2015年3月31日火曜日

教える側も「日常が全て」

「日常が全て」という話の続き。

私が3月に子どもに必ず話すのは、避難訓練のこと。
実際にあの3.11の時、私の教室には子どもたちがいた。
そこで避難させようとした時、肝を冷やした。
防災頭巾が椅子に絡まって外れず、逃げ遅れている子どもがいたのである。
すぐに助けに行って、ひもを引きちぎった。
偶然ではなく、普段から絡まっていたのが原因である。
それを日常的に見逃していた。
本番にして痛恨の、忘れられない出来事である。
つまり、教える側にも「日常が全て」の法則が当てはまる。

別の例でいえば、教材研究をしたりセミナーに出かけたりして、何か良い方法を学んだ時。
これはいいと、意気揚々と子どもに投げかける。
だが、意外と反応が悪い。
「子どもが悪いからだ」と考えたくなるが、それは違う。
普段の鍛え方が悪いのである。素地が育ってないのである。
ちょっと「全力で」やったぐらいで、子どもは変わらない。
しつこく、何度も、自分で嫌になるぐらいやって、少し変わってくる(ことがある)。
それを続けていく。

素晴らしい学級集団を作る先生がいるが、これも一朝一夕ではない。
だから少し見て真似をしても、到底届かない。
日常の指導の「当たり前」レベルが違うからである。

日常が全て。
教師の側にこそ当てはまる、原理原則である。

2015年3月29日日曜日

日常が全て

日常が全て。
子どもによく伝える言葉の一つである。
(ちなみに、私が組んだある学年主任の先生の黒板に書かれていた言葉である。
 今は教育委員会に入って、大活躍している素晴らしい先生である。
 この言葉は特に気に入って、よく使わせてもらっている。)

行事や試合がある。
本番だから、真剣にやる。
これは、当たり前である。
誰でもやることだから、そこで差はつかない。

差がつくのは、本番ではなく、日常である。
つまり、本番前に、ある程度勝負は決している。
「ある程度」というのは、同レベル集団内では「運」が勝負を左右するからである。
逆にいえば、レベルの違う集団間では、本番のがんばりによる逆転は起きない。
(不慮の事故等による逆転は有り得る。)

わかりやすい例でいえば、マラソン。
練習もせずにいきなりフルマラソンに出る人はまずいない。
また、1ヶ月程度の練習で「本番は全力を出して1位をとります!」という人もいない。
身のほどがわかっているからである。
先頭集団はあくまで先頭集団内で争う。
先頭集団に入る選手は、練習量の次元が違う。

この勘違いの現象が、学校では結構出現するように思う。
「がんばる」「一生懸命」とはどういうことかが、わかっていないからである。

よくある小さいところだと、漢字テスト。
昨日「一生懸命」練習をやったのに、点数が悪かった。
それに比べて○○さんは普段通りなのに百点。
「不公平だ」と思う子どもがいるかもしれない。

実際は、日常の練習量が違う。
本番直前にやり始めて「がんばった」というのは、単なる自己満足である。
たとえすぐに結果が出ずとも愚直に何ヶ月も続けてみて、初めて「努力」とよべることを教える必要がある。
普段やらないのに、特別な日を1日2日設けても焼け石に水。
「日常が全て」である。

スポーツだろうが音楽だろうが何かの試験だろうが、共通の原理原則である。
先日、6年生を送る会で劇をやった際、クラスの子どもが日記に
「練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりでやったらうまくいった。」と書いていた。
つまり、普段は全力で努力したお陰で、本番は適度にリラックスして実力を発揮できたのである。
大切なことが実によくわかっていると思う。

日常が全て。
私が勝手に座右の銘にしている言葉の一つである。

2015年3月27日金曜日

本質として何を学習するか~雨の日の送迎を例に~

当然すぎる前提だが、学習の主体者は、学習者自身である。
(ちなみに「授業の主役は誰か」ということとは違う種類の話である。)
「馬の耳に念仏」という諺もあるように、どんなにいい話でも受け手9割である。
要は、どんな現象が存在するか以上に、学習者側が「何を学習するか」の方が大切である。

今回、ここについて、雨が降った時の学校の送迎を例に考える。
スクールバスがないのに学区が広い学校の場合、雨の日は保護者による送迎が目立つ。
(特に安全面で心配な低学年に顕著である。)
都内などの公共交通機関が主の地域は別として、車社会の地域であれば、割とどこでも見られる現象ではないかと思う。

この「送迎」というのは、雨が降ったこと、距離が遠いこと、そこに車を所有していることに起因する「現象」である。
一昔前には無理だったことも、今は可能である。
少なくとも根本には、我が子への愛情があると思う。

この「送迎」自体の是非は決定しづらい面がある。
例えば不審者や交通事故等の多い地域などは、雨が降らずとも、送迎することがあると思う。
歩く大切さもわかる一方で、我が子の安全を優先したい気持ちが働くのも無理なからぬ話である。

ここで本当に考えるべきは、送迎される側(子ども)が何を学習するかである。

「雨が降る」→「送迎あり」→「楽」という思考回路による「負の学習」では、逆効果である。
「雨が降ると迎えに来てくれる」→「守られている・大切に思われている」→「感謝」なら、話は別である。
「忙しいのにわざわざ」などと考えるようなら、尚更意味がある。

また、子どもの送迎はしないという選択もあり得る。
こちらも「〇〇ちゃんの家は送迎してもらえる」→「ずるい」の思考回路による学習では、逆効果。
「うちの親は送迎しない」→「自分でできることは自分でやれる人になるため」と理解しているなら意味がある。
また「他人の家は他人の家。うちはうち。みんな違って当然。」と割り切って考えることも意味がある。

要は、現象に対する「意味づけ」をどうできるかが、教える側の腕の見せ所であり、唯一できることである。
別の例だと、例えば長縄で「記録がずっと伸びない」という現象に、どう意味づけできるか。
つまり、この現象から子どもが何を学ぶように仕向けていけるか。
これによって、この後本当に記録が伸びるか伸びないかが決まる。
長縄への取り組みを通して学ぶ内容も大きく変わる。

ともすると、ついつい目の前の現象に振り回されやすい。
しかし現象以上に、それが教育として見た時、子どもが何を学習するかを考えること。
それが現象の陰にある「本質」である。
どうせなら、同じ現象にも、よりよい意味づけをできるようにしたい。

2015年3月25日水曜日

「わからない」のか「知らない」のか

「わからない」とは、「わかっている」が前提にある。
つまり、「わからない以前」の状態もある。
これが「知らない」という状態である。

体育の場合を例に考える。
例えば、2年生の鉄棒遊びの学習で「逆上がり」のやり方を教えるとする。
これは、大抵見たことがある。
だが、「後方支持回転」(いわゆる「空中逆上がり」)は知らない子どもがいる。
まして「前方支持回転」(いわゆる「空中前回り」)は、見たこともない子どもが多い。
「けあがり」などは、想像もつかない。
だから、「わかる?」ときけば「わからなーい」と答えるが、実際は「知らない」が正しい。

見たことがないから、知らないだけで、わからないとは違う。
つまり、知ったらできる可能性がある。
知る→やってみる→わかる(わからない) という流れである。

だから、低学年は様々な動きを知った方がいい。
技を見せてあげればいい。
可能性が広がる。
わからないとかできないとか以前に、知らないだけの可能性がある。

「わからない」と「知らない」、どちらなのか区別するだけでも、指導が変わるはずである。

2015年3月21日土曜日

「わからない」を哲学する その3~感覚的な「わからない」は難しい~

「わからない」哲学シリーズその3。前号の続き。

感覚的な「わからない」は、説明が難しい。
「〇〇の音楽が好きな人の感覚がわからない」という人がいたとする。
〇〇に入るのは、ロックでもクラシックでもヘビメタでもラップでも何でもいい。

例えばこの人にも「好き」ということへの「わかっている」前提がある。
「焼き肉が好き」「本を読むのが好き」「昼寝が好き」・・・
共通点は「おいしい」「楽しい」「気持ちいい」という「正の感情」である。
「本能的欲求の充足」と言い換えてもいい。
ここは「わかっている」点である。

この関連として「わからなさ加減」がくる。
「焼き肉が好き」などの他の感覚と「〇〇の音楽が好き」という感覚とはどう違うのか。
この先の感覚については、これ以上説明しようがない。
ただ「強い正の感情」であるらしいことだけは理解できる。
「感情」というのは、「論理」と相性が悪く、言葉では説明、理解できない部分が多い。
(つまり、音楽やファッション等の趣味・嗜好については、相手に譲歩しないと理解できない。)

真冬に海に入って祈祷をする風習がある。
あれは、やった人にしかわからないという。
やったことのない人には「わからない」行為である。
なぜかというと「真冬の海は冷たくて苦痛」ということを「わかっている」前提で見るからである。
どう考えても、論理的行為ではない。
しかし、「入ればわかる」という。(ただ私には、その行動を起こす勇気と気合いがない。)

つまり、子どもの「わからない」にも、必ず他の何か「わかっている」があるということである。
何を「わかっている」前提で、「わからない」と言っているのか。
次号もう少し考えていく。

2015年3月19日木曜日

「わからない」を哲学する その2~知識との関連~

ある本を読んで、「わからない」と思う時。
例えば、外国語で書かれた本を読んだ場合。
まずもって、文章の持つ意味自体がわからない。
多くの単語も意味わからない。
つまり、文章自体の良否以前の問題である。
「日本語ならわかる」という前提の「わからない」である。
これは、医学の知識がない人が医学書を読む時なども同様である。

一方、日本語の文章だけどわからないという場合。
例えば、大学のテキストなどに使われる本。
文章が難解で回りくどくてわからないものがある。
これは「達意を目的としたすっきりした文章ならわかる」という前提がある。
しかしながら伝える側の意識が「わからない人にはわからなくていい」という前提で書かれている場合もある。
(つまり、対象読者を意図的に限定している。)
つまりこの「わからない」文章は、他の「わかっている」(わかりやすい)文章の前提に存在する。

次号、感覚的な「わからない」について考えていく。

2015年3月17日火曜日

「わからない」を哲学する

今回は、少し哲学的な話。

授業をしても「わからない」子ども。
さて、どう教えるか。
そもそも、「わからない」とはどういう状態なのか。

ここについて、興味深い文章を見つけた。
次の本から引用する。
宇佐美 寛 『私の作文教育』 さくら社 2014年 P.81
http://www.sakura-sha.jp/skillup/sakubun-kyoiku1/
========================
(引用開始)
「わからない」とは、実は、このようにある程度、あるしかたで「わかっている」ことが何らかあるということなのだ。
だから、その「わかっている」ものとの関連で「わからなさ加減」を言うべきなのだ。
一歩つっこんで問わねばならないのだ。
(引用終了)
========================
学生の「わからない」という言葉に対する回答の一部である。
つまり、「わからない」と言うのは、「わかっている」前提が他にあるという論理である。

この文章を読んだ時、頭の中がスッと晴れたような気がした。
私たちが何かを「わからない」という時、必ず「わかっている」前提がある。

例えば、赤ちゃんは多くのことに対して「わからない」という認識がない。
しかし少し成長すると「わからない」人に対して泣く。
「わからない人」を区別できるのは、「お母さん」を「わかっている」前提で起きる。
つまり、「何かがわかっているからこそ、わからないという認識が起こる」ということである。
ソクラテスの「無知の知」にも通ずる。

次号、もう少し身近な例で考えていく。


2015年3月15日日曜日

「褒める」の基準設定が高すぎないか

上総教育者モラロジーでの学び。
以前にも紹介したが、動物病院の院長先生の話。

「大人は、自分を褒める基準の設定が高すぎる」とのこと。
そしてそれが、子どもを褒める基準の設定の高さにつながっている。

以下、その言葉を聞いての私見。

乳幼児を考える。
最初は、笑っただけで周囲が大喜び。
映画『テルマエロマエ』のワンシーンで、
「赤ちゃんはいいなうんちでほめられて」という言葉が出てくる。
(ちなみに、トイレットペーパーに印字されている。)
何をしても、周囲が喜び、褒めてくれるのである。

それが、やがて「できて当たり前」になってくる。
座って食事をしていただけで褒められていたのが、こぼさないで食べるように注意されるようになる。
幼稚園に登園するのを嫌がって泣くのを何とか諭していたのが、やがて「早く準備しなさい!」になる。
「できるようになる」→「褒められる」→「当たり前になる」→「褒められなくなる」
という流れである。

教室でも、この点を教師自身が振り返る必要がある。
4月を思い出す。
学級開き当初など、ルールも何もあったものではない。
自分のことを自分でするという基本もままならない子どもも多い状態である。
(多分、前学年の終わりの頃は、もう少しできていたのではないかと思われる。)

それが、3学期現在では、何にしても自分たちでやっている。
思えば、体育の度に必ずしていた着替えの手伝いも必要なくなった。
帰りの支度の手伝いも必要なくなった。
掃除でも、最初は率先垂範でリードしていたのに、気付けばやることがなくなっていた。
私の気付かないことも、子どもたちが自分でしている。

金曜日の放課後、ふと教室を見回してみた。
そういえば、最近教室環境の整理整頓に気を配っていなかったことに気付いたからである。
しかし見回すと、机と椅子、掃除道具入れ、絵の具、鍵盤ハーモニカ、本、棚のファイル、全て整頓されていた。
ごみや落とし物も、ぐっと少なくなっていた。
4月には、あり得なかった状態である。
それがいつからからできるようになっていたことに、鈍感な自分は気付かなかった。

月曜日、子どもに会ったら、うんと褒めてあげたい。
いや、褒めるというより、驚きを伝えたい。

「這えば立て、立てば歩めの親心」という。
子どもは、基準が高まるからこそ、周囲の期待に応えようと伸びる面も確かにある。
しかしながら、初めて立てた時の喜びを、時々振り返って忘れないようにしたい。

2015年3月13日金曜日

他律的自律

以前にも少し紹介したこともある言葉「他律的自律」について。
例の如く、野口芳宏先生の言だが、自分のフィルターを通してお伝えする。

自律できることが望ましい。
早起きをし、食べ過ぎない飲み過ぎない、適度な運動に学習。
「それができるなら苦労はない」という感じである。
(特に「飲み過ぎない」は、最も難しい。
 あの時、いつも活躍してくれる「論理的思考力」はどこへ行ってしまうのか・・・。)

そこで、進んで「他律的自律」を取り入れる。
要は大変そうなことに敢えて突っ込むということである。
逃げたいのに逃げられない状況に自分を追い込む行為を指す。

例えば、何かの学習会に入ったり、習い事を始めること。
(この時の初期投資費用は、高いほど続けやすく、低いほど始めやすい。一長一短である。)
周囲への宣言も他律的自律につながる。
「甘い物控えます宣言」とか、「禁煙宣言」とか色々ある。
(ただ、この二つが守られにくいのは、宣言してもお店で簡単に手に入る点である。)

自分の例でいく。
例えば、このブログ。
勝手に「二日に一回更新します」と宣言してみた。
宣言しなければ、読者の皆様も「時々届く」程度に見てくれる。
しかし、宣言して三日も四日も更新しない時があると、有難いことに「最近、大丈夫ですか?」と心配される。
つまり、宣言によって「他律」が入る。
進んで他律されているから、自律して早起きしてブログを書ける。
私のように、生来だらだらしている人間には、他律による自律が最適である。

別の例。
例えば、セミナーに申し込むか迷う場合。
3月。忙しい気がする。
「この忙しい時期にセミナーに出て学んでいる余裕はない」などと思う。
「行かない方がよい」理由が、100思い浮かぶ。
ここを、敢えて飛び込む。
そうせざるを得ない状況に自分を放り込んでしまい、他律してもらう。
とにかくスケジュールに組み込んでおき、腹を括る。
当日は、それほどまで高くないテンションのまま、会場に辿り着く。
そうすると、払った代価の分以上に、得るものが返ってくる。
「忙しい時ほど飲みに行け」とは、私の尊敬する先輩の言であり、ここに共通するものがある。
いい意味で、開き直れる。

他律的自律。
進んで人に律されようとするのは、自律の一つ形である。

2015年3月11日水曜日

3.11に思う「無事」の「有り難さ」

3月11日。
今日は全国各地で、黙祷が捧げられるものと思われる。

本来なら忘れたい悲劇を敢えて思い出すのは、一つは未来のためである。
悲劇をくり返さないためである。
学校でも防災と安全について、改めて思い起こす日である。

安全、安心、無事、平和。
空気や水と同じで、何よりも大切な一方、失われないと全く意識されないものである。
「無事」が続くと「有り難し」ということを忘れやすい。
震災は、多くのものを奪った出来事であると同時に、大切なことに気付かされた出来事でもある。

震源からは遠く離れた千葉の地でも、様々な異変があった。
例えば、道路交通の麻痺によって物品の流通に支障が出た。
学校でいうと、給食一つにも変化が出た。
給食に、ご飯とおかず一品だけという事態。
しかも少量である。
しかし、被災地では少量どころか食べることもままならないことを知っていたので、不満は当然出なかった。

この給食が、いつも食べるものより数倍うまい。
残す子どもはいなかった。
無いからこその有り難さをみんなで感じられた。
給食が余るほど食べられるのが「当たり前」のことになって「感謝」を忘れていた。
「毎日心配なく食べられる」というのは、世界中の様々な人々にとって憧れの状態である。

満ち足りすぎると、逆に不平不満ばかりが出る。
足りなくなると、逆にその有り難さに気付く。
豊かさも、履き違えると欠乏である。

安全も同様。
危険なことがあっても無事なのは、周囲の環境が普段から予防してくれているからである。
知らないところで、様々な人々が我々の環境を整えてくれている。
耐震工事一つとってもそうである。
用務員の方が様々な箇所を修理してくれているのもそうである。
保健室の先生や生徒指導担当の先生が、安全面に口が酸っぱくなるほど厳しく指導してくれているのもそうである。
誰かがケガをしてからでは遅い。
普段から、安全な環境が整えられているからこその「無事」である。
偶然の産物ではない。
だからこそ、避難訓練等の安全関係の指導は、何よりも本気で行う必要がある。
様々な指導も、命あってこそである。
「避難訓練なんて」「安全点検なんて」と思っているのは、水と空気と平和がタダだと思っているのと同様の感覚である。

何でも、起きてから対応していては遅い。
私の尊敬する原田隆史先生の「危機管理の法則」を再度記す。
「悲観的に考え、万全の準備をし、楽観的に対応する。」
これからの子どもたちの安全と平和を守るために、最低最悪の事態を想定し、安全面の準備は普段から万全にしておきたい。

2015年3月9日月曜日

繰り返さない 積み上げる

タイトルは、全国で「あこがれ先生プロジェクト」を主催している中村文昭氏の言葉。
最近、この言葉の大切さを実感しているので書く。

例えば、8の字跳びに取り組む場合。
日々の回数をグラフに表す。
そうすると、上がり下がりしながらも、全体的には右上がりのグラフができる。
これは、練習がきちんと「積み重ね」になっている証拠である。
もしただの「繰り返し」であれば、グラフを全体的に見たとき、横ばいになる。
横ばいが続くのであれば、練習が「繰り返し」にしかなっていない証拠である。

では、どうやって「繰り返し」を「積み上げ」に転換していくのか。

一つは、意識の上での問題。
つまり、「1回1回が真剣勝負」と思って全員が跳んでいるかである。
「また今日も同じ練習か」=「繰り返し」という意識で取り組むメンバーがいると、同じところでひっかかる。
「せめて自分だけは1回たりとも引っかかるまい」
「絶対間を空けないで突っ込む」
こういった、以前の自分に「克つ」という意識で取り組めば、練習が引き締まり、ただの「繰り返し」にはなり得ない。
この意識がメンバーの8割にあれば、自ずと全員が真剣になる。
2割のちょっと気の抜けたメンバーへは、自然と周りの仲間が叱咤激励やアドバイスをするようになる。
そうなると、そのちょっと気が抜けてしまう2割も真剣にならざるを得ない。

もう一つは、練習メニューが適切がどうかの問題。
例えば、3分間ほぼひっかからないで300回という記録を出したとする。
この練習をそのまま繰り返していても、記録は伸びない。
この練習で出る記録としては、上限に達している。
物理的に考えて、記録を伸ばすには縄の回す速さを上げるしかない。
言い換えれば、負荷を上げる必要がある。
負荷を上げれば、当然難しくなる。
ひっかかるので、記録は落ちる。
グラフ上は一見実力が落ちているようであるが、実質、これは「積み上げ」になっている。
教育は、常に未来への投資である。
一時的にマイナスを被っても、長い目で見るとプラスに転ずる。
やがて、結構ひっかかりながらも300回を越える記録を出し始める。

他の例で言うと、漢字の習得などもわかりやすい。
「一」という漢字を、「覚える」という目的で2年生以降で繰り返し練習させることは通常あり得ない。
完全に覚えている漢字を「繰り返し」で練習しても意味がない。
それよりは、未習の新しい漢字を練習して「積み上げ」ていく。
連絡帳を書かせる行為一つをとっても同様。
毎日平仮名で読んだり書いたりして「繰り返し」ているなら、いつまでも平仮名しか書けないし読めないままである。
漢字で読む、書くという負荷を与えることによって、その行為は「積み重ね」になる。

いつでも、レベルアップを考える。
教育は、野口芳宏先生の仰るように「常時善導」である。
少しの無理をさせて伸ばす。
それが「繰り返し」から「積み上げ」への転換となる。

また、教師の側も、日々の仕事がただの「繰り返し」になっていないか。
少しの無理をしないと、楽に流れるのが人情。
「今と同じ日々」を毎日繰り返していて、5年後、10年後の自分はどうなっているだろうか。
志すものがあるなら、積み上げるために自己への負荷(=自己投資)が必要である。
仕事が「志事」になっているか、時々点検したい。

2015年3月7日土曜日

高い理想像を持つ

イメージと創造性の話。

例えば小学2年生で、お楽しみ会を企画する。
すると、話し合って出てくる企画は、今まで経験したものばかりである。
一年生で〇〇大会を成功させてきていたら、〇〇大会をしたがる。
二年生の途中で楽しかった企画があったら、またそれをしたがる。
つまり、子どもたちだけだと、なかなか現状より上にいかない。
イメージがないため、「より良いお楽しみ会」の想像ができない。
だから、新しい企画が創造できない。
最近は安全や衛生面の事情でできなくなったが、「教室をおかしの国にする」というような「ぶっ飛んだ」発想はなかなか出ない。

そこで、教師の側がいくつか提示してあげる必要が出る。
例えば、拙著「やる気スイッチ」にも掲載している「得意技発表会」。
それをやってみる。
繰り返していく内に、自分たち流にアレンジした企画を考えられるようになる。
考えるための「材料」が増えたからである。

つまり、いきなり「見守り」に回らず、最初はきちんと「指導」を入れる。
指導をしてある程度高めてから、手放すイメージである。

別の例を示す。
授業で子どもから良い発言が出ないと嘆く声をきく。
どんな発言が欲しいのか問うと、賢い子が読み取れそうな2つ3つばかりの答えである。
その程度のものが欲しいのなら、さっさと教師が教えればよい。
教師の側の読みが浅いのであれば、それ以上の答えは子どもからは出ない。
「授業名人」と呼ばれる人が飛び込み授業でも素晴らしい発言を引き出すのは、それを教師の側が持っているからである。
読み取りの理想像がはっきりしているからである。
ろくに素材研究をせずに、好きでもない教材で発問ばかり考えても、無駄である。
教師の側が教材に感動しているかどうか、読み取らせたいと心から願っているかどうかである。
(特に、道徳や国語の授業ではこの差が顕著に出る。)

教師の側の理想のイメージを高めるには、人様の実践を見せてもらうのが一番手っ取り早い。
尊敬する先生が校内にいれば最高である。
それが難しい場合は、外に求めればいくらでも見られる。
セミナーや教室訪問がそれである。
本も理論を学ぶには最適なのだが、イメージをつかむにはやはり実際見る方がいい。
「百聞は一見に如かず」である。

子どもたちの能力を高めるために、高い具体的な理想像を持って指導に当たりたい。

2015年3月5日木曜日

リフレーミングして見る

今回は毎年恒例「教育者モラロジー」の会からの学び。
講師のお一人である動物病院の先生のお話から紹介する。

「リフレーミング」という手法である。
読んで字の如く「Re」+「frame」。
枠組みを捉え直すという意味である。
つまり、欠点でなく、長所として捉え直し、相手に伝えるという手法である。
元々は「家族療法」(Family Therapy)というもので用いられる手法らしい。
(家族療法とは、家族を対象とした心理療法の総称である。)

以前、「角を矯(た)めて牛を殺す」
という諺について書いたことがある。
「少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体をだめにしてしまう。」
という意味である。

元々の意味は、牛の角が少し曲がっているのを矯正しようとして、
無理に叩いたりひっぱたりして、弱らせて殺してしまうということから派生している。

そもそも、角が真っ直ぐであることが、そこまで大切かということである。
(欠点を見ないで長所を見るのが「美点凝視」であるが、これも大切な視点。)

ここで、冒頭の「リフレーミング」をする。
つまり、「角が曲がっている」ということを無視するのではなく、長所として捉える。
全ては意味づけなので、曲がっている良さを、主観的に意味づけすればいい訳である。

例えば「動作がのろい」は「ゆったり」「丁寧」などの要素につながる。
クラスの子どもの気になる点も、リフレーミングできないか考える。

またこれは別の場で学んだことだが、例えばまず自分の欠点と思われることを紙に書かせる。
みんなの前で読み上げるということを事前に知らせて書かせる。
それを、クラスのみんなで「リフレーミング」してどんどん発言していく、という実践もある。
ただし、これをやる場合、学級集団が前向きで仲の良い状態であることが前提である。

自己肯定感を高め、他者の良さを認めること。
この二つは両輪であり、その両方を高める良い手法であると思い、紹介してみた。

2015年3月3日火曜日

権力と権威

「信・敬・慕」についての関連で、今回は権力と権威について。

権力と権威は似て非なるものである。
どちらも共通点は、人が動くという点。
相違点は、前者が職業や地位につくのに対し、後者は人間につく。
そして、人は権力には逆らいたがり、権威には進んで従う性質がある。

教師という立場には、権力がつく。
たとえ新卒1年目でも、30人を越える人間が毎日自分の話を何時間も聞いてくれる職業とは、実に稀である。
しかも、子どもというのは、多くの親にとって文字通りの「宝物」である。
人様の「宝物」を預かって、そこに対し毎日教育を施す。
とてつもなく大きい権力である。
(だから一方で、社会的に叩かれやすい職業であるのも、ある程度納得できる。)

権力を感じる職業といえば、警察。
こんなにみんなを守ってくれているのに、裏で文句を言われる仕事も珍しい。
特にドライバーにとって、パトカーや白バイは脅威である。
白バイやパトカーを発見すると、一様に急に車の速度がゆっくりになる。
(教師の前でだけ廊下を走らないという現象に似ている。)

繰り返すが、「立場」に対してつく権力であり、一個人へ対してではない。
その職業なり会社なりを辞めた瞬間から、一瞬で無くなる。

一方、権威はその人自身に対してつく。
人が従うのは同じだが、こちらの場合、相手を認めることで進んで従おうとする点が違う。
つまり「信・敬・慕」は権威に属す。
「教師」という地位にはついてこない。

何が言いたいかというと、言うことをきくからといって、「教師」という立場につく権力にあぐらをかいてはならないということである。
それをしていると、いつか報いがくる。
だから、権力を正しく使わせていただきながら、「信・敬・慕」の関係を築こうと努力すること。
主体変容である。
ただ無闇に子どもに「言うことをききなさい」というのは、これに反する。
教師の側が、言うことを聞きたくなる人間になる方がはるかに大切である。

この人の言うことは本当で、信頼できる。
この人はある点において自分より上であり、尊敬できる。
この人は自分のことを思ってくれていて、慕える。

そういう風には、自然に思ってもらえるものではない。
ただ、教師という地位は、努力と心がけ次第でそれを実現させやすいはずである。
権力と権威を履き違えないように、感謝の気持ちを忘れずに指導に当たりたい。

2015年3月1日日曜日

発行者関連講座のご案内

宣伝なので、今日は敬体で書きます。
3月になりました。
やたらと講座があります。
ご都合のつくものに一度お越しいただければ幸いです。

3月7日(土)やる気スイッチセミナー 於:市川駅
南惠介先生をメイン講師に、飯村友和先生と行います。
私は8の字跳びの提案とQ&Aを担当します。
↓(満員御礼。キャンセル待ちを希望の方は、ご一報ください。)
http://kokucheese.com/event/index/230864

3月21日(土)授業作りネットワーク 於:千葉大学
講座B&Hで対談&鼎談します。
対談は飯村先生と教室のルールについて。
鼎談は武田直樹先生と藤原友和先生と、学び方についてです。
最後にQ&Aもあり、この日はほぼ一日中前に出ています。
http://kokucheese.com/event/index/256030/

3月29日(日)授業作りセミナー千葉 於:千葉駅 千葉市民会館
千葉の南北合同開催のセミナーです。事務局担当です。
http://kokucheese.com/event/index/253250/

3月30日(月)12:30~17:00 「四月からのクラスづくり」 於:文部科学省 情報ひろば
横浜の山田将由先生と2本ずつ講座を担当する予定です。
学級開きのアイデアや学級目標の活用についてお話します。
↓新年度スタートの準備にぜひ。
http://kokucheese.com/event/index/265690/
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