3月11日。
今日は全国各地で、黙祷が捧げられるものと思われる。
本来なら忘れたい悲劇を敢えて思い出すのは、一つは未来のためである。
悲劇をくり返さないためである。
学校でも防災と安全について、改めて思い起こす日である。
安全、安心、無事、平和。
空気や水と同じで、何よりも大切な一方、失われないと全く意識されないものである。
「無事」が続くと「有り難し」ということを忘れやすい。
震災は、多くのものを奪った出来事であると同時に、大切なことに気付かされた出来事でもある。
震源からは遠く離れた千葉の地でも、様々な異変があった。
例えば、道路交通の麻痺によって物品の流通に支障が出た。
学校でいうと、給食一つにも変化が出た。
給食に、ご飯とおかず一品だけという事態。
しかも少量である。
しかし、被災地では少量どころか食べることもままならないことを知っていたので、不満は当然出なかった。
この給食が、いつも食べるものより数倍うまい。
残す子どもはいなかった。
無いからこその有り難さをみんなで感じられた。
給食が余るほど食べられるのが「当たり前」のことになって「感謝」を忘れていた。
「毎日心配なく食べられる」というのは、世界中の様々な人々にとって憧れの状態である。
満ち足りすぎると、逆に不平不満ばかりが出る。
足りなくなると、逆にその有り難さに気付く。
豊かさも、履き違えると欠乏である。
安全も同様。
危険なことがあっても無事なのは、周囲の環境が普段から予防してくれているからである。
知らないところで、様々な人々が我々の環境を整えてくれている。
耐震工事一つとってもそうである。
用務員の方が様々な箇所を修理してくれているのもそうである。
保健室の先生や生徒指導担当の先生が、安全面に口が酸っぱくなるほど厳しく指導してくれているのもそうである。
誰かがケガをしてからでは遅い。
普段から、安全な環境が整えられているからこその「無事」である。
偶然の産物ではない。
だからこそ、避難訓練等の安全関係の指導は、何よりも本気で行う必要がある。
様々な指導も、命あってこそである。
「避難訓練なんて」「安全点検なんて」と思っているのは、水と空気と平和がタダだと思っているのと同様の感覚である。
何でも、起きてから対応していては遅い。
私の尊敬する原田隆史先生の「危機管理の法則」を再度記す。
「悲観的に考え、万全の準備をし、楽観的に対応する。」
これからの子どもたちの安全と平和を守るために、最低最悪の事態を想定し、安全面の準備は普段から万全にしておきたい。
2015年3月11日水曜日
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