2016年4月29日金曜日

まぐまぐの「知識知恵・人生哲学」部門で受賞しているメルマガらしく、哲学の話。

最近、「円」についてよく考える。
円とはいっても、お金のことではない。
「〇」の方の円である。

多分、ここしばらく、禅関係の本を読んでいるからだと思う。
禅の心を形で示したのが〇(円)である。

いっそ、「凹」「凸」のように「〇」という漢字にしてしまえばいいと思った。
ちなみに「国」等の漢字の部首である「□」(くにがまえ)は、「円」と近い意味である。

しかし、最近、はたと気付いたのである。
「円」という字をよく見ると、部屋が二つに分かれている。
それぞれの部屋に、真逆のものがおさまっているのではないか。

善と悪。
権利と義務。
労働と対価。
勤労と奉仕。
代償と成果。
男と女。
親と子。
生徒と教師。
私とあなた。
・・・・・・・

眺めてみると、逆のようで、本質は同じである。
コインやお札の裏表と同じである。
裏表セットでないと、機能しない。
多くの場合、分ける意味もない。

この「裏表」(うらおもて)という言葉も、辞書で引くと面白いことがわかる。
「表裏」(おもてうら)より「裏表」の方が、辞書の登録数が多い。
私の手元の電子辞書では、
「裏表」は5つの辞書で表示されるが、
「表裏」は明鏡国語辞典ただ一つの結果である。

試しに、パソコンで変換してみても、
「裏表」は一発で単語として変換されるが、
「表裏」は、一文字ずつの変換である。

「うらおもて」は、訓読みである。
和語である。
つまり、日本では「裏」が「表」より先にくる。
「表裏」(ひょうり)は漢語である。
こちらは、表が裏より先である。

どちらが先に来るかということは、結構重要なポイントである。
大切と思われる方が、先にくる。
意図されている。

しかし、「円」の前において、それは無意味である。
円には、上下左右もない。
ただ巡り巡る円である。

そう考えると、「円」という字に二つ部屋があるのは、はたと気付かされる面がある。
二つで円、というメッセージが伝わってくるように思ったのである。

自分のやっていることも、目の前の子どものやることも、それぞれの円である。
自分自身が、いびつな円になっていないか、俯瞰して見る目を持ちたい。

2016年4月27日水曜日

問題を知る、見つめる

3月11日にメルマガで書いた記事。
====================
東日本大震災から丸5年。

喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、まだ過ぎていない。
見ていないだけである。
問題が目の間にあるのに、目を逸らしているだけである。
見ていないというより、見て見ぬふりをしているといった方が正確である。

改善された地域、立ち直れた人がいる一方で、何も変わっていないところもある。
福島の原発周辺がそれである。
手が付けられない状態は、ずっと変わっていない。
原発の放射能問題ははっきりと残ったままである。
都心部周辺に住んでいると、復興したかのような錯覚を覚える。
現実は、復興とはほど遠い現状である。

正直、自分の力では、どうにもできない。
目の前にある問題に対し、手も足も出ない。
原発問題に限らず、日常にも起きることである。

自分にはどうにもできないからといって、自分にも関わる問題を見ようとしないのは、解決から最も遠ざかる在り方である。
主体的で協働的な人間の在り方とはいえない。

まずは、知ること。
そして、改めて見つめ直すこと。
誰にでもできることである。

今日は、震災と現状について知り、見つめ直す日にしたい。
=========================

この記事を書いた時、熊本の地震が来るとは思っていなかった。
まずは知ること。
その上で、できることを考える。
今は熊本に目が向くが、福島も未解決のままである。
今後も被災地には関心を注いでいきたい。

2016年4月25日月曜日

「売り方」より「在り方」

どう売るかは、大切である。
どんなにいいモノであっても、知ってもらわねば人の手に渡らない。
経済用語で「マーケティング」などというが、ここはあながち軽視できない。
宣伝はしっかりして、まずは人々に知ってもらう必要がある。
(という訳で一応宣伝。ぜひご一読いただきたい。)
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

しかし、それ以上にもっと大切なのは、その商品の内容そのものである。
宣伝してせっかく買ってもらっても、内容が悪ければ、トータルでマイナスである。
それなら、買ってもらわない方がよかったということになる。

つまり、「売り方」以上に「在り方」である。
本でいうなら、ロングセラーのものは、在り方、つまり内容そのものがいいのである。

これは、授業やその他の指導にも当てはまる。

教材の提示の仕方から、指示、発問の仕方、活動内容まで、どう教えるか。
これは、先の話でいうと、「売り方」にあたる。
そもそも興味を持ってくれないと、話が進まないのだから、大切である。

一方、それはどんな人物が教えているのか。
本気で、その教材のどんなところが良いと思って授業しているのか。
普段どんな言動で、どんな感じ方をしているのか。
これは、先の例の「在り方」にあたる。
教え方の技術があっても、こっちがなければ、言葉に重みもない。
逆に、教え方は割と普通でも、子どもがよく育つクラスは、教師の人間性が優れている可能性が高い。

先日、私の尊敬するあるベテランの先生に会って、道徳の授業について話す機会があった。
この先生のクラスの子どもは、毎年ものすごく元気になって、自発的になって、いきいきするのである。
さらに、礼儀正しくなって、根性がついて、人に優しくなる。
ついでに、悔しいことに、学力も体力もばっちりつく。
まあ、無敵である。
さぞ道徳の授業にも力を入れているかと思いきや「実は、かなり適当で・・・」とのこと。

しかし、私は知っている。
この先生は、普段から、めちゃくちゃ熱いのである。
まず、いつもニコニコしている。
そして、これでもかというぐらいよく褒めたり驚いたりする。
職員室でもそういうことを嬉しそうに話すので、子どもが本当に好きだとよくわかる。
(ついでに、学年の仲間など周りの職員に対してもめちゃくちゃ感謝して、いつも褒めている。
「陰口」ならぬ「陰褒め」もよくしている。)
上っ面でなく、子どものやることに本気で感動しているのである。
そして、悪いことをするとかなり怒る。
本気で怒る。
しかも、すぐ泣く。
感動しても泣くし、子どもが悪いことをしてもその行為を哀しんで一緒に泣く。

こうやって文字にすると、感情的でダメだという見方をするかもしれないが、ご本人を見れば恐らくその感想はなくなる。
教え方以上に、教師としての「在り方」が違うのである。
だから、ご本人曰く「適当」な道徳授業でも、かなり芯のある子どもに育つ。

在り方。
どう在るのか。
背中である。
技術は無論大切だが、そこではないところに、本質があると思う次第である。

2016年4月23日土曜日

被災地に何を送るべきか・送らないべきか

熊本で、支援物資が届かなくて困っているという。
一方で、どうでもいいものを送られて困っているという実態もある。
物流には、配送や備蓄場所という要素があることも考えなくてはいけない。

東北の被災経験のある方の話だと、「なるべく新しいものを」とのこと。
賞味期限切れの食べ物やぼろぼろの古着など送られても困るだけでなく、気持ちも滅入るという。
被災地の人の心が暗くなるようではいけない。
リサイクルショップに物を持ち込む感覚では逆に迷惑ということである。
「自分がもらって嬉しいもの」である必要がある。

送るものは、物資だけでなく気持ちも含まれる。
その物資を受け取った時、被災地の人が少しでも明るい気持ちになることが大切である。

また、これは原田隆史先生のメルマガで知ったことだが、「なるべく同じものをまとめて送る」というのも大切なポイントであるという。
良かれと思ってあれもこれもと思い付くままに段ボールに詰めて送ると、受け取る側に「仕分け」という余計な作業が入る。
負担なくできるように、同じ物資をまとめて送るのが正解という。

ともあれ、現場は混乱の様相である。
直接助けに行くことが逆に足手まといになることもあるというから難しい。

躊躇しすぎるのはいけないが、その支援は本当に相手に助かるのかという視点も大切である。
教育にもいえることであると思う。

2016年4月21日木曜日

「何のため」にそこに行くのか

先月、苺狩りに出かけた。
今、千葉県の南房総では、苺狩りがシーズンである。

苺狩りというのは、結構値が張る。
苺というのは可食部の90%が水分であり、そんなに多量に食べられるものではない。
(そして、どんなにお腹いっぱい食べても、別に食事はしたくなる。要は、ほぼ水なのである。)
単純に値段に対し食べられる量としては、割がいいとはいえない。
それでも多くの人で賑わうのは、それが「レジャー」としての価値が高いからである。
苺のハウスに入っておいしそうなものを選びながら、その場でもいで食べるのが、無条件に楽しいのである。

ある子連れのご家庭が一緒のハウスにいた。
苺狩りでテンションが上がり、当然はしゃぐ子どもたち。
その行動の逐一に母親が怒っている。
機嫌が悪いとしか思えない怒り方である。
苺狩りで子どもが喜んでいなかったら、その方が残念だと思うが、そこは怒ると気付かない。

苺狩りで、怒っているのである。
気持ちはわかるのだが、これは、目的からすると、かなり逸脱している。
お土産用の苺を買って帰った方が費用対効果がよい。
しかし、世の中そんなに論理的にはいかないので、とにかく怒って苺狩り。
それでも子どもは楽しそうだったので、レジャーに連れ出した父親としてはOKだったようである。
(そもそも、その母親が怒っていたのは父親のせいではないかとか色々邪推できるが、ここでは不明。)

苺狩りに限らず、どこに行くにも「何のために」を考えることは大切である。
こういうことを考えるのが「観」の発揮どころである。

教師は、学校に「何のため」に行くのか。
学校は、言わずもがな子どものための機関である。
そこに行く大人たちは、子どものために何かをしにいく。
何かを為して、成さねば行く意味がないのである。

少なくとも、疲れにいったり怒りにいくのではあるまい。
学校は、子どもと共に喜ぶ場でありたい。
今日は何に一緒に喜べるか、想像してみるのもいいかもしれない。

2016年4月19日火曜日

子どもが嘘を正直に告白した時には

子どもの嘘への切り返し。
これは、かなりその人の「観」が現れる。

今回は拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』からの引用である。
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

========
(引用開始)
 前述した「人が傷つく嘘をつくことはいけない」というのは,決して教えられることではなく,本人が感じ学びとるものだというのが私の実感です。

私が子どもの頃のエピソードです。
母が,「500円玉貯金」というものをしていました。
500円玉をある程度ためて,それを銀行に積んでいたようです。
銀行に入れる前に,一時保留されているカゴがありました。
当時小学2年生だった自分にとって,500円は大きな価値と魅力がありました。
ある日,出来心でその500円玉をとってしまいました。
1枚とった後,2枚,3枚ととった記憶があります。
(そもそも,そこにそれを放置しておくのがどうかという問題は脇に置いておきます。)
ところがしばらくして母が「あれ。何か少ない気がする。」と言いました。
良心が痛んだ自分は「お母さんごめんなさい。僕がとった。」と正直に言ってお金を差し出しました。
悪さをした時には厳しい親だったので,無茶苦茶怒られるのは覚悟の上です。

母の反応は,意外にも「正直に言ってくれてありがとう」でした。
「きちんと言ってくれる子どもに育ってくれて嬉しい」とも言ってくれました。
それ以来,手の届く位置にお金が置いてあっても,決して手をつけなくなりました。
何か「盗みやずるはいけない」ということが,言われずに体に染みこんだ気がします。
もしあの場で,無茶苦茶怒られても,決して怒られたことを恨んだりはしなかったとは思います。
ただ,もしかしたら,言ったことを後悔したかもしれないとも思います。
結構いい加減なところも多い母親ですが,いい教育をしてくれたと今でも感謝の気持ちを持っています。
(引用終了)
================
本の中に、コラム欄がいくつかある。
これは、「切り返し」ではないけれど、ぜひ載せたいと思った記事を何とかコラムという形で載せてもらったものである。
コラム欄がわりと気に入っている。
立ち読みする際には、短時間で完結するのでここだけでも読んでみていただきたい。

2016年4月17日日曜日

教育においての温故知新と不易流行

4月の最初に、素晴らしい良書を紹介した。
年数が経っても売れているものというのは、本物である。

例えば向山洋一著『授業の腕を上げる法則』などは、いわずもがなの大ベストセラー。
理由は、真の良書だからに尽きる。
こういった良書をきっかけに本を読み始めたという人の数は計り知れない。

先月、岩瀬直樹氏がフェイスブック上で、次の本を紹介していた。

『9日は学級記念日です (シリーズ・ドラマのある教室) 』1988年刊
園田 雅春 著, 灰谷 健次郎 解説
http://www.amazon.co.jp/dp/4181316041

この本が、またいい。
灰谷健次郎氏をもってして
「ありきたりな児童文学など足もとにもおよばない人間ドラマ」といわせしめる文章である。
教育書というより、完全にドラマ、読み物である。
こんなにもドラマチックな学級経営をする人がいるのかと、驚嘆させられる。
何というか、自由な空気が満ちている。
前にも書いたが「園田雅春」という著者の名前通り、まさに春の優雅な田園風景である。

そして、内容は、やはりアクティブ・ラーニング。
そんな用語など全く存在していなかった時代に、能動態による協同学習が完全に実現されている。

温故知新と不易流行。
今は過去の延長上にある。
しかしながら、今が過去より優れているかというと、そうとも言い切れない。
不易と流行をぐるぐるしている、いわば「円」のようなものである。

新しい教育書を読むのは、当然必要である。
しかし、同時に、数十年前の古い良書も併せて読むことで、より深く内容を理解できるのではないかと思う次第である。

(併せて、宣伝。
拙著がアマゾンの学級経営部門で相当に売れ行き好調である。
この機会にぜひ。

『新任3年目までに知っておきたい ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』 

http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

2016年4月13日水曜日

教師が答えられない質問をしてきたとき

いくつか前に「次号に続く」といっておきながら続いていなかった。
書くといった責任をもって、その話の続き。

切り返しの技術は、「観」による。
これは、ハウツーではない。
子どもをどう見ているか、教育をどう考えているかである。

例えば3章に、授業中「教師が答えられない質問をしてきたとき」の切り返しがある。
このメルマガを読み続けてきた人なら、私がどう切り返すか知っていると思う。

さて、自分なら、どう切り返すだろうか。
勿論、その時の状況や子どもにもよるのだが、基本の返し方を持っている方がよい。
基本があってこその応用である。

この基本が、観によって決まる。
つまり、「子どもの質問に答える」ということの、根本・本質を考えることになる。
そもそも、なぜ教師が子どもの質問に答えねばならないのか。
さらに言うと、「質問」というのは、答えを知らない者が知っている者に対して行う。
そう考えると、何でもかんでもやたらに質問をしてくるというのは
「教師は何でも知っている」「教師は答える義務がある」という考えが前提にあると導き出される。

この前提が真がどうかをまず疑う。
普通に考えて、これは真ではない。(何でも知っている訳がない。)
では、どこから間違っているのか。

質問をする子どもは、教室に何をしに来ているのか。
「学習」である。
平たく言うと、賢くなりに来ているのである。
つまり、教師は授業を通して、子どもを賢くする必要がある。

そこで、どういう子どもが賢いといえるのか考える。
単に知識が豊富な子どもは賢いといえるのか。
否。
頭でっかちで動かない人間は賢いとはいえない。
知識を活用していく力を持つ子どもこそ、「アクティブ・ラーニング」の姿である。
「わからない」→「人にきく」のサイクルだけを「学習」と捉えていては、自ら学ぶ力があるとはいえない。

そういう考えを持つと、質問への切り返し方が決まる。
そもそも、教師が答えられないほど難しい質問を考えられること自体がすごい。
「天才的」である。
そこを生かさない手はない。

今回の本にある「切り返しワード」は、一つ一つに、そのような根拠がある。
「切り返しワード」以上に、その根拠の「観」をこそ伝えたい。

一つ一つの切り返しは「正解」ではないかもしれない。
それでも、私なりの「観」を通した根拠がある。
本書を通して、よりよい自分だけの切り返しを考えていただければ、何より嬉しいことである。

2016年4月11日月曜日

危険は忘れた頃にやってくる

前々号の続き。

学級の重要な3つの要素である「楽しさ」「ルール」「安全・安心」の内、1つだけがない状態。
これが、実際の学級では結構多く見られる状況である。

Aルールがしっかりしていて、安全・安心だけど、つまらない学級。
B安全・安心で楽しいけど、ルールはない学級。
Cルールもしっかりしていて楽しいけど、安全・安心ではない学級。

Aの学級では、子どもがきちんとするが、覇気が無い。
言うことをよく聞く分、指示待ちも多い。
基本が「パッシブ・ラーニング」状態である。
「きちんとやろう」とするとなりやすい。
また「崩さない」ことを重視した学級経営を目指すとなりやすい。
一年間何事もなく過ぎるが、溜めた分、次の学年で爆発する可能性を秘めている。
また「前の〇〇先生はやってくれたのに」という甘やかされた考え方を持つことも多い。

Bの学級は、騒然としているが、クラス内では何かうまくいっている。
共通理解されたルールがない分、問題が起きた時は担任に依存している部分が多い。
「仲良くやろう」とするとなりやすい。
また「自分の学級さえ楽しければいい」という考えだとなりやすい。
担任との結びつきが強く、ルールを担任に依存している分、「前の○○先生の時は許してくれたのに」がよく出て、これも引き継いだ後に苦労する可能性が高い。

Cの学級は、一見良いクラスである。
しかし、裏で結構問題が起きている。
表面的には楽しく仲良くしているため問題が見えにくく、担任も気づいていないことが多い。
こちらは、5年目から10年目あたりの、少しばかり自信を持ち始めた教師の学級に多い。
引き継いだ後で、実は問題があったことを前担任が知るという痛いパターンである。
(このあたりの失敗については、
『思春期の子どもとつながる学級集団づくり (学級を最高のチームにする極意)』赤坂真二編著
http://www.amazon.co.jp/dp/4181858243
に詳しい。私の大失敗体験談を暴露してある。)

何が言いたいかというと、経験を積むと、最重要の「安全・安心」の面を落としやすいということである。
慣れてきた時が一番危ない。
「危険であることを忘れない内は安全である」とは、紙雷管(火薬)の箱に記載された名言だが、まさにそれである。

平和であることを当たり前だと思わない。
過信は慢心を生み、転落につながる。
安全・安心は「タダ」じゃないのである。

そして、3つの要素はリンクする。
サッカーなどのスポーツを考えるとわかりやすい。
安全・安心には、ルールと楽しさが必要となる。
ルールが、安全・安心と楽しさを保証し、その二つがルールを守ろうということにもつながる。
楽しさは、ルールと安全・安心の上に立つ。

3つがそろった学級に日々近付くことを目指したい。

2016年4月9日土曜日

「右に出る者はいない」の右左の謎

「まぐまぐニュース」に私の以前書いた次の記事が載っていた。

「右に出る者はいない」は誰から見た右?意外と知らない右左の話

http://www.mag2.com/p/news/161466

読んでみるとわかるが、意外と言葉を考えずに使っているものである。
言われないと気付かない。
言葉に敏感になりたい。

2016年4月7日木曜日

学級開きの最重要3要素 優先順位

何度も書いているが、時期なので、学級開きの話。

学級開きにおいて、次のどれが大切だろうか。

A 子どもが楽しくやれそうだと感じる
B 子どもがルールを理解する
C 子どもが安全・安心を感じている

どれも大切なのである。
しかし、優先順位をつけるならどれかということである。

昨年、文科省でのセミナーでこの問いを投げかけた時には、参加者の反応は様々に割れた。
様々な解があっていい。
それを説明できるようであれば、考えに芯があるから、ぶれない。

私の解は、最優先がCの「安全・安心」である。
次がBの「ルール確立」。
最後がAの「楽しさ」となる。
(繰り返し言うが、あくまで優先順位であって、3つ揃っているのがベストの状態である。)

なぜそう考えるのか。
1つだけ成立していて、2つが欠けている状態の学級を想像する。

Aの楽しさだけがある状態。
ルールはなく、身も心も危険にさらされているが、やりたい放題できる学級。
学園もののドラマの最初の設定によくある、絵に描いたような荒れた学級が想像できる。
「ごく〇〇」や「G.T.〇」のような教師なら、体当たりで立て直せるかもしれないが、かなり困難である。

Bのルールだけがある状態。
規律だけがきちっとしていて、表面的には整っているが、安全・安心ではなく、陰では陰湿ないじめや暴力がある状態。
授業中はしんと静まりかえり、子どもの反応とは関係なく決められた通りに事が進む。
これも、「静かな学級崩壊」と呼ばれる一つのモデルタイプである。

Cの安全・安心だけがある状態。
ルールは緩いが身の危険や暴言にさらされることはなく、授業で発言してもばかにされたりはしない。
楽しくないので良いとはいえないが、とりあえず学級としては成立している。

以上の状態を考えると、優先順位はC→B→Aとなる。

同様に、1つだけない状態を想像しても面白い。
ルールがしっかりしていて、安全・安心だけど、つまらない学級。
安全・安心で楽しいけど、ルールはない学級。
ルールもしっかりしていて楽しいけど、安全・安心ではない学級。

この3つは、実際に結構数が多いのではないかと思われる。
長くなるので、また次号。

2016年4月5日火曜日

『一人残らず笑顔にする学級開き』

いよいよ、新年度の始まりである。
「学級開きをどうするか」は、結構悩むところだと思う。

次の書籍をおすすめする。
『一人残らず笑顔にする学級開き 小学校~中学校の完全シナリオ (学級を最高のチームにする極意) 』
赤坂真二編著 明治図書
http://www.amazon.co.jp/dp/4181852156

学級開きに特化した本である。
小学校から中学校まで、すべてカバーしているのが秀逸である。
しかも、低学年実践から高学年実践まで全部ある。
ちなみに私の書いている項目では、中学年から高学年むけの実践を紹介してある。

学級開きは大切だとよくいわれる。
ここに特化した本が求められる理由。
物事は、動き始めるのが一番力が要るからである。

学級開きで絶対に外さないことは、最低限の枠組みの設定である。
自分で歩ける幼児を外に連れ出す時に「赤信号は渡らない」という程度の約束が必要なのと同じである。
そして、「この人は自分を守ってくれる」という感覚である。

安全面と安心が最優先。
そのために、ルール設定。
最後に、楽しさである。
これが私の考える学級開きの3ステップである。

そのあたりの理論についてもこの本に詳しいので、一度手にとっていただきたい。
様々なタイプの学級開きが載っていて、多くの人の参考になること請け合いである。

2016年4月3日日曜日

はじめに子どもありき

今回は、人に教えるのが惜しいという思いも若干ありつつ、ある本を紹介する。

『はじめに子どもありき』平野 朝久 著 学芸図書株式会社
http://www.amazon.co.jp/dp/4761602546

なぜこの本を知ったかというと、私の尊敬する先生からである。
今回の単著発刊のお祝いとしてくださった。

イラスト一つなく、武骨ではあるが、真の良書とはこういうものである。
読んで勉強しなさい。
それで、もっと良い実践を積み、良い本を書けるように精進せよ。

と、いうことである。
ここに近付くべしということである。

心から尊敬し、目標とする師の仰ることなので、即受け容れ、読み始めた。

・・・面白いとかのレベルではない。
感動。感動。また感動である。
以前紹介したことのある、野口晃男先生の『校長室の窓から』以来の衝撃である。

読んでいると、脳震とうか、顎関節症になるのではないかと思うほど頷く可能性があるので、注意されたい。

18ページ目の小タイトルが「能動的学習者としての信頼」。
アクティブ・ラーニングに関する記述である。

ちなみに、初版刊行を見てみると、1994年。
20年以上前である。
しかし書いてある内容が、「最新」である
(ちなみに、毎年のように増刷を重ね、2015年で何と16刷りである。本物は、息が長い。)
つまり、単に自分が不勉強だったのである。

温故知新。
故きを温ねて新しきを知る。
目先のことに、いかに振り回されているか。
根本・本質・原点はそこではない。

本当は教えたくなかったが、良い情報を抱え込むのは「広く教育に貢献する」という自分の信条に反する。
私を信用していただけるなら、即買い必至の本である。
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