2016年11月30日水曜日

若手教師と保護者 その2

前号の続き。
学校の若年化と、保護者との関係づくりをどうするか。

専門性というのは一朝一夕で身につくものではなく、熱心に勉強してもある程度時間がかかる。
ではどうするか。
「謙虚さ」と、加えて若さ特権の「元気」の出番である。

保護者の立場になって見てみる。
小学生の子どもの担任が、新任3年目までの若手。
何を求めるか。

専門性も欲しいところだが、恐らくそこは強く求めない。
たとえ授業がうまくなくても、さもありなんというところである。
(30代以降ならそこも欲しいところではある。)

それよりも、子どもが「学校が楽しい!」と言うかどうかである。
担任の先生が一緒に遊んでくれたり、話を聞いてくれたりしているかどうかである。
極論、若い先生は、うまくいくかはどっちでもいいから、エネルギーを前面に出してぐいぐいやって欲しい。
若いのに元気がないのと、妙に対応が冷たいのだけはいただけない。
つまり、あんまり遅くまで事務系の業務で残っているのは、よろしくないということである。
翌朝の爽やかな「おはよう!」に支障をきたすからである。
(教材研究が楽しくて打ち込みすぎて、目がぎらぎらしているのはOKである。)

若手は、謙虚に保護者と一緒に歩むつもりで。
子育てに関しては、教えてもらうつもりで。
そして「クラスの子どもが大好き」なら言うことなし。

若手ならではの特性を生かして、学校を元気にしてくれたら最高である。

2016年11月29日火曜日

若手教師と保護者 その1

新聞の社会面を読んでの雑感。

社会全体の晩婚化が進んでいるのは周知の通りである。
並行して出産の平均年齢も上がり続け、2011年から30代に入っているそうである。
50年前に比べ、5歳以上の上昇。
そうなると、保護者の平均年齢も必然的に上がってくる。
平均はそのままではあてにならないが、参考までに素直に平均だけで考える。
6~12歳の小学生の保護者の平均年齢は36~42歳となる。
第二子以降の保護者となれば、これがさらに上になる。
一昔前は35歳の小学校教師であれば保護者の方が年下が多かったのが、逆転する計算である。

加えて、教師の側は団塊の世代の大量退職で、一気に若年化が進む。
都内では校内がほぼ20代の若手から30代という学校も珍しくない。
そうなると、難しくなるのは保護者との関係である。

これからは、原則、保護者の方が年上なのである。
もっというと、母親に社会人としてのキャリアを多く積んでいる人が更に増える。
そこを自覚した保護者対応が必要になる。

今まで以上に、保護者対応に謙虚さが必要になる。
そして、教師の職業としての専門性が必要になる。
そこがないと、若手の教師は「偉ぶってる若いコ」と見られてしまう可能性が高くなる。

長くなったので次号へ続く。

2016年11月27日日曜日

自分がやっていないことをさせない

うまくいかない時の法則。
自分がやれていないことを子どもにやらせること。

子どもが思うように動かない、変化しない。
そんな時、その求めることを、自分がやっていないことは多い。

自分が疲れていたら、子どもにそれが映る。
同僚に気を配れてないなら、子どももクラスメイトを気遣わない。
授業の感じがいまいちなら、先に自分が楽しんでいない証拠。
または準備不足。
子どもから多様な意見が出ないなら、教える側にが多様な意見がない証拠。

求めるものは、常に先取り。
全ては私の責任。
他人に責任を求める前に、自分自身を変えていきたい。

2016年11月25日金曜日

言葉を削る

話が長い。
聞いてもらえなくなる要因No.1である。

長くてもすごく関心のある事ならいい。
しかし、授業等で前に出る場合、すべての子どもにそうである確率は低い。

ならば、ずばり短く話すこと。
それも、ゆっくり、落ち着いて、低く響く声で伝える。

指示は少なく、活動は多く。
実習生に教えながら、身につまされる話だったので書いてみた。

2016年11月23日水曜日

『鋼のメンタル』から生きることを考える

勤労感謝の日にちなんで、最近読んで感銘を受けた本の紹介。

『鋼のメンタル』百田尚樹 著 新潮新書
http://www.shinchosha.co.jp/book/610679/

『永遠の0』の著者といえば多くの方に伝わりそうである。
何かと頷けるところが多い良本なのだが、終戦時の日本についての、次の1節が特に考えさせられた。

==========
(引用開始)
今日、家族の元に帰れる、そして明日も働ける。
そのことがどれほどの幸せか、当時の日本人はみんな知っていたと思います。
(引用終了)
==========

『永遠の0』でも関係するシーンがある。
特攻隊の教官である主人公が、自身の特攻の前に一日だけ家に帰る場面である。

当たり前のことがどれほど有難いかを考えさせられる。
普通に暮らしていたら「死なないで生きられる」というのは、当時からすれば極楽浄土である。

働けることも同様。
企業がブラックかどうかも、残業の多い少ないではなく、社員の働き甲斐の有無に規定される。
厳しい話、ただ会社の文句を言っててもダメである。

生きている内、働ける内、日の暮れぬ内。(相田みつを)
今の職場で働けることに、そして日々生きていけることに、まずは感謝したい。

2016年11月21日月曜日

ゼロに戻る

里山活用や森林再生を行っている方からの学び。

木にはステージがある。
第一ステージは、痩せた土壌でもどんどん伸びる杉の木のような木達。
これが育つと、やがて次の芽がで出す。
それにつれ、杉は淘汰されていく。
やがて、密林状態になると枯れてしまう木、生き残る木が出る。
枯れた木は倒れ、種は地中に埋もれるが、芽は出ない。

やがてそういったことを繰り返す内に、最終ステージとなる。
最終ステージの木がすっかり枯れると、最初のステージの種が目を覚ます。
そうして、森林は循環していくという。

何でも、ゼロに戻る。
どれが偉いとか上とかではなく、その時々のステージがある。
教育観にもつながる話かと思い、紹介してみた。

2016年11月18日金曜日

『小学校体育科授業成功の極意』

最近読んだいい本の紹介。

『スペシャリスト直伝! 小学校体育科授業成功の極意』
木下光正 著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-136010-8

実習生指導で、何を教えるか結構悩む。
体育科もかなり教えるべきポイントがある。
この本は初任者を始め、体育を学び始める人に必要な知識が詰まっている。
さすが筑波大附属小で教え続けた超ベテランの先生の本である。

体育授業のマネジメント的な面として
「集合場所は決めておく」
「先生もしゃがむ」
といった基本的なことから、
「戦術理解を深めるために体育館のギャラリーから観察させる」
といった具体的な観察手法まで述べられている。
体育の本は難しい理論の本と技能に特化した本が比較的多いが、これは大変読みやすい。

体育の授業が苦手という人には特におすすめの一冊である。

2016年11月16日水曜日

創作のための基本ステップ

最近あまり書いてなかった、若年層向けの指導実践・技術の話。

どの教科でもそうだが「創作」をさせる時がある。
(図工科などはほとんどがこれである。)

創作をさせるまで至るにも、基本的なステップがある。
第一に「モデルがある」こと。
第二に「たくさん触れる」こと。
第三に「意欲が湧くまで待つ」こと。
第四に「模倣する」こと。
第五で「創作」である。

例えば、国語科の実践。
最終的なゴールとして詩を創作させたい時。
まず導入として「モデル」となる詩を提示する。
これは教科書に載っている詩でもよい。
最終的な創作で目指す詩の形に近いものがよい。

「なりきり」で詩を書かせたいと思った時には、工藤直子作の「のはらうた」を導入に用いたことがある。
すると、他の詩も読みたくなる。
工藤直子作品を揃えてみるのもいいし、他にも図書館に行けば色々ある。
とにかく、ここはたくさん触れて、多くの作品に読み浸らせる。
そうすると「書いてみたい」という気持ちが湧いてくる。

次に、お気に入りの詩を集めた「詩集」づくりに入る。
書き写すことにより、さらに作品にじっくり向き合うことになる。
ここで、自然と基本的な技法が身につくことも多い。
詩集づくりをしていく中で、「自分でも書きたい」となれば、そこでやっと創作である。

また、創作のために、教師が作ったものをモデルとして提示することもある。
遠回りのようだが、創作に至るルートとしては自然で確実である。

創作につながるモデルについては、教師が事前に作っているのが基本である。
創作の際の苦労や躓き、ポイントがわかる。
モデルは作るが、子どもの作品は大部分がここに似てくるので、場合によっては提示しない方がよいこともある。

とにかく「はい作ってみよう」でいきなり作らせず、指導すべきは指導する。
特にたくさん触れて浸らせる活動は、たっぷり時間をかけて中心に置く。
創作まで持っていきいたい際の、基本型である。

2016年11月14日月曜日

良い悪いのグレーゾーン

電車の出来事。
子連れの母親集団が前に座っていた。
1歳ぐらいのベビーカーの乳幼児。
当然、30分もじっとしている訳がなく、騒ぎはじめる。
騒ぐのをやめてくれなくて焦る母親。
一方、周りは穏やかに見守っている。
お年寄りの団体の方々は、「元気が良くていいわねぇ」などとニコニコしながら話しかけている。

わりとよくある風景である。
この乳幼児が騒ぐことに対し、「我慢のきかないだらしない子どもだ」という見解は普通しない。
(むしろ、寝てもいないのにそんな長時間じっとしている方が怖い。)
母親に対し「しつけがなってない」とも思わない。

ただ、この同じ行為もある一定年齢以上になると、単にマナーの悪い迷惑な人になる。
では、どこからが境目か。
これがグレーである。

周囲の側。
先のお年寄りなどだと、その許容範囲が広めである。
一方、ストレス疲れしている大人の場合、許容範囲は狭くなる。

同じ「電車で騒ぐ」行為であっても、小学生以上なら完全にアウト。
幼児でもどう見られるか危ない。

要は、年齢も行為も、許容ラインは各々の主観である。

例えば、就学前の幼児は、「お話」を聞くときに椅子にじっと着席すべきか。
幼稚園や保育園の方針によって、全く異なる。
1歳児でも座らせるところがあると思えば、座席自体がないところもある。

1年生ならどうか。2年生なら。6年生、中学生なら?
さすがに6年生で座ってられないのはダメだろうか。
しかし、海外に行けば話は別である。(そもそも、学校によっては座席自体がないこともある。)
つまり、全部「常識」による主観である。

自分の持っている常識は、かなり疑わしい。
それは本当に必要か。
それをするのはなぜか。
「将来困る」というのは本当か。

「常識」はとりあえず脇に置いておく。
自分が価値を感じていること。
そこに本音と実感があること。
教える時、間違っていてもいいが、自分への嘘があってはいけないと思う次第である。

2016年11月12日土曜日

修学旅行の「食べ歩き」は事前指導が命

前号の続き。
教えるべきは教える。
まずは「言われたから守る」「先生が見ているからやる」から入るのも手である。

修学旅行での班別行動。
寺社の見学も楽しいが、お土産を買ったり、ご当地ものを食べたりするのも楽しみの一つである。

ここにも教育の余地がある。
放っておくと、「食べ歩き」や「不適切な買い物」をする。
(ここの「不適切」ラインについては今回は割愛。)
やはり、事前に一言ぴしりと言っておくことに意義がある。
ただでさえ人混みの狭い道の中を、ソフトクリームを持って集団で歩いてくる小学生がいたらどうか。
これは、できればすれ違いたくない。
しかし、集団になれば気持ちが大きくなり、そんなことに配慮できなくなる可能性がある。

この辺りへの配慮がきちんとした職員が一人でもいると助かる。
事前に一言、全体での指導をすれば、食べ歩きや不適切な買い物は激減する。
元々ルールを守ることに心地よさを感じる子どもたちであれば、集団圧力がいい方向に働く。

これを言わずに「自主性」で判断させようとすると、失敗する。
悪気はなくとも、楽しくて浮かれている状況では、そこまで頭が回らない。
指導されていれば、「そういえば」という自主規制の心が働く可能性が格段に高まる。

班別行動中、ほとんど「先生は見ていない」状況である。
しかし、「指導された事実」があるかないかで、行動は大きく変わる。
もちろん、変わらない子どももいるが、多くは何かしら感じるものである。
そのレベルの子どもにまで守らせたい場合は「先生が見ているからやる」レベルまで落とす必要がある。
(つまり、ぴったり張り付く必要が出る。)
そこまでやるかどうかは、それぞれの教育観である。

自由にやらせる教育もある。
それが、目的に適うならよい。
目的に照らし合わせて、言うべきは言う。
言わぬべきは言わない。
見るべきは見るし、見なくてよいものは見ない。

だから、目的によっては「言われたから守る」「先生が見ているからやる」で入れば良いと思う次第である。

2016年11月10日木曜日

「担任がいない時に掃除をさぼる」を考える その2

前号の続き。

交通ルールだったら守らないと命に関わる。
赤信号の危険性は有無を言わさず教えるはずである。
誰しも子どもに「強制」するのをためらわない。
「強制」によって良い方向に「矯正」するのである。
師の野口芳宏先生の言葉を借りれば「善意の強制」である。
やがて、交通ルールの意味や価値に気付く。
言われなくても自主的に守るようになる。

しかし、これがこと掃除などの「教育」になると、ためらう人が増える。
「子どもの自主性」が気になるからである。
やもすると「管理主義」と批判される。
要は、一般論や他人の目が気になるのである。

そんなことはお構いなしに、良いことなら自信を持ってどんどん「強制」する。
それで、やっている子どもを認める。
やっていない子どもは、とりあえず目の外に置く。
その内やるはずである。(ずっとやらない子どももいるが、そういう「つわもの」への対策は最後の最後である。)

アクティブ・ラーニング論とて同様。
指導を怖れて、無策で待っていては始まらない。
まず教えるべきは教える。
基礎となる知識をしっかりと身に付けさせる。
その上で任せれば、自主的にあれこれ試行錯誤ができるようになる。
いきなり「自由にどうぞ」では、単なる指導の放棄である。

2016年11月8日火曜日

「担任がいない時に掃除をさぼる」を考える その1

実習を通しての気付き。

担任がいない時に掃除をさぼる子どもにどう指導するかという質問を受ける。
結論から言うと、「先生が見ているからやる」から入ればよい。

一般に、これはよくないとされる。
もう9月の段階なのだから、自主的に掃除をすべき。
学級経営が上手な先生方にお叱りを受けそうである。

しかしながら、自分としては、これは子どもとして割と本音の姿ではないかとも思っている。
自分の子ども時代を振り返ると、別に悪意がある訳でもない。
ただ、何となくさぼるのである。
目的がわかっていても価値がわかっていても、やはり本音は「めんどい」のである。

しかし、この「自然」な状態は、「教育」の場において都合がよろしくない。
そもそも掃除自体が、教育の場として設定されている。
掃除をしないと、汚いまま使うはめになり、不快である。
掃除屋さんを頼んでいない以上、必然的に担任か子どもがやるしかない。

そこで取り組ませ方は「先生が見ているからやる」から始める。
交通ルールと同じで、自分で気付く以前に言われるから守るのである。
そこに「やりたい・やりたくない」は関係ない。
必然性によりやらざるを得ないのである。

長くなったので次号に続く。

2016年11月6日日曜日

指導案を書くねらいは何か

実習生指導を通しての自省。

指導案通りの授業。
一見いいようだが、教える側の都合に沿った授業である。
実習生ならそれでも花丸である。
なぜなら実習生の指導案は、授業の見通しを持つことを目的としている。
つまりは、子どものためというより、授業者のためという側面の方が強い。
現場教員の指導案とは全く違うということである。

見通しなら、経験さえあれば誰でも持てる。
こういうことをしたらこうなるだろうと予測できる。
だから、実際の現場教員は、すべての授業において指導案を書く必要はない。

校内研究で書く指導案は、ただ見通しを持つために書くのではない。
研究仮説や研究テーマにどう近付く授業なのか。
それを文章を通して表現し、読み手に伝えなければならない。
自分のためというより、人に伝えるためという側面が強い。

また一方で、人に伝えるように書くというのは、自分の中での解を明確にする作業にもなる。
その解は、最終的に子どものためになることが望ましい。
しかしながら「こうするとうまくいかなかった」という失敗も成功への一つの解になる。
直接的に目の前の子どものためにはならないが、研究としての価値があることもある。

同じ指導案でも、その目的は何なのか意識して書きたい。

2016年11月4日金曜日

子どもの意見を尊重すべきか

子どもの意見を尊重する。
文句なしに聞こえはいいのだが、これも場合による。
尊重しない方がいい場合もある。

子育てをしている方はわかると思うが、我が子の意見を完全に尊重していては生活が成り立たない。
例えばおやつを無制限に与えれば、夕食を食べなくなるのは自明の理である。
テレビやゲームも同様。
寝る時間を整えるのは、家庭教育の力であり、子どもの意見の尊重はしていられない。
しつけは「おしつけ」から来ているが、おしつける面があってもいい。

特に、安全に関する面は、「おしつけ」でいい。
安全の判断のできない子どもに、赤信号では渡ってはいけないと厳しく言い続ければいい。
安全は何よりも優先される。
(一方で、子どもの冒険心の尊重は大切である。
木などの高い所に登るのを一律に止めさせれば、将来的に逆に危険である。)

学級のささいな場面でいうなら、席替え。
子どもの意見の尊重は必要か。
これも、場合による。

座席を決める意義の最たる部分は、学習効果の向上である。
落ち着いて学習できる、交流ができるといった面を重視する。
視力の弱い子どもは当然黒板に近い前の方がいい。
学習の準備や作業速度が極端に遅いなど、直接教師が支援をした方がいい子どもは、近くにいた方がいい。
周りの動きを見れば真似して動けるどもは、二列目以降がいい。
これらのことがわかっているなら、座席は子どもの自由にせずに、指定した方が効果がありそうである。

こういったささいな場面は、たくさんある。
どこで子どもの意見を尊重するのか、こちらの意見で進めていくのか。
ねらいに即して判断し続けることが望まれる。

2016年11月2日水曜日

教育実習は自己批正の場

教育実習の指導をしていると、客観的になれるので色々気づく。

例えば、無意識にやってたり逆に疎かになってたことに気付く。
体育を例に出すと、
「安全面が第一」
「太陽を背にしない」
「全体が見渡せる位置に立つ」
といった基本的なことは当然教える。

逆に向こうから
「準備運動は何を
すればいいのか」
「必要なのか」
といった根本的なこともきかれる。

また、子どもを叱った時などにも「この叱り方はよくないな」といったことも客観的にみられる。
要は、他人の目が常にあるので、隠せないのである。

これは大変貴重である。
常に模範として見られている。
しかし、こちらも決して完璧ではない。
穴だらけである。

日々プレッシャーだが、自己批正の場として活用していきたい。
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