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2020年8月19日水曜日

「すぐに役立つ」は「すぐに陳腐化する」

タイトルは、アジア太平洋大学学長の出口治明氏の言葉。

(出典:出口治明が語る「リーダーが学ぶべき教養」 Audible)


ちなみにこれは、学生がプログラミング言語を習得するに際しての言葉である。

科学の進歩は、日進月歩。

大学を終えるまでにプログラミング言語を修得しても、それは既に使えなくなっている。

(iPhoneなど、コンピューターは新機種が続々出ることを例に考えるとわかるという。)


一方でリベラルアーツ(「一般教養」と訳されるが正確な定義なし)は、即座に役に立つことはない。

ただ、即座には役立たない広汎な学びが、後々にどこでどう役に立つかはわからない。

「専門馬鹿」にならないためには、必要なことである。


学校教育の世界においてこそ、これは言える。


「テストに出る」や「受験に役立つテクニック」は、即座に使える。

しかしながら、受験後や学校卒業後に使えるかというと、そうでないものが多い。


一方で、テストには出ないが興味をそそられるものもある。

卒業後には、先生が授業中に横道に逸れた時の、どうでもいいような話ばかり覚えているものである。


それで、それが後々に役立たたないかというと、そうとも言い切れない。

長い人生の中で、広汎な知識の何がどこでどう役立つかは、わからないのである。


学校では、テストの点数に直接反映しないものの方が、大切なことが多い。

例えばあいさつができることや礼儀正しいこと、掃除へ真摯に取り組む姿勢などは、テストの点数にはつながらない。

授業中、何のために今学んでいるのかを考えない方が、点数が取れるということも往々にしてある。

公式を違和感なく丸暗記してしまえる人と、納得いくまで考えないと使えない人では、後者の方が点数に結びつくまで時間がかかる。


しかしながら、これらのことの方が、長い目で見ると役立つことが多いのである。


「即座に役立つ」というのは、インスタントである。

促成栽培的な教育を考えると、この方が能率がいいように思えてしまう。

子どもの理解どうこうは置いておいて、小学校でもとにかく知識先行で詰め込む。

点数も取れて、安心という訳である。


ただ、そういう方法で学んだ知識は、剥落しやすい。

短期のテストだと点数に出るが、大きな実力テストだとイマイチ、というのは、この辺りに原因がある。


じっくり時間をかけて学んだことは、本質的に身に付きやすい。

また自らの興味から学んだことは、強く記憶に残る。

よく親からは「〇〇ばかりやっていて心配」という声が出るが、子どもが殊更に何か集中していることがあるなら、万々歳である。


(ちなみにこの○○について、ゲームは無条件には当てはめらないことが多い。

多くのゲームは、作り手が刺激となるエサを次々に用意して提供し続けているからハマるのであり、子ども発の本質的な集中力とは異なる。

脳科学的には「報酬系」というものを刺激し続けて依存を引き起こしている状態である。

「報酬系」をエサとして与えられているだけか、そうではないのか、どういう熱中の仕方をしているかという本質が大事である。)


教育する側にも当てはまる話である。


「こうすれば上手くいく」的なノウハウは、短期で結果が出ることがあるので、満足しやすい。

しかし、そこから本質的なことを学べないのであれば、害悪の方が大きい。

「以前はあれで上手くいった」ということに拘り始めるからである。


「ほめる教育」などは、その典型である。

言葉自体が甘くポジティブで、かつ即座に効果が出るので、良いものだと鵜呑みにしやすい。

しかしこれは間違えて使い続けると、取返しのつかない大やけどになる。

という記事を書いたこともあるが、あれである。

(参考記事:「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる プレジデントオンライン


本質的には、ほめることが大切なのではなく、何をどうほめるか、が大切なのである。

「的確にほめる」というのは、実はかなり難易度が高い手法である。


教育者が学ぶべきは、ノウハウよりも、教養である。

他者を変えようとする研究よりも、自己を変えるための修養である。

バランスではあるが、やはり学校の研修現場を見ると、他者改善のノウハウの方に力を入れているように思えてならない。


すぐに役立つは、すぐに陳腐化する。

心に留めておきたい言葉である。 

2020年8月17日月曜日

知能の発達はやりたいことから

今年度に入ってから、学活の時間を3学級分見ている。

それぞれの学級で当番活動や係活動を設定し、どの学級でも生き生きと過ごす子どもの姿が見られる。


一番「生きてる」感じがするのは、係活動(通称「会社活動」)の時である。

各会社では「理念」を掲げ、「自分たちはどういう思いで、どんな貢献をするのか」が宣言されている。


先生方や学級の仲間にインタビューをし、新聞記事にまとめている子どもたち。

花紙や折り紙等を休み時間もせっせと折り続け、教室の飾り付けに余念がない子どもたち。

「コリントゲーム」の箱作りに燃える子どもたち。

掲示物の位置やら、何をどう掲示すると良いのかに頭を使う子どもたち。

立派な「宅配依頼ボックス」を完成させたものの、利用者の少なさに頭を抱えて悩む子どもたち。


どの学級の、どの姿も面白くて、「学校で生きる」とはどういうことかを考えさせられる次第である。


さてそんな折、次の本からインスピレーションを得た。


『からだとこころを創る 幼児体育』 伊東昭義 著 NHK出版


一見「体育の本」のようにしか見えないが、中身はどちらかというと、教育心理学や自然哲学である。

現在フォトグラファーでもある著者が、自然に最も近い「からだ」と「幼児」に着目した、という次第である。


この本の、次の文章が自分の中にひっかかった。


=================

(引用開始)

知能が発達するということは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめることです。

幼児の行動を、親が「いけません・いけません」……と、おさえつけてしまうと、子どもの欲求は満たされませんから、

たちまち情緒不安定におちいることになります。

(引用終了)

=================


ここでいう知能の発達とは、「育ち」そのものである。

前号で書いた「教育」の「教える」と「育つ」の関係である。

「いけません」は、「教えて」いて、過剰な禁止は「育ち」を阻害する。

こうなると、早合点で「教えるのはいけない」となるのだが、そうではない。


全てを教えてはいけない訳ではない。

赤信号で渡れないことは、何がなんでも教えるべきである。

全てをおさえつけるのではなく、失敗しても回収できそうで、命の危険が伴わないなら、やらせてみるということである。


さてこれは幼児教育のことかと思いきや、大人にも適用される話である。


大人の方も、いくつになっても知能は発達する。

しかしながらこれは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめていれば、という話である。


自分の考えも、自分のしたいこともわからない。

こうなると、大人も知能の発達が止まっているということになる。


どうすればいいのか。


これこそ、幼児や、小学校の子どもたちに倣うべきところである。

子どもたちの、あの元気いっぱい、そして落ち着かなさはどこからくるのか。

それは「好奇心」である。

未知のものへの飽くなき欲求である。

特に乳幼児には、見るもの全てが新鮮で、面白いことだらけである。


小学校でも、落ち着かない子、動きまわる子ども、空気を読まない言動をする子どもはかなり多い。

分類すると何かの病気のように扱われるが、実は好奇心が強くて、心身ともに健康な証拠である。

フル回転で知能が発達し続けているからこそ、落ち着かないし、よくしゃべるのである。


常識的な大人から見たら信じられないほど馬鹿なことをやってしまうのも、同様である。

(私は小学生の時分、「書けなくなったボールペンのインクは、温まると溶けるから書けるようになる」と信じて、

ファンヒーターの吹き出し口にそれを何本もつっこんで、ありえないほどボールペンを変形させたことがある。

下手すると、火事一歩手前である。やはり安全面だけは、きちんと見てあげた方がよい。)


大人の我々も「こんなことやったら面白いかも!?」と思いついたら、やってみること。

多分、周りの人には「いけません・いけません」と言われるようなこと。

「大人の常識」的に考えて、失敗するから反対される、拒否されるようなこと。

これらのことに挑戦していく中で、知能は発達すると考えられる。


惰性的に生きていては、知能の発達はない。

それでは、死んでいないだけで、生きているとはいえない。


正しいと思うことを教えるのも、大人の大切な役割である。

ただ「宿題をやりなさい」は正しいかもしれないが、言う側も今現在真面目に宿題をやっていることが、言う側の資格の大前提である。

話がやや逸れるが、「宿題はやる意味があるんですか」の子どもの問いかけへの、イチローの答えが秀逸である。

「大人になったら、やりたくないことでもやらないといけないことが多い。そのための練習。」

と答えていた。


自分は惰性的に生きていて、子どもに将来のためだの夢だのを説いても、空虚である。

夢を追い続けている人が言うからこそ、「教える」にしても説得力があり、言葉に命が宿る。


毎日、たくさんの子どもに会える立場だから、断言する。

子どもは、素晴らしい。

間違いなく全員、素晴らしい。

それぞれが素晴らしい知能をもち、その発達途上である。

しかし、子どもの前に立つ大人たち、周りに見える大人たちが、必ずしもそうであるかは、別である。


大人に、自分の考えや心の底からしたいことがあるか。


この大前提に立ち、子どもにものを言える立場か、それを言うべきか否かを判断すると、誤りはないように思われる。

2020年8月7日金曜日

教えるが大切

昨日、8月6日は広島原爆忌、9日が長崎原爆忌で、15日が日本の「終戦の日」である。

これについて、小さな子どもたちは、当然知らない。
小学校高学年でも、知らないことが多い。
歴史の授業でしか出てこないからである。

また通常、8月のこの時期は夏休みである。
よって、「今日は広島原爆忌です」などと話す機会もない。
今年度は例外的に登校している地域があるので、ある意味話すチャンスかもしれない。

知識については、教えないと知ることができない。
今回、この重要性を改めて問いたい次第である。

ところで、戦争に対する戒めを込めて平和記念像が全国各地に立っている。
千葉県にも「東京湾観音」という高さ56mの巨大な像が立っている。
東京湾から世界の平和を願い見守って立っている白い観音像である。
この像を建立したのが宇佐美政衛という人で、教育に関して次のような言葉を残している。

可愛くば
二つしかって
三つほめ
五つ教えて
良き子育てよ

しかる、ほめる、教える。
どれも必要と認めた上で、その比重まで言及している。
子どもに対する時のこのバランスは、確かにそうだと思える。
見事である。

教えるというのは、やはり普遍的に重要な要素である。
自ら考える子どもを育てる上でも、ベースとなるのは、やはり教えることからである。
私も、これまでたくさん教わってきているし、今でも教わっている。

教えるべきを教える。
これがあって、初めて考える基礎もできる。

1945年の8月に原爆が二つ投下され、それを機に日本が終戦の宣言をしたこと。
これは、教わらないと知りようがない。
だから、子どもたちには、教え伝えていくことが必要である。
子どもたちがオープンになった世界に出た時に困るのは、英語が話せないことよりも、自国の歴史について語れないことの方である。

東南アジア諸国や韓国、中国の人と話す際に、自国の歴史についてどう考えているかと問われたら、どう答えるか。
アメリカの人と話す際に、「真珠湾攻撃についてあなたはどう考えているのか」と問われたら、どう答えるか。
あるいは様々な国の人に「日本人として原爆投下についてはどうお考えですか」と問われたら、どう答えるか。

どういう立場でどんな論に立つにせよ、こういったことに歴史的背景を交えて応答できないとしたら、それは教育の責任である。
教えてこなかった、あるいは教えるのを避けてきた教育の責任である。
教えることを避けることで、考える機会を与えてこなかった教育の責任である。

教えるべきは教える。
十分に学んだその後で、考えることは自然と始まる。

しかるとほめるについては、今回は言及しないが、兎にも角にも「教える」が先に来るということ。
これだけは何にも増して重要なことである。
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