子どもを可愛いと思う。
ごく自然なことである。
(そして、可愛いと思えないという人がいてもいいと思う。
毎度乗り合わせる電車や通勤路で騒がれていたら、子どもが嫌になるのも当然である。)
特にわが子であったり、担任している低学年の子どもたちであれば、可愛くあって欲しいと思ってしまうのが「親心」である。
いつまでも幼く可愛らしく、やや頼りない存在あって欲しいと思ってしまう。
しかしながらこれは、完全に大人の側のエゴである。
当たり前だが、いつまでも幼いまま、甘えられていては困る。
頼られるのは嬉しいことかもしれないが、いつ手を離すかということである。
極端な例だと、成人して就職しても「ママがいないと怖くて会社に行けない」などという、もはや笑えない事態もある。
有名な言葉で、次のものがある。
ネイティブアメリカンの「子育て四訓」である。
一、乳児はしっかり肌を離すな。
一、幼児は肌を離せ手を離すな。
一、少年は手を離せ目を離すな。
一、青年は目を離せ心を離すな
だんだんと自立させていけということである。
教育の要諦である。
親が我が子をつい甘やかしてしまう、可愛がりすぎてしまうというのはわかる。
しかしこれを、学級担任までもがやってはいけない。
私は過去再三述べているが、一年生をなめてはいけない。
つい先日まで幼稚園や保育園、子ども園で「最年長」として活躍していた人たちなのである。
それら保育現場や幼児教育の先生たちが小学校の運動会の発表などを見ると、内心「がっかり」することがあるという。
「もっとできるのに・・・」と。
また、過去に学校内で様々な提案をしてきた時にも、同僚に
「一年生には無理です」とよく断られてきた。
「先生は担任したことがないからわからないでしょうけど」ということである。
そういうこともあって、数年前に一年生をもたせてもらえたのは本当に「念願」の出来事であった。
実際、一年生の6月にして公開研究会でクラス会議を見せられたし、それは話合いの形になっていた。
そして実際に様々なことが「できる」一年生に育った。
恐らく、担任の私自身が「一年生には無理」という概念を一切もっていなかったことも大きな要因である。
そういう経験もあり、子どもが「できない」ということはないと考えている。
大人がそうさせただけである。
だから、低学年であっても、大抵のことはやらせればきっとできる。
同じことを言うが、子どもを決してなめないということである。
できなくて幼い感じを求めない。
その代わりに「自分でできる」「かっこいい」を求める。
そのためには、助けられる側よりも助ける側に回る経験を多く積ませることである。
子どもを真に愛情をもって可愛がるとは、子どもを立派に自立に向けて鍛えることである。
学校は、あくまで集団生活における学びの場であり、テーマパークよりもお寺に近いと考える。
私の尊敬する教育の大家、野口芳宏先生の言葉にも
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」
とある。
(出典:『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』さくら社
)
預かる側も預ける側も、そのような意識をもつと、子どもの育ちがまた変わってくるものと思われる。
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