学校には、多種多様な人間が集まる。
学級を、動物園に例えて見てみる。
チーターさんはまだ子どもだが、走るのがめっぽう速い。
ウサギさんは、そこそこ速く走れるが、できれば葉っぱを食べてのんびり過ごしたい。
同じクラスにはゆっくり動くゾウガメさんもいる。趣味は日向ぼっこ。
ハシビロコウさんにいたっては、ほとんど動かない。
さて、動物園学校では、毎日色々なことを先生に教わる。
かけっこをする時もある。
チーターさんは、一瞬にしてゴールに辿り着く。
ウサギさんは、順調に進む。
ゾウガメさんは、かなりゆっくり。
ハシビロコウさんは、そもそも走ろうとしない。
さて、早くゴールしたチーター君は退屈である。
先生は、ゾウガメ君を励ましながら、時々ハシビロコウ君を説得している。
ウサギさんも大分前についたので、飽きはじめている。
やがて、先にゴールしたメンバーがふざけだす。
まあ、こんな感じである。
別に体育の話ではなく、全ての授業や教育行為に当てはまる。
算数の授業にでも掃除にでも何でも当てはまる。
何が言いたいか。
1 学級には能力の全く異なる人間が混在する
2 学習には個別のゴールが必要
3 先生の側も何かの動物に属しており、そこを基準に考えてしまう
4 大自然とは違い、空間的、時間的な枠がある
5 ある種の能力の近い者を集めた園もある
子どもが動物だと言いたい訳ではない。
もつ能力がそれほど異なるのに、同じことを教わるということである。
だから、天才を相手にすると、先生は困る。
例えばチーターさんはほとんどの先生からしても、意味不明な速さだからである。
走り方を教えたいのに、教えようがない。
意味不明なので、見限られる、という哀しい方針をとられることもある。
したがってこの場合、チーターさんは、同種のチーター先生タイプに預ける方が伸びる。
チーター先生でなくても、知識があればある程度対応できる。
チーターの桁違いの速さ、ゾウガメの走る以外の高い潜在能力を知っていれば、手の打ちようが変わる。
種族は、変えられない。
だとしたら、知識を身につけるしかない。
やはり、まずは知識が大切と改めて思う次第である。
2018年11月12日月曜日
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