2021年9月30日木曜日

学校教育にパラダイムシフトが起きない理由

 学習会で話題になったことのシェア。

学校にある既存のルールや慣習を変えられない理由と対策について。


首都圏の学校では、一昨年度末より常に感染症対策を迫られ続けている。

その後押しもあって、オンライン学習可能な環境がどこでも整いつつある。


一方で、オンライン学習の環境や実践が一向に進まない地域もある。

感染者が少ないことをはじめ、諸事情あるのだが、そもそもの要因として

「みんな何も言わないから」

「差し迫って必要でないから」

あたりのことが推測される。

それがなくても何とかなってしまっているから、声が上がらないのである。


しかし実際、事が起きてからでは遅い。

予想外の新型ウィルスの登場で、初期対応が遅れた頃はまだ理解される。

今は違う。

もうわかり切っていることである。

「予想外」ではないのだから、平時の予防行為としての対策が必要である。


新しいものがどうしても必要になり、現場も拒否できない状況にいれば、否が応でも改革が進む。

逆にそうでない状態、「何とかなっている」という状態が危ない。

そこに潜む危険が目に見えないからである。


つまり「今までそうだったから」は実際には通用しなくなっているが、それに気付けない。

今まで通りでも大丈夫だ、最善だと、錯覚してしまう可能性がある。


今回の学習会で「宿題」も話題に上がったが、これもその一つであると考える。

宿題というものの根本は変わっていないが、その価値はかつてとは全く変わっている。


社会では、未だかつてないペースでパラダイムシフトが起きている。


「パラダイム」とは何かであるが、次の動画がわかりやすい。

内田和成チャンネル 「ものの見方・考え方#1 パラダイムって何?」 動画16:28

https://www.youtube.com/watch?v=Gni7wpVXzns



日本にはかつて、敗戦のどん底から立ち直り、人口も経済成長も右肩上がりの時代があったという。

モノを作れば売れる、ビルを建て、土地をひたすら転がして儲かる時代があったという。


この時代に最も必要な人材とは何か。

「決められたことをきちんとやりとげる」「無茶な命令にも素直に従う」「無理してでも頑張り続ける」

こういった人材が大切である。

一人の人間から提供される労働時間の長さが、ダイレクトに企業の利益の大きさにつながるからである。


キャッチフレーズが「24時間戦えますか」だった時代である。

残業拒否や家庭を顧みて育児を優先する行為など、「企業戦士」にあるまじき行為である。

上司の命令に逆らうようなことがあればまず昇進はなくなるが、黙って従っていれば終身雇用で一生豊かで安泰が約束される。

ある意味、イケイケである。


先の時代の人材の条件に最も当てはまるのは、現在の優秀なロボットたちである。

今の時代でこの勝負をしたら、人間はロボットに全く勝ち目がない。


ところで、今でも学校現場で広く採用されている一般的な宿題とは、どのような力を伸ばせるのか。

恐らく、先の時代に必要とされていた力を、大いに伸ばせるのではないだろうか。

「受動」「従順」「我慢」である。


夏休みや冬休みも含む日々の大量の宿題は、先の時代のニーズに最適化していたといえる。

社会が求める人材教育として、恐らく正しかったといえそうである。


一度に大量の相手に対し同質を提供できる一斉授業。

厳密な校則、ルール。

多様性を認めない排他的な制度とテスト学力による序列化。

全て時代のパラダイムに沿っていたと思われる。

望み通りの結果が得られたといえるのではないだろうか。


かつてのパラダイムを捨てるのは難しい。

成功体験があるからである。

長く勤めてきた人ほど、これは難しい。


一方で、新しい人たちは、この成功体験がない。

よって、先入観がないため、新しいパラダイムをすんなり受け入れられる。


年配の方々の中に、LGBTQ+(今では更に進んでSOGIE)の概念をどうしても受け入れられない人が多いのは仕方がない、という話を書いたことがある。

これも同じく、かつてのパラダイムによる当然の結果である。

人生のほとんどを「男女ははっきりと区別されるのが正義」という枠組みの時代の中で生き抜いてきたのである。

いきなりそれを「今は違うから変えて」と言われても、戸惑うのは当然である。


学校の教員も、そして恐らく保護者の中にも同じ感覚があるはずである。

それぞれが自分の子ども時代を考えた時、宿題がないなんて有り得ない。

宿題をきちんとやるのは絶対的な正義であり、それが出ない学校なんて不安で仕方ないだろう。


かつては宿題忘れという「大罪」に対し、体罰すら容認されていた時代があったのである。

(かつて国民的人気アニメの主人公が「宿題忘れの罰としてバケツをもって廊下に立たされる」という描写は一般的だった。

それが今一切なくなったのは、象徴的である。)


今教育の世界で、上の立場にある多くの人たちも、同様の経験があるはずである。

「若い頃は・・・」という話になれば、今ならあり得ないこともたくさんある。

なぜなら、時代がそれを容認、あるいは求めていたからである。

体罰すらテレビで当然のように流されていたぐらいだから、そういうことである。


それが急激に変わってきている。

かつては「村」の中の比較だけで一生を終えていたのが、工業化による集団就職で都市部に比較対象が広がった。

今では世界と容易に繋がれるようになり、グローバリゼーションが進んだ結果、比較検討の対象が世界の国々になっている。

「宿題」一つの在り方をとっても、ICT活用を見ても、世界の先進国の教育が比較対象になるのは当然である。


パラダイムシフトが起き続けている。

シフトしようか日本が迷っている間に、その新しいパラダイムすらもさらに世界ではシフトしているというスピード感である。


話が広がりすぎたが、身近なところの小さな変化へ抵抗感を示している場合ではないということである。

かつての絶対的正義は、もはや通用しなくなっている。


そして一般的に、上の立場にいる人ほど、元々のパラダイムで生きてきたので、変化には抵抗する。

旧パラダイムにおける成功体験のない若い教員世代が声を上げる以外にない。

感覚の若い人たちみんなで声を上げて変えようとしない限り、既存の学校文化はいつまでも生き続ける。


なくした方がいいもの。

残しておいた方がいいもの。

真剣な検討が必要である。


どちらもごっちゃになっていれば、確実に「とりあえず保留」になる。

公の場で「それは必要ですか」と声を上げる人が出るかどうかである。

その声に続く人がいるかどうかである。


オンライン授業と宿題という狭い話であったが、ここに問題の本質をはらんでいると感じた次第である。

2021年9月28日火曜日

「自分さえ我慢すればいい」を排す

次の記事から。


プレジデントオンライン 

「休まないのがいいことだ」という価値観がコロナ収束を遅らせる

日本大学文理学部教授  末冨 芳

https://president.jp/articles/-/49311?page=4


この記事の中で同調圧力と部分最適について書かれている。

全く同感である。

「休む」とか「在宅勤務」を全体最適として捉えるべき時代にきている。


私も以前より、しんどい時には休むことを奨励してきた。

何度か紹介しているが、拙著の表紙のこの人の状態にならないことである。



「休む」という行為は、短期的に見てマイナスに見える。

その時の業務が進まない、授業が受けられないからである。

周囲に負担がかかるとか、作業が滞るとか色々ある。

この意識により「辛い時でも休まず無理してがんばるべき」という同調圧力が強まる。


しかし長期的に見れば、休むことは全体にとってプラスとなる。

仲間に対しても寛容になれるし、辛い時に辛いと言える環境ができるからである。

助け合いと寛容の空気が醸成される。


病気の時や都合が悪い時に

「休まないのが当たり前」か「休むのが当たり前」

かの違いは大きい。


今必要なのは、当たり前の見直しである。

例えば「通勤しないと仕事ができない「登校しないと勉強できない」というのは、一昔前の当たり前である。

今は、オンライン環境が整ったのだから、それ社会にとっての当たり前ではない。

(しかしながら、先の記事にもあったように、同調圧力もありなかなか進まない。)


働き方や学び方含め、多様性への当たり前に対して寛容な人たちと、そうでない人たちの分断が進んでいる。

これは、恐らく環境の影響が最も大きい。

多様性を当たり前とする環境か、そうでない前近代的な環境にいるかで、同じ人でも恐らく180度変わる。


学校現場で多様性への受容が進まない問題の根本の一つが、先の同調圧力と関連して自己犠牲の精神である。


「自分さえ我慢すればいい」


この精神は、一見いいもののようで、なかなか厄介である。

「自分さえ我慢」するということは、他の同様な場面では他人にも同じ行為を求めるようになる。

「お前も我慢しろ、がんばれ」「自分と同じように我慢しないのはずるい」という感覚が生じる。


多様性への不寛容になり、周囲への無言の同調圧力となる。

自分が我慢したことは、無意識に他人に不寛容になる。


幼少期に「お兄ちゃんなんだから」と我慢を強いられた上の子。

我慢しないで許される下の子に対してもやもやとした感情を抱く。

社会に出てからも他人に対するその意識は続く。


食事を残さないことを厳しくしつけられ、我慢してでも食べさせられた人。

他者が平気で食事を残すことに対して怒りの感情が湧く。


新人はそういうもんだと理不尽なことを無理矢理やらされた人。

自分が上になったら新人にそうさせようとする。

将来的には上に行けば行くほど厄介な「エラい人」になる。


本当は都合が悪いことを「やっておいてね」と言われるのでいつも笑顔で受けてしまう人。

それをしない人、うまくやっている人に心の底、無意識下で恨みを抱く。

(この「(都合)いい人」タイプは自己表現できないことが多く、表面化しないのが逆に怖い。)


基本的に、我慢は毒である。

仕方のない状態に「耐え忍ぶ」という忍耐とは全く別で、我慢には「我」に「慢」の気持ちがある。

おごりたかぶり、他を軽んずる心、怠けの心と同様である。

我慢するだけで、改善しようという意志がないのである。


この「自分さえ我慢すればいい」を排していくことが、当たり前の改革に必要になる。

みんなにまで我慢させないことを考えれば、そのまま自分が我慢でいいはずがないのである。


「無理しないで休む」はそのほんの一例である。

自分から無理せず率先して休んで、みんなが無理なく休めるのを当たり前にするといい。


理不尽な我慢をしない、させない。

何事も、まずは自分発で進めていきたい。

2021年9月26日日曜日

アサーティブに声を上げる

 ちょうど一月前、人権宣言記念日に発行した記事。


1789年8月26日に、フランスの憲法制定国民議会が「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択したことによる。


ここに関連して、前号の続きでもあるが、正当な声を上げることについて。


人権は、権力者によって簡単に蹂躙される。

自ら守らねば、気付かない内に奪われる。

特に弱い立場にあるのならば、力を合わせて自分たちで守るべきものである。


勤労の権利・義務というのがある。

生存権的基本権の一つである。

「勤労の権利」(第27条),「労働基本権」(第28条)と憲法で定められている。

この憲法に沿って、労働基準法が定められている。


働き方改革の推進が叫ばれているが、変えてくれるのを受け身で待っていてもだめである。

今の現状に対して不満があるのなら、自ら声を上げ行動を起こさない限り変わらない。


ただこのエネルギーが、今の社会では違うところに向いているようにも思える。

関係のない人に八つ当たりしてもだめである。

誰に何を言えばいいのか、そこは頭を使う必要がある。


仕事の面で考えてみる。

現状の仕事に不満があるか。

その発生源はどこか。

突き止めて、そこにテコ入れしていく。


他に原因があるようで、実は自分自身の行動で改善できるものもある。

例えば「仕事が終わらない」は、必須業務量が多いというより、単に余計な仕事を自分で作って潰れていることも多々ある。

(学校現場だと、私はドリルの○つけや、子どもへの懇切丁寧なお世話をよく例に出す。)

その場合は管理職に業務体系を訴えかける前に、自分のやり方を変える方が先である。


しかし、そうでないものならば、きちんと訴えかける必要がある。

単なる愚痴や文句と、正当な要求は別である。


学校勤務でいうと、(Facebook上でも話題にしたが)例えばプール管理である。

その業務内容が妥当なものになっているかは再検討が必要である。


例えば、体育主任がフィルター掃除から水質維持から全てを管理をしているとする。

その膨大な業務量に対して、適切なサポートがあるかどうかである。


基本的に公立校では残業代は出ない。

だとしたら、何か他の業務負担を軽くする手立てが打たれているはずである。


さらに、プールの水へのチェックには、本来管理職も関わる必要がある。

膨大な上水道代や下水道代(=税金)がかかっているためである。

個人で負担できる重さではない。


これはあくまで一例である。

学校には、一部の人が「慣例」でサービスしていると思われる仕事がかなりある。

きちんとどこかで声を上げないと、陰で泣く人が未来永劫延々と出続ける。

「自分が気に入らないから」ではなく、苦しむ人を助けるために声を上げるべきである。


箱の外側にある時代が変わったのに、箱の中身が全く変わっていない。

「慣例」で過剰サービスしていたものにまず目を向ける。

管理職や年配の人の「俺も若い頃耐えた」という類のものは、今見るとおかしなものが大多数である。


危ないキーワードは「上が言うから」「今までそうだったから」「仕方ない」である。

思考停止まっしぐらの危険フレーズである。


我々が「私たちの子どもの頃もそうだったから仕方ない」という類のものがある。

これらも子どもたちにとっては、同様に理不尽なものである可能性が高い。


今子どもに教育していることの中で、自分も過去にやった、やられたことだからいい、という道理はない。

今自分自身がやっていることが変ではないかという、チェック対象である。


「アサーティブ」に声を上げることを当たり前にしていくことが必要である。

アサーティブとは、相手の願いや考えも尊重しながら、自分の主張を伝える態度である。

お互いの幸せを願って行うものである。


黙っていては変わらない。

自分の周りの人たちや後の人たちのために、声を上げ行動に変えていきたい。

それが結局、何よりも自分のためにかえってくると考える次第である。

2021年9月24日金曜日

白票と投票放棄が絶対にダメな理由

前号の、ルールや現状をどう変えていくかということの続き。


ここにおいて「世論」というものの力は強大で、法律改正といった大きな動きの後押しにもなる。

現状ルールにおいて既得権益者の立場にある者は、従わせている相手に騒がれ動かれるのを嫌がる。


これは、選挙を例に考えるとわかりやすい。


日本の選挙における投票率の低さは、「日本の政治が変わらない」ことの中心的要因である。

当たり前に聞こえるが、なぜそう言えるのか。


今の社会を変えたいなら白票や投票放棄は絶対にダメ


この今更な言葉の理由を、子ども時代から論理的に理解していれば、必ず投票率は上がる。

この論理の仕組みこそが、小学校レベルで確実に教えるべきところである。


なお今回紹介するこのロジックについては、私見ではなく以下の本からである。

『自分の頭で考える日本の論点』  出口 治明 著 幻冬舎新書  )


しかし、この仕組みを日本ではきちんと教えてこなかった。

よって投票率は世界平均より大幅に低く、特にこれからの社会を担うべき若年層の投票率は散々なことになっている。

意図的なのかもしれないし、上に逆らわず黙って従うことを覚えてきた必然の結果なのかもしれない。


「選挙に行かない」ということ、あるいは白票を投じるということ。

恐らく「どうせ誰に入れても変わらない」「自分の一票なんて」という思いからである。

あるいは、単に面倒だからである。

面倒になるのも「どうせ・・・」の自己無力感がそうさせている。


白票や投票放棄の実効的な意味は、単なる選挙権の放棄に留まらない。

既存の有力候補者(多くの場合既得権益者)への投票と同じになる。

つまり「今のままがよい」という状態を強力に肯定して推進する原動力になる。

ここが一番知るべきポイントである。


なぜそう言えるのか。


既得権益者には「組織票」などの先に決まっている票(固定票)が誰よりも多くあるからである。

大きな組織に属しているほどここへの依存度が強い。

逆に言えば、固定票以外の浮動票が減れば減るほど、既存の固定票をもつ者が当選しやすくなる。

これは選挙を採用している場なら世界共通の原理原則であり、あらゆる縦割り組織にもそのまま言える。


だから既得権益者にとっては「全体の投票率を上げさせない」という方向に有権者を導くのが正しい戦略になる。

「選挙なんか行ってもどうせ変わりませんよ」「あなたの一票は無力だしムダですよ」

と思わせ、現状を変えたいと不満をもって動く「邪魔な人」に対しては、黙って動かずいてもらうのが最も都合がいい。

(特に若年層の票は高齢者と違ってかなりの浮動票なので、脅威になりやすい。)


今、法を変えられる有利な立場にいる人たちが、本気で全体の投票率を上げようとするかどうかである。

ネット利用などでもっと若者が積極的に選挙に参加できる手段はいくらでもとれるはずである。

現状その方策はまず採用されないと思ってよい。


子どもたちに主権者教育が絶対に必要な所以である。

(今回の学習指導要領改訂で文科省の出した方針の中でも、ここを前面に打ち出したことは特に素晴らしいと思う。)

毎回30%程度と最も投票率の低い20代と30代の投票率が、倍になって高齢者と同じ水準まで上がれば、日本は確実に変わる。

年をとってから選挙に行くより、若い時に行った方が断然自分の人生にインパクトがあると強く教えるべきところである。


「どうせ自分には世の中は変えられない」と選挙権を放棄する。

これは実は、知らない内に「こんな世の中」を作っている現状維持を強力に支持してしまっている。

国民の大多数が何がなんでも選挙に投票するようになると、この国は確実に変わる。

(ただし、「愚衆政治」などと揶揄されるように、国民レベル自体が低いと、民主統治はよりひどい結果を引き起こすようである。)


集団が騒がない限り、現状ルールは「集団に喜んで受容されている」とみなされる。

つまり、変えたい場合は、集団で不満の声を上げて実際に動く必要がある。


学校現場で言うと「不満だけど黙っている」「変なルールだけど変えようとはしない」ということが多々ある。

教員にその姿勢があるから、子どもにも同じようにある。

現状に不満がある時は自ら動いていいと言っても、動かない。

これは即ち「現状維持への強力な支持表明」である。


ある集団において、みんなで黙っている以上、みんなでそれを肯定しているのと同じである。

それこそが、既得権益者の望む姿であり、「理想的な奴隷」の姿といえる。(=定額働かせ放題)

理不尽や不満があっても黙っていてくれるからこそ、ブラック労働や職場の陰湿な虐め、スポーツ界や部活動でのしごきが横行できる。


我が身に刺さるので厳しいが、現在のブラック労働や陰湿な匿名ネット社会全体を作っているその根源が、学校教育である。

自分たちが学校で育ててきた子どもたちが、そういう大人に育ってしまったということである。

理不尽にもじっと耐え、不満があっても口にしないで無思考に従い、溜まった不満は陰口かSNSの匿名投稿で解消する。

(あるいは使う立場に立ち、そういう扱いをする人間である。)

子どもは大人の鏡であるのだから、大人の側が根本的な原因と考えるのが自然である。


つまり学校の「ルールが・・・」「揃えないと・・・」「今までもそうだったから・・・」

という全ての悩みは、全て私たち大人が、自分たちがこれまでに蒔いた種である。

自分たちで蒔いた種から出たものは、自分たちで刈り取らねばならない。

実際の社会と大きくずれた学校独自の「常識」については、今後自ら責任をもって打破していく必要がある。


まずは、これを見かねた世の中の風が後押ししてくれるところに乗ることが大切である。

例えば、働き方改革。

「働かせ方改革」と冗談を言われてしまう現状を変え、自分でも本気で変えようとする。

「今までそうだったから」という不正な労働時間延長の強要に対しては、NOをきちんと職員全体で表明するようなことも大切である。


この時、決して「子どものためだから」のキラーフレーズに騙されてはいけない。

学校で教員ががんばることは、全部子どものために決まっている。

だからこそ教員自身が無理強いされない中で、子どものために心から働けるような健全な職場をつくることが大切なのである。

本当に社会や学校が「子どものため」を考えているなら、もっと人員等を増やすための予算が充てられて然るべきである。

「助け舟は出さないけど倒れるまでがんばれ」は、単なる命令者側の身勝手であり、不当命令に進んで応じて倒れる必要はない。


公的に管理されて成り立っている学校の教員は、「子どものため」を金科玉条に挙げられると、理不尽なことでも声を上げにくい。

しかしながら、今からでも学校の非常識な慣習やルールに疑問をもち、行動に移す人が増えていけば、学校は変わっていくはずである。


「どうせ変わらない」「何もしない」という白票と放棄の選択肢は捨てる。

無駄だと思わず自分も一石(一票)を投じる。

決してあきらめずに自ら動くことで、変わるということを事実で示していく必要がある。 

2021年9月22日水曜日

ルールは不動か

 夏の間、オンラインが中心ではあるが、多くの学習会に出てきた。

各種学習会で共通して話題になったことがある。


学校のあらゆる「ルール」に関する問題である。

「変えたいけど変えられない」という点が多くの悩みの中心になっているようである。

ここの答えは明確で、変えようとみんなが動けば変えられる。


今回はこの点について述べる。

慣例も含めたルールが問題の中心となっているので、まずはルールについて考える。


ルールについては、責任の所在で考えて二つに分けられる。

(便宜上A,Bをつける。)


ルールAタイプは、その集団に属す上で前提としてあるルール。

国民という集団規模でいうと、憲法や法律がその代表格で、予め定められているものである。

会社員や学校などの集団規模で考えれば、雇用契約書、校則など、あるいは入試の要項などに書かれているものである。


その集団に属すにあたり前提として守る義務が生じるタイプのルールである。

ルールの遵守を監督し担保する責任の所在は、集団の各成員ではなく、責任者である。

(成員のルール遵守を促すために、違反に対しては何かしらの罰則規定があることが多い。)


学級だと、学級開きの時に担任が「守りましょう」と示すものがこのAタイプのルールである。

あるいは「夏休みのしおり」に書かれているような、学校が示すゲームセンターや花火の使用等に関するルールなどである。


Aは「トップダウン型」のルールともいえる。

組織の安全保持のためにも必要な大枠であり、これが全くない状態は組織としてあり得ない。


もう一つのルールBタイプは、集団の成員内で話し合って決めたルール。

問題が生じることによって、必要に応じて作るものが多い。

そのルールを担保し守るのは、ルールを設定した全員である。


一般社会だと、労働組合によってできたルールなどはこれである。

「こういう時にはこう動こう」と自分たちの会合でルールを決めて申し合わせをする。

もちろんその組合に入っていない人は知らないし、職場が同じでも対立する立場にある管理職にはそれを守る義務がない。

組合員が自分たちで作ったルールを自分たちで担保する必要がある。


Bは「民主統治型」のルールともいえる。


学級だと、子どもたちの話合いによって作られたルールがこのBに当たる。

私の学級だと、できる際に一言「いつかこのルールをなくせることを目標にするとよい」とアドバイスする。

そのルール設定が生活を快適にするか否かは、子どもたち自身の行動にかかっている。


子どものいる家庭内のルールはAから始まってBに移行していくパターンが多そうである。

生活に関するものやゲーム・スマホ等の使用ルール、お小遣いに関するものなど全てこれである。

家族構成が変わる、または子どもの年齢が上がり成長するにつれて、ルールを話し合って決め直す必要が出てくる。

(昔のように使用人もいる大きな家で、家長が決めている家訓のようなものがある場合はずっとAかもしれない。)


ルールには、ごく大切な前提がある。

ABの両ルールとも共通で、どんなルールも「変更が可能」という点である。


しかし、当たり前に感じていると、これは「変えられないものだ」と思い込んでしまう。

これは誤った前提認識である。

変更難易度に関しては、重要な大枠のAの方がもちろん高く、Bの方が自分たちの手で直接できるので、より現実的である。

(逆に、Aを決められる立場の少数の人にとっては、Bの変更の方が口出ししにくいが、今回は考えないことにする。)


ルールは成員全体にとって不利益が多ければ、自然と強い反対運動が起きて変わる。

変更に至っては署名他の所定の手続きが必要になるが、あらゆるルール変更は集団の総意によって可能である。


そうはいってもそうならないと考える人が大半である。

選挙での投票率の低さがそれを顕著に物語っている。


長くなったのでここまで。

次号でも、ルールが不動でなく、変えていけるということについて考えていく。

2021年9月17日金曜日

二学期の始めは二度目の学級開き

メルマガ上で8月下旬に書いたものを、うっかり時期を外してしまったが、こちらにも投稿しておく。 

私は学級づくりの三原則として

1「安全・安心」

2「ルール」

3「楽しさ」

の3つを掲げている。

優先順位もこの順で、これを提唱しているのがここ10年ほどのことである。


最近は、次のように注釈を加えるようにしている。

1「安全・安心」(信頼できる相手)

2「ルール」(合意形成)

3「楽しさ」(自由と責任)


まず信頼関係からスタート。

これで安全・安心の土台づくりをする。


次に、合意形成の上でのルール作り。

これにより秩序と平和を保つ。


仕上げに、楽しい活動を取り入れる。

これをするには自由と責任が同じ分量だけかかる。

より大きな自由のためには、より大きな責任が伴う。

ちょっとしたレクをするにも、各自がある程度の責任をもてないとできない。

(鬼ごっこを想像するとわかりやすいかもしれない。)


実際は、この3つが順番に何度も繰り返される。

楽しい活動ができるようになったら、更に信頼関係が強くなる。

教師と子どもという関係から、子ども同士の信頼関係へと発展する。

ルールも同様、楽しさも同様である。


学級づくりで勘違いされそうなものを、割ととわかりやすく示しているのではないかと自画自賛している。

学級開きからこの3つの全てを取り入れていくことを提唱している。


2学期の始まりも再度意識して行うことである。

1.再開の喜びを伝える

2.ルールの再確認

3.学校に来てよかったと思える楽しい活動


この辺りが押さえどころである。

二学期の始めは二度目の学級開きだと思って、子どもたちと出会い直すとよい。


ちなみに、過去に書いたここに関連した記事もあるので紹介しておく。

参考:教師の寺子屋 2018.2.18「学級崩壊」=「学級がうまく機能しない状況」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/02/blog-post_18.html


1,2,3のどこをスタートで優先するかは、学級の状態次第である。

何でも始まりには、十分な準備をして臨むことをおすすめしたい。

2021年9月16日木曜日

子育てをシェアする

虐待は、閉鎖的な空間で起きるということを書いた。

逆に言えば、閉鎖をやめて開放すれば、虐待は起きにくくなる。


今、子育てがどんどん閉鎖的になっている。

三世代が同居していた時代に比べて、一人の子どもを見る人数が圧倒的に少ない。

もっと前の、地域全体で子どもを見ていた時代に比べれば、尚更である。


一昔前は、たくさんの人で子どもを育てていたといえる。

母親自身、どうすればいいのか学ぶ機会も多かったはずである。

子どもをある程度放っておいても、色んな人に接する機会があったというのは大きい。


子育ては一人でするものではない、というのは今更言うほどのことでもない当たり前のことである。

しかしながら、実際は一人でやらされているという実態もあるのではないか。

特に母親が一人で責任をもってがんばっているパターンが多そうである。


また、自分自身に子どもはいないけれど、子どもに人一倍愛情を注いでできるという人だっている。

だとしたら、その人が関わった方がよりよく育つ可能性がある。


例えば、里親制度というものもある。

私の住む千葉県ではそれを「菜の花家族」という。

参考:里親制度(千葉県H.P.)

https://www.pref.chiba.lg.jp/jika/jidou/satooya/index.html


児童相談所で保護された子どもを養子縁組として育てる仕組みである。

里親として認定されるまでの壁が相当に高いが、それだけ信頼をおける家庭だという裏付けでもある。

15歳未満の場合は親権者の承諾が必要になるが、15歳以上になると、本人が決められる。


「実の親が育てないのは無責任だ」という意見もあるかもしれない。

しかし、親の責任追及どうこうよりも、その子どもが健やかに育つ権利の方がずっと大切である。

是非を問うとしたら、子ども自身がそれを望むかどうかだけである。


要するに、教育のあらゆる場面において、なるべく子どもを抱え込まずに、みんなで育てる仕組みがあればいい。

幼児期から色んな人が一緒に養育に関わるコミュニティがあればいい。

日本の現行の制度では難しいのかもしれないが、なるべく「我が子」として抱え込まないで済む仕組みである。

「我が子」という言葉自体も、所有している意識がないか十分に注意する必要がある。


ある人が「愚息」という言葉が嫌いだと書いていた。

全くの同感である。

所有している感が強いだけでなく、それを貶めた表現である。

子どもからすれば、はた迷惑な話である。

(類似表現に「愚女・愚妻・豚児」がある。

いずれも所有意識の強いエゴが感じられる、字面からして醜い表現である。)


親などという立場は、子どもがいるから自動的にそうならせてもらっただけのことである。

教師も同じである。

子どもがいなければ、教師も何もあったものではない。


だから、我がもの顔という意識を手放して、みんなで教育すればいい。

本来ならば、学級担任制度もやめた方がいいと考えている。

もっとオープンにみんなで見れば、競争意識も学級崩壊もなくなる可能性がある。

(さらに言うと、機械的に決められる学年というボーダー自体も本来はいらない。)

小学校でも低学年から教科担任制度及び学年担任制度が進めば、今ある苦労はなくなるかもしれない。


所有しないこと。

オープンにシェアすること。

これからの時代の教育はそちらにシフトしていくべきではないかと考える次第である。

2021年9月13日月曜日

色彩知育法と色の与える影響

夏の学習の一つとして、色彩知育法というのを少し学んだ。

これがとても良かったので紹介する。

(きちんと講師の先生にも承諾済である。)


日本子ども色彩協会ブログ

https://kodomo-shikisai.com/bloginfo/blog/2191/


メインは乳幼児教育ではあるが、小学校以降でも十分に活用できるスキルである。

大人向けに講習会があったので、それを体験してきた。


理解がまだかなり浅いが、簡単に言うと次のような力を養うという。


・感じる力

・言葉の力

・自分を信じる力


例えばワーク中に「好きな色を3つ選ぶ」という活動がある。

この3つを選ぶという行為自体が自分の頭を使って判断する活動になる。

どの色を選ぶといいとか、この色はだめとかは一切ない。

文字通り「色々」でいい。


本人が好きな色

使いたい色

心身に必要な色


これらを素直に出して行うことがポイントである。


その色を使って、絵を作る。

ここでも自分の感性と頭を使う。

正解はない。

発表の際には子どもの気持ちに寄り添った、肯定的な声かけを行う。


小学校の授業で図工を行うと、次の言葉がよく出る。


「これでいいですか?」


まさに「正解」が自分の外にあって、そこに合わせて調節していこうという姿勢である。

これをなくしていく必要がある。


この質問には、次のように答える。

「○○というテーマだけど、○○君はこれでいいと思う?」


これで「いい!」と言えばそれでいいし、「ううん」と答えたらそれでやり直すだろう。

自分自身に問えるように「そのまま返す」がポイントである。

比べない・評価しない・できるできないを問わない、が大切だという。


実際のワークは次の流れで行った。


ハミング呼吸

色・言葉のアウトプット

発表・言葉がけ


この日は「きらきら星」を聞きながら目を瞑って2分間ほどハミングをした。

驚くほど頭がすっきりクリアになる。

呼吸法の大切さも体感できた。


脳科学をもとに作られたメソッドであるというから、最初に呼吸法が入る。

「何でハミング?」と思ったが、やってみてよくわかった。

ハミングでゆっくりと一曲歌うと、否が応でも深い呼吸をすることになる。

なるほど納得である。


ここでは、色についても学ぶ。

色にはご存知の通り、波長がある。

赤系は波長が長く、青系は波長が短い。

夕日が赤く染まる理由、日が完全に沈んだ後に、空が青や紫色に染まる理由がそれである。(最後まで届く。)


色はもちろん視覚で感じるが、肌でも感じるという。

色は「波」だからである。

色は直接影響を与えるという。

寝室の色は、寝ている間ずっと波として影響しているということである。


そう考えると、真っ白な部屋、真っ黒な部屋などで育児をすることは、あまり好ましくない。

赤ん坊には視覚以前に色を感じる力があるのだから、様々な色に触れさせる必要があるという。


人格形成にも影響を与えるということで、興味深く学ばせていただいた。


言われてみれば、私は色の名前もあまり詳しく知らない。

名前がわからないということは、認識できないということになる。


例えば「赤系」というだけでも、紅葉色、梅重、海老色など色々にある。

知らなければ、それら色々な色も全部単なる「赤」という括りになる。

語彙力や理解力の発達とも関連するという理由がよくわかる。

色の識別ができるようになったら、人生が色とりどり豊かになるかもしれない。


どちらかというと、育児中のお母さんの受講者が多いようである。

読者の中で当てはまる方がいらっしゃるようなら、一度受けてみるのもいいかもしれない。

2021年9月11日土曜日

「女性に対する暴力の現状と課題 」から児童虐待を考える

 前号に引き続き、児童虐待について。


家庭に長くいる夏休みのような時期は、児童虐待を受けている子どもにとっての地獄である。

感染症防止のためにステイホームが呼びかけられ始めた昨年、大きく話題に上がったのが記憶に新しい。


今も、地獄のような毎日に怯えて暮らしている子どもが、日本中だけでなく世界中に確実にいる。

これらの子どもを救うには、関心をもつことがそのスタートである。


この「虐待」という場合、何かあった時に体罰や暴言を吐いたというレベルで留まらない。

「虐め(いじめ)」+「待(=継続的、習慣的にあしらう)」である。

継続的、日常的に虐げられている状態を指す。


虐待の起きやすさは、閉鎖性がポイントである。

オープンな空間では起き得ない。

オープンな空間だと「待った」が外から入るからである。

必ず、閉鎖的な空間で起きる。


学校でも、閉鎖性が強いと虐待は起き得る。

閉め切った教室内で、一人の大人だけがずっと子どもを見ている場合である。

つまり、小学校の学級担任制は、幼稚園のオープン保育や中学校以降の教科担任制に比べ、実は虐待リスクを孕みやすい仕組みである。

(これは部活動においても同じである。)


この小学校で当たり前になっている学級担任制度については他にも何かと問題点が多く、具体的な対応をして変えていくべきだと私は考えている。

教科担任制の推進は大変有効だが、予算を考えると現実的でない。

私としてはいずれ、学年全員で交代して全学級をみる「学年担任制」の方を推進したい。


職員室が閉鎖的だと、職員内での虐待も起き得る。

閉鎖的な空間という点では、想像の域を越えないが庁舎などでもそうなのかもしれない。

会社内やその部署内などでもそうなのかもしれない。

つまり、どこでも虐待は起き得るということである。


そして、最も閉鎖的で密な空間は、家庭である。

虐待は、家庭内についてが圧倒的に最も起きやすい。

家庭内には、外から一切が入れないからである。


今回取り上げたいのは、その中の夫婦間のDVである。


次の最新資料が参考になる。


「女性に対する暴力の現状と課題 」令和3年8月 内閣府男女共同局


PDFスライドのP.5に次の分析がある。

・暴力のいずれの行為も、女性の方が被害経験者の割合が高い

・女性の約4人に1人は被害経験があり、約10人に1人は何度も受けている


さらに、次の分析も重要である。

・特に女性は、「経済的不安」や「養育しながら生活していく自信がなかったから」の割合が高い


経済的にも依存していると、精神的にも依存が起きやすいようである。

それにより、相手に全てを支配され、奴隷のようにされるという恐ろしい構造である。


次のことも記されている。

・子供のいる被害女性の約3割が、子供への被害経験も認識


妻が虐待を受けていると、子どもも被害を受けている可能性が高いということである。

より弱い子どもにも牙が向くのは、それが心の弱い人間だということを考えれば、さもありなんというところである。

全体の1割の中の3割なので、0.1×0.3=0.03 つまり、全体の3%の子どもが少なくとも被害を受けているといえる。

35人学級で1人という割合である。

つまり、クラスに虐待を受けている子どもが一人もいないと考える方が不自然ということになる。


この内閣府の資料は、本当に大切なことが端的に示されている優れた資料である。

最新のものであるので、一度リンクをクリックして各データスライドのタイトルだけでも目を通しておくことを強くおすすめしたい。

(再掲) 

https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/pdf/kadai.pdf


なぜ夫婦間DVを先に取り上げたかというと、結局それが子どもへの虐待のきっかけになりやすいからである。

根本であるここを解決することで、子どもへの虐待を未然に防げる可能性が高まる。


さらに先の「10人に1人は何度も被害を受けている」というデータを改めて考えてみる。

これはつまり、誰しも自分の担任している子どもたちの内の1割の家庭に、夫婦間DVの可能性があるということである。

35人学級だったら、クラスの3~4人の子どもの母親は、虐待されている可能性があると見る。

あくまで平均データ上の確率論だが、どこでもそのように疑って見るのが公平であり妥当なリスクマネジメントの考え方である。

単に「あるけれど見えていない」だけと考えることである。


さらにそれを考えると、その親たちのストレスのはけ口を誰が受けているのかということである。

つまり、もし担任であるあなたがそれを受けているのだとしたら、自分のこと以外にも色々と考えるべきことがある。

児童虐待を考える上で、先に夫婦間DVの問題に関心をもつべきという提案は、そのためである。


夫婦間DVの問題は、児童虐待問題における大きな要因の一つである。

しかしながら、それが要因の全てではない。

他にも児童の発達特性への無理解やLGBTQ等の個性への無理解、貧困問題など、とにかく多様で複雑で根深い。


長期休み明けに担任がすべき仕事の一つは、この児童虐待へのリスクマネジメントの視点をもって冷静に見てみることである。

長期休み明けは子どもの様子の変化を観察することが何よりも重要であり鉄則である。

(だから本来、宿題チェックなどというどうでもいいことをしている場合ではない。

夏休みの宿題が手枷足枷になっているようでは本末転倒である。)


子どものため、本当に為すべき仕事に集中したい。

2021年9月9日木曜日

『52ヘルツのクジラたち』から児童虐待と学校のできることを考える

 次の本を読んだ。


『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ 著 中央公論新社


2021年本屋大賞の第1位で、どこの書店にも平積みされている本なので、見かけた人も読んだ人もいるかもしれない。

虐待児童、家庭内DV、LGBTQへの無理解といった社会問題を正面から取り上げている。

(そしてこれらの問題は全て根っこが繋がっているということもよくわかる。)


この本は教育関係者、特に小学校の担任は読んでおいて損はないように思う。

文学作品としての良さだけでなく、教育書以上に教育の在り方について考えさせられる本である。


この作品中に、虐待を受けていた主人公を小4で担任した教師への痛烈な批判がある。

自分を救おうという純粋な思いから、保護者に婉曲に「うまく」注意したつもりの担任。

親は注意を受け入れたように見せ、そこからは、学校に見えないように虐待がますますエスカレートしていく。


この親は、娘が担任に相談したのだと信じ込み、二度と絶対に逆らわないように、更なる凄惨な虐待による洗脳を行う。

学校では、きちんとアイロンをかけてもらった制服(実は子ども自身がやっている)を着るようにさせる。

親の対応が良くなったように振舞う主人公。


それを見て「よかったじゃん」

「(お母さんはあなたを)大好きなんだよ」

という担任の顔に

「唾を吐き掛けたくなった」というくだりがある。


学校ではよく「先生に何でも相談していい」という。

しかし、例えばいじめの場合が特に顕著だが、子どもはそれをまず教師には言わない。

頑なに「何でもないです」「大丈夫です」と拒み、否定する。

下手な対応をされると、いじめがより巧妙に、より激化するからである。


これは、対保護者でも同様である。

何か問題があった時に「お母さん(お父さん)には絶対に言わないで!」

と子どもが懇願してくる場合、その家庭では失敗に対し、かなり厳しい「お仕置き」が待っている可能性がある。


学校の教師の中途半端な正義が、子どもをより苦しめることがある。

しかしながら、かと言って見過ごすわけには絶対にいかない。

これは、かなり深く考えるべき事柄である。


また作中に出てくる「いい先生」に対して「育てやすそうな子だけ可愛がっている」と指摘する。

この教師への指摘は、この作中に出てくるあらゆる親に対しても当てはまる。


虐待されている子どもは、生半可なことでは助けられない。

そして、虐待されている子どもは、何がなんでも助けねばならない。


社会全体で、児童虐待への関心をもっと高めていくべきである。

同時に、家庭内DVへの問題への関心も高めることである。

夫婦間等の家庭内DVの鬱憤を、子どもへのDVや育児放棄として晴らしているという負の連鎖があるためである。


このような問題提起のある作品が一般に大ヒットしたということは、社会的意義がある。

児童虐待をなくしていくための取り組みについて、学校現場に働く人間としてはもちろん、書籍等を通じてでも行っていきたい。

2021年9月7日火曜日

SDGsと学校教育の価値観の転換

 夏の間に立て続けにセミナー出席していたので、その気付きのシェア。


こちらが学びに参加したのは全て民間の教育研修会であるが、共通して気付いたことがある。

それは「今までの教育のやり方ではもう立ち行かない」という点である。


・・・いや、そんなのずっと何十年も前からわかっていると思う人が大半だろう。

そうではなくて、本当にもうこのままだとまずいのである。

価値観の変化というより、180度ぐらい転換しないと対応できないと感じた。

いや、それすらもぬるい。

もう、世界のスタンダードは、異次元である。


例えば、以前にも何度か書いたが、ジェンダー平等について。

これは特に上の方の世代の方々には受け入れ難いのかもしれない。

「男女七歳にして席を同じうせず」と幼少期から教わった時代である。

「男らしく」「女らしく」という言葉は肯定的な意味しかなかった。


今は違う。

使う場面によっては、人権侵害となる。

この言葉自体の意味云々ではなく、性の概念が世界で変化したためである。


上の世代に伝えるとしたら、戦時中から戦後の教育の変化である。

白かったものが突然真っ黒に塗りつぶされたというあれである。

この場合は、周りの都合により急激かつ強制的に変化した訳だが、要は世界の価値観が変化したのである。


国連で採択されたSDGsに掲げられた17の目標がある。

その内の「目標4 質の高い教育をみんなに」と深く関連すると言われているのが

「目標1 貧困をなくそう」と「目標5 ジェンダー平等を実現しよう」の二つである。


ジェンダー平等は世界レベルで採択されている重点目標であり、国内の旧い価値観の論では通用しない。

教育とジェンダー平等は直結しており、学校で普段どのような教育をしているかはかなり重要な位置を占める。

「1年生入学時の机の引き出しの色が男女別だった」という話に「そんな時代が本当にあったの!?」となる日も近いかもしれない。


一方で、いつまでも無意識にそういったことを学校で繰り返していることが、日本になかなか浸透しない一因である。

トイレもジェンダーレスの多目的トイレを設置している学校がスタンダードになる必要がある。

無意識、つまり学校にとって当たり前になっていることを問い直す必要がある。


教育と貧困も直結していて、教育を受けていないがゆえの貧困という面と、その逆もある。

学校のあらゆる仕組みの中に、経済格差や家庭格差の状況が浮き彫りになるような無配慮がないかも、見直す必要がある。

例えば一部の地方自治体で既に実施されている「給食費無料」などの制度は、今後当たり前にしていく必要があると思う。


学校の教育の今までの価値観は、刷新していく必要がある。

これはかなり辛い作業である。

真面目に教育のことを考えて実践してきた人ほど、辛い作業になる。


例えば「先生の言うことをよくきくいい子」が、社会で全く使いものにならないという評価を受けているという事実。

ここを直視する必要がある。

言うことをよくきける人ではなく、自分の頭で考えて行動できる人こそ求められている時代である。

旧来の「いい子」は、ロボットが全て代用してくれるからである。


そうなると、やたら反抗的なあの子、自分の思い通りにならないあの子をこそ、見直す必要が出てくる。

自分自身があまり周りに合わせるタイプではないなら、ここは対して苦労しない。

自分の思い通りになる子どもなんていないし、それぞれにみんな価値があるという価値観に転換していく。

今までも「みんなちがってみんないい」という言葉自体は広まっていたが、実際は同質性を求めていたというのが現実の教室だろう。


この価値観の転換こそが最大の壁である。

「そうはいっても」となる。

理想と現実が伴わないからである。


変えないと変わらない。

北海道の下町で宇宙開発事業をしている、植松電機の植松努社長がこの世からなくしたい言葉が

「無理」

だという。

夢を語っても無理、現実を変えるのは無理という大人に育てられた子どもが、将来への希望と意欲を失っていくのは自明である。


無理なことはない。

社会の変化は学校教育が全てのスタートである。

もういい加減、旧い価値観を捨てて、学校から、教室から変えていく時である。


どこから手を付けるかは、自分次第である。

少なくとも「ではどうしたらいいか」と常に他に正解を求めている以上、子どもは同じように育つ。

「これだ!」と自分が思うことを、小さなことからでいいから、実行してみる以外にない。


外に学びに出るのは、モチベーションを高めるためだと誰かが言っていた。

全くその通りで、後は動くか動かないかである。

せっかくの学びを、モチベーションだけで終わらせず、実行に移していきたい。

2021年9月5日日曜日

学びのポイントは、共感

 夏の間は研究と修養の時間と割り切って、ひたすら様々な学習会に参加し続けていた。

自分が開催するものも参加するものも両方あった。


関東に住んでいながら北海道の教育研究会でも、思い立ったらすぐ参加できる。

オンライン開催ができるというのは、本当に便利である。


自分がやったもの以外の学習会について詳しくは書けないが、重要な共通点を見出した。

共感である。

今は、SNSを見てもわかる通り、共感の時代である。


こちらの信念があるとする。

これが伝わるかどうかは、これに共感してもらえるかどうか次第である。


師の野口芳宏先生の教えで言うと

「教師理解」

である。


教える側が相手を理解し共感しようとする姿勢は当然必要である。

一方で、教わる側が教える側を理解し、共感しようという姿勢を作れるかは、より重要である。

そしてそれを作るのは、教える側の義務である。

信頼できると思わせるに値する話を日常的にすることや、自己開示の度合いである。


講演や実践発表を聞く時、心がけたことが、ここである。

自分と違う考えだと感じたとする。

その時、意識しないと心の中で否定してしまうのである。


これは一切が学べなくなる原因の元凶となる。

なぜならば、知らない、自分と違うポイントにこそ学びがある。

そうでなく知っている、理解できることだけを聞き入れるなら、それは単なる「確認作業」に過ぎない。


共感するにはどうするか。

相手の立場になって聞いてみるということが大切になる。


自分と違う文脈で生きている人の立場を想像できるか。

相手から学べるか否かはここにかかっている。


例えば自分が比較的裕福な家庭の多い地域に勤めているとする。

そうすると、逆の環境で勤めている人の文脈は確実に自分と一致しない。

だから、そのままぼーっとその人の話を聞いていると、誤った実践をしているように見えてしまう。


時代の違いにおいてもこれはいえる。

世代間ギャップを埋める難しさは、異なる時代背景を生きていることである。


極端な話、戦時中のどうこうを、今の時代の新しい世代が想像するのはかなり難しい。

それに対し悪だ正義だとどんなに論争しても建設的でない。


戦争の時代を生き抜いて語る人の話を聞く時、どんな心境なのだろうと想像することはできる。

かなりの限定した範囲しか理解できないが、全くの反駁や否定をする気持ちはなくなる。


数ある実践発表を聞く中で、心を打たれるものがあった。

例えば、子どもの意見を最大限きいた上で席替えをしたとする。

こちらは最大限の配慮をしたつもりが、子どもに話を聞くと実は有難迷惑だった点があったということがわかる。


そこでこの先生は必ず「そうなんだ!」とはっとする。

子どもから学ぶ姿勢がすごいのである。

だから、実践発表の中身もすごかった。

日々常に向上といった感じである。


教える相手から教わろうとする。

これは相手が大人か子どもか、立場や年齢の上下か等に関わらず、全ての場合に必要な姿勢である。

共感しようとするから、共感してもらえる。

この姿勢が全てである。


せっかくの貴重な時間を費やす学びを、これからも有益なものにしていきたい。

2021年9月3日金曜日

正義なら悪をやっつけてもいいか

 前々号に続き、オリパラの各種炎上対策について、学校教育のできることを考える。


大分前にも書いたが、教室でも悪口をわざわざ広める行為が見られることがある。

これを「悪口の郵便屋さん」と教える。

(参考:ブログ教師の寺子屋 2019.10.10 「告げ口」と「相談」の違いとは) 

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/12/blog-post_10.html


「あの人がこんな悪口言ってたよ」といちいち本人に教えに行く子どもがいる。

もちろん、単に意地悪で行っていることもあるが、実は親切心からということもある。

これは大抵、言われた本人から相談が来て、その後個人的に指導して対策がとれるからまだいい。


教室のみんなの目の前で大声で

「○○さんがこんな悪いことしてましたー!」

と叫ぶ場合がある。

これがいけない。

(身体的なことや恥ずかしいこと、プライバシーに関わること等だと大変である。)


何より、叫んだ本人がこれが「いけないことだと思っていない」という場合が一番の問題である。

つまり「正しい」ことだと本気で思っている場合である。

そうでなければ、先生に対してみんなにも聞こえるように大声で叫ばないのである。

本人的には、正しいことをして認められたい、褒められたいのである。


問題の本質は「正しいこと」への扱いである。

「正しいことなら相手を攻撃してもよいか」

ということである。

社会的に見た場合の究極は死刑の是非、公開処刑の是非、そして戦争の是非である。


まず、正しいことは絶対に正しいという認識の誤りが不幸を生む。

すべての正しさとはあくまで自分の思い込み(信念)に過ぎないということ。

これを教える。


これも何度も書いているが、正しさとはその場、その状況において180度変化する。


玄関で靴を脱ぐというのは、あくまでも日本における正しさである。

服装や言葉遣いはTPOで正しさが全く変わる。


例えば「給食は残さず全部食べるべき」なども学校神話として語り継がれてきた正義の一つである。

戦後間もない頃には、そもそもこの議論さえない。(食糧自体に困窮しているので残さない。)

状況にもよるが、飽食の上、宗教含め多様な子どもが在籍する今の時代にはそぐわない正義である。


宗教が違えば、当然正しさは変わる。

宗教戦争に終わりがないのは、正しさと平和の認識の違いからである。

正義のヒーローは、やっつけられる「悪の組織」の側の家族からすれば、確実に悪である。



次に、それを直接裁いたり罰したりしてはいけないということ。

ここも教える。

(いわゆる私刑、リンチであるが、言葉としては教えない。)


社会で言うと、スピード違反や路上駐車違反を罰することができるのは、警察だけの権限である。

一般人には、それを捕まえてどうこうはできない。

せいぜい、それで直接困らされている住人が助けを求めて警察に通報するところまでである。


基本的に、ルール違反はルールを定めた立場の人間に権限があり、対処する義務がある。

道路交通法であれば警察に権限があるし、学校のルールであれば、教師である。

(逆に言えば、子どもたちが自治的に決めたルールなのであれば、そこに教師が直接対処するのは誤りである。)


だから、ルール違反だと思う人を見つけても、それをみんなに知らせたりやっつけたりしてはいけない。

まして、正しいからと私的に裁いて罰することは、それ自体が違法行為である。


オリンピックやパラリンピックのようなスポーツの場合、審判がいる。

不当なジャッジだと思ったら本来抗議するのは本人たちであって、周りではない。


普段は愛国心と聞くだけで毛嫌いする人でも、オリパラやワールドカップ等の国際大会だと急にナショナリズムが働く。

赤の他人の問題に首を突っ込もうとしてしまう。

そこに「正しさ」があっても、ジャッジも結果も他人のことであり、本来自分とは無関係なはずである。

(今まで、その選手のために自分が一体何をしてきたのかである。)


SNS上の炎上騒ぎは、この

「○○さんがこんな悪いことしてましたー!」

と同じ行為である。


相手がスポーツ選手でも芸能人でも同じである。

国際大会系は先のナショナリズムが働くらしく、普段大人しい人も暴れ出しやすいようである。

(何度も言うが、自分がどこの国の人間だろうが、どの選手とも無関係である。)


子どもに教えるべきは、正しさとはあくまで一面的であるということ。

個人的に悪いと判断し思ってもいいのだが、勝手に広めて騒がないことである。

これからの学校のICT教育が担うべき部分の一つがここにある。


道徳教育の混迷もここにある。

多様性を認めると、正しさの軸がぶれる。

正しさの軸を決めると、多様性に対応できなくなる。

結果的に、ブレまくりの揺れまくりである。

つまりは海上を進む船のごとく、揺れながらバランスをとるというのが現実的である。


個人的には、自国を含め、どの国がメダルを何個とったかには昔からあまり関心がない。

全ての国の選手が気持ちよく競技をして欲しいというだけである。


グローバルスタンダードというからには、自国びいきで競技を楽しむことはあっても、どの国も大切にする姿勢が欲しい。

やられたらやり返すの競争の行きつく先は、終わりなき戦争の発想である。

2021年9月1日水曜日

研究ではなく修養を

 学習会での学び。

教育界における素晴らしい先達の方々に学べる貴重な機会を頂いた。


どの先達も述べていたのは、主体変容の大切さである。


「問題の子どもはいない。

問題の大人がいるだけ。」


という言葉が紹介されていたが、その通りである。

要するに、問題はこちら次第である。


しかし現実問題として、それがわかっているのに解決できていないことが多々ある。

なぜなのか。


ここと関連して、学校が研究ばかりしている、という点も問題にあげられた。

これは師の野口芳宏先生からの問題提起で、過去私も何度も紹介していることだが、次の点である。


・学校は、他者改善である「研究」に注力するばかりで、自分を磨き高める「修養」がない。


「研究主任」はいても「修養主任」はいないという学校の現実である。

つまり、子どもをどうにかしようとする努力はしても、自分を変えようという努力の方向にいかないということである。


考えてみれば、当たり前である。

自分を否定するのは苦しい。

他人を否定する方がずっと楽である。


教師の立場からすれば、

「子どもが悪い」

「親が悪い」

と言っていれば、とりあえず自分は傷つかないで済む。

(「同僚が悪い」「管理職が悪い」の手も使える。)


逆の立場でも成り立つ。


親の立場からすれば

「担任が悪い」

「学校が悪い」

と言っておけば、とりあえず自分の責任の範疇ではなくなる。

子育てが云々と周囲に責められないで済む。


子どもでも成り立つ。

「先生が悪い」

「親が悪い」

と言えば、自分を守ることができるし、すべき努力もしないで済む。(これは時に必要でもある。)

あとは「友達が悪い」も使える。


・・・全て非生産的である。

他者改善を求めることで、自己改善から逃れている。

問題の根本的解決につながらないどころか、どんどん遠ざかる。


相手を変えようとするのではなく、自分の在り方を変える方が先である。

それによって、相手が変わることがある「かもしれない」という程度である。


これも野口芳宏先生の言葉だが

「教育の究極は、感化・影響である。」

今回、これに「薫染」(くんせん)という言葉も使われていた。


要するに、どんなに「教え方」を研究しても、結局は相手から剥がれ落ちるだけである。

本人の内側からの変容がない限り、血肉化しない。

あらゆる教育方法論の弱点は、それを用いる、あるいは用いられる人間の人格の違いを想定できないところである。


今、オリンピック・パラリンピック選手が大活躍しているが、人生の中で誰かに感化・影響を受けてきたと語る選手は多い。

それは親であったり教師であったりコーチであったりライバルであったり子どもの頃に見た憧れの選手であったりと様々である。

とにかく「この方法で世界に通用する選手になれる!」はなさそうである。

オリパラ出場とて、周囲の支えはもちろんあったにせよ、最終的には本人の自己錬磨の賜物と思われる。


自分自身を磨くこと。

ダメな自分や嫌いな自分、できていない自分にも向き合うこと。


一番辛い作業になるが、一番必要なことはここにしかないと感じた次第である。

この夏休みも、オンラインを中心に様々な勉強会が催されてきた。

ハウツーではなく修養につながるものをこれからも求めていきたい。

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