2019年11月18日月曜日

「ディスる」は、いじめ。

「校長先生の話」。
どういう印象をもっているだろうか。
世間一般では「つまらない話」の代名詞として通っている面がある。

しかし、それは誤解である。
もちろん、何の実感もこもっていない、血が通ってない埃をかぶったような話をする人も、中にはいるかもしれない。
しかし、そういう経験を一つ二つしたからといって、十把一絡げに全てを判断するのは、乱暴である。

日本人にも、自己主張の強い人がいるし、英語が得意な人もいる。
アメリカ人にも、控えめで発言しない人もいるし、日本語を日本人以上にわかっている人もいる。

つまり、今言ったようなことが、各国の人への、「私がステレオタイプ的と捉えているイメージ」である。
「校長先生の話」も同じように思われていると考えている訳である。
しかし、興味深く、ためになる校長先生の話というのは、世の中に実際かなり多く存在する。(と私は経験上思っている。)

以前にも書いたことがあるが、校長より「リスペクト」の大切さについての話があった。
本校の合言葉であるから、何度も登場するのは当然である。
全校児童の前で話すというのは、低学年から高学年までに伝わるように話すというのが、難易度の高さにつながる。

導入に「ディスる」という言葉が挙げられた。
高学年ほど、よく知っている。
いいか悪いかは別として、低学年でも知っている子どもがいる。
この略語の語源は何か、という問いである。

この語源が、実は「ディスリスペクト」である。
リスペクトの反対。
相手を蔑み、揶揄し、ぞんざいに扱う行為である。

これについて考えるようなお話で、今回も実に心に響いた。
話を聞くのが楽しみになるためには、一回ずつに力を入れることであると毎度ながら学べた。

以下は、それを聞いた後の、完全に私見。
私の考えである。

人間というのは、馬鹿にされると怒る。
無視されて腹が立つのも、順番を飛ばされると腹が立つのも同じである。
しかしながら、現代はこの人を馬鹿にするという最低の行為が、世間に肯定されている感が否めない。

例えば国民的地位を獲得したテレビの「お笑い」は、馬鹿をやる人、間の抜けた人、ズレた人をみんなで笑う文化である。
(中には、小噺のように、高度な一線を画すものもあるにはあるが、例外的である。)

そして、笑われている対象も笑っている。それがルールである。
そこに乗れないのは「寒い奴」「冗談のわからない奴」である。
「ボケ」であっても「ツッコミ」であっても自虐であっても同じで、そこの域を出ることはできない。
(そもそも、こういうことを言うと「ウザい」「寒い」「めんどい」等の一言で切ること自体も、相互コミュニケーション不全と思考停止の表れである。)

例えば「転ぶ」という行為を見て笑う。
「間違い」を見て笑う。
すべて「ズレ」である。
そこに笑いが起きる。
笑われた方は、怒ったりせずに、へらへらと、平然としている方が、周りに「いいね」と受け入れられる。

つまり、「ディスる」とは、単純に考えて嫌な行為であるが、やられた方は素直に気持ちを出せないという面がある。
しかし学生にきくと、「仲間同士のただのいじり」と答えるという。
「いじめじゃないの?」と問うと「相手が嫌って言ってないから」とケロリ。

いじめの定義に立ち返る。
いじめは、相手がどう感じているかが全てである。
つまり、顔で笑って心で泣いている可能性がある。
それは、想像力のある人間であれば、配慮できるはずである。

「ディスる」ような発言を親愛の表現だと感じられるかどうかは、関係性がすべてである。
余程の信頼関係がある者同士なら、それもあり得る。
お互いを「馬鹿」呼ばわりしながらリスペクトしているということも、決してないとはいえない。

しかしながら、それは「特殊状況」である。
それが一般化してくると、これは危険である。
「呼び捨ては親愛の証」というような解釈もあるが、ここの危険性である。

社会では、相手をリスペクトした呼称を付ける(「さん付け」等)というのが基本である。

ちなみに、高学年で担任や周囲から呼び捨てやあだ名で呼ばれている子どもは、リーダー的立場、支配的立場にある傾向が強いというデータもある。
乱暴な子どもが呼び捨てにされがちなのと相関性がありそうである。
逆に、発達の遅い子どもはあだ名で「ちゃん」付けされる傾向が強いというのが経験による私見である。

話を戻す。

基本は、相手を落とすような発言や扱いは、慎むべきである。
誰に対しても、リスペクトの気持ちをもって接するのが基本である。
(例えば、店員さんにぞんざいな態度をとる客も問題である。逆も然り。)

顔の見えないネット上なら何を言ってもいいといような大人の意識が、子どもに確実に反映されている。
「みんなでやれば怖くない」という集団意識と同調行動が、色濃く子どもに反映されている。
ここははっきりと言いたいのだが、いじめがなくならないのは、学校教育のみで解決する問題ではない。
かなりの部分、大人社会が反映している。

(しかしながら、そのような大人を作ったのは学校教育であり、その責任からは逃れられない。
そして、今世を騒がせている学校教員によるいじめ問題は、学校教育の根本を揺るがす大問題であるが、今回ここでは述べない。)

相手をけなさない。
馬鹿にしない。
傷つけない。

当たり前のことが、当たり前でなくなっている。
世間の「ノリ」や流れで、本質を見失わないようにしたい。

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