前号の、ルールや現状をどう変えていくかということの続き。
ここにおいて「世論」というものの力は強大で、法律改正といった大きな動きの後押しにもなる。
現状ルールにおいて既得権益者の立場にある者は、従わせている相手に騒がれ動かれるのを嫌がる。
これは、選挙を例に考えるとわかりやすい。
日本の選挙における投票率の低さは、「日本の政治が変わらない」ことの中心的要因である。
当たり前に聞こえるが、なぜそう言えるのか。
「今の社会を変えたいなら白票や投票放棄は絶対にダメ」
この今更な言葉の理由を、子ども時代から論理的に理解していれば、必ず投票率は上がる。
この論理の仕組みこそが、小学校レベルで確実に教えるべきところである。
なお今回紹介するこのロジックについては、私見ではなく以下の本からである。
(『自分の頭で考える日本の論点』 出口 治明 著 幻冬舎新書 )
しかし、この仕組みを日本ではきちんと教えてこなかった。
よって投票率は世界平均より大幅に低く、特にこれからの社会を担うべき若年層の投票率は散々なことになっている。
意図的なのかもしれないし、上に逆らわず黙って従うことを覚えてきた必然の結果なのかもしれない。
「選挙に行かない」ということ、あるいは白票を投じるということ。
恐らく「どうせ誰に入れても変わらない」「自分の一票なんて」という思いからである。
あるいは、単に面倒だからである。
面倒になるのも「どうせ・・・」の自己無力感がそうさせている。
白票や投票放棄の実効的な意味は、単なる選挙権の放棄に留まらない。
既存の有力候補者(多くの場合既得権益者)への投票と同じになる。
つまり「今のままがよい」という状態を強力に肯定して推進する原動力になる。
ここが一番知るべきポイントである。
なぜそう言えるのか。
既得権益者には「組織票」などの先に決まっている票(固定票)が誰よりも多くあるからである。
大きな組織に属しているほどここへの依存度が強い。
逆に言えば、固定票以外の浮動票が減れば減るほど、既存の固定票をもつ者が当選しやすくなる。
これは選挙を採用している場なら世界共通の原理原則であり、あらゆる縦割り組織にもそのまま言える。
だから既得権益者にとっては「全体の投票率を上げさせない」という方向に有権者を導くのが正しい戦略になる。
「選挙なんか行ってもどうせ変わりませんよ」「あなたの一票は無力だしムダですよ」
と思わせ、現状を変えたいと不満をもって動く「邪魔な人」に対しては、黙って動かずいてもらうのが最も都合がいい。
(特に若年層の票は高齢者と違ってかなりの浮動票なので、脅威になりやすい。)
今、法を変えられる有利な立場にいる人たちが、本気で全体の投票率を上げようとするかどうかである。
ネット利用などでもっと若者が積極的に選挙に参加できる手段はいくらでもとれるはずである。
現状その方策はまず採用されないと思ってよい。
子どもたちに主権者教育が絶対に必要な所以である。
(今回の学習指導要領改訂で文科省の出した方針の中でも、ここを前面に打ち出したことは特に素晴らしいと思う。)
毎回30%程度と最も投票率の低い20代と30代の投票率が、倍になって高齢者と同じ水準まで上がれば、日本は確実に変わる。
年をとってから選挙に行くより、若い時に行った方が断然自分の人生にインパクトがあると強く教えるべきところである。
「どうせ自分には世の中は変えられない」と選挙権を放棄する。
これは実は、知らない内に「こんな世の中」を作っている現状維持を強力に支持してしまっている。
国民の大多数が何がなんでも選挙に投票するようになると、この国は確実に変わる。
(ただし、「愚衆政治」などと揶揄されるように、国民レベル自体が低いと、民主統治はよりひどい結果を引き起こすようである。)
集団が騒がない限り、現状ルールは「集団に喜んで受容されている」とみなされる。
つまり、変えたい場合は、集団で不満の声を上げて実際に動く必要がある。
学校現場で言うと「不満だけど黙っている」「変なルールだけど変えようとはしない」ということが多々ある。
教員にその姿勢があるから、子どもにも同じようにある。
現状に不満がある時は自ら動いていいと言っても、動かない。
これは即ち「現状維持への強力な支持表明」である。
ある集団において、みんなで黙っている以上、みんなでそれを肯定しているのと同じである。
それこそが、既得権益者の望む姿であり、「理想的な奴隷」の姿といえる。(=定額働かせ放題)
理不尽や不満があっても黙っていてくれるからこそ、ブラック労働や職場の陰湿な虐め、スポーツ界や部活動でのしごきが横行できる。
我が身に刺さるので厳しいが、現在のブラック労働や陰湿な匿名ネット社会全体を作っているその根源が、学校教育である。
自分たちが学校で育ててきた子どもたちが、そういう大人に育ってしまったということである。
理不尽にもじっと耐え、不満があっても口にしないで無思考に従い、溜まった不満は陰口かSNSの匿名投稿で解消する。
(あるいは使う立場に立ち、そういう扱いをする人間である。)
子どもは大人の鏡であるのだから、大人の側が根本的な原因と考えるのが自然である。
つまり学校の「ルールが・・・」「揃えないと・・・」「今までもそうだったから・・・」
という全ての悩みは、全て私たち大人が、自分たちがこれまでに蒔いた種である。
自分たちで蒔いた種から出たものは、自分たちで刈り取らねばならない。
実際の社会と大きくずれた学校独自の「常識」については、今後自ら責任をもって打破していく必要がある。
まずは、これを見かねた世の中の風が後押ししてくれるところに乗ることが大切である。
例えば、働き方改革。
「働かせ方改革」と冗談を言われてしまう現状を変え、自分でも本気で変えようとする。
「今までそうだったから」という不正な労働時間延長の強要に対しては、NOをきちんと職員全体で表明するようなことも大切である。
この時、決して「子どものためだから」のキラーフレーズに騙されてはいけない。
学校で教員ががんばることは、全部子どものために決まっている。
だからこそ教員自身が無理強いされない中で、子どものために心から働けるような健全な職場をつくることが大切なのである。
本当に社会や学校が「子どものため」を考えているなら、もっと人員等を増やすための予算が充てられて然るべきである。
「助け舟は出さないけど倒れるまでがんばれ」は、単なる命令者側の身勝手であり、不当命令に進んで応じて倒れる必要はない。
公的に管理されて成り立っている学校の教員は、「子どものため」を金科玉条に挙げられると、理不尽なことでも声を上げにくい。
しかしながら、今からでも学校の非常識な慣習やルールに疑問をもち、行動に移す人が増えていけば、学校は変わっていくはずである。
「どうせ変わらない」「何もしない」という白票と放棄の選択肢は捨てる。
無駄だと思わず自分も一石(一票)を投じる。
決してあきらめずに自ら動くことで、変わるということを事実で示していく必要がある。