今回は教育から離れて、本を読んでの気付き。
たまには文学作品から。
次の一文である。
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この大変な世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。
(森絵都『カラフル』文春文庫 より引用)
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自分の都合ばかり考えていた主人公が、はたと悟る一節である。
この言葉が、心にぴたっときた。
世界で、自分だけが、ダメな気がすることはないだろうか。
私は教員の仕事をやっていて、絶望的に落ち込むことが結構ある。
(私を知っている人は「嘘つけ」と言うが、本当である。)
他の人なら、きっとうまくやったのだろうと思うことがある。
自分がやったからダメになったのだと思うことがある。
自分の能力のなさや性格、何もかもがダメに思えて、嫌になることがある。
後で冷静になって見つめてみると、一面事実で、一面嘘である。
月を見る時は、普通、光の当たっている部分を見る。
わざわざ陰を見ない。
まだ知識がない子どもは「形が変わった」と思っている。
実際、太陽光の当たり方が変わっているだけで、月自体に変わりはない。
光の当て方が大切なのである。
光の当たっている部分を見て楽しむことが大切なのである。
月の暗い部分をさして「見えない」と不満を言う人はいない。
自分自身を含めた人間相手だと、この変な行為が横行してしまうのである。
みんな、陰になっていて見えないだけで、たくさん傷がある。
見るからに大変そうに生きている人にも傷があるけど、そうは見えない人にも傷がある。
月だって、つるりとまん丸に見えて、表面はものすごい凸凹だらけである。
遠いからよく見えないだけである。
落ち込んでいる時は、自分以外の人も、悩んでいることを忘れている。
逆に、調子のいい時は、落ち込んでいる人の気持ちが、わからなくなっている。
子どもを相手にする時も、このことは忘れてはいけない。
子どもであっても、それぞれに傷を抱えているのである。
だから、朝の「おはよう」が元気に返せないことだってあるだろう。
(そう考えると、毎朝の健康観察は時間がかかるが意味があり、大切であると思える。)
みんな、傷がある。
お互い様である。
そう考えると、勇気も湧いてくる。
逆に、自分だけが悲劇のヒーロー、ヒロインを演じないようにしたい。
2018年3月13日火曜日
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