2021年2月27日土曜日

子どもと安易に「約束」をしない

 前号の続き。

教育現場における信用と信頼の違いを意識する大切さについて。


前号はほぼ説明で終わってしまった。

実際に教育現場でどのようにこれらを使い分けるかという話。


やりがちな失敗から。


例えば、何かとやんちゃなAという子どもが、何か失敗したとする。

何度注意しても、ルールを守れないとか、お友達に暴力をふるってしまうとか、そういう類のことである。

あるいは、宿題をやってこなかったとか何でもいい。

(それ以前に、根本的にその大量の宿題そのものをなくせば早いのにと、私はずっと言ってきてはいるが。)


この時に

「次はしないって約束できる?」

という指導が入ることがある。

これは結構、危険である。


これは、子どもとの「信用に基づく取引」である。

「ゆるす」代わりに「もうしない」という約束を取り付ける。

この契約は、契約終了時(せめてその年度内)までに無事に履行されそうか。


恐らく「否」である。

Aという子は「何かとやんちゃ」なのである。

過去数年に渡り数多の「約束不履行」を連発しているため、「信用」はできないはずなのである。


そこに敢えて無謀な「契約」を持ち込む。

「とりあえずこのままだと会社に帰れないんで、ここにハンコかサインを」的な、一時しのぎの契約でしかない。

やがて契約破棄されるであろうことは、目に見えている。

一般社会なら、あり得ない契約である。


こういう子どもを相手に、安易な「約束」などは持ち込まない方がいい。

子どもからしても「いや、今までの自分からして、どう考えても無理です。約束できません。」

とはなかなか言えないはずである。


下手に「約束」をしても、結局破ることになる。

子どもは「また約束を破ってしまった。どうせ自分なんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

教師は「また約束を破られた。どうせ私の言うことなんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

永遠の悪循環ループである。


本来ここで用いるのは、条件付きの「信用」ではなく無条件の「信頼」の方である。

「次は大丈夫だと信じているよ。」

これだけである。

指導者側が、主体的に勝手に信じるしか、道はない。

子どもからすれば、できない約束をする義理なぞないのである。

ただ、親子関係と同様、無条件に信じてもらっているという感覚だけは、必要である。


私はよく自分の学級には「敗北宣言」をしておく。

こちらに子どもを「ゆるさない」という選択肢はない、ということを予め伝えておく。

どんなに悪いことやひどいことをしようが、必ずゆるす。

こちらには「きっとよくなる」と信じるしか道はないのである。


「ゆるしません」と口で言っても、それは気持ちの上で言っただけで、実際にはゆるすという一択しか道はない。

「先生」の方が一見強い立場に見えるが、実際はこちらの言うことを聞き入れてもらわないと、全く仕事にならないのである。


子どもと教師の関係というのは、「信用」は脇に置いておき、最終的に信頼によるしかないのである。

これは、親子関係にも言えるのではないだろうか。


我が子を全面的に「信用」できるか。

つまりは、約束をきちんと守り、こちらの望む通りに品行方正に動いてくれるということである。

多くの場合、かなりきわどいのではないかと思う。


自分の子どもは、信用できないかもしれないが、信頼するしかない。

脇道にも逸れるし、だらしないしいい加減だし真面目に勉強もしないし、しかも上手くやろうと誤魔化してずるい。

(まるで親の自分に瓜二つである。)

それでも、失敗も多いし全然思うようになってくれないけれど、きっとうまくいくと信じる。


「あんたはずるいしいい加減だし、だいたい育ててもらっておいて、◎△$♪×¥●&%#?・・・」

と、どんなに腹が立ってまくし立てても、結局は親の敗北ということだけは決定事項である。

心の中で密かに「敗北宣言」をしておき、「ま、仕方ない」とあきらめる(=明らかに認める)しかないのである。


さて、このような場合は信頼しかないとして、学校では「信用」が必要な場面も多々起きる。

どのように子どもを「信用」していけばよいのか、あるいは教師の側がどのような手順で「信用」されていくのか。

ここについては、次号に続く。

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