2021年5月30日日曜日

〇〇をしない子どもにどう教えたらよいか

現在オンライン上で行っているZOOM学習会のシェア。


多くの先生の悩みの共通点は

「〇〇をしない子どもにどう教えたらよいか」

である。


結論から言うと、求めない相手に対しては何もしない、教えないことである。


子どもにとっては、その努力自体が余計なお世話ということがよくある。


学校の教師の辛いところは

「学習指導要領に定められた内容を全員に身に付けさせる」

という使命である。

ここには、集団生活の様式も含まれる。


そしてここには、個人差などというものへの配慮はない。

「私は図工だけやりたい」「体育はやりたくない」等は原則認められない。

給食ならばアレルギー対応の除去食のようなものの提供はできるが、学びの内容については除去による提供はできない。


だから、当然、それを欲しくない子どももいる。


なるべく何とか多くの子どもに興味をもたせるようにする工夫は必要である。

しかしながら、最終的にそれを嫌いという子どもがいても仕方がない。


大切なのは、それを喜んで楽しんで享受する子どもへの提供である。

それを嫌がる子どもがいるからといって、提供を止めてしまっては本末転倒である。

「嫌い」に照準を合わせてしまっては、せっかくの興味の芽もしぼんでしまう。

それぞれの分野における「好き」「得意」「もっとやりたい」に照準を合わせるのが基本である。


特別な支援を必要とする子どもたちがいる。

ここへ支援するにも、必要な視点は「自立」である。

あくまで、自立に向けた支援である。

それは特別支援学校や特別支援学級だけの話ではなく、全ての子どもへ対する支援の在り方の基本である。


だから「つきっきりでないとやらない」という子どもにつきっきりになり続けることは意味がない。

一生自分がつきっきりになることができるならいいが、そんなことできるはずがない。

つかないとやらない子どもに、ついて無理にやらせても意味がないのである。


算数などでも同じである。

一緒にやれば解けるという子ども。

それは「なぞり」学習ができているだけである。

「なぞり」を外した状態でできるようになることを目指す。

具体的には、テスト段階で自力で解けるようにすることである。


だから、なぞりでできたからといって安心しない。

友達に教えてもらった場合も同様である。

なぞりや教えてもらってできたら、次に自力での演習を必ず求める。


そこで「自力がさっぱりついてない」ことを本人が自覚する。

寄りかかってできていただけだとわかる。

そこからが本当のスタートである。


基本的に、手厚くすればするほど、子どもは育たなくなる。

成長の勝負の分かれ目はいかに「自分でやる」「自分の責任」と自覚する方向にもっていけるかどうかである。

手放せるかどうかである。


可愛い子には旅をさせよ。


教育の基本中の基本である。

2021年5月28日金曜日

子どもが可愛いからこそ鍛える

 子どもを可愛いと思う。

ごく自然なことである。

(そして、可愛いと思えないという人がいてもいいと思う。

毎度乗り合わせる電車や通勤路で騒がれていたら、子どもが嫌になるのも当然である。)


特にわが子であったり、担任している低学年の子どもたちであれば、可愛くあって欲しいと思ってしまうのが「親心」である。

いつまでも幼く可愛らしく、やや頼りない存在あって欲しいと思ってしまう。


しかしながらこれは、完全に大人の側のエゴである。


当たり前だが、いつまでも幼いまま、甘えられていては困る。

頼られるのは嬉しいことかもしれないが、いつ手を離すかということである。

極端な例だと、成人して就職しても「ママがいないと怖くて会社に行けない」などという、もはや笑えない事態もある。


有名な言葉で、次のものがある。

ネイティブアメリカンの「子育て四訓」である。


一、乳児はしっかり肌を離すな。

一、幼児は肌を離せ手を離すな。

一、少年は手を離せ目を離すな。

一、青年は目を離せ心を離すな


だんだんと自立させていけということである。

教育の要諦である。


親が我が子をつい甘やかしてしまう、可愛がりすぎてしまうというのはわかる。

しかしこれを、学級担任までもがやってはいけない。


私は過去再三述べているが、一年生をなめてはいけない。

つい先日まで幼稚園や保育園、子ども園で「最年長」として活躍していた人たちなのである。

それら保育現場や幼児教育の先生たちが小学校の運動会の発表などを見ると、内心「がっかり」することがあるという。

「もっとできるのに・・・」と。


また、過去に学校内で様々な提案をしてきた時にも、同僚に

「一年生には無理です」とよく断られてきた。

「先生は担任したことがないからわからないでしょうけど」ということである。


そういうこともあって、数年前に一年生をもたせてもらえたのは本当に「念願」の出来事であった。

実際、一年生の6月にして公開研究会でクラス会議を見せられたし、それは話合いの形になっていた。

そして実際に様々なことが「できる」一年生に育った。

恐らく、担任の私自身が「一年生には無理」という概念を一切もっていなかったことも大きな要因である。


そういう経験もあり、子どもが「できない」ということはないと考えている。

大人がそうさせただけである。

だから、低学年であっても、大抵のことはやらせればきっとできる。


同じことを言うが、子どもを決してなめないということである。

できなくて幼い感じを求めない。

その代わりに「自分でできる」「かっこいい」を求める。

そのためには、助けられる側よりも助ける側に回る経験を多く積ませることである。


子どもを真に愛情をもって可愛がるとは、子どもを立派に自立に向けて鍛えることである。

学校は、あくまで集団生活における学びの場であり、テーマパークよりもお寺に近いと考える。


私の尊敬する教育の大家、野口芳宏先生の言葉にも

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」

「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

とある。

(出典:『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』さくら社


預かる側も預ける側も、そのような意識をもつと、子どもの育ちがまた変わってくるものと思われる。

2021年5月26日水曜日

子どもの背景を見抜く

 教育における根幹的な関心事の一つに、家庭内の虐待がある。


虐待というと語感が強烈だが、実際普通のどこの家庭でもあるような類のものである。


最近よく社会問題になっているのは、教育虐待である。

Wikipediaによれば

「教育熱心過ぎる親が過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」

とある。


例えば子どもに習い事や勉強をさせすぎるという問題で、これらに関する書籍も様々に出ている。


一方真逆で、全く無関心という場合の虐待もある。

世話を一切しないという点での虐待である。


どちらのタイプにも共通しているのが「大人の自己都合」という点である。


人間の根本には自己愛があるのだから、自分優先自体は構わない。

それは大人でも子どもでも同じである。

しかしそれが行き過ぎて、他人に「私を優先しろ」「私のために生きろ」と求めるようになると、大きな問題である。

それはたとえ相手がわが子であっても同様である。


親の人生は親の人生だし、子どもの人生は子どもの人生である。

そこは分けて考える必要がある。

子どもの自立の前に、親の自立が先である。

(子ども自身がその異常さに気付いて、さっさと自立していってしまうパターンの方が多いかもしれない。)


つまり、他責的で依存的とは、こういった異常状態である。

だからそうさせないために、子どもにも、主体性を求めていく。

決して他責的で依存的な人間に育ててはいけないのである。

教育の全ての場面において、自分で選択し、責任をとっていける態度を育成していく必要がある。


ともあれ、小・中学生ぐらいまでの子どもは力も立場も弱い。

明らかに間違った大人が相手であっても、従うしかないし、それが普通だと思い込まされる。


そういうことには、外部が気付いてケアしてあげるしかない。

近所でトラブルに気付いてくれる人がいるとは限らない。

そうなると、一番近くにいる気付く可能性をもっているのは、各学校の先生たちである。


子どもの背景まで観察し、見抜く。

家庭訪問や教育相談などをする機会のある時期には、特にそういった観点で子どもを見ていくことも必要である。

2021年5月24日月曜日

「主体的な学習態度」をどう評価するのか

 学級経営学習会の内容のシェア。


今回は「評価」をテーマに行った。

参加者の中で質問が最も多かったのが

「主体的な学習態度」を通知表で一体どう評価すればよいのか、という悩みである。


評価は、基本的に主観である。

客観的事実を評価する場合であっても、主観的に定められた基準点がある。

大学入試共通テストの点数であっても、あくまで主観的に設定された基準に対しての客観的事実である。

完全な客観というのは存在しない。


学習指導要領というのはその最たるもので、学校ではこれに基づいて全ての評価がなされる。

この学習指導要領の内容自体も、「客観的理解に基づいて」作られた一つの機関における主観である。


つまり、主体的な学習態度を評価する際にも、主観的な基準点が必要になる。

絶対の客観的基準はない。


よって、何をもってAとするのかを予め設定しておく。

さらにただでさえ曖昧模糊になりがちな評価なので、予め評価される側にも伝えておくのがベストである。


「これこれが全部できていればA。1つでも欠けていればB。半分以上できていなければC。」という感じである。

要は、基準点さえ先にはっきりしておけば、評価には迷わないということである。


恐らく「何でBなのかわからない」というのが、成績をつけた後で物言いのつくところである。

(Cがつくような場合はよっぽどで、当人にも心あたりがあることが多く、疑問は起きにくい。

Aは疑問をもっても、文句としては出ない。)

だから、基準点を評価者側と評価される側で共通理解しておくことが肝要である。


「学びに向かう人間性」など、ただでさえ理解が曖昧な新概念なので、とにかく一つ形にしておくことである。

基準さえわかれば、評価のしようがある。


評価が、両者に共通理解されていること。

ここが今回の悩みを解決するポイントではないかと考えた次第である。

2021年5月22日土曜日

上手くやるより大切なことをやる

 以前からメールやオンラインで、学級経営についての相談をよく受ける。

全国の先生の悩みを聞いていて、共通項として気付いたことがあるので記す。


私自身も学級経営上「失敗」が多い。

ポジティブに捉えると挑戦が多いともいえるが、「失敗」はやはり、その時は強烈に痛い。


私が過去そういう状況に追い込まれる時、指導される上の立場の人に、幾度も言われてきた言葉がある。

それが

「もっと上手くやれ」

である。


とてもではないが上手くやれないような状況に陥った学級を引き継いだ年ほど、よく言われる。


子どもが最初から落ち着かない状態だと、問題もよく起きる。

そうなると、子どもや保護者に対し、厳しいことも言わなくてはならない状況になる。


例えば学級や学年内で、傍若無人に振舞っている子どもが複数いるとする。

荒れている学級を知っている人なら、その状況はすぐに想像がつくと思う。

放っておけば、本人の成長はもとより、周りの子どもの成長にとっても良くない結果が目に見える。


当然、指導すべき事項がたくさん出る。

「前の担任のように優しく」なんてやっていられない状況も多くなる。

その状況下での子どもの「優しい」は単に「甘い」を取り違えているだけである。

無秩序を許し、成長をないがしろにするなら、無限に甘くできる。


真剣にやると、諸問題に正対することになる。

そうなると、自分自身が傷つく覚悟も必要になる。

そうでないとしたら、とっくに状況は改善されているはずだからである。


それまでが、傷つくことを恐れて、避けてきたからこそ、子どもが荒れに荒れているのである。

さらに一部の保護者が、言いたい放題になっていることもある。

しかしそれは、実は子どもや保護者の責任ではない。

そのように育てた責任は、担任はもちろん、学校全体にこそある。


そして、それをどうにかしてくれと、みんな引き継ぐわけである。

「問題は多いけど、あなたの力でどうにかしてくれ」と、懇願されてもらうわけである。

これは全国共通の現象のようである。

(特にひどい学校の場合は、何も知らない初任者や転任者にそれを任せる。)


一旦もらったら「あとはあなたの責任」と掌を返される。

これは校務分掌の引継ぎでも〇〇主任でもなんでも共通の現象である。

その後はどんな困難でも「もっと上手くやれ」である。


この場合に求められる「上手くやる」とは、摩擦を起こさないようにすることである。

大抵は、相手にヘリ下り、なだめるような方法である。

これで、「上手くいく」ことが多いので、それを求められる。


しかし、問題の本質はそれでは変わらない。

「上手くやる」の連続の結果、傍若無人で嫌がられる人になってしまった子どもや保護者への結果の責任は、誰がとるのか。


「言うべきは言う」をチームで行っていかない限り、問題の根本的解決には繋がらない。

それは、対子ども、対保護者といった範囲の話だけではない。

普段の同僚同士や、対上司、対管理職といった組織内同士の関係でも同じである。

内部から腐っていったら、もう手の施しようがない。


「上手くやれ」を命じる人は、その場しのぎの利己的な人間である。

本質を考える人はいないし、あなた自身を大事に思ってくれることもない。

人間的な温かみのある本物の人物なら、それとは真逆のことを言う。


やはり「いい学校」には、爽やかな風が吹いている。

風通しがいいのである。

人間関係も「上手くやる」よりも「言うべきことを言う」ができている。


職員会議や校内研究会をすれば、安易な賛成やお世辞の言葉よりも、建設的な意見が飛び交う。

同僚への正しくない扱いや、校内での不正行為があれば、それはやめようと堂々と注意し合える。

経験年数や立場に関係なく、言いたいことを言い合える。

そうやって、風通しの良い職場は作られていく。


私の場合「上手くやる」なんて、到底できない。

元来、やることが泥臭くて鈍くさくて、下手くそなのである。

しかし「何が大切か」という本質だけは、わかる。


みんな、それぞれ悩みを抱えている。

全国の全力で日々を戦っている仲間に、正しくあり苦しんでいるのは、あなただけではないというエールを送りたい。

2021年5月20日木曜日

学級経営のセオリーを押さえる

 私は子どもの頃から、トランプやオセロなどのゲーム、勝負が大好きだった。

親にはいつも勝てないので、必死にやり方を探った。


どのゲームにおいても、勝つためには、ある程度の基本的な戦略、セオリーがある。

サッカーのようなスポーツにおいても同様だが、フォーメーションやポジションなどは、基本的な戦略である。

(幼児がやるサッカー遊びのように、全員フォワード状態になってしまったら、通常は勝ち目がない。)


例えば、オセロをする。

オセロでは「ここに置いたら危険」「ここに置くと有利」という場所がある。

わかりやすいのが、角である。

角は絶対に挟まれないために、ひっくり返されないから、ぜひ押さえたいところである。


その角をとるためには、ここに置かない方がよい、あるいはここに置くとよいというのがある。

ここはセオリーとして知っているかどうかで、これらを知らないと、勝ち目は薄い。


一方で、角をとられても大丈夫という方法もある。

それは、角の重要性や強みを知っているからこそとれる方法である。


将棋などになると、この戦略が一気に複雑になる。

特に「ここにこう置いたら危険」というのが、はっきりとある。

セオリーを一通り知っている相手に対し、こちらが知らないとなると、まず勝ち目がない。


さて、これらはゲームという場に限らない。

実際の社会生活の中でも、セオリーはある。

例えばあいさつなど、良好な人間関係を築く上でのセオリーともいえる。

「人の悪口を言う」「わがままな文句を言う」などは、「危険」「下手うち」の最たるものである。


学級経営にもある程度のセオリーはある。

特に「これをやってはいけない」ということには、かなり汎用性がある。

今年の新著「スルーorリアクション」は、特にそこに着目して書いた本である。


宣伝が軽く挟まったが、ここは本当に重要なポイントである。

まずセオリーを押さえておくこと。

これがあって、初めて個々の対応が可能になる。

最初から「無手勝流」では、余程の天才でない限り、学級が混乱すること必至である。


学級経営のセオリーとして、何度も書いているが、まず子どもの「聞く力」を身に付けることである。

毎度紹介している師の野口芳宏先生の言葉だが「学力の根本は聞く力」である。


「話す力」がしっかりつくのは、ずっとずっと後でもいい。

話すのは、たどたどしくてもいい。

書くのが下手でもいい。

読むのも、少しずつでいい。

それよりも、まずは話を聞く姿勢がとれることが最重要である。


これは、「それがなかったらどうなるか」を考えればすぐにわかる。


話せない子どもが多い学級。

書けない子どもが多い学級。

読めない子どもが多い学級。

聞けない子どもが多い学級。


・・・

どれが一番大変か。

どれはとりあえず大丈夫か。

「〇〇できなくて学級崩壊」になりそうなのはどれか。

学級担任を3日も経験していれば、すぐにわかる話である。

(指導の優先順位はそうやって考えていけばいいといのも、一つのセオリーである。)


まずセオリーをおさえる。

当たるも八卦当たらぬも八卦では、プロとはいえない。

教育書を読んで勉強する価値は、そこにこそある。


そうやってセオリーを押さえた上で、初めてセオリーでは対応できない相手のことを考えることができる。

「個別最適な学び」を考えられる。


学級経営においては、まず何をおいても、セオリーを学ぶことである。

2021年5月18日火曜日

それぞれのタレントを生かす・尊重する

 時間があったのなら、学級懇談会で本当はしたかった話。

(全く足りなかったために、しなかった。)


「タレント」ときいて、何を思い浮かべるか。

テレビなどに出る有名人を思い浮かべる人が多いと思われる。


「タレント」(talent)とは、才能のことである。

語源としては、もともと貨幣の単位である。


聖書の中に「タレントのたとえ」という話がある。

ある人が旅立つにあたり、自分の3人のしもべに対し、留守中にとそれぞれ次のお金を渡した。

Aには5タレント、Bには2タレント。Cには1タレントである。


この人は旅から戻ると、しもべに渡したお金を清算するよう言った。


Aは5タレントを10タレントに増やして返してきた。

大いにほめた。


Bは2タレントを4タレントに増やして返してきた。

同じく大いにほめた。


Cは1タレントを「なくさないように」と土中に大切に埋めていた。

掘り返してそのまま1タレント返した。

これには「怠け者め。けしからん」と叱った。


このたとえ話には、才能というものに対する教訓が多く込められている。


Aは、人が羨む優れた才能の持ち主である。

そして、その才能を十分に生かし、元の倍にした。


Bは、Aほどの才覚はなくとも、堅実にその才能を生かした。

そして、きちんと元の額の倍にした。


AとBは同様にほめられる。

タレント(才能)を、元の倍にしているからである。


Cが叱られたのは、額の小ささではない。

与えられたタレント(才能)を生かさなかったことに対してである。

もしCが努力してそれを生かし、倍の2タレントにしていれば、同様に大いにほめられたはずである。


AとBとCのもつタレント(才能)自体を比べることは無意味である。

初期に与えられた額も違う。

問われるのは、それぞれの中でどれだけ伸ばせたかという点である。


誰かと比べて出来不出来を責めるのは、無意味どころか有害でしかない。

求めるべきは、もてる力を精一杯生かしているかという点である。


さらに考えるべきは、タレントというのはあくまで与えられたものだということ。

最初から自力で獲得したわけではなく、有難く与えられたものだという自覚をもつことが重要である。


子どもたちそれぞれのもつタレント(才能)は、全く違う。

たとえ話はわかりやすくしただけで、実際は種類も別で、金額の多寡で決まるものですらない。

種類も全く違うということは、比較もできない。

学問系で発揮する子どもいれば、運動系で発揮する子どももるし、芸術系で発揮する子どももいる。

それぞれのもつタレント(才能)を最大限に伸ばすことに全力を尽くしたい。


タレント(才能)という面から見れば、知識や技能の伸びは、それぞれなのである。

論理的にどう考えても、一律にいくはずがない。

全員に教えることができるのは、心構えぐらいである。


自分のもつ才能を最大限に発揮しようと努めること。

それは、他人の才能を尊重することにもなる。

学級という偶然の集団においては、お互いを比べるではなく、お互いを「いいね」と言い合える関係を作っていく。

学級ではそういうことをこそ教え、求めていきたい。

2021年5月16日日曜日

学級懇談会で何を話すか

ちょうどひと月前の学級懇談会の前に書いた記事。


学級懇談会は、自分の担任している子どもの保護者が一堂に会す、数少ないチャンスである。

指導方針はじめ、あらゆる共通理解をするには、またとない機会といえる。

特に若い人にとっては、子育て経験の長い人や年長者も多い中で特別な立場として話さねばならないということで、緊張もする。

しかし、確実に必要な機会である。


私の本音としては、授業参観の方はやろうがやるまいがどちらでもよくて、懇談会の方を多くやりたいと思っている。

授業はあくまで子どものためで、本来は子どもさえいればいい。

誰に見られようが何しようが、子どもの成長の結果には影響しない。

一方の懇談会は、保護者と担任が協力することで、今後の子どもの成長の方向性が変わる大切な機会である。


懇談会は、大まかに次の流れで行った。

伝達事項が混乱しないよう、敢えての学年統一である。


1 担任自己紹介

2 保護者自己紹介(わが子のよいところを添えて)

3 学年・学級指導方針


1と2をやる理由については、お互いを「知る」ということに何よりも価値があるからである。

全く会ったことのない場合と、面識がある場合では、同じことを見聞きしても、受け取りが大きく変わる。


さて、3の指導方針の中で「自分の頭で考えて行動できる子どもの育成」を挙げた。

そのために、「話を黙って聞く」を先に指導するということを宣言した。


一見、真逆に見える指導方針と内容だが、これらはつながっている。


「自分の頭で考えて行動できない子ども」を考える。

それは、善悪、良否の判断なしに、他人の命令に無思考で従う子どもである。

「優秀なロボット」である。

これにしないということが肝要である。


一方で「人の話を黙って聞けない」という子どもを考える。

自分だけが大事で、自分勝手に動き回って喋りまくっている子どもである。

無秩序である。

考えて行動するということの中には、他者への影響まで考える必要がある。


黙って話を聞けること。

自分の頭でじっくりと考え行動できる子どもの育成のためにも、実はここがスタートになる。

学力の根本は、聞く力だからである。


誰しもが、自分を重んじて欲しい。

だからこそ、他人を重んじる必要がある。

人の話をよく聞くこと。

そうして、自分の話をよく聞いてもらえる環境をつくること。

これらは、学級の中において、一体である。


さらに、聞ける、聞いてもらえるという状態になると、互いに感謝の念が湧きやすくなる。

自分の苦手なことや困っていることを、他者に助けてもらえるようになる。

そうすると、自分の得意を生かして、チームに自ら貢献したくなる。

結果的に、自分の頭で考えて行動できる子どもに近づいていく。


学級懇談会は、働き盛りの方々の貴重な時間を割いてもらっているため、多くは語れない。

大まかな方針、ポイントだけを伝える。

その後で、学級通信や連絡帳、あるいはインターネット上の連絡手段を利用し、こまごましたことを伝えていく。


直接語って伝えられるチャンスは、本当に少ない。

懇談会は、貴重なチャンスである。

懇談会はピンチではなくチャンスだと思って、今後のために大いに生かしていきたい。

2021年5月14日金曜日

丁寧よりも「短くズバリ」が親切

 教育においては、丁寧さが求められる。

特に低学年担任では、顕著である。


幼い相手を、大切にしようという視点である。

これ自体はとてもいい。


しかし、丁寧も度がすぎると、時として迷惑、害悪にもなり得る。


例えば、話し方。

丁寧に話そうとすると、次のようになる。


「皆さん、今からお話をしますよ。

いいですか?

今から、音楽室に持っていく持ち物を言いますからね。

よく聞いているのですよ。

まず、筆箱をもっていきます。

次に、教科書をもっていきます。。

それと、歌集をもっていきましょう。

わかりましたか?」


とても丁寧に伝えようという親切心、優しさがある。


しかしながら、長い。

長すぎる。

文章を打っているだけでも疲れる。

ワーキングメモリの少ない子どもなら、3行目の「今から~」のくだりでメモリオーバーである。


次のようにずばり言えばよい。


「音楽室に持っていくものを言います。

筆箱、教科書、歌集。

この3つです。」


これなら伝わる。

もっと短くできる。


「持ち物を言います。

筆箱、教科書、歌集。」

指を1本ずつ立てながら言えばより効果的である。


ただし、大前提があって、この言葉を発する時に、聞く姿勢ができているということである。

大騒ぎしている中で発しても伝わるわけがない。

つまり、聞く姿勢をつくるという方の指導にこそ注力すべきである。


さらにいうと、一言も発しない方法もある。

持ち物を板書すればよい。

書く手間がある分、この視覚情報は多くの子どもにとって、最も助かる方法である。

教室が多少騒いでいる状態でも、かなりの程度伝わる。


ただし「話を聞く」という力をつけたいなら、やはり聞いてわかるように指導する場面も多く必要である。

親切心で毎回書いていたら、いつまで経っても、聞く力は身につかない。


要するに、丁寧すぎるそのやり方が、混乱を招いているかもしれないと疑おうということである。

低学年だからといって、丁寧にやりすぎる傾向がある。

丁寧というより、単にくどいだけになっている可能性がある。


これは、話し方に限ったことではない。

あらゆることに、その可能性を考える必要がある。

大人が口や手を出しすぎていないか。

補助輪は転ばないために便利だが、一体いつのタイミングで外すのかということである。


丁寧よりも、短くズバリ。

敢えて丁寧な方法をとらない。

親切心があるからこそ、心がけるべきことである。

2021年5月12日水曜日

真面目に働く人に損をさせない

 前号で「真面目な子どもに損をさせない」ということについて書いた。


これは、大人にも当てはまる。

「真面目に働く人に損をさせない」ということである。


真面目に働く人がいる。

その人は、会社のためにと思って、色々と挑戦する。

しかし、「余計なことをするな」とたたかれる。

これが繰り返されれれば、やる気を失って、やらなくなる。


真面目な人がいて、蔓延し続ける社内の不正行為に対し、疑問を呈す。

多くの人がその不正を当たり前にしているので、「それぐらい」と思っている。

そして、注意する人をうるさく思う。

「変わり者」「めんどうな人」と扱われる。

この人も、口をつぐむようになる。

不正が深くまで浸透し、手の施しようがないほど、内側から腐敗していく。


学校でも同様のことは起きる。

真面目な先生ほど、叩かれ、攻撃される傾向がある。


例えば、学級通信の発行。

これは、結構な労力がかかる。

だから、発行していたら、基本的に真面目な人だと思っていいい。


ただ、かなり気を遣っていても「わが子の登場回数が少ない」「わが子の写真が小さい」と言われる。

あるいは、管理者側の文章表現の好みで、こと細かに直しが入ることもある。

「もっとこういう記事を書いて」「この記事はいかがなものか」とも言われる。

そうなると、発行自体が苦痛になる。

自然、多くの真面目な人が、やらなくなる。


例えば、生徒指導関係。

子どもの悪い行為を見逃さずに指導する。

「わが子のどこが悪いのか」「その指導の仕方はよくない」と、問題の本質とは違うところで、なぜか教師側が指導される。

自然、問題行動を流し、避けるようになる。


例えば、学習指導と評価。

真面目に教えて、休み時間や放課後に、個別に指導もする。

「不当な扱いだ」と文句を言われてしまう。(そういう面も実際ある。)

あるいは、基準に従ってきちんと評価をすると「厳しすぎる」と言われてしまう。

自然、評価が甘い先生が多くなり、「A」「3」ばかり、「C」「1」はほぼつけられなくなる。


こういったことが繰り返されることで、真面目にやるのが、だんだん馬鹿馬鹿しくなる。

自然、もの言わぬ大人しい人、流される人が増えることになる。

言いたいことがあっても言えないで我慢している人がかなり多いというのが、現状である。


真面目な人が生きづらい状況を、みんなで作っていないか。

教師に限っていえば、「先生は何かと叩かれる」ということが社会で知られている以上、今後教職希望が増える見込みはない。


真面目にがんばる人が報われる。

あらゆる集団においてのあるべき大原則である。

2021年5月10日月曜日

学級経営の共通言語を示すなら

 先日、都内の学校の自主研修会にて、オンライン講師として学級づくりのお話をさせていただいた。


「学級経営の基礎」というテーマで、「学級経営における校内の共通言語が欲しい」との依頼だった。


私が学級経営における共通言語として提示したのが

「真面目な人に損をさせない」

である。


とにかく、意識しないと、問題行動の方に目がいきやすい。

そこには半強制的に労力もかかるし、当然である。


しかしながら、本質はそちらではない。

教育においては、真面目にやろうとしている子どもたちにこそ、最大に恩恵がいくべきである。

これは、うまくできているかどうかは関係なく、きちんとやろう、がんばろうとしている子どもたちのことである。


着眼点を真面目な子ども中心にすること。

「美点凝視」という言葉もあるが、これである。


素直によいと思う行動をとる子ども。

誰の話も、真剣に聞いている子ども。

時間を守っている子ども。

周りに親切に、優しく接する子ども。


ここに注目し、認めていき、さらなる課題を与え、指導をしていく。

そうでなければ、真面目にやった子どもが報われない。


決まった型を進んで身に付けるからこそ、必要に応じてそこから抜けることもできる。

芸事の「守破離」である。

求める型がある場での「我流」「俺流」は、わがままな出鱈目にすぎない。

(それをするのが目的なら、習いにくる必要がない。)


「自由」「楽」という単語は、快楽に属すので受け入れらやすい。

「規則」「我慢」「努力」「忍耐」は、しんどいので拒絶されやすい。


どちらに価値があるかである。

少なくとも、今を単に自由に気楽に過ごしたいだけなら、確かに学校に行く必要なぞない。

学校は、楽しく過ごせればそれに越したことはないだろうが、本質的には何かと大変さがあるところなのである。

(多くの大人が十分に知っている事実のはずである。「可愛い子には旅をさせよ」である。)


自然を自然のままにしておかず、人の手を入れるのが、教育である。

学校は、あくまでも学びの場であり、遊園地やテーマパークとは一線を画す場である。

たとえ単なる遊びの中にも、学びのある場である。


きちんとやっている、真面目な子どもを優先的に評価する。

なぜそれが学級経営の肝となるのか。

経営という言葉から、会社だと思って考えればすぐわかる。


求められる仕事に対し、誠実に真面目に働く社員と、規則も守らず勝手気ままで不真面目な社員がいるとする。

高評価を与えるのと、処罰のどちらを優先すべきか。

あるべき逆をいったら、集団全体はどうなっていくか。

答えは明白である。


特に最悪なのは、不真面目が「面白い」と気に入られて評価される(相手される)というパターンである。

このあり得ないと思われるパターンは、学級経営だと意外とよく見られる。

これこそが不当な差別、ひいきである。

(正しく働いている者が高評価を受けるのをひいきだと騒ぐ人もいるが、それはひいきではなく正当な評価という。)


つまり「何が高く評価されるのか」を明確にすることである。

目指すべきものがはっきりする。


そうなると、着目され、高く評価される子どもを真似て行動する子どもが増える。

当然、その子どもたちも高く評価されるようになる。

それがどんどん増える。

全体として向上していく。


またそうなれば、励まし合い助け合う集団になる。

結果的に、しんどい立場にいる子どもたちへもケアが行き届くようになる。

その恩恵が集団全体に行き渡る。


なぜなのか。


例えば「他人を助ける」という人として当然の行為をした子どもが、高い評価を受ける。

そうなると、周りの仲間を助ける子どもが増える。

「できない」と困っている子どもにも「助けるよ」という子どもが周囲に常にいる状態になる。

ごく自然で、当たり前の話である。


逆に「人よりできた」「勝った」「速い」ということを高く評価する風潮があるとする。

そうすると、子どもたちは、他人を助けなくなる。

助ければ、人よりできる、人に勝てる、人より速く終わらせる、すべてができなくなるからである。

「できない」と困っている仲間に対し、蔑み見下し差別する風潮ができる。

ごく自然で、当たり前の話である。


「真面目」の中には、学校の求めるある種の正しさが含まれる。

その中には、他人を助けることも含まれる。

特別活動における当番活動や係活動も、他者貢献が軸である。


学級では、見過ごせない事態も起きる。

どこかで、妙に拗ねたりひねくれたりしてしまっている場合もある。


ただし、ここに気をつかいすぎて主軸を合わせ続けると、着目すべき点が変わってしまう。

問題行動や不満へのケア自体は必要なことだが、その時にも真面目な人に損をさせないことが肝である。


個々の自由の尊重自体はいいことなのだが、他者の権利を侵害しないことが前提条件である。

学校は、集団で学ぶ場であり、集団を学ぶ場でもある。

違いを学ぶ場である。

自分とは違う価値観を学ぶ場である。


真面目な人に損をさせない。

学級経営の共通言語として、引き続き提案したい。

2021年5月8日土曜日

みどりの日と学問

 先日のみどりの日に書いた記事。


みどりの日は

「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしい」

とする大勢の意見により定められた。

とある。

(参照:Wikipedia)


私はかつて皇居内を散策した時、初めて昭和天皇が植物などの自然学に造詣が深いことを知った。

天皇という立場であっても、生涯を通して学問の研究をしていたということに大変驚いた記憶がある。


私の学生時代を思い返すと、「大人になったら勉強をしなくていいように」ということで受験勉強をがんばっている人が周りに結構いた。

現実は、大人になってからが勉強のスタートである。

まして、学問と呼べるようなものは、通常は基礎を身に付けた後、大学以降である。


参考記事:Share Study 「学問って何?」という疑問にズバリ回答!-高校と大学の決定的な学びの違い

https://share-study.net/what_is_academic_study/


学問をするというのは、人間の根源的な欲求なのだと思う。

真理の探究である。

それは、高度な遊びといっていい。


小学生でも学問をしている子どもはいる。

夏休みにカブトムシの研究をしていた日本の小学生が、世界的な学術誌で紹介されたそうだが、まさに学問的研究である。

また、小1からダンゴムシだけを12年間観察し続けてきたという例も新聞で見た。

夏休みの自由研究も、ここまでくれば天晴である。


学ぶ楽しさそのもの。

授業でのゲームが楽しいとか笑わせてくれるとかいうようなものではなく、本質的な学びの楽しさ。

これを感じられるようであれば、学校教育としては、大成功である。


ただし、楽しさの前には、壁がある。

壁を乗り越えるからこそ楽しいという面がある。

先の小学生たちの研究の例では、相当な壁を乗り越えている。

夜中の1時に森に出かけて虫を観察をするとか、それを欠かさず何カ月も、あるいは何年もやり続けるとかいうのは、誰にでもできることではない。

(ただし本人がそれを「苦」としていたか否かは全く別問題である。)


いくらでもやる人には、いくらでもやらせればよい。

逆に、本人がやりたくないことを無理やりやらせても、たかが知れている。


そこが個性の尊重である。

「潰しても潰しても潰れないのが個性」である。

ちょっとやそっとではへこたれない、変わらない部分が個性である。

性格や趣味嗜好などを考えればわかるが、周囲がどんなに変えようとしても変わらない。


だから、個性を尊重しようと変な意識を働かせすぎないことである。

学問の追求をする人は、止めてようとしてもする。

運動が好きな人は運動しまくるし、ピアノが好きな子どもはピアノを弾きまくる。

本が好きな子どもは本を読みまくるし、絵を描くのが好きな子どもは授業中でもノートに描き続ける。


好きなことを追求すること。

これは本能として止められない。


下手に個性を伸ばすとかどうこう拘らずに、自分なりに育てようとした上で、植物のようにそれぞれの種が自然にどう伸びるのかを観察していきたい。

2021年5月6日木曜日

捨てられない仕事は全力を尽くす

 私の著書の中に

「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』というのがある。


この本のせいか、あるいは雑誌に仕事術系の記事を何度も書いたせいか、私は外部の人に、仕事の処理がものすごく速いと思われている。


完全に誤解である。

一緒に働いている人は知っていると思うが、どちらかというと、平均的に見ても、作業は遅い方である。


どの教室でも、支度がやたら遅くて、移動教室だといつも遅れて後ろから来る子どもがいると思う。

実際、子ども時代の私であり、それは今もあまり変わらない。


初任の一年目は、どんなに早くても8時より前に帰れる日はなかった。

夜10時過ぎなどざらである。

二年目も三年目も、常に「初めての学年」であり、それは数年続いた。


何年本気でやっても、帰る時刻が一向に早くならないので、ある日はたと気付いた。


自分は仕事のスピード自体を、これよりも上げることはできない。

速く手を動かせば、多少早く終わるものの、それだけ早く疲れる。

疲れればミスが増え、仕事の能率が格段に落ちる。

結局、平均すれば、何も変わらないどころか、マイナスである。


要は、作業量自体が多すぎるというのが、根本的な原因である。

手放し、捨てる必要があると気付いたのである。


これは一つの正解だった。

拙著にも書いたように、代わりに、もっと大切で、もっと時間を割きたいことに時間を使えるようになった。


ただし「必須の作業量」が多いと、早く帰ることは不可能。

よくよく考えれば、当然のことである。


だから、「〇〇主任」というような、やたら提案や作業量の多い仕事がある場合、早く帰るのは実質不可能である。

また、生徒指導で問題が頻発する場合も、早く帰るのは不可能である。

研究校で、研究主任が早く帰るというのもまず無理だろう。

学校全体の重要な仕事や、子どもの人権や命に係わる仕事を放って帰るわけにはいかないからである。

それらは、どう考えても「捨てられない仕事」である。


今、学校現場は、GIGAスクール構想や感染症対策などで、仕事がどんどん上積みされている。

社会も子どもも変わってきており、それに伴う家庭の学校への要望も高まる一方である。

それに対応すべく、当然人員も増えるのが筋だが、そこは一切変わらない。

「現場の努力」頼みである。


「働き方改革」他は、どれも見栄えのいい美しい言葉で飾られている。

しかしその中身の実際は、個人の労働量の増加で何とかせよということである。

これだけ無理な仕事を上積みしているのに、残業するのは本人の仕事が遅いせいだから定刻までに終わらせて帰れという完全に矛盾した論理である。

具体的に業務自体をなくすか、予算と人員を大幅に増やすかしか実際の救いの道はない。


実は私自身、今年度スタートしてから2週間は、一日も19時前に帰れた日がなく、ほとんどが20時から22時の間である。

もともと仕事が遅い上にやることが増え、学級開きまでが3日しかないという事態。

さらに全国的に、昨年度の日数の遅れを少しでも取り戻すべく、始業が早い。

単純な作業量的に見て、当然といえば当然である。


ただ早く帰ること自体が目的ではない。

きけば働き方改革が現場を圧迫している現状もある。

「早く帰れ」には予算と人員がセットというのが然るべき形である。


また、従来に上乗せしたのに早く帰れというのは、論理的にどう考えても無理である。

(それができるのなら、とっくに全国の学校で定刻退勤が日常化しているはずである。)


今この状況では、腹を括って残業しまくるしか、方法はない。

私は早く帰るための本を書いているが、これは学校現場の本音であり、真実である。

仕事の捨てようがないので、当然帰れない。


だからこそ、本にもあるように、すべてを完璧にこなそうとは決してしないことである。

それは、自分に余裕がある時にすべきことであり、倒れてしまっては本末転倒である。


学級担任として、業務を正常化するために必須のことがある。

それは、自分の仕事とそうでないものを明確に区分することである。

他人を助けないという意味では、決してない。

自分がやる必要がない、むしろ、自分がやることでマイナスになる仕事を作らないということである。


具体的には、子ども(会社であれば新卒社員)を自立に導くようにすることが正解である。

おんぶに抱っこでないと学べないような子どもにしないことである。


その教育を必要としない状態にまで相手を高めるのが教育である。

例えば小学校教育の修了の本質は、子どもたちを小学校教育を必要としない状態にすることである。

小学校で教える教科や教育内容を身に付けた子どもにすることである。


もっとミクロに見ていくと、子どもが自分の支度を自分でできるようにすることである。

自分の学習を自分でできるようにしていくことである。

自分の出した汚れやごみを自分できれいにすること同様、すべての後始末をつけられるようにすることである。


そう考えると、業務量が増えるマイナスの教育は、このたとえの場合だと、以下のようになる。


子どもの支度をいつもすべてやってあげてしまう。

子どもが見ているだけで楽しませるような受動型エンターテインメントの授業を毎日行う。

子どもに掃除も後始末もさせない、やったことや失敗の後始末も、大人が全部代行してあげる。


どれも、善意でよかれと思ってやっていることだが、これらこそが捨てるべき部分である。

これらにより、子どもは確実に自立しないので成長もせず、業務量も一向に減らない。

よかれと努力するだけ、子どもがどんどん成長の機会を奪われるともいえる。


ただし、子どもの自立への教育の初期コストは、非常に高い。

かなりの労力と忍耐力を要する。

自分がやったら簡単にできてしまうことを、辛抱強く見守る必要も出る。

時間も数倍かかる。

だから、日々の業務量も必然的に多くなる。


長期的な投資である。

短期で安易に大きく勝って儲けようとしないで、今は損をしているようでも耐えて、長期で見て勝ちにいく。

学級経営の基本戦略である。


4月早々、仕事が終わらなくて凹んでいた人もいるかもしれない。

それは決してあなたの業務能力が低いからではない。

全国各地、同じ思いの人だらけである。


4月から5月、季節は春から夏になるところだが、仕事的にはまだまだ冬の時期である。

しんどいことも後で花が咲くため、根を張るがんばり時だと思って、地道にやっていきたい。

2021年5月4日火曜日

学級を「シェア」する

 2022年度より、小学校の教科担任制の本格導入が決定した。


参考:東洋経済新聞 2021.4.13 小学校「教科担任制」4つの目的と気になる効果


学級担任の疲労を引き起こす原因は、単純な業務量だけではない。(しかしながら、これは多すぎる。)

大きな原因の一つは、孤独感である。

これは多くの研究論文でも明らかになっている。

要するに、学級の責任を一人で抱え込みすぎる。

そして、学級担任制とは、そういう風に感じるような制度設計である。


問題の根本・本質は、学級担任が、学級を「自分のもの」にしてしまうことである。

「学級王国」と呼ばれる状態こそが根本的原因である。


件の教科担任制を導入しても、実はこれは変わらない。

複数の教科担任の先生から「〇〇先生のクラスでは授業が成立しない」という相談を受ける事態が多く起きるだけである。

つまりは、学級担任の責任ということになる。(実は純粋にそれだけではないのだが、本人はそう感じる。)


ここは勘違いされやすいのだが、算数の授業が成立しないのは、実は単純に算数の授業が下手だからではない。

もし授業の論理だけならば、専科の授業で特定の学級のみが成立しないという訳がない。

それらは、実は学級経営上の指導の反映である、集団の在り方こそが大きな要因である。

極論、「何からも学べる」体制の子ども集団になっているのであれば、どの授業を誰がやっても成立する。


つまり現在は、学級経営を個人の力量に任せること自体に問題が生じている。

学級担任をしているのが経験が浅い、あるいは全くない若手の割合が多くなっているのだから、当然である。

大変だとわかっている学級を初任者や異動したての新任者にもたせているのは、それぐらいの人材不足という証である。


そうなると、今必要なことは、自分の学級を互いに「シェア」し合うことである。

教科担任に自学級を助けてもらうというよりも、自分も他学級に入り支える経験が必要である。

例えば、学年内で毎日一定時間交替して他学級に入って指導、あるいは観察できるような仕組みである。


そうすると、何が起きるか。

まず、自分の守備範囲が広がる。

野球に例えると、自分はセンターだけどライトとレフト、あるいはセカンドとショートのこぼれにもカバーに入るよという意識である。

(野球を知っている人にしか伝わらないかもしれない。)


余計に大変になるじゃないかと思うかもしれないが、逆である。

まず、他の場のことが知れる。

周囲の出来事が、自分事になる。

人間が苦悩するのは、自分のことばかり考えているからであって、関心を外へ向けるようになると悩みは溶解する。


さらに、他の人が自分の学級のことを知ってくれる。

同じ立場の人同士が、大変さも共有することで、分かり合える。

これは、自分のポジションのところにも周りがカバーに入ってくれるということである。


そして何より、子どもが嬉しい。

色んな先生が「担任」してくれるのである。

違いも楽しいし、自分と合う先生に会えるのも嬉しい。


「担任の先生と合わない」という事態は、普通である。

全国の各教室において、発生率100%に近いのではないかと思う。

「学級の全員が担任の先生と合う」という事態は、ある意味異常ともいえる。

そんな状況の中で一年中担任と子どもとがずっと一緒に過ごしたら、それこそ子どもによっては地獄である。

(これは、学級担任の側にもいえる。合わなくても誠実に相手をするのが責務であるからこそ、余計に地獄である。)


まとめると、要は新たに人を入れることよりも、今いる人員内で交替することが先である。

これには、追加の予算が全くいらないし,既に実施して成功している事例も複数ある。


学年あるいは学校内で、自分も複数の学級に入るし、学年の仲間も自分の学級に入る仕組みを導入する。

これは、担当教科自体を交替してもいいし、朝の会や給食などの特定の時間だけの担任を交替するのでもいい。

とにかく、自学級以外に入る機会を作り、「自分の担当学級」の範囲を広げ、「学年の子ども」として複数の目で見ることである。


ちなみに、朝の会に担任が交替して入るだけでも効果がある。

この手法を過去に実際に全校導入(一部学年除く)してもらい、2か月程度実験した。

実施した全ての学級において、9割を超えて「よい」という子どもからの評価である。

特に、学年の他の先生と話すことができるようになった、相談できるようになったという点で高い結果を示した。


ごく簡単にできることなので、真似できそうなら是非実施して欲しい。

実施開始時期のおすすめは、学級が担任と慣れて落ち着いた後の7月以降である。


学級担任が一人で抱え込まない仕組み作り。

そのためには、「シェア」がキーワードである。

2021年5月2日日曜日

否定の生産性

 木更津技法研での,野口芳宏先生からの学びのシェア。


サークルメンバーが、それぞれ国語の模擬授業を行った。

野口先生が全員の授業に対し、厳しく指摘した点がある。


それが、否定を恐れているという点。

子どもの意見を大切にしているのかもしれないが、否定がない。

「どれもいいね」で学力がつくなら授業は必要ないということである。


次のようにたとえられた。


音楽の授業で楽器を演奏している。

その時、子どもが間違えているとする。

「そこが違う」と指導者が指摘して教えてあげるはずである。


体育でも同様。

できていない時「それじゃだめだ」と教えてあげるのが指導である。

鉄棒やハードル走などでは特に大切で、誤ったやり方を続ければ、大けがにつながる。


算数ではどうか。

このブログ上でも何度も出しているたとえだが、

九九で「7×3=27」(しちさんにじゅしち)

と子どもが言ったとする。

「21に音も似てるし、いいね」と言って流していたら、大問題である。

きちんと「7×3=21」と正しい言い方に直すよう指導する。


どの教科でも、きちんと否定している。

否定によって、良い方向に子どもが変容している。

否定の生産性である。


さて、これが国語だとどうか。

「それもいいね」「これもいいね」になってしまっていないか。

誤読を誤読と気付けるのは、指摘があってこそである。

否定を恐れて子どもが良くなる機会を奪ってしまっていては、本末転倒である。


生活指導にもいえる。

集団生活において、子どもに正しくない行為がみられる。

人に迷惑をかけるような行為は慎むべきことである。

個人の自由はお互いに他人の権利を侵害しない範囲で尊重される。

自分がやりたいことより、他者の権利、とりあわけ安全・安心を守ることは最優先される。

原則的なルールを教える必要がある。


否定すべきでないところまで否定するのが問題なのである。

例えば宗教の場合がわかりやすいが、お互いの考え方の違いまで否定するのは、それ自体が間違いである。

一方で、最適な解がきちんとあるものなど、否定すべきところはきちんと否定するのが、教育である。


人は人によって人となる。


カントの有名な言葉である。


単に種としてのヒトが、他人(教育)によって、人間となる。

自然のままに放置しておかないのが教育である。

適切な手入れをした上で、本人のもつ自ら伸びる力を信じるのが教育である。


否定の生産性。

何でもありの風潮にある時代こそ、心に留めておきたい言葉である。

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