日常が全て。
子どもによく伝える言葉の一つである。
(ちなみに、私が組んだある学年主任の先生の黒板に書かれていた言葉である。
今は教育委員会に入って、大活躍している素晴らしい先生である。
この言葉は特に気に入って、よく使わせてもらっている。)
行事や試合がある。
本番だから、真剣にやる。
これは、当たり前である。
誰でもやることだから、そこで差はつかない。
差がつくのは、本番ではなく、日常である。
つまり、本番前に、ある程度勝負は決している。
「ある程度」というのは、同レベル集団内では「運」が勝負を左右するからである。
逆にいえば、レベルの違う集団間では、本番のがんばりによる逆転は起きない。
(不慮の事故等による逆転は有り得る。)
わかりやすい例でいえば、マラソン。
練習もせずにいきなりフルマラソンに出る人はまずいない。
また、1ヶ月程度の練習で「本番は全力を出して1位をとります!」という人もいない。
身のほどがわかっているからである。
先頭集団はあくまで先頭集団内で争う。
先頭集団に入る選手は、練習量の次元が違う。
この勘違いの現象が、学校では結構出現するように思う。
「がんばる」「一生懸命」とはどういうことかが、わかっていないからである。
よくある小さいところだと、漢字テスト。
昨日「一生懸命」練習をやったのに、点数が悪かった。
それに比べて○○さんは普段通りなのに百点。
「不公平だ」と思う子どもがいるかもしれない。
実際は、日常の練習量が違う。
本番直前にやり始めて「がんばった」というのは、単なる自己満足である。
たとえすぐに結果が出ずとも愚直に何ヶ月も続けてみて、初めて「努力」とよべることを教える必要がある。
普段やらないのに、特別な日を1日2日設けても焼け石に水。
「日常が全て」である。
スポーツだろうが音楽だろうが何かの試験だろうが、共通の原理原則である。
先日、6年生を送る会で劇をやった際、クラスの子どもが日記に
「練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりでやったらうまくいった。」と書いていた。
つまり、普段は全力で努力したお陰で、本番は適度にリラックスして実力を発揮できたのである。
大切なことが実によくわかっていると思う。
日常が全て。
私が勝手に座右の銘にしている言葉の一つである。
2015年3月29日日曜日
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