社会科の歴史の授業。
私は、歴史人物かるたをよくやる。
「面白い!」
「もっとやりたい!」
という声が上がる。
これはこれでいい。
しかし、である。
かるた取りは、歴史の授業の本質ではない。
あくまで、興味をもたせるための導入の手段でしかない。
松下幸之助 が『物の見方考え方』(PHP文庫)という本の中で、次のように述べている。
「白いものを白としておもしろく読ますところに、新聞記者としての技能がある。」
白いものを黒としておもしろがらせるのはよろしくない。
当時の新聞記事の過剰な見出しやゴシップへの警笛である。
教師の本文は授業である。
そして、授業の本質は学力形成である。
松下氏の言葉を借りれば、
「教科を教科としておもしろく学ばせるところに、教師としての技能がある。」
といったところだろうか。
算数の授業なら、算数をおもしろく学ばせる。
論理的思考の楽しさである。
体育の授業なら、体育をおもしろく学ばせる。
身体を動かしながら思考を働かせ、技能を高めるという楽しさである。
しかし実際の授業では、「楽しさそのもの」や「活動そのもの」に目が行き過ぎているものが見受けられる。
「活動あって学びなし」とは、アクティブ・ラーニングを目指して行った授業に対して多くされる批判である。
「ペア活動をしたから、アクティブ・ラーニングです」とはならない。
交流すればいいというものではない。
交流によってどんな新たな学びが生み出されているかが大切なのである。
アクティブ・ラーニングといおうが主体的で対話的で深い学びといおうが、本質は学力形成である。
レクなどは、やるだけで楽しかった気がする。
授業中にかるたやゲームを取り入れたら、子どもは楽しかった気がする。
話が逸れてふざけて大笑いしたら、楽しかった気がする。
ただ、これは言うなれば本道ではない。
あくまで、補助的な役割である。
授業の本質は学力形成。
その時間に何の学力がついたのかが大切である。
それができればとりあえず授業としてはOK。
それがおもしろく学ばせられれば、なおよいという話である。
本質は外さないようにしたい。
2018年3月9日金曜日
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