2018年11月29日木曜日

満足の上を目指す

先日、特別活動部としての研究授業を行った。
内容は、クラス会議である。

クラスの課題に対する「最適解」を選び、実行する中で、新たな問題発見をして、常に改善を求め続ける集団に育てたい。
最適解とは、集団にとってよりよい解決策として合意された解のことである。

流れとしては、最適解への実行に対して、次の振り返りを行った。
1 4段階の自己評価によるメタ認知
2 データによる集団の意向の確認
3 他者との感じ方の差異を知る
4 新たな課題発見
という流れである。

しかしながら、これがうまくいかなかった。
なぜか。
実行された最適解に対し、満足してしまうのである。
つまり、新たな課題に至らない。
即ち「現状維持」となる。

やってみて、これはなかなか深い問題だと気付いた。
要は「足るを知る」ということでもある。
そこそこの幸せでよい、という考えである。
これ自体は、一概に否定すべきことではない。
むしろ、欲が深くなくて良いともいえる。

ここを話し合ったところ、仲間から面白い考えが出た。
「4段階で、5を設定したらどうですか」
最初は、5段階にしてはどうかという意味かと思ったら、違った。
要は、突き抜けた5という段階を考えさせろ、ということである。

これはなかなか面白い考えである。
集団の満足度の低いところを、どう平均レベルまで引き上げるか考えるのが普通である。
逆の発想で、満足度の高い層を、さらに引き上げろという発想である。

これは、授業にも通じる。
わからないで困っている子どもに焦点を当てた授業は、「すべての子どもに優しい」と評価されがちである。
真実は違う。
全体の中の、上から下まで全てを引き上げるのが優しさである。
集団の中の飛び抜けた上のレベルの子どもをも引き上げるのが優しさである。
「できる」子どもを捨ておかないことである。

今回の研究授業のお陰で、よい示唆を得られた。
おかげで今年度の研究も楽しみになってきた。
ちなみに、千葉大附属小の公開研究会は来年の6月最終週の予定である。
(日曜日には赤坂真二先生の丸1日セミナーも予定。
 例え私が異動しても、これらは実施予定。)
公開研究会で意義のある提案ができるよう、精進していきたい。

2018年11月27日火曜日

勘違い注意報

赤坂真二先生の講座からの気付き。

勉強家の人がたくさんいる。
様々な場へ出かけて、様々な人から学んで感動して帰ってくる。
そして実践する。

この努力が、意外にも報われない結果になるという。
これは、肌で感じられる人が多い現象である。

なぜなのか。

ずばり、「観」の異なる人から学んで、それを両方やるからだという。

例を挙げる。

先月、結果主義の人から学んだ方法を実践し、
今月、過程主義の人から学んだ方法を実践したとする。

何が起きるか。
子どもは「結局どっちが大事なの!?」と混乱する。
「結果を出すのが大切」と言われてがんばってきたのに、
突如「結果が全てではない」と正反対のことを言われる。
結果、どっちつかずになる。

私はこれをきいて
「観違いはうまくいかない」
という言葉にまとめた。

繰り返し述べているように、観が全てである。
同じ方法を用いていても、どんな観があるかで意味は180度変わる。

例えば全員ができる、全員が百点を目指す実践。
単にすごいだろうと言いたいだけなのか。
平等主義に基づいているのか。
できずに苦しんでいる子どもたちに自信をつけさせるためなのか。
同じ方法を用いても、全く違う。

つまり、その人の思想、観の部分をこそ学ぶ必要がある。
一見成果が上がる方法でも、観違いがあるなら、取り入れない方が賢明である。

有名な先生の言うことだから、と無思考で従うのは、ロボットと同じである。
その先生の人間性に感動し、ついていきたいと思うなら、それもありだが、その場合、他の方法を捨てる覚悟も出る。

また、感動し、憧れた相手が、自分のもつ性質とは異なることもある。
自分がついていくべき人か、あるいは自分に合う手法か、見極めが必要である。
有名だから、広がっているからいいという訳ではないということである。

観違いの実践が混じってないか。
勉強家のあなたこそ、点検する必要がある。

2018年11月24日土曜日

「立派でない」を考える

子どもの前に「先生」として立つ。
その道の先を生きてるのだから、立派でありたいと願う。

さて、どういう人が立派で、ついていきたい先生なのか。

「先生面」あるいは「教師面」という言葉がある。
面を「つら(づら)」と読む時は、侮蔑の意味が込められる。
これは、立派とはいえない状態である。
つまり、そういう姿を想定し、その逆をいけばよい。

要は、自分を振り返って、ダメだった時のことを考えればよい。

例1 自信過剰
自分が教えたのに「できない」という状態が、プライドとして許せない。
全ての子どもが同じようにできることを求める。
骨折している人に走ることを求めているのに気付いていない状態。

例2 虚勢
相手より上でないと気が済まないため、謝れない。
的確な指摘であればあるほど腹が立つ。
アスペルガーの子どもなど、遠慮なくこちらの間違いを的確に指摘してくる子どもにキレてしまう。
(指摘が図星で痛すぎるため。)

例3 不勉強
知っているつもりで偉そうに教えている状態。
理解が浅いのに、わかっていると勘違いしている。
小学生の学習内容など簡単に教えられると思っている状態。

例4 無教養
言葉遣いや振舞い、姿が雑な状態。
子どもに対して、モノのように扱う。
あるいは、いい加減な格好でいい加減な立ち振舞いを見せる。
子どもへのリスペクトが足りない状態。
子ども相手だからと、気が抜けている状態。

(ここに関して、余談。
ヨーロッパの大航海時代の、ある奴隷の男の話。
連れられた先の館で、主の奥方が、奴隷の目の前で平気で全裸になったことにショックを受けたという。
犬猫同様の扱い、人間として見ていない証拠である。
格好や言葉遣いとは、相手への敬意を示す。)

例5 他責
できない、わからないのは子どものせい、というメンタリティ。
その場のリーダー、責任者としての自覚がない。

書いてて凹んでくるのでこの辺にしておく。
まあ、ひどいものである。
自覚があれば、多少ましにはしていける。

要は、謙虚に勉強して、子どもからも学ぶ姿勢をもつこと。
いつでも、初心が大切である。

2018年11月22日木曜日

クラス会議における役割ごとに必要な能力

かねてより、聞く力の方が優先という主張をしている。
しかし、全員が一律に聞く力を高めれば、話合いが成立するということではない。
集団は異なる個性の集まりだからこそ面白いのである。

学級における、役割論である。

例を挙げる。
クラス会議をやるとする。

まずここには、明確な役割分担がある。
司会。
黒板書記。
ノート書記。
それらの役割をもたない参加者。

ここを考えるだけでも、色々ある。

例えば、必要な能力。

司会は、当然話せる必要がある。
そればかりか、全体の意見を拾ってまとめていく力も必要である。
つまり、聞いた上に理解して伝える力である。
調整能力も必要だ。
最も多岐にわたる能力が必要な難しい役割である。

黒板書記。
当然、書く力。
実は、それ以前に、聞く力である。
聞いてないと書けない。
ある程度要約する必要もあるので、理解していないと書けない。
しかも、見やすさや構成にも配慮する必要がある。
なかなか多機能である。

ノート書記。
これは視写する能力のみが必要になる。
ただし、自分の番には発言もしないといけないので、結構忙しい。

他の参加者。
聞く力と話す力である。
ちなみに、輪番で意見を述べるだけの一周目は、話す力のみでも体裁は整う。
しかし、その後の話し合いになれば、聞いていたかどうかすぐにわかる。
それを補助するものとして、黒板がある訳である。
(極論、全員が聞いたことを頭のなかで描けるのなら、黒板は不要である。)

実は、更に陰で役割分担がある。

話し合い自体に活気を与える役割。
これは数人いればよい。
普段から元気のいいメンバーである。
あまりにここが多いと騒がしくなりすぎる。

話し合いに示唆を加える役割。
よく周りの話を聞いていて、矛盾点や問題点をずばりと突く。
論理的思考力が必要である。
割と無口な子どもに多い。

フォロワー。
良い意見に賛同し、意見を補完してくれる。
聞く力と協調性が必要である。

本来は不要なよろしくない役割として、フリーライダー。
意見も何ももたず、ただ話し合いに参加してるだけである。
話を聞いてなくても問題ないので、それが一番の問題である。

さて、どれが多く必要か。
いわずもがな、フォロワーである。
ここは、聞く力命である。

要は、クラス会議のような、話し合うための場においてこそ、聞く力が必要ということである。

授業だって、聞く力がなければそもそも何も教えられない。
よく聞くという役割は、最も多く必要なのである。

ただし、少数ながら、他の能力が必要な役割も、重要である。
だから、その能力に応じた役割を与えるのがよい。

ただし、やはり基本は聞く力。
全体的にはここからアプローチするのがおすすめである。

2018年11月20日火曜日

揃えるか否か 学びやすさ基準

揃える。
大切である。

例えば、物の位置。
提出物がめちゃくちゃに出されると、処理に困る。
例えば、掃除道具。
揃っていることが、掃除そのものへの心構えになる。

さて、揃えない方がいいこともある。
その最たるものが、やり方である。

個人のもつ能力は、十人十色である。
ある人にとって楽なことが、ある人にとっては苦痛。
ある人にとっては簡単なことが、ある人にとっては困難。

こういうことは、例を挙げればきりがない。

先日、学級づくりの校内研修会でこの話をしたところ、ベテランの先生から質問か出た。
「一年生でも、揃えない方がいいですか。」

これは、本質を捉えた質問である。
一年生で、色々と学年で揃えることの本質的な意味。
それは、子どもにとっての「学びやすさ」である。

ただでさえ戸惑うことの多い一年生を、混乱させないこと。
隣のクラスも同じようにやっている。
そうすると、ルールが理解しやすい。

だから、低学年では、揃えることが多くなるのである。
高学年は、やり方を変えても、子どもがついてこられることが多い。
そこは大きな違いである。

ちなみに、中学になると、また色々と揃えるようになる。
制服もその一つといえる。
これも、生徒の学びやすさにつながる。

なぜなら、中学は、教科担任制である。
毎時間、違う先生に習う。
ルールにばらつきがあると、お互いに不都合が生じやすい。

制服の話も同様で、ルールが統一されることで、実は安心感が出る。
多感な時期に、毎日着る服に悩む必要がなくなる。
家庭の経済的にも助かる。

私服校はここが自由な分、より自己と家庭への責任が重くなる。
自由をコントロールする力が必要になる。
入学自体が困難な学校に私服が多い理由も、自由をコントロールする力の育成と無関係ではないはずである。

話を戻すと、揃えるか揃えないかは、すべて子どもの学びやすさ基準である。
揃えることが、教師の都合のみであってはならない。

学年で何を揃えているか。
学級で何を揃えているか。
そして、それらは子どもの学びやすさにつながっているか。
チェックしてみると、見えるものがあるかもしれない。

2018年11月18日日曜日

もっと学級懇談会を

学級懇談会があった。
私は、学級懇談会の回数が、本当はもっと多くあった方がいいと思っている。(実際無理だと思うが。)
その理由を示す。

いつもとはちょっと変わった例えで、学級を、株式会社だと思って考えてみる。
担任は、株を預かる経営者。
保護者が一人一株の株主。
株価の成長は、子どもの成長である。

事業全体がうまくいかないと、株も成長しない。
また結果だけを求める表面上のみの株価上昇は、後で大暴落を招く危険もある。

そうなると、経営者の責任は、かなり重い。
絶対に価値を下落させる訳にはいかない。
クリーンで透明な経営を心がけるべく、株主への経営方針の説明も必要である。

株主の方も、株価を高める努力が必要である。
預けっぱなしで後は無責任という訳にはいかない。
放っておけば、とんでもなく下落しているかもしれない。
そうなったら、後の祭りである。
事業の状況への確認と、事業改善への協力が必要である。
時に、経営方針への意見・要望も必要である。

株主同士も経営側も、互いを知っている方がいい。
集まって、話をすると、お互いを知ることができる。
知るほどに、仲間になる。
高めるための協力体制ができる。

細かく会っていれば、その都度協議も質問もできる。
問題も共有化しやすい。
解決もしやすくなる。
良い面も互いに伝えやすい。

学級懇談会は、若手の最も苦手とするところである。
年齢の問題もある。
自分より年上の人に「経営側」として方針等を話さねばならないからである。
当然、大汗をかくことになる。

それでも、先に述べた理由で、本当は数多く懇談の場があった方がよい。
慣れないから怖いという面もある。
しかし保護者は本来、株主と同様、成長への切実な願いをもった強い味方なのである。

子どもを成長させるために、担任と保護者が協力体制をとり、保護者同士もつながる。
懇談会は、そのための大切な機会である。

2018年11月16日金曜日

教員人生で一番感謝された出来事

今回は、感動の(?)実話。
前号の「時短」の話にも関連する。

私は、かつて十数年前、勤務校で「自分の存在」を絶賛されたことが一つある。
そう、「君がうちの学校にいてくれて本当に良かった」と、多くの職員に心から感謝されたのである。

一体、何をしたのか。

それは「通知表のデータ入力化」である。
それまで、手書きで全て記入していたその学校の通知表が、すべてデータ化した。

しかし、決して、私がそのデータを作った訳ではない。
私の存在が、その大きなきっかけを作ったというのである。

どういうことか。

当時、教務主任や管理職の中で、通知表の所見欄についてが話題に上がったという。
「文字が読みにくい」「人によって文字の大きさがバラバラなせいで、量もバラバラ」ということである。

「字が細かすぎるなど特徴のある字で、若干読みづらい所見もある」という、ソフトな表現で全職員に伝えられた。

確かに、字の細かい人もいた。
しかし、恐らくそこは問題の「根本・本質・原点」ではない。
内実は、その9割以上が、私の字が原因であると自負している。
(多分、周りもそう認識していたはずである。)

実際にデータ化の話が来る前に、私には、直接依頼が来た。
「松尾君。君、周りの学校の人と結構つながってるよね。通知表をパソコンでやっているとこ知らない?」
私は待ってましたとばかり
「〇〇小学校がそうです」と即答した。
「うちもデータ化しようと思ってて。じゃあ、そこの校長先生に連絡とってみる。ありがとう。」
とお礼を言われた。

そう。
直接は言われなかったが、私の字がデータ入力化の根拠になったと思われる。
経営委員会でも「これなら仕方あるまい」と誰しも納得したことだろう。

晴れて、通知表のデータ化が、先に紹介した理由の言葉とともに発表された。
多くの職員が、大喜びだった。
(達筆でPCが苦手な方にとっては、ありがたくなかったかもしれないが、時代の流れである。)

後にも先にも、あれほど同僚に感謝されたことはない。

そう、短所は、長所にもなり得る。
ありのままに生きていこうと決意を固めた、若き日の思い出深い出来事である。

2018年11月14日水曜日

時短はせせこましいことか

働き方改革。
勤務時間と過労死に焦点が当てられるが、その本質は、「働き甲斐」の問題である。
しかしながら、がむしゃらに働けばよいというものでもない。
時間の使い方、時短は重要である。

時短というと、何だかせせこましいとか、冷たいとかいう印象をもつ人もいる。
私は方々で話す際、時短、あるいは不要な業務を捨てることは必要であると断言する。

なぜか。

1日は24時間と決まっているからである。
即ち、1時間余計なことに時間を使えば、1時間大切なことをする時間が減るということである。

逆に言えば、余計なことを捨てて1時間生み出せば、その1時間を大切なことに注力できる。

授業の準備は余計なのか。
明確に必要な時間である。
しかし実際は、余計なことに時間をとられているせいで、ここが捨てられていることもある。
つまり、子どもの学力向上という最も大切な仕事が捨てられているということである。

「重要度が低くて緊急性が高いもの」に優先的に時間をとられるため、
「重要度が高くて緊急性が低いもの」は後回しにされやすいといえる。

一見時間がかかるので非効率に見えて、実は最も能率的ということもあるので、そこは混同しないことも大切である。
例えば、日記の返事や手紙を書くこと。
例えば、保護者への電話。
例えば、日々の記録。
例えば、掃除。
これらは、手間がかかるが、直接あるいは間接的に子どもの成長に還元される大切な仕事になり得る。

では、教師にとって、余計な仕事とは何か。
一言で言うならば、
「子どもの成長に還元されない仕事」
である。
直接的にだけでなく、間接的にみても、である。

一方でこれらの類の業務は、性質上「必須」であることも多い。
例えば、一点の曇りなく正確に記された指導要録や出席簿は、子どもの成長に一切つながらないが、公簿として必須の業務である。
これらにとって大切なことは、形が整って最低限ができていることである。
(この記事をメルマガ上で書いた時から時間が経ち、働き方改革の一環で指導要録の在り方が変わる動きが出てきている。
通知表の写し等に変わる可能性が出てきたことは、歓迎すべきことである。)

また各種調査に対する報告書は、上司の命令によるものであり、業務としては必須である。
やらない訳にはいかない。
ここは時短の工夫が必須である。

何を余計とするかは価値観次第だが、基準を子どもの成長に置く。
するとすごく上の立場からして大切な書類なのかもしれないが、少なくとも現場の教師にとっては重要ではないものが多々ある。
(前から続いているからやっているだけで、現担当者も単にやめられなくなっているだけのものが膨大にあると思う。)

事務的な業務が余計というのは共感してもらいやすいが、子どもに関するものでも余計なものはいくらでもある。
例えば、ドリル等の〇つけ。
ここに「命の時間」を30分費やすぐらいなら、その時間で授業の準備等をした方がよい。

〇つけ自体は、子ども自身でもできる。
一斉にやることもできる。
(単に今日の学習の到達度を知りたい、あるいは子どもの誤った〇つけが気になるなら、〇つけをさせた後に回収すればよい。)

ワークテストは、評価用という面が多分にあるので、こちらが〇つけをする意味がある。
しかし、ドリルの本質的な役割は、子どもが繰り返し行うことで学力を鍛えるという面である。
自分で「ドリル」として繰り返し行えるようにするためには、自分で〇つけをする能力を鍛える必要がある。
自分で解答と照合して正誤の判断をできることは、中学までに身に付けるべき学習能力として必須である。
(これができない状態を「ピヨピヨちゃん」と呼ぶ。親が餌を与えるのをひたすら待つだけの雛鳥の姿である。)

要は、余計なことに「命の時間」をとられないこと。
師の野口芳宏先生の言葉を借りるなら、その業務のもつ
「根本・本質・原点」
を見極めること。

そして、教師の働き方改革における時短の根本・本質・原点は、
「大切なことへ力を注ぐため」である。
決して、楽をするためではない。

時短を否定しない。
いのちとは、即ち時間のことである。
時間は、すべての中で最も価値のある命の資産である。

2018年11月12日月曜日

学級動物園

学校には、多種多様な人間が集まる。
学級を、動物園に例えて見てみる。

チーターさんはまだ子どもだが、走るのがめっぽう速い。
ウサギさんは、そこそこ速く走れるが、できれば葉っぱを食べてのんびり過ごしたい。
同じクラスにはゆっくり動くゾウガメさんもいる。趣味は日向ぼっこ。
ハシビロコウさんにいたっては、ほとんど動かない。

さて、動物園学校では、毎日色々なことを先生に教わる。
かけっこをする時もある。
チーターさんは、一瞬にしてゴールに辿り着く。
ウサギさんは、順調に進む。
ゾウガメさんは、かなりゆっくり。
ハシビロコウさんは、そもそも走ろうとしない。

さて、早くゴールしたチーター君は退屈である。
先生は、ゾウガメ君を励ましながら、時々ハシビロコウ君を説得している。
ウサギさんも大分前についたので、飽きはじめている。
やがて、先にゴールしたメンバーがふざけだす。

まあ、こんな感じである。
別に体育の話ではなく、全ての授業や教育行為に当てはまる。
算数の授業にでも掃除にでも何でも当てはまる。

何が言いたいか。

1 学級には能力の全く異なる人間が混在する
2  学習には個別のゴールが必要
3  先生の側も何かの動物に属しており、そこを基準に考えてしまう
4  大自然とは違い、空間的、時間的な枠がある
5  ある種の能力の近い者を集めた園もある

子どもが動物だと言いたい訳ではない。
もつ能力がそれほど異なるのに、同じことを教わるということである。

だから、天才を相手にすると、先生は困る。
例えばチーターさんはほとんどの先生からしても、意味不明な速さだからである。
走り方を教えたいのに、教えようがない。
意味不明なので、見限られる、という哀しい方針をとられることもある。
したがってこの場合、チーターさんは、同種のチーター先生タイプに預ける方が伸びる。

チーター先生でなくても、知識があればある程度対応できる。
チーターの桁違いの速さ、ゾウガメの走る以外の高い潜在能力を知っていれば、手の打ちようが変わる。

種族は、変えられない。
だとしたら、知識を身につけるしかない。
やはり、まずは知識が大切と改めて思う次第である。

2018年11月10日土曜日

センスとは、知識

本当に平等な教育のための知識の重要性について。

一人ずつがそれぞれに成長する機会を与えるのが、教育における平等である。
まずここを前提とする。
つまり、全員に同じ手法で、同じことをさせ、同じ位置のゴールを設定するのが平等ではない。
今いるスタートラインの位置からして、そもそも違うのである。

ここを特に意識した方がいいのは、特別な支援が必要な子どもたちである。

例えば、授業中に、席についている。
「当たり前」である。
しかし、一部の「皮膚の下で虫がうごめいているような感覚」をもつ子どもにとっては、当たり前ではない。
ものすごい苦行である。
だから、知識がある人なら、普通に動き回らせる。
授業に不都合があるなら、動ける範囲を決めたり、逃げ場所を作ったり、一定のルールを設けるなど「動く前提」の対策をとる。

これは、知識がないと思い付かない。
知識がないと、ただのわがまま、我慢のできない子にしか見えない。
「きちんと座りなさい」の一点張りになる。
それでうまくいったという事例を聞いたことがない。
(恐怖感で動けなくなっているだけというのはあり得る。
この場合、担任が交代する次年度に大爆発である。)

特別支援教育だけでなくて、あらゆることに共通である。
知識がないと、適切な方法はとれない。

国語で、この子どもはなぜ教科書を読めないのか。
あるいは、「たかが」音読するだけの宿題を「さぼり続けて」くるのか。

算数で、なぜこの子どもは計算ができないのか。
あるいは、「たかが」ドリル1ページをやってこれないのはなぜなのか。

体育で、この子どもはなぜまともに縄跳びを跳ぶことができないのか。
あるいは、転びまくる、やたらに頭をぶつけてしまうのはなぜなのか。

どれもこれも、知識があれば見えてくるものがある。
「ディスレクシア」「特異的算数能力障害」「空間認識能力」
これらの知識があるかどうかである。
ないと、ただの「さぼり」「不注意」に見える。

先日のセミナーで、参加者のお一人が「センスとは、知識」ということを言っていた。
(さすが、厳しい社会を生き抜いている企業の方である。センスが違う。)

まさしくその通り。
センスは英語のsense。
Weblio辞書によると、その意味は
感覚(機能)、(漠然とした)感じ、気持ち、感じ、意識、
(美・方向などに対する本能的な)センス、勘、判断能力、
(知的・道徳的な)感覚、観念. 音節、
とある。

「意識」も含まれている。
つまり、知識がないと、意識できない。
知識があるから、知識がないと気にならないことが引っかかる=センスがある、ということになる。

やはり、教師にとっては、勉強が命である。
現場で一生懸命やる、というのは、前提。
誰でもやる。
問題は、その現場に立つ以前の動きである。

センスとは、知識。
勉強して、見える景色を広げたい。

2018年11月8日木曜日

「平等」な教育を考える

教育における「平等」をどう考えるか。

家庭的に大変裕福で、何かと恵まれた境遇の子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要な学ぶべきことは「鍛えること」や「厳しさ」かもしれない。

信じられないほど辛い境遇で育っている子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要としていることは、「安心」や「リラックス」、あるいは「甘え」かもしれない。
(肉体的な「栄養」という場合もある。)

この極端な両者の間にも「スペクトラム」として様々な境遇の子どもが存在する。
学校ではこれらの子どもを一手に担い、必要な教育をする。
個の境遇の差が大きいほど、教える側の大変さは増す。

例えば学力に限っていっても、レベルがある程度揃っている方が、教える側は当然教えやすい。
1けた同士の足し算が危うい子どもと、中学レベルの問題を解ける子どもを一緒に引き上げるのは、かなり難しい。

これを一見可能にするのが寺子屋方式となるが、落とし穴がある。
その集団において主に「教える」側に立った子どもをさらに引き上げるには、その子どもたちのためだけの課題や時間が別途必要となる。
結局、どの方法をとっても最終的には個に応じた指導が必要になるということである。

では実際の学校においての「平等」な教育とは何か。
学校の役割は、ごく極めて単純化すると、子どもを今より良くすることである。(学力に限らない。)
即ち、平等な教育とは、すべての子どもがそれぞれ良くなる教育である。
そういった環境を提供することである。

つまり、一律に同じ手では駄目ということである。
その子どもが成長に必要としていることが違う。

勉強を丁寧に教えてあげる必要があるのか、逆に人に教えさせる必要があるのか。
甘えさせるのが必要か、厳しく鍛えるのが必要か。
手とり足とり助けてあげるのが必要か、見守ってあげるのが必要か。

それぞれの必要性に合う方法を提供するのが
「一人一人を大切にする」
ということになる。

その前提となるのは、教師の側の知識である。
ニーズを見抜く目があること。
ニーズに必要な手立てを打てること。
どちらも知識である。
全く知らなければ、見えないし、手を打つこともできない。

経験から得た知識は貴重である。
しかしながら、間違った知識というものも中には存在する。
だから、自分の知識とエビデンスの揃った先行研究とを見比べる必要が出る。

汎用性の有無にも関わる。
Aさんに効果抜群の手が、Bさんには最悪ということもある。
これも、知識として必要である。

「平等」な教育の実現のために、教える側の知識の大切さについて、もう少し突っ込んでいく。

2018年11月6日火曜日

ほめる、認める そのねらいは何か

前号の続き。
話す力と聞く力のバランスについて。

「一切喋らせないでよい」と言っているのでは決してない。
発言の機会を、声の大小に関わらず、平等に与えられるのを当たり前にする。
35人いる場で自分が1分間話したかったら、34分間は聞く力が必要ということを教える。
それが、「私」と「公」の場の違いである。

注意点を一つ付け加える。

そもそも、誰がどういう基準で〇×をつけるかという問題も含まれる。
つまり、教える側が誤認している場合、×を〇としてしまう可能性も含まれる。
誤ったことを教え続けている可能性があるということである。

つまり、私の論が間違っているとしたら、教わる子どもたちも×になるということである。
実際、話す方が大切という論調が強いのであれば、私は間違っているという声が世間では強いことになる。

そういうことも自覚した上で、やはり「聞く力」を優先する方が断然大切だと自信をもって言う。
これは、現場感覚なのである。

一般に、低学年で話が聞けないのは、「自分らしさ」や「個性」ではない。
ほとんどの場合、「自然」なことであり、単に教育の欠如である。
特別支援が必要な子どももいるが、その子だけが聞けないという状況と、ほとんどの子どもが聞いていないという状況は全く異なる。

過去に一度でも学級崩壊やそれに近い状況を目撃している人には、わかる感覚である。
(なお、高学年以降では全てに無関心になって誰も発言しなくなるというタイプの学級崩壊もある。
 しかし、これは話す・聞くとはまた別の原因である。
 この場合の原因は、相互の信頼感の欠如による絶望感等が考えられる。
 話す力の欠如の問題ではない。)

長くなったが、要はほめる、認めるという行為の対象となるものの「妥当性」が問題である。
本当にそれをほめて認めていいのか。
教師の都合のいいように操作したいだけではないのか。
よくよく考えて用いる必要がある。

2018年11月4日日曜日

「思ったことをどんどん発言できる」は〇か

「当たり前を躾ける」という手法の落とし穴について。

望ましい行動を、ほめて、認めて、広げる。
大変効果のある方法である。

しかしながら、劇的に効くものは、用法に注意である。

ここでの落とし穴は、「当たり前」として躾けたい「望ましい行動」の部分である。
それが本当に社会的に見て「望ましい行動」なのかという点である。
ここを間違えると、どんどん悪い習慣を身につけることになる。

例を挙げる。
例えば「思ったことをどんどん発言できる」という行為。
これを〇とするか×とするか。

恐らく、〇をつける人が多いのではないかと予想する。
保護者も多くは「もっとうちの子も積極的に手を挙げて発言できるといいのですけど」と話す。
社会的に見て、〇と見られる行為である。

ここに落とし穴がある。
社会の誰から見ても×な行為で、実際に×なら問題ない。
社会の誰から見ても〇な行為で、実際に〇ならこれもよい。

しかし、問題は社会一般で〇と思われていて、真実は×な行為というのがある。
あるいは、社会一般で×と思われていて、真実は〇な行為というのがある。
この二種類が、落とし穴である。
また、場によって真実の〇×が逆転する場合もあるので、より注意が必要である。

こういう曖昧な玉虫色の論を述べられても、すっきりさっぱりしないだろう。
だから言い切る。

特に低学年において、思ったことをどんどん発言できるという行為は、×である。
一方で〇なのは、他人の話をよく聞けるという行為である。

一年生の教室を想像すればすぐわかる。
放っておけばみんな、誰が発言していても、自分がしゃべりたい放題である。
なぜなら、これまで暮らしてきた「私」の場である家には、そんなルールはないからである。
(むしろ憩いと回復の「私」の場である家庭に、そんな厳密なルールがあったらちょっと息苦しい。)
幼稚園や保育園だって、そこまで黙って話を聞かされる機会はそうないだろう。

一年生における難しい問題は、思ったことをどんどん発言できないことではない。
さっぱり話が聞けないことである。
これは、特に低学年における学級崩壊の問題の原因そのものでもある。

おしゃべりは、無教育でできる。
一方で、人の意見を聞いた上で伝わるように自分の意見を話すという行為は、多くの場合、教育しないとできない。
人間は他人が話している時に、我慢して聞くことが苦痛なのである。
自分がしゃべりたくてうずうずしているのである。
いわんや、幼い一年生においてをや、である。
それが「自然」な姿である。

自然を自然のままに伸び放題にしておいて良いのなら、教育はいらない。
一年生に話を聞かせずに自由に喋らせまくるのは、楽である。
草が伸び放題にはびこるのを放置するようなものである。
そして、自分も物わかりの良い、「自由でのびのび」とした教育をしているような気になりやすい。
誰でも簡単にできる「楽勝」な方法なので、採用しやすい。

やがて、収集がつかなくなり、手が付けられなくなって、壊れる。
もう、その崩れる過程がありありと目に浮かぶ。
これがいつになってもなくならない原因が、冒頭にあげた
「思ったことをどんどん発言できるのは〇」
という一般の認識、誤認である。
教育システムや宗教観等が変わればそれもあり得るかもしれないが、現在では完全にアウトである。

思ったことは、外に出す前にまず思考すべきである。
そのまま口に出せば、考えの浅はかな発言になり、単なるおしゃべりになる。
つまりは「喋る」ではなく「黙る」「聞く」を教えるのが先である。

では、全く喋らせないのかというのかというと、それは違う。
話す力は必要である。
長くなったので次号。

2018年11月2日金曜日

「当たり前を躾ける」をどうやるか

前号の続き。
「当たり前を躾ける」をどうやるか。

あらゆるルールを定着させるステップは

1 教える
2 できている子をほめる・認める
3 できている子を真似した子を認めて広げる

これの繰り返しである。
「認める」が理想的だが、ここに限っては「ほめる」でもよい。
ほめるは劇薬だが、ルール定着の初期段階では特に有用である。
つまりは、ほめることによる価値付けで、ルールは習慣化できる。
「できてすごいね」から入って「できてるね」に移行していく。
この継続が、特に低学年における「当たり前を躾ける」ことの基本手法である。

当たり前を躾けるとは、ものさしを与えて守らせることである。
「ものさしを与える」というと、抵抗感を示す人もいる。
「価値の押しつけ」と混同するためである。

そうではない。
集団の成立には、ルールというものが必要条件なのである。
(逆に言うと、ルールのない集団というのは、そもそも集団ではない。
ただの群れである。)
ルールとは、〇×の明確な「当たり前」基準である。

極端な話、一般の社会には「人を殺してはいけない」という「当たり前」の基準がある。
これは普通、教えなくても知っている。
(「普通」の指す範囲についてはここでは論じない。)
しかし「他人を傷つけてはいけない」というのは、意外とわかっていない。

もっと言うと、こういうことで他人は傷つく、迷惑を被る、ということは、教えないとわからない。
メディアを見れば、大人社会でも誹謗中傷や差別、いじめが「肯定的」にはびこっているのだから、当然である。
「おもしろければいい」「笑えればいい」という価値観を刷り込まれているのだから、当然である。
一人を集団で攻撃しておもしろがったり、笑い者にしてあざけったりするのを「ウケた」と肯定的に考える可能性が高い。

だから、きちんと教える。
学校は、傍若無人のわがままを通す「私」の場ではない。
社会という「公」の場である。
社会にはルールがあり、それを守ることを学ぶのだときちんと教える。

ルールや規律というと、極度に嫌悪感を示す人もいるが、それは自由を履き違えている。
我々は、自然はもちろん、社会の恩恵の上で暮らしている。
ここはどうやっても否定できない。

そこには、明確に社会における他者と生活するためのルールがある。
「うちではいいって言われてる」が通用しない世界である。
ここは、「私」のうち(=家または内)ではない。
公であり、社会であり、外である。
それを、きちんと教えてあげるのが、学校の仕事の一つである。

これを、後でやろうと思うと、難しくなる。
最初が肝心である。
だから、身に付けさせたい習慣は、なるべく早くルール化して「当たり前」にしておく。

「開始時刻には着席する」というルールを守らせる習慣を身に付けさせたいとする。
これは、教えないと身につかない。
なぜなら「時刻を守る」というのは、文化的なものであり、絶対的な善ではないからである。

特に新1年生は、これまでそういう生活をしてきていない可能性が高い。
幼稚園や保育園によっては、細かくタイムスケジュールが組まれている上に、着席にも慣れている場合もあるが、一部を前提にすべきではない。

だから、時計の針がここに来るまでに着席する、というルールを基準として示す必要が出る。
後はできている子をほめて認めて、広げるだけである。

なお、まだできていない子どもは、とりあえず手をかけすぎないで大丈夫。
周りを見ながら真似をして自然と学ぶからである。
それでもなお遅れる子どもには、初めて特別対応をはじめればよい。

なお、叱責等の懲戒によってもルールの定着はできるが、これは特に初期段階では望ましくない。
無駄な恐怖感だけを煽る結果となる。
「ルール」を優先しすぎて、逆に土台の「安全・安心」の方が脅かされかねない。

十分に全体にルールが理解・定着された上で、意図的、継続的、悪質なルール破りが見られる場合、叱責等の「懲戒」を与えることになる。
懲戒は、与える側もエネルギーを大量消費するので、どうしてもの場合に用いる貴重品の「高級薬」の扱いである。
かなり意識していても、うっかり使いすぎてしまうのが痛いところである。
モルヒネのごとく、一時的には劇的に効いて痛みが消える上に、中毒性もあるので、本当に使いすぎには注意である。

やるべきことをできている子ども、教わったことを守ろうとする素直な子どもを優先してほめる、認める。
これも、学級経営のコツの一つである。

しかしながら、このコツは効果的な故に、落とし穴(ダークサイド)も大きい。
次号では、ここについて述べる。

2018年11月1日木曜日

学級経営のコツ「当たり前を躾ける」

学級経営のコツについて、実習生から質問を受けた。

「4月にどんなことをしてきて、今の状態になっていくのですか。」
核心をつきすぎる質問である。
次の予定もあり、これに3分以内ぐらいで答えねばならない状況である。

そんなに簡単に語れるものではないのはわかっている。
しかし、敢えてこれ、というものをずばり答えてみた。

一言でいうと「当たり前を躾ける」である。

私は「学級づくり」をテーマに講師として話す時に、必ず次の「学級づくりに大切な3要素」について話す。

1 安全・安心
2 ルール
3 楽しさ

1の「安全・安心」は、大前提なのである。
これのないところに何も築けない。
子どもは、身体的にも心理的にも危険なところへ、毎日出かけようとは思えないだろう。
学級担任がどっしり構えて頼れる存在であることは、大前提なのである。

大人が、教えるべき子どもに「びびって」いるようでは、どうしようもないということである。
子どもたちは、ただでさえ前年度までの人間関係に苦しんでいることが多いのである。

穏やかな笑顔で迎えながらも、腹を括っていること。
新しい学級づくりの初期段階の子どもたちにとって、強く頼れる存在であろうと覚悟していること。
ここだけは絶対死守のラインである。

そして、やがて学級が軌道に乗ってくるにつれて、担任に頼ろうという風土はフェードアウトさせていくのである。

2の「ルール」の成立が実は肝である。
2をしっかり成立させずに3の「楽しさ」を優先しようとすると、失敗しやすい。
結果的に1や2が脅かされることになり、本質的に楽しくなくなる。

ルールの成立とは、どういうことか。

ごく簡単にいうと、「何が〇」「何が×」という「当たり前」のものさしを与えるということである。
それを、最初の段階できちんとしつける(=躾ける=身を美しくする)ことが肝、と教えた。

この「当たり前」の基準は、最初は多め、厳しめの方がいいのである。
後で減らし、緩くするのは簡単だからである。
一方で、逆は大変難しい。

大人の社会で考えればわかる。
例を挙げる。

今、消費税は8%である。
これを3%にするといったら、きっと国民は大喜びである。(単純思考でよく考えなければ、の話ではある。)
国民の賛成はすんなり通る。(実際は政府の財政がとんでもないことになるので、実行不可能だが。)

しかし、実際は私の生まれた頃は、消費税は存在しなかった。
消費税0%である。
自動販売機のジュースはどこも100円のワンコインきっかりだった時代である。
それが3%になるといった時、社会では大変な抵抗があった。

恐らく、生まれた時から消費税が8%だったという人にとっては、5%ですら低いと感じるだろう。
10%にすることが既に決まっているが、2%増しなので、まあ我慢もしやすいと思える。
一方で、昭和の人々からすれば、いきなり10%は抵抗感がものすごいはずだが、もはやそれほどでもない。

これは、長い時間が解決してくれているからである。
3%、5%、8%と時間をかけて段々上がっていくにつれ、増税に「慣れた」ので、感じなくなったのである。
「茹でガエル」の手法である。(いつの間にか思考も死んでる?)
きついルールを後で設定するのは、長い時間がかかるのである。

つまり、最初の「当たり前」の基準を、いかに高めに設定できるかが鍵である。
必要なくなったら、後でいくらでも緩めればよい。
「ルールはなくすためにある」という言葉も教える。
ルールをなくす方向に努力するのは、楽しい作業となる。

ちなみに、消費税のあたりのくだりは、時間がなかったので話していない。

学級経営のコツを一言でいうと
「ルールをきちんとつくる」「守らせる」
という
「当たり前を躾ける」
という状態をつくることである。

では、具体的にどうやればいいのか。
こちらから問いかけたら、すんなり答えられた。
これまでの教えをよくきき、やり方をよく見てきているのである。

長くなったので、そこは次号。
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