ルールについての話の続き。
学校や学年での統一ルールについて。
堀裕嗣先生が言うように、中学校に統一ルールが多いのは、それが生徒の利益になるからである。
つまり、ルールがあるから自由になるという発想である。
小学生に比べ、中学生は格段に自由を求める気持ちが強くなる。
一方で、ルール無用の自由はただの無頼漢である。
だから、ルールという枠組みを、生徒の利益のためにきちんと設定する。
何度も使うが、サッカーのルールのたとえ話である。
手を使わないという一見不便なルールが、サッカーのプレーの自由と楽しさを生み出す。
コートという枠組みが、あらゆる戦術を生み出す。
暴力・暴言行為はファウルというルールが、プレーヤーに安全・安心を与え、自由なプレーを生み出す。
統一ルールは、集団に利益をもたらすために存在するのである。
いちいち決めていたら混乱して生徒に不利益をもたらすから、予め統一しておく。
そういう発想で校則等も決まっているはずである。
なぜなら、学校は児童・生徒のための機関だからである。
それが、間違った方向で「自由」にいくと、とんでもないことになる。
子どもの発想だけで突き進んだら、学校教育は成り立たない。
時間が無限にあれば話は別だが、残念ながら時間は有限だし、最低限の指導すべき内容も存在する。
(子どもが求めないからといってかけ算九九を教えない訳にはいかない。)
ルールがあるから、自由になる。
子ども中心のクラスを作りたい人こそ、大切にしたい発想である。
2018年3月18日日曜日
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