2018年3月29日木曜日

教育手法の価値は相対的

サークルでの学び。

教育の手法には、様々なものがある。
その中の何かをやってみようという人に、次のような質問を受ける。
「〇〇という手法は、どうなのでしょうか。」

答え。
まず、やってみれば?

これしかない。
なぜなのか。

第一に、その手法に対する、教師と子どもそれぞれの相性である。
やってみないことには、合うか合わないかはわからない。
服や髪型と同じで、人によって似合う似合わないがある。

さらに、ねらいが何かである。
「リーダーシップを発揮したい」というねらいと、
「子ども主体のクラスを作りたい」というねらいでは、とる手段が異なる。

昼食を「ヘルシーなランチにしたい」のか、「がっつり食べて満腹になりたい」のかである。
それぞれに善悪と良否はなく、ねらいの違いである。

ちなみに、食べ物などは、何かにつけて「諸説有り」である。
一方で身体にいいと言われているものが、他方では最も悪いとされていることもある。
そして、どちらの説にも「真実」が含まれる。

なぜなのか。
ずばり、当たり前のことだが、人それぞれ体質が違うからである。
「人間」というカテゴリーでは、大きすぎる。
ある人にとっては相性最高のものが、ある人にとっては消化できないということはよくある。

そして、クラスというのは、教師と子どもの複合体である。
つまり、同じ教師がもっても、今年のクラスと、次年度のクラスは全く違う。
だから、今年うまくいった手法が、次年度全くダメということはよくある。

ではどうするか。
手段を変え続けるしかない。

子どもによっても変える。
ある子どもには丁寧に教えて、ある子どもは見守るだけにする。

調子によっても変える。
家庭で何かあって、子どもが落ち込んでいる時は、いつものことを流すこともある。

時期によっても変える。
学級開きの4~6月と終いの1~3月で同じ訳がない。
夏の涼風快適素材を、冬に着続けているようなものである。

つまり、特に若い時こそ、自分の引き出しの中身を増やすことが最優先である。
選択肢が多い方が圧倒的に有利である。

だから、まずは、やってみる。
その上で、今の状況に合うものを取捨選択をする。

教育の手法の価値に、絶対は存在しない。
常に相対的である。
悩むぐらいなら、やってみればいいというのが結論である。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング