前号も紹介した、次の本からの気付き。
『ことばの贈りもの』 松岡享子 著 東京子ども図書館
https://www.amazon.co.jp/dp/4885690234
言葉というもののもつ力について。
この本の中に、言葉のもつ力の一つについての記述がある。
幼児に「ひっくり返す」という行為を覚えさせる場面。
その言葉を教える場合とそうでない場合とを比べると、習得速度に雲泥の差が出るという。
ある行為と「ひっくり返す」という言葉が結び付く。
そうやって、子どもは学びを獲得していくという。
つまり、言葉と経験は、紐付いている。
そうやって、言葉を獲得するとと共に、経験自体も獲得していく。
経験に言葉が結びつき、効率よく記憶されるのである。
だから「書く」という行為には意味がある。
経験を書くことで、流れてしまうものが記憶に残り、学びとなる。
先人の書き残したものがあるから、それを受け継ぐ我々は恩恵を受けられる。
言葉のもつ大きな力である。
そして、言葉にはその表現に限界がある。
同じ言葉を知っていても、その内実は全く違うということはままある。
例えば「家族」とは、どういうものを指すのか。
ストリートチルドレンのように、家族を持ったことのない子どもに、わかることができるか。
あるいは、両親がいる子どもを二人並べても、同じ家族という言葉の指す意味やイメージは全く異なる。
あるいは、兄弟間でさえ違うかもしれない。
「家族っていいね」という話をしても、全くそうとは思えないという子どももたくさんいるということである。
そう考えると、一律に何かの価値について指導するということへの無理もよくわかる。
言葉の指す意味の違う者同士が、同じ理解をできる訳がない。
だからこそ、感じ方の違いを話し合うことに意味がある。
「まさかそう感じていたとは」というギャップに気付ける訳である。
誤解が解けることになる。
つまり、一方的に伝えても、伝わらない。
受信者側のフィルタを通る時には、言語の意味変換が行われるからである。
これは、幼児や低学年の子どもを指導すると、練習になる。
大人が普通に使う言葉のいちいちの意味が、さっぱりわからないからである。
だから「何で?」「どういうこと?」とたずねてくる。
問われると、初めて気付く。
確かに、言われてみると、どういうことなのだろう、と悩むことになる。
先日の学級会では「思いやり」とは何かについてみんなで悩んだ。
「思いやり」という言葉をつかうと、すべての問題が解決したようになってしまう。
しかしながら、それは実際にどういうことなのだろうか。
例えば、言うべきことを言うのは思いやりか。
嘘をつかないのは思いやりか。
「優しい気持ちで相手の立場になって考えること」
と辞書にあれば、優しいの指す意味も問われる。
すべては、個々の経験と紐付いているため、共通の理解ができないのである。
いつでも相手の立場で物事を考えられたら、争いはなくなる。
しかしながら、なぜその行動を自分がとれないのか。
または、それをできない立場、心境の人がいるのか。
そこに切り込まない限り、素晴らしい言葉も、空虚である。
言葉のもつ力は、偉大である。
だからこそ、素晴らしい言葉を使う時は、難しいし、注意が必要である。
子どもとともに考えることを、これからも大切にしていきたい。
2019年11月13日水曜日
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