2016年5月30日月曜日

6割のやる気を生かすリーダーシップ

熊本の地震直後にメルマガで書いた記事。

被災地に対し、助けたい気持ちはあるけど、具体的にどうしていいかわからないという人が多いと思う。
さっと動ける行動力のある人の割合は、圧倒的に少ない。

そういう時に、指導者は大切である。
単純化して2:6:2の法則に当てはめるなら、6割の人は指導者次第で有効に働く。
国のリーダーシップの発揮どころである。

学級も同様。
例えば学級で問題がある時。
6割の子どもは、何かしたいと思っている。
しかし、動けないのである。
どうしていいか迷っている。
そこに光を指し示す人を「指導者」という。

学級では、指導が大切である。
任せるという行為も、あくまで指導の結果。
いきなり「任せた」では、ただの放任である。
やり方を教えて、応用できるようにさせる。
そうしたら、安心して任せられる。

特に非常時は指導が大切である。
集団をまとめるのは指導者の役割。
いくらアクティブ・ラーニングが主流であっても、そこは外せない。
集団のリーダーを育てるのもやはり指導者である。

熊本に話を戻す。
今、ボランティアをしようという人が溢れている。
やる気はあるのに、うまく配属されていない様子である。
トップがリーダーシップを発揮して、有効に生かして欲しいと願う次第である。

2016年5月28日土曜日

親が「言えばわかる」子どもなどいない

タイトルは、私が連載させていただいているプレジデントオンラインの記事である。
http://president.jp/articles/-/17854

言えばわかるなら苦労はない。
学級経営でも同じである。
言わないよりは言った方がマシという程度である。

では、どう伝えたらいいのか。
言うは易く、行うは難し。

行うことである。
逆説的に言えば、子どもは背中しか見ていない。

何度も紹介しているが、ザルツマンの「蟹の本」の一説。
蟹のお父さんが息子に一言。
「お前はどうして横にしか歩けないんだ。」
「お父さんがまっすぐ歩いてくださったら、そうします。」
というような話。
イソップ童話が元らしいが、教育の本質を突いている。

何度も同じことを言いながら、自分も同じことをしていないか。
時々自省する必要があるように思う。

2016年5月26日木曜日

自信がなくなる時には

セミナーに出ての気づき。
ほぼ自分についてのエッセイなので、時間のある方だけお読みいただきたい。

同年代の3人の方が登壇するセミナーに参加してきた。
いずれも一緒に講座を開いたことのある教師仲間である。

どの人の話を聞いても「すごい」「ここまでやるのか」「さすが」というものばかり。
「三者三様」とはまさにこのことである。
そして全然違う三人の共通点は「子どもが確実に成長している」という点である。

そこまではいいのだが「それに比べて自分は・・・」という思いが頭をよぎる。
自分がやっていないことを聞いているため、どうしても自分が見劣りする気がしてしまう。

これがいけない。
子どもにも「多様性を認める」ことの大切さを説いているくせに、自分が自分の性質を認めていない訳である。
自信をなくしている自分に気づいた。
しかも、自信喪失の根拠がよくわからない。

こういう時は、得意の「自己分析」。
何が自分の気持ちをこうさせているのか。
書き出してみた。

突き詰めると、周りの目や評価である。
実際は、自分が気にするほど、誰も自分のことなど見ていない。
いや、正確に言うと、ほぼ全く見られていないし、覚えられてもいない。
それを辛いと思うか、気楽だと思うかの捉えの違いである。
気にしないでマイペースで生きることに決定。

後は、健康管理。
ゆっくり食事をとって、ぐっすり眠って、すっきり起きる。
朝はいつもの体操(体幹運動)である。(ちなみに、もう10年近く続けている。)
元気100%、とはいかないが、気付けばかなり回復していた。

結論。
あくせくしているからいけないのである。
「心を亡くす」=「忙」しくしているのは自分だと気づいた。

まずは健康管理をする。
体を整え、心を整える。

自分を認める。
自分を認められない自分では、周りの人を認められない。
自分と周りの人のためにも、自分を認める。
これでよし。

他者評価は嬉しいが、諸刃の剣である。
評価されている内はいいが、なくなると落ち込むことになる。
嬉しいが、喜びすぎない。
本の売れ行きなどもそうで、今は買われて読まれていただけることに感謝し、後は流れに任せる。
今売れていること以上に、十年後にも売れ続ける本質的なものであることが大切である。

今あるものに感謝し、他人を認めるように自分自身も認めていきたい。

2016年5月24日火曜日

規律と自由

前号で、全員一致の難しさについて書いた。
そう考えると、ルールを決めるというのも、一筋縄ではいかない。

しかし、一番いけないのは、決めないこと。
特にルールに関しては、一旦とりあえずでいいから決める。
決めないことで、混乱が生じる。
特に学級形成初期段階では、非常に大切なことである。

中に、ルールの大枠も決めないで学級経営ができる人がいる。
しかし、その人は、枠を決めてもできる人であることを忘れてはいけない。
「守破離」の「破」や「離」の段階なのである。

自分の理想の追求のためにそこを目指すことに価値はある。
しかし、子どもにとって一番いい方法を最優先すべきである。
担任が〇年生を何十回受け持とうが、子どもにとって〇年生は、今が一生で一回きりなのである。
目の前の子どもに必要なルールを一緒に考える必要がある。

規律があるとは、ルールでぎゅうぎゅうに縛ることではない。
サッカーの試合で、コートやルールがあるのと同じである。
大枠を決めて、自由に動き回れるようにすることである。
ルールがあるからこそ、戦略も練りようがあるし、チームワークも生まれる。
(例えば殴ったり蹴ったりの暴力や暴言が「自由」として許されるのであれば、サッカーの試合は成り立たない。)

子どもが自由になるために、規律をもたらすことも、学級担任の重要な仕事である。

2016年5月23日月曜日

「みんな賛成」が一番危ない

自分のクラス会議メモからの気付きのシェア。

クラス会議をやる。
議題に対し、様々な案が出る。
一見正反対の二つの意見で対立することもある。
(一見、と敢えていうのは、本質的には同じことが往々にしてあるためである。)

決を採る。
学級のルールで「3分の2以上の賛成は可決」などと予め決めておく。
すると、3分の1は反対であっても、集団の決定に従うことになる。
この際、強引に数の論理だけで押すと、亀裂が生じる。
少数派の意見を切り捨ててはいけない。

しかし一方で、基本的な考え方として「全員一致」は有り得ないと心得る。
30人以上の人間が同じ意見ということはまずない。
政党を見ればわかるが、全国民が一つの党のみを支持することは決してない。
それは、もしあれば、何か異常事態である。

全員一致は危ないことが多い。
メンバーの何人か、あるいは大多数が同調圧力に屈している可能性が高い。
だから、あくまで様々な意見がある前提での「合意」を目指す。
合意とは、譲る面が出るということである。
「全員賛成」という場合にも、誰かどこか譲っているはずである。

全員が大満足で一致はない。
何かうまくいったようでも、不満を持っていた子どもは必ずいる。
そういう感覚はいつも持ちつつ、今目の前の子どもを見る必要があるように思う。

2016年5月18日水曜日

必殺技に頼らない学級経営

必殺技。
読者の皆様は、持っているだろうか。

その人にしかできないと思うような技がある。
とても真似できない名人芸がある。
羨ましい限りである。

私も大縄の指導についてはそれなりに研究もして自信がある。
しかし、必殺技と呼べるほどでもない。
(大体、大縄自体をしない学校や学年の時の方が多い。)

必殺技がない場合、どうするか。

必殺技に頼らない学級経営をすればよいのである。
そのかわり、基本に忠実に、一つ一つを地道に愚直に行えばよい。
ピンチを回避する技術、更にいうと、ピンチを利用するカウンターの技術を磨けばよい。

ところで、ここでいう「基本」とは何か。
学級経営にあたり、軸となる考え方は何か。

自分の場合を考えてみた。
それは「子どもの可能性を信じること」であるように思う。

子どもの成長の仕方は、植物に近い面がある。
無理に引っ張っても無駄どころか害悪になる。
そして、伸び方の時期も速度も全然違う。

子どもは種。
自分自身で伸びる力を持つ。
一方、環境条件が揃わないと、育つものも育たないという面も持つ。
土も水もなくては芽の出ようがない。

やたらに水や肥料をやればいいというものでもない。
例えばトマトなどは、下手に水やりをするほどに実りが悪くなる。
根が張らなくなるためである。

面白い授業はいい。
しかし、それがなくなった時に反動がくるようではいけない。
やたらに水をやるのではなく、根を張らせる必要がある。
自力を育てる必要がある。

私の書くものは、「誰でもできる」が基本コンセプトである。
正直、派手なことは少ない。
しかし、その分、汎用性があると自負している。

必殺技がないとお悩みの方には、ぜひ拙著をおすすめしたい。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

2016年5月16日月曜日

甘えさせる」と「甘やかす」の見極め

「甘えさせる」と「甘やかす」の違いについて以前書いた。
ごく単純化して言うと、
「甘えさせる」は子どもの成長を促し、
「甘やかす」は子どもの成長を阻害する。

具体的にどういう行為がそれぞれに当てはまるのか。
線引きが難しいとはよく言われるが、一つ指標になる見分け方がある。

それは、「自力でできることか」という一点。

例えば小学一年生の子どもに「食事を作る」ということは負担が大きい。
よって、一般に親が子どもに食事を作ってあげることは「甘やかす」ことにはならない。

しかし「箸を並べる」ぐらいは子どもだってできる。
もっと「水やお茶を用意する」ぐらいもできるかもしれない。
それら普通にできることを全てやってあげ続けると「甘やかす」につながってくる可能性が出る。

無論、小学一年生の子どもに食事を作らせることも、できなくはない。
時にやらせてもいいし、場合によっては毎朝準備することもあり得る。
それは家庭の事情や教育方針によるものであり、一概にいえない点でもある。

全部やってあげるにしてもやらせるにしても、そこに意図があればよい。
無意図にやってあげ続けているなら、見直すべき点があるということである。

ちなみにこの見分け方は万能ではなく、「できるけれども手伝ってあげた方がよい」という場合もある。
しかし、一つの指標にはなる。

以前「我が子を抱きしめる」ということは大事な「甘えさせる」行為であるということを書いた。
http://president.jp/articles/-/16508?page=3
(「プレジデントオンライン」記事)
「抱きしめる」という行為は、どうがんばっても子どもが自分でできないのである。
「話を聞いてあげる」「一緒に遊ぶ」も同様である。
親ならではのことは勿論、担任ならではのできることもある。

この考え方は、学級経営にも応用できる。

それは、子どもにとって自力でできることかどうか。
できることに無用な手出しをしていないか。
逆に、自力ではできないことを、放置していないか。
よりうまくできるように導けるチャンスと見た時、手出しをすべきか控えるべきか。
(夏休みの自由研究・工作などは、ここが悩みどころである。)

選択の連続である子育て、そして学級経営において、一つ指標となる考え方になるのではないかと思い、提案してみた。

2016年5月14日土曜日

言葉にできないことは、できない

上越教育大学教授の赤坂真二先生からの学び。

赤坂先生が、講座で次のことを参加者に問いかけた。
「所属感とは、何ですか。隣の人に説明してください。」

明確に説明できるだろうか。

例えば「集団において存在を認められること」と説明したとする。
すると、「存在を認められるとは?」とさらにきく。
広い抽象化概念を、限りなく狭い具体まで掘り下げていくのである。
抽象化の反対で、具体化である。

言語にできないことは、できない。
教えられない。
つまり「いきいきとした学級をつくる」と言うのであれば、「いきいき」を具体的に言えないとだめということである。
「やる気スイッチとは何ですか」という問いに、言語化して答えられないと、「やる気スイッチ」の本は書けないということである。
「切り返し」についても、同様である。

懇親会の席で、赤坂先生と珍しく真面目な(失礼。)話をした。

20代の先生は、一生懸命学級経営をすればよい。
しかし、30代からは違う。
言語化して、下の世代に伝えていく必要がある。

全くその通りである。
安定した学級経営をするというのは、30代にとっては基本技能である。
(それでもバランスが崩れることはある。
それは20代でも50代でも同じことである。
ピンチをチャンスに変えればよい。)

つまり、うまくいく方法や考え方を、人に伝えられないと、自分の場だけで終わる。
人に伝えられるなら、広く役に立てる。
現場にいれば、直接後輩の指導にもあたれる。
しかし、それ以外の場でも、いくらでも方法はある。
例えば指導主事というような立場は、言葉でもって現場の教員を導く。
広く若い教師を救う立場である。
だから、そういうことができる人が指導主事になるし、各校でひっぱりだこになる。
(28年度にご栄転になった方もいると思うが、大いに期待されている証拠である。)

本を書くのも同様。
自分のためだと思うと、書けない。
言語化する苦労をする必要がないからである。
しかし、人に伝えるため、役立たせるためだと思うと、何とか言語化しようとがんばれる。

人は、自分のためだと、あまりがんばれない。
しかし、人のためだと思うと、がんばれる。
子どものためだと思えば、教師はがんばれる。
(しかし、善意の押しつけはいけない。「私がこんなにがんばってるのに」は、一番迷惑である。)

メルマガは、その点書きやすい。
良いと思ってくれている人が読んでくれている。
嫌ならいつでも解除できるから、読む方も選択できる。
だから、解除せずに読んでくださる方々の役に立ちたいと思って、がんばれる。

本は、気合いがいる。
お金を出して買ってもらう。
内容が相手にとって良くなければ「損した」と思われる。
怖いことであるが、だから本気度が違う。
セミナー開催も、同様である。

言語化して伝える。
言語化できないことは、できない。

「子どもを幸せに」とは、どういうことなのか。
自分の中に、定義をきちんともっていたい。

2016年5月9日月曜日

「忘れないで」「早く忘れて」議論

仲間と話していて、面白い気付きがあったのでシェア。

1年間持った学級の子どもたちに対し、元担任はどうあるべきかという話である。
ある人は「ずっと忘れないでいて欲しい」という。
またある人は「早く忘れて欲しい」という。
また「最高の思い出」としてあり続けたいという意見と、もっといい思い出を作って欲しいという意見。
他にも、人の数だけ考え方が色々ある。

どう考えるべきか。

私見としては、「最高の思い出」を常に更新し続けて欲しいという感じである。
それは、過去の肯定であり、現在の肯定でもあり、未来への肯定でもある。
良いものは良い。

そこで、こんな風に話してみた。

今結婚している人がいるとする。
今の伴侶が、最高だと思っているとする。
(反論のある人も、ここに口は挟まないこと。話が進まない。前提である。)
その時、それ以外の人を、どう捉えるかである。

過去の人との思い出を、肯定するか否定するかである。
「すごくいい人だった」と思っていても、目の前の伴侶への否定にはならない。
同じく「あんまりいい人ではなかった」と思っていても、今の伴侶への肯定にはならない。
どちらにせよ、それがあったから今があるといえる。

では、どちらの捉えがいいかというと、やはり過去の肯定である。
過去も良かった。
そして、今が最高に良い。
そういう方が、輝いて見えないだろうか。
(嫉妬は、相手の持つ輝きへの憧れから生ずる。悪いものでもない。)

話を学級の子どもと担任に戻してみる。
〇年生の時はとっても楽しくて、最高だった。
そして、今の新しい学級が大好き。
これが、子どもにとっても、そして担任にとっても幸せな考え方になるのではないだろうか。

最高の学級経営を目指してがんばった。
そして、次は、もっともっと上を、史上最高を目指す。
いつでも、更新である。
そのために、今日も、自分自身を更新したい。

2016年5月8日日曜日

二度あったことを三度しない

昨年度より、今年度よりもっとよくしたいと願っている人が多いと思う。

昨年度うまくいった人の中には、更にがんばろうと思っている人が多いと思う。
そういう人は、放っておいても成長するので、今回の話は直接あまり意味がないかもしれない。

二度あることは三度ある。
この諺は、プラスにもマイナスにもなる。

同じ失敗を繰り返す理由。
やり方を変えないからである。
いや、在り方を変えないからかもしれない。
「狂気とは、同じ事を繰り返し行い、違う結果を予期すること」

失敗をすると、また失敗するのじゃないかと不安になる。
そうではない。
うまくいかない方法を学んだのだから、次に生かす。
やり方を大きく変える時が来ているということである。
ピンチに見えて、チャンスである。
ただし、放っておけば「二度あることは三度ある」になる。

一番問題なのは、昨年度、何かしっくりこなかったという場合。
特に問題もなかったが、やった感もそんなにない、という時が、一番危ない。
次も、何となく、同じことを繰り返す可能性が高い。
何でもいいから、積極的に変える必要がある。
本人が現状維持だと思っていることは、実は衰退である。

二度あったことを三度しない。
これは、成功したと思える場合にもいえる。

かの国語の大家、大村はま氏は、どんなにうまくいっても、同じ実践を二度としなかったという。
そこまで徹底しなくてもいいかもしれないが、大家と呼ばれるだけになった理由の一つではないかと思う。

新年度や連休明けなどの節目は、ピンチをチャンスに変える時である。

2016年5月5日木曜日

どうせ比較するなら、過去の自分

子どもを比較してはいけない。
唯一無二の存在である。
上下も左右もあったものではない。
簡単に比較による評価はできない。

基本的に、教育に比較は必要ないと考えている。
必要になるのは、子どもの側ではなく、大人の側である。
例えば、試験の選抜の際の点数などである。
例えば、ある指導が効果があるかどうかを測る時などである。
大人の都合である。

ところで、自分自身にも、基本的に比較は必要ない。
ただ、全く役に立たないという訳でもない。

次の本を読んだ。
『嫌いな自分は、捨てなくていい。』中谷彰宏著 学研
http://www.amazon.co.jp/dp/4054064221

この本に書かれていることの中に「人間は、比較したがる。」ということがある。
比較するのも、近くの人だけである。
ウォーレン・バフェットと年収を比較する人はいない。
同僚・同期の給料が1万円でも多いことに腹を立てるという。

これは、年収以外のことにも当てはまる。
例えば、目立つ実践をする同期の仲間がいる。
気になる。

身近なところだと、地元に、優秀な同期の仲間がいる。
「同期の〇〇先生はすごいですね。」という話を聞く。
私も、その仲間をすごいと思っている。
すると、気持ちが焦る。
「自分もあの人みたいに・・・」の考えが頭をよぎる。

ここがダメポイントである。
確かに、近くの人から見れば、差が見える。
しかし、もう少し遠くから見ると、差は見えない。

例えば、整列時に、いつも自分の前にいる〇〇君と自分のどちらが背が高いかは、子どもにとっては大事なことである。
大人から見れば、その微妙な差なぞどうでもいい。
まさに「どんぐりの背比べ」。
しかし、本人たちは、結構必死である。
微妙な場合は「どっちが高い!?」と何度も聞かれること必至である。

これと同じである。
大きな視点、世間一般から見れば、同じぐらいのものはすべて「ほぼ同じ。」である。

要は、視点を大きく持つこと。
そして、どうせ比較するなら、近くの人ではなく、憧れる人。

私なら、師の野口芳宏先生を考えれば、自分の無知は恥ずかしくもない。
比較対象としては、あまりにも歴然たる差がありすぎるので、対象外である。
平均年齢60歳越えの俳句の会で、何を言っても恥ずかしくないのと同じである。
そして、「追いつく」という考えすらも起きない。
今の自分を認めつつ、別物である「未見の我」を目指す以外にない。
だからこそ、学べる点がたくさんある。

私より少し年上の、尊敬する先生が、ずっと前に次のようなことを諭してくれたことがある。
「ランキングなんて、意味がない。
俺は、松尾さんがやってる学習会も、他の学習会も知らない。
本だって、どれが売れてるかも知らない。
そういう狭いことは、どうでもいいんじゃない。」

自信を持って、自分は自分でやっていきたい。

2016年5月3日火曜日

国歌を漢字で書く

以前に「まぐまぐニュース」で取り上げられた記事。
http://www.mag2.com/p/news/158870

卒業式。
国歌斉唱の場がある。
君が代である。
低学年でも、わりと歌える。

しかし、歌詞の意味まで知っているかというと、とたんに怪しい。

大分前になるが、モラロジー研究会で、野口芳宏先生による国歌についての講義を受けた。
そこで、参加者に次の指示が出された。
「『君が代』の歌詞を漢字で書いてください。」

これが、思いの外、書けない。

千葉県には、南房総に「巌根」、県北に「八千代」といった地名があるので、子どもは割と答えらえる。
「八千代」の「八」は「八百屋」などに使われる「八」と同じで、末広がり、無数という意味をあらわす。
それを知るだけでも、意味が伝わる。

「さざれ石」の「さざれ」と、「苔のむすまで」の「むす」は、大方の人が書けない。
「巌」などと違い、誰でも知っている漢字であるが、書けない。

「細石の巌となりて」と漢字で書くと、一気に意味が伝わる。
教室では、「細石」の画像を見せ、さらにイメージを持たせてみた。

ちなみに教室でやってみたところ、意外にもこの「むす」が書ける子どもがいた。
「生す」である。
理由を聞いたら、「何となく」。
いい感覚である。

歌詞の意味を知っていると知らないでは、歌い方にも大きく違いが出る。
知れば、気持ちが乗る。

自国の国歌の歌詞ぐらいは、知っておくべきなのに、知る機会がなかった。
知る機会を与えていただけたことに感謝である。

2016年5月1日日曜日

協働は万能ではない

今回は、上越教育大学教授の赤坂真二先生の記事から。

赤坂先生には、雑誌や編著で何本も書かせてもらい、個人的に大変お世話になっている恩人である。
↓参考『学級を最高のチームにする極意』シリーズ「学級開き」
http://www.amazon.co.jp/dp/4181852156

赤坂先生は、大学の偉い教授とはとても思えない(思わせない)気さくな方である。
本当にすごい人というのは、普段接している時にそれを変に感じさせない。
何というか、人間味がある。
立場や年齢の上下を越えて接してくれる。
私の尊敬する野口芳宏先生と通ずるものを感じる。
とにかく一度会ってみると初めてわかる感じのすごさである。

さて、本題。
赤坂先生の、次の記事を紹介する。

『協働は万能ではない』↓教育zine 明治図書オンライン
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/jichi/?id=20160136

記事の中に、「協働の光と闇」という項がある。
協働学習に万能性を感じているなら、必読である。

記事の中にある「全ては万能ではない」という認識。
大切である。
よく引用するが、ソクラテスの「無知の知」である。

一斉学習否定も、ここにあたる。
アクティブ・ラーニング推奨は、一斉学習を否定するものではない。
協働学習のみを全肯定するものでもない。
放っておくと何かに偏るから、そこに警鐘を鳴らしているわけである。

アクティブ・ラーニングの中には、多様な学習方法と状態が含まれる。
時に一斉学習、時に体験活動、時に個人作業で、時に協働学習なのである。
全員がずっと主体的でいてくれれば最高だが、現実はそうもいかないので、受動的に入ることもある。

こんなことは、数年の経験のある方なら、知っていることだと思う。
しかし、若手、特に新卒の人にとっては、こんなことだって、言われないとわからない。
言われないとわからないのは本人が悪いのではなく、わからなくて当たり前で、周りがきちんと言わないからである。
知らないことは、察しようもないのである。
(時々、この点において「それぐらいわかれ」みたいな理不尽な人がいるが、異星人だと思って聞き流すに限る。
新しく入る人は、その場の古いしきたりや暗黙の了解なぞ知るはずがないのである。)

偏らないこと。
いや、偏ってもいいが、偏っていることを自覚すること。
万能の方法はなく、新たに学び続ける以外に活路はないと心得ること。
当たり前ながら、結構大切な心構えである。
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