2015年3月15日日曜日

「褒める」の基準設定が高すぎないか

上総教育者モラロジーでの学び。
以前にも紹介したが、動物病院の院長先生の話。

「大人は、自分を褒める基準の設定が高すぎる」とのこと。
そしてそれが、子どもを褒める基準の設定の高さにつながっている。

以下、その言葉を聞いての私見。

乳幼児を考える。
最初は、笑っただけで周囲が大喜び。
映画『テルマエロマエ』のワンシーンで、
「赤ちゃんはいいなうんちでほめられて」という言葉が出てくる。
(ちなみに、トイレットペーパーに印字されている。)
何をしても、周囲が喜び、褒めてくれるのである。

それが、やがて「できて当たり前」になってくる。
座って食事をしていただけで褒められていたのが、こぼさないで食べるように注意されるようになる。
幼稚園に登園するのを嫌がって泣くのを何とか諭していたのが、やがて「早く準備しなさい!」になる。
「できるようになる」→「褒められる」→「当たり前になる」→「褒められなくなる」
という流れである。

教室でも、この点を教師自身が振り返る必要がある。
4月を思い出す。
学級開き当初など、ルールも何もあったものではない。
自分のことを自分でするという基本もままならない子どもも多い状態である。
(多分、前学年の終わりの頃は、もう少しできていたのではないかと思われる。)

それが、3学期現在では、何にしても自分たちでやっている。
思えば、体育の度に必ずしていた着替えの手伝いも必要なくなった。
帰りの支度の手伝いも必要なくなった。
掃除でも、最初は率先垂範でリードしていたのに、気付けばやることがなくなっていた。
私の気付かないことも、子どもたちが自分でしている。

金曜日の放課後、ふと教室を見回してみた。
そういえば、最近教室環境の整理整頓に気を配っていなかったことに気付いたからである。
しかし見回すと、机と椅子、掃除道具入れ、絵の具、鍵盤ハーモニカ、本、棚のファイル、全て整頓されていた。
ごみや落とし物も、ぐっと少なくなっていた。
4月には、あり得なかった状態である。
それがいつからからできるようになっていたことに、鈍感な自分は気付かなかった。

月曜日、子どもに会ったら、うんと褒めてあげたい。
いや、褒めるというより、驚きを伝えたい。

「這えば立て、立てば歩めの親心」という。
子どもは、基準が高まるからこそ、周囲の期待に応えようと伸びる面も確かにある。
しかしながら、初めて立てた時の喜びを、時々振り返って忘れないようにしたい。

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