時間があったのなら、学級懇談会で本当はしたかった話。
(全く足りなかったために、しなかった。)
「タレント」ときいて、何を思い浮かべるか。
テレビなどに出る有名人を思い浮かべる人が多いと思われる。
「タレント」(talent)とは、才能のことである。
語源としては、もともと貨幣の単位である。
聖書の中に「タレントのたとえ」という話がある。
ある人が旅立つにあたり、自分の3人のしもべに対し、留守中にとそれぞれ次のお金を渡した。
Aには5タレント、Bには2タレント。Cには1タレントである。
この人は旅から戻ると、しもべに渡したお金を清算するよう言った。
Aは5タレントを10タレントに増やして返してきた。
大いにほめた。
Bは2タレントを4タレントに増やして返してきた。
同じく大いにほめた。
Cは1タレントを「なくさないように」と土中に大切に埋めていた。
掘り返してそのまま1タレント返した。
これには「怠け者め。けしからん」と叱った。
このたとえ話には、才能というものに対する教訓が多く込められている。
Aは、人が羨む優れた才能の持ち主である。
そして、その才能を十分に生かし、元の倍にした。
Bは、Aほどの才覚はなくとも、堅実にその才能を生かした。
そして、きちんと元の額の倍にした。
AとBは同様にほめられる。
タレント(才能)を、元の倍にしているからである。
Cが叱られたのは、額の小ささではない。
与えられたタレント(才能)を生かさなかったことに対してである。
もしCが努力してそれを生かし、倍の2タレントにしていれば、同様に大いにほめられたはずである。
AとBとCのもつタレント(才能)自体を比べることは無意味である。
初期に与えられた額も違う。
問われるのは、それぞれの中でどれだけ伸ばせたかという点である。
誰かと比べて出来不出来を責めるのは、無意味どころか有害でしかない。
求めるべきは、もてる力を精一杯生かしているかという点である。
さらに考えるべきは、タレントというのはあくまで与えられたものだということ。
最初から自力で獲得したわけではなく、有難く与えられたものだという自覚をもつことが重要である。
子どもたちそれぞれのもつタレント(才能)は、全く違う。
たとえ話はわかりやすくしただけで、実際は種類も別で、金額の多寡で決まるものですらない。
種類も全く違うということは、比較もできない。
学問系で発揮する子どもいれば、運動系で発揮する子どももるし、芸術系で発揮する子どももいる。
それぞれのもつタレント(才能)を最大限に伸ばすことに全力を尽くしたい。
タレント(才能)という面から見れば、知識や技能の伸びは、それぞれなのである。
論理的にどう考えても、一律にいくはずがない。
全員に教えることができるのは、心構えぐらいである。
自分のもつ才能を最大限に発揮しようと努めること。
それは、他人の才能を尊重することにもなる。
学級という偶然の集団においては、お互いを比べるではなく、お互いを「いいね」と言い合える関係を作っていく。
学級ではそういうことをこそ教え、求めていきたい。
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