2019年12月31日火曜日

空白をごみで埋めない

大掃除をすると、思い出すことがある。

よく母が「もっと広い家なら片付く」とぼやいていたことである。
物を置くスペースが足りないから散らかる、という論理である。

そんな訳ない、と子ども心に思っていた。
それも伝えたが、「そんなことない」と、まあ話は平行線である。

これは、何にでも当てはまる。
例えば、家族が増えたとかよく食べるようになったからと、冷蔵庫を買い替える。
冷蔵庫のスペースが広くなったから、これで余裕、という訳である。

しかし、人間の脳は空白を埋めたくなる。
「スペースが空いているからとりあえず置く」という心理である。
これをやると、とりあえずの場所にずっと置くことになる。

つまり、空いているスペースがこの調子で埋まり続ける。
新しい大きな冷蔵庫も、あっという間に埋まる。
新しく引っ越した広い家も、あっという間に散らかる。

要は、余裕がないのはものの広さの問題ではなく、使う人間の問題である。
旅行上手の人の鞄と同じ原理である。
たかが一泊二日の荷物が異常に大きくなるのは、旅慣れていない証である。

この原理は、時間にも適用される。

例えば17時に絶対の予定があると決まっていれば、そこまでに集中して仕事を仕上げる。
やるべき仕事を10の仕事量としたら、16時から1時間あたり10の仕事をこなすものである。

しかし、同じ人が21時まで残業できるとなると、その分薄まる。
5時間で10の仕事をこなせばよいのだから、10÷2で1時間あたり2の仕事量である。
(実際は休憩やおしゃべりをはさむので、時間帯によって0~5ぐらいの幅でかなりバラつきが出る。)

つまり空白は、放っておくと、ごみや不要物で埋まるのである。
時間でも空間でも、必要なことは「先取り」が基本である。

何を言いたいのかというと、行動には区切りが大切ということである。
一定の空間あるいは時間という枠の中で考えることで、人間は行動に移せる。
大晦日までにあれこれを終わらせるのも、新年に一年の目標を決めるのも、本質はこれである。
全ては行動化のための手段である。

自分の時間は、あとどれぐらいあるのか。
令和元年の終わりに、改めて考えてみた次第である。

2019年12月29日日曜日

子どもに「言い訳」を与える

親と教師の仕事の一つ。
それは、子どもに「言い訳」を与えてあげることである。

どういうことか。

以前に何度も本や記事で書いたが、例えば鬼ごっこで、氷鬼を行う時。
高学年で男女が混ざるようにするには、一工夫が必要である。
だから「男子を助けた女子を賞賛する(逆も)」ということを教師が行う。
それでも効かない場合は「男子しか女子を助けられない(逆も)」というルールを作る。

こうされると、子どもたちは、そうせざるを得なくなる。
「先生が言ってるから、仕方ない」という理由で、男女が混ざる。
実は、普通にそうやって交流したいような子どもたちも、周りを意識してできないのである。
そこに、言い訳を与える。

今の子どもたちは、SNSでつながっていて、途中で話題を切れない。
「もうこの辺で寝よう」というと「付き合いの悪い奴」ということになる。(面倒な酔っ払いオヤジみたいな世界である。)
あるいは「既読スルー」への報復が怖いのである。
寝不足や生活習慣の乱れの原因の一つである。

ここに、親が言い訳を与える。
「夜9時にはスマホを親に預ける」というルールを作る。
(あるいは、そういうルールがあるということを友人に伝えておく。)
それだけで、もう「仕方ない」ということになる。
言い訳を与えることで、子どもを守れる。

こういうことはたくさんある。
親や教師は、子どもの人間関係にとっての「助かる言い訳」になれる。
その辺りを意識することである。
何でも子どもの自由にするのが、子どもにとって助かるという訳でもないということである。

「人のせいにしない」は基本だが、こういったことは例外。
子どもを守るための言い訳という視点も、親や教師にとっては、大切である。

2019年12月27日金曜日

子どもが「荒れる」原因

子どもが「荒れる」原因について。

子どもが荒れるのは、理由がある。
単純に「負のエネルギー」が一定まで溜まると、暴れ出す。
まあ大人でも同じことである。

負のエネルギーが溜まる状況は
・やりたくないことを我慢してやらされる
・やりたいことを我慢してやれない
・怒りと悲しみ
・理不尽な目に遭う
・意味のわからないことを黙って聞き続ける
・動かずじっとしている
等々たくさんある。
(虐待やハラスメントは、これが揃っている状態である。)

教師があまり直視したくない結論を述べる。
つまり、授業がつまらないと、荒れる。

授業がつまらないとは、具体的にどういうことか。
先に挙げたような場面が続く授業である。
わからないことを延々と我慢して聞く。
椅子にじっと座って耐えて聞く。
授業中にふざけている子が真面目な子どもの邪魔をしていても、全く対応されない。
一生懸命やっても評価されず、不真面目なあの子や、大きな声で目立つあの子ばかりが相手される。
これで、確実に荒れる。

ただし、負のエネルギーは、一気には溜まらない。
溜まってきても、途中で減らすこともできる。
先に挙げたことの逆をやればよい。

つまり
・やりたいことを思い切りやれる
・やりたくないことを無理にやらされない
・笑いと喜び
・正当な評価を得る
・やっていることがよくわかる
・動く

こういったことを取り入れる度に、負のエネルギーが減る。
負のエネルギーが0になると、今度は正のエネルギーが溜まってくる。
そうすると、「落ち着く」(荒れない)から「望ましい行動を積極的にとる」という状態にまでなる。

要は、学級が荒れるには子どもの背景とか色々あるが、授業がつまらないことが大きな原因である。
これは、残念ながら、ほぼ間違いない。
データでも、荒れた学級の子どもに聞くと、口を揃えて「授業がわからない」という。

だから、「専科の先生の時間だけ落ち着く」ということが起き得る。
(逆も起き得る。)
中学校では、普通のことである。

学級経営がベースなのは間違いない。
しかし、授業がどうでもいいかというと、全くそうではない。
(一方で当然、授業研究だけしていてればいいという訳でもない。)

子どもが学校にいる時間において、授業の時間が一番長い。
そう考えると、授業の大切さは、強調してもしきれない。
「授業が適当でも大丈夫」というのは、その「適当」が「無理なく適度」という意味である。
初任者や若い先生方には、やはり授業の準備をしっかりがんばっていただきたいと思う次第である。

2019年12月26日木曜日

与える=与えられる

昨日は、クリスマスである。
子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。

大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。

「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。

人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。

サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。

世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。

クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスは、世界が少し良くなるための日だと思いたい。

2019年12月23日月曜日

学習意欲が高まっているとは

学習意欲の捉えについて。

子どもの学習意欲ということが大切にされている。
新学習指導要領でも「学びに向かう人間性」の育成は、最重要項目である。
昨今に限らず、「関心・意欲・態度」には常に重点が置かれてきた。

ところで、この「学習意欲」という大きな言葉.
その内実がかなり違うと感じる次第で、書く。

言葉というのは、ラベルである。
ある種のものの分類、カテゴライズである。
しかし、同じ言葉の指すものでも、内実は全く違うということが多々ある。

学習意欲というものは、捉えによって内実が全く違う。

例えば最近、eラーニングによる学習がもてはやされている。
子どもの習熟度に従って、問題を出してくれる。
これはこれで意味がある。
子どもの学習意欲の向上に役立つという。
この場合、指すところは「子どもがゲームのように楽しんで取り組む」という意欲である。

また、何かのキャラクターに喋らせたり、下品なものを用いて笑わせて面白がらせる、という手段の場合もある。
(昨今大ヒットした漢字教材について、私はかなり批判的な立場である。日本語に対する品性が問われる。)

一方で、目指すところがあって勉強して、問題を解いているという場合。
これも「学習意欲がある」という。
しかし、これは先に挙げたいくつかの例とは、全く内実が違う。

前者は、外発的動機付けという。
面白そうだと思いそうなものを与えて意欲を引き出す方法である。
この場合、外的要因に魅力を感じなくなると、意欲が全くなくなる。

後者は、内発的動機付けという。
自分の内にそれをやる目的があり、動く場合である。
この場合、外的要因に影響を受けにくい。

もう少しわかりやすく例える。
子どもが好きなものだけを毎日食べさせれていれば「毎日よく食べている」という表現になる。
好き嫌いが少なく何でもよく食べる子どもも「毎日よく食べている」という表現になる。
確かに両者とも毎日よく食べているのだが、内実は全く違う。

何を言いたいのかというと、学習意欲の捉え方である。
子ども好みの美味しそうなものばかり与えて「よく食べている」と安心できるかどうかである。
状況によっては、そういうものが提供されない場合もあり得る。
この場合の「学習意欲」は、本人ではなく、他者に規定されることになる。

「学びに向かう人間性」というようなことを考える場合、最初は外発的でも、どこかで内発的動機づけに変換する必要がある。
人工的なサービスを受けて楽しいといっている状態から、自然の中に入って自分で楽しみを見つけられるようにするのと同じである。

現在の学校は、残念ながら、オーダーメイドの場ではない。
しかし今、時代はそういう流れになってきている。
消費者一人一人にとって、最適で快適なサービスを提供するのが当然という流れ。
ICTの得意分野である。

だからこそ、そうではない経験をする場として、学校は意味がある。
自分の思い通りにいかない他者との関係の中に生きる。
サービス満点ではない、不満足な中で、他者と折り合いをつけながら学ぶ。
多少しんどいことでも、意義を見出し、意欲をもって取り組む。

便利な世の中だからこそ、不便な体験も必要である。
他人と協働することは、大変だし、面倒である。
大変だからこそ、大きく変われる。
他者の面倒をみるからこそ、面倒をみてもらっていた自分に気付ける。

学習意欲の話に戻る。
やりやすいもの、面白いものばかりでは、育たない「学習意欲」もある。
困難であっても、挑戦しようと思えるような学習意欲が欲しい。

例えば算数。
普通に教科書レベルの問題であれば、特に考えなくても、大抵のものはできる。(手順や公式の丸暗記でできる。)
しかし、入試問題のようなものや、算数オリンピックのような問題であれば、別である。
古今東西の算数クイズもたくさんある。
こういった、知識だけでは解けないようなものに粘り強く取り組む「学習意欲」も育てたいのである。
解けないかもしれないし、モヤモヤも残るかもしれないが、単なる点数だけを追っている子ども(と親)には特に意味がある。

今の自分には難しいからこそ、自分をよりよく変えていこうという学習意欲が欲しい。
その基盤となるのが、前号までに述べてきたセルフエスティーム。
自己信頼があれば、困難にも、意欲をもってがんばれる。

易しいものばかりを与えるのが優しさではない。
励ましつつ、困難にも挑戦できるような真の学習意欲を育てたい。

2019年12月21日土曜日

セルフエスティームを高める方法

前号の「セルフエスティーム」に関連して。
私見として、気付き。

「自分自身の価値を信じる」というと、日本では品がないように思われることがある。
しかし、それは違う。
自分自身に価値を見出せないと、他人の価値も認められなくなるからである。

自分に不足感があると、他者に色々と求めるようになる。
「もっと〇〇をちょうだい」
「あの人の方が私よりももっている。悔しい。勝ちたい。」
「なんでもっと私を大切にしてくれないの」

・・・まあ、重い。
面倒な人である。
しかし、セルフエスティームが低い人は、この傾向になる。
自分の足りない分を他の「富める者」からの「施し」で補おうとするからである。

逆に、セルフエスティームが高い人は、満足している状態になる。
つまり、自分自身に、余裕ができる。
そうすると、余裕の分が溢れ出てしまうので、他者に与えることになる。
溢れた分が勿体ないので、捨てずに人に分け与えることで、満足できる。

仕事というのは、これである。
自分の専門技能なり努力なりで生んだ余剰価値を、他者に提供する。
相手に喜んでもらい、満足する。
単純化すると、そういう仕組みである。

つまり、自分には価値あるものを提供できない、という考えだと、喜びがなくなる。
価値あるものを提供できるという自信が、喜びにつながる。

ちなみに、海外の人には理解し難い日本語の「つまらないものですが・・・」は、本当につまらないものとは思っていない。
自分としては精一杯の価値のあるものだが、あなたの素晴らしい価値に対しては申し訳ないかもしれない、という意味である。
モノ自体が決してつまらないのではなく、相手を敬っているからこその言葉である。
モノと相手の相対的価値から、モノが「つまらないもの」になってしまうだけである。

話がやや逸れたが、ではセルフエスティームをどう高めるかである。
これは「与える側」に立つに限る。
先に述べたように、もてるものが与える側に立てる。
逆にいえば、与えてしまえば、もてるものという潜在意識を作れる。

そういった意味でも、例えば募金は意味がある。
相手のためでもあるのだが、何より自分のためになる。
募金をすれば、セルフエスティームが否応なしに高まる。
それを狙ってするのも憚れるかもしれないが、少なくとも募金しないより、する方が相手にとっては助かる。

ボランティア活動といわれるもの全般も同様。
ごみ拾いでも何でも、すればセルフエスティームが高まってしまう。
やっていて、悪いことをしているとは、どうしても思えないからである。
道行く散歩中の人々に「ありがとう」と言われて、セルフエスティームが高まらないようにする方が難しい。
「ありがとう」は、相手の価値を認める最大の賛辞である。
それを、ただ偶然すれ違っただけの人に言われるのだから、これは「有難い」ことである。

ごみ拾い活動に関していえば、道がきれいになる。
それを見るだけで、爽やかな、嬉しい気持ちになる。
十年前に捨てられたようなごみを拾う時には「お前はずっと待ってて大変だったなぁ」と声をかける。
とりあえず、鍵山秀三郎氏の言うように「一つ拾えば、一つだけきれいになる」が実感できる。
やってみればわかる話である。

私は「偽善者宣言」をしたので、こういう場でも現実の場でも「やっています」と堂々と公言する。
これを知って、真似する人が出るかもしれないからである。
もし一人でも子どもが大人を誘って真似し始めたら、もう教育の目的としては、ばっちりである。

教師である自分と、子どものセルフエスティームを高める。
そのためには、教室で何か「与える」というような活動をしてみる。
または、そういう仕組みを作る。
これを常に意識して教育に当たるのが大切ではないかと思う次第である。

2019年12月19日木曜日

セルフエスティームを高める

セルフエスティーム(自尊感情)について。
大学の授業で学んだ際に、面白い話があった。

セルフエスティームとは、簡単に言うと、「自分には生きている価値がある」と考えられる傾向である。
日本では、「謙譲の美徳」が悪い形でここに反映しており、セルフエスティームが世界一低い傾向がある。
(特に中学生の女子が最低値になるというデータがある。)

ある研修会で、高校の先生から次のような質問を受けたという。
「自分の苦手なところやダメなところを自覚するのも、同じくらい大切ではないですか。」

皆さんは、どう考えるだろうか。

ここを、研修講師をしたその先生は、完全に否定したという。
それは「間違い」であると。

それも大切だが、「同じくらい」ではない。
セルフエスティームが高い方が、ずっと大切である。
なぜなら、セルフエスティームが低い人間にとって、苦手やダメな点を自覚したところで、デメリットしかないからである。
自覚させられたことにより、更に落ち込むことになり、より不活動になる。

つまり、勘違いしている方がずっといい。
人間の可能性なんて、誰にもわからない。
少なくとも、自分はダメだと思って諦めてしまうよりも、勘違いして行動する方が、伸びる可能性がある。
まずは動かないと、伸びる可能性はゼロである。

子どもの教育では、まずこのセルフエスティームを高めること。
苦手を意識させようとしなくても、本人はよくわかっている。
それよりも、長所を伸ばす方に全力を注ぐ段階である。

幼稚園児相手に、「できないこと」を羅列して自覚させることの愚かさを考えればすぐにわかる。
「何でこんな簡単なことができないの!」
・・・・子ども的には、何でそんなことを言えるのかを、大人の方に聞きたいところである。
一番親身に考えているつもりの、親や教師こそが、最も子どもを「ダメ」にしている。

セルフエスティームを高める。
誰から。
大人からである。
あなたがあなた自身の価値を信じることができなければ、子どもが自分の価値を信じることはない。

大人のセルフエスティームの向上と、自信の確立。
それができれば、子どもの可能性を信じることができる。

子どもにガミガミ言いがちだとしたら、自分自身のセルフエスティームの低さを疑ってみることが優先事項である。

2019年12月16日月曜日

一年生ギャップを考える

幼稚園の公開研究会に参加した。
そこでの学びと気付き。

幼稚園の活動は、遊びである。
遊びの中で学ぶ。
この感覚が、小学校以降の教員には理解され難い。

遊びの中で、国語と算数と理科と体育と図工と道徳と・・・すべてが行われる。
「総合的な学習」の時間が当たり前である。
小学校でいうと、生活科の「秋探し」の活動を毎日行っている感じである。

とにかく、面白い。
どこへ行くのも自由だし、子どもたち同士も常に緩やかにつながっている。
子どもたちは、幸せだと思った。
これを見て「小学校では通じない」などというのは、完全なお門違いである。

そう。
これだけの豊かな学びをしてきた子どもが、小学校ではいきなり「机と椅子について、皆さんご一緒に」である。
無理に決まっている。
小学校の側が「不自然」なのである。

本当に、小学校の入学当初から、一人ずつの椅子と机が必要なのだろうか。
皆さんでご一緒にする必要があるのだろうか。
4月最初の文字もない教科書において、その環境が「必須」な学習は、一切していないはずである。

「小一ギャップ」を埋める努力として、「スタートアップカリキュラム」がある。
それはそれで大切である。
しかしながら、もう少し一年生が馴染みやすい環境というのがあるのではないか。

時間に細かく区切られて、次々に追われるような暮らしに「喜び」を感じられない子どもがいても当然である。

小学校の「当たり前」が、全く通用しない世界。
何よりも刺さるのが、幼稚園の子どもたちの幸せな姿である。
ここに「戻りたい」と思うのが、ある意味で当然である。

小学校は、幸せな空間になり得るか。
少なくとも、学力検査の結果に追われるような世界は、幸せからほど遠い。
社会がそんなに甘くない、という意見はその通りだが、社会は、学校教育の常識が通用しない世界というのも事実である。

小学校教育の在り方。
それを根本から考え直させられる、幼稚園での学びだった。

2019年12月14日土曜日

教育と習慣が全国学力テストの点数へ与える影響は?

世を騒がせ続けている、全国学力状況調査の結果についての考察。

最近、必要に迫られて、統計学を学び始めている。
その中で「相関係数」というものが出てくる。

要は、二つの事柄の間に、関係性があるかないかというものを1からー1までの数値で表したものである。
(計算式や方法はややこしいので省略。)
目安として
0.7 ~ 1.0 かなり強い相関がある
0.4 ~ 0.7 相関がある
0.2 ~ 0.4 弱い相関がある
0  ~ 0.2 ほとんど相関がない
と読む。
ちなみに「+」だと正の相関、「-」だと、負の相関になる。

Wikipediaにある例によると、先進諸国の失業率と実質経済成長率は強い負の相関関係にあり、相関係数は-1に近くなるという。
(失業率が上がるほど、確実に経済成長率が落ちる傾向。一次関数でほぼ直線右下がりのグラフ。)

このようにして、次の文科省のページにある全国学力状況調査の結果を見てみる。
http://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/factsheet/19primary/

以下は、このページの最下部の方にある、相関係数の入ったエクセルデータである。

相関係数(児童質問紙-教科)全国【表】
http://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/factsheet/data/19p_421.xlsx

見るのが面倒な人もいると思うので、見ないでもわかるように結論から。

この結果を見ると、残念ながら、ほとんどすべての項目において、国語や算数の点数とは「相関がない」と読める。
相関が見られたのは、算数、国語が「わかる」と答えた子どもと、それぞれの教科の点数に「弱い相関がある」という程度である。
他は、生活習慣や学校での教え方、環境等のあらゆる「正しい」と思われる教育行為が、思った以上に点数と相関がないようである。

直接的に国語と算数の学力テスト対策の勉強をする、ということが最も効果があるのかもしれない。
事前対策テストの頻度でも聞いたら、おそらく強めの相関が出るのではないかと思う。
(これは、体力テストでも同様。実施回数を増やすほど、確実に数値が上がる。)
学校調査の方なら「事前テストをするように学校へ何らかの圧力がありましたか」ときけば、きっと相関が出るだろう。

相関係数という視点から見ると、単純な点数と、生活習慣や教育方法との相関はなさそうである。
残念無念である。

ただし、この相関係数で見る時に要注意なのが、

「相関関係がある」≠「因果関係がある」
あるいは
「相関関係がない」≠「因果関係がない」

ということである。
因果関係とは、どうやら別物のようなのである。

例えば、以前にこのメルマガ上で、「東大生の小学生時の習い事No.1は、水泳」ということを紹介した。
(参考記事↓まぐまぐニュース「東大生の6割が小学生のとき水泳教室に通っていた。だから何だ」)
https://www.mag2.com/p/news/242251 

この結果からは、東大生と水泳ということには、相関関係がありそうである。
しかしながら、それは「水泳に通っていたという要因から、東大生になった」ということには結びつかないということ。
例えば、東大生になった子どものいる環境には、周囲に水泳教室があることが多かった、という可能性も考えられる。
これが「相関関係があっても、因果関係があるとは言い切れない」という一例である。

この手の要因は他にも多様に考えられる。
要因の特定は、難しいのである。

先の例でいうと、「事前テスト」と「点数」に強い相関が出ると予想した。
しかし、実際にとってみたとしても、相関係数に高い数値が出ない可能性もある。

なぜか。

確かに、事前テストを多くしたから点数が高かったという子どもが、多く存在するはずである。
一年間、毎日のようにテスト対策練習をした学校の点数は当然上がるだろうということは容易に予想される。

一方で、そんなことを一度も全くしなかったのに、点数が高かったという子どもも存在する。
元々塾通いが多く、テスト系学力の高い子どもが集まる地域の学校(所得とかなり強い相関がある)や、
入学困難な私立中学を受験する子どもが多い学校である。
あるいは、それと全く関係なく、すごく勉強にセンスのある子どもである。(いわゆる天才タイプ。)

この両者は、相殺関係にある。
「事前テストをした」「事前テストをしていない」という真逆の方法に関わらず、同一の結果(点数)を示すからである。
テストの点数が上がる要因が、「単純なテスト慣れ」と「本来の学力の高さ」の両方に関わるからである。
だから、相関係数をとると、予想に反する小さな値になることがある。

じゃあ、相関係数をとっても意味がないじゃないかというと、そうでもない。
そういう考察をする余地ができる訳である。
少なくとも、相関がないということは、それさえやっていれば他方がOKということにはならないという事実が示せる。
(例:「早寝早起き朝ごはん」だけでは、点数が上がらないということ。当たり前だが、点数を高めるには、勉強が必要である。)
強い相関があるということは、何かしらの関係性があるということが示唆される。

まあいずれにしろ、あらゆる教育行為と現在の学力テストの点数に相関関係がないということは、何かと考えるべき事実である。

折角文科省が50億円もの予算を投じて全国から集めたデータ。
わざわざ一般公開してくれているのだから、何かしら、現場に役立てたいと思う次第である。

2019年12月12日木曜日

「一世を風び」からの問題提起

ネットニュースの一覧をチェックする。
当たり前だが、テレビと違い、伝える主な手段は音声ではなく、書き言葉の文字である。
(無駄にキャッチ─で刺激的なコピーが多いのが気になる。)

ある記事に大きく「一世を風び」とあった。

これでいいのか。

今回はこの「変な漢字仮名交じり文」について考える。

小学校、特に低学年では、割とよくある。
読める漢字が少ないためである。
振り仮名を振れば問題ないのだが、これも二度手間であり、避ける人が多い。

要は、平仮名にして、読むのを易しくしているのである。
「あなた方にはきっと読めないでしょうから」という配慮であり、優しさともいえる。

しかし一方で「読めないから読ませない」を続けている以上、読めるようにならない。

「木登りは危ないから、登らせない。」→「だから、ずっと登れない。」という問題と同じである。
木を登るような経験のない子どもは、いざ高い所から落ちた時にかなり危険である。

これは、本当に相手を思いやった「優しさ」と言えるのか。
易しいものばかり与えることが、優しさと言ってよいのか。

「一世を風び」の記事に戻る。
正しくは「一世を風靡」である。
確かに難しい漢字だが、読めないことはない。
平仮名が入ると、違和感である。
初めてみる言葉にすら見える。

配慮なのだろうが、余計なお世話である。
ちょっときつい言い方になるが、読者を馬鹿にしているともいえる。
あるいは「読字力がかなり低い読者層」をメインに想定しているのかもしれない。
だとしたら、ビジネスマンが見るようなニュースにそれを載せるべきではない。

そう。
馬鹿にしてはいけない。
人間は、今知らないことも、学べば知ることができる。
それが、学習である。

まして、子どもは、賢くなるために学校に来ている。
どんどん漢字を使って振り仮名をふって、教えるべきである。
(というのは、残念ながら私ではなく、師の野口芳宏先生の長らくの主張である。)

もう一つ。
「一世を風び」と書いた場合、読めるかもしれないが、意味がわかるのか。
読めないレベルの人が、意味ならわかるというのも、少し考えにくい。
(その場合、もしかしたら「いっせいをふうび」というオール平仮名か片仮名の単語で覚えているのかもしれない。)

日本人の語彙力の低下が問題である。
それは、メディアの影響もあるかもしれないが、当然ながら学校教育の責任が第一義である。

堂々と漢字を使う。
もし読めなかったとしても、調べる手段はいくらでもある。

そして改めてみて、「靡」という漢字を書いたことがないことに気付いた。
「靡く」(なびく)と読むらしい。
知っている単語でも、漢字は知らなかった。
どこでも使われない漢字だと、知ろうともできないものである。

英語の問題ばかりが取り沙汰されるが、日本語の問題も相当に真面目に考えていいところである。

2019年12月10日火曜日

「告げ口」と「相談」の違いとは

前号に引き続き、「CAP」からの学び。

「告げ口」と「相談」の違いについて教えていた。
告げ口は、相手を困らせようとして行うもの。
相談は、困っている時に行うもの。

こう書くと簡単にきこえるが、この境目は子どもにとっても結構難しい。

例えば、下校時にジュースを買っている子どもがいて、ある子がそれを発見したとする。

単純に懲らしめてやりたくて先生に言うのなら、これは告げ口。
勧善懲悪を楽しむ気持ちがあるからである。

この人のためにならない、これを続けていると、もっと悪いことにつながる気がする。
だから、先生に注意してもらって止めて欲しい、という相手を思いやる願いがある場合。
これは相談。

要は、本人の心がけの問題である。
どういう気持ちで伝えるかである。

先の例なら、たとえ告げ口目的であっても、教師は知った方がいいのかもしれない。
結果的に、これを放置することで、後々良くないことに発展するからである。

だからこの場合、とりあえず迷うなら、伝えるべきである。
ルール違反であり、発展の可能性がある。
嫌な「告げ口」になるかどうかは、心の問題である。

またこれが、いじめ絡みなら、迷わず伝えるべきことである。
少なくとも、伝えることで、やられている子どもを救える可能性が高まる。

一方で、完全に告げ口になる場合もある。
「あなたのことを悪く言ってたよ」とわざわざ悪口の配達をしてくれる人がいる。
これは、「不幸のお届け便」である。
(ちなみに、これはサークル仲間の飯村友和氏が教えてくれた話である。
悪口の郵便屋さんである。)
厳にして慎むべき行為である。

大人でも、SNS等でわざわざ誰か特定の個人の悪口を書き込む人がいるが、同種である。
不満があるなら、対等な立場で、一対一で伝えるべきことである。
身分を明かさず隠れて非難する行為は、どうしようもなく汚い。
キリストの「あなた方の中で罪のない者がこの者に石を投げよ」という言葉の指すところである。

悪口は、要らない。
しかし、助けは要る。
困った時には、とりあえず誰かに相談する。
迷うなら、まずとるべき手段である。

2019年12月8日日曜日

「弱い相手」に弱い子どもに目を向ける

「CAP」というNPO法人団体がある。
現在の勤務校では、この団体から「子どもワークショップ」「保護者ワークショップ」の両方を開いてもらい、定期的に学んでいる。
以下、CAPについての説明文をHPから引用する。

===============
CAP(キャップ)とは、Child Assault Prevention
子どもへの暴力防止の頭文字をとってそう呼んでいます。
子どもがいじめ・虐待・体罰・誘拐・痴漢・性暴力など様々な暴力から
自分の心とからだを守る暴力防止のための予防教育プログラムです。
===================
↓引用HP 「CAPプログラムとは」
http://cap-j.net/program

力の弱い子どもたちにとって、大変有益な学習である。

この学習における、「誰もが持っている大切な権利」としての中心的キーワードは
「安心」「自信」「自由」
である。
本来、地球上の全ての人に、これが保証されるべきである。
しかしながら現実としてそれが成立していないために、このような団体が活動してくれている訳である。

このワークショップの中で、子どもの呟きの一つが気になった。

『自分の権利をとられそうなのに、「いや」と言えない相手がいますか?』

この問いに対し
「年上」「大人」「強い人」という答えは、当然出る。
その中に
「年下・・・」
という呟きが聞こえた。

そう。
ここも結構、見落としがちなところである。

心の優しい、共感性の高すぎる子ども(大人も)は、「弱い相手」や「弱っている相手」に弱い。
自分を犠牲にして、譲りすぎてしまうのである。
大人になってもこの傾向が続くと、配偶者にDVや暴言等の虐待を受けているのに「私が我慢すれば」となる。
当然、相手は増長し、行動はエスカレートし続ける。

実は、妹や弟、病気や障害のある兄弟等に、何かと譲って苦しんでいる子どもは、結構多い。
そこに対し「わがまま」を言えるぐらいならいいのである。
問題は、大人以上に配慮して、全て自分で抱え込んでしまう子どもがいることである。

ここへの配慮が必須である。

子育てだけでなく、学級経営においてもいえる。
「手のかかる子」には、教師の目も手も届きやすい。
しかしながら、それを傍で見て、やられてもじっと我慢して、何も他人に迷惑をかけない子ども。
身近な大人は、ここへこそ、配慮すべきである。

子どもは、基本的に、優しい。
一見乱暴に見える子どもも、その優しさゆえに傷ついていることが多い。
苦しみが、「暴れる」で発露するか「我慢」で発露しないかという、表現の違いだけである。

暴力を振るう大人を見て真似る子どもは、他人に暴力を振るう形で表現する。
自分の受けた苦しみを、他人にぶつけて、更に苦しむ。

暴力に耐える大人を見て真似る子どもは、他人の暴力に耐える形で表現する。
自分の受けた苦しみを、抱え込むことで、更に苦しむ。

どちらも、正しくない。
理不尽な暴力への抵抗の仕方を学ぶべきである。
CAPは、その具体を示している点で、大変有益である。

「全ての子ども」の「安心」「自信」「自由」を保証すること。
子どもの教育に携わる大人は、これを常に自分に問いかける姿勢が必要である。

2019年12月6日金曜日

ルールを守るかは、子どもが決める。

ルール設定の宿命がある。
それは、ルールを作ったからには、徹底することである。
「一応作ったけど守られない」というのは、もはやルールではない。
それは、ルールではなく、単なる合言葉である。

だから、社会における公的ルールには、破った場合に「罰」がつく。
特に、重要なルールについては、破った場合、厳罰になる。

飲酒運転が未だになくならない。
しかしながら、確実に減った。
これは、飲酒運転が、厳罰化されたからである。
教員の場合、飲酒運転は一発で「免職」である。
これを免れることはできない。例外もない。(はずである。)

なぜここまで厳罰化なのかというと、「命」に関わるからである。
命と人権に関わる規定を破った場合、社会においては厳罰である。

ところで、学校内はどうか。
学校は、ある意味で練習の場である。
子どもたちは、「いじめ」のような人権侵害をしても、処罰されない。
ここで正しいことを学んでいかないと、社会でとんでもないことになるということでもある。

逆に言うと、ここで誤学習をさせてはならない。
「いじめをしていたけど大丈夫だった」というような経験をさせて卒業させてはならない。
いじめは、厳しく対処されるべきことである。

一方で、学校は、どんなにひどいことをした場合でも、子どもを罰することはできない。
ただし、「懲戒」を加えることはできる。

以下、学校教育法を引用する。

=============
学校教育法11条(児童、生徒等の懲戒)
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、
児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。
ただし、体罰を加えることはできない。
=================

体罰が絶対に認められないことはこれだけでもわかる。
しかし、この「文部科学大臣の定めるところ」が曖昧である。

以下、やや長いが、学校教育法施行規則より引用する。

==========================
学校教育法施行規則第十三条

1 校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、
児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。

2 懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、
校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)がこれを行う。

3 前項の退学は、(義務教育等の記述の為中略)
次の各号の一に該当する児童等に対して行うことができる。

一 性行不良で改善の見込がないと認められる者
二 学力劣等で成業の見込がないと認められる者
三 正当の理由がなくて出席常でない者
四 学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者

4 第二項の停学は、学齢児童又は学齢生徒に対しては、行うことができない。
==========================

これを読むと、学級担任が独自に行う懲戒は「1」だけである。
「教育上必要な配慮をする」という義務がある。
つまり、子どもの教育にとって本当にプラスになることを考えた上で、懲戒をせよ、ということである。

要は、懲らしめようとしてもいいが、どうやっても罰することはできないのである。
本当に懲りるレベルの「退学」の懲戒ができるのは、校長ぐらいのものである。
(さらに言うと、公立小中学校で退学というのは、実質無理である。
つまり、法的に懲らしめることはできない。)

私的であるが、結論を述べる。
子どもには「勝てない」宣言をしてしまうことである。

どういうことか。

どんなにルールを作ろうが、立派な言葉を並べようが、子どもたち次第だということである。
子どもたち自身が守ろうとしない限り、守られることはない。

例えば、修学旅行で「途中の食べ歩き禁止」というルールを作るとする。
これを守るかどうかは、本人たちの意識次第である。
破ろうと思えば、余裕で破れる。
見えないようにやるなんて、わけないことである。

そうであるとしたら、そのルールの意義がどれぐらい伝わっているかが肝である。
子どもが「本当にそうだ」と心の底から納得しない限り、守ることはない。
人の心は縛れないからである。
(ここで厳罰があれば、心は縛れなくとも、行動だけは縛れる。学校には無理である。)

守って欲しい。
そのことを、切実に伝えらえるか。
単なる保身とか「例年」のルールなら、もはや無効である。

ルールを守るかは、結局、子どもが決める。
ルールを作る時には、その辺りの意識に気を配りたい。

2019年12月4日水曜日

ルールを見直せ

子どもによく言う言葉がある。
「ルールは、作ってなくしていこう。」

どういうことか。

ルールというのは、快適に生きるためにある。
例えば、信号機。
先日の台風で信号機が止まった時に思ったことで書いたが、信号ルールは大変有益である。
特に、交通量の多い場所では重宝する。

一方で、「ここの信号機は要らないのでは」と思う場所もある。
なぜなのか。

これは、実は子どもや高齢者の事情に関係する。

小学校の通学路は、信号機が多い。
これは、子どもの命を守る上で、有益だからである。
小さな子どもは、普通の横断歩道だと「行ける」「行けない」の判断を誤りやすい。

大抵のことは「トライ&エラー」でいいのだが、命に係わることは例外である。
(例えばパイロットの仕事が9割の成功率では困る。)
交通ルールについては、可能な限り100%に近い成功率が欲しい。

だから、小学校の通学路には、あまり交通量が多くないところにも、信号機がつく。
一方で、廃校になったところやかつての栄えた跡地などにも、信号がそのまま残っている場合もある。
それは、再検討の対象である。
「かつて必要だった」という類のものである。

ルールというのは、そういう面もある。
かつて必要だったが、今は必要ないものがかなりある。
それは、時代の変遷という場合もあるし、人々の意識の変化という面もある。

学校文化としては、様々なルールがある。
このメルマガでもしばしば取り上げる、中学校のソックス規定等の「謎ルール」は、かつて必要なものだったのである。
実際、世の中が滅茶苦茶で、中学も荒れに荒れていた時代があったのである。

しかし、今は必要ないのではないか。

学校文化にも、そういうものがかなりある。
いや、教師の文化にもかなりあるかもしれない。

一つ例を挙げると、教師以外の人には聞き慣れない用語だと思うが、「指導案検討」というものがある。
ざっくりいうと、どんな授業をするかという計画書の検討である。
これ自体に意味はあり、自分の授業について文書化することで自覚できるという意味がある。
(一つの授業なのに何十ページという、絶対に読ませない手段をとる指導案もあるが、見開き2ページもあれば十分である。)

問題は、「指導案検討」によって、これを「エラい」「ベテラン」の人たちがあれこれ言って、変えてしまうことである。
本人がやりたいことと180度変わってしまい、よく「目も当てられない授業」になる。

だったら、止めてしまえばいいのである。
あれこれ検討とかしないで、とりあえずやらせてみればいい。

さっきも述べたが、命(あるいは人権)に関わらないことなら、トライ&エラーでいいのである。
授業が失敗しても、子どもはへっちゃらである。
(「成功」しても、残念ながら意外と子どもには影響がないかもしれない。)

ルールを見直す。
そのためには、いつ、どういう経緯でできたルールなのかを探ることである。
(逆に、その作業を吹っ飛ばすと、必要なルールをなくしてしまう失敗になる。)

ルールは、変えられるし、なくすこともできる。
ルールは常に相対的に存在し、絶対はない。
大人が実践し、子どもにも教えたいことである。

2019年12月2日月曜日

ニーズがなければ始まらない

緩い話からの、真面目な話。

先日、県内の有名店で焼き肉を食べる機会があった。
すごくいい肉を提供する。

最後の方に、一番楽しみにしていた、サーロインを頼んだ。

・・・旨い。そして、ものすごく、重い。

一切れ食べて、一気にお腹がふくれた。
どんなに旨いものでも、お腹がいっぱいでは、美味しくいただけない。

ここからの気付き。

どんなにいいものを提供しても、ニーズ次第である。
相手が必要としていない状態では、真価が発揮されない。
そして、欲というのは、過剰に満たすと幸せから遠ざかる。

満たされている状態では、折角のご馳走すらも迷惑である。
そんなに勿体ないことはない。

つまりは、いいものをあげようとしても、相手がそれを欲していなければ、無価値どころか迷惑がられるだけである。
提供するタイミングが命である。

これは、人にものを教える時全般にいえる。

教育実習生が授業について吸収するようになるのは、自分が授業をしてからである。
おそらく、学級経営について考えるようになるのは、採用されて担任を任された後である。
それまでは、必要性自体をそこまで感じないのである。

子どもに教える際にも同様。
目指すものがある子どもに教えるのは、割と容易である。
極端な話、将来の夢がプロ野球選手という子どもと、野球に全く興味のない子どもに野球を教える場合。
どちらが教えやすいかは、言わずもがなである。

これは、もっと小さい場面でもいえる。
そもそも、勉強そのものに価値を置く子どもに教えるのは、全く難しくない。
難しいのは、勉強に意味がないと思っている子ども。
算数に全く興味がないし価値もないと思っている子どもに算数を教えるというのは、至難の業である。

教師はよく保護者から
「先生、うちの子にこれこれをできるようにしてください」
と頼まれる。
頼まれる事項は、大抵、子どもの興味のない&苦手なことである。
(冷静に考えるとわかるが、この場合に子どもがそれに興味がないのは、当たり前である。)

これは、結論からすると、無理である。
私は割とはっきりとものを言う方なので
「それは無理ですね(笑顔)」
と告げる。
(ただし、認知能力の問題等で特別な支援があればできると判断される場合は、その方法を真剣に模索する。)

子どもには、それぞれもって生まれた魂、使命がある。
それに沿ったことなら、命をかけて何時間でも集中する。
しかし、そうでないことには、全く興味を示さない。
それは、使命に向かうために予めプログラムされたものといってよい。
子どもには「無駄なこと(=大人にとっては有益だと思えること)」をしている時間はないのである。

相手のニーズに沿ったものを提供する。
ニーズそのものを変えようとしない。
人にものを教える時の、見落としがちにして極めて重要なポイントである。

2019年11月30日土曜日

天国か地獄かを決める環境要因は、人。

先日学級の「朝の話」でした話。

仏教における「天国と地獄」の話をした。
↓参考URL 仏教辞典 「三尺三寸箸 極楽の箸はなぜ長いのか」
https://bukkyouwakaru.com/dic/s34.html

私の学級の朝の会は円座して行うので、「円卓」という設定での話をした。
この話の概要は以下の通り。

1 地獄も天国も円卓の中央にご馳走が並んでいる
2 1m以上ある長い箸でしか食べられない
3 地獄の住民は自分が食べようと箸を振り回して周辺の人を傷つけ、自分も食べられず、けんかをはじめる
4 天国の住民は向かいの相手を優先して「どうぞ」と互いに食べさせ合う

簡単いうと、これだけのたとえ話である。

伝えたい内容としては
「地獄か極楽かを決めるのは、モノではなく人」
ということである。

どんなモノに囲まれた環境であれど、優しさと思いやりの溢れた人が集まれば、そこは天国になる。
競争心と我欲に溢れた人が集まれば、そこは地獄になる。

人間界は、それらが入り雑じっている。
天国は、作れる。
地獄も、作れる。

学級も職場も家庭も同じである。
誰がいればいいとかあの人がいるからダメだとか言っている間は、自分自身が地獄をつくっている。
自分は何ができるのか、人を思いやって考えて動けば、自分自身が天国をつくっている。

「譲る」が本質的に幸せにつながるという所以である。

2019年11月28日木曜日

自分を磨くのは何のため

前号の「譲る」ということについての話の続き。

教育実習生にした話。

人生において何が大切か。
人一倍努力し、自分を磨き、能力を高めることで、何が得られるのか。

大学生に聞くと、大抵は「自己実現」の大切さを挙げる。
それは、大学生という社会的な位置にも関係するのかもしれない。
ある意味、社会に自分の価値を売り込む時期である。

子どもも、同じような傾向がある。
子どもの場合「夢」という形をとる。
「将来の夢は〇〇です。だから△△をがんばります。」
〇〇に入るのは、職業名である。

つまり、自分の夢を実現させるためにがんばるのである。

これは、間違っているか。
もちろん、間違っていない。
素晴らしいことである。

しかしながら、実際に社会に出ると、ちょっと思っていたのと反応は違う。
努力の末に夢を実現、あるいは目標を達成しても、意外と誰もほめてはくれない。
待っているのは、「それで、あなたは何ができるの」という問いかけである。

単に自己実現(と思われるもの)をしても、幸福になれる訳ではない。

では、幸福感を得られる瞬間とは何か。
ずばり、人の役に立てたと感じられた時である。
ただひたすらにがんばったことに対し「ありがとう」と言ってもらえた時である。

結局、その高い素晴らしい能力は、社会に役立てるためである。
例えばスポーツ選手は身体能力を高めることで、チームに貢献できる。
勉強をして専門知識を深めることで、何かしら社会の役に立てる。
それぞれの仕事のスキルを伸ばすことで、社会に貢献できる。
だから、自分を磨くことに価値があるのである。

いつからそれができるのか。
これは、学校にいる時からできる。
クラスの中で自分が得意なことがある。
これは、それを苦手とする人さえいれば、助けるチャンスである。

人の役に立てることの喜びを知ると、もっと自分を役立てたくなる。
そうすると、それがモチベーションとなり、更に自分を磨くことになる。
結果的に、なりたい自分に近づける。
幸福感も高まる。

それが、人一倍努力し、自分を磨き、能力を高めることで、得られるものである。

努力するのは、競争に勝って、一番になるためではない。
人の役に立ち、自分を最大限に生かすこと。
これからの共生の社会に生きる子どもたちに、学校で教えるべきことの一つである。

2019年11月26日火曜日

譲る行為は「尊徳」の世界

前号の「選択の自由と幸福」に関連して、「譲る」ことについて。

社会の中では「他人に譲って自分は選ばない」ということが考えられる。

卑近な例だと、誰かが差し入れでケーキを数種類を買ってきてくれて、誰から選ぶかという場面。
多くの場合「甘いものが特に好きな人(と認識されている人)」に先に譲る。
甘いものがそこまで好きじゃない人にとっては、正直どれでも同じという面もあるからである。
苺ショートケーキだろうがモンブランだろうが構わない。
この場合は、譲っても特に問題がない。

しかし「自分は苺ショートケーキが大好きで、モンブランは苦手」ということもある。
この場合、自分が譲ってモンブランが残ると、辛い。
どれでもよくはないからである。
最後にちょっと切なさが残る。

もっと重要な場合だと、例えば親友と同じ人を好きになってしまった場合。
親友に譲るかという話である。
これも、是非はあると思うが、譲る人は譲る。
辛抱と切なさが残る。

また「譲る」というのは、他の人の「やりたくない」を引き受けるという面もある。
例えば学校のPTA役員を決める際、「役員の押し付け合い」というのが起きることがあるらしい。
そういう時、譲る精神のある人は「では私がやりましょう」と手を挙げる。
無益な争い自体を好まないからである。
だから、多少大変でも、自分が辛抱すればよいと引き受けるのである。

つまり譲るという行為には、自分の損得を考えると難しい面があるといえる。

ここで「譲るやさしさと切なさ」ということを考えるにあたり、大好きな次の絵本を思い出した。

『花さき山』斎藤隆介 作 滝平二郎 絵 岩崎書店
https://www.iwasakishoten.co.jp/book/b192936.html

偶然にも、今年はこの本が出版されてから50周年だという。(上記出版社H.P.上に特設サイトが開設されていた。)
50年間愛され続ける作品というのは、人の魂に訴える本質的な何かがある。

「やさしいことをすると美しい花がひとつ咲く」というのがこの作品の中心的な価値観である。
この「やさしいこと」の例として挙げられているのが「辛抱」と「譲る」という行為である。

以下、本文より引用する。

==============================
(引用開始)
つらいのをしんぼうして、じぶんことよりひとのことをおもって
なみだをいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、
こうして花になってさきだすのだ。
(引用終了)
==============================

やさしいことは、辛抱や切なさを伴うことがある。
傷つかない保証付きでやさしさを発揮するというのは、なかなかに難しい。
親切が仇で返ってくることもしょっちゅうある。

世界が思いやりに溢れていて、誰もが愛と感謝で生きているとする。
こうした時は争いは起きず、自然に譲り合うということが起きる。
譲って傷つくこともない。
「競争」がないのである。

しかし、現実の社会はそうはなっていない。
自己を最優先に考え、他人よりも損をしたくないし、「平均」「普通」より上でいたい。
(「自分は平均以上か」という質問に対しては、過半数の人が平均以上だと答えるという、統計的におかしなことが起きる。)

だから、譲ってくれる人がいれば喜んで受け取り、場合によっては他人から勝ち取って奪うこともある。
競争社会である。

それでも、譲る人は譲り続け、与え続ける。
競争社会に生きる人は「それは損している。馬鹿だ。」という。

しかし、本当に心からそれをする人にとっては、それは損でも何でもない。
「損得」の世界ではなく「尊徳」の世界に生きている。
尊さなり徳なりを積んでいるのである。
それは、目に見えない価値観の世界である。
魂を磨く行為である。

私はここまで子どもたちをたくさん見てきて、魂の美しさは年齢に関係ないようであると感じている。
大人でも子どもでも、気付いている人は気付いている。
むしろ、幼児の方が気付いているようにすら思う。
(生きている内に余計な価値観を外側にたくさんくっつけられて、美しさが見えなくなっている場合も多い。)

多少しんどい思いをしても、譲る行為は尊い。
譲った後にしばらくして後悔することもあるが、それが人間である。

しかし尊いからといって、その行為を他に求めるのは、またそれも違う。
あくまで本人が気付いて行うことだからである。

9月の台風の時の記事でも書いた「ボランティアはさせていただく精神で」というのと同じである。
多少しんどい思いをしても、やはり「させていただく」ことなのである。

幸福感と辛抱。
相反するようだが、これらはワンセットである。
辛抱するからこそ、幸福感がある。
身体感覚的には、お腹が空くからこそご飯が美味しいのと同じである。

譲れる人になる。
それは成長の一つの形である。

2019年11月24日日曜日

選択できるのは幸福といえるか

学級の子どもにとっての「幸せ」とは何か。
これは学級担任として常に持ち続けている、主要テーマである。

このテーマに関連して、今回は「選択肢」について。

常に選択できるのは幸せか。
ここに関して、ずっと答えが出ない。

世の中には、選択できない不幸というのがある。
路上生活で、それしか食べるものがない子ども。
それをするしか生きる手段がない子ども。
色々な考え方があるが、やはりどう考えても、それが幸福とは思えない。

選択できる不幸というのがある。
AかBが選べる。
よくよく検討して、迷った挙句、Aを選んだ。
しかし、Aは思ったようなものではなかった。
Bがすごく良く見えてきたが、もう手に入らない。
これは、(見方に問題があるとはいえ)不幸である。

選択できる幸福というのがある。
AかBか好きな方を手に入れられる。
明らかにAが好き。
迷いなくAを選んで手に入れた。
文句なく幸せである。

選択できなかったけれど幸せというのがある。
最初から、Aということに決まっていた。
そして、今でもAが好きである。
これも、幸せである。

余談だが、離婚率が最も低いのは、「見合い」による結婚の場合だという。
実際、私の祖父母は、見合いで結婚したということを聞いた。
それも、相手の顔も見ない内に、もう既に全て決まっていたと祖母が語っていた。
戦争中で、色々な世相的事情があったそうである。

それで、嫌じゃなかったのかと聞いたら、「えかったっちゃねえとかね~」(良かったと思う)と言っていた。
お蔭様で自分が今ここにいることを考えると「えかったっちゃかね」と思う。

選択肢がないということは、あながち不幸とも言い切れないようである。
(しかしながら、単に本人に他の選択をしても幸せになれる素養があるだけかもしれない。)

これは「自由度が高い」ということにも関連する。
これが、いいことがある反面、手放しにいいとも言えない、というのが実感である。

今の自分の学級は、割と自由度が高いと思う。
しかしながら、何かにつけて「(先生に)決めて欲しい」という声は結構上がる。

なぜか。
ずばり、自由で選択できることが、往々にして「争いの種」になるからである。

自分なりに考察してみた結果、どうやら選択の自由の良し悪しには条件があることがわかってきた。

例えば、何かを選ぶ時。

学級の誰がどう選択しても、その選択したものが全員に行き渡るなら、選択が直接幸福感になり、問題は起きない。
例えばABCの三つから一つ選んでいいという状況。
学級30人で、ABCもそれぞれ30個ずつ用意されている。
これなら、争いは起きようもない。

一方で、誰かの選択が誰かの選択を阻む状況にある場合。
これは、選択できることが逆に不幸を生む種になり得る。

先の状況で、ABCが10個ずつしかない。
Aが大人気で、30人みんながAを欲しがったとする。
この場合、10人は満足して、20人は妥協してBかCになる。

更に言うと、Aを獲得した10人の中には、自分だけ望み通りになったことへの罪悪感を抱く人もいる。
Aが欲しいのに手に入らなかった周りの人を思って心を痛める人も出る。
そうなると、みんなが不幸である。
「最初からABCが割り当てられている方がまだいい」という人も当然出る。

競争はこれである。
1位は一人であり、最下位まで順位がつく。
一方が勝つから、他方は負ける。
いわゆる「ゼロサムゲーム」である。

学級における自由度は、どうあるべきか。
これは、個人の嗜好性や考え、哲学等に大きく左右される。

「自分だけが幸せになればいい」という考えの人にとっては、「平等」自体が不満である。
上下の差がつくことを求める。
勝負ではっきり白黒つけたい。
だから、選択肢がないことは耐え難い。
ただし、失敗した時の不幸度も高い。
勝ったら優越感で満足するが、負けたらものすごく悔しい。(質が悪いと、文句も言う。)

「みんなが幸せになるのがいい」という考えの人にとっては、自分の選択は正直二の次である。
自分だけが満足するより、争いが起きないことの方がいい。
だから、特にけんかや暴力は嫌いである。
この人たちにとって、選択の自由度は高くても低くてもどうでもいい。

だから、学級に求めるものが、個々で異なる。
「もっと自由と選択肢が欲しい」となるか「もっと規律と安定が欲しい」となるか。
どちらにも妥当性がある。

理想は「自由に選べるけど争いがない」という状態である。
しかし、これが実現している時、実は陰で誰かが我慢していることが往々にしてある。

学級における選択の自由はどうあるべきか。
まだまだ暗中模索である。

2019年11月22日金曜日

同僚性の欠如が不幸の根源

教育メルマガである以上書かざるを得ない、世間を騒がせている教師間のいじめ事件について。

この事件については方々で取り上げられており、周知のことである。
誰がどこからどう見ても陰湿で極めて悪いことである。
社会への負のインパクトも極めて大きく、日本中の学校教育関係者自体への信用失墜は免れない。

あれを知って、「教員になろう!」と思う若者が減ったことも容易に推測される。
次年度以降の全国の教員採用試験の壁も更に低くなった訳である。
つまり、教員の質の低下が加速する。

これによって、現場はまた同様か更にひどい事件を引き起こす人材(人災)を採用する可能性が高まる。
その最終的な被害者は、子どもたちであり、未来の社会である。
負のスパイラルの加速であり、痛恨の極みである。

今回の事件について、個人の性質等のことは置いておく。
残酷すぎて、到底尋常な精神でやれる行動ではない。
それに至る個人の精神構造については、想像を絶しており、複雑すぎて、正直全くわからない。

よって、ここでは集団としての問題のみに焦点をあてる。

今回の問題の集団としての構造的根本は、「同僚性の欠如」の一言に尽きる。
要は、みんな自分のこと、保身しか考えていなかったのである。
(視聴率をねらって、子どもが見る時間でも刺激的な映像を流すマスメディア側の人たちの問題と、本質は同じである。)

人は誰しも、自分が幸せになりたい。
幸せの形は違えど、みんな幸せになりたいのである。
それ自体は、自然なことであり、否定すべくもない。

そう考えると「他人の幸せを心から願う人はどうなのか」という疑問が湧く。
それは「誰かに幸せになって欲しい」という願いであり、それもやはりその人自身の幸せの形である。

そうであるならば、自分が本当に幸せになるにはどうするか考える必要がある。
それには、環境である。
幸せの必要条件としては、自分の周りが「快適な環境」であることが挙げられる。
周りが不幸だと、その不幸はやがて自分にも感染するのは、自明である。
(戦争が、その最もわかりやすい形である。)

教師の場合で考える。
第一の人的環境要因は、子どもが考えられるだろう。
学校が子どものための機関であり、教師が子どものための職業なのだから、当然である。

しかしある調査によると、教員のストレスに直接関わる第一要因は、「子ども」ではなく「同僚」であるという。
「保護者」も要因に挙げられるそうだが、保護者との問題も、同僚性が高い場合、解決できる。
つまり、子どもが言うことをきかなかろうが問題を起こそうが、同僚性が高ければ、何とかなる。
逆に言えば、同僚性が低いと、すべてが壊れる。

自分自身が本当に大切なのであれば、同僚を大切にする必要があるということになる。
自分のことしか考えないのは、結局自分を不幸にする。
同僚のことも考え、自分のクラス以外の子どもの幸せをも願ってこそ、自分自身も幸せになれる。
自分の周りにいる、不幸な状況にある人を放っておかないことである。
(一方で、他人を幸せにする義務もない。やりすぎは、幸せの押し付けになる。)

これは、教師だけでなく、保護者にもいえる。
我が子以外の子どもへの関心をもつことで、我が子が幸せになる。
保護者同士も、同様である。

「学級王国」と呼ばれる状態こそは、不幸の根源である。(「我が子第一主義」も同様。)
隣のクラスに勝つことを目的にしていては、自分も子どもも真に幸せになることはない。
同僚のクラスもその子どもも共に成長することを願うことで、自分も自分のクラスも幸せになれる。
自分の学級だけが順調であることに得々としている間は、不幸に向かっていると考えてよい。
そう考えると「学級経営」という言葉自体も、今後は考え直していく必要がある。

今回の件で最も怖いのは、一緒にいじめに参加した人がいたこと以上に、周りが止めなかった(止められなかった)ことである。
これは、子どものいじめの根幹的な問題点と完全一致する。
「言うべきを言う」というのは、本来他人を大切に思うからこそ発露する行為である。
(だから親は我が子に厳しくなりがちだし、真逆の「甘やかし」は言うべきを言わないので、子どもを不幸にする。)

いじめ自体は、前提として、どんな小集団にも発生し得ると考えるのが現実的である。
しかしながら、それが深刻化するか否かは、その集団のモラル一つにかかっている。
当事者ではなく、周囲が「悪いものは悪い」とはっきり認識し、止めることができるかにかかっている。
(ちなみに当事者は、何かしら問題を抱えているので、そういうメタ認知の視点がもてないことが多い。)

ここが全てである。

「愛の反対は無関心」という偉人の言葉の指す通りである。
(マザー・テレサの言葉だとかそうでないとか、諸説あり。)

学校における、職員の在り方。
学級というものの在り方。
競争から、共生へのシフト。

今回の事件は、全国の学校の抱える問題点が、かなり悪い形で表出した、氷山の一角である。
全国の学校関係者は、他山の石として、自分自身の働き方や在り方を見直していくべき機会である。

2019年11月20日水曜日

子どもの権利を尊重する

今日は世界「こどもの日」である。
11月20日が「子どもの権利条約」制定日であることがその理由である。

1954年、国連が世界中へ「こどもの日」を定めましょう、と呼びかけた。
その際、日本には既に1948年に制定した「こどもの日」があったため、そのままこの5月に当てたという経緯があるらしい。
(以上、ありがとう、ウィキペディアさん。)

日本のこどもの日について、祝日法2条によれば、
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
とある。

戦争や暴力、貧困の一番の犠牲者になるのは、子どもたちや女性である。
特に幼い子どもは、これら不可抗力に対し、自らを守ることができない。
保護が必要である。

子どもたちに対し、殊更に「権利」という言葉をつける意味はそこにある。
決してわがまま放題を認めるためではない。
大人には当然ある「権利」が子どもにも同様にあるのですよ、という再確認である。

当たり前のことだからこそ、再確認するようにしたい。

2019年11月18日月曜日

「ディスる」は、いじめ。

「校長先生の話」。
どういう印象をもっているだろうか。
世間一般では「つまらない話」の代名詞として通っている面がある。

しかし、それは誤解である。
もちろん、何の実感もこもっていない、血が通ってない埃をかぶったような話をする人も、中にはいるかもしれない。
しかし、そういう経験を一つ二つしたからといって、十把一絡げに全てを判断するのは、乱暴である。

日本人にも、自己主張の強い人がいるし、英語が得意な人もいる。
アメリカ人にも、控えめで発言しない人もいるし、日本語を日本人以上にわかっている人もいる。

つまり、今言ったようなことが、各国の人への、「私がステレオタイプ的と捉えているイメージ」である。
「校長先生の話」も同じように思われていると考えている訳である。
しかし、興味深く、ためになる校長先生の話というのは、世の中に実際かなり多く存在する。(と私は経験上思っている。)

以前にも書いたことがあるが、校長より「リスペクト」の大切さについての話があった。
本校の合言葉であるから、何度も登場するのは当然である。
全校児童の前で話すというのは、低学年から高学年までに伝わるように話すというのが、難易度の高さにつながる。

導入に「ディスる」という言葉が挙げられた。
高学年ほど、よく知っている。
いいか悪いかは別として、低学年でも知っている子どもがいる。
この略語の語源は何か、という問いである。

この語源が、実は「ディスリスペクト」である。
リスペクトの反対。
相手を蔑み、揶揄し、ぞんざいに扱う行為である。

これについて考えるようなお話で、今回も実に心に響いた。
話を聞くのが楽しみになるためには、一回ずつに力を入れることであると毎度ながら学べた。

以下は、それを聞いた後の、完全に私見。
私の考えである。

人間というのは、馬鹿にされると怒る。
無視されて腹が立つのも、順番を飛ばされると腹が立つのも同じである。
しかしながら、現代はこの人を馬鹿にするという最低の行為が、世間に肯定されている感が否めない。

例えば国民的地位を獲得したテレビの「お笑い」は、馬鹿をやる人、間の抜けた人、ズレた人をみんなで笑う文化である。
(中には、小噺のように、高度な一線を画すものもあるにはあるが、例外的である。)

そして、笑われている対象も笑っている。それがルールである。
そこに乗れないのは「寒い奴」「冗談のわからない奴」である。
「ボケ」であっても「ツッコミ」であっても自虐であっても同じで、そこの域を出ることはできない。
(そもそも、こういうことを言うと「ウザい」「寒い」「めんどい」等の一言で切ること自体も、相互コミュニケーション不全と思考停止の表れである。)

例えば「転ぶ」という行為を見て笑う。
「間違い」を見て笑う。
すべて「ズレ」である。
そこに笑いが起きる。
笑われた方は、怒ったりせずに、へらへらと、平然としている方が、周りに「いいね」と受け入れられる。

つまり、「ディスる」とは、単純に考えて嫌な行為であるが、やられた方は素直に気持ちを出せないという面がある。
しかし学生にきくと、「仲間同士のただのいじり」と答えるという。
「いじめじゃないの?」と問うと「相手が嫌って言ってないから」とケロリ。

いじめの定義に立ち返る。
いじめは、相手がどう感じているかが全てである。
つまり、顔で笑って心で泣いている可能性がある。
それは、想像力のある人間であれば、配慮できるはずである。

「ディスる」ような発言を親愛の表現だと感じられるかどうかは、関係性がすべてである。
余程の信頼関係がある者同士なら、それもあり得る。
お互いを「馬鹿」呼ばわりしながらリスペクトしているということも、決してないとはいえない。

しかしながら、それは「特殊状況」である。
それが一般化してくると、これは危険である。
「呼び捨ては親愛の証」というような解釈もあるが、ここの危険性である。

社会では、相手をリスペクトした呼称を付ける(「さん付け」等)というのが基本である。

ちなみに、高学年で担任や周囲から呼び捨てやあだ名で呼ばれている子どもは、リーダー的立場、支配的立場にある傾向が強いというデータもある。
乱暴な子どもが呼び捨てにされがちなのと相関性がありそうである。
逆に、発達の遅い子どもはあだ名で「ちゃん」付けされる傾向が強いというのが経験による私見である。

話を戻す。

基本は、相手を落とすような発言や扱いは、慎むべきである。
誰に対しても、リスペクトの気持ちをもって接するのが基本である。
(例えば、店員さんにぞんざいな態度をとる客も問題である。逆も然り。)

顔の見えないネット上なら何を言ってもいいといような大人の意識が、子どもに確実に反映されている。
「みんなでやれば怖くない」という集団意識と同調行動が、色濃く子どもに反映されている。
ここははっきりと言いたいのだが、いじめがなくならないのは、学校教育のみで解決する問題ではない。
かなりの部分、大人社会が反映している。

(しかしながら、そのような大人を作ったのは学校教育であり、その責任からは逃れられない。
そして、今世を騒がせている学校教員によるいじめ問題は、学校教育の根本を揺るがす大問題であるが、今回ここでは述べない。)

相手をけなさない。
馬鹿にしない。
傷つけない。

当たり前のことが、当たり前でなくなっている。
世間の「ノリ」や流れで、本質を見失わないようにしたい。

2019年11月16日土曜日

偽善者、どんと来い。

前号に続き、道徳教育についての所感、二点目。

二点目は「偽善者と言われるぐらい動け」である。

これは「モラル・ライセンシング」についての考えと関わる。
モラル・ライセンシングについては、以前も書いた。
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_10.html

簡単に言うと、人間は、善だと思うことを見たり発言したりすると、満足する。
自分がそれと一体になった錯覚に陥る。
偉い人の傍にいたり接したりすると、自分も偉くなったような気になるのと同じである。

そうすると、実際に少しぐらい悪いことをしてもいいという変な結論になる。
整合性もなく論理も滅茶苦茶だが、人間は感情の生き物なので、そういう風にできている。

ちなみに「ネット袋叩き」「炎上」も同じ効果である。
「正義」の側に立って集団で正義の剣を振りかざすため、優越感に浸れる。
いいことをした気になる。

だから、悪い行動をとる、あるいはいい行動をとらない、という結果になる。

逆をいくべきである。

いいことを言わなくていい。
代わりに、いいことをする。

あからさまにいいことを実際にやって、偽善者と呼ばれればいい。
そうすれば、世界は実際に一つ助かる。

先の関東への台風直撃で、義援金を贈ったロックスターがいる。
その被災地の出身だからということで、被災地での活動も行ったとニュースにあった。
この人は過去何年もあらゆる災害時にそういったことを続けてきており、トータルの寄付金は億を越える。
もはや一般人に「偽善」「売名」などと呼ばれるレベルをはるかに超越している。

ここまでくれば全く否定できないほどわかりやすいが、たとえ普通に「売名行為」であってもいいのである。
被災地で苦しんでいる人にとって助かるのは、外でいいことを言う人ではない。
物理的にも物質的にも、資金面でも、実際に助けてくれる人である。
(ちなみに、それをネット上などで呼び掛けて集めてくれる人も、単なる言葉ではなく実際的な動き、働きである。)

例え人気取りだろうが売名だろうが、実際の行動が全てである。
また、助けてくれるなら「力が強い方」がよりいい。
被災地であれば、どうせなら、素人より建築関係のプロの方が助かるに決まっている。

一方で、「数が命」という面もある。
「自分なんか役立たない」と思って動かないより、個人の力が弱くとも、集まってくれた方がいい。
何かしらできることがある。
「そんなことしても無駄」「弱いくせに」「偽善者」
などとパソコンやスマホで冷ややかな論評をしている人より、
はるかに実際的にも道徳的にも価値が高い。

偽善者、どんと来いである。

もっと、堂々と、いいことをしよう。

例えばそれは、日常生活でもいえる。
ごみが落ちてたら拾えばいい。
しんどそうな人がいたら、席を譲ればいい。
やる人がいなければ「やります」と言えばいい。
そういう人や子どもに「ゴマすり」「点数稼ぎ」「いい子ぶって」みたいに冷ややかな言葉や視線を浴びせる学級や社会に、明日はない。
いい行為には、大いに「いいね!」の声をあげるべきである。

だから、道徳的な発言自体に、意味はないと考える。
どうせ授業でやるなら「良いとわかっているのにできないんだけど、どうしたらいいか?なぜなのか?」をえぐり出す方がよほどためになる。
そこに共感しつつ、できる行動を一つやってみることである。

学級に道徳的行為を根付かせるなら、言葉ではうまくいかない。
よい行いを、実際にやること。
それを認めること。
冷やかさないこと。

愚直な、わかりやすい「よい行い」を認める。
斜に構えない。
学級で「朝の歌を誰よりも一生懸命に歌っている子どもを絶賛する」というのと同じ原理である。

何よりも、それに大人も挑戦してみる。
大人は、恥ずかしがるからいけない。
幼児が砂場でお友達を作るみたいに、すっと自然にやってみればいい。

自分にも何かできることがあるかもしれない。
そう思って実際に動く人が一人でも増えたらいいと願う次第である。

2019年11月15日金曜日

子どもと教材の距離感を考える

学校における道徳教育は、あるいは道徳科の授業はどうあるべきか。
ここについてはずっと関心事であるため、何度も記事にしている。

何度も授業をして、実感していることがある。
次号と合わせて、二点述べる。

一点目。
登場人物の気持ちになって考える活動は、無理が生じるという点。

これは、その立場に立って考えられるかという問題である。
つまり、想像力命となる。
それは、経験の下支えが大きい。

例えば、全財産を失って路上生活を余儀なくされた状態から、努力して世界的大富豪になった人物の気持ちを想像してみる。
これは、かなり難しい。
話を読んだり映画を見てすごいとは思えるが、その立場に立っての想像はかなり難しい。
自分の実際の経験と、かけ離れすぎているからである。

経験値が多いほど、想像はしやすい。
つまり、教材と子どもとの距離の問題である。

これは他教科にも言える。
例えば算数で軽量スプーンを使った問題を解く際、料理の経験の有無は理解度を大きく分ける。
家にデジタル時計しかない家庭に育った子どもが、小学校に入ってアナログ時計を読む問題を解くのはかなり難しい。
以前も書いた「南国の子どもが雪を想像する困難さ」というのと同じ話である。

ただ、そういう経験とかけ離れた立場の状態に立って考えるというのは、価値がない訳ではない。
見たことや触れたことのないものは学ばなくて良いというのは、暴論である。
単に、そこへ配慮をしないと、問題が生じるということである。

有名な古典的教材でいうと、『手品師』。
街はずれに住む、大きな舞台を夢見て売れない手品師の気分。
大チャンスを棒に振って、一人のかわいそうな子どもの前で手品を見せる気分。

この立場になって子どもに想像させるのは、かなり難しい。
自然、話の方向が、情緒的になる。
「優しさが大切」みたいな変な着地点にいきやすい。
現実的に、切実に、問題解決的に考えられないのである。
(やりようではあるが、えてして強引になりやすい。)

子どもと教材の距離感を考えるというのが、肝になる。

次号は、道徳教育と実際の行動の乖離についての考察を述べる。

2019年11月14日木曜日

メディアの子どもへの影響を考える

前々号の「正義とは仮面」に関連する話。
メディアの子どもへの影響、社会への影響について。

「仮面ライダー」はじめ、正義のヒーローものが、子どもたちに勧善懲悪をすすめる結果となった、という話が書いてある。
「正義のヒーロー」を書いてきた脚本家が言うのだから、見当違いな話、ということはないはずである。

メディアの子どもに与える影響は、絶大である。
テレビが出始めの頃は、見られる番組も少なく、その中に野球中継があり、『巨人の星』があった。
だから、少年たちの多くは巨人に憧れた。
みんなで集まってこぞって野球をやり、将来の夢はエンジニアかプロ野球選手。
メディアによって価値観が統一されていった初期の時期だったと推測される。

今はどうか。
インターネットによって、触れられる世界が無限に広がり、価値観が多様化している。
広すぎるが故に、様々な価値観の影響を受ける。
しかしながら、テレビの影響は未だに大きい。
アニメの類は、特にそうである。

多くの漫画・アニメ・映画やドラマは、「勧善懲悪」の形をとる。
それも、悪役が、わかりやすすぎる程に、すごく悪い。
人々を苦しめることを目的としていたり、私利私欲にすごく目がくらんでいたり、世界征服を企んでいたりする。
「悪対正義」の構造がわかりやく、理解しやすい。
ヒーロー側は、苦難を乗り越えて、強くなっていき、最後に悪を倒す。
『仮面ライダー』の構造である。

繰り返すが、この「正義」は、「仮面」である。
強い者(この場合は、テレビ番組の製作者)によって規定されている。
それが本当に正しいこと、真実であるかは関係がない。
ある立場から見た「正義」であるが、それは強い者の立場である。
(弱い正義というのは、存在しない。)

この構造は、ヒーローものに限らない。
王子様やお姫様が出てくるような物語や昔話の類も、大体同じ構造である。
その場合、性格の悪いいじわるな人や魔女が悪役である。
ついでに余計なことに、最後に王族になったりお金持ちになったりする。
「正義」に「勝利」と「地位と名誉」が紐づけされる構造である。

これでいいのか。

現実の世界では、努力をしても勝てないことも多いし、大金持ちにもならないし、まして王族にはならない。
多くの人々の実際は、相当な努力をし、報われない中にも慎まやかな喜びを得る。
それは他人からの「ありがとう」の一言かもしれないし、やり切った充実感かもしれない。
そうそう、派手なことは起きないものである。

メディアが、こういった現実の世界とはかけ離れた「成功」の形を提示していないか。
子どもの価値観が、正義が、変な形で規定されていないか。
サクセスストーリーというのは、子どもにもわかりやすいがゆえに、そこが怖いところである。
現実は、お互いの正義や利害関係が複雑に絡み合う。
そんな単純構造をしていないのである。

学校では「正義は悪をやっつけていい」というのは「先生が言ってた」という形をとる。
あるいは「誰誰はきまりを破っていたから悪い奴。だから注意した、叩いた。」という形をとる。

もう少し幼稚な時期だと「いけないんだ~」の言葉となる。
誰が「いけない」と言っているのか。
学校のきまり、つまり、低学年の子どもにとって絶対的存在である「先生」であるという主張である。
だから、子ども同士の諍いにおける最強の脅し文句は「先生に言う」である。

全部、他人の価値観である。
本来「私はそれをいけないと思う」と言うべきところを、他人のせいにしている。
強い他者が保証した正義を振りかざしている。

そうなるように、小さい頃から、社会に仕込まれている。
何しろ「正義は勝つ」のだから、仕方ない。
悪い奴には、正義の鉄槌である。

本当に、相手が絶対に悪いのか。
自分にも悪いところや、落ち度があるのではないか。
相手にもそうせざるを得ない立場にある何か事情があるのではないか。
そういったことに思いを馳せることが、本来大切なはずである。

メディアの子どもに与える影響というのは、絶大である。
SNS全盛の今、みんなで正義の声を挙げて、個人を叩くことが多すぎる。
それは、正義の皮を被った集団リンチである。
子どもたちに、いじめを推奨している行為である。

マスメディアの存在の影響は、教育現場にとっても、常に考慮しておくべきことである。

2019年11月13日水曜日

言葉のもつ力

前号も紹介した、次の本からの気付き。

『ことばの贈りもの』 松岡享子 著 東京子ども図書館
https://www.amazon.co.jp/dp/4885690234

言葉というもののもつ力について。

この本の中に、言葉のもつ力の一つについての記述がある。
幼児に「ひっくり返す」という行為を覚えさせる場面。
その言葉を教える場合とそうでない場合とを比べると、習得速度に雲泥の差が出るという。

ある行為と「ひっくり返す」という言葉が結び付く。
そうやって、子どもは学びを獲得していくという。

つまり、言葉と経験は、紐付いている。
そうやって、言葉を獲得するとと共に、経験自体も獲得していく。
経験に言葉が結びつき、効率よく記憶されるのである。

だから「書く」という行為には意味がある。
経験を書くことで、流れてしまうものが記憶に残り、学びとなる。
先人の書き残したものがあるから、それを受け継ぐ我々は恩恵を受けられる。
言葉のもつ大きな力である。

そして、言葉にはその表現に限界がある。
同じ言葉を知っていても、その内実は全く違うということはままある。

例えば「家族」とは、どういうものを指すのか。
ストリートチルドレンのように、家族を持ったことのない子どもに、わかることができるか。
あるいは、両親がいる子どもを二人並べても、同じ家族という言葉の指す意味やイメージは全く異なる。
あるいは、兄弟間でさえ違うかもしれない。

「家族っていいね」という話をしても、全くそうとは思えないという子どももたくさんいるということである。

そう考えると、一律に何かの価値について指導するということへの無理もよくわかる。
言葉の指す意味の違う者同士が、同じ理解をできる訳がない。

だからこそ、感じ方の違いを話し合うことに意味がある。
「まさかそう感じていたとは」というギャップに気付ける訳である。
誤解が解けることになる。

つまり、一方的に伝えても、伝わらない。
受信者側のフィルタを通る時には、言語の意味変換が行われるからである。

これは、幼児や低学年の子どもを指導すると、練習になる。
大人が普通に使う言葉のいちいちの意味が、さっぱりわからないからである。
だから「何で?」「どういうこと?」とたずねてくる。

問われると、初めて気付く。
確かに、言われてみると、どういうことなのだろう、と悩むことになる。

先日の学級会では「思いやり」とは何かについてみんなで悩んだ。
「思いやり」という言葉をつかうと、すべての問題が解決したようになってしまう。

しかしながら、それは実際にどういうことなのだろうか。
例えば、言うべきことを言うのは思いやりか。
嘘をつかないのは思いやりか。
「優しい気持ちで相手の立場になって考えること」
と辞書にあれば、優しいの指す意味も問われる。
すべては、個々の経験と紐付いているため、共通の理解ができないのである。

いつでも相手の立場で物事を考えられたら、争いはなくなる。
しかしながら、なぜその行動を自分がとれないのか。
または、それをできない立場、心境の人がいるのか。
そこに切り込まない限り、素晴らしい言葉も、空虚である。

言葉のもつ力は、偉大である。
だからこそ、素晴らしい言葉を使う時は、難しいし、注意が必要である。
子どもとともに考えることを、これからも大切にしていきたい。

2019年11月12日火曜日

正義とは仮面だ

タイトルは、次の本からの引用。

『ことばの贈りもの』 松岡享子 著 東京子ども図書館
https://www.amazon.co.jp/dp/4885690234

「正義とは仮面だ」とは、ウルトラセブンや仮面ライダーの脚本家である市川森一さんの言葉である。
我々、ウルトラマン、仮面ライダー世代の人間からすると、衝撃的な言葉である。

つまり、誰でも正義の仮面を被れるということ。
この本の中では、地下鉄サリン事件におけるオウム真理教信者の「正義」についての記述がある。
正義の仮面さえ被れば、どんな卑劣なことも「正しいこと」としてしまえる恐ろしさである。
原爆問題と同じ構造である。

ここからは私見。

「正義」についての疑問は、以前から何度も書いてきた。
例えば、次の記事である。
『日本語の「正義」にあって英語の「justice」にはない、大切なもの』
https://www.mag2.com/p/news/260399

「正義」というのは、正しさである。
正しさというのは、常に相対的である。
物差しがあるからこそ、正しい(プラス)と誤り(マイナス)が規定される。
誰かに与えられたものといえる。

「正義の仮面」を与えられたと勘違いする人間は、危険である。
正義を他者に規定されるため、思考が停止する。
「正しいと言われたから、やってもいい」ということになる。
(「ウルトラマン」で子どもの頃からずっと疑問だったのが、破壊されるビルの中の人々のことである。
ハリウッド映画での様々なヒーローの、街中の逃走・暴走・追跡シーンも同様である。
正義のためだからやっていいという類のものではない。)

これは子どもの「先生が言ってた」と同じ幼稚な思考パターンである。
子どもは、子ども同士を自分の考えに従わせる場合、子どもにとって強い「正義」である先生や親を利用する。
そこに正義が規定されているのだから、「錦の御旗」「絶対」として堂々と正義の剣を振りかざせる。

これは、大人社会でも同様である。
相手より上の立場の意見である「正義」をちらつかせれば、弱い者は言うことをきく。
自分の存在の大きさは関係なくなる。
「あの偉い人が言ってた」となれば、それは急に正義になる。

教育現場では黒いカラスが白くなることなど、ざらにある。
(ゆとり教育などは、その最もわかりやすい例である。)

ネット上で、「叩く」行為も全てこれである。
この場合の正義は「世論」という架空にして確かに「ある」存在から与えられている。
(それが故に完全に責任者不在なのが厄介である。)

思考停止してはいけない。
絶対的な正しさは存在しない以上、常に考える必要がある。(この一文自体も矛盾を含むのが、悩ましいところである。)
正しさは、常に自分の心で追い求める。

正義とは、仮面。
例えば学校の正義とは、文科省から与えられた仮面である。
指導する際にも、このことは常に忘れずにいたい。

2019年11月11日月曜日

学校の不適応

不登校は「問題」である。
問題とは、解決できなくて困るということである。
逆にいえば、困っていないこと、将来的にも困りが予想されないことは、問題とはいえない。

誰が困っているのか。
何に困っているのか。
この辺りの焦点がずれると、不毛な議論になる。

子どもが、学校に不適応を起こしている。
これは、学校から見た「問題」である。
子どもが学校に適応できるように、どう工夫しましょうということが「問題」になる。

学校が、自分(子ども自身)に不適応を起こしている。
これは、子どもから見た「問題」である。
学校に自分は適応できるのか、またそうすべきかということが「問題」になる。

さて、見方を変えたが、もう一つ、この議論には前提となる事柄がある。

それは
「学校の存在は正しい」
という大前提である。

こういう大前提を考え直そうと言うと、反発を食らいやすい。
そういうことは「当たり前」のことであり、考えること自体が不快なことだからである。

学校の存在は、正しいか。
正確には、現在の、実際の学校教育の在り方は正しいか、である。
それも、社会に対しての在り方である。

子どもが学校に不適応を起こしている以前に、
学校が社会に不適応を起こしている点があるのではないか。

学校の今の教育の在り方は、社会の要請に合っているといえるのか。

例えば「みんなで揃えましょう」ということは、社会でどう生かされているのか。
テストの点数の平均点や成績の評定は、今の子どもたちが大人になる頃に、どれぐらい生きるものなのか。
学校教育の枠の中できっちりやれることが、変化の著しいこの時代に、逞しく生き抜く力を育むことにつながるのか。

学校教育におけるこの手の疑問を挙げていくと、枚挙に暇がない。

さて、そんな疑問を抱くのは、一部の特異な人間かというと、そうでもない。
恐らく、かなり多くの人が感じてはいることである。
「学校の意味ないと思うことあるある」として、お笑いやネットの悪口掲示板等のネタになることもしばしばある。
しかし、特に学校関係者は、言わない。

なぜか。
内部で叩かれるからである。
学校における「今までこうしてきた」は、何にも勝る最強の存在価値である。

更に言うと、自己否定にもなる。
ここまで積み上げてきた先人の「実績」を否定することにもなる。
誰よりもお世話になってきた、この学校教育を否定することにもなる。

それでも、今の調子だと、子どもたちは、社会の求める姿には育たない。
基本の成功ロールモデルが、どうしてもやっぱり高度経済成長期のままなのである。
「我慢」や「揃える」「指示通りに動く」「決められた正解を答える」等の能力は、「24時間働けますか」の時代に求められた能力なのである。

ここが変わらない限り、社会に求められている自主的で個性的な人間は、残念ながら育たないと思われる。
(そもそも公教育というのは個性を育む場ではない、という議論は一旦脇に置いておく。)
特に「天才」タイプは育たない。
不適応を起こしている子どもの中には、いじめ等が原因ではなく、学校教育に意味を見出せない子どもも含まれているはずである。

だとしたら、学校現場が変わるしかない。
子どもの見方一つとっても、学校の在り方は変わるはずである。

目の前の子どもは、学校教育の中の「当たり前」の何に苦しんでいるのか。
その「当たり前」はその子どもにとって、本当に必要か。
例えば、そんなことを問うだけでも、変わる部分があるはずである。

できることから、地道にやっていきたい。

2019年11月10日日曜日

学級経営と授業

「学級経営」という言葉がある。
「経営」を英語に直訳すると「マネジメント」という言葉になる。
つまりは「学級マネジメント」である。
学級担任とは、学級という組織のマネージャーである。

マネジメントといえば、かの有名なドラッカーである。
この考えに基づくと、マネージャーは
・目標設定および動機付け
・役割分担
・メンバー同士をつなぐ
・リスク管理
等々の役割をもつ。

学級におけるこの部分を担保するのが、学級担任の中心的な仕事と考えると、わかりやすい。
学級における目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして組織体を動かす。
ここが学級担任の主な役割である。

授業はどうか。
実は、授業は「学級担任の直接の仕事とは別」と考える方が、わかりやすい。
学級担任の仕事というより、授業者としての仕事である。
現に、学級担任以外にも専科や外部講師のように、授業だけをする役割もある。
授業者には先の考えに基づいた「授業マネジメント」の視点が必要である。

つまり、授業中に目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして進行する。
毎回の一つの授業中に、これら全てを行う必要がある。

つまり、授業を直接するのは、学級担任でなくともよいといえる。
現に、中学校以降では担任が自分の学級で授業するのはごく一部の教科だけである。
逆にいえば、学級担任がすべきマネジメント面を放置していては、仕事をしているとはいえない。

学級経営の力と授業の力は、方向性の同じ別の能力であると考える。
ここを分けて考えないと、学級経営は授業づくりが先か学級づくりが先かという不毛な議論になる。

したがって「学級経営はいいけど授業は下手」という場合もある。
逆に「学級経営は成立していないけど授業(あるいは論)はできている」という場合もある。

例えば、授業自体は良いが指導案で表現するのが下手ということもある。
「指導案は完璧だけど実際の授業は・・・」というのもある。
実践者と学者との違いともいえる。

現場教員としては、実際の授業ができる方を求められる。
研究者ならば、逆である。(附属小学校のような実践研究校に至っては、この辺りがややこしい。)
実務と理論の齟齬である。
もちろん、両輪あれば最高だが、現場で必要なものと学問の世界で必要なもの、求められるものは違う。
一般社会における現場と官僚との意見が全く噛み合わないのも、そこに原因の一つがある。

では、学級担任は、結局どちらから手をつければいいのか。
学級経営も、授業も、どちらもやるよう役割を振られているのだから、どちらもやる。
ただし、分けて行う。
自分が今考えている方策が、学級マネジメントなのか、授業マネジメントなのか、自覚することである。

優先順位はある。
当たり前だが、いじめがある状態で「みんなで仲良くしよう」というテーマの道徳や特活の授業をやっても、大怪我は目に見えている。
いじめ解消という学級マネジメントが優先である。(いじめはマネジメント視点の全てに反する。)
それが解消してからの、その授業である。
あるいは、その問題に気付かせるような授業マネジメントをして実施し、その後の学級マネジメントに生かす。

学級経営と授業。
特に小学校では、異なる二つを一緒くたにしてしまうから、混乱してしまうと考える次第である。

2019年10月28日月曜日

授業は知識の血肉化を

教育実習で話したことのシェア。

かけ算九九。
幼稚園からそらんじて言える子どもがいる。
しかし、「言える」ということと「わかっている」ということは全くの別物である。
教える側は、ここを勘違いしてはならない。

例えば、古来からの有効な教育法に、論語の素読がある。
これは、教育的に大変意味があると言われる。
しかし「論語読みの論語知らず」という諺の示す通り、論語をそらんじていても、わかっている訳ではない。

暗記には意味がある。
覚えるという点においてである。
しかし、それによって安心してこれを軽視したり学ぶ意欲を失ったりしてしまったら、これはマイナスである。
大人でも見受けられるが、「そんなの知ってるよ」の態度である。
この態度は、生涯に渡って学びを阻害する。

かけ算九九の話に戻るが、「九九を言える」というだけの状態は、空っぽの容器のようなものである。
中身を入れるための受け皿ができている状態である。
外形はあるが、中身がない。

そこに授業で、中身を満たすような、意味付けをしていく。
「2×7とはいかなることか」ということを、深く突き詰めていく。
「2を7回足すのとはどう違うか」
「7×2ではだめなのか」
「身の回りの2×7はどこにあるのか」
「2というかたまりにはどういうものが当てはまるのか」
「2×10、2×11はどうなるのか」
と考えていく。

そうすることで、就学前に意味もわからず覚えた九九に、血が通う。
単なる知識が「生きる」ようになり、使えるようになる。

これは言うなれば、雪を見たことのない南国の子どもが、「雪の冷たさ」をわかるのと同じ感覚である。
辞書で「雪」と「冷たい」を引けば、意味的にはどういうことか知る。
しかしそれは、わかっている訳ではない。
雪に触って初めてわかる感覚である。

例えば、「孤独」とはどういう状況かがわかるということである。
「孤独」という言葉の指す感覚は様々であることも、体験するほど豊かに知ることになる。
教室で一人ぽっちの「孤独」。
みんなと一緒にいるのに感じる「孤独」。
一人暮らしの高齢者のように、誰かを失って初めて感じる「孤独」もある。

「孤独」ということが、周りに誰か人がいることが条件であることもやがて知る。
誰もいない大自然の中では、逆に孤独は感じられない。
だからこそ、大都会は孤独を感じやすい。
人生の経験値で「孤独」という単語の指すものへの理解の深さが全く異なる。

「わかる」とは奥が深いものである。
逆に「どうでもいいことを延々とやる」と児童・生徒に受け取られるような授業であれば、それはその通りなのである。
教える側の理解が浅いから、伝える内容も浅いということである。
「わかっているつもり」が一番怖く、同時に、教える時は常にそうである。

授業は、教える側にとっても、自己との対話である。
血の通った授業になっているか。
経験が長くなるほど、常に自問すべきことである。

2019年10月27日日曜日

絵本はコミュニケーションの媒体

絵本について。

教育に絵本は有効である。
しかしながら、その使い方に誤りがあるように思えることがある。

結論から言うと、絵本は純粋に楽しいから読む。
それ以外にない。
親や教師の恣意的に用いることには反対である。

読み聞かせは、結果的に子どもの教育に「なってしまう」だけである。
自分がその絵本が心底好きで、読みたくて読んでるだけなのに、子どもがそれを好きになってしまう。
それだけの話である。

つまりは、親子や教師と子ども間の、コミュニケーションの媒体である。
だから、読んでる間に子どもとは目を合わせるし、話をすることもある。
それこそが、読み聞かせの本分である。

読みたくないのに、やっつけで読んでも意味がない。
以前紹介したおおたとしまささんの本にも書いてあったが、
「うちの子は年間で600冊読んでます」
と得々と語る事態は、異常である。

私の学級では、読み聞かせを毎日する。
それは、私が好きだから読むのである。
「その本は教育的かどうか」とか、知らない。
すべて、私の好みである。
(そして、今では子ども自身が読むので、私の趣味は一切無視で、完全に子どもの趣味である。)

これは、我が子に対しても、そうである。

絵本はいい。
絵本には、芸術作品としての意味もある。

これは、他のあらゆることにもいえる。
例えば自然体験がいいのは、自然体験がいいからである。
教育効果がうんたらかんたらは、実はどうでもいいのである。
自然体験は、純粋に気持ちいいのである。

教育では、不自然なことをしない。
それは、教育とは自然のままにしておかない、という話とは別である。
不自然な教育は、「こうすればこうなる」的な「ロボット教育」である。

それは、プログラミングを学ぶ意義とは違う。
プログラミング教育が有効なのは、それが機械相手だからである。
論理の学習だからである。
これからの時代、機械を使いこなす技能が必須であり、ロジカルシンキングを進めるその教育には意味がある。

ただし、人間相手にプログラミングをする訳ではない。
機械には、芸術を理解することはできない。
(芸術作品を一定パターンで理解するようなプログラムを人間が組み込むことはできるのかもしれない。)

すぐれた絵本は、芸術作品である。
それを忘れないで読む。

絵本が教育として有効であるということと、絵本をそのように恣意的に用いるということの弊害は、考えるべきことである。

2019年10月24日木曜日

道徳の教科化で学校現場はどう変わるか

道徳の教科化について。

道徳が特別の教科になってから、現場の反応は様々である。

色々なことが変わったが、現場レベルでの具体的で実務的な変化は
1 教科書の導入
2 評価の導入
の2点である。

これはそのまま、次の利点を生み出す。
1 使用教材の明確化(何をやろうか迷わずに済む)
2 確実な実施(やるかやらないか迷わずに済む)

「利点」と書いたが、これは命令を出す側の利点である。
要は、規則を守らない人が多いので、規制を強めた訳である。
つまり、まともにやっていた人間にとってはデメリットにもなり得る。

そのままひっくり返すと、次のようにもなる。
1 自作教材の使用の困難
2 評価を意識した業務の増加

まあ、大変だが、致し方ないことである。
現場から「負担増」の反感の声も聞こえるが、今まで業務上の義務にもかかわらず実施をきちんとしていなかったことへの「ツケ」ともいえる。
「自分はきちんとやっていたのに」と言っても、これも責任逃れである。
それを知っていながら、見て見ぬふりをして放置していた我々すべての現場教員の責任である。

しかしながら、心を育てることを強制しているという矛盾である。
それをやりたくないから、やっていなかった人も多い訳である。

心を育てるのは、難しい。
というより、教えるものではなく、育つものである。
本来、自分自身にしかできないことである。

ここについて、今最も注目されている麹町中学校の工藤勇一校長も「行動が大事」と様々な著書の中で述べている。
「心の教育」を叫んで心を教育しようとしているから、行動できない。
大切なのは、心よりも、行動である。
心ではなく、行動を変える。
これだけが教えられることである。

授業の中で「掃除が大切だ」「思いやりが大切だ」と美しい言葉を並べ立てて、発言を活発にするが、全く行動しない子ども。
特に何も言わないけれど、掃除を黙々とやり、ちょっとした思いやりのある行動ができる子ども。
どちらが本当に「道徳的」かは、明白である。

個人的には、以前紹介した「モラルライセンシング」と関係あるのではないかと思っている。
参考記事:ブログ『教師の寺子屋』↓
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_10.html

これは経験則だが、道徳の授業をした後に、よくそれに関連する問題が起きるのである。
偶然にしては、多いと感じている。
全国の皆様はどうか、聞いてみたいところである。
(そもそも道徳の授業をしていなかった、という人も少なくなかったので、全体の問題意識に上がらなかったのかもしれない。)

「膿を出した」と考えると、それも意味があるかもしれない。
マイナスを知るから、プラスを知るという面もある。

何にせよ、道徳が教科化されて、学校はどう変わるのか。
アンテナを張って、注視していきたい。

2019年10月22日火曜日

虚飾を取り去れ

今回、次の教育雑誌で一つ書かせていただいた。
『国語教育 2019年10月号
準備から当日までスッキリわかる!研究授業完ペキガイド』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/02838

私が書かせていただいたのは、「授業者の心得」である。
キーワードとして「虚飾を取り去れ」という野口芳宏先生の言葉を引用させていただいた。

虚飾は、見抜かれる。
子どもは、この点においてかなりの洞察力を備えている。
「この人は自分にとってどんな大人かな」というのを見抜く力は、もう赤ん坊の頃からある。
どんなに飾っても見抜く。
もう本能的にもっていると考えるとよい。

つまり、虚飾のある授業は、ダメである。
真心、真剣さ、誠実さが命である。
これは、現職の教員でも教育実習生でも同じである。

素直な人は、伸びる。
これは間違いない。

反骨精神があっても、素直な人というのはいる。
従順なようで、素直でない人というのもいる。

素直な人は、なぜ伸びるのか。
自分の間違いを認め、正すからである。
そこに虚飾がないからである。

子どもが「わからない」という。

「何でわからないんだ」「わからないのが悪い」というのは、普通の人である。
「自分の教え方が悪い」といってやり方を変えるのが、伸びる教師である。

ちなみに、一方で子どもの方には、単純にそのように教えてはならない。
他人のせいにはさせず、自分でできる努力を促す。
あくまで、教える側の心構えの話である。

授業は、「させていただく」つもりで行う。
だから、最初と最後に礼をする。
一緒に一つの時間と空間を共有した、子どもたちへの礼儀である。

授業等で、人に見られるのが緊張する、という人にアドバイスがある。
「どうせ下手なんだから、教えてもらおう」と思うことである。
かっこつけて上手く見せようとすると、大抵うまくいかないものである。

虚飾を取り去れ。
古来より言われる、真実を求める際の箴言である。

2019年10月20日日曜日

教育に競争を持ち込まない

学校教育における「競争」について。

先に結論を述べる。
学校教育に競争を持ち込むと、ろくなことにならない。
メリットより害悪の方がはるかに多い。
なぜなら、競争は協働の力を削ぐからである。

ちなみに、教員評価制度もこれである。
一緒に働く仲間同士に誰かの視点で優劣をつけられると、うまく協働できなくなる。
損得勘定で働くことになり、結果的に評価につながらない損な役回りは誰もしなくなり、学校は荒れる。
要は、教育現場なのにアメとムチで人を動かそうということであり、退廃はわかりきったことである。
(「目立つ」子どもをよくほめる、叱る教師の学級が荒れるのと同じ原理である。)

競争は「相手より優位に、上に立つ」ことを目標とする。
1位が一番良いし、人より先んじることが善である。
最下位が最も劣る評定で、人と比べて遅れることが、そのままマイナス評価になる。

ここまで書いていることだけでも、教育の現場に全く馴染まないのがよくわかる。

ちなみに競争の象徴であるかのような部活動指導も、優れた指導者は競争原理ではなく、協働の原理を上手に使って導いている。
だから、チームの雰囲気が、誰に対しても本当にいいのである。
ただ強さだけを求めるチームは、差別やいじめがあるなどして、チーム内がぎすぎすしているはずである。
(競争は、ランキングというその性質上、必ず差別化を含む。)

健全な競争は、企業間にとっては有効に働く。
企業間競争が、顧客にとってのサービス向上にもつながるのも事実である。
(ただしこれが値下げ競争の形をとると、サービスの質の低下にもつながる。)
しかし、市場原理の多くは、教育には馴染まない。

なぜなら、学校にとっての顧客とは、子ども全員、一人一人だからである。
A君が1位でZ君が最下位、というような見方では、全員を「良く」したことにならない。
教育は「常時善導」であるべきで、自尊感情を損なうことは「悪導」(注:松尾造語)であり、マイナスである。

これは、例えば「叱ってはならない」ということではない。
叱ることによって善導もできるし、「悪導」にもなる。
ほめることも同様である。

この叱る・ほめるを、競争として使わないというのは、重要にして最もできていない部分である。
何かが人よりできたからほめる。
勝ったからほめる。
成功したからほめる。
何かが人よりできないから叱る。
失敗したから叱る。
負けたから、叱る。
結果を、他人と比べる。
全て、激しくマイナスである。
(だから、通知表を互いに見せるような行為は、厳に慎むべきこととして教える。ここは親同士も同様である。兄弟間も×である。)

特に、世間の一部で「ほめる」を手放しにプラスに捉える傾向があるので、要注意である。
以前も書いたが「100点をほめる」と、子どもはどんどん追い詰められる。
(参考:プレジデントオンライン記事「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234

叱るのは、人の道として誤っていると思うから叱るのである。
(怒るのは、感情的に気に入らないから怒るのである。人間同士の教育だから、それもある。)
ほめるのは、(上の立場から)相手の努力といった人間性に対して心からの賞賛、拍手を送りたいから、ほめるのである。
単なる結果でしかない点数をほめるのとは、全く違う。

勉強とは、競争ではない。
勉強とは、たゆまぬ自己研鑽である。
受験はどうだというかもしれないが、あれも根本は自分とのたたかいである。
結果はすべて自分を高めた結果であり、周りとの比較など本来関係ないはずである。
(とる側が合格して欲しいと思うような人間は、誰と比較しなくてもわかる。)

同じ方向を見つめる仲間と、競争ではなく協働して「切磋琢磨」すればいいのである。
「受験競争」でマウンティングしたり、相手を貶めたりする必要はない。

学級での些細な言動、あるいは授業の中で、ちょっとした競争をさせてしまっていないか。
それによって、ぎすぎすした人間関係を築く「悪導」をしてしまっていることを見過ごしていないか。

学級で協働がうまくいかない根本的な原因を、そういった行為が作っている可能性がある。
特に、親や教師といった大人が、他者より優れたい、自分だけが得したい、という思いがあると、それは子どもに移る。
教育において、競争原理の扱いについては、十分注意したい。

2019年10月16日水曜日

言葉遣いは、ゆるがせにしない

前号に続き、子どもへの礼儀指導について。

多様性への歓迎は重要である。
しかしそれは、礼儀の指導をしなくてよいということではない。

この二つは、相反する要素ではない。
どちらも、他者と協働して気持ちよく生きていくためのものである。

「自由」と「放縦」を勘違いしている場合がある。
大人にも子どもにもある。
特に、教える立場にある人がここを間違えていると、とんでもないことになる。

「礼儀指導」などというと、作法から始まり無数に考えてしまうが、要点を外さないことである。

根本・本質・原点で考える。

礼儀は何のためにあるか。

ずばり、相手を尊重する態度を示す、グッドコミュニケーションのためである。
そして、人を不快にしないためである。
それが、我が身を助ける結果となる。

親は、教師は、どこを確実に指導すべきか。

二十年に満たない教員経験による私見だが、肝は「言葉遣い」であると感じている。

どういうことか。

何をしてもらうにも「ありがとうございます」の一言が出る子どもがいたとする。
(「ありがざす」でも「あざーす」でもない。明瞭にである。)

この子どもに、プリントでも何でもいいからものを渡すと、何も言わない子どもよりも、両手で受け取る確率が高い。
「頂く時は両手で」という礼儀が同時に身についているのである。
家庭教育のせいなのかなぜかは知らないが、実態としてそうなのである。
当然、「どうぞ」と相手に渡す時も両手になる。

小学校高学年になっても、目上の相手に横柄な言葉遣いで話す子どももいる。
低学年であっても、丁寧な言葉遣いで話す子どももいる。
初対面であれば、それら子どもの印象は、それぞれ確実に決まる。
大人の側が、どちらを助けてあげたいと思うかである。

そしてどちらも、子どもの性質ではなく、大人がどう接してきたかで決まっている。
「不遜・不敬な子ども」を作るのは、間違いなく親と教師の両者である。

自閉症スペクトラムなどのコミュニケーション上の発達障害も考えられるので、言葉遣いだけで一概にはいえない。
ただ、基本的には、そう見られるというだけである。

礼儀指導は、無数にあって、全部教えるのは本当に大変である。
せめて言葉遣いだけは、「揺るがせにしない」教えるべき点として、身に付けさせてあげたい。

2019年10月14日月曜日

訓導して厳ならざるは師の怠りなり

教育実習で話したこと。
教えるべきは教えるということについて。

子を養いて教えざるは父の過ちなり
訓導して厳ならざるは師の怠りなり

毛涯章平先生という、長野県の先生のお話から知った言葉である。
『古文真宝』という中国の書物にある言葉だという。

教育において、ゆるがせにしないこと。
それは「教えるべきは教える」ということである。
まして、師という立場にあるのならば、厳として教える、ということである。
それをしないのは、怠け、怠りであるというお叱りの言葉である。

思えば、他人に対し、甘い、「優しい」というのは、楽である。
だから「大好き」となりやすい。
(「 」書きにしたのは、それが本来の意味とは異なるからである。)

これは、相手に媚びている姿勢である。
厳しいことを言わなければ、嫌われる心配もない。
「仲良しこよし」「友達親子」みたいな関係でいたら、楽である。

しかし、何のための師なのか。
その役目なら、本当の友達で十分である。
厳として導いてくれるからこそ、我が子を師の元へ修行に出す意味がある。

例えば職人のような専門家であっても、我が子に教えるのは難しい。
一度外に修行に出すのが常である。
「厳に訓導」してくれるからである。

これは師の野口芳宏先生の言葉だが、子どもへの教えは「常時善導」である。
学校に来て、来る前よりよくなって帰らないと意味がない。
教えるべきをきちんと教えたのかということが問われる。

教えることの「いの一番」にあげるべきが、礼儀である。
なぜなら、これは教わらないと「未知」になるからである。
知らないことは、できっこない。

礼儀は、考える余地を与えない。
文化ごとの決まり事、ルールだからである。
例えばある国では「内ポケットに手を入れない」というのは、命に関わるマナー、礼儀である。
(拳銃を出すと誤解され、撃たれる可能性がある。)
そんなこと、教えてもらわなければわかるはずもない。

だから、礼儀は確実に教えないといけない。
それで将来的に恥をかいたり苦労をするのは、教わらなかった子どもである。
実習生に対しても同様で、実習指導教官がそこにいい加減だと、後でとんでもない恥をかいたり、苦労したりする可能性がある。

成人している相手にあれこれ口うるさく言うのは、億劫である。
それでも素直な相手ならまだいいが、全員がそうとは限らない。
反抗されたりふてくされたりされたら、誰でも嫌になる。

それでも厳として教えるというのが、本来の「師」の姿である。
伝え方も大事であるが、言うべきを言わないというのは一番いけない。
それは、職務上の極めて重大な責務である。

これは本来、保護者に対しても同様である。
それが子どものためであれば、言うべきを言う。
しかし、保護者は、人によっては、より言いにくい。
先の例のように「教える、教わる」の関係にないからである。

誰に対してもそうだが、保身に走れば、確実にお茶を濁す形になる。
そこを、どう越えるか。
言うべきを言う。
教師という職務への信念・教育観といったものが試される部分である。

2019年10月12日土曜日

自分を自分のものにする

今回は、完全にエッセイ。
好きな絵本について。

国語の時間の一部を使って、一年半に渡り、毎朝の読み聞かせを続けている。
最初は私が読んでいたが、今は子どもが日替わりで読んでいる。
通算で三百冊以上読んでいる計算になる。

本当は、私が読みたい気持ちもある。
絵本の読み聞かせが好きなのである。
絵本自体が好きなのである。

一番好きなのは、ご存知、佐野洋子さん作『百万回生きたねこ』である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4061272748
担任したほとんどの学年で読み聞かせしてきた本である。
私が生まれるより前に出た本だが、私は大人になってから読んだ。
何百回読んでも、いい本である。

ねこは はじめて 自分のねこに なりました。

ここの一文が特に好きである。

自分は、本来自分のものである。
飼われている状態は、自分ではない。
我が子に対しても、学級の子どもに対しても、同じように思っている。
(「我が子」という言葉自体も、本当は間違っているように思う。)

自分が、自分になれること。
自分の人生にとっての主人公であるということ。
学級の中において、特にここを大切にしたい。

これは、他者が他者であることを認めるということと同義である。
自分のもの、所有物、ほしいままにしないということである。

自分が自分になるためには、他人を尊重する必要が出る。
そうしないと、自己矛盾が起きる。
他人を尊重しないということは、自分も同じ扱いを受けるということと同義だからである。

自分が他人に尊重されないことに文句を言う姿勢も違う。
自分を最も尊重するのは、自分自身だからである。
自分が認めてくれないのに、他人に認めてもらっても、満足しない。
他者承認を永遠に求め続けることになる。

ねこは、白いねこに出会って、子どもが巣立って、最後に死ぬ。
いつまでも幸せに生きることでなく、死を肯定的に捉えている点も、秀逸であると思う。

自分を自分のものにするということは、自ら愛する他人と共に生きるという選択肢も含む。
誰にも強制されずに、「そばにいてもいいかい」と頼む場面も、素敵である。

まあ、とにかく好きなのである。
前号でも書いたが「何を好きか」というのは、観が出る。
周りの人に「何が好き?」というのをきくのも、大切なコミュニケーションかもしれない。

2019年10月11日金曜日

どんな人を求めているか

野口芳宏先生からの学びと気付き。
自分自身を磨くということについて。

夏休みの間、野口先生のご自宅には、遠方より様々な方が集まった。
関東から近畿はもちろん、四国の人も東北の人も沖縄の人もくる。
北海道の団体や九州の団体もある。

この会は、実践発表もするが、その後は流し素麺をし、俳句会をし、宴会をするというような、実に気楽な会である。
今年も数回行い、私は「木更津技法研」のメンバーとしてお手伝いをさせていただいた。

ところで、これだけの人がわざわざ飛行機から高速バスを乗り継いでまで、遠路はるばる集まる理由は何なのかを考えた。

これは一言、人徳に尽きる。
「授業名人」として知られる野口芳宏先生だが、単に授業が上手いという人なら他にもたくさんいる。
授業を研究している団体も民間、学校問わずたくさんある。
しかし、個人としてこれだけ慕われて、多くの人々が集まるという人物は、稀であると思う。

野口先生は「教育の究極は、感化・影響である。」という。
子どもにとっての感化者、影響者であることが望ましい。
その本質は、授業技量の巧拙の問題ではない。

授業を軽んじている訳では決してない。
授業の技量は、学校教育の感化者としての一要素として、大変重要である。
しかしながら、知識や技術があっても人徳が低くては、それは単に知識や技術の「伝達」にとどまる。
それでは一時的に人気が出ても、本当の意味で人は集まらない。
(ちなみに、あまりそういう人はいないとも言われる。
子どものために授業技量を高めようとする過程で、人格も磨かれるはずだからである。)

観を磨くにはどうすればいいのか。
そういう人たちに囲まれるというのが、一つの手である。
どういう人物を慕っているかで、その人が求めているものもわかる。

教育観を磨きたい人は、人徳のある人のところに集まる。
技を求める人は、技をもっている人のところに集まる。
授業のネタが欲しい人は、授業のネタをもっている人のところに集まる。

自分がどんな師を求め、どんな仲間を求めているかで、自分自身がわかるかもしれない。

自分の学びの方向はこれでいいのか。
そこに迷った時には、そこに集う人や中心人物に目を向けるのも一つの手である。

2019年10月8日火曜日

子どもと一緒に汗をかいた分だけ、成長できる

教育実習でした話。

「子どもと一緒に汗をかいた量だけ、成長できる」ということを伝えた。

なぜこれを伝えたかというと、実習生の姿が実に爽やかだったからである。
まだ残暑と呼ぶにも厳しすぎる暑さの中、子どもと外で毎日全力で遊んでいる実習生。
笑顔で滝のような汗をかいている姿を見て、感動した次第である。

私はあまりに暑いので、教室内で〇つけ等をしながら悠々と過ごしていた。
そこでその姿を見て、恥じ入った訳である。
一念発起して、外に出て、やはり暑いので木陰で過ごした。
やや敗北感のある結果ではあるが、教育実習生に教えてもらった思いである。

実際、授業の成否を分けるのは、子どもとの人間関係次第である。
「授業の達人」みたいな人でない限り、人間関係のできていないところで良い授業をするというのは、かなり難しい。
授業技量が低くても、子どもとの人間関係を上手に作ってきた実習生は、子どもが何とか授業を成立させる。
そういうものである。

そういった経験を、初任者からも何度も何度も経て、段々に成長させてもらう。
子どもと一緒に汗をかけば、それだけ成長できるということである。

授業の準備を一生懸命する、ということができるのも、子どもと一緒に成長したいという思いがあるからこそである。
その思いを強くするのは、何となく「全体に教える」というものではなく、具体的なクラスの「〇〇さんの喜ぶ顔」である。

よく教育書や家庭教育本であるような「こうすれば子どもはこう動く」というのは、理論上の話である。
実際の生身の人間はそうはいかない。
それは、子どもと一緒に汗をかいた人だけが知っている。

掃除一つをとっても、自分は楽な作業をして、子どもに「がんばれ」で響く訳がない。
(「監視」してるだけというのは、最悪の形である。)
上から目線で子どもを見ている時と、自分が床に手をついて雑巾がけをしている時に見えるものは全く違う。

歌でも同様。
自分が一緒に楽しそうに歌わないで、子どもが歌わないのを「やる気がない」などといっている姿は、滑稽である。

子どもと一緒に汗をかいた分だけ、成長できるのである。

また、これは今回は話さなかったが、子どもといない時の涙も成長の一つである。
「悔しい思い」は成長の糧になる。
「あんなに準備をがんばった」のに、ひどい授業になってしまうこともある。
子どもや保護者、同僚との関わりで「あんなに一生懸命やった」のに、裏目に出てしまうこともある。

しかし、がんばった分だけ、気付きは確実に生まれる。
適当にやってうまくいったことに、気付きはないのである。
苦しみの経験は、確実に次の感動の経験へと積み上がる。

ぼーっと幸せに生きていると、そこには目が向かない。
苦しむこと、涙を流すことにも、大きな意味がある。
涙は未来への投資である。
今にとっては痛い支払いだが、未来にとっては大きな価値がある。

教育実習生から、初心を教えてもらった。
若者に負けないよう、自分自身も磨いていきたい。

2019年10月6日日曜日

近すぎて見えないなら、離れるべし

最近実感していること。
離れてみることの有用性について。

学年内で、学級担任を部分的に交換している。
授業ではなく、朝の会と帰りの会である。
学年職員として、それぞれがたくさんの子どもと関わるために行ったのだが、意外な効用を感じ始めた。

他の学級に入ると、その学級の様子が見える。
良さがたくさん見える。
4月に初めて担任した時のような感覚である。
「いいところ見つけ」サーチが自然とはたらく。

これが、自学級にも適用される。
学級の外から見て客観的になるため、本来の良さが見える。

更に、職員同士で子どものいいところの話になるため、それが加速される。
(子どもに対して批判的な人が入ると、もしかしたらうまくいかないかもしれないが。)

以前、このメルマガ上でも、離れて子育てすることの有用性について紹介したことがある。
(参考:ブログ『教師の寺子屋』2018.8.17記事 大原幽学の「子ども交換保育」作戦に学ぶ)
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/08/blog-post_17.html

思い返すと、この「離れて見ると良さが見える」ということは、あらゆる人間関係にも適用できる。

近すぎて、相手の「部分」しか見えなくなっているのである。
離れてみないと、その全体像も、有難みもわからないものである。

学級の子どもに対して、あるいは、我が子に対して厳しすぎると感じていないか。
だとしたら、何らかの手を打って、少し離れて見る機会をとることをおすすめする。

2019年10月4日金曜日

授業に発問は必要か

次の本を読んだ。

『教育と授業──宇佐美寛・野口芳宏往復討論』
宇佐美寛 (著), 野口芳宏 (著)さくら社
https://www.amazon.co.jp/dp/4908983313

帯に「授業名人×教育学界の最長老」とある。
「ゴジラ×モスラ」ぐらいの迫力である。
滅多にお目にかかれない、巨頭同士の紙上討論である。

討論のテーマは多岐に渡るが、いずれも国語教育における「読み・書き」の指導がその中心である。

以下、読後の気付きを書く。

読みの力をつけるための、問いを中心とした授業の是非について。

宇佐美氏は一貫して「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張である。
つまりは、予習を含めた自己教育の連続によって伸びる、と読み取れる。
内発的動機づけを大切にしているともいえる。

そして発問に対しては、一貫して否定的である。
発問・応答の授業による経験というのは、例えるならドローンをその土地に飛ばして情報を得る「メタ経験」だという。
その土地を自力で直接歩いて情報を得る「読む経験」とは異なる別種の経験であるという主張である。

宇佐美氏の論を読むと、誰しもが納得である。
しかし、野口氏はこれに反論する。

野口氏は一貫して「発問の生産性」という主張である。
「問われて気づく」「問われて初めて見えてくる」ということから、発問は有用、有益である。
これを支える事実として、「裸の王様」の授業やトルストイの「人間にはどれだけの土地が要るか」という寓話の授業を示している。

「裸の王様」という作品自体は児童文学であり、子どもが自力で読んで楽しめる、という構造をもつ。
しかしながら、自力で読んだだけでは、「王様は愚かだ」という浅い理解のままで終わってしまう。
「このお話の中で一番愚かなのは誰か」という問いで貫くことで、見える世界が変わってくる。
子どもの「不備・不足・不十分」を顕在化させるのが発問である。

(この発問の意義については、共著の『やる気スイッチ押してみよう!』でも「ごんぎつね」の授業を例に書いた。
参考:『やる気スイッチ押してみよう!』https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149

発問には「あれども見えず」を顕在化する、という点において価値があるという主張である。

そう考えると、この本自体が「発問」ともいえる。
両者の討論から、自分では見えない世界を見せてくれ、自力のみでは到底辿り着かない気付きを与えてくれる。
つまりは、この本が「発問の生産性」という主張を支持しているといえる。

しかしながら、この本を読んでいるのは自発的な読書活動であり、自己教育であるともいえる。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という宇佐美氏の主張の通りである。

では、両者どちらの主張が正しいのか。

これこそお叱りを受けそうだが、一読者としての私の結論は「どちらも正しい」である。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張は全くその通りである。
一方「発問の生産性」についても、全くその通りである。
これら二つは、表面的には逆の主張のようで、本質的に相反する主張ではない。
しかし、だからといってただ受け容れるのではなく、相手の主張の不備を突くことによって、さらに互いの主張が深まるという構造になっている。

実際には、「自力で読む」という経験と「問われて気付く」という経験を往還することで、読む力がつく。
浅い自力読みを何度繰り返しても、浅いままである。
一方、毎度他者から問われるのを待つような受け身の姿勢では、当然自力で読む力はつかない。
だからこそ、両者の往還が必要なのであり、この紙上討論自体、両巨頭がそれを具現化していると読み取れる。

東洋哲学者の安岡正篤氏の言葉に「良き師 良き友 良き書物」とある。
師の問いによる気付きも、書物による自己教育の学びも必要である。

この本の中でも述べられているが、相手を打ち負かすことが討論の目的ではない。
そこから新たな価値が生み出されること、真理を追究することが目的である。
両巨頭はこの紙上で互いを「良き師」とし、「良き友」とし、結果として互いにとっても万人にとっても「良き書物」を生み出していると読み取れる。

この「発問」のテーマ一つをとっても、これである。
他のテーマも同様に、大変高度なやりとりがなされている。

今年度一番ぐらいの、おすすめの本である。
「討論は苦手」「すぐに人に説得されてしまう」という人にも、是非一読をおすすめしたい。

2019年10月2日水曜日

いちいち問う

常識とマニュアルは、便利である。
考えなくても自動化できる。
何もかもオートマチックという点で、今の時代の流れに合っているともいえる。
個々の性質によらずに、均質化も図れる。

一方で、常識とマニュアルに慣れると、「何のため」が抜け落ちる。
いきなりマニュアルを丸暗記から入ると、もはや思考の余地はない。
「今までがこうだったから」「例年通り」も同じである。

こういうことを若い人にいちいち言うと、うるさく思われるかもしれないという恐れもなくはない。
しかし、言うべきは言うというのが、大切である。
教育においては、相手にとってプラスになるか否かが価値であり、判断基準である。

そういう訳で、教育実習生にもいちいち問う。
「何で授業前に礼をするのか」「誰が誰にしているのか」
「挨拶は子どもからするべきか、教師の側からするべきか、あるいはどちらでもいいか」
「授業中に手いたずらをしている子どもがいても、注意しないことがあるのはなぜだと思うか」
・・・
きりがないほどある。

問う基本は「普通はこうでしょ」と思われることである。
その普通に、妥当性や意義があるのか、改めて問う。
そうすると、一つ一つの所作が変わってくる。
問う側にとっても、改めて考えたり、違う視点からの新たな発見をするきっかけになる。

本当に放っておけば育つなら、教育はいらない。
教育実習だっていらない。
「高校生は無理だけど、小学生に教えるぐらいならできる」という言葉をきくことがあるが、とんでもない誤解である。

特に小学生は「何で??」の塊である。
(ちなみに大人から小学生に対しても「何で??」な言動をたくさんする。)
幼児や小学生に対する大人は、このいちいちに「何でだと思う?」と切り返して、
「それはね・・・じゃないかな」と語れる力が必要なのである。

この「・・・じゃないかな」というのがポイントである。
子どもの大抵の問いに対しては、絶対解がない。
空が青い理由も、虹が七色である明確な理由も、子どもが本当に納得できるように説明するのは不可能である。
(「ふ~ん、そうなんだ~」と合わせてくれはする。)
というよりも、世の中の大抵の問には、絶対解がない。

「1+1=2」というのは、四則計算の演算上は絶対のことだが、現実には普遍的な絶対解ではない。
現実に、ある二人が一緒に仕事をした時の仕事量は、1+1が3になる場合や、1+1が-1になることもある。
だから、本当に頭のいい子どもにとっては逆に「何で?」ということになる。
よく考えているからである。

全ては「この場合はこう」とか「こういう考えもある」という程度である。
その解を、視点を、複数もっていることが大切である。

結局、教育実習ではハウツーやマニュアル、常識も教えるが、「観」の育成が何よりも大切である。
子ども観、教育観、人間観の育成の場である。

そう考えた時に、自分がどうであるかということの影響力は大きい。
教え方の研究どうこう以前に、自己修養が大切と考える次第である。

2019年9月29日日曜日

教育虐待の根本は、大人のコンプレックス

次の本を読んだ。

『ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』
おおたとしまさ著 ディスカヴァー携書

本のタイトルからして強烈である。
著者は、家庭教育や受験に興味のある親であれば、聞いたことがある人も多いかもしれない。
現場の教員には絶対に書けない刺激的なタイトルである。

ちなみに帯には次の言葉が書いてある。
================
「あなたのため」は呪いの言葉

何が「過度に教育熱心な親」を駆り立てるのか?
================

刺激的である。

さて、内容だが、タイトルの刺激以上に、実に丁寧なルポルタージュである。
教育虐待を受けた子どもだけでなく、その兄弟や親までを公正な視点で追っている。
また「子育てベストセラー本」や一般的に良いとされている教育手法への疑問も呈しており、一読の価値がある。

全体を通しての自分なりの気付きがあった。
それは

大人のコンプレックスが全ての虐待を生む

ということである。

大人の側にある種の見栄があるとする。
よく見られたい。
他人より優位に立ちたい。

そのための自己実現の道具として、子どもが利用される。
それが、教育虐待の始まりである。

「しつけ」と称する暴力行為もこれに当てはまる。
自分の思い通りに相手を変えたいから、暴力をふるう。
あるいは、周りから自分のしつけが悪いからと思われるのが嫌だから、子どもに暴力をふるったり圧力をかける。
特に専業主婦の場合、夫がうるさい、姑がうるさい等、周囲の雑音が大きいほど、こうなりやすい傾向があるらしい。

すべて、根本は大人の見栄とコンプレックスである。

私は基本的に、教育に関心が高い親の方がよいと思っている。
子どもを「授かりもの」として、ある種「自分とは別の個人」として捉え、本当の意味で「子どものため」を考えているなら素晴らしい。
しかし、この関心の高さが、見栄や私心によるものだと、激しくマイナスである。
かけ算でマイナスをかけると、絶対値が大きい分だけマイナスが大きくなるということと同じである。
それなら、関心が低い方がマシである。
(これはそのまま、教員にも当てはまる。)

自分は、毒親、毒教師になっていないか。
自分のやってきたことにある程度の自信がある人ほど、一読をおすすめしたい本である。

2019年9月28日土曜日

教育における「ハウツー」は通用するか

「こうすればこうなる」というのが「ハウツー」である。
ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。

ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。

これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。
「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。
タイプとは、類型化である。

例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。
大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。
しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。

教育書や育児本などの教育ハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。
似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。
違う人間なのだから当然である。

兄弟は違う性格に育つ。
同じ親が育てているのにも関わらずである。
「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。
よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳の時点で全く違う。

つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる「種」が違うと考える。
当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。
胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。

実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る。
(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する。)

多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。
均質ほどつまらないことはない。
ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。

競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。
しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。

公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。
協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。
独自の個性を発揮して、他と調和することである。

ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある。
(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。
「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる。)

多種多様な個性の育成。
これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。

2019年9月27日金曜日

学校の常識を見直す

学校の常識への疑いについて。

諸外国の学校では、道徳の授業がない。
宗教があるので、そこが担保しているといえる。
日本の学校でも、ミッション系の学校などでは、神様について学ぶ時間があるという。

常識というのは、宗教が担保する部分が大きい。
各宗教の中で、例えば「愛」「隣人に優しくすること」「生かされていることへの感謝」「労働への感謝」などが教えられる。
道徳の内容はほぼ全て網羅される。(しかし、全ての国でその道徳的な行為をする国民が育っているかは別問題である。)

一方で宗教というのは、為政者にとって都合のいいように捻じ曲げられて利用されている部分もある。
「その地位に生まれたら、そこに感謝して労働をして生きるのが正しい」
「貧しくてもいい」という信念は、為政者にとって大変都合がいい。
反乱を防げるからである。
一部の権力者が利益を貪ることにもつながる。

これらの考えを踏まえて、学校の常識に戻る。

学校の常識を規定しているのは何か。
例えば中学や高校の校則などは、誰かにとって都合がいいようにできている。
校則のない小学校でも「常識」「当たり前」「いつもそう」が、誰かにとって都合のいいようにできている。

誰にとってなのか。
学校の存在価値は、子どもにある。
つまりは、児童・生徒にとって都合がいいようにできているはずである。

・・・そうかな?という疑問の声が子どもたちから当然上がる。

子どもにとって都合のいい常識、というのもない訳ではない。
「全ての教育活動において、子どもの安全に配慮するべき」というのは、望ましい常識である。
一昔前は、ここがないがしろにされていた感も否めない。
部活動においても、死ぬほどきつい訓練が「常識的」に行われていた時代もあったし、体罰が当然という時代もあった。

これらの常識は、時代の流れに沿って、望ましい形で変わっていったものといえる。
つまり「常識は変化する」ということが常識にとっての一つの命題である。

一方で、変化していない常識もある。
学校には、この方が多い。

昭和(あるいは明治・大正)の頃から未だに変わらない、という類のものは、全てこの「変化していない常識」である。
常識というのは、誰かしらに都合がいいから定着した訳である。
あるいは、不易のものとして本当に価値があるから定着していることもある。

一体、その常識やルールは、誰にとって都合がいいのか。
子どもにとってのものであれば、それは問題ない。
しかしもしそれが、大人にとっての都合、大人にとっての安心感のためであれば、それは見直すべき常識やルールである。

2019年9月25日水曜日

子どもファッションの記号を読み解く

髪染め問題に関連して、ファッションの読み解き方や対応について。

持論だが、ファッションは、記号である。
つまり、「自分はこういう人間だ」「こう扱かって欲しい、見て欲しい」という外的アピールである。

「ファッションに無頓着」というのも一つのファッションである。
つまり「外見に判断を左右されない人間だ」というアピールになる。

スーツや制服も記号である。
「社会的安定」を表す。
スーツや制服を着崩すというのは、社会的安定へのアンチというメッセージになる。
(単に着方やマナーを知らないというのは別問題である。)

染めた金髪も記号である。
周りがそうでないからこそ、反社会的メッセージになる。
「周りの普通とは違う」というアピールになる。
みんな金髪が普通の文化の中では、そのアピールができない。

また、マンガやドラマのキャラクターやアイドルに憧れて染めたい、そういう髪型にしたいということもある。

いずれの場合にせよ、発したいメッセージと、受け取る側のメッセージに齟齬が生まれる可能性がある。

例を挙げる。
「木更津」というとどういうイメージがあるだろうか。(全く知らない人もいるかもしれない。)
元々は、「証城寺の狸」のイメージであり、現に木更津市内にあるマンホールの蓋はどれも証城寺の狸と歌詞の絵柄である。

しかし某映画で有名になったお蔭で、それよりも「ヤンキー」のイメージが強くなったように思う。
だから、木更津では、アイドルも含め、チラシやポスターでも割とヤンキーファッションが多い。
昭和の暴走族の「夜露死苦」なイメージである。
しかし、外国人の考える日本人のちょんまげ問題と同じで、木更津の一般人には、そんな恰好をした人はもちろんいない。

これは一つの「木更津的」という記号であり、文化である。
木更津の一般人的には完全に誤解なのだが、「ヤンキー」は木更津(あるいは横浜)を示す記号である。
(お陰で、一部の人々の中で「木更津は家庭が荒れてるらしい」という誤解があることが判明。もはや完全にネタである。)

だから、ヤンキーファッションをすれば、それだけで「木更津っぽい!」ということをアピールできる。
(木更津の狸のご当地キャラを一度リーゼントにさせたいと思っている木更津市民は、私だけではないはずである。)
つまり木更津市内で荒れてる風を目指してヤンキーっぽい感じにすると、ネタっぽくなってしまい、本当に荒れてるアピールはしにくい。

何が言いたいかというと、教師は子どものファッションを「記号として受け止める」という姿勢で読み解く必要がある、ということである。
例えば高学年女子相手であれば、その奇抜さは「おしゃれに見せたい」のか、「荒れてる」アピールなのか。
読み解き方で、対応が変わる。

割とよくあるのが、夏でも長袖や厚着、フードを被る、マスクを取れないといったパターン。
内に籠っている。(日光に当たってはいけないという理由等のこともあり、その場合は別。)
外と関わりたくない、あるいは身体を見せたくないという思いがあり、そのアピールである。
無理に外させると、心理的に不安定になる。
理解して見守る姿勢が必要かもしれない。

余談だが、海外では外でマスクをしていると、怪しい人と警戒されるそうである。
マスク常用は、旅館の浴衣で出歩くのと同様、日本国内でのみ通用する「常識」である。

閑話休題。

つまりは、ファッションという記号から、感じるままではなく、正しく相手の思いを読み解くということである。
特に低学年であれば、親の思いや方針も読み取れる。
いわゆるきちんとした恰好をさせているようなら、そういう風に育って欲しい、見て欲しいという願いになる。

何日も同じ服を着ている場合はどうか。
この場合の読み解きには、全く異なるパターンがある。

一つは、こだわり傾向の可能性。
自閉症スペクトラムの特徴の一つで、子どもが他の服を嫌がってそれしか着ないのである。
(あるいは単に幼児性がまだ強く、こだわっていることもある。)
親は苦労して毎日洗濯&乾燥をしている、あるいは2着以上同じものを用意している。
学校生活でも、そういう傾向がある可能性を考えて接する必要がある。

もう一つは、ネグレクトの可能性。
着るものをまともに与えられていない。
この場合、大抵は洗濯していないので、臭いが判断基準の一つとなる。
虐待の可能性を含めた丁寧な対応が必要である。

ちなみにここと関連して、公立小学校でも制服という場合があるが、これはいじめから守るための手段ということもある。
制服であれば、家庭の経済格差が表に出ない。
お坊ちゃん、お嬢様風にするためではなく、「配慮の制服」である。
制服というもののもつ、一つのプラス効果である。

ファッションは記号。
これは当然、教師の側にも当てはまる。
自分がどんな風に見られたいと思っているのか、あるいはどんな風に見られているか。
改めて観察してみると、新たな発見があるかもしれない。

2019年9月23日月曜日

本当は、きちんとしたい方なんだ。

災害復興支援ボランティア活動での学び。

千葉県各地は台風で大きな被害を受けた。
県内各地でボランティアセンターが立ち上がったので、私も参加させていただいた。

センターにはボランティアとしての心得が書かれており、冒頭に
「ボランティアは、させていただくという精神でのぞみましょう」
というように書いてあった。

この考え方が常識になってきたということである。
そして、参加させていただく度に、この言葉は本当だと実感する。
以下は、そこに関するエピソードである。

例のごとく、私が一緒にいるのは、南相馬へ定期的に活動を続けている「被災地に学ぶ会」のチームの面々である。
チームには見るからに職人の方もいるし、私以外は明らかに「慣れている感じ」の雰囲気の方々である。
そういうチームには、優先的に大変そうなところを回していただける。

今回の災害で多い依頼は「屋根が吹き飛んだから助けて欲しい」というパターンだったようである。
ニュースで流れている通り、ブルーシートを張るような作業である。

私たちの向かった先の家屋は、屋根の一部がなかったのではなかった。
屋根はおろか、二階部分の一部屋が、完全に「青空」である。
屋根の補修ではなく、雨風でめちゃくちゃになったものや、できればそれ以外のものも全て廃棄して欲しいという依頼である。

そして、一人暮らしの高齢者の男性宅である。
それも、奥様を亡くして久しいようである。
家の中がどうなるか。
想像がつくと思う。
(テレビでよく流れるあの状態である。あれは、やらせではなく、現実である。)

正直、私の中では「これは台風どうこう以前の問題では・・・」という思いがあった。
しかし、私のその浅はかな考えを叩き潰すような言葉を、60手前となるチーム最ベテランの方が仰った。

一階の、恐らくご主人の部屋であろう場所に、たくさんの古びたスーツがあった。
それを見て、次のように呟いた。
「きっと、この方は、本当はきちんとした方なんだ。
だけど、きちんとしたくても、きちんとできない状況だったんだよ。
だから、辛いんだよ。」

二階のものは全てめちゃくちゃだったので片っ端から捨てたが、かろうじて、タンスだけは無事だった。
タンスを開けると、中には、女性の洋服がきれいに整頓されて、ハンガーにかかって並んでいた。
まるで、昨日まで誰かが使っていたかのように、その中だけ、時が止まっているかのようだった。

見て一瞬の後、タンスの扉をそっと閉めた。
「ここだけは、中身も大丈夫みたいだから、手をつけないでおきましょう。」
ということで、タンスだけはそのまま残した。

チームの仲間の方のお陰で、自分の考えの浅さ、思慮のなさに気付けた。
人のことなど、本当は何もわからない。
自分の教えている子どもや保護者のことも、わかっているようで、わかっていないのである。
きっと、そのことを教えていただくために、この日は、このお宅に呼ばれたのかもしれない。

人間というのは、複雑である。
師の野口芳宏先生から教わった言葉に
「人間は、無限多面体である」
というものがある。
今回の件は、その意味を改めて考えさせていただける機会であった。

今回も、ボランティアに参加したのは、完全に自分のためである。
「人を助けてあげよう」等という優しい思いからではない。
自分の存在が何か一寸でも役立てられそうなら、自分のために自分を使いたいという思いだけである。

結局、願い通り、そういう結果になった。
自分のためになった訳である。
自分の他人への見方に、大きな誤り、偏りがあることに気付けた。

「誰かの何かをダメだと思ったら、自分の中に何かダメな部分がある」
ということである。
自分の目に、心に、映る全ては、鏡である。

その日の夜は、予報通り大雨が降った。
全国各地から集まってくださった方々の活動が、少しでも誰かの助けになれていたら、いい。
きっと、活動した方々の方の心も救われたと思う。
それだけでも、その日に日本が、世界が少し良くなったのではないかと思う。

2019年9月21日土曜日

「悪い子」は存在するか

「どうせ俺が悪いんだろ」

何か子ども同士でトラブルがあって事情をきく時に、よく口にする言葉である。
このセリフを口にする時は、目つきもいつもと全く違う。
(大人でも結構あるかもしれない。)

ここまではっきり言ってくれる子どもならわかりやすい。
自分のことをどう思っているのか。

認識としては間違いなく
「みんな自分のことを嫌っている」
「周りは敵」
である。

何が子どもをそうさせたのか。

これは、明らかに、周りの大人である。

子どもが子ども同士で良い悪いとジャッジするということはない。
もっているのは、周囲の大人に与えられた物差しである。

教師にいつも叱られている子どもがいる。
あるいは、教師がいつも指導に困っている子どもがいる。

周りの子どもはそれを見ている。
そして判断する。
「あの子は、先生とみんなを困らせる悪い子。」

本人も判断する。
「自分は悪い子なんだ。」

これが全ての不幸の根源である。

これが、家庭でもなされていることがある。
「○○君は悪い子だから、遊んだらダメよ」

私が子どもの頃から、世間一般でよく言われていたセリフである。
これは、残念ながら今でも変わらないようである。

先生と親に「悪い子」と認定をされた子ども。
「悪い子」確定である。

誰が悪い子をつくったのか。
繰り返すが、周りの大人である。
本当の意味で「悪い子」というのは、本来存在しない。
大人が子どもたちに信じ込ませ、作り上げた存在である。

「私はそんなことをしていない」
と真面目な教師ほど思う。
しかし実は、真面目な教師ほど、これをしてしまっている可能性が高い。
そういうことを一切したことがない教師というのは、地球上に恐らく存在しないのではないかとすら思う。

真面目な教師ほど、問題行動を流さない。
つまり、問題行動を子どもの前で取り上げて指導する場面が多くなる。
もちろん、必要なことであり、善意であるのだが、必然、特定の子どもを叱る場面が増える。

これで子どもが「悪い子」と認識しない方が難しい。
私自身を振り返ってみても、子どもにそういった「誤学習」を数えきれないほどさせてきたと思う。

悪い子を作ったのは、間違いなく、私である。
「悪い子」の認識から脱する手助けをできた子どももいたかもしれないが、多分その方がずっと少数である。

本来「悪い子」は存在しない。
一方で、望ましくない行動は存在する。
何かというと、「侵害行為」である。
いじめも侵害行為の中の一つである。

いじめは、された側が嫌だと思えば成立する。
した方の認識は無関係である。

ここがポイントで「悪い子」にされてしまう子どもは、ここが上手くできない。
決して意地悪ではないのに、相手が嫌がっていることが、さっぱりわからないのである。
双方不幸である。

ここを救えるのが、大人である。
「悪気がないのはわかっている」と認めた上で
「それは相手にとっては嫌なんですよ」と教えてあげることが仕事である。
教諭は、教え諭すのが仕事である。

これは、手間がかかる。
まどろっこしい。
忙しいと、すっとばしたくなる。

だから、一気に叱るという誤った行為になってしまう。
ここが悲劇の始まりである。

そうすれば、「悪い子」認識は本人も周囲も一気に進む。
繰り返せば、それは「信念」になり「常識」になる。
容易に崩すことができなくなる。

教師に、悪気はない。
ただ、自分の担任している子どもたちを守り、助けたいのである。
しかし、クラスの中のたった一人を「犠牲」にしてしまったら、全員にとってマイナスの教育なのである。
「異質の排除」を教えることになる。

もしも「悪い子」が存在するとしたら、それは大人の責任である。
その子どもが悪い、直させようと思っている限り、変わらないかもしれない。

すべては私の責任です。
すべての大人がそう思うことで、子どもは変わる面があるのではないかと思う。

2019年9月19日木曜日

我が子を金髪に染めてもいいか問題 結論

「髪を金色に染めてもいいか」問題の続き。

再三述べているように、私自身は髪を染めること自体をダメとは一切思わない。
ルールにもない。

しかし、ルールにないからやっていいか、というと、先の例のように、話は別である。
生きていく上では、ルールにないことの方が圧倒的に多いのである。
そんなことは「お互い気持ちよく」という範囲でわかる話なのである。

その集団の場に、どんな常識が通っているかである。
そこに反しない限り、公共の福祉に反しない限り、人々は自由である。
しかしそれが、公益に反する行為であれば、制約を受けるかもしれないし、自粛すべきかもしれない。

私は大声で喋りたいのだ、忙しいから携帯電話でいつでも話したいのだ、という人がいる。
日本における電車や飛行機の中で、それは可能か。
飛行機は、安全上云々の理由がつけやすいので、お断りしやすい。
(「皆様の安全のため」は最も強い理由付けである。その実の目的はマナー面である。)

しかし電車だって、ルールとして罰則はなくても、危険性はなくても、マナーとしてお願いされていることである。
その方には申し訳ないが、やはりこの場は自粛して控えていただきたいというのが大方の意見である。

「金髪問題」も同じなのである。
その本人に似合うかもしれないし、ルール違反ではないのだが、染める必然性がなければ、周囲の理解は難しい。
決して道徳的に反している訳でも社会的な悪という訳でもないのだが、奇抜すぎると場の「お互い気持ちよく」にそぐわない可能性がある。
そして何より心配なのが、今の常識からいうと、目立つ髪型や服装が「悪い大人」に狙われやすく、誘われやすくなる、という一点である。
つまり、実は「命の危険性」と関わって考えるために、承諾できないという実情がある。
(「大人になったらOK」の最たる正当な理由はこれである。大人になれば、安全の責任すらも自分である。)

私立学校などでは、その辺りが自由なことが多い。
周りもみんな頭髪、服装がバラバラで、それが「常識」なので全く問題にならない。
自由な分、失敗も自己責任という考えが、保護者にまで浸透している。
つまり、ルールがないかわりに、自己で責任をもつという教育方針である。
特に都心部、繁華街近くであれば、そういったことによる安全面についても、共通理解の上十分に指導されているはずである。

ちなみに「服装の乱れは心の乱れ」というが、これも使われる場面が、本来の意味とは違う気もしている。
本来の意味は「襟を正す」というように、自己の乱れに気付くために、自己を見つめ、態度を改め、気持ちを引き締めることである。
子どもからすれば、気持ちが乱れている(=「悪い子」)からそういう髪型やファッションなのではないということもある。
従って、他人に頭髪や服装を変えさせようと正当化するための便利な言葉として使うべきではない。

日本におけるこの「髪染めと服装の問題」は根深く、社会構造や常識の問題とも関わる。
学校だけではなかなか安易にOKを出せない、という本音がここである。
(単に考えずに「学校ルール」で断っている人もいるかもしれないが。)

よって、子どもの主体性や自由を強く志向している教師であっても、公立であれば現状「金髪OK」は安易に出せない。
(同時に、茶色い地毛を黒く染めろという「指導」には全く同意できない。それは人権侵害である。)
「なぜ我が子の金髪が認められないのか」という親御さんには、この辺りの事情だけでも知ってもらえれば、という気持ちである。

2019年9月17日火曜日

「ルールに反していなければいい」は主体性の真逆

前号に続き、「金髪に染めてはいけない」問題についての考察。

「ルールに反していないから、いいのだ」という考えは、主体的な生き方の真逆である。
それはつまり、何を判断するにも「ルールだから」ということである。
無条件にルールに従うことが、最も頭を使わない。

大抵の公立小学校には、明確な校則はない。
あるのは、注意事項や慣例、マナーだけである。
(一部、校則やルールブックがある小学校も存在する。)

「ルールだからそうする」というのは、「ルールに反してないことならしていい」となる。
しかし、ルールと付き合っていく態度として、これは間違っている。

本来、ルールというのは、それを設定しないと不自由や不都合、生きづらさが出るために作られている。
人々が主体的に気持ちよく動けるために存在するものである。

ちなみに、ゲームというのはルールが必須要素である。
ルールのないゲームは、ゲーム足り得ない。

サッカーを例に考えてみる。

「キーパー以外手を使わない」というのは、ゲームの面白さを保証するための基本ルールである。
手で運んだら、違うスポーツになってしまう。

「相手をつかんで引っ張ってはいけない」というのも当然のルールである。
球技で相手を直接つかんで押さえていいのは、ラグビーやアメフトぐらいである。
しかし、それを裏でやっている選手もいる。
ボールから離れたところ、審判の見えないところでやるので、ファウルを取られないのである。
(ひどい人だと、肘で腹や胸を殴打してくる。そういったプレーを公然と指導する監督もいる。)

これをどう考えるか。

「審判に見られていないからファウルではない。正当だ。」と考えるか。
「スポーツマンシップに反する。不当だ。」と考えるか。

オリンピックのような国際試合の場合、単なるスポーツというより、国益に関わることもある。
必死になって、そういうプレーをする選手もいるのかもしれない。指示されるのかもしれない。
ここでは、学校教育の場で考える。

「ルール違反でもファウルを取られないからいい」というのは、そもそもルールから外れている。
これは、明らかに不正である。
学校教育として考えた場合、議論の余地はなく、否定すべきものである。

では、次のような場合を考える。

サッカーにおいて、わざと一度外にボールを出して、相手チームがボールを返すことがある。
どういう場合かというと、ファウルは取られなかったが、誰か選手がケガをして倒れているので試合を一時止めるべき、という時である。

ケガをしている人が心配なので、ボールを出した。
ボールを出されたチームの側は、「ありがとう」という気持ちでボールをスローインで投げ返す。
会場からは拍手が起こる。

当たり前だが、こういう「ルール」はない。
ルールはないが、これがスポーツマンシップに則ったマナーによる行動であり、常識である。
(常識とは本来、その集団内においてそもそも説明しないでもなぜそうするのかわかる、自明のことである。)
先の「見えない場所で引っ張る」の真逆である。

学校教育で育てたいのは、どちらの人間か。
ルールに反してなければ、罰せられなければ何をしてもいいと考える人間か。
人々が気持ちよく生きるために、どうすべきか自ら考え、選択し行動する人間か。

答えは明白である。

つまりは、「ルールに反してなければいい」は、主体性の真逆である。

次号も、「金髪問題」について考える。

2019年9月15日日曜日

「金髪に染めてはいけない」をどう考えるか

夏休み中、採用試験対策として、一部の学生の相談を受けた。

その中で「金髪に染めた子の親から、頭髪も個人の自由ではないのか」と問われたらどうするか、というのがあった。
これはなかなか面白い。
採用試験の答えとしては、最終的にきちんと親に理解してもらい、金髪をやめてもらうという方向になるだろう。
当然である。
そのまま認めてしまうといった無対応や、無理矢理染めさせるというような体罰的回答では落選確定である。

しかし、本当の現場を想定すると、ここはなかなか考えるべきところである。
根本的なところまで深堀りして考えてみる。

金髪自体が悪。
この説は当然成り立たない。
世の中から相当な批判を食らうことになる。
人体の特定の色が正しいとか正しくないとかいうことは、人種差別問題でもある。

次に出るのが
「それが遺伝による自然な色ならいい」という考え。
つまり、不自然だからダメということである。
見るからに「金髪の人種」の人であれば問題ないということである。

この説で問題になるのが、生来色素が薄い子どもたちである。
髪の毛の生来の色が、かなり明るい茶色なのである。
しかし顔は日本人。
「染めた」「染めてない」で揉めることになる。
これは主に中学での「黒染め強要事件」として枚挙に暇がない。

ちなみにこの考えに沿うと、白髪染めは悪、かつらも植毛も悪、パーマもカットも悪である。
「ファッション」「装飾」という概念自体への否定である。

それを出すと、ここに続けて出るのが
「大人はいいが、子どもはダメ」という考え。
これはよく例に出す、中学校の「一年生は白い靴下ワンポイント以外ダメ」みたいな謎ルールの仲間でもある。

この説が最も広い支持を得ている。
この説には、理屈があるだけで、明確な理由はない。
「頭皮への影響」「学校にそぐわない」等の理由付けはできるが、どれも今一つ歯切れが悪い。

なぜかというと、かなりの部分が大人にも当てはまってしまうからである。

ちなみにここまで書いておいて、私も多分実際には、髪色を戻す方向に家庭を促す。
なぜかというと、日本の学校社会において多くの人の支持を得ているのが、先の「大人はよくても子どもはダメ」説だからである。
これは「きちんとした接客業では金髪はダメ」というのと同じで「不快に思う人が多いから」である。

特に、中年から高齢者の層には嫌悪感が根強い。
そういう常識の中で生きてきたのだから、当然である。
その集合無意識を今更変えることなど到底できない。

国際社会としての常識はどうか。
頭髪を含めたファッションは「場に合うもの」というのがセオリーである。
場がオープンであるほど、自由度は増す。
フォーマルなパーティーにおいての服装と、ホームパーティーのファッションが違うのは当然である。
また様々な人種と文化が混じるオープンな国において、その自由度が増すのも当然である。

日本の学校社会というのは、オープンな場ではないということである。
かなり閉鎖的である。
よって、小学生段階で金髪に染めていて、後々に周囲に拒否されることは十分に予測可能なことである。
(子どもたち同士の間では特に抵抗がないかもしれない。)
だから、「指導」対象となる。

場の常識が変わらない限り、この流れは変わらない。
金髪でもピアスでもいいじゃないかというのは簡単だが、場の常識がそれを認めない。
もしここに異論があるなら、場の常識を変える必要がある。

学校の常識、日本社会の常識。
これを見つめ直すにおいても、この「金髪染め問題」は考えるべき題材である。

2019年9月14日土曜日

選書は「観」

夏休み中、気合いを入れてたくさん本を読んだ人もいるかと思う。
「どんな本を読んだらいいのか」という問いをよく頂くのでそこに答える。

結論から述べると、取捨選択。
取るために捨てることが大切である。

本を読むという行為は、心と頭という「無形のもの」への投資である。
投資ということは、資本として差し出すものがある。
何を差し出すか。
お金もそうだが、これは微々たるものである。
最たるものは、時間である。

どんな本からでも学べることはある。
これは間違いない。
一方で、これはあまり必要でない、つまらないと判断したら、それ以上読まずに捨てる(売る)という選択肢もある。
もっといいのは、買う前にその判断をすること。
ネット上でもいいのだが、ここに関しては本物の書店の方がよい。

時間という有限の資源を投資するのだから、よく選ぶ。
これが何よりも大切な最初のステップである。

ブログの特質上、教育に関する本に限定して述べる。

これは「観」が磨かれるものを選ぶ。
ここに尽きる。

これは「こうすると子どもをこう動かせる」という類のものとは対極である。
観を磨くとは、自分の心をどう動かすか、ということだからである。
子どもを含む他人というのは、物理的にも心理的にも支配すべき対象ではない。
まず統御すべきは、自分の心である。

子ども観が磨かれるもの。
教師観が磨かれるもの。
そして人間観や人生観が磨かれるもの。
これらを選ぶ。

教育書を読むのなら、その「観」が書かれているものを選ぶ。

例えば、「こういう時には○○と言えばうまく動く」と書いてあるとする。

これだけの本は、一時的には効果が出るが、長期的には役に立たないどころかマイナスである。
なぜそうするのか、どういう成長への願いがあるのかがわからないからである。
マズローの有名な言葉「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」のような状態になる。
なまじっか上手くいってしまった経験が一度でもできると、その方法に固執して、問題の本質が見えなくなる。

そうではなくて、なぜそうするのかが書かれているものを選ぶ。
拙著からで気が引けるが、次の本を例に挙げる。
『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

この本の中に
「高学年女子へは、同僚の女性に接するように」と書いてある。
その理由は、高学年女子が急激に大人へと変化している時期であり、甘えたいと同時に一人前に見られたい時期だからである。

「基本の接し方を、丁寧にすること」とも書いてある。
自分に対して、真剣に話を聞いて、丁寧に対応してくれる人に、悪意は抱きにくいものである。
人として「なめてる」のが良くない対応なのである。
高学年女子で苦労するポイントの肝がここなのである。
大切なのは、子どもとして尊重することに加えて、人としての尊重である。

基本の観がわかると、汎用性が出る。
先の例だと「なぜ丁寧に対応していくべきなのか」というのがわかると、他のあらゆる対応が変わる。
臨機応変が効くのは、観がしっかりしているからである。

読むのは、教育書でなくともよい。
観を磨くには文学作品も役立つ。
夏目漱石の「坊ちゃん」を読んで、自分はあの学校のどの教師に近いか、なぜそういう行動をとるのか感じるのも意味がある。

ハウツーではなく、じっくり観を磨く本を読む。
これだけが、自分の場合の選書のポイントである。

2019年9月11日水曜日

カメラを引く

夏休み、ペルセウス座流星群がよく見えた期間があった。
私は深夜に自宅のバルコニーに敷物を広げ、寝転がって観察した。
星空というのは、たまに眺めて見ると実にいいものである。

空を眺めていると、たまに「動く星」が見つかることがある。
流れ星ではない
そして明らかに飛行機でもない。
もちろんUFOでもない。
その正体は、人工衛星である。

この人工衛星の開発というのは、元をたどれば「ペンシルロケット」というものから始まる。
これの開発に尽力したのが、かのはやぶさが到達した小惑星「イトカワ」の糸川英夫博士である。
(参考URL:日本の宇宙開発の父 糸川英夫 生誕100周年記念サイト
http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2012/prof.itokawa/

前号で紹介した、日本を代表する職人の方が、この糸川博士に大変可愛がってもらっていたという。
糸川博士から教えられた数多くのことの中で、最も印象的な言葉が「カメラを引け」だという。

カメラを引く。
自分の中のカメラを引く。
後頭部が見えて、自分のいる場所が見えて、日本が見えて、地球が見えてくる。
そうすると、未来を含めた様々なことも見えてくるという。
ご先祖様にまで意識が向くという。

これも宇宙の話である。
意識と宇宙というのは、つながっている。
ロケットが宇宙に届くようになり、人工衛星が宇宙を漂っているのは、意識のなせるわざである。

この「カメラを引く」という意識は、メタ認知にもつながる話でもある。
この意識一つでも、見え方が変わるかもしれない。

2019年9月9日月曜日

人を育てるのは心 

以前から、一流に触れるという大切さについて、何度か書いてきた。
この夏、とあるつながりで、日本を代表する一流の職人の方に直接お話を伺う機会を得た。
工房には見習い職人の方々がたくさんいて、我々訪問者に社訓をはじめ、様々なことを丁寧に教えてくださった。

見習い職人の方々は、中卒から大卒、社会人経験者まで年齢構成は実に様々である。
そして、年齢に関わらず先輩が後輩の面倒を見るのが当たり前のシステムで、かつ全員が親方に忠実である。

曰く「下を入れるのは上のため」とのこと。
下が入らないと、上が育たない。
そして下が育てば、やがてその人も上になる。
即ち、互恵の関係である。

修行に際しては当然一筋縄ではいかず、一つの技術を習得するのにも、気の遠くなるような長時間を要する。
これをネット上では「ブラック」と称されていたが、とんでもない。
単に時間の長短や業務内容等を見て「ブラック」とするのは浅はかである。
条件や表面的なことしか見ていない。

本人の意思を無視して、強制するから「ブラック」になるのである。
私なぞはその典型で、意味が感じられずに強制されることは、たかが5分の作業でも嫌で本当に苦痛である。
逆に、主体性をもってやれることなら、時間がどんなにかかっても全く関係ない。
この境目は「目的意識の有無」である。
極端な話、自分の夢のためなら無限に努力できるという人間は一定数存在する。(それを努力とすら感じない。)
これは、大人だけでなく、子どもにもいえる。

主体性をもって行っていることは「ブラック」になり得ない。
例えば寝食を忘れて研究に没頭している研究者を「ブラック労働者」と呼ぶことはない。
本人が本当に好きでやっているのである。
誰にも止めることはできない。

この親方のところへの修行は、初日から終始一貫して「心づくり」が中心である。
日誌も毎日書く。
その過程で、技術も格段に向上していく。

これを見て、東京教師塾の原田隆史先生の部活動指導と根幹が同じだと感じた。
ご存知、大谷翔平選手も学んで実践している手法である。

心づくりがまずある。
そのために書く。大量に書く。
自身を磨く時間は、誰に指示される訳でもなく、際限がない。
毎日素振りを何時間やっても、苦痛ではない。

そして周囲の人々やあらゆる事物への感謝を伝え続ける。
活動の先に「利他」の精神がある。
技術はそこに附随してついてくる。

面白かったのは、親方の言葉の一つ一つである。
単に文面にすると、これがかなりきつい。
多分、教育現場で使ったとしたら「子どもにそんなひどいことを!」というクレーム殺到は間違いない。
(なのでここにも書けない。)

これが、実は全くきつくないのである。
むしろ嬉しい。
なぜか。
「愛情」が感じられるからである。
一見きつい言葉の裏に、深い愛情が感じられるからである。
傍から見ていても、師弟の深い信頼関係が感じられた。

逆に言えば、どんなに良い言葉であっても、心が入っていないものは空虚であり、害悪である。
思ってもいないことを「お世辞」「おべんちゃら」などというが、その類である。
それで人が育つ訳がない。
本当に相手を思うならば、相手の成長のためになることを伝えるべきである。

本などにすると、伝えるのが難しいのがそこのニュアンスである。
文面だと、恐らくマイナス面として伝わってしまうためである。
話す言葉というのは温度があり、文面だとそこがフラットになってしまう。
それは、実際の授業や子どもの姿を見てもらう方が圧倒的に伝わる。

夢を語り、事実を示す。
感謝をし、他人様のお役に立つ。
教育の根本について考える機会をいただけた、有意義な学びの場だった。

2019年9月8日日曜日

「クラス第一主義」「我が子第一主義」を排す

広島の原爆記念日の式典における、広島市長の平和へのスピーチが心に響いた。
先の戦争のことだけでなく、現存する全ての諍い、争いの根本を指摘していたと感じたからである。

冒頭に「自国第一主義」が世界平和を脅かす要因であるという主旨を述べられていた。
全く同感で、これが学校や学年、学級といったあらゆる小さな集団にも適応される考え方である。
「クラス第一主義」、「我が子第一主義」の誤った考えのもたらす不幸の大きさは計り知れない。

自分だけが平和であればいいという考えは、根本的に間違いである。
例えるなら、自分のところだけが快適で、周りが火事という状態。
自分のところもやがて火事になることは明白である。

逆に、ほとんどが快適だけど、一部火事という状態。
これもやはり、やがて自分のところまで燃え広がることは明白である。
「自分の所属」という範囲を、どこまで広げられるかである。

先の平和宣言は、自分の所属を世界にまで広げていると考えられる。
宮沢賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の示すところである。

また、スピーチの中で引用されたガンジーの言葉も示唆に富む。
「不寛容は、暴力のひとつの形です。それでは真の民主的精神は、一向に育たない。」

これは「あいつさえいなければ」「変わっているから排除しよう」「絶対許さない」という誤った考えである。
この不寛容の精神は、いずれ自分にも適用される。
いつかは、巡り巡って自分が「排除対象」になるのである。
不寛容は、ガンジーの言う通り、紛れもない暴力のひとつの形である。
(過ちを許してもらえないのであれば、我々は誰もが許してもらえない存在である。)

これからの時代は、学校教育においても「異質の排除」から「多様性の歓迎」へのシフトが必要である。
これは子ども、教員、保護者、全てに共通して言える。
異質、多様性への不寛容な態度は、やがて自分の首を絞めることにつながる。
なぜなら、多様性の世の中において、「普通」が崩壊し、私もあなたも明らかに「異質」の一人となるからである。

天才は、100年先の普遍性を掴んでいるものである。
だからこそ、当時は変人扱いである。
時代が、当時のマザー・テレサやガンジーの考えに追いつける日が、もしかしたらやっと来るのかもしれない。

自国第一主義を排す。
自学級第一主義、我が子第一主義を排す。
それが、自学級も我が子も平和に幸せに生きる道につながるのではないかと思わされた、平和記念式典でのスピーチだった。

2019年9月7日土曜日

モチベーション特性とストレス特性

企業の方への研究協力ということで、面白い調査を受けさせてもらった。
「ビノレポ」といって、自分がどんなことにストレスを感じやすく、逆に耐性があるかといったことがわかる、アセスメントの一種である。
参考:ビノレポH.P.
https://www.bennorepo.jp/blank

現に早稲田大学のアメフト部等で活用されていて、成果を挙げているという。
他にもモチベーション特性やどんな資質に優れているかといった様々なことがわかる。
それを用いて自己理解をするだけでなく、チーム内で開示し、違いを知ることでチームワークの向上に貢献するというものである。

例えば私の調査結果から、モチベーション特性を見ると、
「自分がチームに貢献している」
「自由にやれる」
と感じられる時、最もやる気がアップする。

一方で
「決めてくれる人に従う」
「勝つことでほめられる」
といったことには、やる気が下がる傾向にあるらしい。

これを知るだけでも役立つ。
つまり、このような人に対する場合、一生懸命ほめても意味がない。
細かい指示もやる気ダウンにつながる。
逆に、多少丸投げであっても、任せることでやる気を出し、放っておけば勝手に自己満足してくれるタイプである。
(ある意味、手のかからない奴である。)

この真逆の特性の人もいる。
そのタイプの人には、真逆のアプローチが効く。
細かい指示を出して、一つ一つの成果に感謝を伝える。
丸投げしたり、声かけせずに放っておいたりすると、やる気がなくなっていくので要注意である。

つまり、チーム内の個人の特性の相互理解ということがものすごく重要である。
ある人には最高のアプローチが、ある人には最低のアプローチになり得る。
これは職場間、子どもと親、子どもと教師、夫婦間など、あらゆることに適用できる。

よく男女の意識のすれ違いで
「もっと褒めてほしい」「いちいち言葉で伝える必要はない。」
という例があるが、これも実は個人のモチベーション特性の違いである。
(ラインを頻繁に返して欲しい人と、それが鬱陶しい人との違いも、そこである。)

相手の特性を理解していれば、「そういうもの」とわかるし、互いの接し方も変わる。
「自己理解」と「他者理解」の両方が重要である。

ストレス特性についても面白い。
例えば私は
「前例がないことへの挑戦」
には全くストレスを感じないという結果である。

一方で
「マニュアル通りに進める」
「周囲との衝突を避ける」(ために言うべきことを言わずに我慢する)
「人からの指示を受ける」
ということへのストレスに滅法弱いという。

完璧に当たっている。
私にとって、「周囲との衝突を避ける」ために言うべきことを言わずに我慢する、やりたいことをやらないというのは、耐え難い苦痛以外の何物でもない。

このストレス特性の面白いところは
「強みは他者と接する時の注意点」になるということである。
自分がそこへさっぱりストレスを感じないため、相手に対しても鈍感になりやすいポイントである。
つまり、私と同学年を組む人は「挑戦」に日常的に付き合わされることになり、大変な目に遭うということである。
同タイプの人以外には、大変申し訳ないことである。

例えば「思慮深さが求められる」というストレス項目に対して強い人は、細かな配慮が「普通」のことである。
一方で、他者を見た時に「何でこれぐらいの配慮を普通にできないの??」というようにそこに厳しくもなりがちという。
(多分、私なぞはこのタイプの人にそう思われている。)
自己理解をしておくことで、他者との関係も円滑になるということである。

これをどう学校現場に活用するかは、まだ模索中の段階である。
しかしながら、こういう視点をもつことで、子どもに対しても接し方を個別に変える必要があるとわかり、大変学びがあった。
また進捗があったら、お伝えしたいと思う次第である。

2019年9月6日金曜日

全国学力・学習状況調査の平均点は当てになるか

前号に続き、先日結果が公表された全国学力・学習状況調査について。

県別の平均点が公表された。
教育委員会の側は、当然学校別の結果も把握している。
これが、不幸の始まりである。

ところで、結果を見る世間の側が本当に「平均点」の仕組みをきちんと把握しているかというと、かなり怪しい。
「学級のみんなができるようになると平均点が上がる」という誤った認識をもっていないか。
誤った認識は誤解を生み、いじめの温床になり得る。

平均点というのは、例えるなら砂場の凸凹をならして平坦にして、その高さを測定する作業である。
実は「ならす前の状態」がどうであるかが、この平均点の妥当性に関わる。
他の高さと異なる「穴」や「尖り」のような部分が少ない、山の状態であれば、「大体真ん中がこれぐらい」というその数値の妥当性は高い。

一方「グランドキャニオン」のような深い谷がある状態の場合、この平均値の妥当性はほぼない。
グランドキャニオンの山を崩して谷を埋めて均等にならし、海抜の高さを測って「これぐらい」ということの意味があるかどうかである。
差が激しすぎる上に、本物の中央の数値が不在である。
「平均点付近の子どもはほとんど存在しない」ということもあり得る。

各県内の子どものテストの数値はどうか。
これは、明らかに「グランドキャニオン」状態である。
0点もいれば、当然100点もいる。
最も多い層の他に、極端に離れた数値の集団がいくつか存在する。
点数がかなり分散している。
この場合、平らにならすことに、ほぼ全く意味はない。

平均化というのは、言うなれば「個を殺し、無視する」作業である。
社会が求め、文科省が出している方針と真逆のはずである。

テストの平均点の上下動の仕組みについては、学級担任や塾講師をしている者なら嫌というほど知っている。
90点が100点になるのはものすごいことなのだが、そこは平均点には表れない。
100点がどんなにたくさんいても、10点や20点の子どもが数人いたら、「チャラ」どころか「マイナス」なのである。

手っ取り早く学力テストの平均点を上げる方法がある。
過去問をやらせることである。
「事前練習」と呼ばれる方法である。
年間を通して毎日、時間を決めてやらせ続ける学校もあるという。
ひどい場合、行政の側が過去問を実施したかどうかの調査をして、学校現場に圧力をかける。
これで、確実に平均点は上がる。

次の記事も参考になる。
「全国学力テスト 事前練習に追われる学校現場 授業が進まない」内田良
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20180829-00094820/

これによって学校教育が失うものの大きさは、言わずもがなである。
残念ながら、全国各地でこれがなされているのが現状である。
「事前練習」をしないと当然平均点が下がるのだから、どこもやっている以上やらない訳にはいかないというのが実情である。
「目的と手段の入れ替わり」「手段の目的化」である。

さらに、もっとひどい方法があるという。
先に述べたように、平均点というのは「凹み」が最もインパクトが強い。
つまり、点数が低い層を「排除」することが、最も平均点アップに効果がある。
(進学塾等ではよくある方法である。数値的な実績が大切なのである。)

要は「最初から点数の低くなりそうな子どもを受けさせない」という方法である。
そんなことが許されるのか。
実は一部の子どもは、調査対象外になるのである。

全国学力・学習状況調査の実施要項「3.調査の対象」から引用する。
====================
(引用開始)
(2)特別支援学校及び小中学校の特別支援学級に在籍している児童生徒のうち,
調査の対象となる教科について,以下に該当する児童生徒は,調査の対象としないことを原則とする。
ア 下学年の内容などに代替して指導を受けている児童生徒
イ 知的障害者である児童生徒に対する教育を行う特別支援学校の教科の内容の指導を受けている児童生徒
(引用終了)
====================

この規定自体は至極妥当である。
特別な支援が必要な子どもへの配慮は絶対に必要である。
しかし、問題は、この規定を悪用して
「テストを受けさせないように特別支援級をすすめる」
ということが、残念ながら一部で引き起こされているらしいということである。

その学校を非難するのは簡単である。
そうではなく、問題の根本は、そこまでして学校や担任を追い込んでいるこの現状である。

私も経験があるが、学校には、極度に算数が苦手、文章が読めない、という子どもが一定数存在する。
学年に一人や二人ではなく、場合によってはある学級に何人も集中することもある。
「生徒指導が大変」という子どもを学年主任の学級に入れる代わりに、他の学級に学力的に厳しい子どもが集まる、というパターンである。

そうすれば、平均点の結果は目に見えている。
指導力の差ではない。
クラス間を比べることも無意味である。
もしこれでどうこう言われるようなら「学力の低い子どもは担任したくない」と言い出す人が当然出る。
教育の崩壊である。

学校間、都道府県間も同様である。
無意味である、というより、とてつもない害悪である。

0点だろうが何だろうが、子どもには全く何の罪もない。
勝手にランキングされて、大人たちが右往左往したあおりを食らい、はた迷惑な話である。

毎年国民の税金を60億円以上使って行うものが、教育現場を悪くしている現状。
残念ながらこれを甘んじて受け入れることしかできていないが、せめて小さくとも抵抗の声だけは上げていきたい。

2019年9月4日水曜日

学力調査に思う 上半身と下半身の捻じれ

かねてより懸念していた、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。
またトップがどことか、一番低いのはどこといったところに注目が集まる。

学校現場と子どもにとって、正直害悪以外の何物でもない。
トップの県には変なプライドを植え付け、最下位の県は劣等感をもつ。
それを促すにはうってつけである。(最下位だからと子どもが奮起する訳がない。)

やらされた方に罪はない。
運動会の徒競走と同じで、とにかくよーいどんと走らされて、ゴールで順位を付けられただけである。
その結果にどうこう言われる訳である。
走るのが嫌になること必至である。

ちなみに、どんな理由や妥当性があり、ねらいがあるかということは、何の問題の解決にもならない。
いじめを受けた子どもへ対応する場合と同じである。
問題は、地域格差の意識の拡大が起き、被害者が出ているという事実のみである。

前号のメルマガから紹介している、木村泰子先生も、この全国学力・学習状況調査を話題の一つにしていた。
ちなみに、ここについては、次の対談本にも詳しい。
『タテマエ抜きの教育論: 教育を、現場から本気で変えよう!』木村泰子×菊池省三 小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401932

木村先生は文科省の各施策に対して、
「上半身と下半身が捻じれている」と表現していた。

どういうことか。

文科省の「上半身」は、いいことを言っている。
特に「主体的・対話的で深い学び」を最前面に出してきたことは重要だという。
また、教員が生き生きと働いていることが子どもにとって大切だという認識もはっきりと出している。

一方で「下半身」は言葉とは違う動きをしている。
全国学力・学習状況調査の推進。
やることを増やしながら、定時で帰るように指示。
強制帰宅させらても自宅で作業ができるクラウドのような環境整備はされていない。

理念と実際の施策がちぐはぐなのである。

上半身の素晴らしい理念を進めるのであれば、全国学力・学習状況調査を一律に行い、結果を公表することはしないはずである。
かねてより指摘されているように、結果の公表は県や教員、あるいは地域のランキングにつながる。

競争による順位付けというのは、よほど気を付けないと、いじめや差別を生む。
上位となった県がほくほくとして、下位となった県が肩身の狭い思いをするのである。
また「どうすれば上位になるか」と他県が上位県に学びに行って、余計なことを真似するから、なおさら質が悪い。
平等な教育を施す機関である公立小中学校に、偏差値の概念を持ち込むことになる。

騒ぐのは「世間」である。
しかし、騒ぎに発展するとわかって実施する側、騒ぎに反応して行動してしまう側にも問題がある。

誰でも手軽にデータにアクセスできる現代だからこそ、従来の在り方を問う必要があると考える次第である。

2019年9月2日月曜日

「みんなの学校」は子どもが主語

夏休み中に、素晴らしい方にお会いしてきた。
「みんなの学校」の木村泰子先生である。
(参考文献『「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方』小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401711)

午前中は地元の特別活動部会の講師としてお話をいただき、
午後は社会福祉協議会主催の「みんなの学校」上映会と講演会であった。
「ハウツー」のような話はほとんどなく、実践・事実を通した観の話だった。

記事にして配信することへのご本人の承諾も得たので、可能な限りシェアする。

これからの、新しい10年先の学校を作る上で、一番のキーワードは「学級経営」だという。
学級経営は、学校経営のため。
これからは学級担任の制度自体を変える必要がある。
担任から担当へという意識である。

自分も最近の構想として「学年担任制度」を考えている。
学級担任が一人で抱え込むから苦しくなる、だからみんなで分担して持てばいい、という考えの根本が同じである。
そして、学校というチームに貢献していく。
最終的な受益者は、子どもである。

保護者は「サポーター」と呼ばれる。
チームの一員である。
保護者であるのは家庭での話で、一歩学校に入ったら、そこからは地域の方と同じ子どもの「サポーター」。

このサポーター制度が面白い。
サポーターの約束として「我が子は見ない、触らない」というものがある。
そうすると、自分の親が他の子どもに優しく接している姿を見ることになる。
(大人の「社会での姿」である。親は大抵、我が子には厳しく接してしまう。)
これを見て、子どもは他人との接し方を学び、真似するようになるという。

とにかく、全てがオープンなのである。
学校における子どもを、担任にも保護者にも個人的に「所有」しない、させない。
子どもの尊厳を大切にすることを第一においている。

地域に対しても同様である。
「子どもは地域の宝」ということで、サポートが当たり前の仕組みができている。
子どもが地域を好きになることの最終受益者は、地域そのものだからである。
学校に関わるすべての人が幸せになる構想である。

こういった仕組みづくりも「観」が全てである。
学校は「子どもを主語にせよ」が全ての基本命題である。
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