「学級経営」という言葉がある。
「経営」を英語に直訳すると「マネジメント」という言葉になる。
つまりは「学級マネジメント」である。
学級担任とは、学級という組織のマネージャーである。
マネジメントといえば、かの有名なドラッカーである。
この考えに基づくと、マネージャーは
・目標設定および動機付け
・役割分担
・メンバー同士をつなぐ
・リスク管理
等々の役割をもつ。
学級におけるこの部分を担保するのが、学級担任の中心的な仕事と考えると、わかりやすい。
学級における目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして組織体を動かす。
ここが学級担任の主な役割である。
授業はどうか。
実は、授業は「学級担任の直接の仕事とは別」と考える方が、わかりやすい。
学級担任の仕事というより、授業者としての仕事である。
現に、学級担任以外にも専科や外部講師のように、授業だけをする役割もある。
授業者には先の考えに基づいた「授業マネジメント」の視点が必要である。
つまり、授業中に目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして進行する。
毎回の一つの授業中に、これら全てを行う必要がある。
つまり、授業を直接するのは、学級担任でなくともよいといえる。
現に、中学校以降では担任が自分の学級で授業するのはごく一部の教科だけである。
逆にいえば、学級担任がすべきマネジメント面を放置していては、仕事をしているとはいえない。
学級経営の力と授業の力は、方向性の同じ別の能力であると考える。
ここを分けて考えないと、学級経営は授業づくりが先か学級づくりが先かという不毛な議論になる。
したがって「学級経営はいいけど授業は下手」という場合もある。
逆に「学級経営は成立していないけど授業(あるいは論)はできている」という場合もある。
例えば、授業自体は良いが指導案で表現するのが下手ということもある。
「指導案は完璧だけど実際の授業は・・・」というのもある。
実践者と学者との違いともいえる。
現場教員としては、実際の授業ができる方を求められる。
研究者ならば、逆である。(附属小学校のような実践研究校に至っては、この辺りがややこしい。)
実務と理論の齟齬である。
もちろん、両輪あれば最高だが、現場で必要なものと学問の世界で必要なもの、求められるものは違う。
一般社会における現場と官僚との意見が全く噛み合わないのも、そこに原因の一つがある。
では、学級担任は、結局どちらから手をつければいいのか。
学級経営も、授業も、どちらもやるよう役割を振られているのだから、どちらもやる。
ただし、分けて行う。
自分が今考えている方策が、学級マネジメントなのか、授業マネジメントなのか、自覚することである。
優先順位はある。
当たり前だが、いじめがある状態で「みんなで仲良くしよう」というテーマの道徳や特活の授業をやっても、大怪我は目に見えている。
いじめ解消という学級マネジメントが優先である。(いじめはマネジメント視点の全てに反する。)
それが解消してからの、その授業である。
あるいは、その問題に気付かせるような授業マネジメントをして実施し、その後の学級マネジメントに生かす。
学級経営と授業。
特に小学校では、異なる二つを一緒くたにしてしまうから、混乱してしまうと考える次第である。
2019年11月10日日曜日
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