2015年8月29日土曜日

素直に受け取る

他人様が「どうぞ」「やりますよ」と言ってくださるような時には、素直に受け取る。
好意は素直に受ける。
それを頑なに拒むことを「頑固」という。
頑固より素直がいい。

次の本を紹介する。
『教師の覚悟――授業名人・野口芳宏小伝』
松澤正仁 (著) さくら社
http://www.amazon.co.jp/372/dp/4904785916

野口芳宏先生を徹底的に研究している宇和島の松澤先生という方の書いた「伝記」である。
ただの伝記ではなく、そこから溢れる「人生観」「教育観」が消化しきれない程学べる良書である。
教育観を磨きたいという本メルマガの読者には最適な本である。
「師の野口先生に関する本だから宣伝する」というようなこととは全く関係なく、確実にためになるし面白いので無条件におすすめする。

本の中に、次のようなエピソードがある。
「厳父」という項。
「父は愛情深く温かいだけではない。時に厳父とも言える行動も見せている。」(「」内は本文より引用)
どういう話かというと、小学2年生の時、叔父さんが小遣いをくれたという。
野口少年はそれを遠慮して断り続けた。
父が「受け取れ」と言ったにも関わらず、頑なに拒んだ。
すると父に猛烈に叱られて、泣きじゃくりながらお金を受け取ったという話である。

この話の後に、次のように書かれている。
「私はそれからというもの、人の好意を素直に受け止め、感謝できるようになったようだ。
これが、私の人生の中で最初に出合った手厳しいターニングポイントである。」(「」内は本文より引用)

これが「人の好意は素直に受ける」という人生観をもたらしたという。
この話の項の後には、次のように続く。
「子どもを褒める時がある。褒められたら、その子は素直に感謝する子に育てなければならない」(「」内は本文より引用)

要は、好意を素直に受け取ることが、自分にとっても相手にとっても利をもたらす。
「自利即利他」である。
英語で言うと「WINーWIN」の関係である。

好意は素直に受け取る。
得意な人に頼る。
頼まれたら断らない。

共生社会において最も大切な考え方であると思う。

2015年8月27日木曜日

思春期の子どもとつながる学級集団づくり

タイトルは、上越教育大学教授の赤坂真二先生編著の「学級を最高のチームにする極意」シリーズの新刊名。
この中から、自分の担当ページの内容を少しだけ紹介する。
自分の担当したページのタイトルは
思春期の性差を意識した指導
~『信・敬・慕』の関係を築く~
である。

以下、本文より引用。
=======================
(引用開始)
逆に、女性教師が男子との関係を押さえる時のポイントは何でしょうか。
思春期に限らずですが、男子は女子に比べて、おとなしくきちんとしているのが苦手な子どもが多いです。
一方、「活動的」というよい特性もあります。
この特性が、長いお説教や細かい口出しと最悪の相性なのです。
きちんとさせたい、きかせたい女性教師と、思い通りに動き回りたい、ちょっと世の中に反抗したい男子。
これでは、折り合いがつきません。
ここは「さばさば」と対応するのが、良好な関係につながりやすいようです。
悪いことがあったら、びしっと「ダメ」。
ダラダラ長く言わない分、やったら何度でも言う。(そこは逆にしつこいぐらいで良いでしょう。)
良いことをしたらさらりと「いいね」。
日常では、あまりウエットな関係を求めていないと割り切ると、うまくいくことが多いようです。
そして、本質的には甘えん坊なので、必要に応じて甘えさせてあげます。
「さっぱりしたお母さん」のイメージでいくと、ちょうどいいかもしれません。
(引用終了)
=======================

自分自身の経験に加え、学級経営がうまくいっている先生方の観察からの分析。
ただ、これとてあくまで大まかな捉えであり、個人対応は一括りにできない。
大まかな方向をおさえつつ、一人一人を見る。
飛行機からの大きな視点と虫眼鏡の小さな視点、両方が必要である。

子どもの見方の視点を増やすというつもりで、ご一読いただけると幸いである。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

2015年8月25日火曜日

不運と不幸

前号の続き。
野口芳宏先生からの学び。

不運と不幸。
これも似た言葉である。

不運は運が悪いこと。
不幸は不本意で辛い状態。

不運なことは起きる。
これは人の力でどうしようもないことである。
しかし、それを不幸と受け取るかどうかは人次第。
不運なことを不幸と受け止めず、感謝を見出す人も中にはいる。

そんな話だった。

例えば今、熱を出しているとする。
身体の辛さを考えると、不幸である。
しかし、ゆっくり寝ていられることを考えると、不幸でもない。
では不運かというと、ここも考えようによっては自分の生活習慣等が原因で引き起こしているのだから、一概に運のせいとはいえない。

捉え方次第である。
似た言葉の使い方には気を付けたい。

2015年8月23日日曜日

興味と関心

野口芳宏先生との会話の中の学びから、気付いたことのシェア。

似ている言葉は、よく考えて使い分ける必要がある。

例えば、「お疲れ様です」と「ご苦労様です」の使い分けはよく取り上げられる。
社長に対して社員が「ご苦労様です」と言うのは常識外れとなる。
意味としてはほぼ同じなのだが、使い分けが明確にある言葉である。

「指導」と「支援」の違いは以前に書いた。
「机間指導」というか「机間巡視」というかで、ねらいも行動も変わる。
「~します。」と「~したいと思います。」でも、全く意味が変わる。
語尾を「~と感じる」「~と思う」「~と考える」「~である」どれにするかで全て意味が変わる。

実際のところ、意味は違うのに意識せずに使っているというのが、多いのではないかと考える。
そうすると、言葉をよく知っていて敏感な人ほど、その言葉がひっかかっている。
極端な話、相手が「ご苦労様です」の使い方について全く知識がない人であれば、全く問題ない。
一方、知識の豊富な人と話す時ほど、注意が必要である。

興味と関心。
これまた、似た意味の言葉である。
しかし、意味合いは大分異なるという。

こういうのを調べる時は電子辞書にある「類語例解辞典」が役に立つ。
引いてみる。

簡単に言うと「興味」が感情的で一点なのに対し、「関心」は理性的で全体である。
(ちなみに「好奇心」は未知なこと全てで、俗っぽさを含む。らしい。)
あまり意識していないのは「興味・関心」のようによく一括りにされているのにも原因があるかもしれない。

ある集まりに初めて参加する時、
「興味があって来ました」と「関心があって来ました」
では、伝わり方が違う。
前者は見物に来た、後者は学びに来たという感じを含んだ伝わり方になる。

「あなたに興味があります」と「あなたに関心があります」
でも、かなり違う。
学びの対象として伝えたい場合なら、適切なのは後者であるように「思う」。(言い切れないが。)
うっかり間違えると、勘違いや誤解を引き起こすかもしれない。

どちらが良い言葉という訳ではなく、使い分けである。
悪気なくうっかり誤用をしていないか、注意したい。

2015年8月21日金曜日

水泳で顔に水がかかるのを怖がる子どもへの指導 後半

前回の続き。

恐怖感の逆は安心感。
安心感を引き起こす行為の一例は、抱っことおんぶである。
水の中で指導者が抱っこやおんぶをして慣らす方法もある。
スイミングスクールで幼児を指導するコーチなどが、割とよくやっている。
おんぶして歩いている内に、「うっかり」水がはねてしまったり、「うっかり」すべってしまう。
そうすると、子どもの顔に水がかかる。
「ごめんごめん」などと言いながら、プールを歩き回る。
そういう方法もある。

また、晴れの日よりも雨やくもりの日の方が恐怖感は増す。
明るいよりも暗い方が、温かいより冷たい方が恐怖感が増すのは当然である。

ちなみに、やや別の例になるが、シャワーが怖いという場合、その冷たさにも恐怖の原因の可能性を考える。
冷たさというのは、体を硬直させる。
体の硬直は、恐怖時にも起きる。
恐怖時の体の状態をつくれば、恐怖感が引き起こされる。
体と心はリンクしているのだから、当然である。
試しに、風呂で頭を洗う時に、真水で洗ってみるとわかる。
慣れないと、水がかかった瞬間にぐっと体が引き締まり、恐怖感に近い感覚があるはずである。

逆に言えば、シャワー一つも、みんなで楽しい雰囲気を作ると怖くなくなるという面もある。
例えば「かえるの歌」をクラスで合唱しながら浴びてみる。
1番をみんなで歌い終えるまで浴びる。
割合楽しくやれる。
(しかし、水が極度に苦手な子どもにとってはやはり恐怖のシャワーである。)

要は、「そんなことまで!?」というぐらい用意しないと、恐怖感は取り除けないということである。
正直、かなり手間である。
しかし、手間暇かけた分だけ、顔を水につけられるようになった時の喜びは大きい。
決して根性論や相手への原因論に陥ることなく、指導する自分自身との戦いだと思って色々試していきたい。

2015年8月19日水曜日

水泳で顔に水がかかるのを怖がる子どもへの指導 前半

先日のセミナーの後の懇親会で受けた質問。
水泳指導で、水を極度に怖がる子どもがいる。
顔に水がわずかにでもかかるのもダメだという。
どうすればいいかという話。

とりあえずプールに放り込んで根性を出せというのは、もう大昔の方法である。
こんなことをしたら、プールサイドに近寄ることすら恐怖になる。
最悪、水泳のある日に学校に来なくなるかもしれない。
根性ではどうにかなる部分とならない部分がある。

根性論でなく根本・本質論で考える。

体育指導も安全・安心が全てのベース。
これがないと始まらない。
つまり、まずは恐怖感を取り除くしかない。
あれこれ技能的な指導をするのは、そのずっと後である。

「顔に水がかかるのが怖い」というのは、あくまで現象である。
その根本は、「命の危険」を感じるからである。
顔は、呼吸器である口に近い。
つまり、極端な話「息が吸えなくなって溺れて死ぬかもしれない」という恐怖感がある。
また、目をつぶると、見えなくなってこれも一層怖い。
だから、他の部位は大丈夫でも、顔、特に目と口の周辺に水がかかるのだけは極度に嫌がる。

安全・安心な状況で慣れさせる必要がある。
スモールステップでだんだん下から水をかける、というのはよくやると思うが、理に適っている。
ちなみに、体が水につかっている面積が大きいほど、恐怖感が増す。
「顔を水につける」というだけでも、体の他の部分がどれだけ水に触れているかで恐怖感は変わる。
全身が水にふれる「けのび」の状態は一番レベルが高い。
胸まで水に浸かって顔を水につけるのもレベルが高い。
顔を水につけるという行為は同じなのだが、膝までの浅いプールの方が気持ち的に楽である。
プールサイドに洗面器を用意して、そこに顔をつけるというようなステップをとる先生もいる。
要は、目の前の子どもの実態に合わせて、必要なステップを模索し、用意してあげる。

ちなみに、プール自体の深さを変えられない場合、プールに足場のようなものを沈めて置く方法もある。
これをする場合は、特に足をケガしないように材質等の安全面に十分配慮する必要がある。

(次号に続く)

2015年8月17日月曜日

褒めるか叱るか

木更津技法研での学びのシェア。

サークル内で「褒める」と「叱る」の割合、バランスについて話題になった。
褒め方、叱り方の問題。
質と量の問題。
色々出た。

視点の話と同じなのだが、要は受け手次第、というのが持論である。
叱ると褒める自体に善悪も是非もなく、とちらも伝達の手段と見る。

どんなに相手の為を思って伝えても、受け手次第。
褒めて喜ぶかもしれないし、嫌がるかもしれない。
特に一斉指導の場合では、ここが端的に現れる。
同じ言葉を同じ時に伝えても、色々な受け取り方をする。
三十人いたら、三十通りの解釈である。

休み時間「○○さーん」と名前を呼んだだけでも、喜んでとんで来る子どもから、
「何かしたかな…」と暗い顔になる子どももいる。
繰り返しになるが、要はすべて受け手の解釈である。
その反応は、こちらの意図とは無関係である。

それを踏まえて、指導にあたる。
アドラー心理学にある事実を見て、「認める」というのが、私には使いやすい。
褒めまくる、ばっちり叱るのが合う人もきっといる。
いずれにせよ、相手の受け取り方はよく見る必要がある。

指導者の思いも大切だが、それが目の前の「○○さん」に伝わる手段かどうかはよく吟味したい。

2015年8月15日土曜日

視点を考える

国語で視点を教える。
話者は誰か。
どこから見ているか。
ここを指導することで、詩や物語の情景が鮮やかになることがある。

これを、日常に応用する。
普段の視点は、自分の中にある。
当たり前である。

これを、相手の視点、外の視点で見ることが、「思いやる」につながる。
これは、詩や物語の時ほど、簡単にはできない。
良かれと思って言ったりやったりすることも、相手の視点からすると迷惑なことがある。
特に大人と子ども問わず、批判的だったり言葉がきつかったりする人は、このあたりの視点が抜け落ちている可能性が高い。
自信があって思い込みが強いほど、強い言葉になって外に出る。

子どもに限らず、指導者の側こそ気にすべき視点である。
教えたつもりになっていることがかなりある。
相手にとって言葉がきつすぎることがかなりある。
有り難迷惑なこともかなりある。

電車の中で、「子どもは公共の場で騒いでうるさい」という話をしている大人がいた。
大声で話していた。
視点が、自分の中にあることがよくわかる。
客観的には見えない。

「廊下を走ってはいけない」というのは、どの先生も常に指導していること。
しかし、「先生も廊下走ってたね」と子どもは口に出さなくても思っている。

客観的に見るのは難しいと自覚する。
自分も人のことは言えないと自覚することが、視点を外に持つための第一歩であるかもしれない。

2015年8月13日木曜日

私心を捨て去る

木更津技法研での学び。

ある学校で、みんなから大変信頼されている先生がいた。
校長先生が、その人物について聞かれたという。
「なぜ彼はあのようになったのか。」
すると
「あいつには、私心がない。」
とのこと。

私心がないとは、即ち利他である。
ひたすら、周りの人のために動く人物なのだいという。

仕事の価値は、他への貢献度で決まる、ということは頭ではわかっている。
しかし、何だかんだで競争社会で生きのびてきた人間が、急に私心を捨て去って働く。
これは、なかなか難しい。
それでも、できる人にはできるようである。

ひたすらに、利他。
いつか、そういう境地に立ってみたい。

2015年8月11日火曜日

教師のためのポジティブシンキング

雨が降っていることに対し、捉え方で気分が変わる。
雨は「お足元の悪い中」の表現に見られるように、ネガティブに捉えられがちである。
空も暗くなるので、何となく沈みがちになりやすい。

一方、雨の日の静けさが落ち着いていいという人もいる。
肌がしっとりしていいという意図もいる。
花粉が飛ばなくて大歓迎という人もいる。

天気は「天の気分」なのだから、本来人間がどうこういうことではない。
ただ、現象に対する捉え方は人それぞれである。
ネガティブに捉えるよりは、ポジティブに捉えた方が精神衛生上よろしい。

次の本を紹介する。
『教師のためのポジティブシンキング』飯村友和著 明治図書 
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-152814-0

『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者、飯村友和先生の新刊である。

ただ、ネガな出来事にも、ポジの意味付けをしていこうという提案がなされている。
特に、子ども対応への捉え方が参考になる。

例えば「おとなしい子ども」は
1静かで落ち着いている
2周りの人が安心する
3縁の下の力持ち
という捉えをしている。
全員に必ず当てはまる訳ではないかもしれないが、確かにおとなしい子どもにこれらの要素が多い。
面談で「もっと積極的になって欲しい」という相談を受けることもあるが、おとなしさによるプラスの面も大きい。

ネガな面はいくらでも探せる。
誰でも、ネガになる時はある。
だからこそ、ポジの面に意識的に光を当てる。
そのための視点をなるべく多く持ちたい。

教師の皆さんの夏の一冊におすすめの本である。

2015年8月9日日曜日

問:近づけば近づくほど見えないものとは?~原爆記念日に思う~

哲学者ソクラテスは、よく問を出したという。
教えることでなく、問うことで人間の思考が最も活発に働くことを知っていたのかもしれない。

最近自分が考えた問い。

「近づけば近づくほど見えないものとは?」

自分なりの答えを確定させてから読み進めていただきたい。

調べるとどうやらこのフレーズ、某有名アーティストが歌詞に使っていた。
自分は知らない歌だったが、先に発表した方が上である。
残念、負けた。
ちなみにこのアーティストの答えは「虹」。

もっと以前に、このあたりについて書かれた作品がある。
カール・ブッセ作「山のあなた」
というドイツの詩人の詩である。
教育出版5年生下の教科書に載っていた。(今も載っているかは不明。)

「山のあなた」(今見える山のはるか彼方)に幸せがあるらしい。
行ってみたら、なかったから泣きながら帰ってきた。
もっともっと遠くにあるらしい、と。
この詩を「どんなに探しても幸せはどこにもない」と読むと、浅い読みとなる。
カール・ブッセの答えは「幸」。

山と同じで、近くに行くと、それが見えなくなることがある。
富士山は遠くから眺めるから美しいのであって、富士山に登ったらあの姿形は見えない。
むしろ逆に、登山途中に散乱したゴミが気になって仕方ないという。
逆にゴミは、遠くからでは全く見えない。
それも含めて、富士山である。
富士山が富士山であることに変わりは無い。
認識の問題である。
「美」も距離感による。

私の答えは「感謝」。
身の回りには感謝すべきことで溢れているのに、近すぎて感じられなくなっている。
幸せも、近づきすぎると見えなくなる。
今の場所から、ちょっと離れてみると、色々なものが見えるかもしれない。

これは、「平和」も同様である。
今が大きな犠牲の上に成り立っていることを、すっかり忘れてしまう。
6日の広島に続く今日の長崎の原爆記念日は、慰霊とともに平和について見つめ直す日である。

2015年8月7日金曜日

価値ある判断基準

子どもたちに何度も聞かせている話。

過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来。

しかしながら、他人の行動を変える方法が実際にはある。
他人の行動を変える方法。
それは、褒美と罰。
称賛と恐怖。
アメとムチである。

その方法をとれば、確実に行動は変わる。
ただし、行動が変わっただけで、中身は変わっていない。

褒美の身近な例が、お金の為だけにやる仕事。
時給が高いからやるというのがその典型である。
自分にとって合わなくとも、嫌できつい仕事でもやる。
高給という褒美がつくためである。

罰の身近な例でいくと、交通ルール。
最近、自転車の罰則が厳しくなった。
罰金をどんどん取られるとなれば、交通違反をしなくなる。
ただそれは、すすんで交通ルールを守ろうとしているのではなく、罰金が嫌だからそうするだけである。
中身や価値観、考え方は変わっていない。

学級においては、なるべくこの方法をとらないことを心がける。
褒美による統治は、要望が段々高くなって、与えられなくなった時に破綻する。
罰則による統治は、不満をためる。
その不満が、本人の中身をマイナスにする。
成長するはずが、退化する。
教育の場で退化させては意味がない。

では、なぜ指導者からみた望ましい行動を進んでとってくれないのか。
その行動に価値を感じていないからである。
価値を感じていたり、それをしないと気持ち悪いという状態なら、進んでやる。
価値付け、意味付けが肝である。

掃除をやらないと気持ち悪いという子どもがいる。
掃除の気持ち良さを肌で感じている子どもである。
掃除をやるのが面倒だという子どもがいる。
掃除を単なる作業と捉えている子どもである。

ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる。
鍵山秀三郎氏の言であるが、名言だと思う。
そこに価値を感じると、拾いたくなる。
価値を感じないと、拾わない。
ただそれだけのことである。
そこは、強制も矯正もできない。
個人の判断である。

価値ある判断の基準。
ものさしを提示する。
感動は、その手助けをする。
本物に触れると変わるというのも、これである。
ただ、ここも示せるというだけで、実際に選ぶのは本人である。

子どもたちに、少しでも価値ある判断基準を示せるようにしたい。

2015年8月5日水曜日

憧れをもつ

一つのことができるようになる。
繰り返す内に、より上手にできるようになる。
当たり前にできるようになる。

次が大切で、より高い目標を示す。
そこに挑戦する。
できるようになる。
当たり前にできるようになる。
次の目標を示す。
・・・・

やがて、終わりがないことを知る。
そうすると、ゆっくり取り組もうと思えるし、常に挑戦意欲を継続できる。
指導者の仕事の一つは、常に子どもが憧れる目標を示せることである。

そのためには、指導者自身が上を知っていないといけない。
下の方でもがいている人も救わないといけない。
幅の広さを要求される。
常に学び続ける教師以外、教える資格がないと言われる所以である。

「這えば立て、立てば歩めの親心」とはよく言ったもので、どのレベルでもこれでよしということはない。
一方で、どのレベルでも不足ということもない。

今もいいのだけれど、もっといける。
教える側が先にこれを持ってしまうと、互いに苦しい。
子ども自身に、先にそう思わせることである。
それにはやはり「憧れ」がキーワードであるように思う。

いいと思うものには感動を覚える素直な感性を持ち続けたい。

2015年8月3日月曜日

動きが高まる体育学習 レベルに応じた手立て

公開研究会が終わっても、研究は続く。
その日の授業が終わっただけで、単元を通して授業は続く。

公開での授業は、ごく一部分を切り取って見ていただいただけである。
本当は、単元全部を通して見てもらえるような機会があれば一番よい。
物理的に無理があるが、それが一番いい。

それでも、授業の後の協議会の学びは、大変に深かった。
たくさんの方々からご意見をいただいた。
初めてお会いする方が中心だが、地元の仲間も来てくれていた。
行政の方、体育の大家の先生、鉄棒指導のスペシャリストの先生もご臨席いただいた。
単なる称賛や批判ではなく、どこが良くてどこが課題か、どうすればいいかという実に具体的な話し合いだった。

もう少しでこうもり振り下りができそうな子どもへの具体的な手立てのヒントがたくさん得られた。
ごく端的にまとめると「レベルに応じて効果的な手立ては変わる」という点である。
当たり前かもしれないが、要はそういうことだった。
つまり、あるレベルの子どもにとって10の効果のある手立てが、別のレベルの子どもにとってはマイナス10の効果、という事態があり得る。
「動きが高まる体育学習」をテーマに部の研究を進めてきたが、これとて一筋縄ではいかないものである。

今回はあくまで連続性の中の一区切り。
竹の節である。
まだまだ伸び続けられるよう、精進していきたい。

2015年8月1日土曜日

率先垂範で見えるものがある

公開研究会では、こうもり振り下りの授業展開を見ていただいた。

この授業は、私自身の憧れからスタートしている。
前にもお伝えしたが、萩谷高史先生のセミナーの映像である。

こうもり振り下り。
萩谷先生の教えた子どもの見せるウルトラCの技の数々。
その中の中心を占めるといえる技が、こうもり振り下りだった。

見た瞬間の感想は、
「あれは、ちょっときつい」
である。
「体の軽い子どもなら・・・」とも正直思った。

しかし、である。
「自分もやってみたい」というのが、本当のところ。
私は元来、単純な性格なので、憧れると熱中しやすい。
「やってやれないことはない」と考えた。

そこで、研究してみた。
色々な本を読んだり、映像を見たりしている内に、気付くことがあった。
多くが、前方(鉄棒にぶら下がった上体での背中の方向、着地の方向)への指導であった。

しかし、着目すべきは、後方への振りであると思った。
予備動作である。
バッティングで言うなら、ミートの瞬間というより、バックスイング。
予備動作の結果として、自然と望ましい動き(結果)が引き出される。

理論的には、正しいはずである。
この通りにやれば、できるに決まっている。

実際に、やってみた。

まさに、陸の上の水練。
実際やると、それだけではうまくできないのである。
着地できるはずが、四つん這いの姿勢で、べたっとマットに這いつくばる。
そして、膝の裏が強烈に痛い。

原因は、軸にあった。
膝裏を軸とした振り子運動であるため、この軸がぶれると、振り子の力が激減する。

そこで、補助をお願いした。
何とか、着地できた。

しかし、膝がうまく外れない。
そこで・・・
次は、膝が痛いのを何とかする。
そこで・・・
今度は、膝が痛くない分、落下しやすくなった。
そこで・・・
・・・・・・・・・・・・・・

こんなことを繰り返して、何とか自力でも着地できるまでに至った。
(上手いとは、到底言えないレベルである。)

自分の経験を通して、何ができない原因かを、実感として掴めた。
そして、途中の危険も知った。
マットは必須。最悪落ちても事故を防げる。
補助はあった方がいい。
安心感で、技の精度が上がる。
「何でここができないのか」に、共感できる。

やはり、自分は泥臭くいくのがいいと感じた。
率先垂範・主体変容。
ここに尽きる。
かっこよくスマートにはできなくても、そこから得られるものが必ずあると実感した。
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