2017年10月30日月曜日

字が下手な教師の苦悩

教育実習を通しての学びのシェア。

教育実習生はまだ学生だからといって、侮れない。
子どもが教師より優れている面が多々あるのと同様、教育実習生の方が優れている面もたくさんある。

例えば、体力。
多くの場合、ここはまず勝てまい。
若さに至っては、もはや「設定」の違いである。
例えば、字。
これはもう、完敗である。
ただでさえ勝てないのに、中にものすごいきれいな字を書く実習生がいる。
黒板の字が、芸術的ですらある。
完全に「参りました」という感じである。

ただ、当たり前だが、これは授業が優れているということとは、別の話である。
黒板の字がきれいなのである。
美しい文字の書き方はこの学生に教えられないが、他の面はたくさん教えることができる。

ここまでは、普通に考えるところである。

問題は、ついここを裏返しに考えてしまうことである。
「字はきれいだけど、授業はね。」というのは、オヤジな考え方である。
私は、字が下手だ。
でも、授業はできる。
だから、大丈夫。
この論理は、「論点のすり替え」というものである。
詐欺師の手法である。

「字が下手」と「大丈夫」には、論理的つながりはない。
「字が下手」と「授業に支障がある」は、論理的つながりがある。
字が下手だと、授業にマイナスの効果が働きやすい。
字がきれいな方が、いいに決まっているのである。

一方で「字がきれい」と「授業が上手い」も、論理的つながりはない。
「字がきれい」に「授業にプラスの影響がある」は、論理的つながりがある。
字がきれいな方が、見やすいし、見ていて気持ちがいいからである。
だから、教師にとって、字がきれいに越したことはない。
残念ながら、その点においては、どんなに論理を展開しても完敗である。

もしできないことの正当化をしだしたら、罪悪感をもっている証拠。
「字がきれいでも授業は別だからね」
と考え出したら、かなりコンプレックスを抱えている。
私はついそういう考えが頭をよぎってしまったので、自分自身に残念な思いがした。
しかし、このコンプレックスを抱えながら生きていくしかないのである。
(開き直ってないで改善する努力をしろという声が聞こえるが、本人としては百も承知である。)

私は字が下手だから、せめて少しでも内容的にましな授業をしよう。
そう思わされる、芸術的に字の上手い実習生からの学びだった。

2017年10月28日土曜日

薫陶の教育

前号の続き。
教師と子どもの願いのギャップを埋めることが大切。

しかし、教える側の願いの方が強く出ざるを得ない場合もある。
例えば授業研究として行う場合は、ある程度仕方がない。
明らかにしたいことのために、その時の子どもに付き合ってもらうことになる。
願いが、教える側の方に強く明確にある。

ただ、それは言うなれば特殊状況であって、本来は子どもの願いが先にあって然るべき。
子どもの育ちたい方向に、どうすればうまく伸びるかを手助けする。
それが「理想的な」教育の姿である。

「理想的な」としたのにも意味がある。
理想的ではあるが、あまり現実的ではないのである。
子どもの側は、願いをもつ以前に、知らないことが多すぎるためである。
そして、本能的な願いのままだと、あまり社会的に望ましい方向に行かないことも多々あるためである。
そのままだと、「自然」に野放図に伸びるだけになってしまう。
何度も言っているが、野口芳宏先生の「教育とは自然のままにしておかないこと」とは、至言である。

例えば様々な体験は、親が連れ出すからこそできる。
何の前触れもなくいきなり「ダイビングがしたい」という子どもはいない。
海の底の美しい世界を知り、憧れる機会から、子どもの願いが始まる。
実際に行ってみて、「もっとやりたい」となり、それが場合によっては生涯の仕事や趣味になることもある。
そういった豊かな体験活動は学校教育では限界があり、家庭教育や社会教育が主に担う分野である。

例えば、電車のマナーは、教えないと身に付かない。
「騒ぐと周りの人が不快」など、幼い子どもに想像できる訳がない。
「閉まった踏切をくぐると危険」というのも、電車のルールを事前に知ってこそであり、勝手に覚えるのを待っていたら取返しがつかないことになる。
これらは、子どもの願いは関係なく、教える側が一方的に明確なねらいをもって教えるべきことである。

学校は、この種の集団社会としての教育がかなり多い(というより、大半である)。
それがいつの間にか教える側の願いが常に優先されやすい状況を生むようにも思う。
本来、学問は楽しむものであるのに、お互いに義務みたいになってしまうのは、こういう仕組みのせいもあるかもしれない。

ちなみに、「育成」「養成」の関連語として「薫陶(くんとう)」がある。
「香を焚いて薫りを染み込ませ、粘土を焼いて陶器を作る意から、
優れた人格によって子供や弟子に影響を与え、立派に教育すること。」
である。
松下幸之助氏の言う「主体変容・率先垂範」の重要性がよくわかる言葉である。
できれば、親も教師も「薫陶」を目指したいものである。

「共育」という言葉がある。
やはり、教える側も教わっていて、一緒に育つ。
教育は、いつでも互いの願いをすり合わせる行為なのかもしれない。

2017年10月26日木曜日

授業における教師と子どもの願いのギャップを埋める

教育と育成・養成の話の続き。

例えば学校や家庭で「こういう約束にしたはずです」と子どもに説教する場面がある。
子どもは、そんな約束をした覚えがあるまい。
こちらが勝手に都合で「〇〇しましょう」「この行事の目標は〇〇」と設定しているだけのことが結構ある。
その姿にこちらが「育成」したいだけであり、子どもの願いは置いてけぼりである。

子どもからすれば、本来「遠足の目標」など知ったことではない。
本当の願いは「友達と一緒に思いきり遊びたい」だけである。

だからといって「自由にさせればよい」ということではない。
ここが難しいのだが、子どもからすると思いきり遊んでいるだけのようで、実はこちらの願いも達成しているというのがベストである。
そうでなければ、わざわざ教育の場として設定する必要はなく、単に時間と場を与えて遊ばせればいいだけである。

同じ鬼ごっこでも体育の授業でやるものと休み時間にやるものは、やはりねらいが違うのである。
前者には教える側の願いがあるが、後者には子どもの願いしかない。

学校教育には「目指す姿」があるからこそ、わざわざ学校に来させて行っているのである。
この願いのギャップを埋めていくこと。
授業を考えていく上での基本中の基本である。

2017年10月24日火曜日

「教育」と「育成」「養成」

教育とは文字通りに見ると「教え育てること」。
広辞苑でも明鏡でもブリタニカでも、どれでも同じ表記がなされている。
世間一般の定義としては確定しているといえる。

しかし、実際の自分の実感としては、順番が逆である。
育つが先で、教えるが後。
育つ力が先にあって、教えることでよりよい方へ向かう。
そんなイメージである。
ただ、教育の主語は教える側なので、「育つ方向に教える」よりも「教えて育てる」という順番になっていると思われる。

「教育」に似た言葉に「育成」「養成」がある。
違いは何か。
こういうのは「類語例解辞典」で引いてみる。
どちらも「立派に育てる」という意味をもつ。
「養成」が「訓練して一定水準以上にする」で、「教員養成」「体力の養成」などの使い方をする。
「育成」も同じだが、育てた結果を重視する言い方で、「青少年健全育成」「植物の育成」などの使い方をする。

「養成」の特徴は訓練。
教員も体力も勝手には育たないという前提からの、外的な働きかけである。
「育成」の特徴は結果。
目指す基準がある程度はっきりしていて、その到達への働きかけである。

我々が携わるのは「教育」である。
特に「学校教育」「家庭教育」「社会教育」の3つ。
どれも本来、子どもが生来もつ力を引き出す営みである。

ここが、少し、おかしくなってはいないかと思う。

何かというと、時に「養成」「育成」に偏りすぎていないかということである。
育てる側の願い(到達目標)がはっきりしすぎていて、子どもの側の願いを置いてけぼりにしていないかと思うことがある。

長くなったので、次号から具体例を挙げて続けていく。

2017年10月22日日曜日

界王拳より「捨てる」工夫

時間は有限だから、能率よく使いたい。
そこで単純に考えるのが、スピードアップ。

例えば、小テストの〇つけ。
1枚20秒でつけるところを、10秒で終わらせる工夫をする。
倍の速さであるため、能率は2倍である。
限界まで高めていったら、5倍ぐらいまでいけるかもしれない。
(ドラゴンボールの「界王拳」みたいな話である。)

しかし、このスピードアップには、限界がある。
根本的に考え直す。
そもそも、〇つけをしないとしたら。
作業時間はゼロである。
これは、何百倍とか何千倍のレベルではない。
発想の転換である。

これが、新刊の『「捨てる」仕事術』の基本的な考え方である。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
作業スピードを上げるのではなく、そもそも、やらない。
代わりに、価値のあることに、コストをかけていく。

すべての小テストの〇つけに価値がないとはいわない。
何のためにやったかである。
到達度を測るためにやらせたのなら、そこの正誤は見極めたい。
しかし、やらないで済むものはやらないでもよい。
子ども相互で〇つけをさせてから回収する手もある。

例えば作文は、書かせることが大切である。
残念ながら、朱を入れることで学力がつくことはない。
書くことで学力が形成される。
ともかく、書かせることである。
教師が読むことにさほどの意味はない。
だったら、作文を書かせることは捨てないで、朱を入れる方を捨てた方がよい。
(ここを往々にして、逆の手段をとってしまう。
朱を入れるのが面倒だから、作文を書かせないのである。
本末転倒である。)

つまり、「捨てる」の目的は、得るためである。
大切なものを得るために、捨てる。

朝の時間が少ないなら、やらないで済むことを捨てればよい。
朝に着る服を迷う時間が無駄なら、これ自体を捨てる。
日曜日の昼か夜にでも1週間分の服を決めてクローゼットに順番に吊るしておけばよい。
Facebookのマークザッカーバーグのように、毎日同じ服しか着ない手もある。
それによって、意思力の消耗が防げる上に、時間も生み出せる。
一石二鳥である。

何でも、工夫しだいである。
そのヒントとなる考え方を提示して、全国の先生方の元気を引き出し、子どもの笑顔につなげたい。

2017年10月20日金曜日

どうせなら残業しない工夫を頑張る

拙著『「捨てる」仕事術』の本文からの引用記事。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
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「頑張る」というのは教員に限らず職業人にとっては当たり前のことであり、何ら褒められることではありません。
================

今回の本は結構、書きたい放題書いている。
この文なども、これ単体で見ると、結構きついことを書いている。
しかし、事実である。

仕事を頑張るというのは、当たり前のことである。
問題は、頑張るというエネルギーと時間の配分である。
どうでもいいことに頑張るのは、無駄なだけでなく、マイナスなのである。
なぜなら、時間とエネルギーは有限であり、無駄に使った分のしわ寄せが、本来必要な部分にいってしまうからである。
本来やるべきことを削ってしまうからである。

頑張って残業するというのは、頑張り方が間違っている。
残業は、その前を頑張らなかったから生じるものである。
もっと正確にいうと、がむしゃらに頑張るだけで工夫しなかったから起きる状況である。
それを何年やっても、同じことが起き続ける。
果てには「これが常識だ」「仕方ない」とのたまわるようになる。

業務量自体の多さは嘆いても減らない以上、自分で工夫するしかない。
そして現実には、多分、残業ゼロにはならない。
私も含め、この課題をクリアする工夫が思いつかないからである。
知識・智恵不足である。
だから何度か紹介しているように「残業デー」をつくるという発想も必要になる。

頑張るのは、残業ではなく、仕事の工夫の方である。
仮に「頑張る」の総量は全員同じだと考える。
すると、残業しない工夫をすることに頑張る人が、結果的に成果を出すようになる。
今の時代に求められるのは、長く働くことではなく、成果を出すことである。
これも本文からの引用だが、
「部下には頑張ることよりも、成果を期待していることを忘れないようにしましょう。」
である。

10月は、まだまだ寒暖差が大きい。
ここで体調を崩しては元も子もない。
健康第一を考えるのならば、残業しない方の頑張りを求めていきたい。

2017年10月18日水曜日

制限が自由を生む

新刊『「捨てる」仕事術』に関連して、制限の話。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

捨てるという行為は、制限そのものである。
例えば「机の上のモノを9割捨てる」という項目がある。
要は、机の上に置くモノを制限するということである。
野放図にあれこれ置かない。
制限をかけることで、余計なものが載せられなくなる。
具体物で制限の練習をしておく訳である。

第1章の「時間術」は、まさにこの制限が肝である。
「休日出勤を、捨てる」という項目は、この制限の一つ。
人間は「タイムリミット」があれば、そこまでに終わらせようと必死になる。
いわゆる〆切効果である。
これを使うと、仕事効率が一気に上がる。

逆に〆切がない状態というのは、「パーキンソンの法則」で考えるとよくわかる。
この第一法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というものである。
つまり、余裕がある分まで、完了が伸びる、あるいは単位時間あたりの仕事量が希釈されるということである。

だから、休日出勤も、無計画な残業もダメなのである。
仕事がそこまで膨張してしまう。
結果、仕事の筋力は弱いままになる。

今私は、毎日教育実習生の指導をしている。
教育実習生には、時間の制限がある。
だから、あの短期間で、何とか指導案を書いてやりきれる。
多少無理ができるのも、時間制限があるからである。

時間に、制限をかける。
タイムプレッシャーである。
適度なプレッシャーは、実力を引き出す。
結果、仕事が早く終わり、生まれた時間を自由に使えるようになる。
要は、制限が自由を生み出す。

時間制限を意識してかけているか。
仕事の能率がいまいち上がらないという方は、見直してみて欲しいポイントである。

2017年10月16日月曜日

助け合うとは、デメリットの共有

月曜日ということで、仕事にやる気の出る話を。
私の大好きな作家である、中谷彰宏さんの言葉を3つ紹介する。
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助け合うとは、メリットではなくデメリットを共有することだ。

人を助けることは、ひたすらきれいごとでは済まない世界。

優しいとほめられることを求めない。
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道徳でも「協力」や「思いやり」は大切な内容である。
しかし、実践すると、これが難しい。
人間は、自然と自分の損得を優先してしまうからである。

せっかく行くのなら、人気の美味しい店がいい。
値引き交渉で安くなるならそうしたい。
大混雑の中で並ぶのも面倒だし、満員電車なら椅子にも座りたい。
くじ引きなら自分に当たって欲しいと思う。

どれも、「相手が損しても自分が得したい」という面があることが否めない。
別に否定すべきことではなく、当然のことである。

だからこそ、助け合うということは、意識と覚悟が必要である。
メリットではなく、デメリットの共有。
パンが一つしかないなら、自分の取り分が減っても相手に半分に分けることを厭わないかである。

汚れている場所があったら、自分の手を汚してもきれいにすることである。
自分の手は汚さないできれいにしたいなどというご都合主義は通らない。

さらに、がんばったから褒められるなんて思わない。
優しくしたから感謝されるなんてことを求めない。
そういう期待を先にするのは、損得勘定の世界を離れられていない証拠である。

何かをさせてもらっている、助けさせてもらっている。
役割を与えられるほど、有難いことはない。
そこに気付くことで、感謝も生まれ、幸福感につながる。
幸せとは、気付きである。
不幸とは、目の前の幸せに気付かないことである。

今日からまた一週間、働けることに感謝したい。

2017年10月14日土曜日

保育園のお迎えに行ける父親に

新刊『「捨てる」仕事術』に関して、読者の方から有難い感想をいただいた。

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「本を読んでから家族と相談し、週2回残業デーを設定することいしました。
これで平日も保育園の迎えが出来そうです。
ありがとうございます!」
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もう、この1通だけで、本を出して良かったと思えた。
「教師にもっと楽しい人生を」というコンセプトで書いた本なので、本当に嬉しく思った。

ところで、読み飛ばさないで欲しい。
「週2回残業デーを設定」である。
決して「週2回ノー残業デー」ではない。
ここがポイントである。

詳しい解説は本に書いてあるが、ここの意識の差である。
多忙すぎる教師には、「残業デー」を作ることが大切なのである。
異常な業務量の中、ノー残業デーを目指すメンタリティのままでは、この多忙感から脱することは難しい。

この方は、「家族と相談」して、「残業デー」を設定したのである。
嬉しいことである。
何より嬉しい記述は、「これで平日も保育園の迎えが出来そうです。」
というところ。
子どもと奥様の笑顔、そして何より、我が子を迎えに行く本人の最高の笑顔が、目に浮かぶようである。

私自身、幼少の頃から、家には父親がいないことが普通だった。
小学生になってからは、夕飯時に母親もいないことさえ、普通のことだった。
諸々の事情があり、仕事で忙しかったのである。
(後できくと、生活のために泣く泣くのことだったようである。)

夕飯時に家族が揃っているというのは、子どもの頃の私にとって、夢の風景なのである。
父親が夕飯時に帰ってくるなど、望むべくもなかった。
バブル真っ盛り当時の流行CMのキャッチフレーズは、
「24時間、戦えますか。」である。
当時のビジネスマンは、戦えたのかもしれない。
しかし、そのビジネスマンの背景にいる家族は、それを望んでいたのか疑問である。

仕事をがんばることはいい。
しかし、それが、自己満足で終わってはいけない。
家族や周りを犠牲にしているようでは、カッコいい働き方とはいえない。
自分の人生なのだから、自分で選択すべきである。
残業だって、自分の選択
保育園のお迎えだって、自分の選択。
働きながら保育園のお迎えにも行けるというのは、結構カッコいいと思う。

多くの方に読んでもらい、働き方の見方を変える一助になればと思う。

2017年10月12日木曜日

いじめ解決が絶対の理由

学級でのいじめは絶対に解決すべき理由について。

前号で、行動を変えるには理由付けが大切ということについて述べた。
そして理由付けには、欲求段階を考えることも大切であると書いた。
これは、学級経営における子どもの行動にもいえる。

「生理的欲求」は最優先される。
飲食店がいつまでもなくならないのは、生理的欲求が日ごとに起きるものだからである。
「1ヶ月分食べたから1ヶ月食べたくならない」となれば、飲食店経営も立ち行かなくなる。
「寝だめ」ができないと知ることも、早起きの習慣をつける上で大切な知識である。
そして「寝だめ」はできないが、「睡眠負債」はできるところがまた厄介である。
早寝早起きとまでいかなくても、子どもが睡眠不足や朝ご飯抜きで登校していてはダメな理由はここである。
欲求段階の最下層で満たされていないのに、やる気が出るはずがない。
(これは、大人でも当てはまる。)

次に「安全欲求」。
心身の危険にさらされないことである。
日本に普通に暮らしている以上は、ほぼ満たされる。
家庭にDVや虐待といったことがあると、ここの欲求段階で止まる。
今では大分減ったと思うが、ミスをすると殴られるといった異常に暴力的な部活動などもここの段階である。
死なないように生きることに必死という段階であり、野生の動物と同じ過酷な状況である。
戦争中に生きると、この段階に多くの人が留まると予想される。
はるか昔だと、村ができて稲作ができるまでは、どの人間もこの段階だったのではないかと推測できる。

さて、衣食住足りて安全となると、次の「社会的欲求」の段階に進む。
集団に所属したい、仲間として認められたいという欲求である。
いじめられていると、この段階に留まる。
いじめがあるクラスで何をやってもうまくいかないのは、このためである。
次の段階に行こうという欲求が生じない。
ただ自分が集団からはじかれないことに全神経を集中することになる。
一人でもいじめられていれば、本能的に「明日は我が身」と感じ、防衛本能が働くのみである。

ここまでが「外的に充たされたい」という欲求の段階である。
これさえ満たされないで、次の「内的に充たされたい」段階には進めない。
どんな素敵なお題目も、机上の空論であり、無駄である。

いじめをどう解決していくかということは、また別の機会に書くが、とにかくまずはここ。
絶対にいじめを放置してはならない。
学級経営における基本的な重要ポイントである。

2017年10月10日火曜日

朝寝坊の正当化を倒す

新刊『「捨てる」仕事術』の中から、早起きの習慣について。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

今回の本のねらいの一つとして、忙しくて倒れそうな日々を送る多くの方への、生活習慣の改善がある。
生活習慣の改善というとハードルが高いと感じるかもしれないが、ここでの提案はシンプルである。
悪い生活習慣を「捨てる」ことができる理由を付ける。
良い生活習慣を「選ぶ」ことができる理由を付ける。
習慣を変えるにはこの「理由付け」が非常に大切である。

身近な例だと、夏休み明けの出勤や登校。
夏休み中に「遅寝遅起き」のだらだらな習慣が身についてしまった人も、そこから行動が一変する。
なぜか。
そこに正当な理由付けがきちんとされるからである。
「行かなくてはならない理由・行った方がいい理由」が山ほど挙げられる。
登校・出勤するという他からの束縛を受け容れざるを得ない理由ができ、実際の行動に移せる。
そこに「行かなくてもいい理由・行かない方がいい理由」が勝つと、不登校や出勤拒否等の状況が生じる。


私の尊敬する野口芳宏先生は、これを
「他律的自律」
という短い言葉で表している。
要は、人間の意思は弱いのだから、他からの価値ある束縛を進んで受けることで、我が身を律するということである。

さて、今回の『捨てる!仕事術』の中に
「土日の朝寝坊を捨てる」
という項目がある。
まあ、これだけ聞けば、
「早起きが大切なんでしょ。そんなことわかってる。けど自分にはできないの!」
とお叱りを受けるであろうことは容易に想像できる。
それは百も承知である。
そこに対し「早起きする理由」「土日朝寝坊しないでいい理由」を挙げている。

本の中にも記述しているが「朝寝坊の正当化」が最も手強い相手なのである。
「眠いから寝るのが正しい」という理由が100個、起きかけた頭の中を駆け巡り、あなたを朝寝坊の誘惑に陥れる。

手順としては
「朝寝坊の正当化を倒す」

「早起きする理由付けをする」
となる。
つまり、マイナスをゼロにして、ゼロをプラスにする、というステップである。
逆ではうまくいかない。
マイナスを生じると思われる状況では、人は動けない。
マズローの欲望5段階説でも「生理的欲求」「安全・安心」の方が根本欲求である。
「睡眠」などは、もろにここに当てはまる。
早起きしてもこの2つを満たせるということを脳に刷り込む必要がある。
そのための、理由付けである。

読んでいる内に、「こんな考え方も有りかも」というように思えるようになるかもしれない。
一つ信用して、読んでいただければ、何かの一助になるのではないかと期待している。

2017年10月8日日曜日

教えること以上に、教わっている

教育実習がまた始まる。
実習期間中は、教える以上に自分が学べる。
視点が新鮮なのである。

実習生から、一日の中で気付いたことへの質問を受ける。
質問の内容は、かなり根本的なことが多い。
「当たり前」に流れていて「何のために」が抜けていると答えられない質問である。

例えば
「授業の始まりに日直が号令かけないのはなぜですか?」
という質問が来る。
(教室によっては「日直が号令をかけるのはなぜですか?」になる。)

意図的に行っているので、理由を伝えられる。
いきなり教えないで、「なぜだと思う?」と一旦問い返して、考えを引き出す。
この辺りは、授業をする時の手法とほぼ同じである。

一通り聞いてから、自分の解を示す。
同時に、これが万人への正解ではないことも伝える。
今の相手に対し、今の自分ならこうするのが最も良い、と判断しているからである。

ちなみに、私は現在、授業の始まりでは一旦黙って姿勢を正し、こちらから先に礼をする。
それに合わせて、子どもと同時に礼をし「お願いします」と伝え合う。
この「お願いします」の相手も、誰なのか、一度子どもとも共通理解しておく必要がある。
(この辺りは他でも色々書いているので割愛。)

こんな具合に、普通にやっていることを改めてふり返る機会がもてる。
授業研で、参観者から質問をされて考えが深まるのと同じである。

教えること以上に、教わること。
目の前の相手には、教えているようで、教わっている。
子ども相手にもいえることである。

2017年10月6日金曜日

心は見ているもののようになる

最近読んだ本からの学び。
「被災地に学ぶ会」に参加した際、次の本をいただいた。

『すぐに結果を求めない生き方』鍵山秀三郎著 PHP研究所
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83854-0

この本の中で、
「人間の心は見ているものに似ていく」という言葉がある。
掃除が心をつくるということに繋がる話である。

全くその通りであると実感する。
特に学級の様子は、教室等のものの状態でわかる。
雑巾の干し方一つでも、ロッカーでも靴箱でも何でもいい。
見るからに荒れていれば、何かある。
当たり前だが、人間にはきれいな環境の方が快適である。
ほこりだらけだったり、ウィルスまみれの空気がいい訳がない。

心は見ているものに似てくる。
きれいなものを見ている方が、心が安らぐ。

ここをつくるのが掃除だが、掃除は「きれい」のきっかけである。
掃除を一生懸命やっていると、色々なことに気付く。
気になっていなかったところが、汚いことに気付く。
それを磨く。
自分の手が汚れる。
それがやがて、気にならなくなる。
「後で洗えばいい」という精神になる。
無私に近付く。

とはいえ、自分の手を汚すのは、普通は嫌である。
普通だからこそ、修行。
見ているもののようになるのだから、自分の目には、きれいにする自分を見せてあげたい。

2017年10月4日水曜日

1を積み重ねて

第29回被災地に学ぶ会のレポート。

今回も、向かった先は南相馬。
街自体は少しずつ復興に向けての動きが進んできているようである。

しかし、ボランティアセンターの方の話では
「復興したからもう大丈夫、というメディアの情報の誤解が一番困る」とのこと。
復興に向けての動きが進んでいるといっても、決して復興した訳ではない。
今回の支援先である小高区では、未だに震災前の人口の6分の1しかいない。
1万2千人中、1万人は帰ってきていないのである。
やっと帰る人たちが出てきたからこそ、以前よりもさらに人手不足になっている。
今後も、ボランティアの参加は大歓迎である。

さて、今回の支援先も、個人宅。
かなりの敷地に、草木がびっしりである。
しかも、斜面やら水路やらで囲まれており、草刈りにはなかなか手強い形をしている。

今回は、依頼主の方が所用により不在の状態での作業である。
作業に取りかかる前に、リーダーの村田先生に尋ねてみた。
「この敷地は、今後何に使うつもりなんでしょうね。」

私としては、用途がわかった方がどこまでやるといいかがわかるし、やり甲斐も出るだろうと思った訳である。
村田先生は、全体の前で次のように話された。
「依頼主の方は、きっと途方に暮れていることと思います。
どこから手を付けたらいいかわからない状態です。
この敷地をきれいにすることで、依頼主の方は、希望がもてるのではないでしょうか。」

さすがリーダーである。
リーダーとは、集団に指針を示す人のこと。
この言葉で、一気に「がんばろう」という気持ちが芽生えた。

作業中も常に考えることは
「ここの見晴らしがよくなったら、気持ちがいいだろうな」
「ここが通れるようになったら、喜んでくれるのではないか」
というようなことばかりである。

しかし、がんばってはいるが、実際、暑い。
暑さにやられて水分補給をしながら周りの仲間を見ると、それぞれが熱心に作業に取り組む姿が見えた。
手作業で細かいところまで丁寧に刈り取っている人。
汗だくになって草刈り機を操るベテランの方。
仲間と声をかけあいながら、楽しんで協働している学生グループ。

どの人も、いきいきしているように見えた。
そう、この会の名前は
「被災地に学ぶ会」。
学ぶことは、喜びであり、楽しみである。
依頼主の方の喜ぶ姿を想像しながら作業しているに違いないと思った。

午前中から昼食をはさみ、4クールを経て無事作業終了。
ビフォアーアフターよろしく、すっきりとした敷地を眺め、全員で記念撮影をした。

今回の作業も、復興に向けた小さな一歩でしかない。
しかし、小さな事を成し遂げずに、大きな事を成し遂げることはできない。
どんな大きな数でも、すべては1から成り立つ。
これからも、小さな1を積み重ねていきたい。

2017年10月2日月曜日

助けさせてもらうボランティア

今日は、被災地復興支援の話。

新刊『「捨てる」仕事術』の
「お金にならない仕事をやってみる」
という項目から、やや長めに引用する。
==============
(引用開始)
ボランティア活動は、教員の仕事を離れて、社会を見る目を養えます。
例えば、私の知人の方が主催している「被災地に学ぶ会」という活動があります。
この名称がポイントで「被災地を助ける」ではなく「被災地に学ぶ」なのです。
被災地に行けば、学べることは数知れません。
「助けに行く」というより「助けさせてもらう」という方がより正確です。
被災地に行くと、他人事が、自分事に近付きます。
同じ日本人としての意識もはたらきます。
日本の問題を、自分事として捉える機会にもなり、日本社会を見直す視点ができます。
それは、確実に授業でも役立つ力です。

そしてボランティア活動の理念は
「できる人が、できる時に、できることをする。」です。
余裕がないと、なかなか難しいものです。
仕事を真剣に精選している人だからこそ、やれるともいえます。
人の役に立つことをするという、仕事本来の目的も改めて見直すこともできます。

目の前の損得を抜きにして、「尊」「徳」を優先する。
余裕ができた時こそ、そんな機会を自らつくっていきましょう。
(引用終了)
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何か、読み直すとえらそうな印象を受けないこともないが、本音である。
ボランティア活動は、自ら工夫して余裕を生み出さないと厳しい。
自分がぎりぎりの状態では、なかなか踏み出せない。
そして、助けるのではなく、助けさせてもらうのである。
これが実感である。

うだるような暑さの中での作業になるが、

福島は、他の被災地とは様相が全く異なる。
復興への道は、まだまだ遠い。
しかし、千里の道も一歩から。
仲間と共に汗を流すことで、こちらにとっても得られるものがきっとある。
何より、依頼主の方の喜んだ姿を想像すると、がんばれる。

先日、この会を紹介したら、「次は参加したい」という嬉しい声がいくつか届いた。
参加する時は、無理をしないこと。
例え参加しても、自分がやれることだけやればいい。
気持ちと関心をもち続けることが大切である。

次号では、被災地の現状を少しでも伝えていきたい。
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