがある。


学校のあらゆる「ルール」に関する問題である。

「変えたいけど変えられない」という点が多くの悩みの中心になっているようである。

ここの答えは明確で、変えようとみんなが動けば変えられる。


今回はこの点について述べる。

慣例も含めたルールが問題の中心となっているので、まずはルールについて考える。


ルールについては、責任の所在で考えて二つに分けられる。

(便宜上A,Bをつける。)


ルールAタイプは、その集団に属す上で前提としてあるルール。

国民という集団規模でいうと、憲法や法律がその代表格で、予め定められているものである。

会社員や学校などの集団規模で考えれば、雇用契約書、校則など、あるいは入試の要項などに書かれているものである。


その集団に属すにあたり前提として守る義務が生じるタイプのルールである。

ルールの遵守を監督し担保する責任の所在は、集団の各成員ではなく、責任者である。

(成員のルール遵守を促すために、違反に対しては何かしらの罰則規定があることが多い。)


学級だと、学級開きの時に担任が「守りましょう」と示すものがこのAタイプのルールである。

あるいは「夏休みのしおり」に書かれているような、学校が示すゲームセンターや花火の使用等に関するルールなどである。


Aは「トップダウン型」のルールともいえる。

組織の安全保持のためにも必要な大枠であり、これが全くない状態は組織としてあり得ない。


もう一つのルールBタイプは、集団の成員内で話し合って決めたルール。

問題が生じることによって、必要に応じて作るものが多い。

そのルールを担保し守るのは、ルールを設定した全員である。


一般社会だと、労働組合によってできたルールなどはこれである。

「こういう時にはこう動こう」と自分たちの会合でルールを決めて申し合わせをする。

もちろんその組合に入っていない人は知らないし、職場が同じでも対立する立場にある管理職にはそれを守る義務がない。

組合員が自分たちで作ったルールを自分たちで担保する必要がある。


Bは「民主統治型」のルールともいえる。


学級だと、子どもたちの話合いによって作られたルールがこのBに当たる。

私の学級だと、できる際に一言「いつかこのルールをなくせることを目標にするとよい」とアドバイスする。

そのルール設定が生活を快適にするか否かは、子どもたち自身の行動にかかっている。


子どものいる家庭内のルールはAから始まってBに移行していくパターンが多そうである。

生活に関するものやゲーム・スマホ等の使用ルール、お小遣いに関するものなど全てこれである。

家族構成が変わる、または子どもの年齢が上がり成長するにつれて、ルールを話し合って決め直す必要が出てくる。

(昔のように使用人もいる大きな家で、家長が決めている家訓のようなものがある場合はずっとAかもしれない。)


ルールには、ごく大切な前提がある。

ABの両ルールとも共通で、どんなルールも「変更が可能」という点である。


しかし、当たり前に感じていると、これは「変えられないものだ」と思い込んでしまう。

これは誤った前提認識である。

変更難易度に関しては、重要な大枠のAの方がもちろん高く、Bの方が自分たちの手で直接できるので、より現実的である。

(逆に、Aを決められる立場の少数の人にとっては、Bの変更の方が口出ししにくいが、今回は考えないことにする。)


ルールは成員全体にとって不利益が多ければ、自然と強い反対運動が起きて変わる。

変更に至っては署名他の所定の手続きが必要になるが、あらゆるルール変更は集団の総意によって可能である。


そうはいってもそうならないと考える人が大半である。

選挙での投票率の低さがそれを顕著に物語っている。


長くなったのでここまで。

次号でも、ルールが不動でなく、変えていけるということについて考えていく。

2021年9月17日金曜日

二学期の始めは二度目の学級開き

メルマガ上で8月下旬に書いたものを、うっかり時期を外してしまったが、こちらにも投稿しておく。 

私は学級づくりの三原則として

1「安全・安心」

2「ルール」

3「楽しさ」

の3つを掲げている。

優先順位もこの順で、これを提唱しているのがここ10年ほどのことである。


最近は、次のように注釈を加えるようにしている。

1「安全・安心」(信頼できる相手)

2「ルール」(合意形成)

3「楽しさ」(自由と責任)


まず信頼関係からスタート。

これで安全・安心の土台づくりをする。


次に、合意形成の上でのルール作り。

これにより秩序と平和を保つ。


仕上げに、楽しい活動を取り入れる。

これをするには自由と責任が同じ分量だけかかる。

より大きな自由のためには、より大きな責任が伴う。

ちょっとしたレクをするにも、各自がある程度の責任をもてないとできない。

(鬼ごっこを想像するとわかりやすいかもしれない。)


実際は、この3つが順番に何度も繰り返される。

楽しい活動ができるようになったら、更に信頼関係が強くなる。

教師と子どもという関係から、子ども同士の信頼関係へと発展する。

ルールも同様、楽しさも同様である。


学級づくりで勘違いされそうなものを、割ととわかりやすく示しているのではないかと自画自賛している。

学級開きからこの3つの全てを取り入れていくことを提唱している。


2学期の始まりも再度意識して行うことである。

1.再開の喜びを伝える

2.ルールの再確認

3.学校に来てよかったと思える楽しい活動


この辺りが押さえどころである。

二学期の始めは二度目の学級開きだと思って、子どもたちと出会い直すとよい。


ちなみに、過去に書いたここに関連した記事もあるので紹介しておく。

参考:教師の寺子屋 2018.2.18「学級崩壊」=「学級がうまく機能しない状況」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/02/blog-post_18.html


1,2,3のどこをスタートで優先するかは、学級の状態次第である。

何でも始まりには、十分な準備をして臨むことをおすすめしたい。

2021年9月16日木曜日

子育てをシェアする

虐待は、閉鎖的な空間で起きるということを書いた。

逆に言えば、閉鎖をやめて開放すれば、虐待は起きにくくなる。


今、子育てがどんどん閉鎖的になっている。

三世代が同居していた時代に比べて、一人の子どもを見る人数が圧倒的に少ない。

もっと前の、地域全体で子どもを見ていた時代に比べれば、尚更である。


一昔前は、たくさんの人で子どもを育てていたといえる。

母親自身、どうすればいいのか学ぶ機会も多かったはずである。

子どもをある程度放っておいても、色んな人に接する機会があったというのは大きい。


子育ては一人でするものではない、というのは今更言うほどのことでもない当たり前のことである。

しかしながら、実際は一人でやらされているという実態もあるのではないか。

特に母親が一人で責任をもってがんばっているパターンが多そうである。


また、自分自身に子どもはいないけれど、子どもに人一倍愛情を注いでできるという人だっている。

だとしたら、その人が関わった方がよりよく育つ可能性がある。


例えば、里親制度というものもある。

私の住む千葉県ではそれを「菜の花家族」という。

参考:里親制度(千葉県H.P.)

https://www.pref.chiba.lg.jp/jika/jidou/satooya/index.html


児童相談所で保護された子どもを養子縁組として育てる仕組みである。

里親として認定されるまでの壁が相当に高いが、それだけ信頼をおける家庭だという裏付けでもある。

15歳未満の場合は親権者の承諾が必要になるが、15歳以上になると、本人が決められる。


「実の親が育てないのは無責任だ」という意見もあるかもしれない。

しかし、親の責任追及どうこうよりも、その子どもが健やかに育つ権利の方がずっと大切である。

是非を問うとしたら、子ども自身がそれを望むかどうかだけである。


要するに、教育のあらゆる場面において、なるべく子どもを抱え込まずに、みんなで育てる仕組みがあればいい。

幼児期から色んな人が一緒に養育に関わるコミュニティがあればいい。

日本の現行の制度では難しいのかもしれないが、なるべく「我が子」として抱え込まないで済む仕組みである。

「我が子」という言葉自体も、所有している意識がないか十分に注意する必要がある。


ある人が「愚息」という言葉が嫌いだと書いていた。

全くの同感である。

所有している感が強いだけでなく、それを貶めた表現である。

子どもからすれば、はた迷惑な話である。

(類似表現に「愚女・愚妻・豚児」がある。

いずれも所有意識の強いエゴが感じられる、字面からして醜い表現である。)


親などという立場は、子どもがいるから自動的にそうならせてもらっただけのことである。

教師も同じである。

子どもがいなければ、教師も何もあったものではない。


だから、我がもの顔という意識を手放して、みんなで教育すればいい。

本来ならば、学級担任制度もやめた方がいいと考えている。

もっとオープンにみんなで見れば、競争意識も学級崩壊もなくなる可能性がある。

(さらに言うと、機械的に決められる学年というボーダー自体も本来はいらない。)

小学校でも低学年から教科担任制度及び学年担任制度が進めば、今ある苦労はなくなるかもしれない。


所有しないこと。

オープンにシェアすること。

これからの時代の教育はそちらにシフトしていくべきではないかと考える次第である。

2021年9月13日月曜日

色彩知育法と色の与える影響

夏の学習の一つとして、色彩知育法というのを少し学んだ。

これがとても良かったので紹介する。

(きちんと講師の先生にも承諾済である。)


日本子ども色彩協会ブログ

https://kodomo-shikisai.com/bloginfo/blog/2191/


メインは乳幼児教育ではあるが、小学校以降でも十分に活用できるスキルである。

大人向けに講習会があったので、それを体験してきた。


理解がまだかなり浅いが、簡単に言うと次のような力を養うという。


・感じる力

・言葉の力

・自分を信じる力


例えばワーク中に「好きな色を3つ選ぶ」という活動がある。

この3つを選ぶという行為自体が自分の頭を使って判断する活動になる。

どの色を選ぶといいとか、この色はだめとかは一切ない。

文字通り「色々」でいい。


本人が好きな色

使いたい色

心身に必要な色


これらを素直に出して行うことがポイントである。


その色を使って、絵を作る。

ここでも自分の感性と頭を使う。

正解はない。

発表の際には子どもの気持ちに寄り添った、肯定的な声かけを行う。


小学校の授業で図工を行うと、次の言葉がよく出る。


「これでいいですか?」


まさに「正解」が自分の外にあって、そこに合わせて調節していこうという姿勢である。

これをなくしていく必要がある。


この質問には、次のように答える。

「○○というテーマだけど、○○君はこれでいいと思う?」


これで「いい!」と言えばそれでいいし、「ううん」と答えたらそれでやり直すだろう。

自分自身に問えるように「そのまま返す」がポイントである。

比べない・評価しない・できるできないを問わない、が大切だという。


実際のワークは次の流れで行った。


ハミング呼吸

色・言葉のアウトプット

発表・言葉がけ


この日は「きらきら星」を聞きながら目を瞑って2分間ほどハミングをした。

驚くほど頭がすっきりクリアになる。

呼吸法の大切さも体感できた。


脳科学をもとに作られたメソッドであるというから、最初に呼吸法が入る。

「何でハミング?」と思ったが、やってみてよくわかった。

ハミングでゆっくりと一曲歌うと、否が応でも深い呼吸をすることになる。

なるほど納得である。


ここでは、色についても学ぶ。

色にはご存知の通り、波長がある。

赤系は波長が長く、青系は波長が短い。

夕日が赤く染まる理由、日が完全に沈んだ後に、空が青や紫色に染まる理由がそれである。(最後まで届く。)


色はもちろん視覚で感じるが、肌でも感じるという。

色は「波」だからである。

色は直接影響を与えるという。

寝室の色は、寝ている間ずっと波として影響しているということである。


そう考えると、真っ白な部屋、真っ黒な部屋などで育児をすることは、あまり好ましくない。

赤ん坊には視覚以前に色を感じる力があるのだから、様々な色に触れさせる必要があるという。


人格形成にも影響を与えるということで、興味深く学ばせていただいた。


言われてみれば、私は色の名前もあまり詳しく知らない。

名前がわからないということは、認識できないということになる。


例えば「赤系」というだけでも、紅葉色、梅重、海老色など色々にある。

知らなければ、それら色々な色も全部単なる「赤」という括りになる。

語彙力や理解力の発達とも関連するという理由がよくわかる。

色の識別ができるようになったら、人生が色とりどり豊かになるかもしれない。


どちらかというと、育児中のお母さんの受講者が多いようである。

読者の中で当てはまる方がいらっしゃるようなら、一度受けてみるのもいいかもしれない。

2021年9月11日土曜日

「女性に対する暴力の現状と課題 」から児童虐待を考える

 前号に引き続き、児童虐待について。


家庭に長くいる夏休みのような時期は、児童虐待を受けている子どもにとっての地獄である。

感染症防止のためにステイホームが呼びかけられ始めた昨年、大きく話題に上がったのが記憶に新しい。


今も、地獄のような毎日に怯えて暮らしている子どもが、日本中だけでなく世界中に確実にいる。

これらの子どもを救うには、関心をもつことがそのスタートである。


この「虐待」という場合、何かあった時に体罰や暴言を吐いたというレベルで留まらない。

「虐め(いじめ)」+「待(=継続的、習慣的にあしらう)」である。

継続的、日常的に虐げられている状態を指す。


虐待の起きやすさは、閉鎖性がポイントである。

オープンな空間では起き得ない。

オープンな空間だと「待った」が外から入るからである。

必ず、閉鎖的な空間で起きる。


学校でも、閉鎖性が強いと虐待は起き得る。

閉め切った教室内で、一人の大人だけがずっと子どもを見ている場合である。

つまり、小学校の学級担任制は、幼稚園のオープン保育や中学校以降の教科担任制に比べ、実は虐待リスクを孕みやすい仕組みである。

(これは部活動においても同じである。)


この小学校で当たり前になっている学級担任制度については他にも何かと問題点が多く、具体的な対応をして変えていくべきだと私は考えている。

教科担任制の推進は大変有効だが、予算を考えると現実的でない。

私としてはいずれ、学年全員で交代して全学級をみる「学年担任制」の方を推進したい。


職員室が閉鎖的だと、職員内での虐待も起き得る。

閉鎖的な空間という点では、想像の域を越えないが庁舎などでもそうなのかもしれない。

会社内やその部署内などでもそうなのかもしれない。

つまり、どこでも虐待は起き得るということである。


そして、最も閉鎖的で密な空間は、家庭である。

虐待は、家庭内についてが圧倒的に最も起きやすい。

家庭内には、外から一切が入れないからである。


今回取り上げたいのは、その中の夫婦間のDVである。


次の最新資料が参考になる。


「女性に対する暴力の現状と課題 」令和3年8月 内閣府男女共同局


PDFスライドのP.5に次の分析がある。

・暴力のいずれの行為も、女性の方が被害経験者の割合が高い

・女性の約4人に1人は被害経験があり、約10人に1人は何度も受けている


さらに、次の分析も重要である。

・特に女性は、「経済的不安」や「養育しながら生活していく自信がなかったから」の割合が高い


経済的にも依存していると、精神的にも依存が起きやすいようである。

それにより、相手に全てを支配され、奴隷のようにされるという恐ろしい構造である。


次のことも記されている。

・子供のいる被害女性の約3割が、子供への被害経験も認識


妻が虐待を受けていると、子どもも被害を受けている可能性が高いということである。

より弱い子どもにも牙が向くのは、それが心の弱い人間だということを考えれば、さもありなんというところである。

全体の1割の中の3割なので、0.1×0.3=0.03 つまり、全体の3%の子どもが少なくとも被害を受けているといえる。

35人学級で1人という割合である。

つまり、クラスに虐待を受けている子どもが一人もいないと考える方が不自然ということになる。


この内閣府の資料は、本当に大切なことが端的に示されている優れた資料である。

最新のものであるので、一度リンクをクリックして各データスライドのタイトルだけでも目を通しておくことを強くおすすめしたい。

(再掲) 

https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/pdf/kadai.pdf


なぜ夫婦間DVを先に取り上げたかというと、結局それが子どもへの虐待のきっかけになりやすいからである。

根本であるここを解決することで、子どもへの虐待を未然に防げる可能性が高まる。


さらに先の「10人に1人は何度も被害を受けている」というデータを改めて考えてみる。

これはつまり、誰しも自分の担任している子どもたちの内の1割の家庭に、夫婦間DVの可能性があるということである。

35人学級だったら、クラスの3~4人の子どもの母親は、虐待されている可能性があると見る。

あくまで平均データ上の確率論だが、どこでもそのように疑って見るのが公平であり妥当なリスクマネジメントの考え方である。

単に「あるけれど見えていない」だけと考えることである。


さらにそれを考えると、その親たちのストレスのはけ口を誰が受けているのかということである。

つまり、もし担任であるあなたがそれを受けているのだとしたら、自分のこと以外にも色々と考えるべきことがある。

児童虐待を考える上で、先に夫婦間DVの問題に関心をもつべきという提案は、そのためである。


夫婦間DVの問題は、児童虐待問題における大きな要因の一つである。

しかしながら、それが要因の全てではない。

他にも児童の発達特性への無理解やLGBTQ等の個性への無理解、貧困問題など、とにかく多様で複雑で根深い。


長期休み明けに担任がすべき仕事の一つは、この児童虐待へのリスクマネジメントの視点をもって冷静に見てみることである。

長期休み明けは子どもの様子の変化を観察することが何よりも重要であり鉄則である。

(だから本来、宿題チェックなどというどうでもいいことをしている場合ではない。

夏休みの宿題が手枷足枷になっているようでは本末転倒である。)


子どものため、本当に為すべき仕事に集中したい。

2021年9月9日木曜日

『52ヘルツのクジラたち』から児童虐待と学校のできることを考える

 次の本を読んだ。


『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ 著 中央公論新社


2021年本屋大賞の第1位で、どこの書店にも平積みされている本なので、見かけた人も読んだ人もいるかもしれない。

虐待児童、家庭内DV、LGBTQへの無理解といった社会問題を正面から取り上げている。

(そしてこれらの問題は全て根っこが繋がっているということもよくわかる。)


この本は教育関係者、特に小学校の担任は読んでおいて損はないように思う。

文学作品としての良さだけでなく、教育書以上に教育の在り方について考えさせられる本である。


この作品中に、虐待を受けていた主人公を小4で担任した教師への痛烈な批判がある。

自分を救おうという純粋な思いから、保護者に婉曲に「うまく」注意したつもりの担任。

親は注意を受け入れたように見せ、そこからは、学校に見えないように虐待がますますエスカレートしていく。


この親は、娘が担任に相談したのだと信じ込み、二度と絶対に逆らわないように、更なる凄惨な虐待による洗脳を行う。

学校では、きちんとアイロンをかけてもらった制服(実は子ども自身がやっている)を着るようにさせる。

親の対応が良くなったように振舞う主人公。


それを見て「よかったじゃん」

「(お母さんはあなたを)大好きなんだよ」

という担任の顔に

「唾を吐き掛けたくなった」というくだりがある。


学校ではよく「先生に何でも相談していい」という。

しかし、例えばいじめの場合が特に顕著だが、子どもはそれをまず教師には言わない。

頑なに「何でもないです」「大丈夫です」と拒み、否定する。

下手な対応をされると、いじめがより巧妙に、より激化するからである。


これは、対保護者でも同様である。

何か問題があった時に「お母さん(お父さん)には絶対に言わないで!」

と子どもが懇願してくる場合、その家庭では失敗に対し、かなり厳しい「お仕置き」が待っている可能性がある。


学校の教師の中途半端な正義が、子どもをより苦しめることがある。

しかしながら、かと言って見過ごすわけには絶対にいかない。

これは、かなり深く考えるべき事柄である。


また作中に出てくる「いい先生」に対して「育てやすそうな子だけ可愛がっている」と指摘する。

この教師への指摘は、この作中に出てくるあらゆる親に対しても当てはまる。


虐待されている子どもは、生半可なことでは助けられない。

そして、虐待されている子どもは、何がなんでも助けねばならない。


社会全体で、児童虐待への関心をもっと高めていくべきである。

同時に、家庭内DVへの問題への関心も高めることである。

夫婦間等の家庭内DVの鬱憤を、子どもへのDVや育児放棄として晴らしているという負の連鎖があるためである。


このような問題提起のある作品が一般に大ヒットしたということは、社会的意義がある。

児童虐待をなくしていくための取り組みについて、学校現場に働く人間としてはもちろん、書籍等を通じてでも行っていきたい。

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