2011年7月31日日曜日

仕事は目標を立てて

仕事術の話。
1日は24時間。
これは変えられない。
変えられるのは、24時間の濃度の方である。

睡眠の話で、何時間が最適かということを以前書いた。
睡眠量=眠りの深さ×時間 である。
時間が短くても、深ければ足りる。
例えば日中に運動をすると、眠りが深くなる。
運動をすると一見疲れるようで、実は回復に役立つ。
結果的に、時間の節約にもなっている。

仕事の場合はどうか。
仕事量=仕事の質×時間 である。
時間は変えられないから、質を上げる。
同じ時間でやれるものの中身を濃くする。
コツは、以前も書いたが次の予定を入れること。
それと、達成目標を明確にすること。

通知票の所見を例に。
作業終了時刻を決める。
残業できる日でも、この時刻には帰ると決める。
次に、一人あたりの時間を決める。
実際は、すらすら書ける子どもとそうでない子どもがいるので、中間をとる。
「一人5分」と仮に決める。
そうすると、5×10=50だから
「1時間で10人以上」という目標ができる。
トラブルを想定し、少し余裕を持たせておくのがコツである。
達成感を味わえ、次もがんばれる。
ゆるすぎると、緊張感がないので、これもいけない。
最適な目標を設定する。

単純だが、結構効果のある方法である。

2011年7月29日金曜日

性差について考える

なぜ、かくも男子と女子は違うのか。
「男らしい」「女らしい」は差別だという意見もある。
しかし性差は確実に存在する。
それが社会的な要因から来るものなのかというと、そうでもないように思う。
何か、もう幼児期から相当に差があるように感じられるのである。

そこで何が言いたいのかというと、今日は男子と女子の考えかたや行動の違いについて考えてみたい。
まず、教師の側。
小学校は、圧倒的に女性が多い。
小学校の男性教師は結構レアである。
忘年会ともなれば男なんだから何か面白いことやってと頼まれるのが世の常である。
女性教師はワルの男子、男性教師は高学年女子の扱いに困ることが多いように見える。
まあ、当たり前である。
異性の人生の経験は自分がしてないのだから、よくわからない。
男性教師は同性同士で手紙のやりとりをしてきゃーきゃー言った経験は、多分ほとんどない。
多分、きらきらシールを集めて手帳にコレクションした人も少ない。
(個人差があるので、常に「多分」の域を出ない。)
女性教師は、やたら無意味に下品な言葉を連呼し続けたり、戦いごっこで本気で泣くまでけんかして先生に怒られた経験もない。
経験がないのだから、当然理解は難しい。

男子は「何で女子ってあんなに先生の言うこと聞くんだろ、アホらしい」と思ってる。
女子は「何で男子ってあんなに怒られることするのかしら、バカみたい」と思ってる。
多分、それぞれ正しい。

基本的に、男子は言うことをきかないものだという前提があった方がいいように思う。
(女子のことは、正直よくわからないので書かないことにする。)
いつも言うことを聞かない男子に向かって、すごく長いお説教をする先生もいるが、正直無駄である。
聞いてない。
そして効いてない。
道徳的な善悪では、あまり動かないのである。
なぜ男子がダメなことをやっちゃうのかというと、やりたいからである。
本能が行動的で衝動的であり、野性的なのである。
まあ、動物である。
自分がそうだったので、そう思うだけなのかもしれない。
ただ、言うことを聞かないのは、何か分かる気がする。
これは、しつけるしかない。
しつけは「躾」の字のごとく、身体を美しく飾るものである。
そういうことが、かっこいいのだ、かっこ悪いのだと、何度も教えていくしかない。
記憶法と同じで、長時間やるより、短く何度もやった方が身に付く。

言うことを聞かない男子。
正直、相手していて腹が立つが、とても健全だと思う。

2011年7月28日木曜日

「あいうえお」のある授業

先日、ある学校の校長先生より面白い話を聞いた。
算数の先生なのだが、「あいうえお」のある授業が良いというものだった。

「あっ!」
「いいね!」
「う~ん?」
「えーっ!?」
「お~!」

平坦な展開をしていては、得られない反応である。
こういう声が子どもから上がるような授業を目指したい。

2011年7月27日水曜日

いじめの心理

特定の子どもに辛く当たったりいじめたりする子どもがいる。
やられているのは、おとなしかったり学力が低かったりする子どもである。
そして、やっている方も同様の場合がある。
どんぐりの背比べなのだが、微妙に勝っている(と本人は思っている)方が、いじめる。

なぜこういうことが起きるのか。
原因は何なのか。

一言で言うと、「自尊感情の低さ」である。
他人に対する批判や悪口は、自信がないということが根本にある。
自信のある人は、他人に対してそういうことをしない。
要は、自分が低いからより低い人を設定して安心しようという浅ましい考えが原因である。
自分の腰を低くして相手を高める「謙譲」の逆の精神である。

こういういじめは、いじめてる本人を叱っても根本的には解決しない。
(対症療法にはなる。)
いじめてる本人の自尊感情を高めることが、根本の治療になる。
勉強ができないことが原因かもしれない。
身体的なコンプレックスが原因かもしれない。
親に愛されていないことが原因かもしれない。
色々あるが、その原因をつきとめることから、解決方法を考える。

いじめは、対症療法ではダメである。
文字通り「根絶」を目指す必要がある。

2011年7月26日火曜日

個人面談の机の配置

前号の続き。
面談時の机の配置について。
机の配置なんてどうでもいいと思うかもしれないが、これは結構大切である。
二者面談なら、机が2つでも間に合う。(いや、何なら1つでも間に合う。)
しかし、ここはやはり4つ用意したい。
「田」の字の配置、いわゆる一般的な4人の班の場合の「班の形」である。

こうするには、理由がある。
2つだと、有無を言わさず真正面になる。
強気な人はこれでもいいのだが、そうでない人には威圧的な印象を与える配置である。
ちなみに秘密の話や商談をするのには、いい配置である。
距離を近づけて強引に持っていきやすい。

一方、4つあると、対角線上に座ることもできる。
45度の角度である。
この角度は、心理的に相手に安心感を与えやすい。
また、二人の間に適度な距離が空くので、そこもリラックスできるポイントである。
また、保護者の目の前に資料を置く時にも、こちらから斜めの角度になるので、真逆よりは読みやすい。

以上のような理由から、机は4つ配置をおすすめする。
(まあ、「そんなことは意識しないでも4つ置いている」という人も多いと思うが。)

ちなみに、4つ配置しても、必ず45度になるとは限らない。
こちらが先に位置を決めたら、どこに座るかは相手が決めるからである。
真正面に座ったら、気の強い人やじっくり話が聞きたい人かもしれないと思っていい。
45度の位置に座ったら、そこまで前のめりではないと考えていい。
(まさか、隣に来る人はいないと思う。)
そういう風に、相手の心理を読む上でも、やはり役に立つのである。

たかが机の配置一つにも、そして何より面談をすること自体にも、明確な意図を持たせたい。

2011年7月25日月曜日

個人面談が苦手な人へ ちょっとした技術

個人面談が苦手な人は結構多い。
まあ大人同士の一対一の会話だから、緊張するのも無理はない。
特に会話が続かないという悩みがある人もいるので、その辺りの対策が必要である。

個人面談の方法については様々あるが、私の知っているものをいくつか紹介する。

まず、モノの用意。
1通知票
これを渡す場合は、それが会話の中心となるので、あまり他のモノへの心配はいらない。

2作文
「一学期の自分の成長と反省」というタイトルで書く。
子どもの成長が一目瞭然で分かる。
話が苦手な人は、その場で読んでもらう方法もある。(私は、資料として使い、帰ってから読んでもらう。)

3自己評価の一覧
国語、算数など教科別に、子どもが自分で1~3の評定をつけ、さらにがんばったことをコメント欄に書く。
(コメントは、全ての教科に書く必要はない。)
生活面も同様にできた、まあまあ、できなかった、などの欄を作って○をつけさせる。
通知票と合わせて見せると、自己評価とこちらの評価とのギャップや一致が分かり、話題にしやすい。

4子どもの作品
こちらは、次の面談を待ってもらっている間に見てもらえるよう、廊下に置いておく。
ノートや図工作品など、何でもよい。
後で話題にできる。

次回は、机の配置について紹介する。

2011年7月24日日曜日

夏休みの生徒指導 「4つの車」

「夏休みの過ごし方」について指導することと思う。
この約束事は、暗記が不可能な程たくさんある。
「手を洗え」とか「早く寝ろ」とか当たり前過ぎる項目も含まれて無数にあるため、ほぼ全てが忘れ去られる。
教師の側としては指導した事実が必要だから外せないのだろうが、やはりここは軽重をつけたい。

たった一つしか伝えられない、一番大切な項目を一つ選べと言われたら、どれを選ぶか。
私は、やはり「安全面」だと思う。
もっと具体的に言うと「命を守る」という一点である。

「3つの車」という話がある。
結構有名な実践で(原実践が誰なのかは知らない)あるが、紹介する。
以前、私の勤務校の生徒指導主任は、これに一つ加え「4つの車」として話されていた。

「夏休み中、次の4つの車にはお世話にならないで下さい。
1 救急車(特に水難による事故)
2 パトカー(事件に巻き込まれる)
3 消防車(花火による火事)
加えてあと一つ、絶対に乗ってはいけないのは?
4霊柩車
みなさん、命を大切に、この4つの車には絶対にお世話にならずに過ごしましょう。」

子どもの印象に残る話である。

2011年7月23日土曜日

作文指導の極意

国語の大家として有名な大村はま氏。
大村はま氏の著作の中に、作文指導に関する記述があった。
正確には覚えていないが、以下のような話だった。

大村はま氏がまだ若手教師として奮闘していた頃。
作文の山(当時は1学級の人数も今の数倍いたらしい)を抱えて職員室に入った。
冬の寒い時期で、校長はじめ職員はストーブを囲んで暖をとっていた。
作文の山にげんなりしていると、校長は大村氏に次のようにいった。
「ここに放り込んで、燃やしちゃえよ。」
とんでもない話である。
しかし、校長は次のように語ったという。
「作文は添削が大変だから、ついつい教師も書かせなくなってしまう。
添削がいやなら、見なければいい。
作文指導で大切なことは、とにかくたくさん書かせることだ。
書かせる内に、作文は上達する。
一番いけないのは、教師が添削を嫌がって、書かせなくなることだ。
燃やしてもいいから、たくさん書かせなさい。」

私の記憶なので相当曖昧だが、そういう内容だった。
なるほど、一理ある話である。
(ちなみに、その後、大村はま氏は作文を燃やさないで、何だかんだ読んだようである。)
さすがに燃やしたり捨てたりしてはまずいと思うが、書かせなくなるのはもっとまずい。
ざっとでもいいから見て、とにかくたくさん書かせた方が、確実に学力形成にはつながる。
ちょっと極端な例だが、こういう考え方もありだと思う。

2011年7月22日金曜日

スピード作文添削法

作文を読んで添削する。
おそらく、多くの人が結構苦手とするのではないかと思われる。
朱を入れたりなんだしていると、かなり時間がかかる。
しかも、直すよう指導した部分も直ってなかったりして、腹立たしくなることすらある。
大変だからといって後で読もうと思うと、あっという間に日が過ぎ、机の中にいれっぱなしになる。
2回分以上ためてしまうと、絶望的な気分にすらなる。

どうすればいいのか。

まずは、添削基準を明確にしておくことである。
指導したことをきちんとやれているかのみを見る。
例えば
1「はじめ・なか・おわり」の構成にする
2「文末表現をそろえる」
ことを指導したとして、
3「2枚にまとめる」
を条件にしたとする。
この3点が守れているかで、評定をつける。
全部できていればA、2つでB○、1つでB、0ならC、という具合である。
これを、予め子どもにも伝えておく。

次に、朱の入れ方を工夫する。
読んだ感想(コメント)が子どもは欲しいと思うかもしれない。
これは、作文を書かせた後の相互交流で、子ども同士でコメントを書かせているので、そちらでカバーする。
教師の側は、きちんと読んだよという証で、評定のみつける。
(コメントしたところで、子どもの書いたものと大して変わらないと考える。)
誤字脱字や改行したら一字空けるとか色々指導したいことはあるが、控えめにして先の3点のみに絞る。
そうすれば、とりあえずは全員分を読んで添削できる。

一番いけないのは、見るのが面倒だから書かせないということ。
添削に力を入れすぎず、どんどん書かせるようにしたい。

2011年7月21日木曜日

夏休みの生徒指導 「4つの車」

「夏休みの過ごし方」について指導することと思う。
この約束事は、暗記が不可能な程たくさんある。
「手を洗え」とか「早く寝ろ」とか当たり前過ぎる項目も含まれて無数にあるため、ほぼ全てが忘れ去られる。
教師の側としては指導した事実が必要だから外せないのだろうが、やはりここは軽重をつけたい。

たった一つしか伝えられない、一番大切な項目を一つ選べと言われたら、どれを選ぶか。
私は、やはり「安全面」だと思う。
もっと具体的に言うと「命を守る」という一点である。

「3つの車」という話がある。
結構有名な実践で(原実践が誰なのかは知らない)あるが、紹介する。
以前、私の勤務校の生徒指導主任は、これに一つ加え「4つの車」として話されていた。

「夏休み中、次の4つの車にはお世話にならないで下さい。
1 救急車(特に水難による事故)
2 パトカー(事件に巻き込まれる)
3 消防車(花火による火事)
加えてあと一つ、絶対に乗ってはいけないのは?
4 霊柩車
みなさん、命を大切に、この4つの車には絶対にお世話にならずに過ごしましょう。」

子どもの印象に残る話である。

2011年7月20日水曜日

認める個性、認めない個性

「みんなちがってみんないい」
ご存知金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の詩の最後の一文。
いい言葉である。
人はそれぞれ違うのだから、違いを認めようと。
まさにその通りで、反論の余地はない。
私に向かって「何でお前はそんな字しか書けないんだ。普通の字を書け。」と言われても、凹むだけである。
他の部分なら、結構いいところもあるのである。
技能に関する面は、個人差を認める前提で、かつ全員が「できる」ように工夫をするのが教師の仕事である。
できない子どもを詰めすぎてもいけない。
どんなに工夫を凝らしても、できない場合もある。
結果的に全員「できる」ようにさせられるなら、それはプロの仕事である。
前号まで水泳の話をしたが、水泳指導において「全員を泳げるようにする」のは、大きなテーマである。

一方で、集団教育においては認めない「個性」があってもいい。
例えば、ルールやマナーを守るという点。
言葉遣い。
それらは、学校教育の場において強制(というより矯正)をしてもいいと思う。
学校の教師に対して横柄な言葉遣いをするようでは、外の社会でも同様のことが起きる。
将来、結果的に困るのは子どもの方である。(ちなみに教師側にとっては何も変わらない。)
だから、そこは強制的に矯正する。
元気がいいだとかおとなしいだとか、個人差はどうでもいい。
やるべきことはやる。
個性を認めつつ、そういう信念を持った姿勢も必要だと思う。

2011年7月19日火曜日

基本が大切

水泳の話の続き。
水中で息がある程度止められる。
すると、恐怖心が和らぐ。
恐怖心が和らげば、体が柔らかくなり、操作できるようになる。
そこで、次の段階。
今度は、前へ進みたい。

水泳における推進力を得るために、一番大切なのは何か。
そんなこと考えなくても、大抵は次にけのびを練習させる。
大切だからである。
(ちなみにけのびは漢字だと「蹴伸び」である。)
けのびの姿勢がきれいだと、水の抵抗を受けずに前に進める。
10の力を入れても1しか進まないのでは、当然能率が悪い。
けのびの練習は、自転車にたとえるなら「タイヤの空気を入れる」作業に近い。
空気が抜けたまま自転車をこげば、余計な力が必要になる。
空気をきちんと入れれば、小さな力ですいすい走る。
そんな風にたとえて子どもに伝える。

どの泳ぎでもそうだが、特に平泳ぎはけのびが大切である。
けのびの姿勢の瞬間に、一番前に進める。
子どもは手でかいた時に進むと勘違いしているので、注意が必要である。

何事も、基本が大切である。

2011年7月18日月曜日

なぜ泳げないのか

10mを泳げない子どもがいる。
何を原因ととらえるか。
個々の子どもの抱える問題にもよるが、私は「呼吸」に重点をおく。
念のため言うと「息継ぎ」ではない。
「呼吸」である。
ちょっと小難しい専門用語を使うと「酸素摂取能力」を高めることを重視する。

泳げない子どもは、水中ですぐ苦しくなる。
恐怖感が、呼吸を乱す。
顔を水中につけなくても、プールに入っただけで既に息苦しくなっている子どももいる。
恐怖感の克服は、「慣れ」と「安心感」を与えることから始める。
ゴーグルを付けることは必須である。
言わずもがな、プールの一番端や浅いプールを使うのは、そういう意味もある。

水中で息を止める練習。
例えば、だるま浮き。
水中で息を吐く練習。
例えば、水中にらめっこ。
ここに絞るだけで、結構成果が出る。

2011年7月16日土曜日

やる気の出し方

やる気が出ない時がある。
一時的なら仕方ないが、慢性的だと困る。
(いや、本人が困ってないなら別にいいのだが。)

やる気をすぐ出せる方法がある。
それは、やる気のある人に会いに行くこと。
やる気のある人ばかりが集まる会に参加するのもいい。
やる気は伝染するので、そういう場所に出ると、一発である。
別に教育の分野でなくてもいい。
講演会に参加したりサークルに参加したりする。
スポーツでも文化的な活動でもいい。
とにかく、やる気が溢れる場所に行くことである。
それがあるなら平日だろうが休日だろうが関係ない。
出かける。
その気力さえ出せれば、大丈夫である。

忙しい時こそ、勉強しに出かけよう。

2011年7月14日木曜日

10000ページビュー突破

昨日、このブログも総計10000ページビューを突破した。
ひとえに、見て下さる皆様のお陰である。
心から御礼申し上げたい。

見てくれる人がいるから、がんばれる。
教室でも同じで、授業を素直に受けてくれる子ども達がいるから、がんばれる。
当たり前だと思わず、感謝をしたい。

2011年7月13日水曜日

テスト結果の見方

テストシリーズ第四弾。
テスト結果の見方について。
テストをすると、指導の甘かった部分が見えてくる。
しかし、全員分をもれなくチェックしていくと、大変である。
一人一人を見るのは大切だが、時と場合によりけりである。
ざっくり見た方がいい時もある。
ざっくり見る方法をお伝えする。

とてもシンプルな方法である。
100点満点のテストで「85点~95点」の子どものテストの誤答に注目する。
これだけである。
大体、誤答の問題が1~2問に限定される。
これが、多くの子ども達に身に付かなかった部分である。
確実に復習する必要のある問題である。
これができれば、平均点は大幅に上がるというポイントになる。
(逆に、50点以下の子どもの誤答については、それ自体に頓着しても無駄である。
根本的に何か手を打たないと、対症療法では間に合わない。)

ここを軸に考え直すと、指導が改善されるように思う。

2011年7月12日火曜日

テスト隊形を考える

テストを考えるシリーズ第三弾。
今日は「テスト隊形」について。
テストの時、隣の答案を見ないように、机を離す。
色んな方向を向かせる。
色々な方法がある。
「テスト隊形だと周りから見られないから安心してテストが受けられる」という子どもの意見がある。
一理ある。
しかし、私はこれが気になる。
前提として、人を疑っているような気がしてならないのである。

だから、私はこういう方法を一切とらない。
普段通りの机の配置で行う。
理由は「隣の答案が見られる状況でも、正しくない行為なので、自分の意志で見ない」という子どもにしたいからである。
仲間を信用できる学級にしたいからである。
もう一つは、それができると教師が信用するからである。
多くの子どもは、その期待を裏切らない。
「周りの人の答案は見ないでね。先生、みんなの実力をきちんと見たいから。」と一言付け加えておく。
まあ、それでも見る子どもは出る。
確実に出る。
ここが、指導のチャンスである。
将来の受験時に同じ失敗をしないよう、ここで正しておく。
後で呼び出して「ここ、見たかな?」などと聞く。
不自然な解答があった場合(算数なら、式がでたらめで答えが正しい場合など)は、言い訳がきかない。
大抵正直に答える。
見てはいけないことを理由を付けて教える。
高学年の場合、受験の時は、これだけで不合格になることも伝える。
見た部分はどこか聞き、×をつけていいねと確認をとって、×にする。
大体、こういう流れで指導する。

色々な意見があると思うが、そういう意図を持って行っている。
それが正しいかどうかは、分からない。
是非、テスト時の隊形を変えるべきだという他の方々の意見もお聞きしたい。

2011年7月11日月曜日

誰にテストされているのか

子ども達に問う。
「このテストって、誰にテストされているの?」
普通に考えると「先生」と答えてくる。
他には?と問う。
「テストを作った人」と返ってくる。
それもそうだ。
他には?と詰める。
やがて「自分」という答えが返ってくる。

テストをやる時、実は自分自身にテストされている。
「お前はどれだけがんばったんだ」と。
受験の時、隣のクラスの頭がいい奴が一緒の学校を受けるからって、びびる必要はない。
結局は、自分自身に勝てるかどうか、この一点に尽きる。

そしてこれは、教師の側からも、同じである。
「お前はどれだけ全員に力をつけたんだ」と。
子どもをテストしているようで、実は教師自身がテストされている。
できない子どもを嘆きたくなるが、結局は自分自身の指導力の無さの露呈である。
この現実に真正面に向き合うことでしか、授業力の向上はあり得ないと考える。

2011年7月10日日曜日

学習手段を与えないテストを問う

最近、面白い主張が書かれた本を読んだので紹介する。
「学校とテスト」森毅著 朝日選書
第1刷が1977年だから、30年以上前の本である。

何が面白いかというと、「テスト中に学習手段を与えよう」という主張である。
大学での語学のテストで辞書持ち込み可というのはよくある。
小学生だってテスト中に九九表を持たせていいのではないか。
教科書・参考書・ノートの類を持ち込ませてはいけないテストというのは、一体何なのか。
テストが学習内容のシュミレーションであるからには、できるだけ常態に近い方が自然ではないか。
何なら、正解のわかりそうな周りの友達に聞いてみれば良い。
そういうのにも耐えられないテスト問題の意味は何なのか、という主張である。

まあ、自分の学級だけ単体でこれをやったら、先々の受験等に影響が出るので、やるわけにはいかない。
しかし、そもそもテストが暗記力を試すようなもので良いのかという投げかけは、面白いと思う。
30年以上も前から、そういう問題意識を持つ人がいたことに感動した。
テストとは一体何なのか。
成績をつけるためのものなのか。
子どもの学力をつけるためのものなのか。
色々考えてみるのも面白い。

2011年7月9日土曜日

「先生も子どもの頃、できなかった」

子どもに納得してもらえる話し方を一つ紹介する。
それは「先生も子どもの頃、できなかった」という話。

私は、自分の忘れ物のことをよく例に挙げて話す。
自分が、「忘れ物大王」だった小学生の時のことを話す。
なぜ忘れ物がなくならなかったか。
→「次は気をつけるから大丈夫」といつも思っていたから。
どうして忘れ物をしてしまうのか。
→対策をまるでとらなかったから。
そういう体験談を語る。
すると、忘れ物の多い子どもほどニコニコしながら聞いている。
共感できる面が多いのである。

できる人から「何でできないの」と言われると凹む。
自分と同じようにできないという人の話は、共感できる。
時に一段下がって、同じ目線で話すことも大切である。

2011年7月7日木曜日

本気でやってるのか?

前回少し触れた「本気で遊ぶ」に関連した話を。

ことある毎に子どもに聞くのが「それ、本気?」という言葉。

テストで思うような結果が出なかったと文句を言っている子どもに「本気で勉強した?」
泳げないと言っている子どもに「本気でがんばってる?」
どうせ自分なんかと言っている子どもに「本気でそう思う?」
プロ野球の選手になりたいと言いながら、毎日の素振りもキャッチボールもしていない子どもに「本気でなりたいの?」

適当なところで、「努力のつぼ」の話もする。
「本当に本気でがんばっている人には、努力のつぼに努力がたまっていきます。
努力のつぼは、透明ではないので、たまっている様子が見えません。
がんばってるのに、全然成果が出ないように見えます。
でも、中に確実にたまっているのです。
そうして、一定量たまると、ある日一気に溢れ出ます。
本気でやっている人は、どんどんたまっていきます。
ぼちぼちやっている人は、なかなかたまりません。
やるなら、本気でやりましょう。」

人間、ともすると中途半端になりがちである。
普段から「本気を出す」訓練が必要である。

今日は七夕。
願い事をするなら、本気でした方がいい。

2011年7月6日水曜日

ルールを一番守るべき時

学校生活の中で、子ども達がルールを一番守るべき時(場面)はいつだろうか。
ここでルールを守ることで、ルールを守る基礎ができるという時は、いつだろうか。

私は、「遊びの時」と考える。
私はよく子どもに「遊ぶ時は本気で」と言う。
本気でやるから、楽しいのである。
ぼちぼちやったら、大して楽しくない。

そして、楽しむための最大のポイントが「ルールを守る」ことである。
遊びの時のルール破りほど、つまらないものはない。
よくあるのが、ドロケイで捕まってるのに勝手に脱走したというもの。(9割方、男子である。)
遊びやゲームはルールがないと、成立しない。
しかし、子ども同士の遊びは、よくルール破りをする。
ここが、ルールを守ることの大切さを学ぶ最高の場になる。
だから、集団遊びはいっぱいさせた方がいい。
休み時間は、授業の時間と同じかそれ以上の教育的価値のある時間である。

遊びを通して、ルールを守れる子どもを育てたい。

2011年7月5日火曜日

任せて任せず

タイトルは、元松下電機、現パナソニック創業者、松下幸之助氏の言葉である。
要するに、内容的には任せるが、先に教えるべきは教え、見守り続け、最終的な責任は自分がとるということである。
教育のあらゆる場面で使える。

例えば私は、学級会でこれを気をつけている。
学級会は、学級委員長を中心として行われる。
私は、会の最中、ほとんど一切口出ししない。
ただし運営の仕方や議事の決定の仕方は、事前に指導しておく。
それで同席しつつ、話を聞いているのである。
勝手な決定(極端な例を言えば、授業を一日つぶして遊ぶとか)が通りそうな場合、これは止める。
任せきれない部分である。

逆を行くと、全て失敗する。
内容をこちらが全て決め、後はやらせっぱなしという状態である。
まあ、例を書くまでもなく、ダメなのがおわかりいただけると思う。

人は、任されることで自尊心を感じ、成長する。
子どもにも権限を与えて見守ることで、自信を持たせたい。

2011年7月3日日曜日

感謝できない時

感謝しようという話を続けてきた。
逆に、感謝できない時とはどういう状態の時か。

ずばり、忙しい時。
正確に言うと、忙しそうにしている時。
アップアップしている時である。
俗に言う、テンパってる時である。

せかせかしていると、気持ちもせこせこしてくる。
自分だけが世界で一番忙しいような無礼な振る舞いをしてしまう。
周りの人も、実は同様に、自分以上に仕事をしているのに、それを忘れてしまう。
サポートしてくれている人に、感謝の念を持つことができなくなる。
しかしこれはもう、余裕が無いのだから、仕方の無いことである。

余裕を持つことが、感謝の気持ちを持つことの前提条件である。

2011年7月2日土曜日

先生に感謝、子どもに感謝

前回の感謝の話を子どもにした時、次のように言葉が返ってきた。
「今日、先生が授業してくれたことです。」
感謝に耐える授業をしていたかは別として、嬉しい言葉である。

次のように返答した。
「そう思う人?(全員が挙手)
ありがとう。
先生も、みんなに感謝しています。
先生が授業するのは、仕事だから当たり前ですよね?
みんなが授業を一生懸命聞くのも、そうすべきことですよね?
でも、そういう当たり前のことに感謝するのって、すごく大切です。
もしお母さんに、母親はご飯つくるのが当たり前でしょって言ったら、大変なことになりますよね?
当たり前のようにしてもらえることに、感謝する素直な心を持ちたいですね。」

子どもの言葉にはっとさせられた。
一生懸命授業を受けてくれる子ども達に、深く感謝の念を持ちたい。

2011年7月1日金曜日

全てに感謝

感謝の念を持つことが大切、とよく教室で子どもに伝える。
帰りの会で、次のように聞く。
「今日、感謝したことを思い浮かべて下さい。」
思い出せたら挙手する。
大抵、半分も手は挙がらない。
「絶対、色んな人に世話をしてもらっているはずです」と詰める。
何人か思いついた子どもに発表させる。
「朝、母親にご飯を作ってもらった」
「おはようとあいさつしてくれた」
「○○さんがプリントを集めてくれた」といった些細なことまで出る。
そういうのを聞くと、ほとんどの子どもは手が挙がる。

次のように話す。
「人間は自分一人の力では生きていけません。
必ず、人の世話になっています。
助け合っていきているのだから、それでいいのです。
大切なのは、そういう一つ一つのことにきちんと感謝することです。」
感謝の念をきちんと持って過ごせるようにしたい。
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