2012年12月29日土曜日

いじめ認知件数急増について

先月、新聞に、全国のいじめ認知件数の記事が出ていた。
半年間で昨年度の2倍だという。

記事にもあったが、いじめが2倍に増えている訳ではない。
認知件数が2倍である。
意識が上がったと肯定的な捉えである。

以前、メルマガで紹介した主張が、そのまま記事にも出ていた。
いじめが起きることそのものを否定する風潮が変わってきたと。
「いじめのない学校」のスローガンが時代にそぐわない。
いじめは起きるから解決しようという時代の流れである。
いじめがない学校ではなく、いじめを予防・解決できる学校が求められる。

ちなみに、認知件数第1位は鹿児島県、次いで第2位は千葉県。
鹿児島県約3万1千件、千葉県は約1万6千件と、ダントツの1位2位である。
普通に考えると、あまり名誉なことではない。
しかし、鹿児島県と千葉県は、いじめが多いのではなく、調査意識が高いと評価したい。
発見することが解決の第一歩だからである。
(調査方法が全国で全く一致しないので、数値として当てにならない面もあるが。)

警察との連携が不十分という指摘もあった。
学校内で抱え込みすぎると。
責任をとろうという姿勢はいいが、外部機関との連携も必要である。

今後、調査方法も統一され、更に意識が高まることを期待する。

いじめは起きる。
起きる前提だから予防の態勢がとれる。
この認識がいじめの被害を軽減させる第一歩である。

2012年12月27日木曜日

ちょっといい話「アサガオの花」

全然季節感がないが、いい話を知ったのでシェアする。
次の本からである。

「きみはなぜ働くか。渡邉美樹が贈る88の言葉」
渡邉美樹著 日本経済新聞出版社

ある植物学者が語ったアサガオの話である。
アサガオは、日光が当たると咲く。
だから、一日中日光を当て続ければ、アサガオが早く咲くのではないかと実験を行った。
しかし、これだと、逆に花が咲かなくなった。
何が花を咲かせる要因なのか、研究を進めていった。
すると「夜の冷気と闇」がアサガオに「さあ、花を咲かせる時間だ」というサインを送っていると分かった。
アサガオは、このサインの後、日光を浴びると花を咲かせる。

人間も同じである。
物事を成そうとする時は、必ずこの「夜の冷気と闇」に包まれる時間がある。
それがあるから、チャンスが来た時に成功できるのだと。

全てのことに通じる話ではないだろうか。
あらゆる場面で、子どもに語れる。
今ならちょうど合唱やマラソン練習中の学校も多いだろうから、そこにも当てはめられる。
発表会や大会が、日光の差す日である。花開く日である。
花開く為には、厳しい練習や困難(冷気と闇)に耐える必要がある。

この話は、いくらでも応用できる。
「ピンチは、チャンス」という言葉にもつながる話である。

2012年12月25日火曜日

国家意識を教育する

今日は、クリスマスなのに、いつも以上に真面目な話である。
宗教に関係なくクリスマスを祝う国だからこそ、今日書いてみる。

ある勉強会で「国家意識を教育せよ」という話があった。
直感で「何だか危ない話だ」と思った人がいるかもしれない。
でも、そういう風に感じてしまうこと自体が、日本の病巣かもしれない。

今回の勉強会から、自分の考えたことをシェアする。

日本は危機的状況にある。
1000兆もの借金を抱える中の被災地復興、領土と自衛、国内の諸問題。
いつの時代も、問題は山積である。
しかし、だから子どもにどうこうできるかと言えば、できない。
大人にだってすぐに手が付けられないのである。
関心を持つことは大切だが、子どもに危機感を持たせても意味がない。

子どもは、安心させてやる必要がある。
安心させるには、守る存在が必要である。

では、子どもは誰に守られているのか。
当然、読んで字の如く「保護者」である。
多くは「親」だろう。
その親も、自分の暮らす地域社会に守られ、生活している。
地域社会も、市や県といった単位の大きな社会によって守られている。
では、県も含む大きな社会を守っているものは何か。

国、つまり国家である。
国家には「家」という字が入る。
家なのである。
英語でいえば、「ホーム」である。
帰るべき場所である。

誰しも、国家に守られている。
国家は、国民を愛し、守る。
国民も国家を愛し、守られる。
当然の関係である。

子が親を、親が子を愛するのは当然である。
こういう「当然のこと」がいくつかあり、そこが揺らぐと全てが崩れる。
だから、当然のことは当然なのである。
議論不要である。

子どもの通う「学校」という社会では、子どもは先生を敬い真剣に学び成長する。
それに対し先生は子どもを真剣に愛し教育する。
至極当然であり、その為の機関である。
(尊敬されるよう、教師は人一倍努力する必要があり、子ども側もそれに応える努力が必要だ。)

市政は市民を第一になされ、市民は市に税金を払い、自分の市や町を愛するため行動する。
お祭りなんかもその一つだろう。
互いに、真剣にやる。
どれもこれも当然のことである。

国民は国家を愛する。
どの国でも当然なされている教育である。
自分の国が嫌い・誇りを持てないというのは、自分自身への否定につながる。
世界の子どもの自尊心アンケート調査の結果が、それを如実に物語っている。
日本の子どもがそこで世界ダントツ最下位なのは、社会のせいである。
つまり、学校教育の責任である。

国を愛する心を育てる。
国家意識を教育する。
戦時中の「国のために死ね」という歪曲した愛国心教育とは、意味が違う。
純粋な、人間として当然の教育の意味としてである。

外国直輸入のクリスマスを祝いながらも、日本人としての誇りは持っていたい。
クリスマスを幸せに祝えるのも、日本国民だからこそである。

2012年12月24日月曜日

仕事術の要点「びっくりさせない」

このメルマガのタイトル「教育観と仕事術」に沿って、たまには仕事術の話を。

一緒に仕事をしていて、安心・信頼できる人はどういう人か。
一言で言うと、安定感のある人である。
本人の安定感があるので、周りの人も安心する。
予定などもよく頭に入っていて、先が見通せているから、メンバーも見通しを持てる。

逆に、疲れさせる人というのは、びっくりさせる人である。
どういう人かというと、いきなり「明日までにこれやって」と仕事を振る人である。
明日ならまだましで、締め切りが「今日」「今」という人もいる。

仕事だから、やむを得ず緊急対応になることもある。
いじめ問題の初期対応などはそうだろう。
しかし、そうでないものを、このようにふってはいけない。

特に「○○主任」と名の付く地位の人には、絶対の鉄則である。
例えば、何かの行事の準備が必要な場合。
職員会議の提案時に予定として盛り込むのが常識である。
いきなり今日とか明日とかいって動員するのはルール違反である。
(ちなみに、カタイことを言うと、校長以外の人間が勤務時間を過ぎての仕事を命ずるのは違法である。
しかしこれが職員会議で通っているのなら、校長の承認を得たのと同義である。)

いきなり言われた相手は、びっくりする。
退勤する予定だった人は、大抵用事が入っているものである。
(そうでなきゃ、だらだら残業しているはずである。)

しかし、仕事のことである以上、無視して帰る訳にもいかない。
悔しいが、従うことになる。
命じた側は鈍感で、大して感じていない。
「みんな真面目ないい人達だなぁ」ぐらいに思っている人もいるかもしれない。

残念ながらこういう人に仕えている人は、我慢するしかない。
対立すれば、余計苦しむことになりかねない。
本当は、もっと上の立場の人が諭してくれればいいのだが、そこは期待できない。
修行だと思って耐えるしかない。

もし自分が、人を使わねばならない立場なら、この「びっくりさせない」を徹底する。
そのためには、見通しである。
1週間は勿論、1ヶ月、1学期、1年と活動の見通しを持っておく。
例えば体育主任をやる時は、体育部員用に1年分の活動計画を一緒に提案する。
何月何日までに誰が何をするまで、第1回の体育部会で決める。
そうすることで、自分もメンバーも見通しを持てるし、予定が立つ。

また、予定を伝えたからといって、確認を怠ってはならない。
締め切り1週間前には「あれ、進んでる?」3日前には「できた?手伝おうか?」と声かけをしておくと確実である。
仕事を振られたメンバーは大変な思いで仕事しているのだから、リーダーはそれぐらいはすべきである。
1度予定を伝えたからといって、締め切り日になって初めて声かけするのでは、リーダー失格である。

びっくりさせていいのは、お化け屋敷やマジック、プレゼントのような、面白い、嬉しいびっくりだけ。

長くなったのでここまで。
特に何か命令する立場にある人には、必須の心構えである。

2012年12月22日土曜日

忘年会の意味

年の暮れ、忘年会シーズンである。
昨日やった学校も多いのではないかと思われる。
さて、忘年会とはどういう意味、意図を持って行われるものか。

一般的には「その年の労苦を忘れる」ためと解される。
辞書にもそう載っている。

しかし、職業人として、本当に労苦を忘れてしまってはいけない。
次に生かせず、「例年通り」になってしまう。
労苦や失敗は、成長の為に覚えておくものである。

私の好きな作家の一人である中谷彰宏氏は、何かの本で次のようなことを述べていた。
「忘年会は、忘れた感謝を伝える会だ」
つまり、その一年で、伝え忘れた相手への感謝の気持ちを、労いながら伝える会である。
愚痴大会ではなく、感謝大会である。

そう考えると、年賀状も同じである。
疎遠になってしまっている相手に、あなたへの感謝の気持ちは忘れていませんよと伝える機会である。

そういう考えで臨むと、忘年会への参加姿勢も少し変わるかもしれない。
感謝の気持ちをきちんと伝え清算して、新しい年を迎えたい。

2012年12月20日木曜日

サンタクロースってほんとにいるの?

子どもに、「先生、サンタっているの?」ときかれたら、どう答えるだろうか。

昨日、次の本を読み聞かせをした。

「サンタクロースってほんとにいるの?」
作 てるおか いつこ 絵 杉浦 範茂 福音館書店

子どもが問いを発し、父親がそれに答えるという形式でお話が進む。
たとえば、
「何で来ない家があるの?」
「それはね、病気の子どもの家で、話し込んでいたからじゃないかなぁ」
というような感じで、子どもの素朴な疑問に父親が答えていく。

見開きの左が問い、右が答えのページなので、私は右半分を紙で隠しながら読み聞かせをした。

その後に「サンタを見たことがある人?」ときくと、誰も見たことがないとのこと。
続いて、
「見えないものは存在しないのか?」
「自分が見たことがないものは存在しないのか?」
と問いかけた。

子どもからは「空気は見えないが、ある」「恐竜は誰も見たことがないが、存在したらしい」
というような意見が出た。
私は「他人の気持ちは?」「今考えていることは?(思考)」
「地球が回っていることは?」「宇宙の果ては?」
というようなことも付け加えた。

要は、「自分が『知識』として知っているか」どうかでしかない。
自分の目で確認したかどうかは、問題にならない。
常識なんて、そのレベルである。
だから、昔は地球の周りを天体が回っていた。
今だって、本当に地球が回っているのか、私は直接見たことがない。
真実は、目で見てもわからない。
見たからわかるものではないし、見てないからわからないものでもない。

最後に、次の詩を読んだ。
「星とたんぽぽ」  金子みすず

著作権の関係で、詩の全文は載せられない。
ここでは「昼の月」と「根」について書かれている。
この詩が伝えたいことは、また違うような気もするが、見えないものが大切で、つよく存在する、ということは同じだろう。

サンタがいるかいないかということで討論しても、不毛である。
宗教上の問題にもなるかもしれないので、そこはあえて突っ込まない。
しかし、信じる、信じないは、その人が幸せな方を選択すればよい。

子ども達が幸せなクリスマスを迎られたらいいなと思う。

2012年12月18日火曜日

「嫌な人」は「嫌な役割」の人

「嫌だな」または「苦手」と思われている人がいるとする。

この意識はどこからくるのか。
これは、自分の苦手なもの、避けたいものを持っている人である。

管理職が嫌な場合。
権力に弱いのかもしれない。
または、自分が上に立ちたいのかもしれない。

口うるさい人が苦手な場合。
自分がだらしない面があるのかもしれない。
自分の中に、本当は良くないと思っている面があるのかもしれない。

苦手な人というのは、要は「痛いところ」を突いてくる相手である。
劣等感を暴かれる。
相手に正当性があるほど、やり場がなく、憎しみがわくという面もある。

発想を転換する。
その人は、「嫌な役割」を自分の代わりにもっている人かもしれない。
または、自分の中の直すべき面を、教えてくれている人かもしれない。

学級担任で考えてみる。
いつも優しくて、何をしてもにこにこして受け容れてくれるA先生。
規則に厳しく、悪いことは見逃さないB先生。

A先生は、母性が強く、B先生は、父性が強いともいえる。
自分は、どちらに近いだろうか。

そして、自分は逆の立場を任されたら、うまくやれるだろうか。
恐らく、ほとんどはうまくいかないはずである。
人にはそれぞれ適性があり、役割がある。

「悪役のいない芝居じゃ、誰も見ませんわな」とは、松下幸之助氏の言である。
光と闇は、セットである。
表と裏は、切り離せない。
必ず、逆の役割が必要である。
その「嫌な部分」を、担当してくれている人かもしれない。

いつも他の職員に率先して子どもを叱っている生徒指導の先生は、大変である。
その先生は、恐れられる。
子どもから見たら「嫌な人」の役割を担う。
(一方で、「信頼できる」という評価がつくこともある。)
そして、その先生がいなければ、どうなるかも想像がつく。
泥をかぶる人が、必要だ。
さらに、その後フォローをする役割の人も必要である。

何でも、見方次第である。

2012年12月16日日曜日

「困る子」は、神様のお使い

特別な支援が必要な子どもへの配慮は、それ以外の子どもにとってもありがたいものである。
だから、面倒でも対策をとれば、逆に後で楽になる。

クラスの「困る子」がいたら、神様からのお使いであると考える。
その子どもは、自分にヒントをくれている。
困るということは、自分の弱点をついている。
弱点が明らかになる訳である。
そうすれば、対策も立てられる。

『「困った子」は「困っている子」』という言葉もある。
教師も困っているが、子どもも困っているのである。

子どもの側が自然に変わってくれるということは期待できない。
解決するには、教師の「主体変容」である。

神様からのお使いを歓迎し、弱点を克服していきたい。

2012年12月14日金曜日

授業中には「気晴らし」を

ずっと同じ姿勢でいると疲れる。
黙っていると、しゃべりたくなる。
子どもも大人も同じである。

講義をずっと座って黙ってきいてるのは辛い。
だから、授業中はこまめに活動を入れていく。

授業中に「班で話し合いなさい」という指示をすることがある。
以前にも紹介したが、野口芳宏先生曰く、最大のねらいは「気晴らし」である。
話し合いで、素晴らしい解が発見されたり、考えが変容することは、期待しない。
話し合いをしたところで、考えは変わらないのが人間の性である。
私もそのつもりで、よく「気晴らし」を入れる。

「全員起立」
「教科書の○○を指で指します。隣と確認。」
「友達にききにいきなさい」
「全員で読みます」
「書けたら見せにきます」
「机を班の形にしなさい」
「拍手」

どれも、最大のねらいは、気晴らし。
声に出したり動いたりすれば、血流もよくなるし、集中力が続く。
動く口実を与えてやる。
特にADHDの子どもなどは、あえて立ち歩けるような口実を意図的に与える。
手伝いを頼んだりお使いに行かせるのもその一つである。
○つけなど、教師が机間巡視して行う風景もよく見るが、持ってこさせた方が子どもにとって運動になる。
どういう意図かによって、教師が行くか子どもが来るかを使い分けた方がよい。

また、ちょっとした雑談であえて横道に逸れるのも、あくまで集中のための手段である。
笑いが入れば、その後で集中力が高まるという面もある。
(往々にして、戻ってこれなくなるのが難点だが。)

子どもが集中しなかったら、その原因は活動不足にあるかもしれない。
定期的に点検が必要である。

2012年12月11日火曜日

自主学習の質を上げる方法

宿題を集めて見る。
みんなやっていることだと思うが、結構大変である。
漢字練習ぐらいなら、誤字を見て○をつけるだけだから大したことはない。
これが「自主学習」のように、内容も多様になると、見るのに更に時間がかかる。
また、私は放課後に振り返りの日記も見ている。
どちらも、コメントを入れるとなると、かなりの時間がかかる。

時間を短縮して、かつ子どもが意欲的に宿題に取り組める方法はないか。

最近使っているのが「コンテスト方式」である。
朝、自主学習を班内で見合う。
「最低二人はコメントをしてから提出」という約束にする。
やはり、せっかくやったからには、なるべく多くの人に見てもらいたいと思うからである。
全員だと時間がかかりすぎるので、二人ということにしてみた。
その後、班内で最も「みんなの参考になる」と思う一つを選ぶ。
それ以外のものは、提出する。
選ばれた一つは、朝の会の間、教室全体で回し読みする。
コメントをしたかったら、書いてもよいことにしている。
私の学級は8班あるので、8冊が回っている状態になる。

これにしたら、自主学習をやる子どもが増え、内容の質が上がった。
やはり、たくさんの人に見てもらえるという方が、モチベーションが上がるのかも知れない。
逆に、もともとちゃんとやれない子どもに、これが効果的かどうかは疑問である。
しかし、他のすばらしいものを参考にするので、取り組み方は学べる。

やり方は色々あると思うが、最近うまくいっているので、紹介してみた。

2012年12月9日日曜日

学校は法治国家

最近受けた研修会と勉強会で、それぞれ違う先生が共通のことを話されていた。
それは、学校が国と同様に「法治国家」であるということ。
法治国家には、法律とそれを破った場合に対する裁判所や警察が必要である。
法治国家には必ずこれがある。

学校はどうか。
法律。
学校教育法からはじまり、学級独自のルールも必要で、これは教師が作るものと子どもと相談して作るものがある。

裁判所。
学級会で話し合うこともあるだろうが、これは教師集団が直接指導することによって代わる。

警察。
子ども達も互いに注意はしあうが、どうやっても自衛団レベルである。
これは、教師が担うしかない。
「教師が裁判官や警察になるべきでない」という人もいる。
ある面、正しい。
独裁者であってはならないだろう。
しかし、法にそむいて国民に被害を与えるものを放置しては、無責任である。
時に警察の役割を担わねば、信頼されない。

嫌かもしれないが、そうすることで、治安が保たれ、平和と安全がもたらされるのも事実である。

最初から「放置国家」では、学校、学級は成り立たない。
ニコニコしていれば平和が成り立つものではないというのも、厳しいが現実である。

2012年12月6日木曜日

大松尾帝国憲法にも一分の理


前回紹介した大松尾帝国憲法指導案。
お陰様で反響をいただき、ありがたい限り。

ところで、この憲法、無茶苦茶ながら、一分の理もある。
授業でも、「この憲法でいい」という児童が少数派ながら存在した。
また「一部ダメだけど、あとはいい」という意見もあった。

どういうことかというと、「国民の意見をきかなくていい場合もある」ということである。

極論、命が関わる場面では、上からの命令をきく方が安全である。
個々がバラバラに動くと危ない。
学校での集団避難時には、命令に従い、一人残らず全員が安全に逃げることだけが目的である。
リーダーが「どうやって逃げようか?」などと民主的にやってたら被害が広がるだけである。
集団が迷う場合、リーダーの決断で動くしかないのである。

もう一つは、集団の質が低く、秩序が保たれていない時。
リーダーが畏怖の念を抱かれながらでも、まずはしっかり統率する。
社会なら、犯罪を犯せば、拘束される。
民主主義下においても、自由権が制限される訳である。
日本国憲法にもそう規定されている。
公共の福祉に反さないことが、基本的人権の尊重の条件である。

だから、学級がルールを平気でやぶる集団なら、帝国憲法の方が安全だという訳である。
集団の質が高まったら、だんだん民主的にしていく。
子どもからも似た意見が出た。
当然きくべきことをきかないなら、厳しくすべきだという意見である。
一分の理があると思う。
だから、大松尾帝国憲法を見た先生は、「これ、うちの学級かも」と思う人が多いはずである。
秩序が保たれない内は、どうしても「先生君主」でないとうまくいかない。
むしろ、君主にすらなれないで困る人の方が多いようである。

先生君主でやっていくと、一見うまくいく。
最初の内はこれでいい。
しかしこれであぐらをかいていると、国民(子ども)の水面下に不満がたまってくる。
爆発するのが、翌年の担任の時があるので、注意しなくてはならない。

だんだんと民主主義、日本国憲法側にシフトしていけるよう、学級集団の質を高めていきたい。

2012年12月4日火曜日

クラス憲法作り実践報告


先日、校内授業研があった。
私は社会科の公民で「クラス憲法作り」の授業を行った。
以前紹介した、有田和正氏の実践の修正追試である。

一通り憲法の学習を終えた後の、まとめ、発展として行った。

簡単に説明すると、次のような流れ。
1 憲法カルタ(歴史人物カルタの要領)
2 日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いを確認
  (国民中心と天皇中心)
3 「大松尾帝国憲法」の提示で、内容の良し悪しを問う
4 日本国憲法をもとに、クラス憲法を作ることを確認
5 全員で1つ条文を作る(作り方の共有化)
6 班で相談しながら自分で作る
7 班で読み合い、良いものを班で1つ黒板に書く(班→全体での共有化)
8 発表し、クラス憲法として良いかどうかの検討
9 次回以降の作成の手順の確認
  (同じような条文を作った者同士で検討
  →全体発表と検討
  →3分の2以上の賛成条文は可決)

実際やってみて、次のような感触であった。
1 憲法の基礎知識があったからこそ成り立つ
2 「憲法カルタ」が知識の定着に効果的
3 教師のモデリングが大切(例を予め作っておく)
4 算数の問題解決学習と同じ要領でできる
5 作ったものは学級で実際に採用するということで、切実感と興味・関心を持って取り組める
6 憲法をよりきちんと読み込むきっかけになる  

また、講師の先生より次のような貴重な指導をいただいた。
憲法は他の法律のもととなる最高法規であり、意味が重たい。
「憲法」は実際には作れず、クラスで作るものはあくまで「ルール」であることを改めて教えること。
そして、全国には様々なイデオロギーを持つ方がいるので注意すること。
(憲法、国旗、国歌、領土等の扱いは特に注意。)

そう考えると、大きな公の場での発表は難しい実践かもしれない。
(私はそんな機会がないので心配ないが。)
しかしながら、クラス憲法作りを通して、憲法学習の理解は深まる。
そして、無味乾燥になりがちの公民学習に興味を持つきっかけにはなる。
事前調査で興味なしとされた憲法も、興味ありの方向に転じた。

課題もあるが、手応えのある実践にはなった。

なお、指導案の送付を希望される方は、メルマガ登録後、メールをいただければ、添付して送付するので、遠慮無くどうぞ。

2012年12月2日日曜日

人生の先輩から見れば

先日、俳句の会に出席した。
俳句の会は、ご高齢の方がほとんどである。
平均年齢も恐らく65歳を下ることはない。
人生の先輩が集う会である。

そういう会に出席すると、現役の教員などは、みな「若造」どころか「子ども」である。
「少年時代」という語が出た時に、「この方々のような・・・」と言われた。
(我々とて、みな少年時代は20~30年前に終了している。)
若くみてもらいありがたいような、急に子どもに戻ってしまったような、複雑な気持ちである。

そこで、ふと思った。
我々、特に小学校教師は、子ども集団の中で仕事をしている。
ともすると、すごく偉くなった気になってしまう。
しかし、社会的にみれば、まだ人生の序盤の若造である。

以前に紹介した「人生時計」という話がある。
この長寿社会、人生仮に96歳まで生きるとしたら、24時間にすると1時間が4歳。
32歳ならまだ朝8時、48歳でもまだ正午である。

何か、わかった気になってしまわず、常に謙虚に。
そういうことを教えていただいた気がした、俳句の会であった。

2012年12月1日土曜日

道徳 杉原千畝 「六千人の命のビザ」

今回も、反応の多い道徳の授業ネタを。
なぜ反応が多いのかというと、恐らく道徳の授業が苦手な人が多いからではないかと思う。
何をしたら良いのかわからない人も多いだろう。

道徳授業にも様々な手法がある。
「ロールプレイング」などは、かなり広まっている手法である。
(ちなみに、この手法では絶対子どもに悪役をさせてはいけない。
本人も周りも、本当に悪い奴になった気がしてしまう。
悪役が必要なら教師がやる。)
他にも、討論型、ディベート型、説話(語り)型、自己内省(書く)型等々。
手法自体は無数にある。

誰にでもできる最も簡単な手法は、「読むだけ」というもの。
読むだけで道徳的価値を揺さぶられるという、何とも有り難いものである。
条件が一つだけある。
どんな資料でも良いというものではない。
いわゆる「力のある資料」の使用である。
これを探すこと自体が手間だが、ここをクリアすれば、授業はかなり安定して行える。
力のある資料の場合、ぐちゃぐちゃきくと逆効果なので、発問等は一つあれば十分である。
なくてもいい。
たった一つのポイントは、ゆっくりじっくり資料を読むことである。
誰がやっても、安定した授業効果が出る。

タイトルにあるのは、オススメの資料である。
杉原千畝の「六千人の命のビザ」。
今更紹介するのも憚られるが、6年生か中学生の担任に、特にオススメである。
副読本にある場合もあるし、インターネット上にも資料や実践が山ほどある。
読めば納得・感動のかっこよさである。

歴史で戦争単元に入ると、自虐的な話が多くなり、日本人としての誇りのような面が非常に落ちる。
ここはやはり、当時の日本人の良いところを紹介したい。
東郷平八郎や杉原千畝、石原完爾など、戦時中に気概と誇りを見せた日本人を紹介する。
そうすることで、日本人としての誇りを持たせたい。
この時期に教えるのに、ちょうどいい資料になる。

また、これは意見が分かれそうだが、私は基本的に道徳の資料は子どもに音読させない。
力のある資料の使用の際は、特にである。
教師が読んだ方が、話に集中できて入りこめる。
子どもに順番に音読などさせると、初見であるため、途中どうしてもつっかえる。
すごく音読レベルが低い子どももいる。
集中が途切れる。
音読指導が目的ではない。
そこの指導は、国語科の専門であって、道徳のメイン指導項目ではない。
話をじっくりきいて、自己を内省しながら話に入り込める方が大切である。

道徳の力のある資料については、また紹介していく。
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