教育においては、丁寧さが求められる。
特に低学年担任では、顕著である。
幼い相手を、大切にしようという視点である。
これ自体はとてもいい。
しかし、丁寧も度がすぎると、時として迷惑、害悪にもなり得る。
例えば、話し方。
丁寧に話そうとすると、次のようになる。
「皆さん、今からお話をしますよ。
いいですか?
今から、音楽室に持っていく持ち物を言いますからね。
よく聞いているのですよ。
まず、筆箱をもっていきます。
次に、教科書をもっていきます。。
それと、歌集をもっていきましょう。
わかりましたか?」
とても丁寧に伝えようという親切心、優しさがある。
しかしながら、長い。
長すぎる。
文章を打っているだけでも疲れる。
ワーキングメモリの少ない子どもなら、3行目の「今から~」のくだりでメモリオーバーである。
次のようにずばり言えばよい。
「音楽室に持っていくものを言います。
筆箱、教科書、歌集。
この3つです。」
これなら伝わる。
もっと短くできる。
「持ち物を言います。
筆箱、教科書、歌集。」
指を1本ずつ立てながら言えばより効果的である。
ただし、大前提があって、この言葉を発する時に、聞く姿勢ができているということである。
大騒ぎしている中で発しても伝わるわけがない。
つまり、聞く姿勢をつくるという方の指導にこそ注力すべきである。
さらにいうと、一言も発しない方法もある。
持ち物を板書すればよい。
書く手間がある分、この視覚情報は多くの子どもにとって、最も助かる方法である。
教室が多少騒いでいる状態でも、かなりの程度伝わる。
ただし「話を聞く」という力をつけたいなら、やはり聞いてわかるように指導する場面も多く必要である。
親切心で毎回書いていたら、いつまで経っても、聞く力は身につかない。
要するに、丁寧すぎるそのやり方が、混乱を招いているかもしれないと疑おうということである。
低学年だからといって、丁寧にやりすぎる傾向がある。
丁寧というより、単にくどいだけになっている可能性がある。
これは、話し方に限ったことではない。
あらゆることに、その可能性を考える必要がある。
大人が口や手を出しすぎていないか。
補助輪は転ばないために便利だが、一体いつのタイミングで外すのかということである。
丁寧よりも、短くズバリ。
敢えて丁寧な方法をとらない。
親切心があるからこそ、心がけるべきことである。
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