2022年1月17日月曜日

「自分が好き」な子どもになるには

 道徳の授業で「ぞうさん」(まどみちお 作)を扱った。

誰もが知っている有名な童謡である。


A「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」

B「そうよ かあさんも ながいのよ」


命のつながりが基本テーマなのだが、アイデンティティにも関わる話である。


まず、誰が誰に向かって言っているのかを問うた。

Aの発話者が誰でBの発話者が誰かという話である。


まずAで意見が分かれた。

Aが「ぞうの友だち」なのか「動物園に来ている人間」なのかで割れた。


これはどちらにもとれるが、とにかく「本人が象ではない他者」である。

もし本人も象なのであれば、「おはながながいのね」の問いかけは不自然になるためである。


Bは「ぞうの子(子ぞう)」であるという解釈が一般的である。

Aで「ぞうさん ぞうさん」と呼び掛けており、「かあさんも」と答えているためである。


要するに「ぞうのかあさんから生まれた子どもだから、私も当然鼻が長い」のである。

親が象以外の生物であれば、鼻が長いという特徴は遺伝しない。


象は象から生まれ、人間は人間から生まれる。

命がつながっているとは、そういうことである。


Bは、極めて肯定的な返答である。

「いいでしょ、えっへん」という感じすらある。

存在への自己肯定感である。


まどみちおさんの詩には、このようなものが多い。

例えば『くまさん』という詩がある。

冬眠から目覚め、寝ぼけて自分が誰だったか忘れてしまったくま。

水に映った自分の顔を確認して思い出し「自分がくまでよかった」と締めくくる詩である。



命のつながりへの意識をもつことは、祖先への感謝をもつことでもある。

祖先の誰か一人でも欠けていたら自分が生まれていないということへの畏敬の念を抱くことでもある。


せっかく頂いた命、奇跡の確率で生まれてきた自分を大事にする。

これが、なかなか難しいようである。


「自分が嫌い」という子どもは、少なくない。

表面的にスタイルで答えているのではなく、本当にそう思っている子どもが結構いるのである。

大人ならもっと多いかもしれない。


これは、根源的に不幸を生む。

存在を否定すること以上に辛いことはない。


この強い意識は、大きく二つの方向へ行動を促す。


一つは、自分と他者を傷つける姿勢である。

自分と同様に他者も無価値化しようとする。

いじめや暴力・暴言の類はこの姿勢が表出したものといえる。

SNSで他者からの称賛を求めたり批判するのもこの意識からである。

自分の存在を肯定している人間であれば、他者からの称賛への関心をもたず、他者への攻撃もしない。


もう一つは、自分自身の「できる」を追い求める姿勢である。

「できる」「役立つ」ことにより自分の存在価値を高めようとする。

しかしこれはどんなに成果が上がっても、根源は満たされない。

自己有能感による他者への優越感は、同時に危機感と劣等感を生み続けるからである。

(=○○ができない自分には価値がない。)


一見優等生が突然「プツッ」と切れたように無気力化するのもこれである。

私が「100点をほめるな」と言い続けているのはこのためである。


これらは、大人にこそ当てはまる。

大人の姿勢が子どもにそのまま映る。

なぜなら「命はつながっている」からである。


子どもが自分を嫌いな根本は、大人が自分を嫌いだからという可能性がある。

子どもへ「自分大好き」を求めること自体は間違っていない。

しかし、それ以前に大人である私たち自身が、自分の存在への肯定をする必要がある。

それができない以上、子どもが自分を好きになることは難しいし、他人に優しくなることも難しい。


何かがある・ない、できる・できないに関わらず、自分がそこに存在していていいという感覚。

なぜ自分がそう思えないかを自問することで、見えるものがあるかもしれない。

2022年1月15日土曜日

学校の在り方を見直す

 教員対象の学習会において、保護者対応に関する悩みを持ちかけてくる人は多い。

一方で、保護者の側へ悩みを聞くと、学校の「謎ルール」への不満や悩みが多い。


次の記事を参考資料に考える。


『学校が恐れる"わが子ファースト親"の異常行動 小・中・高を"保育園化"させる元凶』

プレジデントオンライン 鳥居りんこ


この記事にも書かれているような問題は全国各地に存在する。

一方で、学校の側にも問題があって、この記事にもあるように、「転ばぬ先の杖」だらけで、過保護すぎるのである。

過剰サービスが行き過ぎた結果、本来必要な業務の方ができていないという本末転倒な事態である。


以前に何度も紹介した「恩恵は権利に変わる」を地でいっている。


これらの対応には膨大な時間がかかる。

そこで、ここには学校ごとに、様々な人が関わる体制をとっている。


例えば学校カウンセラーに悩みを打ち明けて解決していることがある。

生徒指導主任や、場合によっては管理職が主に対応しているところもある。


担任は双方にとって当事者すぎて、うまくいかないことも多いのが現実である。

このような体制は、担任にとっても保護者にとっても、とても助かるものである。


働き方改革において「チーム学校」という言葉が出てきた。

これをただのお題目にしないことが大切である。


また学校は、子どもが失敗しながら学ぶ場である。

失敗を見守り、時に手を差し伸べて立ち上がる手助けをするのが子どもに関わる大人の役割である。

「転ばせない」という方策は、長い目で見て大怪我のもとである。


働き方改革のためには、学校の在り方の改革が必要である。

学校は子どものための機関であるという原点に立ち返る必要がある。

学校の本分は教員のための場ではないし、保護者のための場でもない。

すべての子どもの成長のための場である。


それが子どものためになるのかどうかという視点が外れてしまっている部分が見受けられる。

学校の「謎ルール」も「過剰サービス」も、その点から見直しが必要である。

保護者に求めるところもあるだろうが、それ以上に学校の在り方そのものの方を先に見直すべきである。

学校の「保育園化」は、学校の過剰対応が引き起こした結果である。

「You reap what you sow」(自分で蒔いた種は自分で刈り取る)のことわざ通りである。


過剰サービスの行き着く先は、全員にとっての泥沼である。

どこからどこまでが、各自の責任、守備範囲なのか。

学校の在り方の根本的な見直しが必要である。

2022年1月12日水曜日

学習と振舞い

 広義の意味の「学習」について。


人間は学習する。

学習により、どのように振舞うべきかも決める。


最優先に来るのが、身の安全である。

安全を確保するための振舞を学ぶ。


組織の人間であれば、多くの場合、正しいことを通すよりも、保身が先になる。

自分の身の安全が優先される。

安全・安心を感じない組織ほど、そうなる。


子どもたちも同様の学習をする。

まずは身の安全の確保が最優先される。


正しいことをしていれば守ってもらえるとわかれば、その行動を選択する。

一方で、正しいことをやっても損をするだけだとわかれば、その逆をいく。


卑近な例だと、騒げば注目されて得をするなら、騒ぐ。

粗暴な振舞をしている方が有利な立場に立てるとわかれば、そのように振舞う子どもが増える。


一方で、粗暴な行為を適切に抑制されるようだと、その行為は減る。

集団内に安全と安心が確保されると、他人のための行為や自己を高めるための行為が増える。


一般社会であれば、警察や消防といった公の機能への信頼感である。

盗んでも何をしても捕まらない、あるいは無罪放免になる社会であれば、犯罪は増える。

日本は警察の機能がしっかりと強いからこそ、外を安心して歩ける。

いざという時は消防や救急隊が控えてくれているからこそ、万が一があっても何とかしてくれると安心できる。


そして、安全・安心が確保されていると感じるほど、人にも優しくなる。

親切な行為も増える。

人への思いやりをもつには、自分に余裕があることがベースである。


子どもはそこをダイレクトに学習する。

正しいことが正しいと評価される社会であれば、正しい行為が増える。

勉強をがんばれるのも、勉強へのがんばりが報われると信じられるからである。


成長において最も大切な関係は、子ども同士の関係である。

しかしながら、そこをサポートするベースとなるのは、親や教師といった大人の作る環境である。

ここが子どもの振舞い方を決定する。

何を評価し、何を良しとし、何を認めないかである。


その環境で、何を学習しているか。

子どもが学習していることは、実は大人が自分たちで学習していることの反映である。

大人が自分の環境で学習しているパターンを振り返り、改善していく必要がある。

2022年1月10日月曜日

揃えるをやめる

学校教育において、本当に目指す児童像とは何かを考える。


本来は、各校の学校教育目標にあるような児童のはずである。

大体が

「生き生きと学ぶ」

「自由で創造的」

「表現力がある」

「個性を生かす」

「自分が大好き」

「自ら進んで」

「他人を思いやる」

などの言葉に表現されるところである。


では、実際に学校教育がそうなっているか。

残念ながら、そうなっていない現実がしばしば見られる。

お題目を声高に叫ぶほど、真逆になりがちである。


実際の学校において求められがちなもの。


「従順」

「もの覚えがいい」

「再現力がある」

「黙っててきぱき動ける」

「疑問をもたない」

「規律を守れる」

「空気が読める」


といったところである。

集団管理にとって都合のよい要素が多いように感じる。

これらの要素が多い子ども集団は、管理しやすい。

そしてそれらの要素は、学校教員そのものの在り方にも直接反映している。


実際、現在の学校の多くは独創的な子どもを育てる場になっていないようである。

多くの大学の附属学校や私学とて例外ではない。

一条校(学校教育法第一条に定めれた学校)として、現在の学習指導要領に則れば、そうはならないことは明白である。

それを見限った人たちが、オルタナティブスクールなど自由な教育カリキュラムを組める場へ流れてしまっているところがある。


なぜこうなってしまうのか。

教員の中には、強い情熱をもち、子どもを自由に生き生きと教育したいと願っている人が数多くいるにも関わらず、である。


根本にあるものは、先の集団管理優先の風潮である。

独創的で個性的なことをやると、嫌がられたり批判されたりする風潮がある。

「はみ出る」ことを教育委員会はもとより、学校も教員も保護者も良しとしない。

それを喜ぶのは、子どもたちだけである。


管理職が「NO」と言ったことは当然認められないが、それ以上に、教員は同僚間をこそ気にする。

学年主任に「揃えて」と言われたら、揃えざるを得ない。

その学年主任に対しては、他学年や保護者から同様の要望が来る。

たとえそれが時代遅れであろうが、あまり良いとは思えないことであっても、である。


それを言われたら、もう止めて周りに合わせざるを得ない。

自分一人ではできない仕事が多い以上、教員間の和を乱してまでやるメリットはないし、できない。

それが教員のリアルな世界である。


子どもの苦しみも同種である。

揃える、みんなと同じであることを求められる苦しさ。

テストで測定されるのは独創性ではなく、定められた動作の再現性である。

さらに子どもの場合、特定の基準でランキングされる苦しさが伴う場面も多い。


子どもがここから解放されるためには、先に大人が解放される必要がある。

子どもに自由にさせられないのは、そもそも教員にその権限がないからである。


権限がないため、結果的に、先に挙げたような管理優先の考えで子どもを教育でなく管理する羽目になる。

自分も心から望んでいないことを他人にするのだから、辛いのも至極当然である。


暗い話が続いたが、ではどうすればいいのか。

これにはもう「揃えない」の一言に尽きる。

「○○はこうだから」(=常識)を、誰も一切合切言わないことである。

違う人間が違う人間を教えて、違う人間同士が集まっているのに、隣と同じように揃う訳がない。


正方形や長方形の図形ばかりなら並べて敷き詰められる。

しかし実際は多角形やら円やらそれに当てはまらない形やら、てんでバラバラである。

人間の規格が揃っているという前提自体が異常である。


「揃えよう」は、一昔前に価値のあったことである。

例えば軍隊では、揃っている方がいい。

例えば機械が行うような定まった動作を命令通り繰り返す人間が必要なら、揃っている方がいい。

今現在、それは無価値化し、要らないはずである。


「ここだけは揃えた方がいい」をどれぐらい捨てられるか。

学校は、始業時間のようにどうにもしようのないことをはじめ、それだらけなのである。

せめてやり方や進め方ぐらい、独自性を認めたいところである。

掲示物の位置とかどうでもいいことを揃えているから、他のどうでもいいことも揃えたくなるのである。


教員が揃えるをやめる。

教員の揃わないを認める。

混迷を極める現在の学校現場に、何よりも優先して提言したいところである。 

2022年1月8日土曜日

平等と能力主義

 昨年は「ジェンダー平等」が流行語大賞トップ10に入ったという。

日本での意識が高まったと捉えられる。


日本のジェンダー平等への意識の低さは国際的にも知られたところである。

これから是正されるべき点である。


一方で、学校文化において男女平等というのはなかなか進まない。

文化的な面においても、身体的な面においても両者には差がある。

その差があること自体を否定するのもまた違う。


平等の行き着く先を考える。

男女でも何でもそうだが、平等の行き着く先は、個人の能力の差である。

これは能力主義であり「メリトクラシー」と呼ばれる。

「merit」=「業績、功績、価値、実力」による「-cracy」=「~による支配」である。


男女を全く無視して能力だけで見た時、身体的な差への配慮も排除される。

これは平等な社会といえるかという問題が生じる。

ジェンダー平等の目指すところは、ここではないはずである。


各種試験というのが、能力主義の典型である。

結果には納得のいく形になるかもしれないが、これだけの世界というのは恐ろしい。

全てが能力で決まる世界では、一部の強者以外は自分らしく生きてはいくことが認められない。


学校においても、ここへの判断は難しいことがある。

能力だけで何かの選抜をすると「全部男子」「全部女子」という事態が起き得る。

ここの能力的な結果に、男女の発達の差が絡んでいないのかどうかは、悩ましいところである。


では差を埋めるような配慮のある公平ならいいのかというと、そこも難しい。

例えば給付金と年収に関することが問題になっているが、あれは「公平」に対する不満である。

累進課税制度が本当に公平といえるかどうかである。


学校教育においても、価値観は変動するし、何が平等で何が公平なのかは変わる。

常に何がよりよいものなのか、追求し続け考え続ける必要がある。

2022年1月6日木曜日

教育を不自然にしない

 前号では規格品文化からの脱却ということを書いた。

規格品とは、工場製品である。

人間をこれに当てはめることの不自然さに気付くことである。


不自然ではいけない。


教育は自然のままにしておかないことである。

ただこれは、手入れをするということであり、自然のまま野放図にしておかないということである。

手入れはしても、育てるのはあくまで自然の力である。

化学肥料や農薬などの各種薬物を入れて育てることとは全く違う。


売り物にする花たちは、飾って観賞するために作られる。

だから、売り物のバラや菊を無理に無農薬で栽培する必要はないかもしれない。


一方、人間が食べる場合はどうか。

農薬がたっぷり使われたものを食べたいか。

成長促進剤をたっぷり使われたものを食べたいか。

そんなの嫌に決まっている。

人間も生き物であり、取り入れるのも自然のものが本来だからである。


教育も、人工的な変なものに囲まれすぎていないか。

自然に学ぶ、自然から学ぶという視点を欠かさないことである。

個々人の自然な発達というのがある。

GIGAスクール構想が進んだからといって、人間の発達としての自然な学びの必要性がなくなる訳ではない。


過度な習い事や受験勉強もそうである。

本人が望まないのに、点数を競わせて無理をさせて詰め込むようなものは不自然である。

不自然な育て方には、いつか必ずボロが出る。


病気になった時も、免疫機能で直すのが自然である。

薬は毒でもあり、風邪薬を飲むというのは根本的治療になり得ない。


頭痛薬も同じである。

薬効により一時的に痛みを取り除いてくれるという点では、モルヒネ等と同じである。

それで一時的に助かるのだが、頭痛になる根本的原因をどうにかしない限り、その症状はつきまとい続ける。


教育現場においても、薬を使うことがある。

抽象的な意味合いとしてだけでなく、実際に使うこともある。

しかし、それで症状がおさまることによる弊害の大きさについては、常に疑う必要がある。


「定型発達」も「学齢別」も、本来的には不自然な考え方である。

個々人バラバラなのが、自然である。

スーパーマーケットに並んでいる野菜のような人間だけが「正しい」訳ではない。


自然が基本である。

人間は自然そのままだと自分たちが困るから、色々と工夫する。

しかしその目指すべき方向は、自然に逆らうのではなく、自然と共存する方法の模索である。

2022年1月4日火曜日

規格品文化からの脱却

前号で「やめる」ことの大切さを書いた。

業務の断捨離である。

「まだ使える」「高かった」は、とっておく理由にならない。


大抵の保護者は、学校への疑問や不満がある。

特に校則の増える中学校以降は顕著である。


これまで教員も含めた数々のルールへの不満を聞いてきて、多くの場合における共通点がある。

それは「そうする理由がわからない」である。

合理性に疑問符がついているのである。


一方で合理性があると思われるものには、不満の声が上がることはまずない。

例えば「廊下を走らない」などといった決まり事(マナーに近い)は、安全な集団生活を送る上において合理的である。

(誰もいない廊下ならいいのかという議論は起きるかもしれないが、やたら例外規定を作るとルールが複雑・煩瑣になる。)


例えば「靴下は白」というルールに合理性があるか。

これは、様々な理由をつけても、正直かなり苦しい言い訳に聞こえる。


では、なぜこのような不合理なルールが存在するのか。

「かつて必要だった」からである。

先の「高かった」と同じで、かつて価値があったのである。


戦時中、あるいは高度経済成長期、命令を聞く、統率、ミスのない動きに高い価値があった。

「揃える」の能力に高い価値を置いた時代があったのである。

ここでは制服の靴下は白がいいに決まっている。

同一規格品として、揃うからである。

(別に揃うなら他の色でも構わないが、決めたのが白なのである。)


ちなみに、白にたとえ一本のラインが入っているものでも、これは×である。

商品でいえば「規格外」であり、売り物にならない。

規格品なのだから、完全統一のみである。


かつて価値のあった「みんな」「揃える」という「規格品文化」(松尾造語)が根幹にある。

私も経験があるが「みんな遊び」「みんなで揃えて」をを確かに推奨していた時期がある。

(今は避難訓練に関することなど、絶対必要なこと以外はほぼやらない。)

時代の変化による価値の変化である。


規格品文化では「並べる」「比較」に付随して「ランキング」がある。

規格品同士で並べると、違いがわかる。

理想の基準に近い、似ている者は優れている。

そうでないものは劣っている。

定まった基準があるから、序列がつく。



こんな規格品文化の価値観が、ダイバーシティをうたう今の世の中に必要かという話である。

時代錯誤も甚だしい。

戦時中とか工業化時代の価値観である。

今の社会で生きている子どもや保護者からすれば、不合理に見えて当然である。


問題は、その理由を問われた時の、学校側による

「そういうルールなので」

というダメな切り返しである。


もしそれを言うなら併せて

「こういう合理的な理由からこのルールがあります」

が必要である。

学校へ不満をもたれる所以である。

相手にルールを守らせるのだから、合理的にきちんと説明する責務がある。


余談だが

「シャープペンシルか鉛筆か」

問題については、両者は実際目的と用途、機能が異なる物であり、並べて比較するものではない。

クレパスと色鉛筆ぐらい違う。

(伝わるだろうか。)


小学校は単に筆記具を使って書く場ではなく、書くことそのものを学習する場でもある。

よって、ここで互いの主張を争ったところで、永久に議論のずれが生じることは避けられない。

「書ければ同じ」という主張と「書くことの学習のため」という主張は、論点が違う。

議論が平行線なのは、合理性以前の問題だからである。


話を戻すと、要らないものを思い切って切ることが大切である。

お互いに余計な負担をかけるだけのものは、なくす方がよい。

無思考に慣例に従うのは、人間のロボット化への道である。

逆に、よく考えずにやたらと騒ぐのも、人間の動物化・野生化であり進化と逆の方向である。


合理性をもって判断し、不要なものは切る。

学校のあらゆる規格品文化からの脱却を切に望むところである。

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