2018年3月31日土曜日

終わりを意識して始める

明日から、4月である。
毎年4月は「今回で終わりかもしれない」と思って始める。
これで担任をさせてもらえるのは最後の可能性がある。
毎年、そう思って始める。

そもそも、人生自体、今日何が起こるかはわからない。
だから、一日ずつを大切に生きることができる。

どうやら今年も、着陸までいけそうな感じである。
それ自体、決して「当たり前」のことではない。
あらゆることに感謝すべきことである。

日本人には、「終わり」を想像するということを忌み嫌う傾向がある。
しかし実際に生と死は表裏一体だし、始まりと終わりも同様である。

「来年のことを言えば鬼が笑う」とも言う。
笑いたい奴には笑わせておけばいい。
いつでも、こっちは真剣である。

未来への計画性がなければ、今を生きることも覚束ない。
今に集中して生きるそのために、終わりとその先まで計画するのである。

後世に何と言われるかは、自分には決められない。
決められないからこそ、生きている間に、後々何と言われたいか考えて生きる。

今年の学級は、4月に想像していた「未来」の通りになっていただろうか。
振り返るためにも、4月のスタートには、ゴールとして目指す姿を書くことをおすすめする。

2018年3月29日木曜日

教育手法の価値は相対的

サークルでの学び。

教育の手法には、様々なものがある。
その中の何かをやってみようという人に、次のような質問を受ける。
「〇〇という手法は、どうなのでしょうか。」

答え。
まず、やってみれば?

これしかない。
なぜなのか。

第一に、その手法に対する、教師と子どもそれぞれの相性である。
やってみないことには、合うか合わないかはわからない。
服や髪型と同じで、人によって似合う似合わないがある。

さらに、ねらいが何かである。
「リーダーシップを発揮したい」というねらいと、
「子ども主体のクラスを作りたい」というねらいでは、とる手段が異なる。

昼食を「ヘルシーなランチにしたい」のか、「がっつり食べて満腹になりたい」のかである。
それぞれに善悪と良否はなく、ねらいの違いである。

ちなみに、食べ物などは、何かにつけて「諸説有り」である。
一方で身体にいいと言われているものが、他方では最も悪いとされていることもある。
そして、どちらの説にも「真実」が含まれる。

なぜなのか。
ずばり、当たり前のことだが、人それぞれ体質が違うからである。
「人間」というカテゴリーでは、大きすぎる。
ある人にとっては相性最高のものが、ある人にとっては消化できないということはよくある。

そして、クラスというのは、教師と子どもの複合体である。
つまり、同じ教師がもっても、今年のクラスと、次年度のクラスは全く違う。
だから、今年うまくいった手法が、次年度全くダメということはよくある。

ではどうするか。
手段を変え続けるしかない。

子どもによっても変える。
ある子どもには丁寧に教えて、ある子どもは見守るだけにする。

調子によっても変える。
家庭で何かあって、子どもが落ち込んでいる時は、いつものことを流すこともある。

時期によっても変える。
学級開きの4~6月と終いの1~3月で同じ訳がない。
夏の涼風快適素材を、冬に着続けているようなものである。

つまり、特に若い時こそ、自分の引き出しの中身を増やすことが最優先である。
選択肢が多い方が圧倒的に有利である。

だから、まずは、やってみる。
その上で、今の状況に合うものを取捨選択をする。

教育の手法の価値に、絶対は存在しない。
常に相対的である。
悩むぐらいなら、やってみればいいというのが結論である。

2018年3月28日水曜日

懸命より賢明

先月の仕事術セミナーで、参加した方にお勧めされて読んだ、次の本からの気づき。

ものの見方が変わる 座右の寓話
戸田智弘著 ディスカヴァー・トゥエンティワン
http://www.d21.co.jp/shop/isbn9784799322048

この本の中に、こんな寓話がある。

きこりの話。
ある日、きこりが1日で誰よりもたくさんの木を切り倒した。
親方に褒めらて、気をよくして翌日はもっとがんばった。
結果は、1日目の半分しか切れなかった。
もっとがんばらないといけないと思い、3日目以降はますますがんばった。
しかし、成果はどんどん落ちていく。

そして、親方に相談すると、次のように言われる。
「最近、斧を研いだのはいつだ?」
「忙しくて、斧を研ぐ暇はありませんでした。」

大体、そんな話である。

これは、現実の多忙と残業の仕組みにそっくりである。
そう、頑張れば頑張るほど、成果も能率も落ちる。
なぜなら、適切な休養をとらないで、健康を害しているからである。

目に見えて病気の人は、病院にかかるからまだいい。
問題は、一見しても見えない病気である。

脳の受けているダメージは、見た目ではわからない。
例えばスマホの画面の見すぎによるダメージは、深層部で起きているので、気付かない。
見た目でわからなくても、ボクシングのボディーブローのようにじわじわ効いている。
(蓄積されたボディーブローによるダウンは、地獄の苦しみだという。)

身体のメンテナンスが何よりも大切である。
「空気の抜けたタイヤのままで自転車を懸命にこぐ」という話を書いたことがあるが、あれと同じである。
これは、賢明でない。

懸命より、賢明。
多忙で頑張りすぎの教師には、特に強調したいところである。

2018年3月27日火曜日

早起きは、快楽。

早起きが大変だという。
決めた時刻に起きられないという。

断言する。
それは、思い込みと生活習慣のせいである。

正確に言えば、習慣の変化による思い込みである。
例えば、現代の日本人なら、スマホをもたずに駅で待ち合わせをするのは、困難だと感じるだろう。
若い人は「駅の伝言板」など、存在すら知らないかもしれない。
昔は、これが「当たり前」だったのである。
今は、「困難」になっている。

昔は、早寝早起きは、当たり前だった。
単純に、電気がなくて、夜はどこも真っ暗だったからである。
灯りとしてのろうそくやランプはあっても、基本的に外出はできないし、夜は眠るしかなかった。
そして、目覚まし時計もないから、朝陽で自然に目が覚めて、体内時計を自然調整するのである。
(これを、サーカディアンリズムという。)

早く寝れば、早く目が覚めてしまう。
別に努力もいらない。
単純な話である。
(というよりも、寝ていることが退屈すぎて、早く起きて動き出してしまう。
宿泊学習で消灯時にきちんと寝た子どもと同じである。)

早起きは、文字通り、気持ちがいいものである。
だから、早起き習慣が身についている人は、もう一生やめられない。
早朝の静寂や美しさや安らぎ、幸福感は、日中や夜に感じることが不可能である。

運動ができる。
コーヒーが飲める。
一人ゆっくり読書ができる。
メルマガを書いて、読者の皆さんに何かを届けられる。
この時間を過ごしたくて、わくわくして目が覚めてしまう。
「幸福感」というものが自然に存在するとしたら、それはきっと朝である。

こういうことを言うと、「そういう特殊な人だから」みたいに思うかもしれない。
それは違う。
早起きを「苦痛」の対極である「快楽」に位置付けて、動機付けしているだけである。
そして、何より、早く寝ているだけである。

なぜ早く帰るのか。
やりたいことがあるからである。
いつ?
その日の夕方、夜、朝である。
つまり、次の日の朝まで含めて、やりたいことがあるから、今日早く帰って寝るのである。
(私が二次会に滅多に行かない主な理由が、これである。)

夜型の人もいる。
しかし、多くの人は、違うのではないかと思う。
人間は、本来、コウモリのような夜行性の動物ではないからである。
夜は寝るというのが、人間という種としての本来のリズムである。

人間は、機械や文明の発達によって、「便利」になった。
地球上を征服し、DNA研究により、生命の誕生すら一定の範囲でコントロールができるようになってきている。
さらには、AIの台頭である。

便利の追求は、人間本来の姿を見失うことにもなる。
夜は眠り、朝は起きる。
早寝早起きという、当たり前の生活リズムを取り戻すこと。
少なくとも、過労が問題視されている教職員の幸福感にとっては、最優先で必要なことではないかという提言である。

2018年3月22日木曜日

早く帰れる環境を自分で作る

先月に新宿で実施した、仕事術セミナーでの学び。
仕事術や学級づくりの基本について話をさせていただいた。

会の趣旨からいって、当然、参加者の多くは
「もっと仕事を早く終わらせて、自分の時間を作りたい」
という思いをもっている。

ただ、参加者の内情は、かなり違う。
Aは、21時まで勤務はほとんどの人が当たり前という職場。
Bは、18時過ぎには、周りの人が大方帰っているという職場。
どちらも「自分は早く帰ることができていない」という悩み。

では、どちらが早く帰れるか。
当然、Bである。
Aの職場で自分だけ早く帰るというのは、何か妙な罪悪感を抱き、かなり明確な意思表明を必要とする。
Bの職場なら、逆に早く帰れない自分に罪悪感を抱く。

周りと違うと罪悪感を抱く。
自分にとって、周りの労働環境が良いと思えないなら、罪悪感を抱く方を選択するしかない。

ポイントは「常識」の違いである。
「当たり前」の基準の違いである。

仕事そのものの量にどれほど違いがあるかは、わからない。
ただ、確実に言えることは、みんなが遅い職場では、「異常」に気付きにくい。
むしろ正常勤務で定刻に帰ることが「異常」「異端」に映る。
当然、早く帰るとは言い出しにくい。
「うちで早く帰るのは無理」という言葉が出やすくなる。

つまり、環境が大切ということである。
人間は、環境の影響を大きく受ける。
無意識だと、ここに完全に流される。

そして、環境は自ら作るもの。
周りが散らかっているからといって、自分の机も散らかすのは、もう流されている。
そういう時こそ、自分の机だけはきれいにする。

すると、目立つ。
「業者の方や来客がくると、なぜかいつも自分の机が使われている」という状態になれば、間違いなく突出してきれいである。

つまり、小さなことから始める。
残業の常態化のような大きなことを、いきなり変えるのは難しく感じるかもしれない。
しかし、机の整理のような小さなことからなら、手を付けられる。
小事が大事を作るのである。

たかが机の整理整頓一つ。
自分の職場環境を嘆く前に、そこから始めてみてはいかがかという提案である。

2018年3月20日火曜日

対話もルールから

先日、他県の校内研修でお話をさせていただいた。
そこでの内容のシェア。

いただいた研修テーマは「対話を育む授業づくり、学級づくり」である。
今教育界でおおはやりの、対話である。

明鏡国語事典によると
【対話】
1 向かい合って対等の立場で話をすること。また、その話。
2 物事と向き合って精神的な交感を図ること。
とある。

「交感」とは「心や感情が通い合うこと」である。
つまり、それぞれが対等の立場に立って話そうとし、互いの心や感情が通い合っていくような授業づくりや学級づくりである。
これは、放っておいて自然となるものではない。
相当意図的に指導しないと、成立は難しい。

では、どうするか。

結論から言うと、やはり対話も「ルール」が肝である。
放っておいて自然になるなら苦労はない。
ルールがあるからゲームが成り立つのと同じで、野放図では目的地に辿り着かない。

まずは対話のルールを設定する。
その上で、やがてルールがなくてもできるようにするのを目指せばよい。
いきなり対話的にしようと言われても、やり方がわからないからである。

なので、初めは対話に必要なルールと手順を示す必要がある。
例えば先日の野口塾IN木更津で、国語の専門家である横田経一郎先生は、次のステップで参加者に対話のルールと手順を示した。
「リーディング・カンファレンス」(フラット3)と名付けられた、読解後における感想交流の手法である。
1 3人組になる
2 1人ずつ順番に2分間話す
3 2分間黙考
4 1~3をもう1回行う
5 フリートーク

実施上のルールがある。
「2」の2分間は、制限時間いっぱいしゃべり続けなくてはならない。
ただし直前の話を繰り返してもよい。
そして、他の2人は頷く程度の反応はしても、一切の口をはさんではいけない。
仲間が話している間は、「聴く」に徹するのである。
(ここが「フラット3」なのである。)

このルールが「対話」の重要点と難しさを体感させるのに絶好である。
聴いてもらうからには、自分自身も話す内容をもち、話し続けなくてはならない。
そして話す時間より、聴く時間の方が2倍長い。
黙って耳と心を傾けて聴くことの難しさを体験できる。
対話が成立せずにすぐに議論、討論になってしまうのは、相手の話・言い分をきちんと聞けないことに端を発するからである。

そして、「5」のフリートークにも、ルールというか「コツ」がある。
「5」では「休み時間に、友達と話すように」喋るのである。
くだけた雰囲気を作ることで、「交感」を目指す。
ここがまさに「対話」なのである。

これは、クラス会議の手法を導入する時と同じである。
話し合いの型を知る。
チャンスは全員に平等に与えられ、話すべきは話すが、基本は聞くに徹する。
言いたいことは後で言えるように、全員発言後にフリートークの場面も設ける。

こういった一切をやった上で、応用していく。
やがて、トーキングスティックや発言のルールが不要になる。
対等である意識が全員に成立すれば、円になる必要も輪番で発言する必要もなくなる時が来るかもしれない。
完成形は、いつもどんな相手とのどんな状況でも、対等に話し合って適切な問題解決ができるようになることである。

ただし、何でもいきなり一足飛びで完成形を目指すとうまくいかない。
スキー初心者でボーゲンをとばしていきなりパラレルターンをしようとするようなものである。
いきなりパラレルターンを目指してできたら楽だし格好いいが、そんなことが成立する訳はない。
無謀にも挑戦しようとしたら、大転倒して無駄なケガをするだけである。
適切な手順とステップが必要である。
つまりは、指導者の適切なルール設定による指導である。

そもそも論として、対話がなぜ必要かというものもある。
「主体的・対話的で深い学び」の内、対話的の部分だけが方法論になっているという批判もある。
全くその通りであると思う。
ただ、対話は今後必要な学力を身に付ける上で有効な手段の一つではある。
同時に、絶対の方法ではない。
目指すべきは「人格の完成」であり、あくまでそのための一つの手法であることも忘れない。

対話を育む授業づくり、学級づくりは、一朝一夕ではできない。
まずは、ルールづくり。
真の自由は単に自由にさせていては生まれないという、一見矛盾した真理に目を向けることからである。

2018年3月18日日曜日

統一ルールは子どもの利益のため

ルールについての話の続き。
学校や学年での統一ルールについて。

堀裕嗣先生が言うように、中学校に統一ルールが多いのは、それが生徒の利益になるからである。
つまり、ルールがあるから自由になるという発想である。
小学生に比べ、中学生は格段に自由を求める気持ちが強くなる。
一方で、ルール無用の自由はただの無頼漢である。
だから、ルールという枠組みを、生徒の利益のためにきちんと設定する。

何度も使うが、サッカーのルールのたとえ話である。
手を使わないという一見不便なルールが、サッカーのプレーの自由と楽しさを生み出す。
コートという枠組みが、あらゆる戦術を生み出す。
暴力・暴言行為はファウルというルールが、プレーヤーに安全・安心を与え、自由なプレーを生み出す。

統一ルールは、集団に利益をもたらすために存在するのである。
いちいち決めていたら混乱して生徒に不利益をもたらすから、予め統一しておく。
そういう発想で校則等も決まっているはずである。
なぜなら、学校は児童・生徒のための機関だからである。

それが、間違った方向で「自由」にいくと、とんでもないことになる。
子どもの発想だけで突き進んだら、学校教育は成り立たない。
時間が無限にあれば話は別だが、残念ながら時間は有限だし、最低限の指導すべき内容も存在する。
(子どもが求めないからといってかけ算九九を教えない訳にはいかない。)

ルールがあるから、自由になる。
子ども中心のクラスを作りたい人こそ、大切にしたい発想である。

2018年3月16日金曜日

保身か子どもの利益か

学級開きとルールに関する話。

次の本を紹介する。
『赤坂真二&堀裕嗣直伝!最強の学級開き』 明治図書 
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-240213-5

学級開き本の新刊である。
元は、明治図書の『授業力&学級経営力』誌NO.85(2017年4月号)で、これが好評を博したため、加筆して書籍化されたものである。
私もご縁があり、「全員で課題達成の経験を積む」というテーマでほんの少し執筆させていただいた。

さて、この本のハイライトは私の書いた些末な記事、ではもちろんない。
編著者のお二人のクロストークである。
小学校と中学校の学級経営システムの違いについて語られている。
特に印象に残った部分を、やや長いが以下に引用する。
なお、前半部分は堀裕嗣先生、中略後の後半部分は赤坂真二先生の言葉である。

==================
(引用開始)
いずれにしても、いい機能を発揮する、子どもたちが困らないようにする、
そこを基本に統一すべきものとそうでないのは決まるんじゃないでしょうか。
決して学校の見栄えがよくなるとか学校に統一感をもたらすためとかに統一指導するわけじゃない。
ここはとても大事だと思いますよ。
(中略)
ただ,「揃える」ということに慣れていないために、
「子どもたちの利益になる」といったベクトルではなく、
「クレームがつかない」といったベクトルで「揃える」ような事例があちこちで生まれているようです。
(引用終了 但し改行は松尾による)
==================

これは、教師にとって考えるべき重要な指摘である。
学級開きは、比較的各担任の独自性が認められる。
それでも、本来統一すべきルールとそうでないところがある。

その違いが、ずばり子どもの利益を考えているのか、「保身」によるものなのかということである。
実際、統一ルールの中には「クレームがつくから」という理由のものが結構多い。

例えば、通知票。
多くの通知表には「生活のようす」という欄がある。
「誰とでも公平に接することができる」等の欄に〇がつくあれである。
あの〇をつける数が、「最低1つ、多くて4つ」等、学校または学年単位で統一されていることが多い。

これを「〇の数の差による保護者からのクレームを防ぐため」と捉えているか、
「一人の教師の主観による、子どもへの評価の差を小さくするため」と捉えているか。
前者の目的は保身であり、後者の目的は子どもの利益である。
本来の目的は、もちろん後者である。

実際、道徳的な面は教師の目には見えづらい。
例えば教室では一見乱暴で無愛想なようでいて、実は優しいということは往々にしてある。
(そして、逆もある。)
だから、一人の教師による評価の幅はある程度に納めた方がよいという発想である。
この〇の数を統一する方法が本当に良いかどうかは別として、子どもの利益を第一に考えていることは大切である。

ちなみに、このクロストークの中では「掲示物の位置」「学級通信の発行」等の話題についてもふれている。
こういったことを統一すべきかどうか。
目的は保身か子どもの利益かを考えれば、答えは出る。

これらが学級開きと何の関係があるのかというつっこみは一面正しい。
しかし、学級開きではこういったことも見通してルール等を伝える必要がある。
学級開きは学級の年間計画、あるいは卒業までを見通したあらゆる計画の具現なのである。

クロストーク部分の立ち読みでもいいので、ぜひ一度手にとって見てもらいたい本である。

2018年3月15日木曜日

子どもの問題作りアイデア

たまには教材づくりの話。
教材づくりに子どもを参画させるアイデア。

子どもは、自分の作ったものを見せるのが好きである。
そして、クイズも好きである。
この辺りの心理を汲んで、子どもが問題を作る。

『やる気スイッチ』で紹介している、カルタ作りもこの一つである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
最近やっているのは、国語の漢字クイズ。
子どもの係活動で、漢字クイズをよくやっている。
給食に関連して「秋刀魚」「鰊」「鯵」とかそういうやつである。
植物だと「向日葵」「芒」「蒲公英」とか、そういうのである、
朝の会も帰りの会も、担任そっちのけでクイズ三昧である。
(ちなみに一応答えは、ひまわり・すすき・たんぽぽ。)

これを例にして、漢字テストを作らせてみた。
十問の空白漢字テスト用紙を配る。
作ったものを随時印刷して、テスト。
ゲームみたいなものなので、答え合わせ含めて5分もかからない。

他には、算数のパズル作り。
中学受験で有名な「宮本算数」の算数パズルの問題をやっている。
その内、自分で真似して問題を作る子どもが出てくる。
それを印刷して、全員で取り組む。

時間に多少余裕がないとできないかもしれないが、こういう問題には楽しんで取り組む。
この、「子どもが問題を作る」という方法は、何かと汎用性がある。
学年末、少し余裕ができてきたら、おすすめの方法である。

2018年3月14日水曜日

「もっと眠らなくちゃ」

睡眠の大切さは、もうかなり広く世に認識されている。
Googleをはじめとした世界の超一流企業が昼寝を推奨しているのも有名である。

ここについて、
ケリー・マクゴ二ガル著 神崎朗子訳『スタンフォードの自分を変える教室』大和書房 より引用する。
============
(引用開始)
そんなとき、たいていの人は
「もっとしっかりしなくちゃ」と思うばかりで、
「もっと眠らなくちゃ」と思う人はほどんどいません。
(引用終了 ただし原文には改行はなし)
============

なぜまた誘惑に負けてだらだらしてしまったのか。
なぜやるべきことをやれなかったのか。
なぜ意志力を働かせてやれなかったのか。
よし、もっとがんばらなくちゃ。
そういう考えがよぎる時への、警告としての一文である。

これは、悪循環スパイラルである。
もともと、体調が万全でないのが、意志力が働かない原因かもしれないのである。
そのまま頑なに「頑張って」いるから、うまくいっていないのかもしれない。
やり方自体が悪いのである。

単に怠けてだらだらしているだけの人なら、多分悩んではいないし、そもそもこれを読んでいないと思うので除外する。
恐らく悩んでいるのは、毎日必死に一生懸命やっているのに、残業がなくならない人たちである。

そんな方に、一つ質問。
「きちんと眠っていますか。」

毎日6時間以上、できれば8時間ぐらいが理想であるという。
個人差はあると思うが、要は毎日元気で頭がすっきりするまで眠れているかどうかである。

バリバリ仕事をしてものすごい成果をあげる人の中には、眠らないで大丈夫な人もいる。
歴史に名を残すぐらいの成果を出す天才には、ショートスリーパーも多いという。
ただしそれは、才能の一部である。
前にも述べたが、多くの人が目指すべきはそこではない。

拙著『「捨てる」仕事術』にも書いたが、人生において何を得たいかである。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
仕事は人生の重要な一部として長期的に取り組むものであり、人生全般に影響する睡眠時間を削ってはいけない。
目の前の仕事をがんばる前に、一生懸命、眠る時間を確保する工夫が大切なのである。
それが仕事術であり、結果的に仕事で望む成果につながる。

考えてみて欲しい。
職場において、最も体力があって、長時間「頑張れる」のは誰か。
若い人である。
なぜか。
健康で体力があるから、である。
つまり、加齢と共に、この期間限定の能力は衰えていく。

毎日残業続きで、眠たい目をこすりながら「がんばっている若い人」は、報われるか。
答えは「No」である。
文句も言わずに無休の無給でいくらでも働いてくれるので、「便利」ではある。
そこで思う存分使われ、搾取される。
学校は異動も多いため、散々な扱いをしても、やがて「はい、さよなら」である。

従来型の縦社会ではその頑張り方でも報われたかもしれないが、今の時代の社会に適した働き方とはいえない。
(教員社会の変化は一般社会より大分遅れるので、もうしばらく従来型縦社会が続くかもしれないが。)
少なくとも、子どもにとっての理想的な社会人ロールモデルとはならない。
最悪の場合、「先生にだけはなりたくないなぁ」と思わせるかもしれない。

厄介な副作用として、「がんばってる自分に酔う」という場合も出る。
まだ若いのに、職場で妙にえらぶってしまう。
(その職場にいる期間が長い人ほど陥りやすいので注意。)
自分は人よりこの職場で「苦労」して「奉仕」しているのだから、当然という態度である。

そういう勘違いをしてしまうのも、がんばりすぎの副作用である。
自分とみんなのためには、さっさと帰ればいいのである。
またリーダーが「頑張り」すぎるのは、最も悪い。
これが時間外の会議や突然の打合せなどを引き起こす。
多くの若手の悩みの根本的な原因である。
(事前にふっておけばやれるのに、突然降ってわいたように思い出して時間外に今すぐやれというのは、マナー違反以前に法令違反である。)

話がややそれた。
少なくとも自分がきちんと休んで眠れている以上、絶望感も他者を責める気持ちも生まれない。
疲れが不安感や絶望感、やがては病気や対人関係恐怖を引き起こすのである。
何はともあれ、眠ることである。

しかし眠る時間が確保できない、仕事が終わらないという。
コツは、仕事の時間設定。
繰り返しになるが、パーキンソンの法則の第1法則は
「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」
である。

ガンバリズムが常識化して染み付いてしまっていると思う人は、仕事の仕方を根本的に見直してみる必要があるかもしれない。

2018年3月13日火曜日

誰にも傷がある

今回は教育から離れて、本を読んでの気付き。
たまには文学作品から。

次の一文である。
============
この大変な世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。
(森絵都『カラフル』文春文庫 より引用)
============
自分の都合ばかり考えていた主人公が、はたと悟る一節である。
この言葉が、心にぴたっときた。

世界で、自分だけが、ダメな気がすることはないだろうか。
私は教員の仕事をやっていて、絶望的に落ち込むことが結構ある。
(私を知っている人は「嘘つけ」と言うが、本当である。)

他の人なら、きっとうまくやったのだろうと思うことがある。
自分がやったからダメになったのだと思うことがある。
自分の能力のなさや性格、何もかもがダメに思えて、嫌になることがある。

後で冷静になって見つめてみると、一面事実で、一面嘘である。

月を見る時は、普通、光の当たっている部分を見る。
わざわざ陰を見ない。
まだ知識がない子どもは「形が変わった」と思っている。
実際、太陽光の当たり方が変わっているだけで、月自体に変わりはない。

光の当て方が大切なのである。
光の当たっている部分を見て楽しむことが大切なのである。
月の暗い部分をさして「見えない」と不満を言う人はいない。
自分自身を含めた人間相手だと、この変な行為が横行してしまうのである。

みんな、陰になっていて見えないだけで、たくさん傷がある。
見るからに大変そうに生きている人にも傷があるけど、そうは見えない人にも傷がある。
月だって、つるりとまん丸に見えて、表面はものすごい凸凹だらけである。
遠いからよく見えないだけである。

落ち込んでいる時は、自分以外の人も、悩んでいることを忘れている。
逆に、調子のいい時は、落ち込んでいる人の気持ちが、わからなくなっている。

子どもを相手にする時も、このことは忘れてはいけない。
子どもであっても、それぞれに傷を抱えているのである。
だから、朝の「おはよう」が元気に返せないことだってあるだろう。
(そう考えると、毎朝の健康観察は時間がかかるが意味があり、大切であると思える。)

みんな、傷がある。
お互い様である。
そう考えると、勇気も湧いてくる。
逆に、自分だけが悲劇のヒーロー、ヒロインを演じないようにしたい。

2018年3月12日月曜日

100%理解できているという誤解

大好きな作家である、中谷彰宏さんの言葉。

「自分は100%理解できていると思うことが、実は、コミュニケーションの拒絶になるんだ。」

この言葉が、刺さった。
なるほど、理解できていると思うと、色々な面で「固く」なる。

「わかってるってば!うるさいな!」というのは、中学生が親に放つ言葉の代表だろう。
実は、わかっていないのに、わかっていると思い込んでいることが、怒りの原因である。
自分ではわかっているつもりと思っていることをあまりに的確に指摘されたから、腹が立つ訳である。

学べるかどうかも、ここにかかっている。
誰かの話を聞いた時「それ、知ってる」という人は、もうそこから学べない。
100回聞いたことがある話でも「なるほど、そうなんだ」と思って新鮮に聞ける人が、学べる人である。

子どもに対しても適用できる。
教室の子どものことを、100%理解できていると思うと、そうでない行為に腹が立つ。
「信じられない」という気持ちになる。
実は、何もわかっていないと思えば、コミュニケーションが変わってくる。

安易に「わかっている」と思わないこと。
「わかるよ」と共感は示しても、本当にはわかっていないと自覚すること。

自分のことすらわからない自分に、他を100%理解することなど不可能だという自覚。
頭の片隅に常にもっておきたい。

2018年3月11日日曜日

誰かのためにやれることをやる

東日本大震災から7年である。

私も何度もお世話になっている『被災地に学ぶ会』は、3月20日にまた福島へ赴くという。
私は残念ながら今回参加きないが、今年も関わっていく予定である。

大きなことというのは、自分一人の力ではどうにもならない。
正直、被災地でボランティアさせていただいても、自分ができることは、たかが知れている。

ただ、「自分ががんばってもどうせ」という精神は、あらゆることへの後退を促す。
あらゆるマナー違反もこの類である。
選挙の投票率がふるわないのもそうである。
そして、最後には「自分なんかどうせ」という、自分自身の存在への諦めにもなる。

ボランティアをして、救われたという話はよく聞く。
動物愛護センターの職員の方なども、動物を救うつもりが、いつの間にか自分が救われていたという話も聞く。
教師の仕事でも、教えてあげているつもりが、教わっている。
子育ても同様である。

要するに、他の人のためにやれることをやると、望むと望まざるとに関わらず、自分の生き方に影響を及ぼすということである。
ボランティアは、やったことのない人にとっては、やる前の敷居が高い。
飛び込んでみるしかない。
そして、一度やってみれば「次も行こう」と思う人が多い。

支援の仕方は色々ある。
何か一つ、被災地に向けて自分にできる小さなアクションはないか。
この記事一つも、何かを思い起こすきっかけになれば幸いである。

2018年3月10日土曜日

学級開き準備で一年間の見通しをもつ

今月末、学級開きについて何度か話をさせていただく機会がある。
なぜ学級開きが大切か。
学級の悩みは、最初のつまずきが原因のことが多いからである。

5月辺りから、「なぜか」子どもが言うことをきかなくなる。
「なぜか」トラブルが増え始める。
しかしトラブルが多い理由は、単に運が悪いから、だけではない。
トラブルが起きやすい土壌を、最初に作ってしまったからである。

適切な学級開きの準備をすると、見通しがもてる。
そして、最初が肝心ということがよくわかる。
作物を育てる時を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。

作物を育てようとするならば、どの季節に何をすればいいか考える。
最高の収穫ができた状態から、逆算する。
芽が出た直後は弱いこと、虫や冷害のことも考える必要が出る。
そう考えると、まずは土づくりの段階が最も大切だとわかる。

大切なのは良い出来事への見通しであり、そこに向けたトラブルへの見通しである。
準備万端でスタートすれば「想定外」を減らせる。
「まさか鳥に食べられるとは」というのは、鳥がそれを食べる想定がないために起きる悲劇である。
いずれ鳥対策が必要という見通しがあれば、発芽の段階やら結実の段階やらで、それぞれ対策をとる。

今回の2つの学級開きセミナーでは、具体的に「何をするか」をもちろん伝える。
しかしそれ以上に、「何のためにそれをするのか」についても語りたい。
後者は100倍大切である。
拙著『「切り返し」の技術』が多く読まれているのは、この「何のため」までが明確にしてあるからだと思う。

例えば「廊下は○○になって移動」の○○に、なぜ敢えて忍者とゴキブリの両方を入れるのか。
なぜ学級開きの時期に話す必要があるのか。
いつでも廊下は静かにしなくてはいけないのか。
緊張と解放のバランスをどう考えるか。
こういったことも伝える予定である。

また、「何のため」が抜けると、単なる方法論に陥る。
そうすると、少しうまくいかない時に原因がわからなくなったり、継続性がなくなったりする。
ただ単に打ち上げ花火のように一見派手な学級開きをしても、ダメなのである。
過剰な演出はその後の「期待外れ」にもつながり、余計なマイナスも導きかねない。

例えば私は学級開きでは、大抵マジックをやる。
しかしそれは、あくまで興味付けであり、とりあえず話を聞いてもらうための導入でもある。
ねらいの本質は別にある。
本当に伝えたいメッセージを落とさないための一手段である。

キャラクターの問題も大切である。
自分のキャラクターを無視した方法を採用すると、余計に痛い目に遭う。
先の派手な花火の話と同様で、無理な自分を演じ続けることができないからである。
様々な人の学級開きの方法を知ることで、自分に近いものを見つけられるだろう。

学級開きには、学級において最も大切な「躾」の問題も含まれる。
集団として成り立つためのルールの定着はここにかかっている。
子どもが言うことをきかなくなるのは、担任だけでなく、みんなの不幸の始まり。
自ら進んでルールを作って従いたくなるクラスづくりには、スタートが肝心である。

もう、とにかく伝えたいことが山ほどある。
悲観的すぎる次年度の不安を打ち砕き、逆に非現実的なパラダイスのような夢も抱かない。
高い理想を抱いた上で、現実的に立ち向かうこと。
学級開きに必要なのは、具体的にできる方法と理論、哲学である。

年度末は、ほっとしたい時期である。
それはわかる。
ただ、少し早くスタートすれば、後が圧倒的に楽である。
人生においては、フライングは反則では決してなく、むしろ望む結果を得るための基本戦略である。

本を読むことでも、学級開きセミナーに申し込むことでもいい。
次年度、担任として学級をもつ予定のある方は、余裕のある3月から、次年度の準備開始をおすすめする。

☆第5回 学級づくりセミナー「学級開きスペシャル低中高」
講師:浅野英樹×飯村友和×松尾英明×千葉教育サークルスイッチオン
月日:3月24日(土)13:00~17:00
会場:船橋市中央公民館(JR船橋駅より徒歩7分)
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/index/505949/

☆第40回縁太会『教えます!「やる気スイッチ」ON!学級開き』
講師:飯村友和×松尾英明×縁太会
日時:3月31日(土)10:00~17:00
場所:戦災復興記念館4階第1会議室(JR仙台駅よりタクシーで5分)
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/index/502449//

2018年3月9日金曜日

白いものを白としておもしろく

社会科の歴史の授業。
私は、歴史人物かるたをよくやる。
「面白い!」
「もっとやりたい!」
という声が上がる。
これはこれでいい。

しかし、である。
かるた取りは、歴史の授業の本質ではない。
あくまで、興味をもたせるための導入の手段でしかない。

松下幸之助 が『物の見方考え方』(PHP文庫)という本の中で、次のように述べている。

「白いものを白としておもしろく読ますところに、新聞記者としての技能がある。」

白いものを黒としておもしろがらせるのはよろしくない。
当時の新聞記事の過剰な見出しやゴシップへの警笛である。

教師の本文は授業である。
そして、授業の本質は学力形成である。
松下氏の言葉を借りれば、

「教科を教科としておもしろく学ばせるところに、教師としての技能がある。」

といったところだろうか。

算数の授業なら、算数をおもしろく学ばせる。
論理的思考の楽しさである。
体育の授業なら、体育をおもしろく学ばせる。
身体を動かしながら思考を働かせ、技能を高めるという楽しさである。

しかし実際の授業では、「楽しさそのもの」や「活動そのもの」に目が行き過ぎているものが見受けられる。
「活動あって学びなし」とは、アクティブ・ラーニングを目指して行った授業に対して多くされる批判である。

「ペア活動をしたから、アクティブ・ラーニングです」とはならない。
交流すればいいというものではない。
交流によってどんな新たな学びが生み出されているかが大切なのである。

アクティブ・ラーニングといおうが主体的で対話的で深い学びといおうが、本質は学力形成である。

レクなどは、やるだけで楽しかった気がする。
授業中にかるたやゲームを取り入れたら、子どもは楽しかった気がする。
話が逸れてふざけて大笑いしたら、楽しかった気がする。
ただ、これは言うなれば本道ではない。
あくまで、補助的な役割である。

授業の本質は学力形成。
その時間に何の学力がついたのかが大切である。
それができればとりあえず授業としてはOK。
それがおもしろく学ばせられれば、なおよいという話である。
本質は外さないようにしたい。

2018年3月6日火曜日

やる気が浮かない環境をつくる

現在、サークルでやる気スイッチセミナーを企画している。
3月31日に仙台でもやるので、その1週間前の24日(土)に千葉県内でやる予定である。↓
http://kokucheese.com/event/index/505949/

そこで「やる気のあるクラスづくり」に関する話。

結論からいうと、環境が大切である。
やる気のない集団において、やる気のある人間は「空気の読めない寒いやつ」になる。
一方、やる気のある集団において、やる気のない人間は、やはり「寒いやつ」になる。
「みにくいアヒルの子」みたいな話である。

いずれにせよ、そこの水に合わない状態だと、浮く訳である。
多くの人が感じる、職場を異動した1年目の辛さの原因の1つがここである。
やる気が浮かないためにも、やる気があるのが普通という環境づくりが命である。

しかし、最初からやる気集団なら楽だが、普通はそうならない。
放っておくと、やる気集団にはならないことが多い。
むしろ(高学年だと特にだが)冷めていることが多い。
正確には、冷めている風にしないと、周りから浮いてしまうのが恐ろしいから、そういうふりをしているのである。
放っておけば男女が混ざることはないという話と共通する現象である。

では、どうするか。

リーダーである学級担任からの価値付け。
やる気のある人を優遇する。
ここからである。

種を育てる。
まずは核となる子どもを育てる。
そこから、だんだん増やしていけばよい。

これは、授業にもいえる。
やる気のある子どもたちをまずは伸ばすこと。
それにより、集団の平均を引っぱり上げること。

これは決して「できないで苦しんでいる子ども」を放っておいていいという訳ではない。
できないで苦しんでいる少数の子に注目すると、お互いにより苦しいというのが事実である。

むしろ、全体が上がっていく中で、自然に困っている人をフォローをしようという風土が育つという方がよい。
人間はどうせ、苦手分野があるのだから、フォローしたら今度は別の場で自分も助けてもらえばよい。
足の引っ張り合いではなく、お互い様の精神である。

具体的な行動としては、生活のあらゆる場面で、やる気のある子に注目し、認めていくことである。
誤解なきよう付け加えると、注目すべきはあくまで「やる気のある子ども」である。
これは「能力の高い子ども」という訳ではない。
間違いだらけで失敗が多くても、やる気はあるという子どもは存在する。
落ち着きがなくて叱られることも多いけれど、やる気はあるという子どもは存在する。
発言が苦手で黙っているのだけれど、やる気はあるという子どもは存在する。

つまり、学級担任が、何を認める(=見て留める)かである。
例えば「発言しない」=「やる気がない」という尺度だと、大量の取りこぼしを出す。
「ノートに書くのも立派な発言」とは野口芳宏先生の言だが、まさにこれである。
発言一つにも、多面的な見方をしてあげることで、認める場面は格段に増える。
固定観念で見ないことである。

特別支援が必要な子どもには、特に注意である。
本人には実はやる気があるのに、その表現の仕方が適切でないことがほとんどである。
実は、本気で取り組んでいるにもかかわらず、「ふざけている」というように見えてしまう。
仲間の誰かが課題ができた途端に「もうつまんねー!」と叫ぶ子どもがいたら、その本心は「自分もできるようになりたい!」「一番になりたい!」である。

だから、教師の知識のもつ意味は大きい。
教師の無知は、場合によっては罪である。

話がやや逸れた。
やる気のある集団をつくるには、環境をつくること。
それには一人でもやる気がある子どもを優先的に認めていくという、教師の働きかけが命。
そして、やる気を評価する物差しをたくさんもっていることで、認める機会が爆発的に増える。
それなくして、単に「やる気を出そう!」と呼びかけることは、無駄である。

大事な基本なのに、意外と見落としがちなところかと思い、書いてみた。

2018年3月5日月曜日

「全員達成」の落とし穴

「担任喜ばせ組」は危ないという話を何度か書いた。
(ちなみに仙台のお二人から学んだ用語である。今月、下記のセミナーで訪問させていただく。
http://kokucheese.com/event/index/502449/

ある種の力はつくのだが、最も大切な「自発性」や「自信(自身)」という部分が抜け落ちる。
一見良いと思える状態というのは、実は危険をはらんでいることが多い。
例えばいわゆる「良い子」は「大人にとって都合の良い子」であるというのは、周知の事実である。

この辺りに関連する話。

例えば、クラス全員達成。
みんなができる。
素晴らしいこと、に見える。
いや、素晴らいことだし、すごいことには間違いない。

しかし、である。
それを目指す時、指導者はどういう心構えになってしまうか、というのが、見過ごされがちで非常に重要な問題である。

集団というのは、大体2:6:2の法則が適用される。
上2割と同時に、下2割も出るということである。
ここに善悪や正誤はなく、そういうものである。
大人集団だろうが子ども集団だろうが、30人いたら50m走のタイムが全員一律にならないというだけの話である。
少数のかなり速い人とかなりゆっくりな人、多くの集団の平均値周辺の人が出るというのが自然である。

全員達成やみんなができることを目指す時、この2割が「ボトルネック」になる。
つまり、集団の中の誰かが指導者にとっての「壁」になってしまうのである。
この「壁」を爽やかに気持ちよく越えられるならば全く問題はない。
しかし乗り越えたいのに乗り越えられない時、その相手が指導者の「敵」と化す危険を含む。
いや、子どもにとって「壁」がにっくき「敵」となり、ひいては指導者が「敵」となる可能性の方がより恐ろしい。
つまり、全員達成を目指す代償として、指導者の心が荒れて、子どもの心が荒れるという落とし穴にはまる可能性がある。

「頑張れば乗り越えられる」という考えは、一面正しい。
ただし、本人が頑張りたいと思う時だけである。
本当は頑張りたくないし大の苦手で大嫌いなのに「集団圧力」と「大人の勝手な期待」で押し潰されそうになっていることもある。
例えば私自身は長縄が大好きだが、「あれだけは心底嫌だった」と振り返る子どもだって全国に存在することも知っている。
(だからこそ、かつて指導方法レポートを公開して配布した訳である。
全国の学級に良い記録を、という願いではなく、やるからには成長と成功を願って最低限の心構えと指導方法を示した。)

これはすべてのことに適用できる。
「善意の強制」は、個々の成長を心底願っているからこそ「善意」と呼べ、許される行為である。
決して指導者の見栄や実績、目標達成のために許されることではない。

つまり、学級担任にとって、全員達成や「○○大会優勝」などは「そうなったらなったでいいかも」ぐらいの方がいい。
部活動での優勝を目指す部員や、難関校合格を目指す塾生たちを指導する場合などとは、根本的に訳が違う。

学級は部活動やクラブチーム、塾と違い、同好の士の集団ではない。
たまたま、そこに居合わせた集団である。
趣味も志向も特技も人生で目指す方向もすべて違う。

学級づくりは、そのバラバラ加減をある程度保ちつつ、何とか望ましい方向に進んでいく仕事である。
だから、この集団においては「全員」を目指すことに意味はあるが、無理が生じやすい。
そういう自覚をもつことが大切である。

だからといって、指導が及び腰になってはいけない。
それだと、つけるべき力もつかない。

譲らないところは、譲らない。
頑張らせるところは、頑張らせる。
それが「私心」によるものではなく、メタ認知的な客観性をもっているならば、大丈夫である。

その「目指すもの」が苦手な子どもは、ただでさえ苦しんでいる。
「みんな」が当たり前にできるが故に、その苦しみはますます深い。
その上に指導者から「敵」のように見られては、もうトラウマレベルである。

指導者は、常に「できない」という子どもの苦しみに寄り添う心をもちたい。
その苦しみを救う解決方法が、必ずしも「できるようにさせる」だとは限らないということである。
「みんなができる」「全員達成」を目指す時には、心の片隅に置いておきたいことである。

2018年3月4日日曜日

逃げるもよし また歩けるように

2月末よりうっかり更新を忘れたため、不足分を補うまで連日更新する。

前号の続き。
学級をしていて、逃げたくなる辛い状態をどうするか。

結論から言うと、立ち向かおうとして真剣にがんばったなら、その後は逃げることがあってもいい。
ドラマで一躍有名になった「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉は、真理である。
がんばりすぎて死んでしまっては元も子もない。

むしろ、責任を感じてがんばっているなら、積極的に周りに助けを求めるべきである。
それが逆に、「責任をもつ」ということにもつながる。
責任者として素直に「周囲に助けを求める」という有効な手を打とうとしているからである。
時には周りに託し、休むことだってあるだろう。
あくまで、最初から責任を放棄しないということが大切というだけである。

周りに辛い状態の人がいたらどうするか。
その人は、明日の我が身である。
放っておいたら、同じ目に遭う。
たまたま、その役割を負ってくれているのだと考える。
だから何かしらの声をかけ、心をかける必要がある。

辛さを聞いてあげることが第一。
本人は、関わって欲しくないかもしれない。
しかし、関心を寄せていることを伝えることだけでもいい。
一声かけるだけでもいいのである。
実際、私もある子どもについて自分が悩んでいる時、前の担任の方に「私もそうでした」と言ってもらって、とても救われたことがある。
自分だけじゃないと思うこと、思わせることが大切である。

ちなみに、落ちている時はうまくいっている人の話を聞きにいかないほうがいい。
落ち込んでいる時の成功者の話は、余計に落ちる。
こういう時はセミナーに出たり本を読んで何とかするより先に、生活リズムの改善を優先する。
きちんと寝て起きて、栄養のあるものを食べて、できれば少し身体を動かす。
人間らしさの回復の方が先である。
(これは、子どもにとってもいえる。)

セミナーなどに行くのは、その後で元気になってからでいい。
セミナー参加を最も勧めるのは、大きな心配や不安もないけど、何となく宙ぶらりんでどうしていいかわからない人である。
今までの方法で何となくやってはいけているという人である。
エネルギー自体は余っているという人である。

逃げたくなったら、逃げていいから、まず周りに相談すること。
元気な人は、元気でない人に自分の時間を分けて、外に学んでレベルアップすること。

「歩」の字の如く、たとえ少し止まってもいいから、もう一度少しずつ前へ歩きだせることの方が大切である。

2018年3月3日土曜日

覚悟をもつ

全国各地で、なぜ学級づくりが成り立たない状態が起きるのか、そこにどうすればいいのかを考える。

教室内において、一番立場が上の人間は誰か。
「担任」と即答して欲しいのだが、ここをためらう人は結構いる。
「おこがましい」「偉そうな」「子どもが主役なのに」。
謙遜、卑下、意味の勘違いである。
ここが大きな問題であると考えている。

教室内で一番立場が上なのは、担任である。
大事な人間とか重要な人間、価値ある人間と言っている訳ではない。
「立場が上」の人間である。
その場で起きるすべての出来事について、責任を取る姿勢の人間である。
それが子どものはずがなく、当然、担任である。
(その上に管理職がいるという反論があるだろうが、それは教室より更に大きい「学校」単位の責任者である。
当然、担任の過失や責任は、管理職にも及ぶ。
しかし部門ごとの責任者は、その部の長である。)

例えば子どもが自分の授業中にケガをしたら、どんな理由があれど、授業者である担任の責任である。(あくまで「落ち度」ではなく「責任」である。)
反論はないだろう。
教室でいじめがあって問題が起きたら、どんな理由があれど、担任としての責任は免れない。
(誤解なきよう付け加えると、100%と言っている訳ではない。
主たる責任の所在の話である。)

子どもが慇懃無礼で態度が悪くて言うことをきかないのも、学力がついてなくてテストの点数が悪いのも、担任の責任である。
残念ながら、決して前の担任の責任ではないし、親の責任でもない。
そこでここは管理職のせいにしたいところだが、教室内に子どもがいる以上、やはり担任である。
そこは人に押しつけずに、自分で責任を取りにいくしかないということである。
(ただし、前年度までに無茶苦茶に荒れた学級をいきなり初任者や講師に押し付けるような行為は、管理職側の能力と責任を問われるところである。
そんな場合であっても担任として一旦引き受けたからには、無責任とはいかない。
そこには子どもがいるからである。)

ここの自覚ができていないと、子どもに責任を押し付けることになる。
「子どもが主役の教室」という言葉を「子どもに責任をとってもらう教室」と置き換えていないか。
子どもが主役であろうと自治を目指そうと、最も立場が上の責任者は担任である。
ここについては逃げない「覚悟」が必要である。

さて、ここまで書いたものの、そうはいっても、逃げたくなるのが現実だろう。
学級が組織として立ち行かない状態になってしまった教室で過ごす担任の精神的苦痛の大きさは、想像を絶する。
そんな時にどうすればいいか。
次号で考えていく。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング