2018年6月29日金曜日

ルーティーンの中に自分を出せ

木更津技法研祝賀会での学び。

技法研のメンバーも、教育委員会や行政等の仕事に就くことがある。
そういう場合、御栄転ということで、集まってお祝いをする。
文科省や県庁、指導室長や指導主事、教育委員長、私立校長等、様々な経歴の方々の話が聞ける貴重な機会である。

この場は、ひたすら聞くことに徹した。
なぜなら完全な未見の地の話であり、コメントなどできようもない。
聞けば聞くほど、現場とはまるで違う仕事である。

例えば、文書の書き方一つとっても、厳密である。
学級や学年で出すお便りとは訳が違う。
字間や余白、フォント等まで、細かく形式がしっかりと定まっている。
同じ所属長の名前で出す以上、そこの表現に個性は必要ない。
同じ所属長の名前の文書で、それぞれの担当者の個性を出されると、矛盾が生じて訳がわからないことになる。

本質的に、行政という場は「保守」だという。
確かに、安定した政権の国はどこも保守である。
革命だらけでトップがどんどん交代して方向転換する国の国民は、安心して暮らせない。

では、行政職に「強烈な個性」は不要かという話が出た。
否。
強烈な個性+バランス。
これが大切だという。

強烈な個性だけで押されると、バランスを崩す。
他部署に迷惑がかかるのである。
ただでさえ保守な機関なのに、部分を大幅に変えられると、全体のバランスが取れないのである。

私見だが、ファッションに例えると、男性のスーツスタイルであると解釈した。
ここは、何十年もの超保守で、マイナーチェンジの繰り返しのみである。
そこに突然流行のハーフパンツを取り入れたいというような提案と解釈すれば、良くないことがわかる。

行政職といえば、スーツスタイル。
保守の姿勢がファッションあるいは「ユニフォーム」にも反映しているともとれる。
かといって現在のクールビズが本当にいいかどうかは、微妙なところである。
ネクタイをとったらもはやスーツではない気がするのは私だけだろうか。私も保守なのかもしれない。

閑話休題。

一方で、個性が全くなければ、何も変わらない。
誰がやっても同じということになる。
それではいつまで経っても、良くならない。
やはり、全体のバランスを取りながら、強烈な個性を発揮できる人材が必要だという。

確かに、今回お祝いした方々も、強烈すぎるほどの個性の持ち主である。
個性的な提案をしない人物が、重要なポジションに選出されることはない。
(ただし、向き不向きはある。)
実際、現場の時にも、言いたいことをずばっと言って現場の改革を推進している。
保守とは対照的な立ち位置である。

それぐらいの人が就いて、ちょうど良く変わるということだろう。
完全保守では時流に乗れず、現場が困る。
朝令暮改の改革だらけでもやはり困る。
バランスである。

曰く、
「ルーティーンの中にどれだけ自分を出せるか」。
ここにかかっているという。
これは、行政職だけでなく、現場教員、いや、家事を含めたあらゆるすべての仕事に言えることである。

ルーティーンに埋もれることも嘆くこともなく、そこに自分を出して生きていきたい。

2018年6月27日水曜日

ダメなことはダメと教えられる大人に

ある日曜日の、電車の中での気付き。

その日は、マナーの悪い子どもに何人か出くわした。
電車で通路を挟んで向かい合って、大声でしゃべり騒ぐ兄弟。
車内で騒ぎ駆け回る子ども。
座席の上に立ち上がって遊ぶ子ども。

親は何をしているか。
横で、にこにこと「可愛いね」という笑顔で見ている。

騒ぐ子どもを連れる大人の共通項を見出だした。
母親不在である。
日曜日で、気をきかせて父親あるいは祖父母が連れて歩いているのかもしれない。

多分、母親がいたら、大方は
「静かにしないさい」のピシャリで終わりである。
(それ以前に、座席の上に立ち上がったりしない。)

甘いのである。
父親は、接する時間が短い。
嫌われたくないのかもしれない。
だから、悪いことやマナー違反を、叱らない。

じじばばに至っては、ここに輪をかけてひどい。
「孫を見る温かい目」である。

しかし、車内は、家じゃない。
車内は社会である。
周りの人と形成されている社会である。

ルールは、場にある。
人にはない。
場がルールを規定する。
社会において、個人の教育方針は、優先順位が低いのである。
(だから、電車への「遅刻」は認められない。
さようなら、次の電車をご利用ください、である。)

いい顔をするのは楽である。
甘やかせば、子どもは「パパ、大好き!」となる。
モノを存分に買ってやれば「じじばば、大好き!」となる。
この割を食うのは、母親である。

子どもの「大好き!」に惑わされてはいけない。
それは、「組み易し」という意味の可能性がある。
要は、普段接する厳しい母親と違って「チョロい」のである。

しかしである。
厳しさと本当の大好きは、両立する。
ジャイ○ンと母ちゃんの関係である。
クラス一の悪ガキをしつける母ちゃんは、誰よりも大変である。

子どものマナー違反は、ほぼ100%その場に一緒にいる大人の責任である。
普段の学校なら、教師である。
休日なら、親である。
習い事なら、そこのコーチである。

ダメなことはダメと教えられる大人。
誰にでもそう言われる、という認識が大切である。
人を見て態度を変える子どもを育てているのは、周りの甘い大人である。

2018年6月25日月曜日

一人残らず「ひいき」せよ。

今度の公開研&セミナー講師の、赤坂真二先生の次の著書からの言葉。

『最高の学級づくり パーフェクトガイド 指導力のある教師が知っていること』明治図書 
https://www.amazon.co.jp/dp/4181695158

一人残らず「ひいき」せよ。

赤坂先生が師と仰ぐ、橋本定男先生のお言葉だという。

「ひいき」はいけないというのが一般的な解釈である。
しかし、クラスの一人残らず、誰に対してもこの「ひいき」ができたら、それは最高の学級経営なのである。

商売でも何でも、成功しているところは「自分だけは特別」だと思わせるのがうまい。
広告等のキャッチコピーもよくこれを使う。
「あなただけ」「特別」。

広告の場合は、モノを売るという使命があるので、また話は別なのだが、心理的作用は同じである。

学級の子どもの一人ずつを「ひいき」するには、一人ずつをきちんと見ていないとできない。
ざっくりはやれない。
表面的なのは、すぐばれる。
本心から「あなたは特別」と思って伝えないといけない。

親は、これができる。
できるというより、自然にそうなる。
学級の中でも、我が子は特別の「ひいき」に決まっている。
そうでないと困る。

担任がこれをやるのは、容易ではない。
私は実習生時代に担当の先生に
「その子どもと何でつながるのか。」
「子ども一人一人を見るというのは、言うのは簡単だがとても難しい」
ということを教えていただいた。

これと同じなのだと思う。
何で「ひいき」できるか。
子どもは、何を見て「先生は私のことだけを見てくれている」と感じるか。
それは、その子どもの「特別」を掘り出し、洗い出す仕事である。

リーダーは、放っておいても「ひいき」しやすい。
例えば、応援団長には、特別に厳しくなる。
40人から立候補したリーダーに対しては、40倍厳しい。
何百人集まる場でリーダーをつとめさせるなら、甘やかす訳にはいかない。
そして、他の誰よりも労い、声をかけ、認められる。
感謝もできる。
全てにおいて、特別扱いの「ひいき」である。

また一方で「やんちゃ坊主」も、意識しないとむしろ「ひいき」しすぎる。
拙著『切り返しの技術』にも書いたが、叱っているつもりが周りには
「先生のお気に入り」
と認識される可能性がある。

どちらかというと気にかけるべきは、特別なことをしない子どもの方である。
ここをいかに「ひいき」するか。
当たり前なようで流れがちだけど立派なところを、見て留める(認める)ことができるか。
ここの方に、学級経営の肝がある。

特別に目立たない8割以上の子どもこそが、正常な機能を有する学級を支えているのである。

「あの子」をいかに「ひいき」するか。
一辺に全員にはできない。
日々、関わりを意識して過ごしたい。

2018年6月23日土曜日

ルールと自由

前号の続き。
学校は、ルールの中での自由を学ぶ場であるというスタンスで考える。

例えばクラス会議では、自治的集団を目指す。
アドラー心理学でいう「共同体感覚」を身に付けることが目的となる。

これには、ルールが伴う。
全員に確実に話す順番が平等に回ってくる。
発言中は聞く。
暴言や発言中の横槍といった横暴は許されない。
だから、安心して発言できるのである。

ただし。
実際の社会がこうであるかというと、話はまた別である。
会議の最中におしゃべりや居眠り、暴言やヤジ。
(国会ですらしばしば問題になる。アピールを兼ねた計画的な行為でもある。)

つまり、本番は、もっときつい。
そこに慣らしていくという意味でも、いつまでも型通りではいけない。
守破離の守をきちんとやったら、段階的に崩していく必要はある。
そう考えると、クラス会議も、生き物である。

ルールというのは、自由になるためにある。
だから、初期段階では、ルールを外さない。
自由な学びを保証したいからこそ、まずはルールをつくる。

学校をはじめとする社会における自由は、タダではない。
無人島の自由とは違う。
先人の血のにじむ努力によって獲得されたものである。
選挙の自由も当たり前のものではないし、学校で学べることも働けることも当たり前ではない。

安全に生きる自由を与えられているのだから、ルールを守る義務がある。
ゲームだったら悪質なルール違反やその繰り返しは最終的に「退場」の処分である。

学校や家庭では、処分をしない代わりに、叱る。
時に怒る。
そして、ほぼ100%許す。
社会に出る前段階の練習の場だからである。
許されることに甘えさせてはいけない。
許されなくなる本番は、目の前だと思って教育に当たる。

自由なクラスを作りたいと熱い思いをもつ若者に向けて、その実現のためにもそこはきちんと伝えておきたい。

2018年6月19日火曜日

不自由な中で自由を学ぶ空間

学校と自由と学びについて。

今の学校に求められるもの。
主体的・対話的で深い学び。

このフレーズから、どんな単語を連想するか。
○○な学び、という感じで、何が当てはまるか。

その中の一つにおそらく「自由」が挙げられる。

主体的とか深いとかは、特にこの単語を連想しやすい。
しかし、学習の場合に当てはまる「自由」は、いつもの生活で用いている「自由」とはちょっと訳が違う。

ところで、我々が最も「自由」を謳歌できるのはどこか。
または、いつか。

単純に考えて、「家」での「休日」である。
(人によっては、家よりも別の場所の方が自由かもしれないが。)

つまり、そういうことである。
家にいる方が、「自由」の学習はできる。
極論、学校に行かないという選択肢が一番「自由」である。
社会人の場合、「学校」が「会社」になるだけである。

では、学校とは何の場所なのか。
師の野口芳宏先生は
「教育とは、そのままにしておかないこと」
と仰っている。
「善意の強制、価値ある強制」
とも仰っている。

つまりは、自然そのままでは、不都合が生じるということ。
荒れ放題の庭と同じである。
庭が野生化したら、庭としての役割を果たせなくなる。
庭とジャングルは、違うのである。
人間らしい暮らしという望ましい状態をイメージしての、手入れが必要なのである。

誤解を恐れずに言うと、学校という場所は、学問を身につける他に
「不自由を学ぶ場所」でもある。
家なら叱られないことが、学校では叱られる。
寝転がってお菓子を食べながら授業を受けることは許されない。
(いや、これは家でも叱られるかもしれないが。
少なくとも、自分の部屋なら無法地帯である。)

なぜ不自由など学ばせないといけないのか。
それは、社会が、完全な自由空間ではないからである。
文化的な空間だからである。

文化的空間には、それぞれの規律がある。
それを学ばずに社会に出ると、不都合が生じる。
規律を知らずに外に出ると、本人にも周りにも危険だし迷惑である。
アメリカで車を運転する際には、日本と逆の右車線を走るというようなものである。
場ごとの交通ルールは、一つの文化である。

結論。
学校は、本質的に不自由な中で学ぶ場である。
不自由な中で自由を学ぶ空間である。
(各種習い事の空間も同様である。)

サッカーやテニスのコート同様、決められた枠の中でこその自由という話である。
枠をきちんと示せば、プレーヤーはその中で自由に動ける。
枠がわからないのが、一番困るのである。
ルールがないのが、一番恐ろしいのである。
(いつ殴られるかわかったものではない。)

言葉を表面的に捉えない、踊らされない。
主体的・対話的で深い学びのねらいの、本質を外さないようにしたい。

2018年6月17日日曜日

やる気スイッチを入れる極意

前号で日誌を例に、日誌や継続することの大切さを書いた。

しかし、あれだけ実績を知っていても、大抵の人は、やらない。
大谷選手がやっていると知り、効果てきめんとわかっても、まず、やらない。

なぜなのか。

答えは、
「やる気が出ないから」
である。

正確に表現すると
「最初の1歩目が出ないから」
である。

やる気スイッチが入らないのである。
そこで、先日「中谷塾」での中谷彰宏先生から学んだ言葉を紹介する。

「やる気は、5分後にやってくる。」

この言葉が、実はやる気スイッチを入れる「極意」である。
私も飯村友和先生との共著
『やる気スイッチ押してみよう!』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
の中で、学校における教師と子どものやる気スイッチを入れるための様々なアプローチを紹介した。

どの手法であれ、突き詰めるとどれも「とりあえず、やる」が全てである。
本を読んで「やってみよう!」と思ったことを最速でやってみることである。
「感動は生もの」なので、始める時は早ければ早いほどいい。

日誌だったら、気合いを入れないで、とりあえず5文字書いてみることである。
5文字書けば、もう少し書きたくなってしまう。
結果的に、書き続けている自分に気付くはずである。

ここがわかると、やる気スイッチを「入れない」ための方法もわかる。
「うまくいかない・できない理由をあれこれ考える」である。
最たるものは「時期」や「年齢」に関する言い訳である。
「まだ若すぎる」「もう年を取りすぎている」の両極である。
極論、「ちょうどいい時期」というのは、人生において「今」この瞬間以外に存在しない。

そういえば中谷先生がある本の中で
「本を最後まで読んでるようでは、情熱が足りない」
というようなことを書いていたのを思いだした。
「これ読んでる最中に今すぐ本を放り出して動け」
ということである。

それぐらい、行動がすべてということ。
やる気がしないでも、やる。

それには、師の野口先生の提唱する「他律的自律」が効果的である。
何かに属し、やらざるを得ない状況に自分を追い込む。

サークルに入るのもいい。
セミナーに参加するのもいい。

とにかく、人が集まる場に出向くことである。
そうすれば、必ず何かがかわる。

行く前は面倒になる。
「〇〇ブルー」は、変化に際する時には必ず起こる。
その変化が、どんなに素晴らしいことでも起きる。
飲み会すら面倒になる。
でも、よほどの「人でなし」でない限り、他人と約束したからには、行くはずである。

やる気は、5分後にやってくる。
だから、とりあえず他人を巻き込んでやらざるを得ない状況に、自分を追い込む。

当たり前のようで、意外と軽視されている。やる気スイッチを入れるための極意である。

という訳で、千葉大附属小の公開研と、赤坂真二先生のセミナーのご案内。
◎第51回千葉大附属小公開研究会 7月6日(金)7日(土)開催
↓ご案内&申し込みフォーム 
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

◎7月8日(日)10:00~16:00 会場:JR市川駅前ホテルを予定
 「最高の学級づくり パーフェクトセミナー」講師:赤坂真二先生
https://www.kokuchpro.com/event/07116f254ad2ad5e2d7fef184f3c9458/

やる気が出なくても動けない理由があってもいいので、まずは申し込むという1アクションをおすすめする。

2018年6月16日土曜日

書くことを継続する

最近SNS上などで、大谷翔平選手の高校時代の日誌や、曼荼羅目標シート等が話題になっている。
本メルマガの長い読者ならご存知かと思うが、大谷選手が用いているのは、原田隆史先生の目標達成プログラムである。
私も「東京教師塾」で学んだ手法であり、在塾中に曼荼羅の手法も教えていただいた。
実際、大谷選手が教師塾の「聴講生」として会場に来て一緒に学んだこともある。
ちなみに、夜中の7時から2時のことである。
プロ野球選手として忙しい中、あんな時間にわざわざ来て学ぼうというのが普通ではない。

塾の中では、実際の例として他の方が書かれた目標達成シートやルーティーン表が配られる。
原田先生の教え子の日本一になった中学生のものだったり、企業の方のものだったりする。
それを見ると、どれもとにかく書いてある量が半端ではない。
シート内にびっしりと書き込まれている。
しかも、どれも具体的である。

正直、最初は見るだけで「これはできないかも・・・」とひるむ。
実際書いてみると、やっぱり大変である。
書けない。

なぜか。
自分の中で、考えがはっきりしていないからである。
目標もぼんやりしているし、やるべきこともぼんやりしている。
だから、ぼんやり生きてしまうし、何も達成できないまま時間が過ぎ去るのである。

これが、日誌を「書くこと」の有用性である。
自分の考えが明確になる。
「考え」は「意識」するまで、存在しない。
あれども見えずの状態である。

さらに、塾では作ったものを発表しないといけない。
印刷されて、塾生全員に配られる。
周りも、夜中の2時まで学習しようという気合いの入った人達である。
そうなると、半端なものは書けない。

やっとできても、自分の文章を読み返すことになる。
それも、何度も何度も読み返して修正をかけて、磨き上げることになる。
そうこうしている内に、目標も自分のするべきことも潜在意識にも刷り込まれる。

書いて発表するという行為の効能である。
あらゆる学習会において、実践レポート等を大切にするのも、こういうことからである。

また「日誌」となると、毎日書かないといけない。
さぼっても正直わからないかもしれないが、それでは何のために夜中に東京まで行って学んでいるかわからない。
だから、多少しんどくても毎日書くことになる。

書く行為には、力が宿る。
そしてどんなことでも、継続が力になる。
継続を助けてくれるのは、他者の目である。
野口芳宏先生の言葉でいえば、属すことによる「他律的自律」である。

時に自分のあらゆる行為が「無駄かな」と思いくじけそうになることがあるので、書いてみた。

2018年6月15日金曜日

「質問できる」はいいことか

「叱る」とはどういうことか、「信じる」とはどういうことか。
こういったことについて、ここ数回書いてきた。

言葉の意味というのは、よくよく考えて用いなければならない。
安易に使うと、誤解を生みやすい。

何度も書いたが「叱る」と「褒める」というそれぞれの言葉自体に善悪はない。
誰がどの文脈で用いるかが大切なのである。

誤解されがちなものの一つに「質問」がある。
「質問するのはいいことだ」という風潮がある。
しかし、実際には、やたらな質問をするのは、よくない場合も結構多い。

体育主任をする若い方などからよく聞く話だが、運動会練習期間などで
「〇〇はどうするんでしたっけ?」
とやたらにきいてくる人がいるという。
「提案文書よく読んで」と言い返したくなるだろうが、何かと協力してもらう手前、言えない。
質問者側には、「主担当者なんだから完璧に把握しているはず」という前提がある。
それはその通りなのだが、異動したての時などで、見えていないことも多いと、何かと大変である。

本当は、質問する前に自分で調べて確認すべきことである。
自分の頭で考える方が先である。
その上で、確認の意味も兼ねて
「〇〇は△△ということでよろしいですね?」
と尋ねるべきところである。

類似したことは、教頭や教務主任等、忙しい人に対してこそやってしまいがちなので要注意である。
基本的に何でも把握しているので、つい頼りがちになるが、忙しい人にはちょっと調べればわかる無駄な質問をすべきではない。

これは、子どもの指導にもいえる。
「質問があります」とたずねる能力自体は、コミュニケーション能力としてはいい。
しかし、本来は、たずねないでも自分でわかる方がよりいいのである。
「聞いてない」「読んでない」「考えていない」という「ないない」だらけの質問は、良くないということを伝える。

低学年だから聞けなくても仕方無い、という考えもある。
しかし、実際は、幼稚園児でもきちんと話を聞けるのである。
そこを甘やかす必要はない。
(幼稚園や保育園の先生方は、一年生の小学校におけるあらゆる甘やかされっぷりに、ため息をついていることが結構多い。
 卒園させた側からすれば、手塩にかけて鍛え上げた能力のある子どもたちなのである。
 小さくて見た目がかわいいからといって、なめてはいけない。)

このあたり、低学年でしつけておかないと、高学年に「聞く力」が足りないまま育つ可能性がある。
高学年や思春期の指導の困難さは「きかない」「聞けない」ことに多く起因する。
学力の根本は聞く力なのである。
低学年で緩くしたことが、結局、「低学力&話を聞かない」ということにつながる。
学力面も情緒面も育たないとなれば、子どもが不幸である。
(体育でもいえる。幼児期~中学年までのゴールデンエイジには運動神経系を鍛えておかないと、後では取り返しがつかない。)

「クラス会議」等の「話し合い」をする場では、ここが顕著に出る。
35人の学級なら、平均して「話す時間:聞く時間=1:34」である。
つまり、その時間の97%ぐらいは、聞いている状況である。
聞く力の方をはるかに多く使う。
その上で、短い時間で効果的に話して伝える力が要求される訳である。
つまり、「話し合い」とはいうが、実は「聞き合い」という方が適切なぐらいである。

また、ここは大切なポイントだが、本人の努力の問題とは別に、聞けない子どもも存在し得る。
ここに対しては、特別な配慮がいる。

肢体不自由で車椅子に乗っている子どもに、みんなと同じように走れと無茶を言う人はいない。
しかし、色盲の子どもに色を見分けろという無茶を言っている可能性はある。

何が違うかというと、外から見てわかるかどうかの差である。
視覚・聴覚など、脳の内部の情報処理の困難については、特別な知識がある人には見えるのだが、そうでないと見えない。
「気になる子」は、対応を間違えると、二次障害を引き起こす。
単純に見てわからない困難さは、指導者側が配慮するしかない。
そういう可能性も常に頭の隅におきつつ、指導することが肝要である。

話が広がったが、「質問できる」がいいかどうかは、単純に言えないという話である。
どんな言葉や事柄も、それ自体がいいか悪いかでなく、文脈で考えるようにしたい。

2018年6月14日木曜日

「信じているよ」と「裏切られる」は、パッケージ

拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』が、好評につきまた増刷された。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
教育に携わる多くの方の手に渡り、何かしらの手助けができるかもしれないということは、この上ない喜びである。

この本の中で紹介している切り返しの一つに、「信じているよ。」というものがある。
自分の教育観の柱に当たる部分にある、根本的な切り返しである。
どんな子ども相手でも、何をされても、教員にとって子どもを信じる以外に生きる道はないと思っている。

さて、こんなに言っても
「でも、うちのクラスの子どもは、本当にひどいんです!何度言っても、裏切るんです!」
という悲痛な叫び声が上がるのは、心からわかる。
真面目な人ほど、ここに悩む。
(真面目でないなら、そもそも面倒で手のかかる子どもを相手に悩まないし、担任もしない。)

根本的な間違いの認識が
「信じる」=「相手は裏切らない」
という図式である。

これは、ほとんどの場合、誤りである。
なぜなら、
「信じる」の主語は自分であり、
「裏切る」の主語は相手だからである。

そもそも「裏切る」以前に、子ども側からすれば
「約束した覚えもない」
ということがほとんどである。
勝手に、一方的に、100%自分主体で、子どもを「信じている」だけである。
(類義語に「言ったでしょ!」がある。うん。言ったには、言ったと思う。こっちは聞いてないけど、である。)

あらゆる人間関係も、この誤りパターンが当てはまる。
わかりやすく、恋愛関係を例に説明する。

自分が好きになった相手が、全然自分を相手にしてくれないとする。
何度どんなに好意的な態度で喜びそうなことをしてあげても、「けんもほろろ」な反応である。
しかし、それでもがんばる。
それは、いつか相手が振り向いてくれると「信じている」からである。

ここで、間違える人は、相手を恨み出す。
「こんなに自分がしてやっているのに、なぜ振り向かないんだ」
「何て性格が悪いやつなんだ」
「人間としてダメなやつだ」
そう、こんなに自分が「信じてやってる」「一生懸命」なのに、である。

これが、いかに「ヤバいやつ」かは、説明する必要はあるまい。
まあ、このままいくと、ストーカー等の犯罪行為に走るのは必至である。

相手が振り向くかどうかは、相手に100%の選択権がある。
いわずもがなの当然すぎる前提だが、「恋は盲目」で、一生懸命、必死なほど、ここを見誤る。
本来は、「やり方を変える」とか「距離の取り方を変える」とか、色々手法を工夫すべきところである。

繰り返す子どもの不適切な言動も、これと同じである。
信じるかどうかは教師に100%選択権があるが、変わるかどうかは、100%子どもに選択権がある。
信じるが、やり方は少しずつ変えないと、同じ結果が出るのは目に見えているのである。

だから「信じている」けど、「また裏切られるかもね」という言葉も含みおきである。
そこすら「お約束」である。
「信じる」と「裏切られる」は、表裏一体、パッケージなのである。

「信じているよ」といいながら、当然裏切られる覚悟をもち、ほんの少し「次は変わるかも」と期待する。
その確立は、標準で1%以下である。
100回言えたら、1回チャンスタイムが来るかもしれない。

ほとんどはずれの、当たりくじ付きお菓子のようなものである。
標準で「銀のエンゼル」、大物相手は「金のエンゼル」レベルである。
それでも、開ける瞬間は「今度こそ当たりかも!?」と思って、どきどきする。
それぐらいの確立だと思って、大らかに構えることが大切である。

色々書いた。
こういう、哲学的なというか、「観」の部分にも力を入れて書いた本である。
ピンチがチャンスになるぐらいの真の切り返しワードを手に入れたいなら、そういう部分をこそ、読んでいただきたい。

2018年6月10日日曜日

「荒れ」は合理的

休日らしく、家での生活に関わる話から。
仲間との会話からの気付き。

私の仲間の一人(男性)が、
「家事をどんなにやっても妻にほめられない。」
とぼやいた。
さらに
「結構上手くやってると思うんだけれど。」
とも言っていた。

なるほど、それは当然気付かない。
人間は、当たり前のことに感謝しないからである。
空気があることはもちろん、電気や水道の水が無限のように使用できることに感謝しないのと同様である。
もっというと、当たり前のように上手にできればできるほど、注目されない。

この私の仲間の例でいうと、家事を上手にこなしすぎなのである。
一方でもし、しょっちゅう料理を焦がしたり、洗濯を忘れていたり、言われないと全然掃除をしなかったりという人だったとする。
そんな人が、たまにまともに上手にやっていたり、自分からすすんでやっていたりしたら、きっとこう言われる。
「すごいじゃん!」「ありがとう!」

要は、そういうことである。
人間は、当たり前に上手にやってくれていることに対して、価値を感じないのである。

一年生にお手伝いに来てくれる高学年の子どもを見ていると、これがわかる。
一年生の教室には、6年生と、私が4年生で担任していた現5年生がお手伝いに来てくれる。
去年自分が見ていた時には、当時の4年生に「もっともっと!」ばかりだった。

これが、一年生を相手にしていると、脅威的にすごい姿に見える。
全部自分たちで考えてやってくれるのである。
しかも、一年生が自分でやれそうことは、なるべく手を出さない。
もう、恐れ入るすごさである。

去年は、ここに全く気付かなかった。
まさに「這えば立て、立てば歩めの親心」である。
当たり前のように上手にできているが故に、その素晴らしさへの感動も感謝も足りなくなっていた。
反省しきりである。

学級には「手のかからない」子どもがいる。
何度も言っているが、ここが一番配慮すべき子どもである。
何かとトラブルが目立つ子どもや、技能等で飛び抜けたものをもつ子どもには、嫌でも目が向く。
しかし、実際に学級を支えてくれているのは、この「手のかからない」多くをきちんとやれる目立たない子どもである。
「当たり前」を当たり前にやってくれる子どもが全体の過半数を占めているからこそ、成り立つのである。
意識的に「見て留める」=「認める」必要がある。

家事の得意な仲間の話に戻るが、彼はこのままでは妻に感謝されないと思う。
アドバイスとしては
「適当にさぼってみれば?」
となる。
家の中が荒れてくれば、嫌でもやってくれていたことに気付く。

ここに「手のかからない」子どもが気付いた場合、様々な「荒れ」という形のサインで出してくる。
要は、「荒れ」とは、「認めてもらえない」という不満を相手に伝えるための表現である。
こう考えると、様々な「非行」も「合理的」といえる。
「荒れ」は合理的なのである。

「荒れ」は、不登校や学力低下という形で表出する場合もある。
本人にも無自覚で無意識なのが難しいところである。

根本的な治療薬は、相手の存在自体を「認める」「感謝する」しかない。
そして、治療は、予防の十倍から百倍の労力がいることを覚悟すべきである。

結論、普段からの当たり前を見直し、「認める」「感謝する」という行為は、双方にとって良い結果を招く。
子どもだけでなく、家族や同僚など、つい後回しにしがちな身近な人にこそ意識的に伝えるようにしたい。

2018年6月8日金曜日

こどもの日とメディア

こどもの日にメルマガ上で書いた記事。

健やかな成長を願って、子どもの子ども時代には、良い情報に多くふれさせたい。

ところでテレビやSNSのニュースを見ると、トップから相変わらず悪いことの記事が溢れている。
凄惨な殺人事件とか、愛憎関係とか、正直、知る必要のない情報が多すぎる。
(メディアが世に登場して以来の普遍的で不変のことではある。)

特に、政治家や芸能人といった有名人へのバッシング量は半端ではない。
有名なのだから、(一方的に)知っている人も多いし、量的な面では当然ではある。
普段「いいね!」が多い分、ひっくり返って「最悪だね!」も多くつく。

ただ、他人をバッシングをして騒ぐ人は、大抵暇である。
自分のすべきことに集中していない。
他人を攻撃する人は、自身が幸せから遠い。
自分勝手な要望を伝えるだけの「悪質なクレーム電話」の大半は、働いていない高齢者からだそうである。
(逆に、高齢者が無理に働かないといけない世の中を良いとも思っていない。)
バリバリ夢中で働いている最中の人には、余計なことをしている暇はない。

またモラル・ライセンシング効果もあって、
 「こんなに悪い奴をこてんぱんにやっつけてる自分」
=「自分は少し悪いことをしてもOK!」
という心の免罪符にもなり得る。

マザー・テレサやガンジーが騒ぐとは思えない。
人生の使命に従って生きている人には、毎日のやるべきことが多すぎる。
だから多分、こういうことには、静観しているはずである。
コメントや見解を求められたら、適当に答えるのではないかと思う。

騒がないまでも記事を楽しむ人が多いというのは、自分に不満がある人が多い可能性が高い。
自分にもっていないものをもっている人が、それを失う姿には、溜飲が下がる思いがするだろう。

総じて、子どもへの情報としては、無駄というより害悪ばかりである。
なくなればいいのにと思うが、多くのニーズがあるのだから仕方無い。
ホラー映画や暴力・殺戮系の映画と同じで、恐怖や暴力といった「負」にはかなりのニーズがある。

ユニセフの「子どもの権利条約」第17条、「適切な情報の入手について」の条文から引用する。
===================
(引用開始)
a 児童にとって社会面及び文化面において有益であり、
かつ、第29条の精神に沿う情報及び資料を大衆媒体(マス・メディア)が普及させるよう奨励する。
(中略)
d 第13条及び次条の規定に留意して、
児童の福祉に有害な情報及び資料から児童を保護するための適当な指針を発展させることを奨励する。
(引用終了 ただし記事の読みやすさを考え、一部を松尾が改行。)
===================

この条文に反して、現在の世界は明らかに子どもにとって有害な情報だらけである。
社会はキレイゴトだけではないのだから、「子どもを一切の悪から遠ざけろ」とはいわない。
ただ基本的に触れる情報を、子どもにとっての福祉で考えるべきである。
「世の中の大人は汚い奴らばかりだ」という考えを植え付けることが、子どもの福祉につながるとは思えない。

どうするか。
まずは、メディアの情報に無防備にさらさないことである。
インターネットが自由に閲覧できる環境は、子どもにとって害悪の方が多いことに対して、真剣な認識が必要である。

ここに対しすぐ「時代遅れな考え」ということを挙げる著名人も結構いる。
しかし、そういった著名人が、子どもの教育や学校教育に関する専門家とは限らない。
子どもには「発達段階」があるという認識が足りない可能性がある。
便利さと危うさは紙一重である。

便利だからと、子どもに無免許で車を運転させるようなものである。
ここは一定の保護下に置く必要がある。
ここに関しては、子どもが生きる社会の基本単位である、家庭や学級で気を付けていくしかない。

メディアの情報に無防備に浸かっていれば、皮肉屋になる。
変な風に大人びて、愛されない子どもになってしまうのは、社会の影響とはいえ、結局家庭と学校の教育の責任である。

こどもの日とは、
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
日である。

母への感謝は、あらゆる他者への感謝の基礎にもなる。
家庭をはじめとする社会の適切な環境づくりがあってこそ、子どもの幸福があることを忘れないようにしたい。

2018年6月6日水曜日

「連続バラバラ発言事件」を防ぐ

実際に一年生にした話。

一年生は、元気がいい。
当たり前である。

言ってもすぐ忘れる。
これも、当たり前である。

何なら、あんまり聞いていない。
これも、当たり前である。

そして、自己中心的である。
これも、当たり前である。

これらのことをトータルして自然にしておくと、何が起きるか。
「連続バラバラ発言事件」である。

話の途中で、どんどん個人的な質問が出る。
しかも、前に言ったものと同じ質問が4連発で来たりする。
(しむらけんのコントと同じである。)

何なら、突然「昨日の夕飯がね」のような話が出る。
「それは後で、休み時間に聞くね」
と笑顔でさらりと流しておく。
(ちなみにここから、真意は単に「先生に話を聞いて欲しい」だけだとわかる。
 そこへの対応は、それはそれで大切なことではある。)

さて、多少ならコントで済むが、毎日この調子だと問題が生じる。
教師が疲れるという問題も勿論ある。
しかし、それ以上に、きちんとやろうとしている子どもが疲れてしまうという問題が大きい。

例えば、先生の話や友だちの発言・発表をきちんと聞きたいのに、一部の途中の勝手な発言に遮られて聞けない。
もし先生が途中で勝手にしゃべった人に対応したなら、それが終わるまで待たなければいけない。
それが何度も繰り返されれば、当然話に集中できなくなる。

黙って真面目に聞いてる方が損をするのである。
それなら、自分も話の途中に大声で「し・つ・も・ん・でぇーす!」と叫んだ方がお得であると学習してしまう。

「真面目にやる人に損をさせない」というのが基本方針である。
よって、ここを落とさないようにする。

どうしたか。

とりあえず、次のことを教えた。

一番いいのは、自分で考えてわかること。
これは、周りの友だちの様子を見て自分でわかることも含める。

二番目にいいのは、友だちに直接聞いてわかること。
教えてあげられる人は素晴らしいという話も添える。
これは、教える側、教わる側の双方にとって利益がある。

三番目が、先生に聞くこと。
一と二をやってもわからないことは、聞いてよい。
ここで初めて「質問」が登場する。

これは、勉強の仕方のステップと同じである。

本来は、教科書や参考書を見て、自分でわかるのが一番いい。
黒板に書かれたものや、周りの人のやり方を見てわかればそれもいい。
自力で調べてわかるようなら、それも大切な学力である。

次は、周りの友だちに聞くこと。
助けてもらってわかるようならいい。
しかし、その後は、自力でもう1回やる必要が出る。

最後の手段が、大人に聞くこと。
正解を聞いて満足しない。
やはり、自力でやるというステップが必須である。

結局、まずは自分でわかろうという姿勢が基本である。
学力の根本は、黙って聞く力である。
これらは、一年生でも社会人でも同じである。

質問は、黙って自力で考えてから。
思いつきの勝手な発言が溢れる教室を「元気がいい」なんてイメージ語で済まさない。

どんな相手であっても、指導の原理・原則は同じである。

2018年6月4日月曜日

小事は大事。掃除は大事。

先日「かわいい子には小さなけがもさせよ」という記事を書いた。

参考記事:「その小学一年生はなぜジャングルジムの1段目も登れなかったのか」
http://www.mag2.com/p/news/357391

それに対し読者の方から
「小難は大難を避ける」
という言葉を教えていただいた。

なるほど、これは万事に言えることである。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉にもつながる。
小さな困難を避けようとする姿勢が、より大きな困難を招く。
「これぐらい」「こんなもんで」という仕事の姿勢は、長い時間をかけて、やがて悪い結果を招く。

困難を歓迎して立ち向かう姿勢が、大きな困難を避ける、あるいは克服する力を養う。
小さな仕事を納得するまで「やりきる」という仕事の姿勢が、成功を招く。

例えば「クレームに感謝する」ということを書いたことがあるが、これも同様。
「クレーム」は単なる批判や文句、無茶な要求とは違う。
正当な訴えである。

商品に問題があったら、クレームという形で販売元に伝える。
そうすると、回収するコストを支払うが、その分、大きな事故を防げる。
きちんと経緯を説明すれば、逆に信用を高めるきっかけにもなる。

結論、「小事が大事」なのである。
そこへ今回は「掃除が大事」という話をしたい。
掃除のような小さいことが、最終的に身を助ける。

「なぜ?」と問われれば、説明はできる。
しかし、実感はできない。
実感は、行動にしかついてこない。

学級づくりで悩む先生のもとへ話に行く。
みんな、いきいきとした学級や、落ち着いた学級のつくり方には興味がある。
有名な〇〇先生のような学級をつくることを夢見ている。

しかし、自分のデスクの掃除をするのは、面倒なのである。
ゴミ捨てに行くのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。
トイレ掃除を自分が真剣にやるのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。

しかしこれは、大いに関係があることである。
掃除は大抵「面倒」である。
後回しにしても大丈夫なことである。
だからこそ、価値がある。

繰り返すが、ここへの「何で?」には答えられない。
運動と同じで、やって実感する以外ないからである。
やった人には、感覚的にわかることである。

小事は大事。
掃除は大事。
語呂もよいので、紹介してみた。

2018年6月2日土曜日

掃除は感謝教育

3連続だが、「まぐまぐニュース」記載の原文。
http://www.mag2.com/p/news/359061掃除の教育的価値の続き。

掃除の場所で、最も避けられるのはどこか。

いわずもがな、トイレである。
ここは、一番汚れる。
他とは違う汚れ方である。
汚いものにわざわざ触りたくないし、関わりたくない。
だから、最も避けられる。

ところで、トイレが汚れるのはなぜか。
自分自身の抱える汚いものを、そこに受け止めてもらうからである。
つまり、自分が汚しているのに、それを汚いと罵る。
「きれいなもの好き」の人間は、自分が使うトイレが汚いのは許せない。
私は「俺様」「御姫様」「御子様」「御客様」だからである。

こういう姿勢を「傲慢」と呼ぶ。
自分を他人より高い位置に置く考え方である。
自分が汚して他人様がきれいにしてくれていることへの感謝の念がない。
いわゆる「金を払っているのだから、最高のサービスを受けるのは当然」という態度である。

「排泄」は、「食」の一環である。
食べた後の食器の始末が汚い場合、トイレの使い方も汚い可能性が高い。
一事が万事だからである。
「後始末」という面で共通だからである。

食べた後に片付けてくださる方への思いやりとか配慮がない。
(だから、様々なことへ平気で文句も言える。)
転じて、自分の使ったトイレを掃除してくれる人のことも考えられない。

だから、学校では直接指導できる「食」からアプローチする。
残し方も指導する。
残してしまう場合でも、まとめれば、片付けやすい。
(米は特にそうである。)

残しものでも食べた後の食器でも、自分から出る汚いものはすべて受け止めて流してもらいたいのである。
本来は、自分できれいにすべきことである。
自分のやったことは、後始末までつけるのが当然である。
しかし、それを誰かや何かにやっていただくのだから、そこへの感謝の念はあって然るべき。

日本の古来からの考え方は、万物に神が宿るというものである。
当然、「便所の神様」というのもある。
万物に感謝する文化である。

要は、掃除も、感謝教育の一環である。
掃除の教育的価値は、世界的にも見直されている。
日本のもつ掃除の教育の価値を再考してみる時期である。
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