「わからない」哲学シリーズその3。前号の続き。
感覚的な「わからない」は、説明が難しい。
「〇〇の音楽が好きな人の感覚がわからない」という人がいたとする。
〇〇に入るのは、ロックでもクラシックでもヘビメタでもラップでも何でもいい。
例えばこの人にも「好き」ということへの「わかっている」前提がある。
「焼き肉が好き」「本を読むのが好き」「昼寝が好き」・・・
共通点は「おいしい」「楽しい」「気持ちいい」という「正の感情」である。
「本能的欲求の充足」と言い換えてもいい。
ここは「わかっている」点である。
この関連として「わからなさ加減」がくる。
「焼き肉が好き」などの他の感覚と「〇〇の音楽が好き」という感覚とはどう違うのか。
この先の感覚については、これ以上説明しようがない。
ただ「強い正の感情」であるらしいことだけは理解できる。
「感情」というのは、「論理」と相性が悪く、言葉では説明、理解できない部分が多い。
(つまり、音楽やファッション等の趣味・嗜好については、相手に譲歩しないと理解できない。)
真冬に海に入って祈祷をする風習がある。
あれは、やった人にしかわからないという。
やったことのない人には「わからない」行為である。
なぜかというと「真冬の海は冷たくて苦痛」ということを「わかっている」前提で見るからである。
どう考えても、論理的行為ではない。
しかし、「入ればわかる」という。(ただ私には、その行動を起こす勇気と気合いがない。)
つまり、子どもの「わからない」にも、必ず他の何か「わかっている」があるということである。
何を「わかっている」前提で、「わからない」と言っているのか。
次号もう少し考えていく。
2015年3月21日土曜日
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