前号の続き。
「当たり前を躾ける」をどうやるか。
あらゆるルールを定着させるステップは
1 教える
2 できている子をほめる・認める
3 できている子を真似した子を認めて広げる
これの繰り返しである。
「認める」が理想的だが、ここに限っては「ほめる」でもよい。
ほめるは劇薬だが、ルール定着の初期段階では特に有用である。
つまりは、ほめることによる価値付けで、ルールは習慣化できる。
「できてすごいね」から入って「できてるね」に移行していく。
この継続が、特に低学年における「当たり前を躾ける」ことの基本手法である。
当たり前を躾けるとは、ものさしを与えて守らせることである。
「ものさしを与える」というと、抵抗感を示す人もいる。
「価値の押しつけ」と混同するためである。
そうではない。
集団の成立には、ルールというものが必要条件なのである。
(逆に言うと、ルールのない集団というのは、そもそも集団ではない。
ただの群れである。)
ルールとは、〇×の明確な「当たり前」基準である。
極端な話、一般の社会には「人を殺してはいけない」という「当たり前」の基準がある。
これは普通、教えなくても知っている。
(「普通」の指す範囲についてはここでは論じない。)
しかし「他人を傷つけてはいけない」というのは、意外とわかっていない。
もっと言うと、こういうことで他人は傷つく、迷惑を被る、ということは、教えないとわからない。
メディアを見れば、大人社会でも誹謗中傷や差別、いじめが「肯定的」にはびこっているのだから、当然である。
「おもしろければいい」「笑えればいい」という価値観を刷り込まれているのだから、当然である。
一人を集団で攻撃しておもしろがったり、笑い者にしてあざけったりするのを「ウケた」と肯定的に考える可能性が高い。
だから、きちんと教える。
学校は、傍若無人のわがままを通す「私」の場ではない。
社会という「公」の場である。
社会にはルールがあり、それを守ることを学ぶのだときちんと教える。
ルールや規律というと、極度に嫌悪感を示す人もいるが、それは自由を履き違えている。
我々は、自然はもちろん、社会の恩恵の上で暮らしている。
ここはどうやっても否定できない。
そこには、明確に社会における他者と生活するためのルールがある。
「うちではいいって言われてる」が通用しない世界である。
ここは、「私」のうち(=家または内)ではない。
公であり、社会であり、外である。
それを、きちんと教えてあげるのが、学校の仕事の一つである。
これを、後でやろうと思うと、難しくなる。
最初が肝心である。
だから、身に付けさせたい習慣は、なるべく早くルール化して「当たり前」にしておく。
「開始時刻には着席する」というルールを守らせる習慣を身に付けさせたいとする。
これは、教えないと身につかない。
なぜなら「時刻を守る」というのは、文化的なものであり、絶対的な善ではないからである。
特に新1年生は、これまでそういう生活をしてきていない可能性が高い。
幼稚園や保育園によっては、細かくタイムスケジュールが組まれている上に、着席にも慣れている場合もあるが、一部を前提にすべきではない。
だから、時計の針がここに来るまでに着席する、というルールを基準として示す必要が出る。
後はできている子をほめて認めて、広げるだけである。
なお、まだできていない子どもは、とりあえず手をかけすぎないで大丈夫。
周りを見ながら真似をして自然と学ぶからである。
それでもなお遅れる子どもには、初めて特別対応をはじめればよい。
なお、叱責等の懲戒によってもルールの定着はできるが、これは特に初期段階では望ましくない。
無駄な恐怖感だけを煽る結果となる。
「ルール」を優先しすぎて、逆に土台の「安全・安心」の方が脅かされかねない。
十分に全体にルールが理解・定着された上で、意図的、継続的、悪質なルール破りが見られる場合、叱責等の「懲戒」を与えることになる。
懲戒は、与える側もエネルギーを大量消費するので、どうしてもの場合に用いる貴重品の「高級薬」の扱いである。
かなり意識していても、うっかり使いすぎてしまうのが痛いところである。
モルヒネのごとく、一時的には劇的に効いて痛みが消える上に、中毒性もあるので、本当に使いすぎには注意である。
やるべきことをできている子ども、教わったことを守ろうとする素直な子どもを優先してほめる、認める。
これも、学級経営のコツの一つである。
しかしながら、このコツは効果的な故に、落とし穴(ダークサイド)も大きい。
次号では、ここについて述べる。
2018年11月2日金曜日
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