ある本を読んで、「わからない」と思う時。
例えば、外国語で書かれた本を読んだ場合。
まずもって、文章の持つ意味自体がわからない。
多くの単語も意味わからない。
つまり、文章自体の良否以前の問題である。
「日本語ならわかる」という前提の「わからない」である。
これは、医学の知識がない人が医学書を読む時なども同様である。
一方、日本語の文章だけどわからないという場合。
例えば、大学のテキストなどに使われる本。
文章が難解で回りくどくてわからないものがある。
これは「達意を目的としたすっきりした文章ならわかる」という前提がある。
しかしながら伝える側の意識が「わからない人にはわからなくていい」という前提で書かれている場合もある。
(つまり、対象読者を意図的に限定している。)
つまりこの「わからない」文章は、他の「わかっている」(わかりやすい)文章の前提に存在する。
次号、感覚的な「わからない」について考えていく。
2015年3月19日木曜日
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