2018年12月31日月曜日

「あたたかい学力」をつけよう

10月に受けた、赤坂真二先生の学級づくりセミナーからの学び。

ある校長先生の言葉で
「あたたかい学力」
をつけようとのこと。
つまりは「愛情ベースの論理」である。

この「あたたかい学力」とは具体的にどういうことを指すのか、自分なりに解釈してみた。

こういうことを考える時、私は得意の逆思考である。
「冷たい学力」を定義し、その逆を考えればよい。

冷たい学力。
それは、利己的な学力である。
自分だけがよければいいという学力である。

逆に言えば、あたたかい学力は、利他的であるといえる。
世に貢献する学力である。

冷たい学力。
それは、冷たく凝り固まった学力である。
応用が利かない。
決められたテストに対し、機械的に決められたように答える学力である。
公式の丸暗記などもこれに当てはまるだろう。

逆に言えば、あたたかい学力は、応用が利く学力である。
模範解答の存在しない問題に対し、立ち向かっていける学力である。

要は、あたたかい学力とは、クラス会議でつけようと目指す力そのものである。
他に貢献し、仲間と協力しながら、自分たちで答えを求め、新たな問題を発見していく。
これからの時代に必要な学力である。

子どもにつける学力の話のようで、これは大人にこそ必要である。
凝り固まった思考をしていないか。
身の回りにある様々な問題に対し「仕方ない」「そういうもの」と諦めていないか。
いや、そもそも問題を問題と捉えていないことこそ、最大の問題点である。

子どもに「あたたかい学力」をつけられるよう、自分自身にその力をつけたい。

2018年12月29日土曜日

人生で大切な「グッドコミュニケーション」

娘と「どうぶつしょうぎ」をやっていての気付き。

「どうぶつしょうぎ」をご存知だろうか。
縦4マス×横3マスの中を、それぞれ4駒ずつで行う簡易版の将棋である。
王であるライオンを取るか、相手の最終ラインまで自分の王を進めた方が勝ちという、単純なルールながら奥深いゲームである。

小学生の娘は、毎度このゲームで私に勝てない。
毎度勝てない勝負というのは、つまらないものである。
考えさせてもわからないままなので、ここはアドバイスをした。

要は、王のことばかり考えているからいけない。
王というのは、周りがいてこその王であり、力を発揮できる。
一番弱いひよこ(通常の将棋の「歩」)を大事にすること。
簡単にキリンやゾウ(「飛車」「角」の動きで1マスずつ動ける駒)を取らせないこと。
手駒を犠牲にする場合、代わりに確実に取り返せる状態にすること。
ここの意識が抜けているから、勝てないのだと教えた。

どれも、当たり前のことである。
そしてこれは、人生全般についてもいえる。

要は、自分のことばかり考えているからうまくいかない。
周りをどう大切に扱っているか。
自分ばかりが生き残ればいい、という考えは、結局我が身を滅ぼす。

国同士の関係にもいえることである。
先日のセミナーで、講師の尾形英亮さんが
「ヨーロッパの人々は、基本的にグッドコミュニケーション。
なぜなら、広く地続きだから。」
という話をされていた。

つまり、周りに自分は敵ではないと意思を伝え、良い関係を築ける能力がないと、生き残れないからである。

クラスの子どもにも当てはまる。
クラスで本当に気持ちよく生きていきたいならば、自分のことばかり優先して考えていては成り立たない。
自分がやれることはさっさと済ませる。
その上で、仲間を思いやり、困っていたら「任せて」と助ける。
そういう「グッドコミュニケーション」が成立する学級でない限り、結局成員の全員が苦しむ羽目になる。

「どうぶつしょうぎ」の話なのだが、生きる上での根本・本質であると考えた。
自分の人生の王様として生きるなら、周りの人々をいかに大切にするかが鍵である。

2018年12月23日日曜日

会議の本質は、確認

木更津技法研での野口芳宏先生からの学びその2。
以前にも書いたことのある、会議について。

野口先生から、次のような話があった。

会議が長引く原因は二つ。
一つ目は、原案の不備。
二つ目は、司会が下手。
このいずれかだという。

また、次のような話もされた。

会議は、確認の場。
「どうしましょうか」なんて言うのは原案不備の証。
そして、上から下への伝達である。

ここからは私見。

会議と討議を混同しないことである。
「どうしましょうか」は、討議である。
だから、クラス会議というのは、会議というがその本質は討議である。
対話の場なので、上から下への確認の場ではない。

一方で、いわゆる職員会議は、会議である。
本質は委員会や内閣等の会議と同じである。
部署で決まった施策を実施することの確認を通す場である。

その場で「どうしましょうか」は、ない。
必要な質問には、提案者が的確に答える。
参加者の側は、反対の意見を言うなら、対案も示す必要がある。

会議は、もの言う場ではない。
確認の場である。
討議は、会議提案前の段階であり、事前に終わらせておくものである。
何といっても、会議はハイコストなのである。

「揉んでもらう」とよく言うが、その前に自分の頭で必死に考えるのが先である。
考える段階で、何度も上司なり関係者に相談するのが原則である。
そうなれば、上司の意見も入るため、無下に反対されることはなくなる。

会議は、確認の場。
委員会や官庁、一般企業等にとっては、常識である。
これを意識するだけでも、大きく変わるはずである。

2018年12月22日土曜日

教育は「発達」の上にのせるもの

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。

野口先生から、次の言葉があった。


教育は「発達」の上にのせるものである。


以下は私の解釈。

つまり、まだ準備のできていない者には、
その能力をつけさせることはできない、ということである。


例えば、体育でいうと、持久力というものは、伸びはじめる時期がある。
中学生から高校生である。
それ以前にやりすぎると、弊害がある。
発達は、自然の摂理に従って、きちんと順番が決まっているのである。

植物に例えるならば、
芽が出て、茎が伸びて、枝が伸びて、葉が増えて、蕾ができて、花が咲いて、実るということ。

ここに「不自然」にも、茎が伸び始めた時期に、いきなり花を咲かせようとする。
無理に決まっている。
手を加えるほど、だめになる。
発達的に、時期ではないからである。
何らかの手をうって無理矢理咲かせたとしたら、当然すぐ枯れる。

幼児期に無理なことを叩き込むのもそう。
その発達段階に適した教育というのが存在する。
発達は、生命という自然の贈り物の一部であり、偉大なのである。
人間の浅知恵でどうこうできるものではない。

だから、再三述べているように、○年生だからここまで、という考え方は、根本的におかしい。
個人で全然違うに決まっている。
平均なんてあてにならない。
ゆっくり育つのもあれば、ものすごく早いものもある。
当たり前のことである。

教育でできることと、できないことを見極める。
自然に沿って、逆らわない。
自然のままにしておかないという教育的行為と、
自然に逆らうという愚行を混同しない。

師がいてこその学びである。
恵まれた環境で学べることに感謝したい。

2018年12月15日土曜日

子どもが望ましい行動をとる方法

今回は子育てや教育の重要なヒントになる話。

次の本からの学び。

『影響力の武器[第三版]』
ロバート・B・チャルディーニ 著
社会行動研究会 訳 誠信書房
http://www.seishinshobo.co.jp/book/b177759.html

世界的ロングセラーの古典的名著と言われる本なので、読んだことのある人もいるかもしれない。
この本の中の「第3章 コミットメントと一貫性」P.150~P.151から引用する。

===============
(引用開始)
人は自分が外部からの強い圧力なしに、
ある行為をする選択を行ったと考えるときに、
その行為の責任が自分にあると認めるようになります。
(中略)
つまり、子どもに何かを本心からやらせようと思うなら、
決して魅力的なごほうびで釣ったり、
強く脅してはいけないということが言えるでしょう。
(引用終了)
==================

この本の中で、面白い社会実験の結果が書かれている。
小学生の子どもに、ある魅力的なおもちゃで遊んではいけないと伝える。
Aのグループは、遊んだら怒るということを告げて脅す。
Bのグループは、それ以上は何も告げない。
そして、子どもだけを残してその場を去る。

結果がどうなるか。
何と両グループとも、実験直後はほとんどの子どもが言いつけを守って遊ばなかった。

結果が明確に分かれたのは、6週間後。
同じ子どもに、特に何も言わずに、別の状況でフリーの状態で遊ばせる。
Aのグループは77%がそのおもちゃで遊んだ。
一方のBのグループは、33%しかそのおもちゃで遊ばなかったという。

つまり、Aは外部からの禁止によって行動を制御したため、外圧がなくなった時点で効果が消えた。
Bは、内発的に「このおもちゃで遊ぶことは悪いことだ」と心に決めたため、効果が持続したということである。

この理論が正しいとしたら、かなり応用が利く。
そして、幼少期の「ならぬものはならぬのです」という教えが、いかに効果があるかということもわかる。
理屈や条件、罰を抜きにして「これはいけないこと」と教えられて守った場合、永続的に効果が出るということである。

考え、議論する道徳のねらいはわかる。
一方で、理屈抜きに教えることの意味。
これは考えるべき点がある。

また、単なる罰や脅しの効果が一時的でしかないというのも、特筆すべきことである。
そのような方法では、子どもの行動は変わらないということである。

今、教えたいことは、何なのか。
それを守る価値を子どもは感じられそうか。
進んで守ろうと思えるか。
その辺りにポイントがありそうである。

2018年12月13日木曜日

捨即得

最近、ものと自分との付き合い方を見直すようになった。

「ものの扱いは人の扱い」と子どもに教えてきた。
例えば、ものを乱雑に扱うということは、他人との接し方も雑になりやすいということ。

また「もののしたことは自分の責任」ということも教えてきた。
自分が床に放っておいたもののせいで誰かがケガをしたら、それは自分にも責任があるということ。
もちろん、本人の不注意という、ケガをした本人の責任もある。
しかし、そのケガの原因を作ってしまったことは間違いない事実である。
(だから、とびなわはきちんと縛っておくように、という話につながる。)

最近、この考えが変わった、というか、進化してきた。

「ものの扱いは自分の扱い」と思うようになったのである。
どういうことかというと、どういう風にものと付き合うかが、自分との付き合い方になるという考え方である。

例えば、服を乱雑に扱うとする。
服が汚れる、あるいは皺が付く。
それを着るのは、自分である。
つまり、自分を汚して、自分に皺を付けている訳である。

例えば、食べ物に文句をつけながら食べるとする。
あるいは、明らかに変な材料で作られた有害なものを食べるとする。
それを摂取して体内で消化するのは、私である。
そういう「いわくつき」の食べ物と自分が一体化する訳である。
気持ち悪くてしょうがない。

先の話でいうと、自分の放っておいたもののせいで、他人がケガをした時。
結局、他人を傷つけることで、他人と自分自身から、自分への評価を落とすことにもなる。
つまり、他人だけでなく、自分をも大事にしていないことになる。

だから、自分の身の回りのものというのは、丁寧に扱う必要がある。
そして、よくよく選ぶ必要がある。
周りの人がいいと言っていることでも、自分が良くない、好きでないものなら、捨てる方がいい。
好みは、十人十色なのである。

当たり前だが、ゴミと一緒に暮らしてはいけない。
本当は好きでないものを我慢して置いておくこともいけない。
そう考えるようになったのである。

つまり、「整頓」よりも「整理」が先である。
「捨てる」ということである。

『「捨てる」仕事術』https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5に書いたように、
「捨てる」というのは、正しい行動であると確信している。


法則として、真空状態になれば、何かが入り込む。
「捨即得」である。
捨てることで得られるものが確実にある。
「0を得る」ともいえる。

身の回りを少しずつ整理していこうと思う次第である。

2018年12月11日火曜日

「知識が重要ではない」は、嘘

木更津技法研での学び。
次は、師の野口芳宏先生の言葉。

=================
上の立場で
「知識が重要ではない」
と言ってる人たちは、みんな知識が多い。
=================

全くその通りである。
「知識が重要でない」という言葉に重みがあるように感じられること自体、相手に知識があるからこそである。
つまりは、狂言であるといえる。
何か、そう言った方が「リベラル」な感じで、かっこいいのである。
しかし、真実とは言い難い。

そもそも、格言のようなものにも、立場のある人だからこそ、というものは多い。
諺にだって、真逆のものがかなりある。
例えば「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」は、意味するところが真逆である。
正直、言ったもん勝ちというところもある。
つまり「偉い」人の言葉をそのまま額面通りに受け取ると、間違えることがある。

知識があるからこそうまくいくことは多い。
知識があるからこそ考えられることも多い。
「下手な知識がない方がいい」という状況もあるにはあるが、特殊状況である。

まずは、知識を蓄えることを考える。
そのためには、体験。
体験すると、知識が増える。
知識が増えると、本を読んでもわかることが増える。
そうすると、また体験をしたくなる。
また学んで知識を増やす。
この繰り返しである。

もう一度言うが、知識は、体験からである。
単純に教えることが先ではない。
内側から滲み出るものである。
体験と外部からの知識が結びついて、始めて本当に「わかる」状態になる。

ハバネロを食べたことのない人に、その辛さを伝えるのは困難である。
唐辛子の辛さを表す単位の一つである「スコヴィル値」が、ハバネロは何と30万だという知識を与える。
ほぼ間違いなく、全然ピンとこない。
とりあえず食べさせた方が理解が早い。
その後で数値どうこうの知識面も教えればよい。
だから、「知識の詰め込み」が無駄だと言われるのである。
こういう「死んでいる知識」は、確かに重要でない。

ここを混同しないこと。
知識は重要である。
多ければ多いほど考える材料が豊富になる。

教える立場にあるものであれば、知識は一生追い続けたい。

2018年12月9日日曜日

万能に使える「必殺褒めワード」とは

まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
https://www.mag2.com/p/news/375642
以下、これと同様の文。

褒め方をどうするか。
叱り方と同じかそれ以上に難しいことである。
なぜなら、ここを間違えると、とんでもない方向に子どもが育ってしまうからである。

(ちなみにアドラー心理学では、両方が否定されている。
褒めるも叱るもしない。
「認める」だけである。)

誰でもいつでも簡単、確実に+の成長効果が望める褒め方(認め方と言ってもいい)ワードがある。
私は、かなりこれを多用していることに気付いた。
むしろ、一年生相手の今など、ほとんどがこれである。
無意識に使っていたことに、はたと気付いたので、シェアしたくなった次第である。

何という言葉を思い浮かべるだろうか。
考えてから読み進めて欲しい。
なぜなら、がんばって考えてから得たものは、価値が高まり、記憶に残るからである。
あっさり手に入ったものは、価値が低いと脳がみなす傾向にある。
私自身が気付くのに膨大な時間がかかったのだから、せめて読者の貴方には1分ぐらいは使って欲しい。
ケータイメモでも何でもいいから、できれば最低一つは書き出して欲しい。





・・・・
もう書いただろうか?
いや、書いてなければ、読み進めていないはずである。
ただ知ることではなく、学習効果を高めることが大切なのである。
がんばって書いて欲しい。





・・・
書いただろうか?
書いていないはずがない。
がんばって書いたはずである。
そう信じる。

もう引っ張りすぎたからこの辺りで。
ずばり、その必殺褒めワードは

「がんばったね」

これである。
拍子抜けしたかもしれないが、これである。

きっと、貴方はこれを読むまでに、たくさん考えて書いたはずである。
そんな貴方には、心から
「がんばったね」
と伝えたい。

「がんばる」は「頑張る」(=頑なに張る)と書く故に、否定的に捉えられることもある。
微妙な「活用」が大切なのである。(ただし中高生校時代に覚えた何行何段活用とかは、さっぱり忘れた。)
言葉は、一文字の違いでも大きく意味が変わる。
相手が嬉しくないことが多い活用形は
「頑張れ」「頑張って」
である。
単なる努力不足の場合、言った方がいいこともあるのだが、精一杯やっている場合には、結構しんどい言葉である。
(ちなみに、鬱病の人への禁句ワードでもある。)
この言い方には「もっと」という叱咤と否定の思いが込められている。

これに対し
「がんばったね」
は、相手の努力を認め、たたえる言葉である。
褒めると認めるの両方の性質をもつ言葉である。

これは、かなり汎用性がある。
多くの場合で「がんばったね」は使える。

例えば、難解な試験に合格した際や、テストで100点をとった際。
単に「すごいね」と褒めれば、能力の自信がつくかもしれないが、「私は他人よりすごい」という尊大な心も育つ可能性がある。
これが繰り返されると、他人を見下すようになるかもしれない。
あるいは、その肩書きやランクにある人間、結果がすごいと思うようになるかもしれない。

「がんばったね」と褒めれば、その人自身の努力を認めていることになる。
気力がある場合「次もがんばろう」と更に成長が望める。
全力を尽くした場合「もっとがんばれ」と言っている訳ではないので、他者との競争によるエンドレスの苦しみから抜け出せる。
結果がどうあれ、相手の現在そのもの、努力そのものを認められるのである。

もっと身近で日常的な例だと「苦手な野菜を食べられたよ」というようなことを言ってきた場合。
「がんばったね」
でばっちりである。
つい
「えらいね」
と言ってしまいたくなるが、野菜を食べること自体は全然偉い行為ではないのである。
むしろ偉いのは、それを作ってくれた人々や自然の方である。
(他人のためになる何かを成し遂げた時に「偉い」は使われるべき言葉である。
使い方要注意ワードである。)

「がんばる」が否定されがちな傾向がある。
楽々、ゆるゆるいきましょうという気風。
頑張りすぎてストレスフルな社会に生きている現代人には、必要な考え方でもある。
しかし、子どもや若者は、やっぱり「がんばる」ことで成長する。
(そしてがんばれる人は、何歳でも若者である。)

「のびのびがんばる」ことだってできる。
楽しい努力というのは存在する。
苦しいが楽しいということも存在する。
今流行りのジム通いや市民マラソンランナーなど、その最たる例である。

「がんばったね」は、汎用性の高い、万能の必殺ほめ言葉である。

2018年12月7日金曜日

悲劇は喜劇

休日に書いたゆるめエッセイ。

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ
~チャーリー・チャップリン~

とてもいい言葉である。
チャップリン自身も、悲劇のような自分の人生を、喜劇を作る力へと転化させた。
人生を喜劇に変えるコツは「自分を俯瞰して見る」ということである。

例えばイチロー選手は現役時代、記者からのインタビューの際、自分のプレーについて、他人のことのように淡々と語っていた。
スポーツ選手は、大抵そうである。
俯瞰して見ているからこそ、メタ認知ができる。

担任に戻して考えてみる。
本人にとっては大まじめだが、傍から見ているとコントということは多い。

例えば1年生の子どもたち。
泣きながら本気で大げんかをしている。
聞いてみると、お互いに「いじわるされた」という。

T「何て言われたの?」
C1「ばかっていわれた」
C2「ぼくはうんこっていわれた」

会話の内容がハイレベルすぎて、真面目に聞き続けるのは辛い。
しかしこれを冷静な顔で対応できるのがプロである。

「馬鹿はいけないよね。うんこもいけないね。」
「ごめんなさい」
で、また一緒に遊びに行ってしまう。

遠目に見ていたら、会話の内容自体はわからない。
しかし、実際はこんなやりとりがなされているのである。

担任が怒っている時も、結構コントなことが多い。
例えば「何で〇〇してるの!」は、子どもに聞いても無駄なことが多い。
忘れ物が多いとか、机の中がめちゃめちゃとか、字が汚いとか、怒っても無駄である。(しかし注意したくなる。)
そして怒っていると、呂律(ろれつ)が回らなくなっていたり、やたらな難しい言葉を使っていたりする。

そして挙げ句の果てに出た言葉は
「言語道断です!」
(ゴンゴドウダン?)
しかし、その迫力に子どもは「これはゴンゴドウダンなわるいことなのだ」と理解する。
(やがてゴンゴドウダンが「言語道断」として国語で登場した時は、きっと感動である。覚えていれば。)

しかし本人は大真面目であるというのが、局所的に悲劇なのである。

家庭で考えてみる。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という。
ケンカの原因は
「話を聞いてくれない」
「いつも不機嫌」
に始まり、
「味噌汁の味がうすい」(あるいは熱すぎる、ぬるすぎる)
「トイレの便座が上がっている」
「電気が付けっぱなし」
とかである。

もっと深刻な議題の夫婦喧嘩も存在するかもしれないが、大抵この程度がきっかけでケンカになる。
どれも本当の根本的な原因は
「愛情が足りない」
である。
もっと自分に関心をもって、というだけの話である。
ロミオとジュリエットばりに「はいはい」という感じである。

例えば、我が子に「何でできないの!」とキレている親の図も、傍から見ると喜劇である。
観客の立場だったら
「それはね・・・実はあなたがね・・・」
と教えてあげたくなるかもしれない。

自分の世界で忙しそうにして悲劇を演じている人も、喜劇である。
傍から見れば、全部「エンターテイメント」である。
(しかし世がゴシップや政治の不正、犯罪や事故等の話題で盛り上がるのは、個人的にはいただけない。)

悲劇を喜劇にする。
チャップリンの目があれば、担任生活は喜劇の題材の宝庫である。

2018年12月5日水曜日

「みなさん知ってると思いますが・・・」

1年生からの学び。
1年生の中の「常識」について。

ある日の朝のスピーチ。
ある女の子が、次のように話し始めた。

「みなさんしってるとおもいますが、
きのうはわたしのおとうとのおたんじょうびでした。」

「いやいや!それみんな知らないでしょ!」
というツッコミを心の中でいれたのは、私と実習生たちだけだったようである。
(私は後ろを向いて笑いをこらえるのに必死だった。)

そう。
1年生のみんなは、真剣な顔をして聞いていた。
「まずい。私、知らなかった・・・」
そんな顔をしている。
恐ろしいほどに、素直なのである。

ここから、1年生の中の「常識」の在り方がわかる。
つまり
「私が知っている」=「みんなも知っている」
なのである。

だから何でも心から
「知らないの~!?」
となる。

そう。
私の中の常識は、みんなにとっても常識という認識。
真実は「私にとっての常識は、みんなにとっての非常識」である。

ちなみに、別のある日のお誕生日関連のスピーチの時には
「ケーキを食べた」
という話があった。
その時に出た質問が
「ケーキは何段でしたか」
である。

私の心の中のツッコミは
「いやいや、結婚式じゃないんだから、1段でしょ普通!?」
である。
それに対する回答は
「2段です。」
(2段あるんかーーーい!?)
のけぞって椅子からひっくり返りそうになった。

よく考えたら、ケーキでそもそも段数の概念を考えないというのは「我が家の常識」である。
後から考えて
「5段です」
とか言われなくて良かったと思い直すことにした。

真面目な話。
1年生を理解しようとする時、この考え方は大切である。
「常識」が違うということは、認識が違う。
つまり、もしかしたら、話が全く通じていないかもしれない。
大変ためになる子どもからの学びだった。

2018年12月3日月曜日

昔話は、問わない。

先月の野口塾での学び。
私の道徳の提案に対し、さくら社の社長である横山験也先生がご指導くださったものをシェアする。

私の提案を一言で表すと
「昔話や神話のようなものを道徳教材文にした場合、不都合が起きる」
というものである。
かねてより繰り返している通り、お話とは本来が道徳教育用ではないからである。

浦島太郎が最後にひどい目に遭うのは、不条理であり道徳的ではないが、お話としては面白い。
金の斧の話では、鉄の斧以外の品はそもそも必要ないのだが、もらえてしまうのである。
間違えると、「道徳」を教えるはずが「道得」の学習になる。
やればやるほど、功利的で利己的な人間を育てることになる。

さて、ここに対し「発問」で道徳に導こうとしたのだが、ここに関してご指導をいただいた。

そもそも昔話は、問うものではない。
読めばわかる、感じる、というものである。
例えば「なまはげ」の存在は、悪い子がいたら連れていかれるというだけの話。
語りであり、そこに問いはない。

一方で「教材文の不備を疑う」という姿勢に対し、評価をいただいた。
道徳の教科科は始まったばかりであり、教材文についてもこれから検討が必要ということである。
頭から「信用」して用いてはいけないということである。

道徳が教科化したからこそ、教材文にものが言えるようになったという。
教材文が、共通の議論の土台に乗ったともいえる。

本当に何が正しいのか。
「考え、議論する道徳」を実施する教師の側にこそ、問われる姿勢である。

2018年12月1日土曜日

感謝の人か、不平不満の人か

木更津の野口塾で、道徳の実践について少しだけ話した。
メルマガでも紹介した、金の斧、銀の斧の実践についてである。

ところで、道徳教育の究極目的は何か。
「幸せに生きる」に尽きる。
幸せとは南の島でのんびり暮らすこととは限らない。
汗水垂らして働く幸せもある。
とにかく、子どもに幸せに生きる人に育ってほしいという願いに、反論は出ないはずである。

ここに大きく関わるのが、他者の存在である。

感謝の人か、不平不満の人か。
ここが幸福感の分かれ目である。

感謝の人は、何に対しても感謝する。
自然を含めた、自分を支えてくださっているお陰様の存在を忘れない。

不平不満の人は、何に対しても不平不満をもつ。
何かしてもらっても「配慮が足りない」が口癖である。
お天道様にすら暑い寒いと不平を言う。
自分が常に王様、女王様、王子様、お姫様気分なのである。

例えば混雑している場で「押さないでよ!」という。
自分がその空間を占めているせいで、他の人も狭い思いをしていることに気付けない。

誰かに何かしてもらっても「前はもっとサービスがよかった」と比較して悪い点をあげつらう。
似た例で「結婚前は・・・」という愚痴も、自分に真実が見えてなかっただけで、相手は別に何も変わっていない。
そこに関してのみいえば、見抜けなかった本人が悪いのである。
自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。

つまりは、幸福感とは、主体的に生きることである。
自分勝手にふるまうことではない。
主体的とは、自分で選択して生きるということである。
感謝を選択するか、無意識の自動的に不平不満に流れるか、という差である。

道徳教育は、根本的に考え直さないと、ダメな考えの再生産になりかねないので、注意が必要である。

2018年11月29日木曜日

満足の上を目指す

先日、特別活動部としての研究授業を行った。
内容は、クラス会議である。

クラスの課題に対する「最適解」を選び、実行する中で、新たな問題発見をして、常に改善を求め続ける集団に育てたい。
最適解とは、集団にとってよりよい解決策として合意された解のことである。

流れとしては、最適解への実行に対して、次の振り返りを行った。
1 4段階の自己評価によるメタ認知
2 データによる集団の意向の確認
3 他者との感じ方の差異を知る
4 新たな課題発見
という流れである。

しかしながら、これがうまくいかなかった。
なぜか。
実行された最適解に対し、満足してしまうのである。
つまり、新たな課題に至らない。
即ち「現状維持」となる。

やってみて、これはなかなか深い問題だと気付いた。
要は「足るを知る」ということでもある。
そこそこの幸せでよい、という考えである。
これ自体は、一概に否定すべきことではない。
むしろ、欲が深くなくて良いともいえる。

ここを話し合ったところ、仲間から面白い考えが出た。
「4段階で、5を設定したらどうですか」
最初は、5段階にしてはどうかという意味かと思ったら、違った。
要は、突き抜けた5という段階を考えさせろ、ということである。

これはなかなか面白い考えである。
集団の満足度の低いところを、どう平均レベルまで引き上げるか考えるのが普通である。
逆の発想で、満足度の高い層を、さらに引き上げろという発想である。

これは、授業にも通じる。
わからないで困っている子どもに焦点を当てた授業は、「すべての子どもに優しい」と評価されがちである。
真実は違う。
全体の中の、上から下まで全てを引き上げるのが優しさである。
集団の中の飛び抜けた上のレベルの子どもをも引き上げるのが優しさである。
「できる」子どもを捨ておかないことである。

今回の研究授業のお陰で、よい示唆を得られた。
おかげで今年度の研究も楽しみになってきた。
ちなみに、千葉大附属小の公開研究会は来年の6月最終週の予定である。
(日曜日には赤坂真二先生の丸1日セミナーも予定。
 例え私が異動しても、これらは実施予定。)
公開研究会で意義のある提案ができるよう、精進していきたい。

2018年11月27日火曜日

勘違い注意報

赤坂真二先生の講座からの気付き。

勉強家の人がたくさんいる。
様々な場へ出かけて、様々な人から学んで感動して帰ってくる。
そして実践する。

この努力が、意外にも報われない結果になるという。
これは、肌で感じられる人が多い現象である。

なぜなのか。

ずばり、「観」の異なる人から学んで、それを両方やるからだという。

例を挙げる。

先月、結果主義の人から学んだ方法を実践し、
今月、過程主義の人から学んだ方法を実践したとする。

何が起きるか。
子どもは「結局どっちが大事なの!?」と混乱する。
「結果を出すのが大切」と言われてがんばってきたのに、
突如「結果が全てではない」と正反対のことを言われる。
結果、どっちつかずになる。

私はこれをきいて
「観違いはうまくいかない」
という言葉にまとめた。

繰り返し述べているように、観が全てである。
同じ方法を用いていても、どんな観があるかで意味は180度変わる。

例えば全員ができる、全員が百点を目指す実践。
単にすごいだろうと言いたいだけなのか。
平等主義に基づいているのか。
できずに苦しんでいる子どもたちに自信をつけさせるためなのか。
同じ方法を用いても、全く違う。

つまり、その人の思想、観の部分をこそ学ぶ必要がある。
一見成果が上がる方法でも、観違いがあるなら、取り入れない方が賢明である。

有名な先生の言うことだから、と無思考で従うのは、ロボットと同じである。
その先生の人間性に感動し、ついていきたいと思うなら、それもありだが、その場合、他の方法を捨てる覚悟も出る。

また、感動し、憧れた相手が、自分のもつ性質とは異なることもある。
自分がついていくべき人か、あるいは自分に合う手法か、見極めが必要である。
有名だから、広がっているからいいという訳ではないということである。

観違いの実践が混じってないか。
勉強家のあなたこそ、点検する必要がある。

2018年11月24日土曜日

「立派でない」を考える

子どもの前に「先生」として立つ。
その道の先を生きてるのだから、立派でありたいと願う。

さて、どういう人が立派で、ついていきたい先生なのか。

「先生面」あるいは「教師面」という言葉がある。
面を「つら(づら)」と読む時は、侮蔑の意味が込められる。
これは、立派とはいえない状態である。
つまり、そういう姿を想定し、その逆をいけばよい。

要は、自分を振り返って、ダメだった時のことを考えればよい。

例1 自信過剰
自分が教えたのに「できない」という状態が、プライドとして許せない。
全ての子どもが同じようにできることを求める。
骨折している人に走ることを求めているのに気付いていない状態。

例2 虚勢
相手より上でないと気が済まないため、謝れない。
的確な指摘であればあるほど腹が立つ。
アスペルガーの子どもなど、遠慮なくこちらの間違いを的確に指摘してくる子どもにキレてしまう。
(指摘が図星で痛すぎるため。)

例3 不勉強
知っているつもりで偉そうに教えている状態。
理解が浅いのに、わかっていると勘違いしている。
小学生の学習内容など簡単に教えられると思っている状態。

例4 無教養
言葉遣いや振舞い、姿が雑な状態。
子どもに対して、モノのように扱う。
あるいは、いい加減な格好でいい加減な立ち振舞いを見せる。
子どもへのリスペクトが足りない状態。
子ども相手だからと、気が抜けている状態。

(ここに関して、余談。
ヨーロッパの大航海時代の、ある奴隷の男の話。
連れられた先の館で、主の奥方が、奴隷の目の前で平気で全裸になったことにショックを受けたという。
犬猫同様の扱い、人間として見ていない証拠である。
格好や言葉遣いとは、相手への敬意を示す。)

例5 他責
できない、わからないのは子どものせい、というメンタリティ。
その場のリーダー、責任者としての自覚がない。

書いてて凹んでくるのでこの辺にしておく。
まあ、ひどいものである。
自覚があれば、多少ましにはしていける。

要は、謙虚に勉強して、子どもからも学ぶ姿勢をもつこと。
いつでも、初心が大切である。

2018年11月22日木曜日

クラス会議における役割ごとに必要な能力

かねてより、聞く力の方が優先という主張をしている。
しかし、全員が一律に聞く力を高めれば、話合いが成立するということではない。
集団は異なる個性の集まりだからこそ面白いのである。

学級における、役割論である。

例を挙げる。
クラス会議をやるとする。

まずここには、明確な役割分担がある。
司会。
黒板書記。
ノート書記。
それらの役割をもたない参加者。

ここを考えるだけでも、色々ある。

例えば、必要な能力。

司会は、当然話せる必要がある。
そればかりか、全体の意見を拾ってまとめていく力も必要である。
つまり、聞いた上に理解して伝える力である。
調整能力も必要だ。
最も多岐にわたる能力が必要な難しい役割である。

黒板書記。
当然、書く力。
実は、それ以前に、聞く力である。
聞いてないと書けない。
ある程度要約する必要もあるので、理解していないと書けない。
しかも、見やすさや構成にも配慮する必要がある。
なかなか多機能である。

ノート書記。
これは視写する能力のみが必要になる。
ただし、自分の番には発言もしないといけないので、結構忙しい。

他の参加者。
聞く力と話す力である。
ちなみに、輪番で意見を述べるだけの一周目は、話す力のみでも体裁は整う。
しかし、その後の話し合いになれば、聞いていたかどうかすぐにわかる。
それを補助するものとして、黒板がある訳である。
(極論、全員が聞いたことを頭のなかで描けるのなら、黒板は不要である。)

実は、更に陰で役割分担がある。

話し合い自体に活気を与える役割。
これは数人いればよい。
普段から元気のいいメンバーである。
あまりにここが多いと騒がしくなりすぎる。

話し合いに示唆を加える役割。
よく周りの話を聞いていて、矛盾点や問題点をずばりと突く。
論理的思考力が必要である。
割と無口な子どもに多い。

フォロワー。
良い意見に賛同し、意見を補完してくれる。
聞く力と協調性が必要である。

本来は不要なよろしくない役割として、フリーライダー。
意見も何ももたず、ただ話し合いに参加してるだけである。
話を聞いてなくても問題ないので、それが一番の問題である。

さて、どれが多く必要か。
いわずもがな、フォロワーである。
ここは、聞く力命である。

要は、クラス会議のような、話し合うための場においてこそ、聞く力が必要ということである。

授業だって、聞く力がなければそもそも何も教えられない。
よく聞くという役割は、最も多く必要なのである。

ただし、少数ながら、他の能力が必要な役割も、重要である。
だから、その能力に応じた役割を与えるのがよい。

ただし、やはり基本は聞く力。
全体的にはここからアプローチするのがおすすめである。

2018年11月20日火曜日

揃えるか否か 学びやすさ基準

揃える。
大切である。

例えば、物の位置。
提出物がめちゃくちゃに出されると、処理に困る。
例えば、掃除道具。
揃っていることが、掃除そのものへの心構えになる。

さて、揃えない方がいいこともある。
その最たるものが、やり方である。

個人のもつ能力は、十人十色である。
ある人にとって楽なことが、ある人にとっては苦痛。
ある人にとっては簡単なことが、ある人にとっては困難。

こういうことは、例を挙げればきりがない。

先日、学級づくりの校内研修会でこの話をしたところ、ベテランの先生から質問か出た。
「一年生でも、揃えない方がいいですか。」

これは、本質を捉えた質問である。
一年生で、色々と学年で揃えることの本質的な意味。
それは、子どもにとっての「学びやすさ」である。

ただでさえ戸惑うことの多い一年生を、混乱させないこと。
隣のクラスも同じようにやっている。
そうすると、ルールが理解しやすい。

だから、低学年では、揃えることが多くなるのである。
高学年は、やり方を変えても、子どもがついてこられることが多い。
そこは大きな違いである。

ちなみに、中学になると、また色々と揃えるようになる。
制服もその一つといえる。
これも、生徒の学びやすさにつながる。

なぜなら、中学は、教科担任制である。
毎時間、違う先生に習う。
ルールにばらつきがあると、お互いに不都合が生じやすい。

制服の話も同様で、ルールが統一されることで、実は安心感が出る。
多感な時期に、毎日着る服に悩む必要がなくなる。
家庭の経済的にも助かる。

私服校はここが自由な分、より自己と家庭への責任が重くなる。
自由をコントロールする力が必要になる。
入学自体が困難な学校に私服が多い理由も、自由をコントロールする力の育成と無関係ではないはずである。

話を戻すと、揃えるか揃えないかは、すべて子どもの学びやすさ基準である。
揃えることが、教師の都合のみであってはならない。

学年で何を揃えているか。
学級で何を揃えているか。
そして、それらは子どもの学びやすさにつながっているか。
チェックしてみると、見えるものがあるかもしれない。

2018年11月18日日曜日

もっと学級懇談会を

学級懇談会があった。
私は、学級懇談会の回数が、本当はもっと多くあった方がいいと思っている。(実際無理だと思うが。)
その理由を示す。

いつもとはちょっと変わった例えで、学級を、株式会社だと思って考えてみる。
担任は、株を預かる経営者。
保護者が一人一株の株主。
株価の成長は、子どもの成長である。

事業全体がうまくいかないと、株も成長しない。
また結果だけを求める表面上のみの株価上昇は、後で大暴落を招く危険もある。

そうなると、経営者の責任は、かなり重い。
絶対に価値を下落させる訳にはいかない。
クリーンで透明な経営を心がけるべく、株主への経営方針の説明も必要である。

株主の方も、株価を高める努力が必要である。
預けっぱなしで後は無責任という訳にはいかない。
放っておけば、とんでもなく下落しているかもしれない。
そうなったら、後の祭りである。
事業の状況への確認と、事業改善への協力が必要である。
時に、経営方針への意見・要望も必要である。

株主同士も経営側も、互いを知っている方がいい。
集まって、話をすると、お互いを知ることができる。
知るほどに、仲間になる。
高めるための協力体制ができる。

細かく会っていれば、その都度協議も質問もできる。
問題も共有化しやすい。
解決もしやすくなる。
良い面も互いに伝えやすい。

学級懇談会は、若手の最も苦手とするところである。
年齢の問題もある。
自分より年上の人に「経営側」として方針等を話さねばならないからである。
当然、大汗をかくことになる。

それでも、先に述べた理由で、本当は数多く懇談の場があった方がよい。
慣れないから怖いという面もある。
しかし保護者は本来、株主と同様、成長への切実な願いをもった強い味方なのである。

子どもを成長させるために、担任と保護者が協力体制をとり、保護者同士もつながる。
懇談会は、そのための大切な機会である。

2018年11月16日金曜日

教員人生で一番感謝された出来事

今回は、感動の(?)実話。
前号の「時短」の話にも関連する。

私は、かつて十数年前、勤務校で「自分の存在」を絶賛されたことが一つある。
そう、「君がうちの学校にいてくれて本当に良かった」と、多くの職員に心から感謝されたのである。

一体、何をしたのか。

それは「通知表のデータ入力化」である。
それまで、手書きで全て記入していたその学校の通知表が、すべてデータ化した。

しかし、決して、私がそのデータを作った訳ではない。
私の存在が、その大きなきっかけを作ったというのである。

どういうことか。

当時、教務主任や管理職の中で、通知表の所見欄についてが話題に上がったという。
「文字が読みにくい」「人によって文字の大きさがバラバラなせいで、量もバラバラ」ということである。

「字が細かすぎるなど特徴のある字で、若干読みづらい所見もある」という、ソフトな表現で全職員に伝えられた。

確かに、字の細かい人もいた。
しかし、恐らくそこは問題の「根本・本質・原点」ではない。
内実は、その9割以上が、私の字が原因であると自負している。
(多分、周りもそう認識していたはずである。)

実際にデータ化の話が来る前に、私には、直接依頼が来た。
「松尾君。君、周りの学校の人と結構つながってるよね。通知表をパソコンでやっているとこ知らない?」
私は待ってましたとばかり
「〇〇小学校がそうです」と即答した。
「うちもデータ化しようと思ってて。じゃあ、そこの校長先生に連絡とってみる。ありがとう。」
とお礼を言われた。

そう。
直接は言われなかったが、私の字がデータ入力化の根拠になったと思われる。
経営委員会でも「これなら仕方あるまい」と誰しも納得したことだろう。

晴れて、通知表のデータ化が、先に紹介した理由の言葉とともに発表された。
多くの職員が、大喜びだった。
(達筆でPCが苦手な方にとっては、ありがたくなかったかもしれないが、時代の流れである。)

後にも先にも、あれほど同僚に感謝されたことはない。

そう、短所は、長所にもなり得る。
ありのままに生きていこうと決意を固めた、若き日の思い出深い出来事である。

2018年11月14日水曜日

時短はせせこましいことか

働き方改革。
勤務時間と過労死に焦点が当てられるが、その本質は、「働き甲斐」の問題である。
しかしながら、がむしゃらに働けばよいというものでもない。
時間の使い方、時短は重要である。

時短というと、何だかせせこましいとか、冷たいとかいう印象をもつ人もいる。
私は方々で話す際、時短、あるいは不要な業務を捨てることは必要であると断言する。

なぜか。

1日は24時間と決まっているからである。
即ち、1時間余計なことに時間を使えば、1時間大切なことをする時間が減るということである。

逆に言えば、余計なことを捨てて1時間生み出せば、その1時間を大切なことに注力できる。

授業の準備は余計なのか。
明確に必要な時間である。
しかし実際は、余計なことに時間をとられているせいで、ここが捨てられていることもある。
つまり、子どもの学力向上という最も大切な仕事が捨てられているということである。

「重要度が低くて緊急性が高いもの」に優先的に時間をとられるため、
「重要度が高くて緊急性が低いもの」は後回しにされやすいといえる。

一見時間がかかるので非効率に見えて、実は最も能率的ということもあるので、そこは混同しないことも大切である。
例えば、日記の返事や手紙を書くこと。
例えば、保護者への電話。
例えば、日々の記録。
例えば、掃除。
これらは、手間がかかるが、直接あるいは間接的に子どもの成長に還元される大切な仕事になり得る。

では、教師にとって、余計な仕事とは何か。
一言で言うならば、
「子どもの成長に還元されない仕事」
である。
直接的にだけでなく、間接的にみても、である。

一方でこれらの類の業務は、性質上「必須」であることも多い。
例えば、一点の曇りなく正確に記された指導要録や出席簿は、子どもの成長に一切つながらないが、公簿として必須の業務である。
これらにとって大切なことは、形が整って最低限ができていることである。
(この記事をメルマガ上で書いた時から時間が経ち、働き方改革の一環で指導要録の在り方が変わる動きが出てきている。
通知表の写し等に変わる可能性が出てきたことは、歓迎すべきことである。)

また各種調査に対する報告書は、上司の命令によるものであり、業務としては必須である。
やらない訳にはいかない。
ここは時短の工夫が必須である。

何を余計とするかは価値観次第だが、基準を子どもの成長に置く。
するとすごく上の立場からして大切な書類なのかもしれないが、少なくとも現場の教師にとっては重要ではないものが多々ある。
(前から続いているからやっているだけで、現担当者も単にやめられなくなっているだけのものが膨大にあると思う。)

事務的な業務が余計というのは共感してもらいやすいが、子どもに関するものでも余計なものはいくらでもある。
例えば、ドリル等の〇つけ。
ここに「命の時間」を30分費やすぐらいなら、その時間で授業の準備等をした方がよい。

〇つけ自体は、子ども自身でもできる。
一斉にやることもできる。
(単に今日の学習の到達度を知りたい、あるいは子どもの誤った〇つけが気になるなら、〇つけをさせた後に回収すればよい。)

ワークテストは、評価用という面が多分にあるので、こちらが〇つけをする意味がある。
しかし、ドリルの本質的な役割は、子どもが繰り返し行うことで学力を鍛えるという面である。
自分で「ドリル」として繰り返し行えるようにするためには、自分で〇つけをする能力を鍛える必要がある。
自分で解答と照合して正誤の判断をできることは、中学までに身に付けるべき学習能力として必須である。
(これができない状態を「ピヨピヨちゃん」と呼ぶ。親が餌を与えるのをひたすら待つだけの雛鳥の姿である。)

要は、余計なことに「命の時間」をとられないこと。
師の野口芳宏先生の言葉を借りるなら、その業務のもつ
「根本・本質・原点」
を見極めること。

そして、教師の働き方改革における時短の根本・本質・原点は、
「大切なことへ力を注ぐため」である。
決して、楽をするためではない。

時短を否定しない。
いのちとは、即ち時間のことである。
時間は、すべての中で最も価値のある命の資産である。

2018年11月12日月曜日

学級動物園

学校には、多種多様な人間が集まる。
学級を、動物園に例えて見てみる。

チーターさんはまだ子どもだが、走るのがめっぽう速い。
ウサギさんは、そこそこ速く走れるが、できれば葉っぱを食べてのんびり過ごしたい。
同じクラスにはゆっくり動くゾウガメさんもいる。趣味は日向ぼっこ。
ハシビロコウさんにいたっては、ほとんど動かない。

さて、動物園学校では、毎日色々なことを先生に教わる。
かけっこをする時もある。
チーターさんは、一瞬にしてゴールに辿り着く。
ウサギさんは、順調に進む。
ゾウガメさんは、かなりゆっくり。
ハシビロコウさんは、そもそも走ろうとしない。

さて、早くゴールしたチーター君は退屈である。
先生は、ゾウガメ君を励ましながら、時々ハシビロコウ君を説得している。
ウサギさんも大分前についたので、飽きはじめている。
やがて、先にゴールしたメンバーがふざけだす。

まあ、こんな感じである。
別に体育の話ではなく、全ての授業や教育行為に当てはまる。
算数の授業にでも掃除にでも何でも当てはまる。

何が言いたいか。

1 学級には能力の全く異なる人間が混在する
2  学習には個別のゴールが必要
3  先生の側も何かの動物に属しており、そこを基準に考えてしまう
4  大自然とは違い、空間的、時間的な枠がある
5  ある種の能力の近い者を集めた園もある

子どもが動物だと言いたい訳ではない。
もつ能力がそれほど異なるのに、同じことを教わるということである。

だから、天才を相手にすると、先生は困る。
例えばチーターさんはほとんどの先生からしても、意味不明な速さだからである。
走り方を教えたいのに、教えようがない。
意味不明なので、見限られる、という哀しい方針をとられることもある。
したがってこの場合、チーターさんは、同種のチーター先生タイプに預ける方が伸びる。

チーター先生でなくても、知識があればある程度対応できる。
チーターの桁違いの速さ、ゾウガメの走る以外の高い潜在能力を知っていれば、手の打ちようが変わる。

種族は、変えられない。
だとしたら、知識を身につけるしかない。
やはり、まずは知識が大切と改めて思う次第である。

2018年11月10日土曜日

センスとは、知識

本当に平等な教育のための知識の重要性について。

一人ずつがそれぞれに成長する機会を与えるのが、教育における平等である。
まずここを前提とする。
つまり、全員に同じ手法で、同じことをさせ、同じ位置のゴールを設定するのが平等ではない。
今いるスタートラインの位置からして、そもそも違うのである。

ここを特に意識した方がいいのは、特別な支援が必要な子どもたちである。

例えば、授業中に、席についている。
「当たり前」である。
しかし、一部の「皮膚の下で虫がうごめいているような感覚」をもつ子どもにとっては、当たり前ではない。
ものすごい苦行である。
だから、知識がある人なら、普通に動き回らせる。
授業に不都合があるなら、動ける範囲を決めたり、逃げ場所を作ったり、一定のルールを設けるなど「動く前提」の対策をとる。

これは、知識がないと思い付かない。
知識がないと、ただのわがまま、我慢のできない子にしか見えない。
「きちんと座りなさい」の一点張りになる。
それでうまくいったという事例を聞いたことがない。
(恐怖感で動けなくなっているだけというのはあり得る。
この場合、担任が交代する次年度に大爆発である。)

特別支援教育だけでなくて、あらゆることに共通である。
知識がないと、適切な方法はとれない。

国語で、この子どもはなぜ教科書を読めないのか。
あるいは、「たかが」音読するだけの宿題を「さぼり続けて」くるのか。

算数で、なぜこの子どもは計算ができないのか。
あるいは、「たかが」ドリル1ページをやってこれないのはなぜなのか。

体育で、この子どもはなぜまともに縄跳びを跳ぶことができないのか。
あるいは、転びまくる、やたらに頭をぶつけてしまうのはなぜなのか。

どれもこれも、知識があれば見えてくるものがある。
「ディスレクシア」「特異的算数能力障害」「空間認識能力」
これらの知識があるかどうかである。
ないと、ただの「さぼり」「不注意」に見える。

先日のセミナーで、参加者のお一人が「センスとは、知識」ということを言っていた。
(さすが、厳しい社会を生き抜いている企業の方である。センスが違う。)

まさしくその通り。
センスは英語のsense。
Weblio辞書によると、その意味は
感覚(機能)、(漠然とした)感じ、気持ち、感じ、意識、
(美・方向などに対する本能的な)センス、勘、判断能力、
(知的・道徳的な)感覚、観念. 音節、
とある。

「意識」も含まれている。
つまり、知識がないと、意識できない。
知識があるから、知識がないと気にならないことが引っかかる=センスがある、ということになる。

やはり、教師にとっては、勉強が命である。
現場で一生懸命やる、というのは、前提。
誰でもやる。
問題は、その現場に立つ以前の動きである。

センスとは、知識。
勉強して、見える景色を広げたい。

2018年11月8日木曜日

「平等」な教育を考える

教育における「平等」をどう考えるか。

家庭的に大変裕福で、何かと恵まれた境遇の子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要な学ぶべきことは「鍛えること」や「厳しさ」かもしれない。

信じられないほど辛い境遇で育っている子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要としていることは、「安心」や「リラックス」、あるいは「甘え」かもしれない。
(肉体的な「栄養」という場合もある。)

この極端な両者の間にも「スペクトラム」として様々な境遇の子どもが存在する。
学校ではこれらの子どもを一手に担い、必要な教育をする。
個の境遇の差が大きいほど、教える側の大変さは増す。

例えば学力に限っていっても、レベルがある程度揃っている方が、教える側は当然教えやすい。
1けた同士の足し算が危うい子どもと、中学レベルの問題を解ける子どもを一緒に引き上げるのは、かなり難しい。

これを一見可能にするのが寺子屋方式となるが、落とし穴がある。
その集団において主に「教える」側に立った子どもをさらに引き上げるには、その子どもたちのためだけの課題や時間が別途必要となる。
結局、どの方法をとっても最終的には個に応じた指導が必要になるということである。

では実際の学校においての「平等」な教育とは何か。
学校の役割は、ごく極めて単純化すると、子どもを今より良くすることである。(学力に限らない。)
即ち、平等な教育とは、すべての子どもがそれぞれ良くなる教育である。
そういった環境を提供することである。

つまり、一律に同じ手では駄目ということである。
その子どもが成長に必要としていることが違う。

勉強を丁寧に教えてあげる必要があるのか、逆に人に教えさせる必要があるのか。
甘えさせるのが必要か、厳しく鍛えるのが必要か。
手とり足とり助けてあげるのが必要か、見守ってあげるのが必要か。

それぞれの必要性に合う方法を提供するのが
「一人一人を大切にする」
ということになる。

その前提となるのは、教師の側の知識である。
ニーズを見抜く目があること。
ニーズに必要な手立てを打てること。
どちらも知識である。
全く知らなければ、見えないし、手を打つこともできない。

経験から得た知識は貴重である。
しかしながら、間違った知識というものも中には存在する。
だから、自分の知識とエビデンスの揃った先行研究とを見比べる必要が出る。

汎用性の有無にも関わる。
Aさんに効果抜群の手が、Bさんには最悪ということもある。
これも、知識として必要である。

「平等」な教育の実現のために、教える側の知識の大切さについて、もう少し突っ込んでいく。

2018年11月6日火曜日

ほめる、認める そのねらいは何か

前号の続き。
話す力と聞く力のバランスについて。

「一切喋らせないでよい」と言っているのでは決してない。
発言の機会を、声の大小に関わらず、平等に与えられるのを当たり前にする。
35人いる場で自分が1分間話したかったら、34分間は聞く力が必要ということを教える。
それが、「私」と「公」の場の違いである。

注意点を一つ付け加える。

そもそも、誰がどういう基準で〇×をつけるかという問題も含まれる。
つまり、教える側が誤認している場合、×を〇としてしまう可能性も含まれる。
誤ったことを教え続けている可能性があるということである。

つまり、私の論が間違っているとしたら、教わる子どもたちも×になるということである。
実際、話す方が大切という論調が強いのであれば、私は間違っているという声が世間では強いことになる。

そういうことも自覚した上で、やはり「聞く力」を優先する方が断然大切だと自信をもって言う。
これは、現場感覚なのである。

一般に、低学年で話が聞けないのは、「自分らしさ」や「個性」ではない。
ほとんどの場合、「自然」なことであり、単に教育の欠如である。
特別支援が必要な子どももいるが、その子だけが聞けないという状況と、ほとんどの子どもが聞いていないという状況は全く異なる。

過去に一度でも学級崩壊やそれに近い状況を目撃している人には、わかる感覚である。
(なお、高学年以降では全てに無関心になって誰も発言しなくなるというタイプの学級崩壊もある。
 しかし、これは話す・聞くとはまた別の原因である。
 この場合の原因は、相互の信頼感の欠如による絶望感等が考えられる。
 話す力の欠如の問題ではない。)

長くなったが、要はほめる、認めるという行為の対象となるものの「妥当性」が問題である。
本当にそれをほめて認めていいのか。
教師の都合のいいように操作したいだけではないのか。
よくよく考えて用いる必要がある。

2018年11月4日日曜日

「思ったことをどんどん発言できる」は〇か

「当たり前を躾ける」という手法の落とし穴について。

望ましい行動を、ほめて、認めて、広げる。
大変効果のある方法である。

しかしながら、劇的に効くものは、用法に注意である。

ここでの落とし穴は、「当たり前」として躾けたい「望ましい行動」の部分である。
それが本当に社会的に見て「望ましい行動」なのかという点である。
ここを間違えると、どんどん悪い習慣を身につけることになる。

例を挙げる。
例えば「思ったことをどんどん発言できる」という行為。
これを〇とするか×とするか。

恐らく、〇をつける人が多いのではないかと予想する。
保護者も多くは「もっとうちの子も積極的に手を挙げて発言できるといいのですけど」と話す。
社会的に見て、〇と見られる行為である。

ここに落とし穴がある。
社会の誰から見ても×な行為で、実際に×なら問題ない。
社会の誰から見ても〇な行為で、実際に〇ならこれもよい。

しかし、問題は社会一般で〇と思われていて、真実は×な行為というのがある。
あるいは、社会一般で×と思われていて、真実は〇な行為というのがある。
この二種類が、落とし穴である。
また、場によって真実の〇×が逆転する場合もあるので、より注意が必要である。

こういう曖昧な玉虫色の論を述べられても、すっきりさっぱりしないだろう。
だから言い切る。

特に低学年において、思ったことをどんどん発言できるという行為は、×である。
一方で〇なのは、他人の話をよく聞けるという行為である。

一年生の教室を想像すればすぐわかる。
放っておけばみんな、誰が発言していても、自分がしゃべりたい放題である。
なぜなら、これまで暮らしてきた「私」の場である家には、そんなルールはないからである。
(むしろ憩いと回復の「私」の場である家庭に、そんな厳密なルールがあったらちょっと息苦しい。)
幼稚園や保育園だって、そこまで黙って話を聞かされる機会はそうないだろう。

一年生における難しい問題は、思ったことをどんどん発言できないことではない。
さっぱり話が聞けないことである。
これは、特に低学年における学級崩壊の問題の原因そのものでもある。

おしゃべりは、無教育でできる。
一方で、人の意見を聞いた上で伝わるように自分の意見を話すという行為は、多くの場合、教育しないとできない。
人間は他人が話している時に、我慢して聞くことが苦痛なのである。
自分がしゃべりたくてうずうずしているのである。
いわんや、幼い一年生においてをや、である。
それが「自然」な姿である。

自然を自然のままに伸び放題にしておいて良いのなら、教育はいらない。
一年生に話を聞かせずに自由に喋らせまくるのは、楽である。
草が伸び放題にはびこるのを放置するようなものである。
そして、自分も物わかりの良い、「自由でのびのび」とした教育をしているような気になりやすい。
誰でも簡単にできる「楽勝」な方法なので、採用しやすい。

やがて、収集がつかなくなり、手が付けられなくなって、壊れる。
もう、その崩れる過程がありありと目に浮かぶ。
これがいつになってもなくならない原因が、冒頭にあげた
「思ったことをどんどん発言できるのは〇」
という一般の認識、誤認である。
教育システムや宗教観等が変わればそれもあり得るかもしれないが、現在では完全にアウトである。

思ったことは、外に出す前にまず思考すべきである。
そのまま口に出せば、考えの浅はかな発言になり、単なるおしゃべりになる。
つまりは「喋る」ではなく「黙る」「聞く」を教えるのが先である。

では、全く喋らせないのかというのかというと、それは違う。
話す力は必要である。
長くなったので次号。

2018年11月2日金曜日

「当たり前を躾ける」をどうやるか

前号の続き。
「当たり前を躾ける」をどうやるか。

あらゆるルールを定着させるステップは

1 教える
2 できている子をほめる・認める
3 できている子を真似した子を認めて広げる

これの繰り返しである。
「認める」が理想的だが、ここに限っては「ほめる」でもよい。
ほめるは劇薬だが、ルール定着の初期段階では特に有用である。
つまりは、ほめることによる価値付けで、ルールは習慣化できる。
「できてすごいね」から入って「できてるね」に移行していく。
この継続が、特に低学年における「当たり前を躾ける」ことの基本手法である。

当たり前を躾けるとは、ものさしを与えて守らせることである。
「ものさしを与える」というと、抵抗感を示す人もいる。
「価値の押しつけ」と混同するためである。

そうではない。
集団の成立には、ルールというものが必要条件なのである。
(逆に言うと、ルールのない集団というのは、そもそも集団ではない。
ただの群れである。)
ルールとは、〇×の明確な「当たり前」基準である。

極端な話、一般の社会には「人を殺してはいけない」という「当たり前」の基準がある。
これは普通、教えなくても知っている。
(「普通」の指す範囲についてはここでは論じない。)
しかし「他人を傷つけてはいけない」というのは、意外とわかっていない。

もっと言うと、こういうことで他人は傷つく、迷惑を被る、ということは、教えないとわからない。
メディアを見れば、大人社会でも誹謗中傷や差別、いじめが「肯定的」にはびこっているのだから、当然である。
「おもしろければいい」「笑えればいい」という価値観を刷り込まれているのだから、当然である。
一人を集団で攻撃しておもしろがったり、笑い者にしてあざけったりするのを「ウケた」と肯定的に考える可能性が高い。

だから、きちんと教える。
学校は、傍若無人のわがままを通す「私」の場ではない。
社会という「公」の場である。
社会にはルールがあり、それを守ることを学ぶのだときちんと教える。

ルールや規律というと、極度に嫌悪感を示す人もいるが、それは自由を履き違えている。
我々は、自然はもちろん、社会の恩恵の上で暮らしている。
ここはどうやっても否定できない。

そこには、明確に社会における他者と生活するためのルールがある。
「うちではいいって言われてる」が通用しない世界である。
ここは、「私」のうち(=家または内)ではない。
公であり、社会であり、外である。
それを、きちんと教えてあげるのが、学校の仕事の一つである。

これを、後でやろうと思うと、難しくなる。
最初が肝心である。
だから、身に付けさせたい習慣は、なるべく早くルール化して「当たり前」にしておく。

「開始時刻には着席する」というルールを守らせる習慣を身に付けさせたいとする。
これは、教えないと身につかない。
なぜなら「時刻を守る」というのは、文化的なものであり、絶対的な善ではないからである。

特に新1年生は、これまでそういう生活をしてきていない可能性が高い。
幼稚園や保育園によっては、細かくタイムスケジュールが組まれている上に、着席にも慣れている場合もあるが、一部を前提にすべきではない。

だから、時計の針がここに来るまでに着席する、というルールを基準として示す必要が出る。
後はできている子をほめて認めて、広げるだけである。

なお、まだできていない子どもは、とりあえず手をかけすぎないで大丈夫。
周りを見ながら真似をして自然と学ぶからである。
それでもなお遅れる子どもには、初めて特別対応をはじめればよい。

なお、叱責等の懲戒によってもルールの定着はできるが、これは特に初期段階では望ましくない。
無駄な恐怖感だけを煽る結果となる。
「ルール」を優先しすぎて、逆に土台の「安全・安心」の方が脅かされかねない。

十分に全体にルールが理解・定着された上で、意図的、継続的、悪質なルール破りが見られる場合、叱責等の「懲戒」を与えることになる。
懲戒は、与える側もエネルギーを大量消費するので、どうしてもの場合に用いる貴重品の「高級薬」の扱いである。
かなり意識していても、うっかり使いすぎてしまうのが痛いところである。
モルヒネのごとく、一時的には劇的に効いて痛みが消える上に、中毒性もあるので、本当に使いすぎには注意である。

やるべきことをできている子ども、教わったことを守ろうとする素直な子どもを優先してほめる、認める。
これも、学級経営のコツの一つである。

しかしながら、このコツは効果的な故に、落とし穴(ダークサイド)も大きい。
次号では、ここについて述べる。

2018年11月1日木曜日

学級経営のコツ「当たり前を躾ける」

学級経営のコツについて、実習生から質問を受けた。

「4月にどんなことをしてきて、今の状態になっていくのですか。」
核心をつきすぎる質問である。
次の予定もあり、これに3分以内ぐらいで答えねばならない状況である。

そんなに簡単に語れるものではないのはわかっている。
しかし、敢えてこれ、というものをずばり答えてみた。

一言でいうと「当たり前を躾ける」である。

私は「学級づくり」をテーマに講師として話す時に、必ず次の「学級づくりに大切な3要素」について話す。

1 安全・安心
2 ルール
3 楽しさ

1の「安全・安心」は、大前提なのである。
これのないところに何も築けない。
子どもは、身体的にも心理的にも危険なところへ、毎日出かけようとは思えないだろう。
学級担任がどっしり構えて頼れる存在であることは、大前提なのである。

大人が、教えるべき子どもに「びびって」いるようでは、どうしようもないということである。
子どもたちは、ただでさえ前年度までの人間関係に苦しんでいることが多いのである。

穏やかな笑顔で迎えながらも、腹を括っていること。
新しい学級づくりの初期段階の子どもたちにとって、強く頼れる存在であろうと覚悟していること。
ここだけは絶対死守のラインである。

そして、やがて学級が軌道に乗ってくるにつれて、担任に頼ろうという風土はフェードアウトさせていくのである。

2の「ルール」の成立が実は肝である。
2をしっかり成立させずに3の「楽しさ」を優先しようとすると、失敗しやすい。
結果的に1や2が脅かされることになり、本質的に楽しくなくなる。

ルールの成立とは、どういうことか。

ごく簡単にいうと、「何が〇」「何が×」という「当たり前」のものさしを与えるということである。
それを、最初の段階できちんとしつける(=躾ける=身を美しくする)ことが肝、と教えた。

この「当たり前」の基準は、最初は多め、厳しめの方がいいのである。
後で減らし、緩くするのは簡単だからである。
一方で、逆は大変難しい。

大人の社会で考えればわかる。
例を挙げる。

今、消費税は8%である。
これを3%にするといったら、きっと国民は大喜びである。(単純思考でよく考えなければ、の話ではある。)
国民の賛成はすんなり通る。(実際は政府の財政がとんでもないことになるので、実行不可能だが。)

しかし、実際は私の生まれた頃は、消費税は存在しなかった。
消費税0%である。
自動販売機のジュースはどこも100円のワンコインきっかりだった時代である。
それが3%になるといった時、社会では大変な抵抗があった。

恐らく、生まれた時から消費税が8%だったという人にとっては、5%ですら低いと感じるだろう。
10%にすることが既に決まっているが、2%増しなので、まあ我慢もしやすいと思える。
一方で、昭和の人々からすれば、いきなり10%は抵抗感がものすごいはずだが、もはやそれほどでもない。

これは、長い時間が解決してくれているからである。
3%、5%、8%と時間をかけて段々上がっていくにつれ、増税に「慣れた」ので、感じなくなったのである。
「茹でガエル」の手法である。(いつの間にか思考も死んでる?)
きついルールを後で設定するのは、長い時間がかかるのである。

つまり、最初の「当たり前」の基準を、いかに高めに設定できるかが鍵である。
必要なくなったら、後でいくらでも緩めればよい。
「ルールはなくすためにある」という言葉も教える。
ルールをなくす方向に努力するのは、楽しい作業となる。

ちなみに、消費税のあたりのくだりは、時間がなかったので話していない。

学級経営のコツを一言でいうと
「ルールをきちんとつくる」「守らせる」
という
「当たり前を躾ける」
という状態をつくることである。

では、具体的にどうやればいいのか。
こちらから問いかけたら、すんなり答えられた。
これまでの教えをよくきき、やり方をよく見てきているのである。

長くなったので、そこは次号。

2018年10月31日水曜日

ハロウィンと学級における同調圧力

今日はハロウィンの日らしい。
らしい、というのは、この行事についてよく知らないからである。

イギリス系の行事であり、収穫祭だという。
つまりは、天の恵みである食物への感謝の日である。
そして、この日はあの世とこの世の門が開く日でもあり、悪霊がこちらに入ってくるという設定である。

そこで悪霊の仮装をする理由は
「悪霊に仲間だと思ってもらうため」
である。
繰り返す。
悪霊の仲間だと思ってもらうためである。

悪霊が発展して、やがてゾンビなどのグロテスクな怪物にも拡大。
更に日本の敗戦直後の時代、アメリカでディズニーの仮装等に拡大したという。
もちろん、企業戦略である。
バレンタインデー等と同じで、輸入時に元来の意味は吹っ飛んでいる。

元来は宗教的意味合いが強く、意図的に無視している国や禁止している国もある。
日本がここ数年でビジネスイベントとしてささっと取り入れたて受け容れられたのは、さもありなんという感がある。

日本が取り入れているのは、このアメリカ版ハロウィンである。
アメリカとの大きな違いは、アメリカでは主に子どものイベントだということである。

お菓子。
お化け。
変身。

子どもの大好きな3つが揃っている。
まさに子どものための行事である。
ついでに、お菓子をくれない家には悪戯(報復)の権利も与えられている。
悪ガキ盛りの子どもたちにはたまらないだろう。

これを、大人がやりすぎると、色々と哀しいことになる。
渋谷での事件を始めとする馬鹿騒ぎ等は、海外のメディアでも大喜びで取り上げられており、日本という国の宣伝にもなっている。

学校教育に携わる者として最も気を付けたいのは、これが宗教行事であるということ。
そして、個人の趣味・嗜好でやる分には構わないが、公的な場にもってきてよいのかということ。
「異文化理解」の名をつければ、学校は何でも受け容れてよいものなのか。

そして、これに同調行為を示さない者を
「ノリが悪い」
と排除するのも恐ろしい。
それは本当に正しい行為なのか問いたい。

これは、あらゆる「学級文化」全般についても同様に見られるので、要注意である。
それをやりたいのは、担任であるあなただけかもしれないのである。

同調圧力で無理矢理やらせていないか。
それをやる根本・本質・原点は何なのか。
このハロウィンなるものの台頭で、色々と考えさせてもらえた。

2018年10月30日火曜日

できていない部分を自覚する

教育実習を通しての学び。

実習期間が終了する時、実習生に振り返りをさせる。
当たり前だが、実習前と実習後では、認識が変わる。

まず「できること」が増える。
それ以上に「できないこと」が増える。

どういうことか。

つまりは、「できていないと認識すらしていなかった」という部分が見えるようになる。
一番分かりやすいのが、「全日実習」と呼ばれる一日担任体験。
朝の対応から帰りまでに、やるべきことが多数存在する。
細かい部分は、「見学者」として外から見ている時には決して見えない。

例えば、給食を片付けてやっと昼休みになったという時。
けんかが起きる。
ここで丁寧に話を聞いてあげたいと思うが、その直後に、誰それがケガをしたと子どもが報告に来る。
同時に、教室に電話がかかってくる。
連絡帳への返事も書かなくてはいけない。
その一方で、次の時間の授業の準備もしておかなくてはいけないことに気付く。
そんな焦りの中「先生、遊びに行く約束は?」と話しかけてくる子どもがいる。

誇張でも何でもなく、ご存知の通り学級担任にとっては割とよくある日常である。
これが高学年担任になると、同時に委員会だ行事だとやることがもっと多くなる。
ここで苦しまないように、自分自身の行動をマネジメントするのも仕事の一部である。

実習生ではこれらすべての体験はできないが、一部でも見えていない部分がわかる。
(実習生が最も不安に思う「保護者対応」の一切が実習では体験できないというのは、現在のシステムの欠陥であると思う。
教員養成でも「インターン制度」を取り入れられないものだろうか。)

そして、まだまだ見えていない部分だらけということも見えてくる。
「無知の知」である。

まずは「できたこと」の自覚が自信になる。
一方で「できていないこと」の自覚が成長の契機になる。
どちらも大切で、陰陽のバランスである。

実習生の振り返りとして述べたが、そのまま学級担任にも当てはまる。
「自分は大丈夫」と思っていたら、その実力はほぼ間違いなく下り坂を転げ落ちている状態である。
登る時にかかった時間よりも、落ちる時の方が数倍早いというのは自然の摂理である。

わかりやすく例を挙げる。

プロスポーツ選手で
「自分は他の人より上手いからもう練習はしない」
という人が存在し得ないのは誰でもわかる。

しかし、教育の現場において
「自分は若手よりも色々わかっているからもう勉強しない」
という人が存在し得ない、と言い切れるかどうかである。

改善の余地は常に無数にある。
常に学び続けることが仕事の一部である。

教育実習生を教える。
それは同時に、教育実習生に教わっているということである。
実習生以上に学ばなくてはいけない。

子どもに教える。
それは同時に、子どもに教わっているということである。
子ども以上に学ばなくてはいけない。

素直に学ぶ、謙虚に学ぶということの大切さを教わった教育実習だった。

2018年10月28日日曜日

習慣化のリカバリー法

習慣化のリカバリー法
何かをやると心に決める。
やってみる。
それなりに続く。

しかし、何かの拍子に、うっかり破ってしまうことがある。

そんな時、どうすればいいのか。

「今のなし!」
これである。

誰に言っているのか。
神様である。
自分の中にいる神様に、謝っておく。
「すみません、今のカットで、お願いします!」

馬鹿馬鹿しいようだが、効果てきめんである。

つまり、断続的にでも、続ける方がよい。
決めたことを破ってしまうと、大抵そこで心が折れる。

「ああ、自分は何て意志が弱いのだろう。」
「もうダメだ…」「終わりだ…」

これがいけないのである。
破ってもよい。
失敗してもよい。
大切なのは、立ち上がることである。
また始めることである。

例えば前号紹介した
「でも、だっての言い訳を捨てる!」
と心に誓ったのに、
「でも…」
と言ってしまった瞬間。

「ちょ、待って!今のなし!」
これである。
(声に出すと完全に変なやつなので、一人の時以外は声に出してはいけない。)

そこから、リスタートである。
つまり、これが頭に浮かぶようなら、少なくとも意識化はされているということである。
無意識の段階に近付いている証である。

ダイエットだって日記だって禁煙だって何だっていい。
習慣化したいものになら、何でも割と使えるコツの一つである。
習慣化は、予め失敗した時のリカバリー法まで決めておくことが肝要である。

2018年10月26日金曜日

デモダッテ星人をやめる

仕事術というか、観の話。

世の中には、どうにかできることと、どうにもできないことがある。

例えば、天気は、どうにもできない。
今日ある地域が晴れか雨かは、どうがんばっても選べない。
自然災害についても、ある程度まで対策ができるかもしれないが、限度がある。

人の心も、どうにもできない。
他人の嗜好性を変えることはできない。
煙草をやめさせることはできない。
酒が生き甲斐の人に、酒を嫌いにさせることはできない。

職場はどうか。
一緒に働く人の性格は変えることができない。
しかし、自分の働き方なら、変えることができる。
システムの変更なら、働き掛けることができる。

子どもを変えることはできない。
しかし、教えることはできる。
ただし、教えを受けるかどうかは、子ども次第である。
また、教えを受けやすい状態をつくることはできる。

何が変えられるか。

何が変えられないか。

変えられないことは諦める、捨てる。
注ぎ込む力を0%にする。
その代わり、変えられることに100%つぎ込む。

そのために大切なのは、自分の影響の範囲を自覚することである。

労働時間の法的規定を変更するには、大臣クラスになる必要がある。
しかし、自分が何時に退勤するかは、かなりの範囲を自分で決められる。
まして、退勤予定時刻を手帳に書き込むことなら、誰にでもできる。

この時
「でも…」
がすぐに口に出る人がいる。
この人は、変わらない。
「デモダッテ星人」だからである。
生まれ変わらないと、一生そのままである。

生まれ変わるには、わざわざ死ぬ必要は全くない。
その状態では、また生まれてきてもどうせまた「デモダッテ星人」である。

生まれ変わるのは、今世でできる。
やり方を説明する。
たった今から、

言い訳をやめる

と決めるだけである。
決めるだけである。(繰り返してみた。)

決める。
これが肝要である。
騙されたと思って、ぜひやってみていただきたい。

2018年10月24日水曜日

教師の仕事はブラックではない

先月に講師として行った仕事術セミナーでの学び。
参加者とのセッションタイムに「教師の仕事はブラックか。」という話題になった。

私の意見としては明確に「否」であることを伝えた。
ブラックかどうかは、本人が決める。
講座の中でも話したが、やりたくない残業を強いられる状況が「ブラック」。
やりたい残業ならどんなにやっても「ホワイト」である。

例えば附属小のような研究校で、毎夜目をギラギラさせながら、楽しそうに教材研究を続けている人を知っている。
これは、全くブラックではない。
部活動の場合も然りである。

決して教師の仕事がブラックなのではない。
ブラックな職場が存在する、というだけである。
ブラックな働き方が存在する、というだけである。
ブラックポイントは「強制的な拘束」の有無である。

講座の中で、ブラックと言われてしまう原因となっている具体例をいくつか挙げた。
最もわかりやすいものが
「時間外会議」
が常習化している学校である。

ここでいう会議とは
「二人以上で集まって協議するもの」
を指す。
例えば学年主任が「ちょっと今からいい?」というのも、「学年会」という会議の一つである。
(また、今回会場で、最も苦笑いが起きたのが、これである。多くの若手が、特にこれに困っている。)

管理職が「時間外の会議は原則認めない」と明言している学校がある。
決して「残業を認めない」ではない。
認めないのは「時間外の会議」である。
つまり、会議出席者の意思と反する時間外の拘束である。
時間外に「働く」のは構わないが、命令として「働かせて」はいけないのである。
(ちなみに法的には、校長にのみ、時間外勤務の命令権限が与えられている。)

留守番電話の設置の話も紹介したが、ここに関連する。
時間無制限に電話対応を認めているから、拘束される時間が無制限に延びる。
はなから、一定時間以外を対応不可にすればいいのである。
一般企業では当たり前のことである。
学校の特殊性を考えて、緊急時だけ管理職に転送されるようなシステムにする方法もある。

そういう諸々できる対応をしないで、ブラックだなんだと文句ばかり言っていても仕方ない。
「気に入らなければ自ら変えよ。さもなくば従え。」
という言葉は、至言である。
(『アルフレッド・アドラー 一瞬で自分が変わる100の言葉』
小倉 広 著 ダイヤモンド社 より引用)

職場をブラックにしているのは、結局自分である。
「子どもが」
「親が」
「地域が」
「同僚が」
「管理職が」
「学校の仕組みが」
「学習指導要領が」
「文部科学省が」
全部そうなのかもしれないが、そうでないともいえる。

少なくとも確実に言えることは、
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分」
ということだけである。

他人がどうこうと文句言っている間は、それに従うべきである。
自らを行動を起こして抗う意志がないのだから、素直に従う。
文句を言いながら従っていても、負け犬の遠吠えでしかない。

だったら、文句を言わずに従う方がよほど潔い。
何でも文句を言えばいいというものではない。
無闇やたらと上司に刃向かうものは、小物であるとも言われる。

もう一つの選択肢が、自ら行動を起こすことである。
例え小さくても、自分のやれることをやる。
上司に建設的な提案をする。
それでも変わらなかったら?
何度でも行動を起こす。
その魂がないのであれば、体制に従うしかない。

厳しいようだが、甘い世界なんてない。
一般企業は、雇用の上ではよほど厳しい。
「そんなに嫌ならやめろ」の世界である。
少なくとも、従っていたら一定の給与と立場が保証されるのだから、きついのはある程度当たり前である。

楽して
楽しく
気楽に

そんな幻想をまず捨てる。

大変で
辛くて
気合いがいる

そんな覚悟をしてみる。

覚悟を決めると、不思議なことが起き始める。
ある時、全て、ひっくり返るのである。
これは、体験している人なら、誰でも納得するところである。

人一倍、思い切り苦労してやるという覚悟。
気合い入れて、痛みに耐え切ってやるという覚悟。
言うなれば「プロレス根性」である。
これこそが、意外にも苦しみを抜け出す秘訣かもしれない。

2018年10月22日月曜日

落ち葉はまわりから飛んでくる

外のたたきを掃いていた子どもが言った。
「先生、掃いても掃いてもまわりから葉っぱが飛んでくる。」
本人は、一生懸命分担場所をやっている。
しかし、きれいになったと思ってたら、また風で飛んでくる。
一向に終わらないのである。

素晴らしい気付きだね、と褒めた。
(本人は意識していないだろうが。)
「つまり、自分のところだけじゃなくて、
まわりもきれいにしないと、
結局自分のところが散らかるってことだね。」

これは、仕事のポイントでもある。

自分のところを完璧にやる。
これは正しい。
必要である。

一方で、自分のまわりに色々と仕事や悩みを抱えている人がいる。
ここを放置しておくと、結局自分のところにプラスの仕事となって舞い込んでくる。
何度でも何度でも、終わりなく入ってくる。

つまりは、自分の仕事への影響範囲は、
自分の周辺も入るということである。

これだけ書くと
「他人の手助けをしよう」
という話に聞こえるが、そうではない。

自分のやるべき範囲というのが、実は案外広いということ。
そして、自分の及ばない範囲からの影響というのが存在するということである。
(今回の子どもの例だと、グラウンドの大量の落ち葉は、掃除場所としては完全に範囲外である。)

だから、せめて手の届く範囲はきれいにする。
廊下掃除に例える。
自分の教室の廊下から、隣の教室の廊下の境目を少し越えて掃除をするということ。
あくまで少しである。
入りすぎると、余計なお世話になりかねない。
「境目」に埃がたまって汚れることがないようにする程度である。

自分の周りというのは、同僚に限らない。
家族しかり。
保護者しかり。
地域しかり。
そこの抱えている問題は、自分の問題の一部でもある。
関係ないふりしていても、飛んでくるからである。

自分の仕事の範囲ということを見つめ直す良い機会を子どもからもらえた。

2018年10月20日土曜日

選ぶとは即ち捨て去る

仕事における「捨てる」の大切さついて。

教育実習生の指導案を読む。
授業の中では、子どもに教えたいことがたくさんある。
しかし、それらすべてを教えようとすると、何も身につかない。

捨てさせる。
絞らせる。
何かを捨てるというのは、大切な何かを選ぶということと同義である。

これは、私が言い出したことではない。
森信三先生の『修身教授録』にも、捨てる大切さが書いてある。
成し遂げたいこと以外を捨て去るということが肝要である。

野口芳宏先生も、同じことを仰っている。
国語や道徳の模擬授業を見ていただく際、
「どうでもいいことをいちいち聞かない」
「枝葉末節にこだわるから、本質である幹の部分が教えられなくなる」
ということを何度も指導していただいた。

仕事に関しても授業に関しても、同じである。
枝葉の部分が要らないとは言わない。
全く役に立たないとも言わない。

しかしながら、そこばかりに目を向けていては、本質が疎かになるということである。
授業で「ねらい」が大切というのは、そういうことである。
的が二つ以上あると、どちらにも当たらないのである。

例えば、算数の授業で計算を扱う時。
まずはやり方を教えたいのか。
はたまた、既存の知識を用いて深く考えさせたいのか。
大量に問題をこなしていく中で体感的に掴ませたいのか。
さらには、それらの方法を通して、形成学力としては何を獲得させたいのか。

それらが明確に定まれば、目的のものは手に入ったも同然である。
代わりに、他は捨て去らなければならない。
一番大切なもので、両手がもうふさがるからである。

一つを選ぶというのは、その他を捨て去ることである。
幼い子どもが、たくさんのおもちゃをいっぺんに運ぶ様を想像すればわかる。
いっぺんに運ぼうとして、脇からぼろぼろこぼれ落ちる。
それを拾おうとしてかがみこみ、持ってるものを全部まっ逆さま。
(大抵、これはビーズなどバラバラに散らばるもので、慌てる母親の風景もセットである。)

欲張ると、一気に手に入ったようで、結局何も残らなくなる。
うまくやってるつもりでも、駄目である。
何でもステップになっていて、一足とびとはいかないものである。

今日一日で何をねらうか。
日々自問して、少しでも今よりましに成長していきたい。

2018年10月19日金曜日

謙虚と感謝、幸福感はセット

前回の権利と恩恵の話に関連して、謙虚ということについて。

権利を当然と思わず、恩恵と捉えるということは、結局「謙虚」の一言に集約される。

謙虚というのは、他にへり下ることではない。
むしろその本質は、逆である。

謙虚という状態では、自分の人間的価値を認めている。
だから、同時に相手の人間的価値を認められる。
結果、自分と同じように相手を大切にし、相手の話もよく聞けるということになる。
自分の存在価値を認めているから、相手にも偉ぶらなくていいという状態である。

謙虚の逆の状態が「傲慢」である。
自分の存在価値を認められず、他にアピールするのに必死な状態である。
だから私を誰よりも尊重してくれないと、その怒りと恨みが攻撃行為に変換される。

不平不満は、謙虚でなく傲慢だから出る。
人間だから、不平不満は当然出る。
しかしそれも「謙虚」という姿勢・観を通して見ることができたならば、消し去ることもできる。

卑近な例を挙げる。
乗る予定の電車が、一時間以上遅れて出発するとする。
そのお陰で、予定に間に合わない。
不満を抱く。
「何で遅れるんだよ。」

この不満はどこから来るのか。
「電車はいつも定刻通りの運行」という恩恵からである。
これは、世界基準で見ても、脅威的なことである。
毎日定刻で運行される国自体が珍しい。
世界基準では、分単位はおろか、時間単位で遅れることなどざらである。
日本は「秒単位」の正確さである。
その恩恵には当たり前すぎて気付けず、「権利」化している。

謙虚に見れば、この一事態を見るだけでも、普段いかに鉄道会社の人のお世話になっているかがわかる。
傲慢に見れば、「金を払っているんだから当然」という姿勢になる。

教育の恩恵も同様。
治安の恩恵も同様。
環境の恩恵も同様。
平和の恩恵も同様。
あらゆる「〇〇の自由」に関する恩恵も同様。

とにかく、世の中は他人の恩恵で溢れている。
それら全てが「当たり前」に見えるので、「権利」と勘違いして見えている。
これは、本当に恐ろしいことである。

学校とは、子どもにここを教える機関である。
単に教科内容自体を教えるなら、機械での学習も可能である。
しかし、そういう人間としての姿勢といったものの教育は、人間にしかできない。
「人は人によって人となる」という、カントの言葉通りである。

挨拶が大切、とはよく言うが、突き詰めるとここである。
謙虚だから挨拶をするのである。
挨拶は、相手を尊重する姿勢であり、自分が今出会った相手への御礼である。
(私は拙著の中で「迷惑をかけるであろう相手への先取りの謝罪」の意も込めていると書いた。)

相手を認めなければ、挨拶をする必要などない。
だから、子どもには「挨拶は気分に関係なく必ずするもの」と教えるのである。
子どもには、幸せになって欲しいからである。
謙虚に誰からも学んで、愛されて、大きくなって欲しいからである。

自分を大切にすることと、相手を大切にすること
自分のためにがんばることと、社会や集団の役に立とうとがんばること。
どちらも本質的には同じである。
子どもには、逆をいかせない。

謙虚かどうかとは、自己主張が強いとか弱いとかそういう話ではない。
恩恵に感謝できる能力そのものである。
つまりは、幸福を感じる能力そのものである。

子どもへの教育では、謙虚に学び、他に感謝できる感覚を育む。
決して、将来自己の権利の主張ばかり叫ぶ人間を育てることのないようにしたい。

2018年10月18日木曜日

働くことは権利か恩恵か

働き方改革と学級づくりについて。

労働時間の基準といえば、約8時間。
この基準は、法による。

それが「普通」ということになると、何事もそこを基準に考える。
もしこれが4時間基準だったら、8時間はとんでもない過剰労働に感じる。
逆に16時間が基準だったら、12時間労働でも楽々すぎる。

基準をもとに、「権利」を考えるからである。
これは「私」の権利である。

さて、なぜ「私」にこんな権利が与えられているのか。
私の努力によって獲得したものなのか。
否。
私の関与しないところで決まった。
この日本という国の社会から与えられたのである。
つまりは、恩恵である。

「恩恵は権利に変わる」という話を紹介したことがある。
奉仕作業にお疲れ様の意を込めて飲み物を出して、翌年は出さなかったら、苦情が出たというあれである。

「自分は優遇されて当然の存在だ」と思うと、そうされなかった時に恨みがつのる。
逆に「させていただいている」と思うと、何をしても残るのは有り難みだけになる。

クレームというのは、この優遇されなかったことへの抗議である。
私の当然の権利を認めろという訴えである。

この「当然の権利」の正体というのが、実は恩恵である。
恩恵だと思えば不満も出ないのだが、権利だと思うと不満になる。
つまりは、事象そのものに善悪も意味もなく、捉え方の観が全てである。

学級の例で見てみる。
例えば、指導にものすごく手のかかると評判の子ども。
この子どもを担任することになったとする。

これを「平等」の名のもとの「権利」で考えると、はずれくじを引いたように考えることになる。
他の教師と比べて、自分の学級だけが、大変な気がするからである。
(実は勘違いであるが、この考え方が基本だとそこに気付けない。)

これを恩恵と考えると、当然の責務となる。
ここをがんばるからこそ、私ごときに給与がいただけると考えられる。
むしろ、誰でもできることなら、給与も相当に低くなるはずである。
何のための教員免許なのかもわからなくなる。

子どもや学生の側にもいえる。

自分は、当然優遇される存在だと思っている子どもや学生。
学校にいくのなんか当然の権利で、有り難くもなんともないという子どもや学生。

自分は、教わりに来ているんだと思っている子どもや学生。
学校に行けるのは必然ではなく、自分がここに生まれた偶然によるものと知っている子どもや学生。

学ぶ姿勢が180度変わる。
どちらも「観」によるものである。

学級づくりにもこれは適用できる。
どれぐらいを「当たり前」として与えるか。
これは、躾やルールにつながる。

基準値を甘く設定すると、後で引き上げるのは相当に困難が生じるのが容易に想像できる。
自覚した「権利」に対する不満が生じやすくなる。
だから、甘やかされて育った子どもは、社会では必然的に不幸を感じやすくなる。
(決して「甘えて」ではない。甘やかされて、である。)

働き方の改善を考える時、本質的な決め手は「観」である。
これを単なる精神論と片付けない。
捉え方こそが、自らの世界のすべてである。

2018年10月17日水曜日

労働時間ではなく、やり甲斐

今度のセミナーに関連して、労働時間に関して。

労働時間が長すぎるというのが、常に多忙の槍玉に挙がる。
これは本当か。

実際、多忙かどうかは、労働時間の長さの問題ではない。
疲労感や多忙感は、本人の感じている「やり甲斐」の問題である。

やり甲斐の感じられない作業に従事することは、例え1分でも苦痛である。
逆に、やり甲斐や達成感を感じられることであれば、何時間でも没頭できる。
子どもが大好きなゲームをやっているのと同じ状況である。
研究者など、その典型である。

やり甲斐は、作業内容そのものには存在しない。
取り組む本人の姿勢が全てである。

例えば、算数の授業をする場合を考える。
とりあえずその時間をやり過ごしている人がいる。
その教材の内容や解き方を教えている人がいる。
思考法そのものを鍛えている人がいる。
仲間との協働を通して、生き方の基本を教えている人がいる。
「将来の日本を支える人材育成をしている」と考えて授業をしているかもしれない。

これらの人を比べれば、同じ時間を過ごしていても、その充実感は全く異なるものになる。
仕事を、面倒なものとしてみるか。
意味のあるものとしてみるか。
同じ作業に従事していても、この差はとてつもなく大きい。

「ブラック部活動」問題も、あくまでブラックなのは強制的で否定的な場合である。
顧問の中には、休みを返上してでもぜひやりたい、という場合だってかなりある。
別に残業100時間を越えても全く構わない人と、規定時間内でもへばってしまう人がいる。
ここが混同されがちである。
あくまで、やりたくない人に実質無給で無理矢理やらせて休みを返上させている状況が、ブラックなのである。

これは、夏休みの宿題の在り方の話にも共通する。
例えば、本校の1・2年生では、自由研究等の素晴らしい作品がたくさん出た。
ちなみに、必須課題はゼロ。(学年とは別に保健室から出た「歯磨きカレンダー」だけは必須であったが。)
出品するかどうかも本当に自由である。

そうして蓋をあけると、相当数の作品が出品された。
見れば、かなりの時間を費やしたと思われる作品がかなりある。
親の温かいサポートもあっての合作である。
作った本人たちも、満足そうである。

この場合、とても多くの時間をかけて大変であっても、徒労感はない。
自らの意思でやった、あるいは、最終的に熱中して「はまった」からである。
これを仕事と考えた時、「多忙感のある長時間労働」には当たらないといえる。

作業時間・労働時間というのが、最も客観的な数値データとして把握しやすく、「過労死」の原因として説得力がある。
数値が評価の物差しとして使いやすい。
成果主義の評価方法と同じである。
だから、槍玉に挙がる。

実際は、ここだけ見ても、部分的な解決にしかならない。
一番は、やり甲斐の問題である。

2018年10月10日水曜日

「メルカリ宿題代行業禁止」をどう見るか

夏休み明けに書いた記事。

「メルカリ」の宿題代行に対し、文科省から出品禁止の依頼が出て、大手3社が承諾した。
なるべくしてなった感である。

宿題の代行についての考えは、以前もメルマガやブログ、ラジオ等で述べてきた。
存在意義や価値の捉え方の問題である。

そして宿題をどう「処理」するかは、間違いなく世間の関心事である。

多くの需要があるのだから、「代行業」を出品すれば売れるに決まっている。
代行業が成立する土台は、それが購入者にとって「面倒」あるいは「不可能」な場合である。
つまり、高額でも売れる。

高額で売れるとなれば、商品を大量生産して売ろうとする業者が出る。
そこに倫理や道徳、本来の存在価値といった一切は関係ない。
すべては、儲かるかどうかである。

しかし文科省及び学校関係者から見て、宿題代行は望ましくない。
(原理的には親がやったり、優秀な友達にやってもらったりするのと変わらないのだが、お金が絡むことが問題である。)

倫理や道徳で守られない場合、どうするか。

法で縛るという手段になる。
交通ルール等と同じである。

禁止令を出す。
ルールをくぐり抜ける者が出る、あるいは守られない。
また新たな禁止令を出す、あるいは厳罰化する。
この繰り返しである。
つまり、この方策は、一時的にしのげても、根本的解決につながらないことが多い。

夏休みの宿題が、一部の家庭教育から見て、厄介者になっているということである。
そもそも本来は、意義のあることだから、広まったはずである。

一部の、というのが大切である。
価値がある場合もたくさんある。
しかし、一昔前に比べ、家庭教育の方針や環境が全く違う。
ドリルが必要な家庭や地域もあれば、不要なところもある。
自由研究しかり、読書感想文や工作しかり。

宿題そのものに善悪はないのである。
しかし、宿題の形、在り方が、50年前と変わっていないのではないか。
要る場合もあれば、要らない場合もあるのではないか。
内容そのものの見直しの時期にきている。

宿題に限ったことではない。
教育の在り方そのものが、世間から変革を求められている。

今、何が必要で何が不要なのか。
働き方改革が叫ばれる昨今、自分の仕事内容そのものを見直す時である。

2018年10月9日火曜日

人のための幸せは、積み重なる

山口の研修旅行での学び。
同行していただいた、ある経営者の方の言葉。

自分の幸せは、積み重ならない。
人の幸せのためにやったことは、積み重なる。

どんなに美味しいものを食べても、豪華な旅行をしても、それは一時的である。
いつか消え去る。

一方、人の幸せのためにやったことは、残る。
やったことに、恩を感じてくれている人もいる。
直接は気付いていない人でも、その人を幸せにした分は、他の人にも影響する。
影響の輪が広がる。
積み重なるのである。

師匠の野口芳宏先生も、同じことを仰っていたのを思い出した。
「幸せの正体は、人から大事にされること。
人を大事にすること。」
「この世を去る時、得たものは全て失い、与えたものだけが残る。」

身近な人への貢献から始めたい。

2018年10月8日月曜日

自分を捨てて働く

休み明けにだるくなってしまうということについて。

私自身は、これが平気な方である。
しかし、初任の頃から数年は、だめだった。

なぜなのか、考えみた。

一つ目は、生活習慣。
若い頃は休みだからと休日前の夜更かし、朝寝坊をしていた。
当然、月曜日や休み明けはだるくなる。
誰でもわかっていることだろうが、これはある。

きちんと寝ているのにだめな時もあった。
なぜか。
不安だからである。

具体的には、毎日授業で何をやればいいのかわからず不安だった。
行事があると、その準備もあり、不安だった。
見通しがないからである。

もう少し突っ込んで考えてみると、ベクトルが自分に向いているからである。
自分のことばかり考えていると、不安だらけになる。

発想を変えてみる。
何のために仕事に行くのか。

私のために仕事は存在していない。
私のために学校は存在していない。
当たり前である。

仕事があるから、私の働く場が与えられる。
つまりは、働けることは、社会のためである。
そこを通しての自己実現なのだが、兎にも角にも社会のためである。

そう考えると、仕事は人を喜ばせるためになる。
自分が人のお役に立てる。
有難いことである。

そんな簡単でないことはわかっている。
しかし、考え方は、肉体と違い、一瞬で変えられる。

世の中のために自分を働かせる。
まして教職は、子どもの成長に貢献できる。
人様に喜んでもらえる上に報酬までいただけるなんて、有難いことである。

「自分を捨てる」というのは、自己犠牲ではない。
自己を最も生かす道のことである。

2018年10月7日日曜日

教える・教わるということは、同義

自分の教育実習生時代を思い起こしての気付き。
教える・教わるということについて。

今はもう少ないのかもしれないが、部活動といえば「先輩が威張る」というのが定番であった。
実は1年か2年早く入っただけの「入社2年目」ぐらいなのだが、ものすごい「えばりん坊」がいる。
アルバイト、あるいは就職先でも同じような生態が見られる。

なぜこんなに威張れるのか。
相手より色々と「知っている」からである。
「知らない」という相手に対し、有利な立場に立てる。
「そんなことも知らないのか」と馬鹿に出来るのである。

相手は新しく入ってきたのだから、部活動内や職場のローカルルールなぞ知らなくて当たり前である。
それをいちいち指摘し、ねちねちいじめる。

どんなに優秀な新人相手であっても同様である。
むしろ、自分より能力の高いと思われる(あるいは生意気な)後輩などには、本能的に脅威を感じるため、余計にいじめたりする。

これは全国的に見られる光景のようだから、人間の本能的な行為といえる。
例えばゴリラの「マウンティング」のように、あらゆる動物は自分の立場が上であることを示す。
つまり本能のままに従えば、新人に威張るようになるということである。
もし何となく他人に威張るようになっていたら、理性が本能に負けている証拠であると考えてよい。

本当に人格的に優れた人は、誰に対しても、決して威張らない。
普通にしていると、こちらより相当「高い」位置にいるので、腰を低くしてくれる。
小さな子どもに接する時には大人がしゃがみこむように、高さを調節して接してくれる。

そういう、ものすごく親切で温かい先輩もいる。
新人の失敗にも寛容で、的確なアドバイスをくれる、面倒見のいい人である。
こういう人が新人教育係をやってくれると、ものすごく伸びる。

人に教える時、つい「この人はいい」「この人は扱いにくい」と分けがちである。
誰に対しても温かい人は、そういう対応をしない。
子どもに対しても同じで、「いい子」「悪い子」というような区別はしない。
それぞれの良さに着目して、引き出してくれる。
「教育」を意味する「education」の語源が「引き出す」であることが思い起こされる。

教育実習生を見ていると、自分の実習生時代を思い出す。
実習簿を見返すと、顔から火が出そうである。
字のまずさはもとより、書いている内容がまたひどい。
勘違い&生意気100%である。

かなり寛容に見ていただいていたことが推察される。
あの場でもしダメな点を列挙されて叩き潰されていたら、今はなかったかもしれない。
良い面を見てもらい、引き出してもらえたということである。
(その後千葉県で採用していただけたことにも、改めて感謝である。)

人間は、概して個性的である。
良い悪いは決められない。
教育させてもらう側は、ただ自分が現在知っていることを、教えることができるのみである。

つまりは、教えるという行為は、相手を変えることではなく、自分自身が勉強させていただいているだけと言える。
何かを教えた瞬間に、相手からの反応・フィードバックが返ってくる。
反応に応じて、また伝える。
この繰り返しである。

教えるという行為は、意識すれば相手との対話にもなる。
自分にとっての授業、自分にとっての教育実習なのだと思って、主体的・対話的に取り組みたい。

2018年10月6日土曜日

教育実習を自分の成長に生かす

10月、教育実習がまた始まる。
大変なことばかりではなく、むしろメリットの方がはるかに多い。
以下、思い付くままに列挙してみる。

一つ目。まず、子どもがいつもより見える。
見えない面が見える。
年齢の近い実習生相手だと、子どもの対応が違う。
普段言わないようなことを言ったり、やったりする。
真面目だと思ってた子ども、大人しいと思ってた子の素が見えたりする。
高学年は悩みを打ち明けることもある。
実習生から、貴重な情報が得られることもしばしばある。

二つ目。自分の指導の粗が見える。
実習生が話し方から何から何までそのまま真似するため、自分の指導のまずいとこがよく見える。

三つ目。当たり前だと思っていたことに気付ける。
実習生から「なぜ?」「何のため?」をたくさん問われる。
まっさらな視点から見てくるので、教育活動そのものの意味を考え直せる。

四つ目。子どもの自主性が育つ。
実習生を送る会を計画しようという話になる。
まず、リーダーが登場する。
更に企画力や協力する気持ち、人を喜ばせようとする気持ちを育める。

五つ目。一つ目に似ているが、担任からは見えなかったその子どもの良さに気付けることがある。
子どもの能力は、相手によって引き出されるものが変わるというのがよくわかる。

六つ目。子どもの運動欲求を満たせる。
部活動を現役でやってることが多く、特に高学年の活発な子どもの遊び相手として最高。

七つ目。特技を授業に役立てられる。
特技や趣味をもっているので、それを活用する場面を作ると、本人も生きる上に授業にも役立つ。
例えば昨年度は四年生の国語の授業で、落語研究会の学生に落語を実際にやってみせてもらった。

まだまだあるが、とにかくメリットが多い。
大変なことには、価値がある。
自分自身も学ぶ機会だと思い、共に学びたい。

2018年10月5日金曜日

「天真」を引き出す「蒲柳の質」

先日の研修旅行中、山口県の「鍵山記念館」というところで、読書会を行った。
テキストは森信三著『修身教授録』の第19講「松陰先生の片鱗」である。
この中で「天真」という言葉が出てきて、これが心に引っかかった。

意味を調べてみた。
広辞苑によると
【天真】
天然自然なままで、偽りや飾り気のないさま。
とある。

『修身教授録』の文中には次のように書かれている。
=========
(引用開始)
そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるのであります。
天真に二、三はなく、万人すべて等しいのでありますが、ただその本性の開発の程度いかんによって、
そこにそれぞれ独自の趣を発揮してくるのであります。
それ故ひとたびこの点がはっきりしたならば、いかなる者にも穏やかに優しく、
かつていねいに対せずにはいられなくなるはずです。
(引用終了)
==========

それぞれの「天真」を引き出す。
それさえできれば、教育としては、成功であると思われる。
それぞれ個別の教育が必要な所以である。

それぞれに「天真」があるという前提に立つ。
さすれば、誰に対しても、ていねいに接せざるを得ないはずということ。
立場自体は上であっても、相手を見下すということをしないということになる。

こう考えると、「叱る」ということのやり方自体を考える必要が出てくる。
子どもと共に歩む者としては、叱る際に、自省の念が伴う必要がある。
つまりは、大声で怒鳴るのではなく、自身にも諭すように、低く柔らかく、わかるように伝えるのが理想といえる。

東洋思想研究者の安岡正篤によれば、吉田松陰の話し方を
「平常の音声なども極めて低く柔かく、一体に蒲柳(ほりゅう)の質であった」
と表現している。
(『日本精神の研究』安岡正篤著 致知出版社より)

この「蒲柳の質」をどうにかして身に付けたい。
どうにも「剛」である。
しかしながら、目指す価値がある。

ちなみに、私の友人の教師で「こんにゃくファイター」というあだ名をもった人がいる。
(「もった人がいる」とか他人事のように言っているが、勝手にそんなあだ名を付けたのは私である。)
この人は、一体に蒲柳の質である。
管理職も認める、謝罪のプロであり、クレーム対応のプロであった。
志や向上心というものはあまり感じられなかったが、人間関係のクッション的役割が非常にうまい。
どこに行っても、重宝する人材である。

もしかしたら、身の回りに自分の「先生」がいるかもしれない。

「天真」を引き出すための、自分の在り方を問う。
我が身を振り返り、反省しきりである。

2018年10月4日木曜日

松下村塾での学び2

松下村塾での学びその2。

教育の不易についても考えさせられた。

松陰は講義もすれど、その多くの時間は会読や討論といった塾生同士の学び合いのスタイルである。
更に言うと「異年齢集団の縦割りグループ」である。
「主体的・対話的で深い学び」が完全に具現化されている。
つまり、この理念は「流行」のように見えるが、実は「不易」である。

そして、松陰が教えたのは、学問を通しての「志」である。
だから、あらゆる分野での傑物が出た。

ちなみに、同じく山口県の誇る偉人、大村益次郎の「適塾」での学びにおいても、使えたスペースは「一畳」だけであったという。
その非常に限られた範囲の中で寝・食・学のすべてを行ったという。
(大村にして「極めて窮屈」と親族に愚痴をこぼさせるほどである。)

こちらの理由は、適塾の開設者である緒方洪庵が日本一の人気だったせいである。
全国から医学を志して集まった塾生が200人。
そのたった一畳を塾内のどこに構えるられかは、成績次第である。
位置も出入り口に近い壁際になると、夜厠へ行く仲間に踏まれるという。
つまり、必死で学ばないと、講義が聴きにくいだけでなく、眠ることすら妨害される。
熾烈な競争である。

しかしながら、そのたった一畳分のスペースの中でも、学べたというのは事実である。
その何もない一畳の空間において、必死に大量の本を読んで学んだというのが事実である。

信ずるは、学の力。
もっともっと勉強せねばならないと思い知らされた研修旅行だった。

2018年10月3日水曜日

松下村塾からの学び1

夏休み中、福岡県と山口県に研修のための旅行をしてきた。
最大の目的は、松下村塾を実際に尋ねることである。
以下、旅における学びと気付きを記す。

自分に何が足りていないか、結論が出た。
ずばり、勉強量である。
具体的に言うと、圧倒的な読書量の不足である。

部屋の柱に飾られた孟宗竹には
「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得んや」
と記されている。

更に、読書の方法についても指南している。
読むだけではだめで、要点を書き写せという。

そして、最も大切なのは、行動。
書物より学んだことを実行せよということである。

松下村塾という建物自体からの学びもあった。

松下村塾は元々8畳のスペースで、塾生が増えてあまりに狭いので、後に10畳半を増築したという。
↓参考資料 国立国会図書館デジタルコレクションH.P.内「松下村塾間取平面図」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1274459/6?tocOpened=1

増築分は、塾生による手作り建築物である。
大工に頼らなかった理由は、松陰が塾生への教育の一つとして行ったからだという。

松下村塾は、狭い。
藩校と違い、私塾であり、当時の最新の教育機器もない。
それどころか教科書もないので、まずは書き写すところからである。
しかし、高杉晋作や伊藤博文をはじめ、多くの傑物がここから出ている。

なぜなのか。

結論、つまり「最大の教育環境は、教師である」という事実の証明である。
教育機器その他諸条件のせいではないのである。

そこで「そんなことはない」と反論するために、「生徒の質」ということを言い訳にして考えてみる。
つまり、松下村塾に来る生徒が、元々優秀だからという仮説。

残念ながら、この仮設もほぼ全く成立しない。
藩校で「悪童」として名を馳せ、手の付けられない生徒も少なくなかったという。
親としては、こちらの塾にぶち込んで、矯正してもらおうという訳である。
伊藤博文のように、元々志が高い人間ばかりではなかったようである。

更に言うと、松陰は獄中での講義も行っている。
江戸時代の、獄中の人々。
ここに対し「教えやすい相手」「元々優秀」と言えるか。
明確に「否」である。
しかし実際は全員、20代から40年以上刑務所に入っている人間までもが、学び始めるのである。
看守すら生徒になってしまう。

これでは、全く言い訳ができない。
「生徒の質が悪いから」は、全くの虚言であると断言できる。
残念ながら、悔しいぐらい、教える自分の側が原因である。

2018年10月2日火曜日

「給料が3分の2になった」をどう考えるか

師の野口芳宏先生からの学びのシェア。

野口先生がこんなお話をされた。
定年退職を迎えて、再就職した人と話すと
「給料が3分の2になった」という話になる。

この後の反応が、大きく二つに分かれるという。

一つは、
「同じ働きなのに、安い給料でやってられない」
という反応。
まあ、そう考えるのが普通である。

もう一つは、
「現役の頃は、何て高い給料を頂いていたのか、恩が身に染みる」
という反応。

どちらも、境遇は全く同じなのである。
不平不満の人生か。
感謝満足の人生か。
どちらが幸せかは、明白である。

これを、定年退職した人の話と受け止めてはいけない。
現役バリバリで働く人たちにも、十二分に当てはまる話なのである。

ちょうどその1週間前、私は父と二人で酒を酌み交わしながら、これに近い話をされた。

私の父の仕事は、建築関係である。
65を過ぎたら、一気に給料は減る。
それでも、仕事がもらえるだけで、有難いという。

さらに
「公務員は、叩かれるつもりでいろ」
とも忠告された。

一般の業界からすれば、これほど社会的に保護された立場はないという。
「使えないからクビ」「態度が悪いからクビ」「会社の経営がきついからクビ」など、他の業界では当たり前のことだという。
明日、家族の生活がどうなるかわからないのである。
「そういうことがまず起きない」というだけで、もうとんでもない優遇された立場だという。

そういう諸々に、感謝しているだろうか。
給料が安いとか労働時間どうこう言う前に、それほど「働いて」いるだろうか。
貢献できているのだろうか。
本当に、自分たちの仕事が、公務員ではない一般業界と比較して、大変なのだろうか。
日々の授業を工夫できたり、かわいい子どもたちと過ごせたり、むしろ、感謝すべきことの方がはるかに多いのではないか。

「働く」とは、「傍を楽にすること」という。
周りを幸せにした度合いへの見返りとして、給与がある。
そう考えると、その職に就いただけで一定の給与が頂ける立場が保証されているというのは、おそれるべきことである。

何でも、登るのは大変だが、転げ落ちるのはすぐである。
水は低きに流れる。
気を付けないと、不満不満と堕落の道を辿ることになる。

何事も、勉強である。
「努力否定論」もあるが、やはり、基本的に人間は苦労するのがいいのではないかと思う。

「働き方改革」は、必要である。
しかしながら、これは「楽していい給料をもらうようにしょう」ということではない。
苦労して働き、給料を頂ける有難さを見直したい。

2018年10月1日月曜日

二択で問う

最近、犬を連れて旅行をするようになった。
そうすると、選べる宿が相当限定される。
恐らく、そうでない状態の1%ぐらいである。

犬連れは、宿的には結構困るのである。
原則「犬連れお断り」である。
そして犬OKの宿では、特別対応がある分、当然割高にはなる。

しかも、犬連れは、移動距離も限定される。
飛行機に乗れないのは大きい。
車移動オンリーである。

犬を預けてくればいいじゃないかと思うかもしれないが、あくまで目指すは「犬連れ旅行」なのである。
置いてくる訳にはいかない。

食事をできる店も限定される。
テラス席である。
当然、屋外なのでクーラーはない。
木陰とはいえ、まあ中に比べたら暑い。
(しかし、健康的な感じもする。)

寄れる場所も限られる。
炎天下のコンクリートの上は歩けない。
ただでさえ、暑さに弱い生き物である。
基本的に、森とか水辺とかになる。
専ら、自然系である。

とにかく、全体的に選択肢が少ないのである。
それで、それは不幸かというと、そうでもない。
気持ちが割り切れて、決定が素早くなる。
いわゆる「意志力」を消耗しなくて済む訳である。
「ま、これでいこう」「なかなかいいじゃない」ということになる。

世の中に色んなものが溢れていても、そもそも候補にすら上がってこない。
条件からはじかれるからである。
ごちゃごちゃしなくて、見やすくなる。

私のように情報過多な状態が苦手な人間は、あんまり選択肢が多いと、それだけでげんなりしてしまう。
どれが本当に良い選択だったのか、何を考えればよいか、わからなくなるからである。
(こういう人は、私以外にもそれなりにいるのではないかと思う。)

世のお母さん方にとって、
「今日の夕飯何がいい?」
とたずねた時、最も困る回答が
「何でもいい」
だろう。
これで作る気をなくすという話もよくきく。

しかし、これは、聞かれる側にとっても、結構困るのである。
あまり良い問とはいえない。
「無限の選択肢から選べ」ということと同義である。

しかも、大真面目に
「じゃ、フォアグラのテリーヌ」
とか答えても、作ってもらえないこと必至である。
結局カレーになるんだったら、最初からそういってくれと思う。
こうして、親子や夫婦の関係が次第に冷えてくるのである。
恐ろしいことである。

だったら最初から、
「ビーフカレーとシーフードカレーどっちがいい?」
と聞けば全て解決である。
問の基本は、二択である。

真面目に、学級に当てはめてみる。

授業がぐずぐずになる時は、大抵、問が悪い。
問が大きく、ざっくりしすぎなのである。
答えの選択肢がありすぎて、方向が拡散しすぎるのである。

先のカレーの例のように、カレーであることは決まった上で、二択で聞くのが基本である。
ちなみに、〇×も二択である。
その上で、なぜそちらを選択したかを問う。
そうすれば、話し合いにもある程度の方向性が定まる。
最初から無限の選択肢から選ばせるから、思考がぐちゃぐちゃになるのである。

結局、何の話だったか。
そう。
選択肢の少ない犬連れの旅行も、なかなか悪くないということを最も言いたかった次第である。

2018年9月30日日曜日

従う清々しさ

素麺塾での学びの続き。

朝早く来て、畳を敷いて拭いたり、道の落ち葉を掃いたりする。
気分は、お寺の小僧である。(実際、観音堂という場所である。)
木漏れ日の中、汗を少しかきながら掃除をすると、清々しい気分になった。

準備の段階で、休憩が入った。
麦茶とスイカをいただきながら、直接野口先生のお話を聞けた。

野口先生が「従う清々しさ」ということをお話されていた。
学ぶ姿勢にしても「自分を無にせよ」とのこと。

ここが、すとんと落ちた。

この日、寺の小僧のような仕事をさせてもらったのは、進んで来ているからである。
従いたくて従ったのである。
完全なる自分の自由意思である。
「道の落ち葉掃きとか地味だし暑いから嫌」とかは全くない。
道を掃いていると、気持ちが「無」になっていく感覚がある。
そうすると、また色々と入ってくるスペースができる。

「それは知っている」と思うことは、学びを阻む。
普段の会話でも、話を聞かないことになる。
例えば夫婦の会話は、成り立ちにくいという。
お互いが「知っている」という勘違いによるものが大きいのかもしれない。

戦後「従う」ということが、激しく叩かれる時代が続いた。
軍国主義への反動である。
同時にアメリカの「個人主義」が良いものとされてきた。
(これも、自由の本家アメリカからすれば、ひどい曲解・誤解である。)
即ち「自分を無にする」ということが、「隷属」と同類に扱われてきた。

そうではない。
進んで従う、というのは、相手への尊敬から発する行為である。
「自分を無にする」とは、すべてから学ぼうという謙虚な姿勢の現れである。
これらは、非常に価値のあることであり、学びの姿勢として主体的である。

進んで従いたい相手がいるか。
いるとしたら、それは素晴らしく幸せなことである。
自分を無にして、万物から学びたいと思えるか。
だとすれば、学びの要素は、身の回りに溢れている。

2018年9月21日金曜日

道徳教育は、高性能ブレーキ

先月の「素麺塾」(野口塾)での学び。
この素麺塾では、まず参観者同士の実践発表等の交流をする。
その後で流し素麺を楽しんで、俳句会、懇親会という流れである。
今回は、幼児教育に携わる方々の集まりで、私立幼稚園の経営者の方が多かった。

今回も自分は、裏方としてかまどの火の番をし、素麺を茹でていた。
そして仕事をしつつも、ちゃっかり中の話も聞かせてもらっていた。

その中で、ある方のこんな話が聞こえてきた。

「高性能な車には、高性能なブレーキが必要だ。
ブレーキに自信があれば、思い切り走れる。」

ここに、なるほどと思う気付きがあった。
思うに、ブレーキには、道徳教育が当てはまるだろう。

道徳の抜けた教育というのは、危ない。
スポーツ界がその最たるものだが、指導者が「勝ちさえすればいい」という思想でいると、ろくでもないことになる。
本物の強豪チームは、周囲への感謝をはじめとする道徳教育を、技能指導同様に大切にしていることが常である。

学力に関しても同様。
自分だけが賢くなって点数を取れればいいという思想は危ない。
どこかで必ず転落する。(そして誰にも助けてもらえなくなる。)
特にこれからの時代、仲間と助け合う「協働」の姿勢が大切である。
集団の問題を自分自身の問題と捉え、解決への手立てを講じられる人間が求められる。
これも、道徳教育である。

私が若い頃わかっていなかったので、一応注釈をつけておく。
「道徳教育」と「道徳科の授業」は、別物である。
道徳教育>道徳科 である。
道徳教育は、学校教育全体で行われるものである。

朝の支度の時間でも休み時間の過ごし方でも給食の時間でも掃除の時間でも、すべて道徳教育が入っている。
国語の授業でも算数の授業でも体育の授業でも道徳科の授業でも、すべて道徳教育が入っている。

例えば、体育の授業は、意図せずとも道徳教育が入りやすい。
器械運動の授業なら、自分ができたから自分だけ突き進むということはなく、大抵、周りの仲間に教える。
できたら一緒に喜ぶ。
これらの一連の流れは、そのまま道徳教育である。
ごく普通の光景である。

算数等でも、これを取り入れていることが多い。
自分ができて満足するのではなく、わからないでいる周りの仲間に教える。
そうすると、お互いの学力が高まる。
双方にメリットがある。
それを実感させれば、それも道徳教育である。

道徳科の授業は、もちろん道徳教育である。
他の教科と違い、道徳的な価値そのものが学習の中心に来る。

例えば算数の「角」の授業なら、その時間は分度器の正しい使い方を身に付けるのが学習の中心。
その学習過程で、当然道徳教育も行われるのだが、指導案に書く「ねらい」の中心はそこではない。
道徳で「走れメロス」を教材にする授業なら、その時間は「友情」「責任」「不撓不屈」等が学習の中心になる。
道徳的な価値が学習内容の中心にきて、かつその学習の過程においても、道徳教育が行われる。
(人の発言を馬鹿にしないとか、授業に真面目に参加するとか、姿勢を正して話を聞くとか、そういうこと全てである。)

話を戻す。
高性能なブレーキとは、道徳教育であると解釈する。
つまり、「自分が自分が」で行きすぎない、止められる力と捉えた。

アクセルは、学力等を含めた本人の能力そのもの。
どんどんスピードを出せるようにするい。
しかし、人や物にぶつかるようでは、いけない。
スピードがよく出る車ほど、高性能なブレーキ、安全装置が必要である。
スピードを出せるようにするほどに、ブレーキの性能も上げる必要がある。

何を教えるにも、ベースは道徳教育。
そんなことを考えながら、夏の暑い盛りに素麺を茹でていた次第である。

2018年9月19日水曜日

子どもは本能的に見抜く

学校のアサガオに水をやっていたら、通りから柵越しに声をかけられた。
この学校の卒業生の方だという、80歳の女性である。
自分もかつて高校で教師をやっていたので、つい声をかけたくなったという。

たまたま出会った方だったが、面白い話がたくさん聞けた。
せっかくのご縁をいただいたので、備忘録も兼ねて、ご縁を生かすつもりでいくつかシェアする。

その女性が、高校で教師をしていた頃の話である。
教室に入ると、すごい剣幕で暴れている男子生徒がいたという。
ある教師に「お前はバカだ」といわれて激昂していたらしい。

そこで、担任であるその女性は、次のようなやりとりをした。
「あなたは人にバカと言われたらバカになるの?」
「・・・」
「じゃ、今私をブスって言ってみなさい。」
「言いたくない。」
「いいから言ってみなさい。」
「・・・ブス。」
「ブスになった?」
「ならねーよ!」
「じゃ、あなたもバカじゃないわ。
 いい、他人に決められることじゃないの。
 自分の尊厳は自分で守りなさい。」

リアルに金八先生である。
体当たり感が素敵である。
体が小さくても、迫力があるとはこういう状態である。
そして、あまり普通は思い付かない対応である。

話を聞いている内に、どうやらかなり哲学関係の勉強をしている方とわかった。
私は「あなた、マルクスの『自省録』読んだことある?」
と聞かれた。
「読んだことありますね。半分ぐらい・・・」
と答える私。
「きちんと読みなさい。何回読んでもいい本よ。」
とおすすめされた。

そう、たまたま、最近読んだような記憶があった。
帰って見てみると、私の「半年以内積ん読コーナー」に入っていて、何か「ぞわっ」とした。
ご縁である。
(という訳で、今は『自省録』熟読中である。)

「子どもは、勉強している先生を、本能的に見抜くのよ。
 勉強して勉強して、子どものために、立派な先生になりなさい。」
と言って、爽やかに去っていかれた。

自分が、勉強する。
それが、子どものためになる。
そうなると、これはもはや職務上の責務でもある。
堂々と「勉強してます」といえるようになりたい。

2018年9月17日月曜日

偉大な常識

8月7日の投稿で『「常識」は敵』という記事を書いた。
自分の中にある常識を疑うべし、という意味で書いた記事である。
これについては、他にもご意見をいただいた。
常識とは、なかなかに定義が難しいものである。

違う視点で、興味深い定義に当たったので紹介する。

『人間にとって成熟とは何か』幻冬舎新書 2013年 曽根綾子
================
(引用開始)
常識というものは常に相手の存在を意識するところにある。
相手はどうでもいい、と思うから非常識が発生する。
(引用終了)
=================

なるほど、こう考えると、常識は必要である。
自分一人で生きていけるなら他人への配慮は必要ない。
しかし、そんなことができるはずはない。

こう考えると、一般的に言われる「常識」が絶対的なものではなく、文化的に規定されることがますますよくわかる。
つまりは、相手主体である。
文化の違う国の人相手には、非常識になってしまいやすい。
また、考え方があまりに違う相手にとっても、互いに非常識である。
世代間格差による非常識も、言わずもがなである。

そこに対し、この本の中では「偉大な常識」という言葉も登場する。
曰くそれは
「普遍的な人間性を表す基準的な何か」
であるという。
それは、心の中にもつものである。

普遍的な人間性。
これを考えるだけでも深い。
ここでは定義しない。
(少なくとも、1リットルのコーヒー牛乳をストローで飲むか云々、というレベルの話ではないことだけは間違いない。)

普遍的な人間性を表す基準をどう置くか。
私のような凡人にとって、高尚なことは難しい。
とりあえず、相手が嫌がることをしないとか、悪口を言わないとか、当たり前のことだけは守っていきたい。

2018年9月16日日曜日

パフォーマンス向上の鍵

学級づくりパーフェクトセミナーでの講師の赤坂真二先生からの学び。

学習成果をもたらす要因について。
学習の成果において、どの要因が重要か。

最も大きな要因は「学習者本人の能力」で、これが大体40%程度。
最も大きい要因なのに、意外と見落とされがちだという。
本人の能力を無視しての学習成果はあり得ないという大前提である。

次点は「関係性」でこれが30%。
さらには「教師期待効果」が15%。
これらは学級経営そのものである。

最後に「教え方」が15%。
いわゆる教材研究や授業研究に当たる部分である。

数値の出典の根拠がどこか聞き損ねたが、実際に考えてみると概ね納得である。

これらは、会社における仕事のパフォーマンスとも共通するという。
本人の能力がまず第一。
次に周りとの関係性。
最後にやり方、テクニックである。

特に、上司との関係性は重要であるという。
他の要素が多少欠けていても、上司のことが好きだと、パフォーマンスの高い状態を保てるという。

教室でいうと、教えてくれる先生のことが好きであるという状態。
好きな先生の教科は好きになるという経験は、誰しもあるのではないかと思う。
例えば私は高校3年生の時、それまでさっぱり興味のなかった地理を一時的にかなり好きになった。
地理そのものというより、地理担当の先生のキャラクターが好きだったのである。

職場でいうと、学年主任や管理職といった上の立場の人が好きかどうか。
これがパフォーマンスを左右する。
嫌だと思う人の下では、思う成果は上がらないということになる。

上司の悪口を言いたくなるのは、古今東西不変のことではある。
しかし、これは良くない結果しか生まない。

主体変容の視点から言って、変えられるのは自分の方である。
相手の悪いところに焦点を当てて見ている可能性が高い。
厳しいのも、いじめられていると思うか、自分のためを思ってくれていると思うかで、全然結果が変わってくる。

子ども集団に力をつけさせるという視点からも、職場の仲間に対する態度や関係性は無視できない大きな要因である。

2018年9月15日土曜日

自治的集団を育むために 担任は「壁」になれ

公開研究会の特別活動部会「教育フェア」での学び。

参加者でグループを作り、「自治」をテーマに悩み等を話し合った。
その中で
「子どものやりたいことをどこまで許容するか」
という話題が上がった。

自治を目指す学級なら、当然子ども発のやりたいことは、やらせたい。
しかしそれが
「学校にDSを持ち込んで対戦していいですか」
なら、学校ルール的にも当然認められない。

「学校でお菓子を食べてもいいですか」
はそのままだとNG。
しかし、家庭科の学習の一環としてなら?
これは工夫次第で可能になる。

「好きなCDを持ち込んで休み時間に聴く」
ならどうか。
これも意見が分かれた。
実際、メジャーな歌はたくさん音楽の教科書にも盛り込まれている。
しかし、音楽というのは、趣味・嗜好の世界である。
しかも、教室という空間にCDで流すとなれば、そこに居る人間には嫌でも耳に入る。
クラシックならいいのか。
メジャーな優しい曲なら?
アニメソングは?
一気に振れて、デスメタルやヘビメタなら?

そもそも、文化という面では同じ漫画等と、同じような扱いにならないのはなぜか?
結局、担任や学校の裁量次第となる。
ただでさえ荒れている学校内で、一部の子どもの趣味の曲を平気でガンガン流されたら、周囲はたまらない。

では、「休み時間にダンスをしたい」
はどうか。
この場合、CDは必須になる。
実際、体育や運動会等では頻繁に用いている。
しかし、教室では静かに過ごしたい子どもも存在する。
つまりは、音楽を流す場合、公共の場であるクラスとしての合意(コンセンサス)が必要になる。
ここは、クラス会議の登場である。

参加したある先生の学級では
「レクとして飴探し競争をしたい」というのが出たという。
粉の中に顔を突っ込んで飴を探してくわえてリレーしていくという、芸能人がお正月番組とかによくやるあれである。

まあ、実にくだらない。
しかし逆に、このくだらなさぶりこそ、実際にやらせてみたくもなるのが担任魂である。

この先生は、必ず「企画書」を書かせるという。(私もそうである。)
「道具の準備と費用はどうするの」「小麦アレルギーはどうするの」「やりたくない子はどうするの」
とどんどん企画の不備を突っ込んでいく訳である。
子どもは、その課題をどんどん越えて、解決策を考えてくる。
そして後日、晴れて実施と相成ったという。
(みんな顔が真っ白だったらしい。)

やってることは馬鹿みたいだが、そこまでやる情熱は見上げたもので、ある意味知的である。
こういう子どもたちは、将来逞しく生き抜くことと思う。

色々話し合った結果、
「担任が壁になる」
というのが大切ではないかという結論にまとまった。
要は、自治的集団というのは、継続的に問題を解決し続ける集団である。
何かを実現したい時に、ただやりたいからやるのではなく、起こりうるあらゆる問題を想定し、乗り越えていく。

だから、担任は、子どもがやりたいと言ったことを無条件にOKするのではなく、壁になって立ちはだかる。
ここを引き返す程度の情熱ではダメということ。

乗り越えさせる。
壁も、最初は低く、鍛え上げてきたら、徐々に高くしていく。
そうやって、自治の力を育めるのではないかという話になった。

意識の高い人が集まっただけに、面白い話し合いになった。
参観者同士でAとBから新たなCを生み出す、という過程を体感できた教育フェアでの学びだった。

2018年9月10日月曜日

個人面談の極意

赤坂先生からの学級づくりの極意(裏)シリーズ。
今が多分どこも旬の「個人面談」の心構えについて。

なぜ(裏)かというと、懇親会中に得た学びだからである。
実は、懇親会の情報は、大抵質が高い。
全体に向けての外向きの飾りをする必要がなく、本音だからである。

曰く、個人面談は、そのまま面談だと思わないこと。
「個人〇〇」という、他のサービス業だと考えた方がよい。
そこに入る言葉は、自分の技量とねらいによって変える。

もし「カウンセリング」ができれば素晴らしい。
これにはなかなか技量がいる。
アドバイスではなく、相手の悩みへの傾聴に徹する必要がある。
共感の力も必要である。

「コンサルタント」はどうか。
これも難しい。
家庭教育の「経営」に対する助言、指導をし、方針を示してあげる。
もしもできるだけの専門性があるなら、やってもよい。

〇〇には、サービス系の接客業でもいいのである。
特に口ベタで話を聞く方が得意な人は、こちらの方がよい。
保護者は、わざわざ暑い中、時間を作って学校に出向き、会いに来てくれるのである。
いうなれば、時間的空間的コストをかけている。
そんな中で苦労してやってきて、説教されてはたまらない。
労いの言葉をかけるのは当然である。
「来て良かった」と思ってもらう方に全力を尽くす方がよい。

また、面談では喋りが得意でないといけないと思っている若手も多い。
これは大きな勘違いで、喋りの技術は、聞く技術に比べると、かなり少なめでよい。
学校での様子を、聞かれた分だけ答える必要はあるが、大抵は担任の喋りすぎである。
喋りたい気持ちを我慢できるかどうかの方が大切である。
(大抵「アドバイス」は求められない限り、上から目線に思われがちである。)

最後に、自分がここまで経験して感じている「禁じ手」を紹介しておく。
それは、学級での「ダメなところ」を逐一伝えることである。

大抵の親は、我が子の至らない点を知っている。
高学年になればなるほど、知っている。
(一年生の場合は、単に学校になじめているかの不安が大きいのかもしれない。)

善良な親は、「自分が至らないせいだ」と思っている。
そんな訳はなく、子どもは一人の人格をもち、育て方ですべてが決まる訳ではない。

立場を担任に置き換えてみればわかる。
学級の子どもに、不得意なことや、社会的に見て望ましくない何らかの性質があるとする。
しかし、それは本人の性質の一つであり、教育でどうにかなる面ではないかもしれない。
それを「すべて担任のせい」と思われてたらどうか。
保護者に、同僚に、管理職に、「どうにかできるでしょ」と言われたらどうか。
かなりやるせない感じである。

それぐらいの構えで、保護者との個人面談に臨んだ方がよい。
保護者と担任は、共通の目的をもった仲間である。
苦労を共にする仲間である。
個人面談は苦労を共に労い、場合によってはこれからの戦略を練る時間である。
間違っても、担任が保護者に言いたいことを言う時間ではない。

仲間意識をもって、個人面談を互いに気持ちの良い時間にしたい。

2018年9月9日日曜日

労働時間が長いから疲れるのか

今週末のセミナーに関連して、労働時間に関して。

労働時間が長すぎるというのが、常に多忙の槍玉に挙がる。
これは本当か。

実際、多忙かどうかは、労働時間の長さの問題ではない。
疲労感や多忙感は、本人の感じている「やり甲斐」の問題である。

やり甲斐の感じられない作業に従事することは、例え1分でも苦痛である。
逆に、やり甲斐や達成感を感じられることであれば、何時間でも没頭できる。
子どもが大好きなゲームをやっているのと同じ状況である。
研究者など、その典型である。

やり甲斐は、作業内容そのものには存在しない。
取り組む本人の姿勢が全てである。

例えば、算数の授業をする場合を考える。
とりあえずその時間をやり過ごしている人がいる。
その教材の内容や解き方を教えている人がいる。
思考法そのものを鍛えている人がいる。
仲間との協働を通して、生き方の基本を教えている人がいる。
「将来の日本を支える人材育成をしている」と考えて授業をしているかもしれない。

これらの人を比べれば、同じ時間を過ごしていても、その充実感は全く異なるものになる。
仕事を、面倒なものとしてみるか。
意味のあるものとしてみるか。
同じ作業に従事していても、この差はとてつもなく大きい。

「ブラック部活動」問題も、あくまでブラックなのは強制的で否定的な場合である。
顧問の中には、休みを返上してでもぜひやりたい、という場合だってかなりある。
別に残業100時間を越えても全く構わない人と、規定時間内でもへばってしまう人がいる。
ここが混同されがちである。
あくまで、やりたくない人に実質無給で無理矢理やらせて休みを返上させている状況が、ブラックなのである。

これは、夏休みの宿題の在り方の話にも共通する。
例えば、本校の1・2年生では、自由研究等の素晴らしい作品がたくさん出た。
ちなみに、必須課題はゼロ。(学年とは別に保健室から出た「歯磨きカレンダー」だけは必須であったが。)
出品するかどうかも本当に自由である。

そうして蓋をあけると、相当数の作品が出品された。
見れば、かなりの時間を費やしたと思われる作品がかなりある。
親の温かいサポートもあっての合作である。
作った本人たちも、満足そうである。

この場合、とても多くの時間をかけて大変であっても、徒労感はない。
自らの意思でやった、あるいは、最終的に熱中して「はまった」からである。
これを仕事と考えた時、「多忙感のある長時間労働」には当たらないといえる。

作業時間・労働時間というのが、最も客観的な数値データとして把握しやすく、「過労死」の原因として説得力がある。
数値が評価の物差しとして使いやすい。
成果主義の評価方法と同じである。
だから、槍玉に挙がる。

実際は、ここだけ見ても、部分的な解決にしかならない。
一番は、やり甲斐の問題である。

今度のセミナーでは、労働時間の短縮の話以上に、教師の仕事にやり甲斐をもつには、ということについて話をしたい。

2018年9月6日木曜日

働き方改革セミナー

来週の土曜日に開催されるセミナーのお知らせ。

9月15日(土)13:00~
『1冊プレゼント★忙しい教師のための超「仕事術」セミナーIN明治図書』
https://kokucheese.com/event/index/528408/

俵原正仁先生と私とのコラボ企画である。
同じシリーズの仕事術本の出版記念ということで、お声をかけていただいた。

俵原先生といえば、プロレスと、ももクロ。
仕事と趣味の、両方を最高に楽しんでいる先生である。
エネルギーの塊のような方である。

私はどちらかというと、趣味は多いが、そこに没頭はしない。
さらにいうと、スポーツ観戦やアイドル等のマスメディア情報には、かなり疎い。
そのあたり、私とは対照的な先生である。

私は基本、あまり活動的とはいえない。
時間があるなら、ぼーっとするか、読書をしたい。
アウトドアなイメージをもたれるが、結構インドアである。

共通しているのは、自分の時間が欲しいから、仕事の効率化を図っている点である。

子ども相手の仕事だからこそ、手は抜けない。
しかしだからこそ、力のいれどころは押さえる必要がある。
なぜなら、時間は有限で、やることは無限だからである。
やることの精査と効率化が必須である。

捨てることの決定と、やることの要領を得ることが必須である。
仕事の能率化は、実はマインド9割。
やっている人の実例を見るのが最も早い。

エンターテイメント的に来ていただいてもいいと思う。
私も参加したことがあるが、俵原先生の講座は、楽しい。
私の方は、最近学級経営系の話が多かったので、今回は仕事術そのものを話す。

働き方自体に無駄が多すぎるというのが主張の一つ目である。
やらなくてもいいことまで、爽やかにがんばりすぎていないか。

忙しさの根本的な原因は、すべて人間関係にあるというのが主張の二つ目である。
先生には「いい人」が多い。
いい人は、何かと搾取されやすいのである。

働き方改革法案が決定したところで、一緒に考えていきませんか、というお誘いである。

2018年9月4日火曜日

温かくしつける

赤坂真二先生からの学び。

温かくしつけるということについて。

しつけるというと、厳しいイメージがある。
厳しいの対義語は甘い。
しつけが甘くては意味がない。
となると、やはりしつけは厳しくするものといえる。

しかし、厳しいと冷たいを混同しがちでないか。
二つは別の次元である。
冷たいの対義語は温かい。

冷たいしつけになってないか。
温かいしつけになっているか。

厳しくも温かいしつけは存在する。
しかし、厳しく冷たいしつけが多くなっていないか。

二つはどう違うのか、冒頭の言葉を聞いて考えてみた。

電車で騒いで動きまわってる2、3歳ぐらいの子どもがいる。

スマホをいじりながら
「じっとしてろって言ってんだろ」
と睨む母親。

抱き寄せてじっと目をみて
「電車では騒がないのよ」
と、穏やかに、かつぴしりと諭す母親。

言ってること自体はあまり変わらない。
しかし、明らかに効果は変わる。
子どもの思考の働きが全く異なる。

前者は、本能的な恐怖によるしつけである。
怒られる恐怖による統制。
思考の働きは不要である。

後者は、理解と愛情によるしつけである。
なぜそう言われるのか、考える余地もある。

また、動機も温かと冷たさに関わる。
子どものためを思っているのか。
単に、自分が周りの目を気にしているのか。

学級でもそのまま適用できる話である。
教師のための学級経営は冷たい。
教師の見栄ための公開授業も冷たい。
子どものためと言葉で偽り、自分の出世の道具にしているのは最も冷たく、汚い。

しつけは「躾」と書く。
身を美しくするものである。
生き方を美しくするものといえる。
子どもの人生を思ってなされるものである。

それは、冷たいか、温かいか。
言動一つ一つに対し、時々自省していきたい。

2018年9月2日日曜日

日常的問題解決集団にする

公開研究会での赤坂真二先生からの学び。
そこからの気付き。

これからの時代を生き抜くための資質・能力とは。
子どもに何の力を育てるべきか。

問題解決集団に育てることであるという。
つまり、問題を自分たちの問題と捉えて動く集団である。

ここについて、自分が考えたことを述べる。

例えば、いわゆる「荒れた」学級では、ここができていない。
子どもは、自分の所属する学級がめちゃくちゃなことに問題は感じている。
しかし解決に動こうとしない、あるいはできないのである。
担任は解決に乗り出しているが、集団の助けがないため、力及ばずということになる。
つまり、ここに至る前までに手を打たないと、手遅れになるということである。

私は、子どもたちにしばしば次のようなことを伝える。

「けがをしていい。
次に大きなけがをしないよう工夫すること。
人のせいにしないこと。
なるべく自分で手当てすること。
無理なら助けます。」

「けんかしてもいい。
次にけんかをしない方法を考えること。
相手のせいにしないこと。
なるべく自分たちで話し合って解決すること。
無理なら助けます。」

日常生活で、こういった指導をしている先生は多いと思う。
一方で
「けがさせない」
「けんかさせない」
ことに力を使いすぎている実態もあるように思う。
問題を、すべて先生のものにしてしまっているのである。

これでは勿体ない。
トラブルを全て未然に防ぐ方法は、いうなれば
「温室栽培」
である。
蘭のような花には必要な手立てかもしれない。

しかしながら多くの子どもの人生は、大自然で生きるイメージである。
大自然は、美しいだけでなく危険も多い。
地震や今回の洪水のような、恐ろしい事態もあり得る。
生き抜くために何をすべきか、自分たちで力を合わせて考える必要が常に出る。

だから、助け合わないといけないのである。
一人では解決できないことが出る。

だから、いつでも人を助け、親切にするのである。
助けることを当たり前にしておく必要がある。

だから、いじめはだめなのである。
安全・安心面からも根本的にだめな行為だが、助け合う素地を著しく損なう。

日常的に問題解決集団にしておく。
そこの上に、クラス会議のような話し合い場面を設けて、その力を発揮する場でさらに鍛える。

クラス会議だけ一生懸命やっていてもうまくいかない時は、その素地ができているか見直す必要がある。

日常的問題解決集団にする。
先生が何もかもやってあげすぎないことが肝である。

2018年8月31日金曜日

ジャイアンが先生の言うことを聞くのはなぜか

まぐまぐ!ニュース掲載から拡散していった記事。
https://www.mag2.com/p/news/364247

家庭教育が学校教育に資する重要な影響について。
わかりやすく、ドラえもんに例えて書く。

ジャイアンは、問題である。
しかし、彼は先生にとって、手が付けられない存在ではない。

なぜなのか。

ジャイアンは、先生の言うことを聞くのである。(誤魔化しはするが。)
それは、先生から母ちゃんに伝わると、母ちゃんに叱られること必至だからである。
母ちゃんはジャイアンにとって、世界一怖くて、世界一大好きな存在なのである。

では、なぜそうなるのか。
それは、母ちゃんが「先生の言うことを聞け」と言っているからである。
もし母ちゃんが
「先生なんて」
などと言っていたら、ジャイアンは高確率で先生の言うことを聞かなくなる。

つまり、こういう関係図になる。
1 ジャイアン→母ちゃんを重視
2 母ちゃん→先生を重視

この2要素どちらか一方が欠けていると、ジャイアンは先生の言うことを聞かなくなる可能性が高い。
「可能性が高い」というのは
3 ジャイアン→先生を重視
という図式が単独で成り立つことも有り得るからである。

つまり、ある程度の経験と指導力があれば、ジャイアンも先生単独でなんとかならないこともない。
しかし、例えば新卒の若い先生などに対し、母親あるいは父親が
「あんな若い先生」とか「先生なんて」
と言っていたら、高確率で崩れる。

今は、全国の学校の多くの人員を、新卒をはじめとした20代の若手が支えているのである。

親の立場ならば、自分の言動が学級を崩している原因を作っている可能性があることを知っておいた方がよい。
若く意欲があって頑張っている先生の足を引っ張らない方がよい。
その最大の被害者は、そこに所属している我が子だからである。
私の勤務校は若手が極端に少ないのでその事態は見受けられないが、全国的には見られる崩れ傾向である。

子どもの教育の第一義は、家庭にあり。
家庭教育の充実が、学校教育の充実につながることは揺るがない事実である。

2018年8月29日水曜日

「やる気ない」「つまんない」にどう切り返すか

切り返しの技術というか、知識と心構え。

子どもの大きな声での
「やる気ない」「つまんない」
にどう対応するか。

普通に考えると、単なる嫌な感じの子どもである。
あらゆる言動には、真意、意図がある。
表面的に捉えると失敗する。

変換である。
スペースキーを押すように、言葉を変換すればよい。
(以前紹介した、反抗期の
「うるせえくそばばあ」

「わかっているから、放っておいてね。」
の変換イメージである。)

一番考えられるのは、
「つまらない」のではなく、「できない」ということ。
人間には、自分にはできない、手に入らないと思うと、その対象に価値がないと思い込もうとする習性がある。
イソップ童話の「酸っぱい葡萄」の話である。

要は、その課題に対し、苦手だから、逃げている訳である。
「やる気がない」と言っておけば、それは自分の実力のせいではないという言い訳になる。
「つまんない」と言っておけば、それは相手のせいにできるので、これも言い訳になる。

これはすべての「攻撃的な人」にも当てはまる。
自分の弱点をつかれるのが怖いから、必死に相手を攻撃する。
自信がないのである。
弱い犬がよく吠えるのと同じである。
本当に強い人は(あるいは犬でも)、穏やかである。

言葉を表面的に捉えないこと。
言葉とは裏腹なことが結構ある。
「さすが〇〇さんですね」と言いながら、陰で馬鹿にしている人もいる。
逆に「嫌い」と言っている相手が、意外と好きだったりもする。
表面と中身は、違うのである。

冒頭の「やる気ない」には、さり気なくフォローを入れる。
自信をなくしているので「上手い」「できてる」などのプラスの言葉がけが必要である。

「つまんない」への対応は色々あるが、『切り返しの技術』定番
「つまらないなら、もっとつめて!」
という手ある。
中身がなくてスカスカなのは自分なのだから、自分で詰めて解消するのである。

反抗的だったり嫌な態度の子どもに対応する時は、真意まで見た上で対応したい。

2018年8月27日月曜日

子どもも大自然と思え

タイトルは、新宿での定例セミナーを主催してくれている友人に聞いた言葉である。
この人が尊敬する、ある先生から教わった言葉だそうである。

どういう意味か。

自然は、人間には操作できない。
人智を越えた領域である。

夏は暑いのが嫌とか梅雨が嫌とか言ってもどうしようもない。
台風にあっち行けという訳にもいかない。
嫌でも地震も雷も起きるし、噴火も起きる。
自然というのはそういうものである。

そして子どもも、大自然の一部であるという考え方。
確かにその通りである。
操作できる訳がないし、理解しきれる訳がない。
そう考えると、見え方も変わるし、対応も変わる。

そもそも、自分自身でさえ、ほぼ理解しきれない。
指一本動かせる仕組みも、考えられるという仕組みもよくわからない。
心臓が動いてくれたり、胃が消化してくれたりする仕組みも、何もかもよくわからない。
寝ている間も24時間はたらいてくれて、息をするのも忘れることはないし、ありがたい限りである。

つまりは、よくわからない自分が、よくわからない相手に教えているわけである。
そんなの、よくわからないに決まっている。

よくわからない教師が、よくわからないながら子どもに教えている。
よくわからない親が、よくわからないながらわが子に教えている。
よくわからない上司が、よくわからないながら部下に教えている。

よくわからないなりに、「こういう場合もあるかな」「こうかもな」という経験的知識があるだけである。
当てはまらない場合だってたくさんあって当然。

相手は、「大自然」なのである。
こうすればこうなる、が通用しなくて当然。
こういったのに、やったのに「お。そう来たか。」である。
自然は、常に変化し続け、この世に二つと同じものがないのである。

「大自然」である他者を自分がどうこうできるということ自体が、傲慢であり錯覚であるのかもしれない。
親や教師というのは「大自然」である子どもを一時的とはいえ預からせていただける。
これ自体、重要かつ大きな仕事である。

目の前の子どもも、大自然。
そう思うと、畏敬の念も湧くし、ある種の余裕ができる。
教育観を広げる一つの考え方として有益ではないかと思い、紹介してみた。

2018年8月26日日曜日

「道得」に要注意

「金の斧」におけるご褒美の話の続き。
この手の話はたくさんある。

「この金の斧みたいに、正直にしたらいい目にあって、嘘をついたらひどい目にあう、という話あるでしょう。」
一年生に問いかけたところ、即座に
「おむすびころりん」「花さかじいさん」と返ってきた。

その通り。
じいさんは、落としたおむすびを追いかけただけである。
大事だから。
そしたらなぜか歓待された。

じいさんは、犬を救っただけである。
可哀相だったから。
そしたらなぜか、大判小判がざっくざく。

かさこじぞうも、売れなかった笠をつけてやったら、お金や米俵になって返ってきた。

道徳的にみると、そのご褒美は、いらない。
心からの行為に、本来見返りとしてのご褒美は不要である。
主人公たちは、それを期待していないからこそ、逆に幸運を授かっている。

私の友人曰く、
「神様は正直な人を応援したくなる、ということを学ばせる」
と解釈できるという。
その通りである。
しかし、物語を読む側には、いいことをすると得をするという解釈にもなり得る。

大人は、結構こういう「失敗対応」をしがちである。
子どもが、いわゆる「善いこと」を何の気なしに当然やっている。
それをつい、褒めすぎてしまったり、ご褒美を与えてしまう。

それが「行動の強化」をねらっているならいい。
犬のしつけの仕方はまさにこれで、飼い主の求める行動をとったら、すぐご褒美の餌をやることを繰り返す。
時々ご褒美なしにしていき、やがて、ご褒美がなくてもやれるようになる。
(逆に、ダメな行動の強化の仕方は、すぐに叱ったり大きな声をあげることだという。
ドッグトレーナーの方の話だと、落ち着いて「無視」「その場から立ち去る」「嫌な音を出す」あたりが定石だという。
学級経営における「望ましくない行為」への対応と通じるものがある。)

しかし、繰り返すが、人間は、犬ではない。
褒められるから動く、叱られるから従うのは、主体的とはいえない。
(「管理」する側からすると、これが最も楽である。)
自分が心から正しいと思った行動を、自ら選択していく人間に育てたい。
一生世話をしてもらえる犬とは全く違って、人間は、自立を目指す必要がある。

要は、善いことをしたらご褒美をもらえるよ、という図式は、主体的な人間を育てない。
善いと思ったからやる。
誰が見てなくてもやる。
自分が納得するからやる。
育てるべき態度は、それだけである。

だから、善い行為を見たら
「〇〇しているんだね」
と認めるだけでいい。
「認めている」=「見て留めている」ということを伝える程度で十分である。

「金の斧」の話は、道徳で見た場合、鉄の斧だけを返してあげればいいのである。
金の斧と銀の斧を渡すことで、間違った解釈にいきかねない。
しかしながら、その方が物語として面白いから、金の斧も銀の斧ももらえる訳である。

前号でも書いた通り、物語は物語として面白いのが大切であり、必ずしも道徳的である必要性はない。
金の斧はイソップ童話であるが、登場する神様のヘルメースは、ギリシャ神話に出てくる神である。
ヘルメース自身は、明らかに不道徳な行為が目立つ神である。

そしてギリシャ神話は、不道徳のオンパレードである。
トップのゼウス神はその筆頭。
神様のリーダーだが、とんでもなく不道徳で理不尽である。
ギリシャ神話は「フライ〇ー」「週間〇春」辺りのトップを飾りそうな話ばかりである。
古来より、大衆には不道徳な話の方が人気なのである。
酒・タバコ・ギャンブル・噂話に始まり、娯楽的には不道徳が大好きなのである。

道徳で物語を用いる場合は、この辺りを考える必要がある。
物語は必ずしも道徳的にはできていないから、変なおまけがたくさんついていることがある。
道徳というより「道得」になっている可能性もある。

子どもの善い行いを、褒めすぎないこと。
子どもの不道徳な行いに、着目しすぎないこと。
子どもは、やんちゃでめちゃめちゃで、いたずらが大好きなのである。
陰口も叩くし、意地悪もするしけんかもするのである。
それが、人間である。
それも通して、成長である。

管理しやすさを求めるあまり、「道得」的にならないよう、気を付けたい。

2018年8月25日土曜日

きこりはなぜ金の斧を受け取らなかったか

今年度、件の「金の斧」を用いて一年生の道徳科の授業を行った。
教科書教材として掲載されているのである。
どんな反応を示すか、子どものつぶやきに注意しながらやってみた。

さて、お決まりの次の問いかけ。
「きこりはなぜ、金の斧を受け取らなかったのでしょう。」

期待する答えは
「自分のものではないから」
「嘘をついてはいけないから」
辺りである。
要は、正直に、嘘をつかないのが大切ということである。

実際やってみると、なかなか面白い答えがたくさん出た。
一番最初に出たつぶやきが
「自分のじゃないとダメだから。」

こういう時は拙著『切り返しの技術』にもある定番フレーズ
「なるほど。もっと詳しく話して。」
で突っ込む。

「だって、金の斧じゃ、(木が)切れない」
「自分の斧じゃないと嫌」

なるほど。
そうきたか。

あくまで、「きこり」という仕事に着目している訳である。
「ダメ」の内実が、仕事にならない、やりにくいということを指していたようである。
仕事道具としての斧なら、金より鉄製がいいに決まっている。
斧は、きこりにとって、装飾品や売り物ではないのである。
戦国武将にとっての刀、アスリートにとっての靴、書家にとっての筆や硯である。

しかも、道具には愛着がある。
例えば自分のお気に入りのボールペンなどを無くすと、(買えば済むのに)かなりがっかりするはずである。
同じように売っているもののでも、自分が使っているものは、文字通り「特別」であり、他とは別物である。
同じ鉛筆一本でも、大好きなおばあちゃんが何かの記念に買ってくれたものは特別。
それをもしいたずらで折られたりしたら、弁償では済まされない。

だから、低学年の頃から人の物は勝手に触らないと徹底して教える。
併せて、大事な物や高価な物、他人の余計な興味をひきそうな物は持ってこないと教える。
たくさんの人が集まる学校に持ってくる物には、ある程度「なくす」「壊れる」前提が必要である。
全ての持ち物に名前を書くのも、そのためである。
(学校の「落とし物箱」の中に無残に放置された大量の物たちが、それを雄弁に物語る。)

特に仕事道具は実用品であり、愛着のあるものなのである。
使い込むことで、手にしっくり馴染むものである。

つまり、金ピカどうこうではなく、自分の大事な鉄の斧をもってきてくれということである。
本当にきこりは金の斧と銀の斧を欲していたかも謎である。
「別にいらんなぁ…」と思ったかもしれない。

もちろん、一年生は、即座にそんな深く考えはしていないだろう。
シンプルに
「自分の大事なものを取り戻したい」
という思いを言葉にしただけである。

だから本来、斧を返してもらえば済む話である。
シンプルに「拾ってくれてありがとう」「どういたしまして」でおわりである。
人間として当たり前のやりとりなのである。
ここの「神対応」なご褒美は、実際の世界では余計なのである。
しかし本来、「お話」は道徳的でなくても良いので、これはこれでいいのである。

教育における「ご褒美」の取り扱いについて、もう少し詳しく考えていく。

2018年8月21日火曜日

段取り・計画が苦手!だから…

次の本を紹介する。
『段取り・計画が苦手!だから…仕事は要領!』
俵原正仁著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-222611-3

9月15日(土)に一緒にセミナーをやる、俵原正仁先生の新著である。
私の『「捨てる」仕事術』と同シリーズ本となる。(シリーズというより、まだ2冊目。)
↓こちらはセミナー詳細
https://kokucheese.com/event/index/528408/

この本の前提は
「段取り・計画が苦手」というところ。
そして、「朝型」や「整理整頓」を努力してもできない人向けという前提である。

もしかしたら、こっちのコンセプトの方が多くの人向けで良かったかな・・・と思ってしまった。

そう。
私の「捨てる」の方は、私自身の仕事術の紹介なのである。
ざっくり言うと、どうやって私がダラダラ、遅い状態から脱出したかという、テクニックとマインドを紹介している。
無茶苦茶言ってるのもあるが、事実のままに書いてある。
(それで、心の内をさらけ出したがために、色々不都合も生じているのも事実。
隠せないのである。
特に「人間関係術」の章は、あまり私と一緒に働いている同僚には読ませたくない部分である。)

だから、この本の最後に書いたように、「自分にとっての取捨選択」というのが本音である。
多くの人にそのまま当てはまるかどうかは別として、一つの視点・選択肢でしかない。

一方で、この『仕事は要領!』の方は、きちんとはできないというのが前提である。
例えば、「必要でない書類は段ボールに放り込んで、一杯になったら捨てる」というのがある。
ちなみにここに放り込まれるものの例が4つ載っていて、
・行く必要のない研修会の案内
・すでに終わってしまった行事のレジメ
・先月の給食の献立表
・他の学校から送られてきた研究紀要
である。
(特に最後の一つは、研究校としての在り方を考えさせられる「本音」である。
研究紀要は、実は送られた相手にとって、ただの迷惑になっていないか。
本当に冊子である必要があるのか。
インターネット上にある方が便利ではないか。
時代が必要としている形が、もうとっくに変わっていると思われる。)

また「帰りの会をしない」とか「ワークを作らない」とか、拙著と共通しているところもある。
段取りとか計画を一旦脇において考えているのが、追試しやすい点である。

自分が「朝型無理」「整理整頓も無理」とか思う人は、励まされるという意味でも特に一読の価値ありである。

2018年8月19日日曜日

道徳における仮言命法と定言命法

木更津技法研での学び。

仮言命法と定言命法という言葉を初めて知った。
ググってもらう方が早いかもしれないが、一応説明する。

仮言命法とは、条件付きで命じる方法である。
○○すれば△△なことになるよ。
だからやろう、という伝え方。
良くいうと、行為の目的を予め伝えて行動を促す方法。
悪くいうと、エサや脅しを用いる方法である。

定言命法とは、無条件で命じる方法である。
有無を言わさぬ命令である。
良くいうと、信頼できる相手の言うことを素直にきくこと。
悪くいうと、絶対的権威への無思考による服従である。
これは、カント哲学・倫理学の真髄であるという。

さて、考え議論する道徳は、当然前者に偏る。
後者の定言命法には、考える余地も議論の余地もない。
現行の道徳科の教科書を見ると、全てこちらである。

ならぬものはならぬのです、という教えは、後者である。
「親父の小言」も、後者である。

さて、どちらが今の時代に欠けているのか。
これは圧倒的に、後者である。

行為の理由を教えるのは大切である。
ダメなことがなぜダメか、知ることもいい。
しかし、エサで釣って動かすというのは、教育の本質からは外れる。

野口芳宏先生は、童話の「金の斧」の話を例に挙げられた。
正直に言えば、金の斧が手に入りますよ、という話である。
これは、エサでつっているともいえる。
道徳の本質的には、正直に言うことは大切だ、ということだけなはずである。

なぜこういうことになるのか。

そもそも、童話とは道徳的には出来ていないのである。
童話作家に、そんな義務もない。
勝手に教材として用いているだけである。
(国語の文学教材も、授業で登場人物の気持ちを聞きまくるから、道徳の教材になってしまう。)

浦島太郎はそのいい例である。
(昔話なので、終わり方にも諸説あり。)
善行に対し、最終的に仇のような形で返ってくる。
それは、物語だから、それでいいのである。

要は、道徳の物語教材でやると、仮言命法に成らざるを得ない。
いいことあるから善行せい、ということになる。

道徳とは、より良く生きる道である。
その道の未経験者には、考えさせてわかるところと、わからないところがある。

本質的には、未経験者にそこを判断する物差しが与えられればよい。
その価値観の物差しを押し付けないでもてるようにせよ、という通達である。

ここが難しいのである。
最初の物差しが、各家庭に任されている。
本来共通にあるはずの「常識」が、個別化されている。

定言命法が機能しない所以である。
「ならぬものはならぬのです」
と言い切るのが難しい、多様な価値観の時代。
道徳を教える難しさが、この辺りにありそうである。
道徳について、もう少し考えていきたい。

2018年8月17日金曜日

大原幽学の「子ども交換保育」作戦に学ぶ

ここ3回、戦争と平和をテーマに書いてきた。
実際、一教師に、そんなに大規模なことはできない。
やれることは、教室程度の小規模集団からのミクロな発信である。

要は、自分をどこにおくかで、「全体最適」の規模が決まる。
かなり小さい単位だと、家庭。
最小単位は無論「自分」である。
「今、自分さえよければいい」という部分最適。
無意識に暮らしていると、全てがここになりがちである。

ここで、学級担任、あるいは家庭として考えるべきことがある。
「自分の子どもさえよければいい」という考えである。
自分自身を子どもと同化してしまっている。
これは、厳に慎むべき態度であると同時に、多くやってしまいがちな過ちである。

ここについて、興味深いエピソードを読んだ。
次の本からである。
『歴史人物に学ぶリーダーの条件』 童門冬二著 だいわ文庫(2009)

幕末の時代に、千葉県の北総地帯の礎を築いた、大原幽学という偉人の話が載っている。

当時のこの地方の村人には「自分さえよければいい」という気風が完全に染みついていたという。
そのせいで協力体制がとれず、村全体は貧しく、人々の心も荒んでいた。

そこで、幽学は何を提案したか。
「各家庭の子どもの交換保育」である。
何と、各家庭の子どもを交換して育てさせろというのである。
A、B、C、三人がいるとしたら、それぞれの子どもを
Aの家にBの子
Bの家にCの子
Cの家にAの子
というように、交換して育てさせようとしたのである。

名主である遠藤伊兵衛という人物が、幽学に代わって村人に提案した。
当然反対も出たが、やってみようということで、提案は実行された。

そして、すぐに混乱が起きた。
まず子ども自身が帰りたいと騒ぐ。
預かる側も、特に村で評判の「悪ガキ」担当となった家は、すぐにでも追い出したくなる。
村人同士で「この家の子はいい」「この家の子は悪い」という、レッテル貼りが行われていた訳である。

あまりの混乱ぶりに閉口し、伊兵衛は「やはりやめよう」と言ったが、幽学は信じて続けろという。

やがて、変化が起きる。
子どもたちは、自分の家のようにわがままが通用しないとわかると、実の父母のことを考えるようになった。

それぞれの親も
「うちの子が辛い思いをしたり、いじめられたりしていないか」
と心配した。
すると、今、目の前にいる他人の家の子どもに心配が向き始めた。

結局、誰の子でも、同じ人間の子どもであり、愛さなければならないとわかり始めた。
その頃を見計らって、元の家庭に戻すと、親も子もすっかり性格が変わり、村全体が他者のことを考えるようになったという。

つまり幽学は、村人の個人的な部分最適を求める姿勢を、体験によって全体最適を考える姿勢に矯正した訳である。
それが村の協力体制を作りだし、結果的に村人それぞれの幸せにもつながっていったという話である。

結局、自分や自分の子ども(あるいは担任している子ども)だけがよければいいという考えは、破滅の道である。
自分以外の他をも大切にすることが、結果的に自分の幸せにつながる。
考えればすぐわかるが、我が子が通うクラスの他の子どもの大部分が不幸なら、我が子も不幸になるに決まっている。
学級担任なら、自分のクラスだけが良くて周りはだめだという考えがあれば、それは子どもにも伝染する。
人を見下したり、自分の所属以外の周りに無関心な子が育つ訳で、結果的に、自分のクラスの子どもも不幸である。

そして、逆もまた然りである。
だから、学級づくりでは子ども同士のつながりをつくるのが、大前提として大切なのである。

学級経営や家庭教育を考える上での一助になればと思い、紹介してみた。

2018年8月15日水曜日

戦争における「全体最適」は存在し得るか

終戦記念日ということで、長文。

部分最適と全体最適の話の続き。
昨日の長崎の原爆記念日と関連し、この視点から戦争について考えてみる。

戦争における国家レベルの部分最適とは、それぞれの国の「正義」あるいは「勝利」であると仮定する。
そしてその上位にある世界レベル、あるいは地球レベルにおける全体最適が「終戦」あるいは「平和」に当たる。

ただ、終戦さえすれば必ずしも全体最適という訳ではない。
終戦しても、戦争中に命を失った人がいたのなら、それは世界全体から見て完全な失敗である。
戦争中に土地を汚染したとなれば、地球レベルでみて全体最適とはとてもいえない。
「終戦によって世界が平和になった」というのは、強者の論理であり、戦勝国の部分最適でしかない。
原爆投下による終戦は、どう考えても部分最適でしかなく、全体最適にはなり得ない。

平和的な終戦、つまりは戦争における世界レベルでの「全体最適」とは何か。
それは、誰も傷つかないで終戦を迎えること。
不可能なことであり、完全な絵空事である。

かつて米ソ間であった、冷戦はどうか。
これは、二国間で直接戦火を交えていないものの、大量の核兵器を生み出した。
地球レベルで完全に失敗である。
しかも、周辺国で二国の代理的な戦争が大量に勃発している。
世界レベルでも完全に失敗である。

結論。
戦争になってしまった時点で、もはや全体最適は全く望めない。
特定の国のみが利益を貪る部分最適にしかなり得ない。

そしてあらゆることにおいて、部分最適は、全体最適にならない。
全体最適を考える時、常にその構成要素である部分は、一定のコストを支払う必要が出る。
戦争の例なら、双方が自国の利益を手放すほどに、全体最適の度合いは高まる。
真剣に全体最適を考えるなら、部分最適を望まないことである。

戦争は、エゴイズムの極致である。
根源は、自分だけがいい思いをして、相手はどうなってもいいという思いから起きる。
つまりは、人の心にエゴイズムがある以上、どの国でいつ戦争が起きてもおかしくないということである。
現代の日本にとっても、決して無関係ではないということである。

戦争は、自国だけでなく、他国の為政者や権力者によっても引き起こされる。
いざ非常事態に陥ってしまった時、一国民には戦争の是非を選ぶことができない。
例えば、今アフリカの少年兵士たちが、好き好んで銃を持って戦っているとは思えない。
黙っていても、自分と家族、身近な人が攻撃される。
やられないために動くしかない。
互いの兵士が、同じ立場になる。
前号でも書いたが、非常事態においては個人の部分最適は優先したくてもできない。

異常な状況下において、個人の意思や信条、人権は全く尊重されない。
よって、戦争を経験していない我々には、戦争で死んでいった人々のことをどうこう言う権利はない。
想像を絶する異常事態の中で、それぞれが何を願って行動して死んでいったかは、わからないのである。

戦争を避けるには、全体最適を考えること。
自国のことだけでなく、他国のことも考えること。
これは、日本国憲法の前文にも書かれていることである。
以下、引用する。
============
(引用開始)
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
(引用終了)
=============

ところで、日常生活において他国のことまで考えて生きるというのは、なかなかに難しい。
まして、今日を生きることにも精一杯という状況下の国の人々が、考えられるはずがない。
世界平和のことより、まず自分と家族が死なないことが優先である。
つまり、少なくとも今「平和」と感じられる状況下にある国の人々の方から、歩み寄って動く必要がある。

実際、具体的にどうするか。

ミクロから、だんだんマクロに考えていく。
自分自身だけでなく、家族など身近な人々のことも考えること。
友人・知人のことも考えること。
会社や学校、近所の人のことも考えること。
通勤途中の電車でたまたま一緒になった見ず知らずの人、途中で買い物したお店のレジの人のことも考えること。
全然見ず知らずだけど、災害に遭って困っているらしいという人々のことも、時に考えること。
自分が生まれる以前のことだけど、戦争で亡くなっていった人々に、時に思いをはせること。
そういう身近なところから、少しずつ自分の中の「全体最適」の規模を広げていく。

特に自分から遠く、規模が大きくなると、大したことはできない。
被災地に義援金を送るだけでもいいと思う。
広島や長崎の平和祈念式典に乗じて、テレビの前で一緒に祈ることでもいいと思う。
ニュースを見て、戦争中の国のことを知るだけでもいいと思う。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。」という有名な言葉がある。
ひっくり返すと、一人一人が関心をもつことで、世界の無益な争いを減らすことができるかもしれないということである。

2018年8月13日月曜日

部分最適と全体最適

今回はものの見方、考え方に関わる、少しだけ哲学的な話。
最近、よく考える、「部分最適」と「全体最適」について。

これ自体は、経済学の用語であるという。
両方の意味は文字通り。
部分最適とは、ある部分(部門・部署・小集団等)にとって最適な状態を指す。
全体最適とは、その部分が属すより大きな単位である「全体」にとっての最適な状態を指す。

つまり、本来は全体最適≧部分最適のはずである。
しかし実際は、全体最適<部分最適という行動をとってしまう。

どういうことか。
例を挙げる。

会社全体の利益より、所属部署の利益優先。
所属部署の利益より、自分自身の利益優先。
つまり、会社全体の成果より、自分の部署が成果を上げることに目が向く。

もっというと、自分だけが評価されたり得すること。
または楽すること。
自分さえよければいい。
意識しないと、ここが優先されていく。

文章にするとえげつない感じがするが、実際はあらゆることが、無意識にそうなる。

大きな単位でいえば、自分が所属する家族という小集団は、国家という大集団に属する。
しかし個人の行動の優先順位で考えれば、国家<家庭という感覚だろう。
当たり前である。
どんなに国が潤っていても、自分の家族をみれば生活がぎりぎりという状態では、国のことより家族のこと優先である。
(例え日本国内であっても、貧困地域の子どもたちの暮らしは壮絶である。その状態では、自身の暮らし最優先に決まっている。)

ただし戦争のように、国家が倒れることで家族の生命が危うくなるということになれば、行動優先順位が変わる。
上位集団が崩壊すれば、下位集団も自分も不利益を被るからである。
今自分が頑張らないと会社が倒産するとなれば、家族サービスなんてそっちのけで、何をおいても仕事に全力を注ぐ。
それはいうなれば、危機的状況であり、非常事態である。

逆にいうと、人は自分の所属している上位集団自体がとりあえず安定している場合、より小さな単位(部分最適)を優先すると考える。
一方で上位集団が存亡の危機となれば、上位集団の存続(全体最適)に力を注ぐ。

こう考えると、国のことより、今の個人の生活を考えてしまうのは、自然である。
今の時代に、自分が生まれる以前の、自分と直接関わりのない、原爆や戦争のことから関心が遠ざかってしまうのも、自然である。
「平和」に暮らしているから、つい個人の幸福のことばかり考えてしまうのが自然である。

我が家が平和だ、今の私の生活が豊かで幸せだ、というのは、そうかもしれない。
しかし、その平和がタダで自然に手に入った訳ではないというのは、どこかで考える必要がある。
歴史の中で犠牲になった、多くの方々の命に思いをはせる時があってもいい。

そもそも、今この国は本当に平和だといえるのか。
苦しんでいる人々が国内に大量にいるのではないか。
国際的に見た時、既にぎりぎりの状態ではないのか。

本当の危機を迎えてから治療的対応に追われる前に、予防的対応に力を入れるべきである。
8月のこの時期、国の平和という全体最適について考えてみるのは、最終的に個人という部分最適にもつながると思う次第である。

2018年8月9日木曜日

原爆記念日の意義

今日は、長崎の原爆記念日である。
先日の8月6日広島の原爆記念日にメルマガで書いた記事を載せる。

現在生きている人の中で、実際に原爆を体験した人たちが、かなりの高齢である。
73年前の出来事なのだから、当然である。
実際の体験者が少なくなり、生の声を上げられなくなってくる。

そうした中で、記念式典が催される。
記念式典は、何のためにやるのか。
広島市のHPによれば

原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため

とある。
慰霊と平和のためである。
思想どうこうではなく、世界平和のためである。
だから、アメリカはもちろん、世界中から、要人だけでなく、一般の方々も集まる。

広島の原爆ドームは、ドイツのアウシュビッツ収容所と並んで、負の世界遺産の代表的なものである。
負の世界遺産というのは、基本的にすべて世界の平和を目的としている。
ダメなことを忘れないためである。

人間は、失敗からしか学べない。
例えば公害のような環境問題は、手に負えないレベルになるまで気が付かない。
自然の自浄能力の限界値を迎えるまで気が付かない。
「やっぱり」困ったことになって、やっぱりダメだとわかり、真面目に考え直す。

つまり、ダメなこと、失敗、痛みは、繰り返さないために、次の世代につなぐ必要がある。
嫌でも、目を逸らしたり、忘れたふりをしていると、またもっと痛い目に遭うからである。
それが、歴史の学習の本当の意義でもある。

失敗の歴史を知る必要があるのは、それを実際には体験していない人々である。
また、こちらが痛い思いをさせられたという場合も、忘れていないことを相手に示す必要がある。
これも、また繰り返させないためである。

もしも日本人が他国の人と話す時に
「原爆とか、昔のことだし、よく知らない。
今は平和だからいいと思う。」
というようになったら、これはかなり問題である。
他国の人々からも見下されること必至である。

ここの辺り、もう少し真剣に考え直す方がいいと思う。
小学校六年生でも、歴史で戦国時代とかにやたら力を入れるより、近現代史にもっと力を入れるべきである。
(教える順番も問題である。
後半に駆け足でやるから、大事なことがまともに教えられてない面もあるだろう。)

8月は、夏休み中であり、この最もタイミングが合う時期に、教師が直接教えることはできない。
戦争に関する話題を、家庭でもすることが大切である。

2018年8月7日火曜日

「常識」は敵

ずっと以前、コンビニで1Lの牛乳を買ったら
「ストローをおつけしますか?」
と言われた時の衝撃について書いたことがある。
「おいおい、そんなもんいるわけないでしょ。」
と感じるのが、その時の私の「常識」的反応。

ここを、考え直させられる場面を見た。

少し早い時刻に帰ると、いつも駅のホームで高校生がたむろしている。
部活帰りのようである。
彼らのうちの何人かが、1Lのパックにストローを差して飲んでいる。
ジュースもあった。
コーヒー牛乳もあった。
何か飲むヨーグルトっぽいのもあった。

そうなのか。
今時の(というあたりがオッサン)高校生には、結構「普通」のことだったのか。
そんなに甘いものを一気に飲んで、胃もたれしないのか。
あのコーヒー牛乳の量は、私にとっては、5日分である。
衝撃である。

だからどうしたと思うが、これは結構大切なのである。
前回の「無知の知」につながる。
要は「常識」こそが「無知の知」を阻む敵である。
「そんなわけない」という思いは、それ以上の領域にいかない。
自分の中で「異常」という扱いになり、ジ・エンドである。

人が単なる物や障害物に見える。
そんなわけない。

人が本気で嫌がっていることに全く気付けない。
そんなわけない。

文字が歪んだり踊ったりして見える。
そんなわけない。

周囲の雑音すべてが完璧に耳に入ってしまう。
そんなわけない。

じっとしていると、身体の中で虫が動いているような感じがする。
そんなわけない。

どれも、普通の感覚だと、そんなわけない。
しかし、そういう感覚の人も結構いる。
子どもにも大人にもいる。

そこを理解しないと「異常」という扱いになる。
もし理解していれば「そういうこともあるよね」と思い、対応が変わる。
「それぐらいは普通」「あり得る話だ」と思えば、対応がかなり変わる。

様々な子どもを相手にする教師にとっては、知識がかなり大切である。
教師の無知は、罪ですらある。
無知による対応は、二次障害を引き起こす可能性もある。

牛乳の話から、最後は真面目な話になった。
要は「常識」を疑うこと。
学校にはとかく様々な「常識」があるので、疑ってみることをおすすめする。
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