2019年12月31日火曜日

空白をごみで埋めない

大掃除をすると、思い出すことがある。

よく母が「もっと広い家なら片付く」とぼやいていたことである。
物を置くスペースが足りないから散らかる、という論理である。

そんな訳ない、と子ども心に思っていた。
それも伝えたが、「そんなことない」と、まあ話は平行線である。

これは、何にでも当てはまる。
例えば、家族が増えたとかよく食べるようになったからと、冷蔵庫を買い替える。
冷蔵庫のスペースが広くなったから、これで余裕、という訳である。

しかし、人間の脳は空白を埋めたくなる。
「スペースが空いているからとりあえず置く」という心理である。
これをやると、とりあえずの場所にずっと置くことになる。

つまり、空いているスペースがこの調子で埋まり続ける。
新しい大きな冷蔵庫も、あっという間に埋まる。
新しく引っ越した広い家も、あっという間に散らかる。

要は、余裕がないのはものの広さの問題ではなく、使う人間の問題である。
旅行上手の人の鞄と同じ原理である。
たかが一泊二日の荷物が異常に大きくなるのは、旅慣れていない証である。

この原理は、時間にも適用される。

例えば17時に絶対の予定があると決まっていれば、そこまでに集中して仕事を仕上げる。
やるべき仕事を10の仕事量としたら、16時から1時間あたり10の仕事をこなすものである。

しかし、同じ人が21時まで残業できるとなると、その分薄まる。
5時間で10の仕事をこなせばよいのだから、10÷2で1時間あたり2の仕事量である。
(実際は休憩やおしゃべりをはさむので、時間帯によって0~5ぐらいの幅でかなりバラつきが出る。)

つまり空白は、放っておくと、ごみや不要物で埋まるのである。
時間でも空間でも、必要なことは「先取り」が基本である。

何を言いたいのかというと、行動には区切りが大切ということである。
一定の空間あるいは時間という枠の中で考えることで、人間は行動に移せる。
大晦日までにあれこれを終わらせるのも、新年に一年の目標を決めるのも、本質はこれである。
全ては行動化のための手段である。

自分の時間は、あとどれぐらいあるのか。
令和元年の終わりに、改めて考えてみた次第である。

2019年12月29日日曜日

子どもに「言い訳」を与える

親と教師の仕事の一つ。
それは、子どもに「言い訳」を与えてあげることである。

どういうことか。

以前に何度も本や記事で書いたが、例えば鬼ごっこで、氷鬼を行う時。
高学年で男女が混ざるようにするには、一工夫が必要である。
だから「男子を助けた女子を賞賛する(逆も)」ということを教師が行う。
それでも効かない場合は「男子しか女子を助けられない(逆も)」というルールを作る。

こうされると、子どもたちは、そうせざるを得なくなる。
「先生が言ってるから、仕方ない」という理由で、男女が混ざる。
実は、普通にそうやって交流したいような子どもたちも、周りを意識してできないのである。
そこに、言い訳を与える。

今の子どもたちは、SNSでつながっていて、途中で話題を切れない。
「もうこの辺で寝よう」というと「付き合いの悪い奴」ということになる。(面倒な酔っ払いオヤジみたいな世界である。)
あるいは「既読スルー」への報復が怖いのである。
寝不足や生活習慣の乱れの原因の一つである。

ここに、親が言い訳を与える。
「夜9時にはスマホを親に預ける」というルールを作る。
(あるいは、そういうルールがあるということを友人に伝えておく。)
それだけで、もう「仕方ない」ということになる。
言い訳を与えることで、子どもを守れる。

こういうことはたくさんある。
親や教師は、子どもの人間関係にとっての「助かる言い訳」になれる。
その辺りを意識することである。
何でも子どもの自由にするのが、子どもにとって助かるという訳でもないということである。

「人のせいにしない」は基本だが、こういったことは例外。
子どもを守るための言い訳という視点も、親や教師にとっては、大切である。

2019年12月27日金曜日

子どもが「荒れる」原因

子どもが「荒れる」原因について。

子どもが荒れるのは、理由がある。
単純に「負のエネルギー」が一定まで溜まると、暴れ出す。
まあ大人でも同じことである。

負のエネルギーが溜まる状況は
・やりたくないことを我慢してやらされる
・やりたいことを我慢してやれない
・怒りと悲しみ
・理不尽な目に遭う
・意味のわからないことを黙って聞き続ける
・動かずじっとしている
等々たくさんある。
(虐待やハラスメントは、これが揃っている状態である。)

教師があまり直視したくない結論を述べる。
つまり、授業がつまらないと、荒れる。

授業がつまらないとは、具体的にどういうことか。
先に挙げたような場面が続く授業である。
わからないことを延々と我慢して聞く。
椅子にじっと座って耐えて聞く。
授業中にふざけている子が真面目な子どもの邪魔をしていても、全く対応されない。
一生懸命やっても評価されず、不真面目なあの子や、大きな声で目立つあの子ばかりが相手される。
これで、確実に荒れる。

ただし、負のエネルギーは、一気には溜まらない。
溜まってきても、途中で減らすこともできる。
先に挙げたことの逆をやればよい。

つまり
・やりたいことを思い切りやれる
・やりたくないことを無理にやらされない
・笑いと喜び
・正当な評価を得る
・やっていることがよくわかる
・動く

こういったことを取り入れる度に、負のエネルギーが減る。
負のエネルギーが0になると、今度は正のエネルギーが溜まってくる。
そうすると、「落ち着く」(荒れない)から「望ましい行動を積極的にとる」という状態にまでなる。

要は、学級が荒れるには子どもの背景とか色々あるが、授業がつまらないことが大きな原因である。
これは、残念ながら、ほぼ間違いない。
データでも、荒れた学級の子どもに聞くと、口を揃えて「授業がわからない」という。

だから、「専科の先生の時間だけ落ち着く」ということが起き得る。
(逆も起き得る。)
中学校では、普通のことである。

学級経営がベースなのは間違いない。
しかし、授業がどうでもいいかというと、全くそうではない。
(一方で当然、授業研究だけしていてればいいという訳でもない。)

子どもが学校にいる時間において、授業の時間が一番長い。
そう考えると、授業の大切さは、強調してもしきれない。
「授業が適当でも大丈夫」というのは、その「適当」が「無理なく適度」という意味である。
初任者や若い先生方には、やはり授業の準備をしっかりがんばっていただきたいと思う次第である。

2019年12月26日木曜日

与える=与えられる

昨日は、クリスマスである。
子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。

大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。

「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。

人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。

サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。

世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。

クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスは、世界が少し良くなるための日だと思いたい。

2019年12月23日月曜日

学習意欲が高まっているとは

学習意欲の捉えについて。

子どもの学習意欲ということが大切にされている。
新学習指導要領でも「学びに向かう人間性」の育成は、最重要項目である。
昨今に限らず、「関心・意欲・態度」には常に重点が置かれてきた。

ところで、この「学習意欲」という大きな言葉.
その内実がかなり違うと感じる次第で、書く。

言葉というのは、ラベルである。
ある種のものの分類、カテゴライズである。
しかし、同じ言葉の指すものでも、内実は全く違うということが多々ある。

学習意欲というものは、捉えによって内実が全く違う。

例えば最近、eラーニングによる学習がもてはやされている。
子どもの習熟度に従って、問題を出してくれる。
これはこれで意味がある。
子どもの学習意欲の向上に役立つという。
この場合、指すところは「子どもがゲームのように楽しんで取り組む」という意欲である。

また、何かのキャラクターに喋らせたり、下品なものを用いて笑わせて面白がらせる、という手段の場合もある。
(昨今大ヒットした漢字教材について、私はかなり批判的な立場である。日本語に対する品性が問われる。)

一方で、目指すところがあって勉強して、問題を解いているという場合。
これも「学習意欲がある」という。
しかし、これは先に挙げたいくつかの例とは、全く内実が違う。

前者は、外発的動機付けという。
面白そうだと思いそうなものを与えて意欲を引き出す方法である。
この場合、外的要因に魅力を感じなくなると、意欲が全くなくなる。

後者は、内発的動機付けという。
自分の内にそれをやる目的があり、動く場合である。
この場合、外的要因に影響を受けにくい。

もう少しわかりやすく例える。
子どもが好きなものだけを毎日食べさせれていれば「毎日よく食べている」という表現になる。
好き嫌いが少なく何でもよく食べる子どもも「毎日よく食べている」という表現になる。
確かに両者とも毎日よく食べているのだが、内実は全く違う。

何を言いたいのかというと、学習意欲の捉え方である。
子ども好みの美味しそうなものばかり与えて「よく食べている」と安心できるかどうかである。
状況によっては、そういうものが提供されない場合もあり得る。
この場合の「学習意欲」は、本人ではなく、他者に規定されることになる。

「学びに向かう人間性」というようなことを考える場合、最初は外発的でも、どこかで内発的動機づけに変換する必要がある。
人工的なサービスを受けて楽しいといっている状態から、自然の中に入って自分で楽しみを見つけられるようにするのと同じである。

現在の学校は、残念ながら、オーダーメイドの場ではない。
しかし今、時代はそういう流れになってきている。
消費者一人一人にとって、最適で快適なサービスを提供するのが当然という流れ。
ICTの得意分野である。

だからこそ、そうではない経験をする場として、学校は意味がある。
自分の思い通りにいかない他者との関係の中に生きる。
サービス満点ではない、不満足な中で、他者と折り合いをつけながら学ぶ。
多少しんどいことでも、意義を見出し、意欲をもって取り組む。

便利な世の中だからこそ、不便な体験も必要である。
他人と協働することは、大変だし、面倒である。
大変だからこそ、大きく変われる。
他者の面倒をみるからこそ、面倒をみてもらっていた自分に気付ける。

学習意欲の話に戻る。
やりやすいもの、面白いものばかりでは、育たない「学習意欲」もある。
困難であっても、挑戦しようと思えるような学習意欲が欲しい。

例えば算数。
普通に教科書レベルの問題であれば、特に考えなくても、大抵のものはできる。(手順や公式の丸暗記でできる。)
しかし、入試問題のようなものや、算数オリンピックのような問題であれば、別である。
古今東西の算数クイズもたくさんある。
こういった、知識だけでは解けないようなものに粘り強く取り組む「学習意欲」も育てたいのである。
解けないかもしれないし、モヤモヤも残るかもしれないが、単なる点数だけを追っている子ども(と親)には特に意味がある。

今の自分には難しいからこそ、自分をよりよく変えていこうという学習意欲が欲しい。
その基盤となるのが、前号までに述べてきたセルフエスティーム。
自己信頼があれば、困難にも、意欲をもってがんばれる。

易しいものばかりを与えるのが優しさではない。
励ましつつ、困難にも挑戦できるような真の学習意欲を育てたい。

2019年12月21日土曜日

セルフエスティームを高める方法

前号の「セルフエスティーム」に関連して。
私見として、気付き。

「自分自身の価値を信じる」というと、日本では品がないように思われることがある。
しかし、それは違う。
自分自身に価値を見出せないと、他人の価値も認められなくなるからである。

自分に不足感があると、他者に色々と求めるようになる。
「もっと〇〇をちょうだい」
「あの人の方が私よりももっている。悔しい。勝ちたい。」
「なんでもっと私を大切にしてくれないの」

・・・まあ、重い。
面倒な人である。
しかし、セルフエスティームが低い人は、この傾向になる。
自分の足りない分を他の「富める者」からの「施し」で補おうとするからである。

逆に、セルフエスティームが高い人は、満足している状態になる。
つまり、自分自身に、余裕ができる。
そうすると、余裕の分が溢れ出てしまうので、他者に与えることになる。
溢れた分が勿体ないので、捨てずに人に分け与えることで、満足できる。

仕事というのは、これである。
自分の専門技能なり努力なりで生んだ余剰価値を、他者に提供する。
相手に喜んでもらい、満足する。
単純化すると、そういう仕組みである。

つまり、自分には価値あるものを提供できない、という考えだと、喜びがなくなる。
価値あるものを提供できるという自信が、喜びにつながる。

ちなみに、海外の人には理解し難い日本語の「つまらないものですが・・・」は、本当につまらないものとは思っていない。
自分としては精一杯の価値のあるものだが、あなたの素晴らしい価値に対しては申し訳ないかもしれない、という意味である。
モノ自体が決してつまらないのではなく、相手を敬っているからこその言葉である。
モノと相手の相対的価値から、モノが「つまらないもの」になってしまうだけである。

話がやや逸れたが、ではセルフエスティームをどう高めるかである。
これは「与える側」に立つに限る。
先に述べたように、もてるものが与える側に立てる。
逆にいえば、与えてしまえば、もてるものという潜在意識を作れる。

そういった意味でも、例えば募金は意味がある。
相手のためでもあるのだが、何より自分のためになる。
募金をすれば、セルフエスティームが否応なしに高まる。
それを狙ってするのも憚れるかもしれないが、少なくとも募金しないより、する方が相手にとっては助かる。

ボランティア活動といわれるもの全般も同様。
ごみ拾いでも何でも、すればセルフエスティームが高まってしまう。
やっていて、悪いことをしているとは、どうしても思えないからである。
道行く散歩中の人々に「ありがとう」と言われて、セルフエスティームが高まらないようにする方が難しい。
「ありがとう」は、相手の価値を認める最大の賛辞である。
それを、ただ偶然すれ違っただけの人に言われるのだから、これは「有難い」ことである。

ごみ拾い活動に関していえば、道がきれいになる。
それを見るだけで、爽やかな、嬉しい気持ちになる。
十年前に捨てられたようなごみを拾う時には「お前はずっと待ってて大変だったなぁ」と声をかける。
とりあえず、鍵山秀三郎氏の言うように「一つ拾えば、一つだけきれいになる」が実感できる。
やってみればわかる話である。

私は「偽善者宣言」をしたので、こういう場でも現実の場でも「やっています」と堂々と公言する。
これを知って、真似する人が出るかもしれないからである。
もし一人でも子どもが大人を誘って真似し始めたら、もう教育の目的としては、ばっちりである。

教師である自分と、子どものセルフエスティームを高める。
そのためには、教室で何か「与える」というような活動をしてみる。
または、そういう仕組みを作る。
これを常に意識して教育に当たるのが大切ではないかと思う次第である。

2019年12月19日木曜日

セルフエスティームを高める

セルフエスティーム(自尊感情)について。
大学の授業で学んだ際に、面白い話があった。

セルフエスティームとは、簡単に言うと、「自分には生きている価値がある」と考えられる傾向である。
日本では、「謙譲の美徳」が悪い形でここに反映しており、セルフエスティームが世界一低い傾向がある。
(特に中学生の女子が最低値になるというデータがある。)

ある研修会で、高校の先生から次のような質問を受けたという。
「自分の苦手なところやダメなところを自覚するのも、同じくらい大切ではないですか。」

皆さんは、どう考えるだろうか。

ここを、研修講師をしたその先生は、完全に否定したという。
それは「間違い」であると。

それも大切だが、「同じくらい」ではない。
セルフエスティームが高い方が、ずっと大切である。
なぜなら、セルフエスティームが低い人間にとって、苦手やダメな点を自覚したところで、デメリットしかないからである。
自覚させられたことにより、更に落ち込むことになり、より不活動になる。

つまり、勘違いしている方がずっといい。
人間の可能性なんて、誰にもわからない。
少なくとも、自分はダメだと思って諦めてしまうよりも、勘違いして行動する方が、伸びる可能性がある。
まずは動かないと、伸びる可能性はゼロである。

子どもの教育では、まずこのセルフエスティームを高めること。
苦手を意識させようとしなくても、本人はよくわかっている。
それよりも、長所を伸ばす方に全力を注ぐ段階である。

幼稚園児相手に、「できないこと」を羅列して自覚させることの愚かさを考えればすぐにわかる。
「何でこんな簡単なことができないの!」
・・・・子ども的には、何でそんなことを言えるのかを、大人の方に聞きたいところである。
一番親身に考えているつもりの、親や教師こそが、最も子どもを「ダメ」にしている。

セルフエスティームを高める。
誰から。
大人からである。
あなたがあなた自身の価値を信じることができなければ、子どもが自分の価値を信じることはない。

大人のセルフエスティームの向上と、自信の確立。
それができれば、子どもの可能性を信じることができる。

子どもにガミガミ言いがちだとしたら、自分自身のセルフエスティームの低さを疑ってみることが優先事項である。

2019年12月16日月曜日

一年生ギャップを考える

幼稚園の公開研究会に参加した。
そこでの学びと気付き。

幼稚園の活動は、遊びである。
遊びの中で学ぶ。
この感覚が、小学校以降の教員には理解され難い。

遊びの中で、国語と算数と理科と体育と図工と道徳と・・・すべてが行われる。
「総合的な学習」の時間が当たり前である。
小学校でいうと、生活科の「秋探し」の活動を毎日行っている感じである。

とにかく、面白い。
どこへ行くのも自由だし、子どもたち同士も常に緩やかにつながっている。
子どもたちは、幸せだと思った。
これを見て「小学校では通じない」などというのは、完全なお門違いである。

そう。
これだけの豊かな学びをしてきた子どもが、小学校ではいきなり「机と椅子について、皆さんご一緒に」である。
無理に決まっている。
小学校の側が「不自然」なのである。

本当に、小学校の入学当初から、一人ずつの椅子と机が必要なのだろうか。
皆さんでご一緒にする必要があるのだろうか。
4月最初の文字もない教科書において、その環境が「必須」な学習は、一切していないはずである。

「小一ギャップ」を埋める努力として、「スタートアップカリキュラム」がある。
それはそれで大切である。
しかしながら、もう少し一年生が馴染みやすい環境というのがあるのではないか。

時間に細かく区切られて、次々に追われるような暮らしに「喜び」を感じられない子どもがいても当然である。

小学校の「当たり前」が、全く通用しない世界。
何よりも刺さるのが、幼稚園の子どもたちの幸せな姿である。
ここに「戻りたい」と思うのが、ある意味で当然である。

小学校は、幸せな空間になり得るか。
少なくとも、学力検査の結果に追われるような世界は、幸せからほど遠い。
社会がそんなに甘くない、という意見はその通りだが、社会は、学校教育の常識が通用しない世界というのも事実である。

小学校教育の在り方。
それを根本から考え直させられる、幼稚園での学びだった。

2019年12月14日土曜日

教育と習慣が全国学力テストの点数へ与える影響は?

世を騒がせ続けている、全国学力状況調査の結果についての考察。

最近、必要に迫られて、統計学を学び始めている。
その中で「相関係数」というものが出てくる。

要は、二つの事柄の間に、関係性があるかないかというものを1からー1までの数値で表したものである。
(計算式や方法はややこしいので省略。)
目安として
0.7 ~ 1.0 かなり強い相関がある
0.4 ~ 0.7 相関がある
0.2 ~ 0.4 弱い相関がある
0  ~ 0.2 ほとんど相関がない
と読む。
ちなみに「+」だと正の相関、「-」だと、負の相関になる。

Wikipediaにある例によると、先進諸国の失業率と実質経済成長率は強い負の相関関係にあり、相関係数は-1に近くなるという。
(失業率が上がるほど、確実に経済成長率が落ちる傾向。一次関数でほぼ直線右下がりのグラフ。)

このようにして、次の文科省のページにある全国学力状況調査の結果を見てみる。
http://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/factsheet/19primary/

以下は、このページの最下部の方にある、相関係数の入ったエクセルデータである。

相関係数(児童質問紙-教科)全国【表】
http://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/factsheet/data/19p_421.xlsx

見るのが面倒な人もいると思うので、見ないでもわかるように結論から。

この結果を見ると、残念ながら、ほとんどすべての項目において、国語や算数の点数とは「相関がない」と読める。
相関が見られたのは、算数、国語が「わかる」と答えた子どもと、それぞれの教科の点数に「弱い相関がある」という程度である。
他は、生活習慣や学校での教え方、環境等のあらゆる「正しい」と思われる教育行為が、思った以上に点数と相関がないようである。

直接的に国語と算数の学力テスト対策の勉強をする、ということが最も効果があるのかもしれない。
事前対策テストの頻度でも聞いたら、おそらく強めの相関が出るのではないかと思う。
(これは、体力テストでも同様。実施回数を増やすほど、確実に数値が上がる。)
学校調査の方なら「事前テストをするように学校へ何らかの圧力がありましたか」ときけば、きっと相関が出るだろう。

相関係数という視点から見ると、単純な点数と、生活習慣や教育方法との相関はなさそうである。
残念無念である。

ただし、この相関係数で見る時に要注意なのが、

「相関関係がある」≠「因果関係がある」
あるいは
「相関関係がない」≠「因果関係がない」

ということである。
因果関係とは、どうやら別物のようなのである。

例えば、以前にこのメルマガ上で、「東大生の小学生時の習い事No.1は、水泳」ということを紹介した。
(参考記事↓まぐまぐニュース「東大生の6割が小学生のとき水泳教室に通っていた。だから何だ」)
https://www.mag2.com/p/news/242251 

この結果からは、東大生と水泳ということには、相関関係がありそうである。
しかしながら、それは「水泳に通っていたという要因から、東大生になった」ということには結びつかないということ。
例えば、東大生になった子どものいる環境には、周囲に水泳教室があることが多かった、という可能性も考えられる。
これが「相関関係があっても、因果関係があるとは言い切れない」という一例である。

この手の要因は他にも多様に考えられる。
要因の特定は、難しいのである。

先の例でいうと、「事前テスト」と「点数」に強い相関が出ると予想した。
しかし、実際にとってみたとしても、相関係数に高い数値が出ない可能性もある。

なぜか。

確かに、事前テストを多くしたから点数が高かったという子どもが、多く存在するはずである。
一年間、毎日のようにテスト対策練習をした学校の点数は当然上がるだろうということは容易に予想される。

一方で、そんなことを一度も全くしなかったのに、点数が高かったという子どもも存在する。
元々塾通いが多く、テスト系学力の高い子どもが集まる地域の学校(所得とかなり強い相関がある)や、
入学困難な私立中学を受験する子どもが多い学校である。
あるいは、それと全く関係なく、すごく勉強にセンスのある子どもである。(いわゆる天才タイプ。)

この両者は、相殺関係にある。
「事前テストをした」「事前テストをしていない」という真逆の方法に関わらず、同一の結果(点数)を示すからである。
テストの点数が上がる要因が、「単純なテスト慣れ」と「本来の学力の高さ」の両方に関わるからである。
だから、相関係数をとると、予想に反する小さな値になることがある。

じゃあ、相関係数をとっても意味がないじゃないかというと、そうでもない。
そういう考察をする余地ができる訳である。
少なくとも、相関がないということは、それさえやっていれば他方がOKということにはならないという事実が示せる。
(例:「早寝早起き朝ごはん」だけでは、点数が上がらないということ。当たり前だが、点数を高めるには、勉強が必要である。)
強い相関があるということは、何かしらの関係性があるということが示唆される。

まあいずれにしろ、あらゆる教育行為と現在の学力テストの点数に相関関係がないということは、何かと考えるべき事実である。

折角文科省が50億円もの予算を投じて全国から集めたデータ。
わざわざ一般公開してくれているのだから、何かしら、現場に役立てたいと思う次第である。

2019年12月12日木曜日

「一世を風び」からの問題提起

ネットニュースの一覧をチェックする。
当たり前だが、テレビと違い、伝える主な手段は音声ではなく、書き言葉の文字である。
(無駄にキャッチ─で刺激的なコピーが多いのが気になる。)

ある記事に大きく「一世を風び」とあった。

これでいいのか。

今回はこの「変な漢字仮名交じり文」について考える。

小学校、特に低学年では、割とよくある。
読める漢字が少ないためである。
振り仮名を振れば問題ないのだが、これも二度手間であり、避ける人が多い。

要は、平仮名にして、読むのを易しくしているのである。
「あなた方にはきっと読めないでしょうから」という配慮であり、優しさともいえる。

しかし一方で「読めないから読ませない」を続けている以上、読めるようにならない。

「木登りは危ないから、登らせない。」→「だから、ずっと登れない。」という問題と同じである。
木を登るような経験のない子どもは、いざ高い所から落ちた時にかなり危険である。

これは、本当に相手を思いやった「優しさ」と言えるのか。
易しいものばかり与えることが、優しさと言ってよいのか。

「一世を風び」の記事に戻る。
正しくは「一世を風靡」である。
確かに難しい漢字だが、読めないことはない。
平仮名が入ると、違和感である。
初めてみる言葉にすら見える。

配慮なのだろうが、余計なお世話である。
ちょっときつい言い方になるが、読者を馬鹿にしているともいえる。
あるいは「読字力がかなり低い読者層」をメインに想定しているのかもしれない。
だとしたら、ビジネスマンが見るようなニュースにそれを載せるべきではない。

そう。
馬鹿にしてはいけない。
人間は、今知らないことも、学べば知ることができる。
それが、学習である。

まして、子どもは、賢くなるために学校に来ている。
どんどん漢字を使って振り仮名をふって、教えるべきである。
(というのは、残念ながら私ではなく、師の野口芳宏先生の長らくの主張である。)

もう一つ。
「一世を風び」と書いた場合、読めるかもしれないが、意味がわかるのか。
読めないレベルの人が、意味ならわかるというのも、少し考えにくい。
(その場合、もしかしたら「いっせいをふうび」というオール平仮名か片仮名の単語で覚えているのかもしれない。)

日本人の語彙力の低下が問題である。
それは、メディアの影響もあるかもしれないが、当然ながら学校教育の責任が第一義である。

堂々と漢字を使う。
もし読めなかったとしても、調べる手段はいくらでもある。

そして改めてみて、「靡」という漢字を書いたことがないことに気付いた。
「靡く」(なびく)と読むらしい。
知っている単語でも、漢字は知らなかった。
どこでも使われない漢字だと、知ろうともできないものである。

英語の問題ばかりが取り沙汰されるが、日本語の問題も相当に真面目に考えていいところである。

2019年12月10日火曜日

「告げ口」と「相談」の違いとは

前号に引き続き、「CAP」からの学び。

「告げ口」と「相談」の違いについて教えていた。
告げ口は、相手を困らせようとして行うもの。
相談は、困っている時に行うもの。

こう書くと簡単にきこえるが、この境目は子どもにとっても結構難しい。

例えば、下校時にジュースを買っている子どもがいて、ある子がそれを発見したとする。

単純に懲らしめてやりたくて先生に言うのなら、これは告げ口。
勧善懲悪を楽しむ気持ちがあるからである。

この人のためにならない、これを続けていると、もっと悪いことにつながる気がする。
だから、先生に注意してもらって止めて欲しい、という相手を思いやる願いがある場合。
これは相談。

要は、本人の心がけの問題である。
どういう気持ちで伝えるかである。

先の例なら、たとえ告げ口目的であっても、教師は知った方がいいのかもしれない。
結果的に、これを放置することで、後々良くないことに発展するからである。

だからこの場合、とりあえず迷うなら、伝えるべきである。
ルール違反であり、発展の可能性がある。
嫌な「告げ口」になるかどうかは、心の問題である。

またこれが、いじめ絡みなら、迷わず伝えるべきことである。
少なくとも、伝えることで、やられている子どもを救える可能性が高まる。

一方で、完全に告げ口になる場合もある。
「あなたのことを悪く言ってたよ」とわざわざ悪口の配達をしてくれる人がいる。
これは、「不幸のお届け便」である。
(ちなみに、これはサークル仲間の飯村友和氏が教えてくれた話である。
悪口の郵便屋さんである。)
厳にして慎むべき行為である。

大人でも、SNS等でわざわざ誰か特定の個人の悪口を書き込む人がいるが、同種である。
不満があるなら、対等な立場で、一対一で伝えるべきことである。
身分を明かさず隠れて非難する行為は、どうしようもなく汚い。
キリストの「あなた方の中で罪のない者がこの者に石を投げよ」という言葉の指すところである。

悪口は、要らない。
しかし、助けは要る。
困った時には、とりあえず誰かに相談する。
迷うなら、まずとるべき手段である。

2019年12月8日日曜日

「弱い相手」に弱い子どもに目を向ける

「CAP」というNPO法人団体がある。
現在の勤務校では、この団体から「子どもワークショップ」「保護者ワークショップ」の両方を開いてもらい、定期的に学んでいる。
以下、CAPについての説明文をHPから引用する。

===============
CAP(キャップ)とは、Child Assault Prevention
子どもへの暴力防止の頭文字をとってそう呼んでいます。
子どもがいじめ・虐待・体罰・誘拐・痴漢・性暴力など様々な暴力から
自分の心とからだを守る暴力防止のための予防教育プログラムです。
===================
↓引用HP 「CAPプログラムとは」
http://cap-j.net/program

力の弱い子どもたちにとって、大変有益な学習である。

この学習における、「誰もが持っている大切な権利」としての中心的キーワードは
「安心」「自信」「自由」
である。
本来、地球上の全ての人に、これが保証されるべきである。
しかしながら現実としてそれが成立していないために、このような団体が活動してくれている訳である。

このワークショップの中で、子どもの呟きの一つが気になった。

『自分の権利をとられそうなのに、「いや」と言えない相手がいますか?』

この問いに対し
「年上」「大人」「強い人」という答えは、当然出る。
その中に
「年下・・・」
という呟きが聞こえた。

そう。
ここも結構、見落としがちなところである。

心の優しい、共感性の高すぎる子ども(大人も)は、「弱い相手」や「弱っている相手」に弱い。
自分を犠牲にして、譲りすぎてしまうのである。
大人になってもこの傾向が続くと、配偶者にDVや暴言等の虐待を受けているのに「私が我慢すれば」となる。
当然、相手は増長し、行動はエスカレートし続ける。

実は、妹や弟、病気や障害のある兄弟等に、何かと譲って苦しんでいる子どもは、結構多い。
そこに対し「わがまま」を言えるぐらいならいいのである。
問題は、大人以上に配慮して、全て自分で抱え込んでしまう子どもがいることである。

ここへの配慮が必須である。

子育てだけでなく、学級経営においてもいえる。
「手のかかる子」には、教師の目も手も届きやすい。
しかしながら、それを傍で見て、やられてもじっと我慢して、何も他人に迷惑をかけない子ども。
身近な大人は、ここへこそ、配慮すべきである。

子どもは、基本的に、優しい。
一見乱暴に見える子どもも、その優しさゆえに傷ついていることが多い。
苦しみが、「暴れる」で発露するか「我慢」で発露しないかという、表現の違いだけである。

暴力を振るう大人を見て真似る子どもは、他人に暴力を振るう形で表現する。
自分の受けた苦しみを、他人にぶつけて、更に苦しむ。

暴力に耐える大人を見て真似る子どもは、他人の暴力に耐える形で表現する。
自分の受けた苦しみを、抱え込むことで、更に苦しむ。

どちらも、正しくない。
理不尽な暴力への抵抗の仕方を学ぶべきである。
CAPは、その具体を示している点で、大変有益である。

「全ての子ども」の「安心」「自信」「自由」を保証すること。
子どもの教育に携わる大人は、これを常に自分に問いかける姿勢が必要である。

2019年12月6日金曜日

ルールを守るかは、子どもが決める。

ルール設定の宿命がある。
それは、ルールを作ったからには、徹底することである。
「一応作ったけど守られない」というのは、もはやルールではない。
それは、ルールではなく、単なる合言葉である。

だから、社会における公的ルールには、破った場合に「罰」がつく。
特に、重要なルールについては、破った場合、厳罰になる。

飲酒運転が未だになくならない。
しかしながら、確実に減った。
これは、飲酒運転が、厳罰化されたからである。
教員の場合、飲酒運転は一発で「免職」である。
これを免れることはできない。例外もない。(はずである。)

なぜここまで厳罰化なのかというと、「命」に関わるからである。
命と人権に関わる規定を破った場合、社会においては厳罰である。

ところで、学校内はどうか。
学校は、ある意味で練習の場である。
子どもたちは、「いじめ」のような人権侵害をしても、処罰されない。
ここで正しいことを学んでいかないと、社会でとんでもないことになるということでもある。

逆に言うと、ここで誤学習をさせてはならない。
「いじめをしていたけど大丈夫だった」というような経験をさせて卒業させてはならない。
いじめは、厳しく対処されるべきことである。

一方で、学校は、どんなにひどいことをした場合でも、子どもを罰することはできない。
ただし、「懲戒」を加えることはできる。

以下、学校教育法を引用する。

=============
学校教育法11条(児童、生徒等の懲戒)
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、
児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。
ただし、体罰を加えることはできない。
=================

体罰が絶対に認められないことはこれだけでもわかる。
しかし、この「文部科学大臣の定めるところ」が曖昧である。

以下、やや長いが、学校教育法施行規則より引用する。

==========================
学校教育法施行規則第十三条

1 校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、
児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。

2 懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、
校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)がこれを行う。

3 前項の退学は、(義務教育等の記述の為中略)
次の各号の一に該当する児童等に対して行うことができる。

一 性行不良で改善の見込がないと認められる者
二 学力劣等で成業の見込がないと認められる者
三 正当の理由がなくて出席常でない者
四 学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者

4 第二項の停学は、学齢児童又は学齢生徒に対しては、行うことができない。
==========================

これを読むと、学級担任が独自に行う懲戒は「1」だけである。
「教育上必要な配慮をする」という義務がある。
つまり、子どもの教育にとって本当にプラスになることを考えた上で、懲戒をせよ、ということである。

要は、懲らしめようとしてもいいが、どうやっても罰することはできないのである。
本当に懲りるレベルの「退学」の懲戒ができるのは、校長ぐらいのものである。
(さらに言うと、公立小中学校で退学というのは、実質無理である。
つまり、法的に懲らしめることはできない。)

私的であるが、結論を述べる。
子どもには「勝てない」宣言をしてしまうことである。

どういうことか。

どんなにルールを作ろうが、立派な言葉を並べようが、子どもたち次第だということである。
子どもたち自身が守ろうとしない限り、守られることはない。

例えば、修学旅行で「途中の食べ歩き禁止」というルールを作るとする。
これを守るかどうかは、本人たちの意識次第である。
破ろうと思えば、余裕で破れる。
見えないようにやるなんて、わけないことである。

そうであるとしたら、そのルールの意義がどれぐらい伝わっているかが肝である。
子どもが「本当にそうだ」と心の底から納得しない限り、守ることはない。
人の心は縛れないからである。
(ここで厳罰があれば、心は縛れなくとも、行動だけは縛れる。学校には無理である。)

守って欲しい。
そのことを、切実に伝えらえるか。
単なる保身とか「例年」のルールなら、もはや無効である。

ルールを守るかは、結局、子どもが決める。
ルールを作る時には、その辺りの意識に気を配りたい。

2019年12月4日水曜日

ルールを見直せ

子どもによく言う言葉がある。
「ルールは、作ってなくしていこう。」

どういうことか。

ルールというのは、快適に生きるためにある。
例えば、信号機。
先日の台風で信号機が止まった時に思ったことで書いたが、信号ルールは大変有益である。
特に、交通量の多い場所では重宝する。

一方で、「ここの信号機は要らないのでは」と思う場所もある。
なぜなのか。

これは、実は子どもや高齢者の事情に関係する。

小学校の通学路は、信号機が多い。
これは、子どもの命を守る上で、有益だからである。
小さな子どもは、普通の横断歩道だと「行ける」「行けない」の判断を誤りやすい。

大抵のことは「トライ&エラー」でいいのだが、命に係わることは例外である。
(例えばパイロットの仕事が9割の成功率では困る。)
交通ルールについては、可能な限り100%に近い成功率が欲しい。

だから、小学校の通学路には、あまり交通量が多くないところにも、信号機がつく。
一方で、廃校になったところやかつての栄えた跡地などにも、信号がそのまま残っている場合もある。
それは、再検討の対象である。
「かつて必要だった」という類のものである。

ルールというのは、そういう面もある。
かつて必要だったが、今は必要ないものがかなりある。
それは、時代の変遷という場合もあるし、人々の意識の変化という面もある。

学校文化としては、様々なルールがある。
このメルマガでもしばしば取り上げる、中学校のソックス規定等の「謎ルール」は、かつて必要なものだったのである。
実際、世の中が滅茶苦茶で、中学も荒れに荒れていた時代があったのである。

しかし、今は必要ないのではないか。

学校文化にも、そういうものがかなりある。
いや、教師の文化にもかなりあるかもしれない。

一つ例を挙げると、教師以外の人には聞き慣れない用語だと思うが、「指導案検討」というものがある。
ざっくりいうと、どんな授業をするかという計画書の検討である。
これ自体に意味はあり、自分の授業について文書化することで自覚できるという意味がある。
(一つの授業なのに何十ページという、絶対に読ませない手段をとる指導案もあるが、見開き2ページもあれば十分である。)

問題は、「指導案検討」によって、これを「エラい」「ベテラン」の人たちがあれこれ言って、変えてしまうことである。
本人がやりたいことと180度変わってしまい、よく「目も当てられない授業」になる。

だったら、止めてしまえばいいのである。
あれこれ検討とかしないで、とりあえずやらせてみればいい。

さっきも述べたが、命(あるいは人権)に関わらないことなら、トライ&エラーでいいのである。
授業が失敗しても、子どもはへっちゃらである。
(「成功」しても、残念ながら意外と子どもには影響がないかもしれない。)

ルールを見直す。
そのためには、いつ、どういう経緯でできたルールなのかを探ることである。
(逆に、その作業を吹っ飛ばすと、必要なルールをなくしてしまう失敗になる。)

ルールは、変えられるし、なくすこともできる。
ルールは常に相対的に存在し、絶対はない。
大人が実践し、子どもにも教えたいことである。

2019年12月2日月曜日

ニーズがなければ始まらない

緩い話からの、真面目な話。

先日、県内の有名店で焼き肉を食べる機会があった。
すごくいい肉を提供する。

最後の方に、一番楽しみにしていた、サーロインを頼んだ。

・・・旨い。そして、ものすごく、重い。

一切れ食べて、一気にお腹がふくれた。
どんなに旨いものでも、お腹がいっぱいでは、美味しくいただけない。

ここからの気付き。

どんなにいいものを提供しても、ニーズ次第である。
相手が必要としていない状態では、真価が発揮されない。
そして、欲というのは、過剰に満たすと幸せから遠ざかる。

満たされている状態では、折角のご馳走すらも迷惑である。
そんなに勿体ないことはない。

つまりは、いいものをあげようとしても、相手がそれを欲していなければ、無価値どころか迷惑がられるだけである。
提供するタイミングが命である。

これは、人にものを教える時全般にいえる。

教育実習生が授業について吸収するようになるのは、自分が授業をしてからである。
おそらく、学級経営について考えるようになるのは、採用されて担任を任された後である。
それまでは、必要性自体をそこまで感じないのである。

子どもに教える際にも同様。
目指すものがある子どもに教えるのは、割と容易である。
極端な話、将来の夢がプロ野球選手という子どもと、野球に全く興味のない子どもに野球を教える場合。
どちらが教えやすいかは、言わずもがなである。

これは、もっと小さい場面でもいえる。
そもそも、勉強そのものに価値を置く子どもに教えるのは、全く難しくない。
難しいのは、勉強に意味がないと思っている子ども。
算数に全く興味がないし価値もないと思っている子どもに算数を教えるというのは、至難の業である。

教師はよく保護者から
「先生、うちの子にこれこれをできるようにしてください」
と頼まれる。
頼まれる事項は、大抵、子どもの興味のない&苦手なことである。
(冷静に考えるとわかるが、この場合に子どもがそれに興味がないのは、当たり前である。)

これは、結論からすると、無理である。
私は割とはっきりとものを言う方なので
「それは無理ですね(笑顔)」
と告げる。
(ただし、認知能力の問題等で特別な支援があればできると判断される場合は、その方法を真剣に模索する。)

子どもには、それぞれもって生まれた魂、使命がある。
それに沿ったことなら、命をかけて何時間でも集中する。
しかし、そうでないことには、全く興味を示さない。
それは、使命に向かうために予めプログラムされたものといってよい。
子どもには「無駄なこと(=大人にとっては有益だと思えること)」をしている時間はないのである。

相手のニーズに沿ったものを提供する。
ニーズそのものを変えようとしない。
人にものを教える時の、見落としがちにして極めて重要なポイントである。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング