2018年9月30日日曜日

従う清々しさ

素麺塾での学びの続き。

朝早く来て、畳を敷いて拭いたり、道の落ち葉を掃いたりする。
気分は、お寺の小僧である。(実際、観音堂という場所である。)
木漏れ日の中、汗を少しかきながら掃除をすると、清々しい気分になった。

準備の段階で、休憩が入った。
麦茶とスイカをいただきながら、直接野口先生のお話を聞けた。

野口先生が「従う清々しさ」ということをお話されていた。
学ぶ姿勢にしても「自分を無にせよ」とのこと。

ここが、すとんと落ちた。

この日、寺の小僧のような仕事をさせてもらったのは、進んで来ているからである。
従いたくて従ったのである。
完全なる自分の自由意思である。
「道の落ち葉掃きとか地味だし暑いから嫌」とかは全くない。
道を掃いていると、気持ちが「無」になっていく感覚がある。
そうすると、また色々と入ってくるスペースができる。

「それは知っている」と思うことは、学びを阻む。
普段の会話でも、話を聞かないことになる。
例えば夫婦の会話は、成り立ちにくいという。
お互いが「知っている」という勘違いによるものが大きいのかもしれない。

戦後「従う」ということが、激しく叩かれる時代が続いた。
軍国主義への反動である。
同時にアメリカの「個人主義」が良いものとされてきた。
(これも、自由の本家アメリカからすれば、ひどい曲解・誤解である。)
即ち「自分を無にする」ということが、「隷属」と同類に扱われてきた。

そうではない。
進んで従う、というのは、相手への尊敬から発する行為である。
「自分を無にする」とは、すべてから学ぼうという謙虚な姿勢の現れである。
これらは、非常に価値のあることであり、学びの姿勢として主体的である。

進んで従いたい相手がいるか。
いるとしたら、それは素晴らしく幸せなことである。
自分を無にして、万物から学びたいと思えるか。
だとすれば、学びの要素は、身の回りに溢れている。

2018年9月21日金曜日

道徳教育は、高性能ブレーキ

先月の「素麺塾」(野口塾)での学び。
この素麺塾では、まず参観者同士の実践発表等の交流をする。
その後で流し素麺を楽しんで、俳句会、懇親会という流れである。
今回は、幼児教育に携わる方々の集まりで、私立幼稚園の経営者の方が多かった。

今回も自分は、裏方としてかまどの火の番をし、素麺を茹でていた。
そして仕事をしつつも、ちゃっかり中の話も聞かせてもらっていた。

その中で、ある方のこんな話が聞こえてきた。

「高性能な車には、高性能なブレーキが必要だ。
ブレーキに自信があれば、思い切り走れる。」

ここに、なるほどと思う気付きがあった。
思うに、ブレーキには、道徳教育が当てはまるだろう。

道徳の抜けた教育というのは、危ない。
スポーツ界がその最たるものだが、指導者が「勝ちさえすればいい」という思想でいると、ろくでもないことになる。
本物の強豪チームは、周囲への感謝をはじめとする道徳教育を、技能指導同様に大切にしていることが常である。

学力に関しても同様。
自分だけが賢くなって点数を取れればいいという思想は危ない。
どこかで必ず転落する。(そして誰にも助けてもらえなくなる。)
特にこれからの時代、仲間と助け合う「協働」の姿勢が大切である。
集団の問題を自分自身の問題と捉え、解決への手立てを講じられる人間が求められる。
これも、道徳教育である。

私が若い頃わかっていなかったので、一応注釈をつけておく。
「道徳教育」と「道徳科の授業」は、別物である。
道徳教育>道徳科 である。
道徳教育は、学校教育全体で行われるものである。

朝の支度の時間でも休み時間の過ごし方でも給食の時間でも掃除の時間でも、すべて道徳教育が入っている。
国語の授業でも算数の授業でも体育の授業でも道徳科の授業でも、すべて道徳教育が入っている。

例えば、体育の授業は、意図せずとも道徳教育が入りやすい。
器械運動の授業なら、自分ができたから自分だけ突き進むということはなく、大抵、周りの仲間に教える。
できたら一緒に喜ぶ。
これらの一連の流れは、そのまま道徳教育である。
ごく普通の光景である。

算数等でも、これを取り入れていることが多い。
自分ができて満足するのではなく、わからないでいる周りの仲間に教える。
そうすると、お互いの学力が高まる。
双方にメリットがある。
それを実感させれば、それも道徳教育である。

道徳科の授業は、もちろん道徳教育である。
他の教科と違い、道徳的な価値そのものが学習の中心に来る。

例えば算数の「角」の授業なら、その時間は分度器の正しい使い方を身に付けるのが学習の中心。
その学習過程で、当然道徳教育も行われるのだが、指導案に書く「ねらい」の中心はそこではない。
道徳で「走れメロス」を教材にする授業なら、その時間は「友情」「責任」「不撓不屈」等が学習の中心になる。
道徳的な価値が学習内容の中心にきて、かつその学習の過程においても、道徳教育が行われる。
(人の発言を馬鹿にしないとか、授業に真面目に参加するとか、姿勢を正して話を聞くとか、そういうこと全てである。)

話を戻す。
高性能なブレーキとは、道徳教育であると解釈する。
つまり、「自分が自分が」で行きすぎない、止められる力と捉えた。

アクセルは、学力等を含めた本人の能力そのもの。
どんどんスピードを出せるようにするい。
しかし、人や物にぶつかるようでは、いけない。
スピードがよく出る車ほど、高性能なブレーキ、安全装置が必要である。
スピードを出せるようにするほどに、ブレーキの性能も上げる必要がある。

何を教えるにも、ベースは道徳教育。
そんなことを考えながら、夏の暑い盛りに素麺を茹でていた次第である。

2018年9月19日水曜日

子どもは本能的に見抜く

学校のアサガオに水をやっていたら、通りから柵越しに声をかけられた。
この学校の卒業生の方だという、80歳の女性である。
自分もかつて高校で教師をやっていたので、つい声をかけたくなったという。

たまたま出会った方だったが、面白い話がたくさん聞けた。
せっかくのご縁をいただいたので、備忘録も兼ねて、ご縁を生かすつもりでいくつかシェアする。

その女性が、高校で教師をしていた頃の話である。
教室に入ると、すごい剣幕で暴れている男子生徒がいたという。
ある教師に「お前はバカだ」といわれて激昂していたらしい。

そこで、担任であるその女性は、次のようなやりとりをした。
「あなたは人にバカと言われたらバカになるの?」
「・・・」
「じゃ、今私をブスって言ってみなさい。」
「言いたくない。」
「いいから言ってみなさい。」
「・・・ブス。」
「ブスになった?」
「ならねーよ!」
「じゃ、あなたもバカじゃないわ。
 いい、他人に決められることじゃないの。
 自分の尊厳は自分で守りなさい。」

リアルに金八先生である。
体当たり感が素敵である。
体が小さくても、迫力があるとはこういう状態である。
そして、あまり普通は思い付かない対応である。

話を聞いている内に、どうやらかなり哲学関係の勉強をしている方とわかった。
私は「あなた、マルクスの『自省録』読んだことある?」
と聞かれた。
「読んだことありますね。半分ぐらい・・・」
と答える私。
「きちんと読みなさい。何回読んでもいい本よ。」
とおすすめされた。

そう、たまたま、最近読んだような記憶があった。
帰って見てみると、私の「半年以内積ん読コーナー」に入っていて、何か「ぞわっ」とした。
ご縁である。
(という訳で、今は『自省録』熟読中である。)

「子どもは、勉強している先生を、本能的に見抜くのよ。
 勉強して勉強して、子どものために、立派な先生になりなさい。」
と言って、爽やかに去っていかれた。

自分が、勉強する。
それが、子どものためになる。
そうなると、これはもはや職務上の責務でもある。
堂々と「勉強してます」といえるようになりたい。

2018年9月17日月曜日

偉大な常識

8月7日の投稿で『「常識」は敵』という記事を書いた。
自分の中にある常識を疑うべし、という意味で書いた記事である。
これについては、他にもご意見をいただいた。
常識とは、なかなかに定義が難しいものである。

違う視点で、興味深い定義に当たったので紹介する。

『人間にとって成熟とは何か』幻冬舎新書 2013年 曽根綾子
================
(引用開始)
常識というものは常に相手の存在を意識するところにある。
相手はどうでもいい、と思うから非常識が発生する。
(引用終了)
=================

なるほど、こう考えると、常識は必要である。
自分一人で生きていけるなら他人への配慮は必要ない。
しかし、そんなことができるはずはない。

こう考えると、一般的に言われる「常識」が絶対的なものではなく、文化的に規定されることがますますよくわかる。
つまりは、相手主体である。
文化の違う国の人相手には、非常識になってしまいやすい。
また、考え方があまりに違う相手にとっても、互いに非常識である。
世代間格差による非常識も、言わずもがなである。

そこに対し、この本の中では「偉大な常識」という言葉も登場する。
曰くそれは
「普遍的な人間性を表す基準的な何か」
であるという。
それは、心の中にもつものである。

普遍的な人間性。
これを考えるだけでも深い。
ここでは定義しない。
(少なくとも、1リットルのコーヒー牛乳をストローで飲むか云々、というレベルの話ではないことだけは間違いない。)

普遍的な人間性を表す基準をどう置くか。
私のような凡人にとって、高尚なことは難しい。
とりあえず、相手が嫌がることをしないとか、悪口を言わないとか、当たり前のことだけは守っていきたい。

2018年9月16日日曜日

パフォーマンス向上の鍵

学級づくりパーフェクトセミナーでの講師の赤坂真二先生からの学び。

学習成果をもたらす要因について。
学習の成果において、どの要因が重要か。

最も大きな要因は「学習者本人の能力」で、これが大体40%程度。
最も大きい要因なのに、意外と見落とされがちだという。
本人の能力を無視しての学習成果はあり得ないという大前提である。

次点は「関係性」でこれが30%。
さらには「教師期待効果」が15%。
これらは学級経営そのものである。

最後に「教え方」が15%。
いわゆる教材研究や授業研究に当たる部分である。

数値の出典の根拠がどこか聞き損ねたが、実際に考えてみると概ね納得である。

これらは、会社における仕事のパフォーマンスとも共通するという。
本人の能力がまず第一。
次に周りとの関係性。
最後にやり方、テクニックである。

特に、上司との関係性は重要であるという。
他の要素が多少欠けていても、上司のことが好きだと、パフォーマンスの高い状態を保てるという。

教室でいうと、教えてくれる先生のことが好きであるという状態。
好きな先生の教科は好きになるという経験は、誰しもあるのではないかと思う。
例えば私は高校3年生の時、それまでさっぱり興味のなかった地理を一時的にかなり好きになった。
地理そのものというより、地理担当の先生のキャラクターが好きだったのである。

職場でいうと、学年主任や管理職といった上の立場の人が好きかどうか。
これがパフォーマンスを左右する。
嫌だと思う人の下では、思う成果は上がらないということになる。

上司の悪口を言いたくなるのは、古今東西不変のことではある。
しかし、これは良くない結果しか生まない。

主体変容の視点から言って、変えられるのは自分の方である。
相手の悪いところに焦点を当てて見ている可能性が高い。
厳しいのも、いじめられていると思うか、自分のためを思ってくれていると思うかで、全然結果が変わってくる。

子ども集団に力をつけさせるという視点からも、職場の仲間に対する態度や関係性は無視できない大きな要因である。

2018年9月15日土曜日

自治的集団を育むために 担任は「壁」になれ

公開研究会の特別活動部会「教育フェア」での学び。

参加者でグループを作り、「自治」をテーマに悩み等を話し合った。
その中で
「子どものやりたいことをどこまで許容するか」
という話題が上がった。

自治を目指す学級なら、当然子ども発のやりたいことは、やらせたい。
しかしそれが
「学校にDSを持ち込んで対戦していいですか」
なら、学校ルール的にも当然認められない。

「学校でお菓子を食べてもいいですか」
はそのままだとNG。
しかし、家庭科の学習の一環としてなら?
これは工夫次第で可能になる。

「好きなCDを持ち込んで休み時間に聴く」
ならどうか。
これも意見が分かれた。
実際、メジャーな歌はたくさん音楽の教科書にも盛り込まれている。
しかし、音楽というのは、趣味・嗜好の世界である。
しかも、教室という空間にCDで流すとなれば、そこに居る人間には嫌でも耳に入る。
クラシックならいいのか。
メジャーな優しい曲なら?
アニメソングは?
一気に振れて、デスメタルやヘビメタなら?

そもそも、文化という面では同じ漫画等と、同じような扱いにならないのはなぜか?
結局、担任や学校の裁量次第となる。
ただでさえ荒れている学校内で、一部の子どもの趣味の曲を平気でガンガン流されたら、周囲はたまらない。

では、「休み時間にダンスをしたい」
はどうか。
この場合、CDは必須になる。
実際、体育や運動会等では頻繁に用いている。
しかし、教室では静かに過ごしたい子どもも存在する。
つまりは、音楽を流す場合、公共の場であるクラスとしての合意(コンセンサス)が必要になる。
ここは、クラス会議の登場である。

参加したある先生の学級では
「レクとして飴探し競争をしたい」というのが出たという。
粉の中に顔を突っ込んで飴を探してくわえてリレーしていくという、芸能人がお正月番組とかによくやるあれである。

まあ、実にくだらない。
しかし逆に、このくだらなさぶりこそ、実際にやらせてみたくもなるのが担任魂である。

この先生は、必ず「企画書」を書かせるという。(私もそうである。)
「道具の準備と費用はどうするの」「小麦アレルギーはどうするの」「やりたくない子はどうするの」
とどんどん企画の不備を突っ込んでいく訳である。
子どもは、その課題をどんどん越えて、解決策を考えてくる。
そして後日、晴れて実施と相成ったという。
(みんな顔が真っ白だったらしい。)

やってることは馬鹿みたいだが、そこまでやる情熱は見上げたもので、ある意味知的である。
こういう子どもたちは、将来逞しく生き抜くことと思う。

色々話し合った結果、
「担任が壁になる」
というのが大切ではないかという結論にまとまった。
要は、自治的集団というのは、継続的に問題を解決し続ける集団である。
何かを実現したい時に、ただやりたいからやるのではなく、起こりうるあらゆる問題を想定し、乗り越えていく。

だから、担任は、子どもがやりたいと言ったことを無条件にOKするのではなく、壁になって立ちはだかる。
ここを引き返す程度の情熱ではダメということ。

乗り越えさせる。
壁も、最初は低く、鍛え上げてきたら、徐々に高くしていく。
そうやって、自治の力を育めるのではないかという話になった。

意識の高い人が集まっただけに、面白い話し合いになった。
参観者同士でAとBから新たなCを生み出す、という過程を体感できた教育フェアでの学びだった。

2018年9月10日月曜日

個人面談の極意

赤坂先生からの学級づくりの極意(裏)シリーズ。
今が多分どこも旬の「個人面談」の心構えについて。

なぜ(裏)かというと、懇親会中に得た学びだからである。
実は、懇親会の情報は、大抵質が高い。
全体に向けての外向きの飾りをする必要がなく、本音だからである。

曰く、個人面談は、そのまま面談だと思わないこと。
「個人〇〇」という、他のサービス業だと考えた方がよい。
そこに入る言葉は、自分の技量とねらいによって変える。

もし「カウンセリング」ができれば素晴らしい。
これにはなかなか技量がいる。
アドバイスではなく、相手の悩みへの傾聴に徹する必要がある。
共感の力も必要である。

「コンサルタント」はどうか。
これも難しい。
家庭教育の「経営」に対する助言、指導をし、方針を示してあげる。
もしもできるだけの専門性があるなら、やってもよい。

〇〇には、サービス系の接客業でもいいのである。
特に口ベタで話を聞く方が得意な人は、こちらの方がよい。
保護者は、わざわざ暑い中、時間を作って学校に出向き、会いに来てくれるのである。
いうなれば、時間的空間的コストをかけている。
そんな中で苦労してやってきて、説教されてはたまらない。
労いの言葉をかけるのは当然である。
「来て良かった」と思ってもらう方に全力を尽くす方がよい。

また、面談では喋りが得意でないといけないと思っている若手も多い。
これは大きな勘違いで、喋りの技術は、聞く技術に比べると、かなり少なめでよい。
学校での様子を、聞かれた分だけ答える必要はあるが、大抵は担任の喋りすぎである。
喋りたい気持ちを我慢できるかどうかの方が大切である。
(大抵「アドバイス」は求められない限り、上から目線に思われがちである。)

最後に、自分がここまで経験して感じている「禁じ手」を紹介しておく。
それは、学級での「ダメなところ」を逐一伝えることである。

大抵の親は、我が子の至らない点を知っている。
高学年になればなるほど、知っている。
(一年生の場合は、単に学校になじめているかの不安が大きいのかもしれない。)

善良な親は、「自分が至らないせいだ」と思っている。
そんな訳はなく、子どもは一人の人格をもち、育て方ですべてが決まる訳ではない。

立場を担任に置き換えてみればわかる。
学級の子どもに、不得意なことや、社会的に見て望ましくない何らかの性質があるとする。
しかし、それは本人の性質の一つであり、教育でどうにかなる面ではないかもしれない。
それを「すべて担任のせい」と思われてたらどうか。
保護者に、同僚に、管理職に、「どうにかできるでしょ」と言われたらどうか。
かなりやるせない感じである。

それぐらいの構えで、保護者との個人面談に臨んだ方がよい。
保護者と担任は、共通の目的をもった仲間である。
苦労を共にする仲間である。
個人面談は苦労を共に労い、場合によってはこれからの戦略を練る時間である。
間違っても、担任が保護者に言いたいことを言う時間ではない。

仲間意識をもって、個人面談を互いに気持ちの良い時間にしたい。

2018年9月9日日曜日

労働時間が長いから疲れるのか

今週末のセミナーに関連して、労働時間に関して。

労働時間が長すぎるというのが、常に多忙の槍玉に挙がる。
これは本当か。

実際、多忙かどうかは、労働時間の長さの問題ではない。
疲労感や多忙感は、本人の感じている「やり甲斐」の問題である。

やり甲斐の感じられない作業に従事することは、例え1分でも苦痛である。
逆に、やり甲斐や達成感を感じられることであれば、何時間でも没頭できる。
子どもが大好きなゲームをやっているのと同じ状況である。
研究者など、その典型である。

やり甲斐は、作業内容そのものには存在しない。
取り組む本人の姿勢が全てである。

例えば、算数の授業をする場合を考える。
とりあえずその時間をやり過ごしている人がいる。
その教材の内容や解き方を教えている人がいる。
思考法そのものを鍛えている人がいる。
仲間との協働を通して、生き方の基本を教えている人がいる。
「将来の日本を支える人材育成をしている」と考えて授業をしているかもしれない。

これらの人を比べれば、同じ時間を過ごしていても、その充実感は全く異なるものになる。
仕事を、面倒なものとしてみるか。
意味のあるものとしてみるか。
同じ作業に従事していても、この差はとてつもなく大きい。

「ブラック部活動」問題も、あくまでブラックなのは強制的で否定的な場合である。
顧問の中には、休みを返上してでもぜひやりたい、という場合だってかなりある。
別に残業100時間を越えても全く構わない人と、規定時間内でもへばってしまう人がいる。
ここが混同されがちである。
あくまで、やりたくない人に実質無給で無理矢理やらせて休みを返上させている状況が、ブラックなのである。

これは、夏休みの宿題の在り方の話にも共通する。
例えば、本校の1・2年生では、自由研究等の素晴らしい作品がたくさん出た。
ちなみに、必須課題はゼロ。(学年とは別に保健室から出た「歯磨きカレンダー」だけは必須であったが。)
出品するかどうかも本当に自由である。

そうして蓋をあけると、相当数の作品が出品された。
見れば、かなりの時間を費やしたと思われる作品がかなりある。
親の温かいサポートもあっての合作である。
作った本人たちも、満足そうである。

この場合、とても多くの時間をかけて大変であっても、徒労感はない。
自らの意思でやった、あるいは、最終的に熱中して「はまった」からである。
これを仕事と考えた時、「多忙感のある長時間労働」には当たらないといえる。

作業時間・労働時間というのが、最も客観的な数値データとして把握しやすく、「過労死」の原因として説得力がある。
数値が評価の物差しとして使いやすい。
成果主義の評価方法と同じである。
だから、槍玉に挙がる。

実際は、ここだけ見ても、部分的な解決にしかならない。
一番は、やり甲斐の問題である。

今度のセミナーでは、労働時間の短縮の話以上に、教師の仕事にやり甲斐をもつには、ということについて話をしたい。

2018年9月6日木曜日

働き方改革セミナー

来週の土曜日に開催されるセミナーのお知らせ。

9月15日(土)13:00~
『1冊プレゼント★忙しい教師のための超「仕事術」セミナーIN明治図書』
https://kokucheese.com/event/index/528408/

俵原正仁先生と私とのコラボ企画である。
同じシリーズの仕事術本の出版記念ということで、お声をかけていただいた。

俵原先生といえば、プロレスと、ももクロ。
仕事と趣味の、両方を最高に楽しんでいる先生である。
エネルギーの塊のような方である。

私はどちらかというと、趣味は多いが、そこに没頭はしない。
さらにいうと、スポーツ観戦やアイドル等のマスメディア情報には、かなり疎い。
そのあたり、私とは対照的な先生である。

私は基本、あまり活動的とはいえない。
時間があるなら、ぼーっとするか、読書をしたい。
アウトドアなイメージをもたれるが、結構インドアである。

共通しているのは、自分の時間が欲しいから、仕事の効率化を図っている点である。

子ども相手の仕事だからこそ、手は抜けない。
しかしだからこそ、力のいれどころは押さえる必要がある。
なぜなら、時間は有限で、やることは無限だからである。
やることの精査と効率化が必須である。

捨てることの決定と、やることの要領を得ることが必須である。
仕事の能率化は、実はマインド9割。
やっている人の実例を見るのが最も早い。

エンターテイメント的に来ていただいてもいいと思う。
私も参加したことがあるが、俵原先生の講座は、楽しい。
私の方は、最近学級経営系の話が多かったので、今回は仕事術そのものを話す。

働き方自体に無駄が多すぎるというのが主張の一つ目である。
やらなくてもいいことまで、爽やかにがんばりすぎていないか。

忙しさの根本的な原因は、すべて人間関係にあるというのが主張の二つ目である。
先生には「いい人」が多い。
いい人は、何かと搾取されやすいのである。

働き方改革法案が決定したところで、一緒に考えていきませんか、というお誘いである。

2018年9月4日火曜日

温かくしつける

赤坂真二先生からの学び。

温かくしつけるということについて。

しつけるというと、厳しいイメージがある。
厳しいの対義語は甘い。
しつけが甘くては意味がない。
となると、やはりしつけは厳しくするものといえる。

しかし、厳しいと冷たいを混同しがちでないか。
二つは別の次元である。
冷たいの対義語は温かい。

冷たいしつけになってないか。
温かいしつけになっているか。

厳しくも温かいしつけは存在する。
しかし、厳しく冷たいしつけが多くなっていないか。

二つはどう違うのか、冒頭の言葉を聞いて考えてみた。

電車で騒いで動きまわってる2、3歳ぐらいの子どもがいる。

スマホをいじりながら
「じっとしてろって言ってんだろ」
と睨む母親。

抱き寄せてじっと目をみて
「電車では騒がないのよ」
と、穏やかに、かつぴしりと諭す母親。

言ってること自体はあまり変わらない。
しかし、明らかに効果は変わる。
子どもの思考の働きが全く異なる。

前者は、本能的な恐怖によるしつけである。
怒られる恐怖による統制。
思考の働きは不要である。

後者は、理解と愛情によるしつけである。
なぜそう言われるのか、考える余地もある。

また、動機も温かと冷たさに関わる。
子どものためを思っているのか。
単に、自分が周りの目を気にしているのか。

学級でもそのまま適用できる話である。
教師のための学級経営は冷たい。
教師の見栄ための公開授業も冷たい。
子どものためと言葉で偽り、自分の出世の道具にしているのは最も冷たく、汚い。

しつけは「躾」と書く。
身を美しくするものである。
生き方を美しくするものといえる。
子どもの人生を思ってなされるものである。

それは、冷たいか、温かいか。
言動一つ一つに対し、時々自省していきたい。

2018年9月2日日曜日

日常的問題解決集団にする

公開研究会での赤坂真二先生からの学び。
そこからの気付き。

これからの時代を生き抜くための資質・能力とは。
子どもに何の力を育てるべきか。

問題解決集団に育てることであるという。
つまり、問題を自分たちの問題と捉えて動く集団である。

ここについて、自分が考えたことを述べる。

例えば、いわゆる「荒れた」学級では、ここができていない。
子どもは、自分の所属する学級がめちゃくちゃなことに問題は感じている。
しかし解決に動こうとしない、あるいはできないのである。
担任は解決に乗り出しているが、集団の助けがないため、力及ばずということになる。
つまり、ここに至る前までに手を打たないと、手遅れになるということである。

私は、子どもたちにしばしば次のようなことを伝える。

「けがをしていい。
次に大きなけがをしないよう工夫すること。
人のせいにしないこと。
なるべく自分で手当てすること。
無理なら助けます。」

「けんかしてもいい。
次にけんかをしない方法を考えること。
相手のせいにしないこと。
なるべく自分たちで話し合って解決すること。
無理なら助けます。」

日常生活で、こういった指導をしている先生は多いと思う。
一方で
「けがさせない」
「けんかさせない」
ことに力を使いすぎている実態もあるように思う。
問題を、すべて先生のものにしてしまっているのである。

これでは勿体ない。
トラブルを全て未然に防ぐ方法は、いうなれば
「温室栽培」
である。
蘭のような花には必要な手立てかもしれない。

しかしながら多くの子どもの人生は、大自然で生きるイメージである。
大自然は、美しいだけでなく危険も多い。
地震や今回の洪水のような、恐ろしい事態もあり得る。
生き抜くために何をすべきか、自分たちで力を合わせて考える必要が常に出る。

だから、助け合わないといけないのである。
一人では解決できないことが出る。

だから、いつでも人を助け、親切にするのである。
助けることを当たり前にしておく必要がある。

だから、いじめはだめなのである。
安全・安心面からも根本的にだめな行為だが、助け合う素地を著しく損なう。

日常的に問題解決集団にしておく。
そこの上に、クラス会議のような話し合い場面を設けて、その力を発揮する場でさらに鍛える。

クラス会議だけ一生懸命やっていてもうまくいかない時は、その素地ができているか見直す必要がある。

日常的問題解決集団にする。
先生が何もかもやってあげすぎないことが肝である。
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